紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

鳩山総理はニート?、大貫啓行氏講演会より、【第3部】紘一郎雑記帳

2010-04-30 05:16:27 | Weblog
鳩山政権の今後、大貫啓行氏講演会

【第3部】

【ニートの鳩山総理】

鳩山総理は最近「ニート」と呼ばれています。
「ニート」とは「親のすねかじり」ということですが
「うまいネーミング」をしました。
これに「ぴったり」当てはまるのが「鳩山総理」ですね。

毎日「50万円」づつ親から貰っているのです
1日、50万円です。お小遣いです。月1500万円です。
皆、羨ましいから書いているのでしょう。

しかも「本当か」「ウソか」知りませんが
本人は知らなかったのです。

どちらでも良いのですが「政治資金」も「何もかも」
「親任せ」でこれを表現すれば「超高級ニート」でしょう

女性問題にしてももそうですね。
小樽に囲っていた女性も「奥さん」が「1800万円」程の
お金で、決着をつけた様で「鳩山総理」は「キャッシュカード」も
取り上げられたようで、自由に何も出来ません。

この様に、政治資金も親任せ、女性問題も奥さん任せの
こんな人に「1億数千万人」の日本人を任せて良いのか!
こんな事が「新聞」や「週刊誌」など多くのマスコミで
問題提起されているのが実状なのです。

その点、小澤氏は立派ですね(笑)親も政治家ですが、
それに頼らずせっせ、せっせ、と「ゼネコン」から
資金を集めて、この10年位の間で「18ケ所」の土地を買い
不動産を取得し、全部自分の「小澤一郎名義」で登記しているのです。

自由党を解散する時には「15億円」を自分の名義にし、
他に献金と併せて、これだけの財を作ったのは
ある意味で立派ですね(笑)

それで「前・財務大臣の藤井さん」は辞めたのですよ。
自由党の「15億円」藤井さんが受け取った事に
なっていますが、本人は全く知らないようで「小澤氏」が
藤井さんの名前を勝手に使ったのでしよう・恐らく

藤井さんは[ウソ]は言っていないと思います。
お酒は沢山呑みますが、不動産なんかは持っていませんから。

だから、藤井さんは頭にきたのと、これ以上「小澤氏」との
「一蓮托生」で後世に名を汚すのを避けたのです。

お金という事で言えば、この「トップ二人」は
大きな問題を抱えており、それが支持率の下降に繋がっていましす。

又、北海道教職員組合の「小林議員」は有る意味では可哀想ですね。

政治家に、直接、ダイレクトにお金を持っていくことは
「10年前」に終っています。お金を持っていきません。
お金を貰っても「逮捕」されないように上手にします。
それが「小澤氏」は旨いのです。天才です(笑)
だから「小澤氏」捕まらないのです。

様々の政治団体を賢く使ってそこに献金させるのです。
「小澤氏」の「陸山会」をその代表でしょう。

「北教組」小林議員はそれをしていませんでした。
組合の力を過信したわけではないでしょうが、
古い方法で小林議員の選挙の支援をしていたのです。

しかし、何があろうと先ほどからお話ししてますように
「民主党政権・小澤支配」はあと数年は間違いなく続くのです。

その民主党政権の今後の政権運営で言えば「官僚」を
いかに旨く使うか「活官僚」が大きな宿題でしょう。

”脱官僚”はしなくて良いのです。
政治家に「官僚」を使いこなす人材が有ればよいのです。
「政治家」と「官僚」は「役割」が違うのです。

ある意味で「官僚」は優秀でなければいけないと思います。

選挙の度に入れ替わる政治家と違い「官僚」は
「30年・40年・」とその国家の仕事に従事するわけですから、
「優秀」であるべきなのです。

専門分野に関して、外交なら外交、年金なら年金と何十年と
勉強しており「知識・経験」なにをとっても「優秀」ですよ。

「その「優秀」な「官僚」使いこなす、「政治家」が必要です。
「事の善し悪し」を判断できる「政治家」が必要なんです。

「官僚」には「中立的」な意見をだし「政治家」に判断を求める
「倫理規範」が有るのです。

「政治信条」に関わらず、つまり「民主党」であれ
「自民党」であれ「どの政党」に対しても
「自分の知識・経験」を駆使して
意見をだし提言する「義務」があり「政治家」には
「官僚」の提言に「配慮」し「判断」する事である。

その様に「政治家」と「官僚」の両方に「倫理要求」を
してあるのです。

「政治家」からみれば「官僚」は「最大のシンクタンク」であり
「政策立案のプロ」であるわけで、その「官僚」の
「士気を低下させてどうする!」そんな思いです。
「政治家」と「官僚」の共働きなくしては国民が不幸です。

私のように永く「官僚」に在籍したものから言えば
現在は「政治家の人材不足」です。

二世議員が4割、官僚から、組合からの転向組み、と
政経塾卒が大半で、地方政界からの積み上げてきた議員は少なく
今の「政治家」にこれは思う人は僅かです。

政権をとった「民主党の政治家」にしてもそうですね
の知識不足、勉強不足、準備不足が目立ちます。

「埋蔵金」と「事業仕分け・見直し」で旨く行くと思い、
叩けば、見直せば、いくらでも「お金」は出ると
考えていたようですが、殆、出ていません。

出ないですよ、元々無いのですから。
数字合わせをしただけで、何も出ていません
「無知」で「政治」をあまく見ているのです。
今度もするようですが、数字合わせで無駄でしょう。

「埋蔵金」は幾らかは有りますよ、それは、家庭でいえば
「奥さん」のへそくり程度のもので子供の小遣い位にしかなりません。
「44兆円」の赤字国債を埋めるなんて「素人」過ぎるのです。

「民主党政権」があと数年続きますが、恐らく毎年
「40・50兆円」ほどの赤字国債発行となり国はパンクします。

消費税をあげるか、子供手当てを含む福祉を減らすなどの
対応策を余儀なくされますが、選挙にマイナスになる政策を
選挙最優先の「民主党」に出来るでしょうか?

さて、今の日本で一番の問題は「白けている事でしょう」
「国民」も「マスコミ」も白けていますね。
「鳩山総理」は金持ちだから仕方ないか・・
「小澤氏」は前からそんなもんだよ・・
などと、皆が白けているのが大変なのです。

「官僚」はある意味で「ホッ」としています。
「天下り」も「民主党」は良いと言っています。
「民主党」は昨年の「衆議院選挙」で「勝利」が
確定した時点で変わりました。変わったのです。

「官僚」に批判はやめて「官僚」の味方になりました。
ですから、「日本郵政」の社長に「天下り」を認め
「全官僚」に「民主党」の「親・官僚宣言」をしたのです。

「天下り」の」定義を変えただけなのです。
しかも、それは「民主党」が認めた「天下り」ということです。

今までよりは「性質の悪い」「民主党」の「利権がらみ」の
「天下り」で、ごまかしの制度です。

「天下り」をやめれば「定年」を延長せざるを得ないですね
現「50歳」前肩たたきをして、外部なり、天下り先に出した者を
今度は60歳から65歳位まで定年延長するわけですが、
給与が膨大になりますから、「公務給与」を
見直しをしなければなりません。

これに「労組」が絶対に認めません。
「公務員給与見直し」はありえません。
今の「民主党政権」では無理です、「公務員」の言いなりです。

選挙最優先の「小沢国家体制」では出来ません。
それが「労働組合」で持っている政権の特徴なのです。
「官僚」「公務員」はこれから彼らの「天下」です。
皆、全官僚が高笑いしています。

皆様の子息を勤務させるなら公務員ですよ!

でも、これではダメですね、次の選挙からは「選挙目当て」の
マニフェストには騙されず、投票することが私たちの使命です。

ご聴講有難う御座いました。


紘一郎雑記張

事業仕分けが始まりました。
「枝野氏」が「蓮舫さん」が先ずは、仕分けで
【民主党の公約】でもある「国会議員数」を「削減」するか
「議員歳費手当て」を減らすか
「公務員給与」を仕分けするかを、しっかり見ましょう。

衆議院議員が「480名」も要りますか? 
300名ではダメですか!

民主党の新人議員が仕分け作業に入るようですが、
その新人議員を先に仕分けしたら如何ですか?
かなり、無駄な議員もいるように見えますが・・

それをしない「事業仕分け」なんか、やめさせるべきなのです。
単なる「選挙目当て」の「人気取り」だからです。
もう「騙されないぞ!」



















































小澤一郎はやめない!、大貫啓行氏講演会より、【第2部】紘一郎雑記帳

2010-04-28 05:21:56 | Weblog
【第2部】「鳩山民主党政権」の今後
【小澤一郎はやめない!と思う】

大貫啓行氏講演会より【第2部】

先ほども申しましたが「戦後政治」を支えてきたものが
「機能不能」になった事を国民が知り
あの「政権交代」となった訳ですが、私は「民主党」の
「反小澤の7奉行」の一人「野田議員」の政策グループに
加入しましたが、「民主党政権」か「他の政権」か
解りませんが、10年ぐらいの間に必ず「野田議員」は
総理の座につく人材であると確信したからです。

そうした私の立場をはっきり申し上げたほうが、
お話がしやすく、又お聞き頂くのも良いと考えました。

冒頭にも申し上げましたように「小澤氏」はおりません。
次の【選挙】は自分で指揮を取るでしょう。
【辞めるとしたら起訴された場合のみでしょう】

去年の選挙の時と同じで「大久保秘書」が逮捕され
「小澤氏」が辞任し「衆議院選挙」で大勝した例を出し
「マスコミ」は「7月の選挙前」の「小澤辞任」を
報じていますが、それはありえないと思います。

「参議院選挙」に「民主党」が負けても「小澤氏」は
辞めないと思います。
小澤側近の人たちの話を総合した上での私の実感です。
最も「小澤氏」は参議院選挙は「そんなに負けない」と
読んでいることも間違いありません。

あれだけの不祥事があっても支持率は「30%」ほどあり
「自民党」の「倍以上」の支持が「民主党」にあるからです。

衆議院で圧倒的数字を持っており、又仮に参議院に
負けたとしても「公明党」が擦り寄ってきていますので
参議院もどうにでもなるからです。

「世論」も「マスコミ」の批判も「野党」の追求も
「民主党内」の「小澤批判」も小澤氏には全く関係なく
「内閣」の支持率が落ちれば新しく総理を交代させ
次の「衆議院選挙」まではこの「民主党政権」を続ける
ことに腹を決めたようです。

総理は「鳩山総理」の後は「管総理」で行き、その後は
誰でも良い【「総理」は私(小澤氏)がきめてる】
そして、総理は小澤氏の意のままに動く、
それが小澤氏の描く今後の展開図でしょう。

「キングメーカー」として日本を自分の思うようにする、
陰の権力者を目指していますので絶対におりないでしょう。

もし「参議院選挙」で「民主党」が過半数をとれば、
それこそ、もう日本は小澤氏の物になるのです。

「官僚」はすべてそれが解っているので、素早く反応し
「民主党」へと流れ込んでいるのです。

「官僚」は1970年代に出来た「細川政権」のときに
「細川政権」に擦り寄った「官僚」が「自民党政権」が
復活して、酷い目にあった経験があります。
ですから慎重に見際目をしていましたが、
「もう自民党復活」はないと読み「民主党」に流れたのです。

しかし「政界再編」は「参議院」で「民主党」が過半数を
確保出来なかった場合には「論理的」にはありえます。

でもその場合でも衆議院の「小澤党の200名」は絶対的であり
再編の場合でも「小澤氏」が中心にあることは間違いありません。

「普天間問題」や「外国人参政権問題」などで
「民主党内」で揉めることが出てくる事でしょう。
左右の幅が広く、考え方が全く違う議員の集まりなので
必ず、そんな揉め事が出てきますが、それも
「民主党」を割るような事にはならないですね
なぜなら「政権与党」で「権力」を持っているからです。

議員自身の思いや主張も簡単に変更するほど
「権力」の魅了は凄いことなのです。

本当につまらない事ですが、ビジネスや企業を考えるときに、
これから数年間は「小澤氏」の天下を予測して行動される事が
大切だと進言させて頂ます。本当につまらないですね!

参議院選挙のあとは結果はどうであれ「自民党」は
政権与党にはなれないのですから、一人,二人と
離れていくと思います、

新しい党が出来るか「みんなの党」か「立ち上げれ党」か
「首長連合」の党かなどに分離していく事でしょう。

その中で「保守再生」を核にした「党」が出来て
一方の対極となる事は考えられますが、すぐには
無理であと「数年」ほどかかるでしょう。

それまでに「小澤氏」は支持率が下がれば次々と
国民に目くらましの様に「総理」の首の挿げ替えで
凌いで行くことと思います。

結論は将来の経済に対する政策は何もなく
これから考えるようですので暫くは景気は
上向かないでしょう。
それを意識して自己防衛することが大切でしょう。

私は東京大学・法学部のOBで「楯の会」という弁論部の
事務局長をしていまして、色々と東大法学部の情報を
持っていますが、これからは優秀な東大生は「官僚」には
なりません。 希望者がいないのです。

官僚のパッシングが始まった頃から「官僚希望」が減り
最近では「財務省」も入省しなくなっています。

ですから「官僚」も人材が枯渇してきています。
「官僚」の仕事は「95%」が調整となり「生きがい感」を
感じる仕事ではなくなりました。

「官僚パッシング」は「入省」の大きな問題です。
「官僚」になる人はあります、今後もあるでしょう。
しかし成績が「優」の学生は入省しないのです。

東大法学部から「財務省」旧大蔵省ですね、入省して
政界や官界、或いは経済界の人たちの関係者の娘さんと
結婚して、官僚の上を目指すか政治家になるかしてきましたが
もうそんな事はありません

逆に「今、財務省に入るといいよ、優秀人が入らないから」なんて
言われるくらい、優秀な人材は「官僚」にはなりません。

東大法学部に限りませんが、少し前までは「優秀学生」は
就職に「給料」の良い「外資系」の金融機関などに
行きましたが、それが皆ダメになりましたので
就職先が狭まり行き先がなくなり、最近の
「東京大学」は「予備校」になっていますね。
法学部は弁護士の経営・経済関係は公認会計士などの
資格をとる、そんな予備校です。

昔は在学中に修士号良かったのですが、最近は「博士号」まで
取ってしまいたい思いの学生が増えたのです。

その資格を確保してから「官僚」でも「一般社会」にでも入り
将来は、資格を活かして「先生」でもしょうか。
こんな気持人を多く見かけます。

政策大学院を国が作りましたが「学校」はありません
「官僚」に「博士号」を与える為だけの「大学」です。

少しは、ましな「官僚」を集める為の手段の一つでしょう。

さて「鳩山総理」の話に入りましょう

続きは【3部】に投稿いたします。


紘一郎雑記張

平沼氏や与謝野氏の新党「たちあがれ日本」が発足した。
「たちがれ」や「シルバー組合」や「前期高齢者の会」など
方々から「揶揄」されて多難の出発の様である。

間違いなく「民主党」でもなく「自民党」でもない
新しい「政党」を国民が求めているのは、
様々な調査でも判るし、私もその1人である。

本当は「民主党」の鳩山氏・小澤氏の問題児を
排除した「新しいグループ」に期待していたが
全くの期待はずれであった。

もう「民主党」に自力で再生する「エネルギー」は
残っていない。先の選挙で使い果たしたのであろう。

私は「良い・悪い」も関係なく「みんなの党」や
「たちあがれ日本」に期待するしかないのです。

そう「言いながらも」「民主党の若手」に期待しているが・・
あと「参議選挙」まで3ケ月しかない!
なんとかしてくれ!




























鳩山政権の今後、大貫啓行氏講演会より、安田紘一郎雑記帳

2010-04-26 05:30:18 | Weblog
【鳩山政権の今後・講演会より】

大貫啓行氏
現在 麗澤大学教授

大貫氏略歴  東京大学法学部卒
「外務省在北京1等書記官」「中国管区警察局長」
「警察庁外事調査官・初代国際部長」
「内閣情報調査室国際部防庁調査1課長」
など歴任

【第1部】

大貫です、なかなか「大阪」に来る機会がなく
ご無沙汰をしておりますが
こうして時折「関西」に参りまして皆様と
お話をする事を楽しみにしています。

まず、初めに皆様が、一番気にされている事に
私の考えを申し上げますと「小澤一郎幹事長」は
辞めないでしょう。

「幹事長」も続けますし「議員辞職」など絶対ありません。
「小澤氏」は腹を括ったと思います。

私は「官僚」の「OB」ですから、人脈も含めて何かにつけて
「自民党」と繋がって参りまして、と、いうよりは
「繋がり」がないと仕事が出来なかったというほうが正解でしょう。

霞ヶ関の役所と「自民党」の先生方とは色々と
深いお付き合いがありました。

例えば「天下り先」から「結婚相手探し」に至まで
様々なお付き合いが有りました。

「鳩山総理」の「恋愛結婚」は別にして
「小澤氏・安倍元総理」など沢山の政治家と
「実業界・経済界」の大物との「子息」との「結婚」は
全てとよいほど「高級官僚」といわれる人たちが
「仲立ち」や「紹介」をしてきた経緯があります。

「自民党」との繋がりが30年・50年と続いてきたわけですが
それが、昨年の衆議院選挙から大きく変わってきており
何もかも「民主党」になだれをうって変化しています。

官僚も大勢が「民主党」詣でとなりました。
「この先「民主党」がどうなるかは別にして
もう「自民党」に戻る事はないでしょう。

それは「官僚」が一番良く知っています。
政治の世界で結果の良し悪しはわかりませんが
「革命」が起きたとみるのが本当でしょう。

「自民党」にくっ付いて、「何かをしよう」と
考えている方があれば早く諦めたほうが懸命ですね。

「自民党」には「一銭」も資金が入らないでしょう。
日本国の資金は全て「小澤氏」が財布を握ったのです。

皆様には何の変化もありません。
今まで「自民党」が持っていた「お金の使い方」の権利を
「小澤氏」一人がその権利を握っただけなのです。

「どうぞご自由にして下さい」と「小澤さんに任せました」と
「国民の皆様」が、昨年の選挙で言ったのです。

「民主党」を選んだ心算が「小澤氏」に任せた事になりました。

衆議院の過半数を大きく越す「300議席以上」を持ち
その中で「小澤チルドレン」も含めて「小澤派」が「200人前後」
ありますので、多数決の論理で「小澤氏」は
「日本国」を自分の物にした形ですね。

「官僚」は敏感です。私も「元・官僚」ですから「敏感」です。
人脈的に「民主党」に切り替えました。(笑)

今まで「自民党」との関係で心の疼きも感じましたが
民主党の「財務副大臣野田議員」の要請で一緒に
「政策集団」に加入しました。「シンクタンク」ですね、
私は早く転向しましたので「主任研究員」とされています。

会員から「会費」をとり「会合」などの経費の残りが
「資金」になる仕組みです。

はっきり申し上げますと「毎日・毎日」会員が増えております。
凄い勢いです。資金もふんだんに集まってきています。
そのうち「民主党」も「自民党」と同じように
「ダメ」になるだろうと思いますね。(笑)

過去の「自民党」の先生方とのお付き合いは「赤坂」の
料亭などが多く「一席5万円位」の処と思いますが、
一度もお金を支払った事がありませんので、詳しくは解りません。
でも、誰かが払っているのでしょうね。

「民主党」のトップの人たちは「子供手当て」や「業者の献金」が
あるので「自民党時代」と変わりません。

「民主党の若手」は、今はお金がないので、
「安い居酒屋」や「焼き肉屋」などで集まっていますが、
そのうち「自民党」と、おなじ事になってくるでしょう。

でも暫くは「民主党政権」です。夏の参議院選挙は関係ないです。
「3年半後」の衆議院選挙までは「民主党」なのです。
私のように「民主党」に転向した物から申し上げれば
「一日でも早く転向されたほうが良いと思いますね」

政治とはそんなものなのです。
選挙で勝てば何をしても良いのです。

さて冗談はこれぐらいにして、本題に入りますが
東京の深沢に小澤氏の私邸があります。

私は「元・警察官僚」ですので「現場」をみます。
今年の新年会に「小澤氏」の信者が多数「信念の挨拶」に
行ったことは皆様ご承知の通りです。

「小澤ガールズ」も行きましたね「酌婦」ですね(笑)

その「小澤邸」は駒沢公園の近くにありますが
「ワンブロック」で広い敷地です。年々広がっています。
どんどん近隣を買い取って拡げているのですね。

元・警察ですので、すぐわかります、見えるだけで
「数十名」の警察管が警備しており、見えないところでの
警備も加えれば、相当の人員です。

それは「何を意味するのか」
警察は全力で「小澤氏」の「タマ」を取らせないという事です
そうですね警察用語で「タマ」は「命」です。

「天皇陛下」の立場についての「小澤氏」の発言、
中国・韓国での小澤氏の言動が「右翼」の
目標になっている可能性が有るからです。

皆様もお時間があれば一度行かれたら良いと思います。
時の権力者がどんな所に住んでいるのか、
それを見ればどんな政治をしてくれるのかが解ります。

戦後60年続いた「政官業」の構図が、癒着構図になり
既得権益グループの日本システムが機能不全となり
それに対して国民が「NO」の審判を下し
「民主党政権」が出来たのです。

さて、半年経過して世論調査などをみて
「民主党政治」は「どうなのか?」という事だろうと思います。

現状は「金権問題や脱税問題」はさておきまして
今日お集まりの企業経営者や経済に関心を
お持ちの皆様が不満や先行き不安を感じているのは
はっきり言いまして「経済」を理解している
「民主党議員」は一人もおりません。
誰もいません、本当に誰もいません。

選挙に勝つ事だけを目的にし、又、次の選挙に勝つ事を
目標にしている政党なのですから、お金をバラ撒いて
選挙民の投票に期待するやり方ですので、
予算の裏づけなど全くなく、国際発行で補う事しか出来ません。

日本に産業を興す発想など、全然ありません。

しかし「自民党」に政権を戻すには、あまりにもだらしない
「自民党首脳陣」ですね。
高齢者グループが若手にバトンタッチ出来ない自民党には
私もそうですが、皆様もがっかりされているのが現状ですね。

暫くは「民主党政権」が続くのですが、それでは、
これからどうなるのか、「小澤戦略」は何かについてお話しましよう。

続きは【第2部】で【28日】に投稿致します。


【安田紘一郎雑記帳】

民主党政権に変わったから「政治」が
変わる事はないでしょう。
「鳩山氏・小澤氏・岡田氏・羽田氏・石井氏・渡部氏」
皆、以前は自民党だったからです。

所詮、今回の「政権交代」は「自民党」の
たらい回し政権なのです。
だから何かを期待してはいけないのです。

「自民党」の「若林議員」が代理投票を行い、
その無責任な行動で「議員辞職」しました。
自民党にしては素早い対応であった様に思えます。

対して「民主党」の対応はどうなっているのでしょう。
自身が起訴されたり、秘書が逮捕されても「辞職」も
「辞任」もせず、それに対して問題提起をすると
脅かす「民主党」は以前の「自民党」以上に悪い政党に見えます。

















【第2部】歯は命の根幹、川村泰雄先生講演録より 安田紘一郎雑記帳長

2010-04-22 05:31:52 | Weblog
歯は命の根幹!【第2部】

川村 泰雄氏「医療法人川村会・会長」医学博士

川村泰雄先生講演録より

歯周病の原因が判明してからアメリカでは
通常の歯医者に加えて「歯周病」「歯の根幹治療」や
「歯の噛み合せ」などの分野で、それぞれ
「専門医」に分化するようになりました。

一般の歯医者は「コンダクター」の役割をし各分野の
専門医とチームをつくり、患者さんの口膣をトータルで
管理する治療体制が確立されてきました。

この様に一本ごとの歯ではなく、「口膣全体」という単位で
捉えていくのが「近代歯科学」といわれ、その関心は
「感染病」である「虫歯」と「歯周病」の「原因菌」を
繁殖させない「口膣環境」を創るだけではなく
「顎」の「関節」の健康も管理するのです。

専門歯科医の集まりによるこうした「包括的歯科医療」は
アメリカでは半世紀も前から実致されていますが
日本は大きく遅れており、一人の歯科医が「虫歯」も
「歯周病」も「根管治療」も何でも
「1人」で扱っているのが実状です。

その上に「インプラント」まで手掛ける歯科医院が
ありますが、アメリカでは絶対にそんなことは無く
「インプラント」は専門医に任せるのが患者の為なのです。

私の開業している医院では、治療の初めに虫歯と歯周病を
効果的に防ぐための「ブラシ」と「フロス」の使い方を
「5時間」ほどかけて患者さんを指導します。

歯と歯の間に溜まるブラークは通常の「歯磨き」では
ブラシが届かないし、水にも溶けません。

それを自分の手で毎日分解する方法をマスターしてもらいます。
ブラークが再び、口の中で悪さをするのに24時間ほど要します。

ですから、毎日1回きちんとした「ブロークコントロール」を
行えば歯には良く、毎食後に歯を磨く必要はありません。

でも大半の歯科医者は「食後の歯磨きが大切!」と
あたかも「歯さえ磨けば」虫歯にならず「歯周病」も
防げるように言いますが、それは「大正時代」から
言われてきたことで、日本の歯科医療は
「100年」ほどの間、進歩していない事を意味しています。

私は患者さんごとの治療や予防の為のプログラムを作成します。
まず「18枚」のレントゲン写真と歯型の石膏模型を
患者さんとじっくり観察致します。

顎を動かすのに使う筋肉と、顎関節の状態をしらべ
さらに顔の写真も撮って、
顔の変形や口角びらんの有無を確かめます。

そして歯茎の状態を診て歯周病の進行を診て
状態を把握します。
この検査を「2日」かけて行い治療計画を立てるのです。

治療が完了しても患者さんとの付き合いは終らず、
定期的にメンテナンスを続け、患者さんの口膣の健康維持に
一生掛けて協力していくのが私の方法です。

治療は瞬間芸でないのです。悪い歯を抜き、義歯をいれて
「はい、さようなら」ではダメなのですね。
「歯治療」には、むしろ、そこからが大切です。

「歯科医院」は「歯」が「痛くなって」から
行くところではありません。
皆さんが「人間ドック」に行くのと同じように
今は悪くなく、痛くなくても、ても「定期的」に
調べて貰う、そんな関わりを持つべきでしよう。

皆さんの「歯科的年齢」の老化進行をいかに、止めるかが
歯科医者のテーマであり「歯の修繕屋」であっては
ならず、その信念が大事です、

定期的なメンテナンスの促進と口膣の健康の広い普及を目的に
私の医院で治療をされた「患者さん」で「クラブ」を組織しており
1975年に結成され、今年で35周年を迎えています。

会員総数も「2000名のメンバーさん」となり、皆様の
「歯」や「口膣」に関するデーターは私の研究所に
蓄積し活用さして頂いております。

人間の「歯」は全部で「28本」で親知らずを入れると
最大で「32本」ですね。

私は現在「80歳で20本」の「歯」を残す「8020運動」を
行い、それを目指しています。
クラブには「20本」以上「歯」のある「80歳以上」の方が
「77名」もおられます。

私も現在「81歳」ですが「31本」の」「歯」があります。
「90歳代」のメンバーの皆様は「7名」ですが、
残っている「歯」の平均は「23,5本」です。

その多くの方が、開業当時の35年前から「メンテナンス」を
してきましたが、「90歳」の皆様の「歯茎」は「ピンク色」で
見事ですし「炎症」など何処にもありません。

これまでに集めたデーターをみますと「小児期」から
適切な定期的メンテナンスを持続すれば「8028」
いわゆる80歳で28本が達成出来る事がわかりました。

成人期から35歳位までに「初期治療」を受けた人でも
「8025」の達成は充分で、メンテナンスさえ、しっかり
継続すれば、少なくても「8020」は保てるのです。

私のこの研究の分析結果は「厚生労働省」が推進する
「21世紀における国民健康づくり運動・2010」の
指針に参考文献として取り上げられており
公的に認められています。

私の患者さんの歯の健康ぶりから、旧来の多くの
「歯科医療」が「歯の延命」に関して、大きな間違いを
しているかをお判り戴けたと思います。

「歯」は「歳」と共に失われる運命ではないのです。
「メンテナンス」と自ら「ブラークコントロール」を
持続する事で「一生」素晴らしい「歯」を保てます。

ご静聴、有難う御座いました。

紘一郎雑記帳

講演終了後、「F株式会社」の「代表取締役会長」さんが
「私の「歯」も立派でしょう!」と「川村先生」に
診ていただきました。
その「会長さん」の歯は「84歳」で「32本」が
見事に残っており、講演会に参加者の皆様から
図らずも「拍手」が起こりました。

一時期「芸能人は歯が命」なるCMがありましたが
立派な経営者の方は「歯」も自己管理が出来ている事に
感心した講演会でした。













































歯は命の根幹・川村泰雄博士講演録より・第1部・紘一郎雑記張

2010-04-19 05:14:38 | Weblog
【4月18日は4(よ)1(い)8(は)の日「良い歯」です】

「良い歯の日」に合わせまして投稿致します。

歯は命の根幹!  講演会【第1部】

川村 泰雄氏「医療法人・川村会会長」
1949年大阪歯科大学卒業

川村です、清話会様にお呼び戴き有難う御座います。
私は現在「8020運動」を展開中です。
これは「80歳」で「20本」の歯を残す運動です。

「人生50年」といわれた時代は昔のことで現在は
「80年」以上の時代へと変わって参りました。

日本人の寿命が世界最高水準に達したのは
「生活環境」も「食べ物」もよくなり、
その上医療が格段に進歩したおかげですが
「歯科医療」をみればどうでしょうか。

日本人は「50歳」を過ぎた頃からバタバタと
歯が無くなってゆき「80歳」を過ぎれば「数本」しか
残っていないのが当たり前の事ですね。

折角、寿命が「30年」延びたのに
「噛めない・話せない・笑えない」で
本当に幸せといえるでしょうか。

先進国の中で、これほど老人の「歯が悪い」のは
日本位なのです。
では、なぜ年をとると歯が抜けるのはなぜなのでしょう。

その最大の原因は「歯周病」にかかっているからです。
日本人の成人は「80%」が歯周病にかかっており
これほど「羅漢率」の高い病気は他にありません。

その昔「結核」が国民病とたいわれ時代での
「感染率」は「70%」でした。

歯周病はその結核よりも高いのですが
「命を直接奪われず」
「歯が無くなるのは歳をとれば仕方がない」と
誤った認識が広まっているのは大変なことなのです。

歯の健康は「50歳」代以降の
「QOL・クオリティ・オフ・ライフ」を
左右し、歯周病は多くの生活習慣病の原因でもあるのです。

それは医学的データーからも証明されています。

日本人に歯周病を蔓延させたのは
「歯科の保険医」だと思います。

日本の歯科医療には「予防医学」の概念が全く無く、
ひたすらに虫歯を治療しかぶせ物をし、
悪い歯や神経を簡単に抜いて、義歯をいれるという「前近代的」な
治療をしているからです。

【歯周病の多くがかぶせものや、
 義歯の周辺から発生しているのは、
 歯科医による修復治療は歯周病の
 誘因になっているのです】

齢をとると次第に歯が抜ける、これは自然の摂理ではなく
患者さんの側に落ち度があるわけでもなく、
場当たり的な治療しか、していない日本の「歯科医療」
そのものの問題として問われるべきでしょう。

私が「大阪歯科医専(大阪歯科大学)」に
入ったのは1945年でしたが翌年から
「CHQ」の歯科教育が始まり
当時のアメリカの近代医学に添った
教育が始まっていました。

国家試験に合格して「歯科医院」に勤務した
私の治療をみて「そんな事してたら食べていけないぞ!と
先輩にいわれました。

学校で習ったとうりの治療をすると、
1人の患者さんに1時間以上かかり、
悠長にしていると患者さんを裁ききれないからです。

抵抗を感じながらも、
私は先輩と同じ様な治療をするようになりました。

毎日30人・40人の診察をし、自分は患者さんの歯を潰して
いるのではないかと感じることもありました。

この患者さんたちは「歯医者に来ない方が歯が残る」と
さえ思うようになっていました。

色々と悩み当時、銀座で歯科医院を開業していた
「ある先生」の許を訪ねました。
そこでは、私が大学で受けた教育と同じ「コンセプト」で
理想的な歯科治療をされていました。

先生は私に
【そんな治療をしていたら食べていけないと言った
先生は商人で、医者は患者さんに最善を尽くすべきだ】と
諭してくれたのです。

そこで数年間お世話になり
「アメリカ・フロリダのパンキー研究所」
を訪問し「パンキー先生」に
【歯医者は歯の治療だけではなく、人に健康をもたらす、
口膣全体の保険を考えるべきである】と教わりました。

パンキー先生は治療に入る前に、まず
【口の中の健康の大切さとどうして守るか】を説明するのでした。

私は、これこそが歯医者の大切な仕事だと感動したのです。

それから開業医の先生のところを辞め
大阪で歯科医院を開業し
それまでの歯科医と患者のあり様を
180度転換し「口膣全体」の
健康に繋がる歯科治療の実現を目指したのです。

欧米で近代歯科医学が発達し、
パンキーの様な歯科医が現れたのは
1910年ごろイギリスの内科医が
「当時の歯科医療には科学性がない」と
批判したからといわれています。

その内科医は歯の治療跡に慢性病巣が出来、
そこから入り込む「バイ菌」や「毒素」が
「心臓病、肝臓病」「リウマチ」といった疾病を
招いていると指摘したからです。

これを機に、アメリカにおいて虫歯や歯周病を科学的に
解明する研究が盛んになりました。

しかし歯周病の原因が解ったのは「1945年」で
歯と歯の隙間から300種類の菌が複合感染して出来る
プラークが骨を破壊して歯を失わせる事が解ったのです。

それまでは「食べかす」が原因とされていたが、
歯の塊がひきおこすのだから、歯周病の治療には
、単に食べかすを取り除くだけはなく、
プラークを除去し発生しないようにする事が
必要と判明したのです。

そしてその後は歯の治療は新しく
分野ごとの専門医に文化していきます。

続きは第2部で投稿致します。


安田紘一郎雑記帳

お話を聞いているとまさしく「歯は命の根幹」と
いう事が良くわかります。
様々な病気の原因は「歯」にありその「歯」の
病気の元はは歯周病に有るのですね。

歯が痛くなってから「医者」に行くのではなく
その「予防」が大事なのです。




  
















酒造り290年 浪花酒造 成子和弘社長講演より【第2部】

2010-04-15 05:16:15 | Weblog
酒造り290年余 浪花酒造 成子和弘社長講演会より

杜氏の技を守りり続けて290年!
【第2部】

酒造りのポイントは「3つ」あります

「1は麹」「2は酒母」「3はつくり」と昔から
言われていますが私もそうだと思います。

その「よしあし」で「出来不出来」が決まります。
麹づくりや仕込では、夜中でも定期的に麹菌の
繁殖具合や発酵状態を確認して回ることが大事です。

その前段階での「洗米」も「酒」の出来不出来に
大きく影響を及ぼす重要な工程で「熟練技術」が要ります。
精米のレベルが高い米ほど吸水が速く、水に浸す時間が重要になり
少しだけ浸しすぎても、浸しが少なくても使い物にならず
吸水の判断は秒単位でストップウオッチで計りながらの
神経を使う綿密な作業です。

我社は日本3大杜氏といわれる「岩手県」の「南部杜氏」の職人で
名人と称された「佐藤勝郎杜氏」が永年腕を振るっていました。

佐藤杜氏も2年前高齢で退かれましたが、その経験と感覚は引継ぎ
佐藤杜氏に教え込まれた、現在の杜氏成嘉一です。

嘉一は高校卒業後、入社し24歳の時に佐藤杜氏に私淑し
佐藤杜氏の後を継ぎ昨年の「全国新酒鑑評会」で金賞を獲得し」
佐藤杜氏の期待にこたえました。

日本酒の消費量は70年代前半をピークに下り坂となり
若い人達の日本酒離れが顕著で大学などのコンパでは
日本酒は見かけないとの事です。

ビール・ワイン・梅酒・そして焼酎ブームに押されて
酒造元も激減しています。

市場縮小に伴い、全国に5000社あった蔵元は
現在1500社になりました。

良質の水に恵まれた「大阪・泉州」は多くの蔵元があり
100社ほどの酒造会社がありましたが、今では数社になり
大阪府下全部でも12・3社しか存在しておりません。

私はこの環境の中で生き残るのには「美味しい日本酒」を
造ることと考えております。

美味しい日本酒の定義は難しいけど、私が「旨い・美味しい」と
思うお酒は、当社とか社外を問わず売れているのです。

酒の味を追求したくて「ワイン会社」に就職して
ワインの製造現場も経験し研究した事もありました。

酒造りのシーズンの「11月~3月」は自分で蔵入りし
精米から麹づくり、仕込み、蔵出し、までの作業に携り
終れば営業に出てお客様の声を直にお聴きしています。

そして得た結論は
【一時的に売り上げを伸ばす様な無理をせず、
飽きないように、長い目で酒造りをする】
事でした。

販売先は80%が「スーパー」で、売り上げは
この10年ほど横ばいの状態が続いていますが
市場全体が大きく後退している中ですので
「努力」が実を結んでいると良い方に考えています。

これからの販路拡大の展開を考え
ホームページの販売も始めてみましたが、
「お酒」を求める高齢者層の皆様はネット利用は無いと
疑問視されましたが、ボチボチ注文はきています。

「良い酒」を対面販売で売る趣旨で組織された
「日本名門酒会」にも加盟して「口コミ販売拡大」も始めました

「日本酒」は「健康」や「美容」に良いとされ、最近では
世界的に人気になりつつあり輸出も増えてきています。

輸出量はまだ国内の数%程度ですがアメリカを
中心に伸びているメーカーさんも出ています。

我社も「関西国際空港」の開港に併せて「輸出」をはじめ
15年前の当時としては珍しい会社といわれましたが
現在は中国・香港・シンガポールなどアジア諸国に
年間1万本(1升瓶勘定)を出荷しています。

しかしまだ、我社の年商の5%程度ですが昨年からは
「イギリス」との商売も始まり今後は「欧米」にも
販路を拡大して行く予定です。

「日本人が美味しい」と感じるお酒は「外国人も美味しい」ようで
「1・8㍑ 3万円」の日本酒がロンドンより注文が良く来ます。
ワイン感覚注目されているようです

私は
【目で見て・香をかいで」お米やもろみと対話しながらつくる
「地酒」の良さ、ITや機械化の時代に逆らい手づくりに徹し
心のこもった豊かな酒を醸して行きたい】
と心に誓っています。

その為には職人の長年の”技”と”勘”と”経験”が
大切で、幸い蔵人を総括する杜氏育って来ました。

私はアルコールの中で「日本酒」が
一番美味しいと思っています。

一口目はビールですが、次はやはり「日本酒」でしょう!
夏はキッと冷えた冷酒!冬は心温まる熱燗!は
今、流行の焼酎より味わいもあり、身体にもよく
若い人にも、女性にも、口にして貰いたく
「アルコール度数」を少し下げた”まろやかな”
そして「さわやかなお酒」も造っていきます。

ご静聴有難御座いました。


紘一雑記張

宴会の一次会は「ビール」で始まり「2次会」はスタンドの
「ハイボール」で酔った青春時代、

「2次会」は「水割りウイスキー」を、がぶ飲みしつつ、
はしご酒を繰り返した働き盛りの時代、

「2次会」は焼酎のお湯割りか熱燗に変わった壮年時代
そして今は
宴会の乾杯は冷たい「ビール」で喉を潤した後、
「熱燗」を呑み、続いては「常温酒」でふらふらに酔い、
最後の仕上げは「冷酒」で味噌ラーメン
ようやく「日本酒」の味がわかる年齢になりました。

酔い覚めの、水の美味さを、下戸知らず






































酒造り290年浪花酒造成子和弘氏講演録より【第1部】

2010-04-12 05:33:28 | Weblog
酒造り290年余 浪花酒造 成子和弘社長講演会より

杜氏の技を守りり続けて290年! 【第1部】

成子です。 遠くからお越し戴き有難う御座います。

我社は江戸時代の「享保年間」の創業で「290年以上」の
歴史ある老舗の酒造会社と言われています。
幸いにも戦争の被害もなく当時の形が残っております。

お酒といえば「灘とか伏見」がその産地として頭に浮かび
なぜ、この地に「良い酒」が出来るのか
不思議に思われる方多いようです。

ここは「泉州」です、「泉」の国です。
昔から凄く「良い水」が湧き出ている場所なのです。
和泉山脈から湧き出る蔵内の井戸水と高度精白度の
酒造りに最適米をつかい「手作りのお酒」を作っております

この私の会社の中にある井戸も素晴しい水が湧き、
いくら汲み上げても次から次にと湧き出て枯れることを知りません
毎日「3000㍑」は使っていますが井戸はビクともしません。
水位は全く変わらず「酒造り」には最適なのです。

繰り返してのお話となりますが「酒造り」には
「名水」に恵まれているいることが、欠かせない条件の一つです。

あとから見ていただく、酒蔵内に湧き出る「水」は
「和泉葛城山系」の「伏流水」でありこれは「灘の宮水」と
同じ「中硬水」ですので「酒造り」には最適なのです。

「酒米」はどこからでも確保できますが、「水」はそうはいかないで
我社でも「井戸水」が枯れたらここでの酒造りは出来ません。

これは、この水は「宝物」なのです。
この水から皆様に喜んで戴いている「酒」が出来るのです。

2008年の北海道「洞爺湖サミット」では兵庫県の「山田錦」を
「19%」までに精白し、この「水」で創った我社の自信作
純米大吟醸「浪花正宗」が振舞われ、外国の要人を堪能させました。

「ここまで磨いた米」でつくった「日本酒」は
他には無いだろうと思います。
一度究極の酒を作りたかった私の「夢」でもありました。

そして、銘酒といわれた我社の「浪花正宗」は
「酒のコンクール」でもある「全国新酒鑑評会」何度も
金賞を受賞「大阪府清酒研究会」「大阪府国税局清酒鑑評会」でも
金賞を獲得したのをはじめ、世界的な食品コンクール
「モンドセレクション」やイギリス・ロンドンの世界最大の
アルコール飲料コンクール「ワイン&スピリッツ・コンベンション」
などでも「国際賞」受賞しました。


お酒の話しは後程、酒造現場を見ながらお話し致しますが
今、座っていらっしゃるこの部屋は本宅の一室です。

皆様が入って来られる時に、お気づきになったかと思いますが
この建物は「登録有形文化財」の表札ありますが、
今から8年前に国の「登録有形文化財」に登録されました。

重要文化財は指定されますと「補助金」が出ますが、
その代わりに「文化財」に手を入れる事ができません。

「登録文化財」は「重要文化財」の予備軍みたいな物で
修理したり改造したりすることが出来ますが「補助金」は
一切出ないので、指定されたことが「有難いのか」
「有難くないのか」が良くわかりません。

そのような歴史ある建物のなかで酒造りをしております。
日本酒で需要が多いのが「普通酒」といわれる「3倍醸造酒」です。

お米と米麹、水を原料にした「純米酒」に水と醸造アルコールを
大量に足して、薄まった味を酸味料や糖類などで補った酒で
純米酒と同じ米の量で「3倍」のお酒が出来、一般的に
「紙パック」の日本酒は殆どがこの「酒」です。

この「3倍酒」は終戦後の物資不足の時に、
少ない米から多くの酒を作り出す技法でした。

それ以外に「本醸造酒」や「吟醸酒」など「醸造アルコール」を
使うものも、ありますが「3倍酒」のように「味」が
変わるような「酸味料」や「糖類」は使いません。

醸造用の米は酒類によって精米の歩合を変えています。

規定では「精米度70%以下を純米酒」「60%以下を吟醸酒」
「50%以下を大吟醸酒」と定めてあります。

「精米度60%」の意味は米の外側の部分を「40%」を
削った米の事であり、100kgの米ならば精米後は「60kg」に
なってしまいます。

例えば「精米度50%」なら半分しか残りません
このように「高級酒」ほど多くの米がいるので
コスト高となります。

我社の「精米度」はどの種類も基準より一クラス上の
ランクにしており、原料へのこだわりが特徴なのです。

すこし、深くお話ししますと「精米」して「米の外側」を
なぜ削り取るのかといいますと、「酒造り」に必要なのは
「米」の中心にある「デンプン質」であり、外側に含まれている
「タンパク質」は日本酒の味の邪魔になるからです。

不要な成分を取り除き中心部を残した米に「麹菌」を繁殖させ
「酵母」を使って発酵させ「アルコール」に致します。

その中で「米」は「酵母」にとってよい環境ではなく
栄養不足になりますので、「酵母」は自ら栄養源を作り出し
栄養を補う動きをしますが、この時に「酵母」は
「リンゴ」の様な果物類の香を出すのです。

そして、それに微量の「醸造アルコール」を加えると
よりよい香が増します。米のうまみを充分に
引き出した味となるのです。

日本酒の最高峰といわれる、「大吟醸」の「浪花正宗」の様な
我社自慢の「高級酒」が果物の香がするのは、
この「磨きぬいた米」を原料にしているからなのです。

私は「酒造り」のポイントは昔から語り継がれている様に
「3つポイント」の善し悪しで旨い酒が出来るのです。

そのポイントをお話しします。

この続きは{第2部}として次回投稿致します。


紘一郎雑記張

「お酒」も「水」が最も大事であると言うことが
「成子社長」の講演の中でよくわかりましたね。

お酒といえば「灘・伏見」を思っていたが、
ここにもこんな素晴しい「酒」がありました。

いわれてみれば「泉州」は「泉」の「国」で良い「水」が
あるのは当たり前の事でした。

戦国時代に「利休」は「秀吉」の大阪城で茶会を開くのに
「水」を京都から運ばせたそうですが「水」は何事においても
大切ことが「酒造り」からも伺えました。

話しは変わりますが、大阪の地下鉄の売店で販売している
「大阪の水道水」の「うまいやろ」1本・100円も
美味しくなりましたね!
飲み比べてみても”信州の水”と変わりません!























戦わず・頑張らず「販売」する企画力 高島良雄氏講演会より

2010-04-08 05:09:20 | Weblog

高島良雄氏講演会
「ビジネス・エージェンシー代表」

戦わず・頑張らず・「販売する」企画力

高島です、宜しくお願いいたします。

まずお願いがあります。
携帯電話はマナーモードにしないで下さい。
「音」が出るようにしていて下さい。

途中で携帯にかかって来たら「電話」に出て下さい。
そしてその場で会話もして下さい。
今日のセミナーのテーマの答えもその会話の中にあるかも知れません。
是非、そうして下さいませ。

さて「戦わず・頑張らず・「販売する」についてのセミナーですが
基本的に申しますと「頑張っても」仕方がないのです。

【1】では,どうするの!が今日の話になりますが結論は
「平素の心がけ」と「ニコニコ」という答えなのです。

大人という言葉の語源は「おとなしい」から来ているのですね。
ですから「すぐ怒る人」「すぐ怒鳴る人」は
年齢に関係なく大人ではないのですね。

今、大リーグで活躍している「松井秀喜選手」は星陵高校のとき
「甲子園の高校野球選手権」で連続で敬遠されましたが、
松井選手は怒らなかったのです。

普通、打者ですから打ち気が満々で、ましてや高校野球屈指の強打者です、
怒っても残念がっても良いのですが、松井選手は敬遠は相手が
決めた事だからと言っていたそうです。
「松井選手」は高校生でも「大人」だったのですね。

「大人」とは何があっても「怒らない」「ニコニコ」している事なんです。
部下に強くあたれば強く返ってきます。
ボールを壁にあてて見てください。投げるボールが強ければ強いほど、
強いボールが返って来るのと同じです。

関連した事を申せば「リーダーシップ」とはその人がいるだけで、
何も話さなくても「ニコニコ」しているだけで事がまとまる、
それが究極のリーダーシップだと思います。

ですから「平素からニコニコして」プロジェクトの成果は
受け入れる事が大切なのです。

「人事を尽くして天命を待つ」と申しますが本当にそうだと思います。
「これだけ一生懸命」したのだから「必ず良い結果」が出ると思うのは
傲慢だと思いますね。

今、「トヨタ」が苦しんでいますね、磐石の経営といわれた「トヨタ」がです。
他にも昨日までの優良企業がもがいています。

しかし、トヨタを初めに他の有力企業が”ふざけていた”なんて
考える人はいないでしょう
でも、悪くなるときは悪くなるのです。そうなる時はそうなるのです。

だから謙虚に明るく行く事が大切と思います。

人には「3つの悩み」があるそうですが
「人間関係」「健康」「お金(仕事)」です。
逆にいえばこれ以外の悩みは基本的にないそうです。

なぜ悩むのか、それは自分の思う水準、現象と「現実」の
ギャップに悩むのですね。ギャップが無ければ悩みは無いですね。

すると物の考え方を変えて「こうあらねば!」という事を
考えなければギャップは出てきません。

例えば「1億円」の売り上げ予定が「8千万円」の達成であれば
「2千万円」の「マイナス」を嘆くより「8千万円」もいったと
喜ぶ事の大切さもいるのではないでしょうか。

良くやった「8千万円」も売れたと喜び「ニコニコ」している事の方が
大切で次の展開も開けてくるのです。

勿論会社は社外的に数字を約束しているのですから大事ですが
そのことに悩み続けて「うつ病」になったりする方が大変です。  

【2】人は変えられない・未来も変えられない

人は変えれないけれど「人に頼めば変えれる」事があります。

「命令は時として依頼の形をとる」と良く言いますが
「強く当たる」と「強く返ってくる」のが通常です。
「怒鳴る」と相手は萎縮するか、怒鳴り返すかをしますが
後から謝る事が出来る人は「怒鳴っても」大丈夫です。

管理者で大切な事は「怒鳴らない」事です。

一般的には「人は変えれないが、未来は変えれる」といいますが
ある高額所得者常連の経営者が
「過去は変えれるが、未来は変えれない」といっています。

「過去の人生暗かった、これからは明るくする」こんな事は出来ません

自分の過去は「ついていなかった」過去は「悪かった」と
思っている人はその「延長線上」に未来があるので良くなりません。
「過去」を「不幸」と思う人は「未来」も「不幸」の事が多いのです。

過去は色々あったが「あれで良かった」「幸せだった」と
思う事で一気に未来も開けて来るのです。
             
過去は考え方で変える事が出来ます。

こんな事例があります。
街の小さな「酒屋さん」の前に「スーパー」が出来ました。
勿論「お酒」の品ぞろいは素晴らしく「酒屋さん」では太刀打ちできません。

酒屋の奥さんは「もううちの店はあかんは、つぶれるは」と
嘆くばかりでしたが「店主」は考えて「焼酎」の専門点に変えました。

「スーパー」の「焼酎」の品揃えよりは「小売店」の方がはるかに良く
「焼酎フアン」の客は「小売店」に集まり見事に立ち直りました。 

この考え方がそうです。今まで酒屋を続けていて良かった。
スーパーが店の前に来てくれてよかった!と考えたのでしょう

この店主は良かった過去から学び対応したのです。 
そうです、現状を受け入れたのです。

【3】目標設定について考えてみましょう。
 私は「目標設定」は無いほうが良いと思っている一人です。
 「目標設定」があれば、それを「意識」しない事です。

どうしても「目標」を意識しすぎて「悩む」事が多く、
企業内で「うつ病」やそれに近い症状の社員が増え
調査したら社員の中の3%にその疑いがあり
かなりの退職者や自殺者まで出ていたのです。

その時の社内の雰囲気は全く暗いものでした。 

「どうしても”やらなければ”ならない」
「どんな事をしてもやり遂げる」 
そんな気持ちでしても「やれる事は決まっているのです」
出来ない事は出来ないのです。天命もありますから・・
そんな強い意志で仕事をするのは止めましょう。
「シンドイ」ですね。

【4】 そんな時どうしますか?
 日本には素晴らしい言葉がありますね

「笑う門には福来る」福が来たから笑うのではないですね
 笑うから福が来るのです。笑っていることが大事なのです。
「気は確かか」と言われてもいいから笑うのです。 

反対の言葉も有りますね
「泣きっ面にハチ」 泣いているからハチが飛んできます
ハチに刺されて痛くて泣いているのではないのです。

「渡る世間に鬼はなし」 「渡る世間は鬼ばかり」は如何ですか
どちらが本当と思いますか、 どちらも本当ですね
世間に「鬼」がいると思えばいるし、いないと思えばいないのです。
優しい人ばかりと思えば、優しい人ばかりなのです。
心の持ちよう、考えようで、どうにも変わるのです。

物事を良いほうに考える事は「企画」に結び良い企画や
素晴らしい企画・斬新な企画はここから始まるのです。

【5】 マーケティングの要因は「小さく」「価格は高めに」「物語る」で
  楽しませ、お客に「ありがとう」と言わせる事が大事ですね 

「買って・買って」と言わずに「それ売って」と顧客に
言わせる仕組みづくりが本来のマーケティングです。

時間も少なくなりましたのでまとめに入りますが
多くの成功した経営者の話の中から得た結論の一つは
「色々検討したが判らない、生き残れなくても良い」と思うと
「天」が味方してくれる「天」が応援してくれる事が
多くあるという事です。

企画は「物語」の企画なのです。
特に部下のある方は「笑って」それも
「ヘラヘラと笑って」いる事が大切でしょう。
「一致団結」なんて出来ないからです。
福が来るから明るいのではありません!
明るいところに福が来るのです!

有難う御座いました。


安田紘一郎雑記帳

今までの営業セミナーで常識であった、
しっかり売れ!工夫しろ!頑張れ!の世界から
全く新しい別の考え方と発想での営業展開を
研究されるお話は高島先生は日頃、大学の教壇に
立たれているので判りやすく
「独自のマーケティング論」を展開され
聴講の皆様も大いに参考になった事でしょう。


















【第2部】京都・料亭幾松久保専務講演会より・紘一郎雑記帳

2010-04-05 05:22:24 | Weblog
京都散策【桂小五郎と幾松講演会】第2回

「久保明彦・幾松専務」より講演より

京都と大阪や伏見を結ぶ高瀬川は江戸時代初期に出来た運河で
材木や炭を運ぶ物流の中心で大正中期まで続き
川沿いに「材木問屋や炭問屋」が並び「木屋町」と
呼ばれるようになりました。

長州河原町藩邸は広大な屋敷の外側に控屋敷があり
「勤皇志士」たちの恰好の隠れ家であった。

維新以降は木屋町別邸となりその後
私の父が「幾松」の名をつけました。

西郷隆盛や大久保利通と共に「維新の三傑」といわれる「桂小五郎」が
「尊皇攘夷」の気運が高まる中「都・京都」に入ったのは
文久2年(1862年)の5月であった。

その2年後の6月に「新撰組」が攘夷派の集まる「池田屋」を
襲撃した際「桂」は難を逃れたが、この事件が元になり
「禁門の変」がありその後歴史的な「薩長同盟」へと歴史は
これを機に時代は一気に維新へと流れて行きました。

幾松は「若狭小浜藩」の家に生まれ、一家で京都に上がるが
「父親」が急死し生活苦の為養子にでました。

その後、幾松は「御所」近くの花街「三本木」の芸妓になった。

そこは「桂小五郎」はじめ「勤皇の志士」が密偵から逃れ
「密談」を行う場所として良く利用していたが
幾松は「美しく・頭も良い」名妓として評判であった。

「幾松」と「桂」に恋が芽生え「桂」は「幾松」を落籍」したのである。
「幾松19歳」・「桂小五郎29歳」でしたが「幾松」はその後も
「芸妓」を続け勤皇志士に情報収集に努めました。

気丈で機転の利いた「幾松」には多くのエピソードがあります。

禁門の変で破れ、新撰組や佐幕派から追われた「桂」は
「乞食」に変装し「二条大橋」の下の「乞食群れ」に潜伏して
但馬の出石に逃れるのだが「幾松」は監視の目を盗んで食事を運び
「桂」の京都脱出の手助けをしたのです。

又、ある日「近藤勇」が屋敷に踏み込み「桂がいるだろう!」と
乗り込んだ際、長持ちの中に潜んだ「桂」を知らぬ顔をして「近藤」に詰めより
「もし、調べて桂がいなかったら近藤さんも武士や腹を切る覚悟がおありやすか!」
幾松の身を賭した気迫にさすがの近藤も退散したようである。

「桂」は「明治維新」直前に「木戸孝允」と改名し「新政府」の
進歩派の中心として「廃藩置県」「藩政」に尽力しました。

「幾松」は「長州藩士」の養女となり「松子」と改名し
晴れて「木戸」の妻になりました。

新婚生活は明治初期のことで身分差を越えた婚姻は稀有でありました。

しかし「数年後」「木戸(桂小五郎)」は病で急死したのです。

失意の「幾松」は剃髪し住んでいた「東京」から思い出の多い
「木屋町」に転居し「明治19年(1886年)」44歳の生涯を終えるまで
この「幾松」で過ごしました。この部屋にいたのです。

この部屋のここから見える東山三十六峰を眺め大文字・比叡山に
在りし日の「桂」を思い「鴨川の水音」を静かに聴いていたのでしょう。

墓は京都市東山区霊山にある「木戸孝允」の墓の傍らにあります。

料理旅館「幾松」は名妓幾松「木戸松子」の想いを大切にし
館内も出来うるだけ手を入れず「前のままの形」で残し
保存する事を一番にしています。

ここは、いつまでも「桂小五郎と幾松」の寓居跡なのです。

本館の「幾松の部屋」は「加茂川・金閣寺・東山」など「名所・旧跡」に
ちなんだ純和風の客室と国の有形文化財に指定されている。

部屋は「200年前」のままで、「ふすまや障子」は何度か
張り替えましたが「柱や梁」は骨組みは丈夫で「阪神大震災」でも
「本体」はびくともしていませんでした。             

この部屋は「新撰組」の捜査も受けましたが、ご覧になって判るように
鴨川の河原に通じる抜け穴や屋外に脱出する為の
つり天井、のぞき穴は当時のそのままの形で残こしています。

いまは閉じて残っておりませんが「不意の敵」に備えて
「天井」には、大きな石が仕掛けられてありました。

この部屋の写真は「誰の写真」かお判りですか?
「桂小五郎」「幾松」「佐久間」「大村益次郎」です。

1
現在の「幾松」のお話をしましょう。
一番の繁忙期は「紅葉の秋」と「鴨川納涼床(5月1日~9月30日)」の
シーズンです。

期間中は「二条から五条」までの「鴨川」沿いに
木組みの席(川床)が並び「提灯」や「ぼんぼり」の火が揺れる
鴨川沿いに涼みながら「京料理」を楽しんでいただきます。

最盛期は「7月」と「8月」で、なかでも「祇園祭」の
ハイライト・山鉾時巡行の「7月17日」と大文字の送り火の
「8月16日」は大変忙しい日となります。

納涼床は「江戸時代」から受け継がれている夏の風物詩で
東京や名古屋など全国からのお客様も増えていますが
私は「京都鴨川納涼床共同組合」の理事長を務めていますが
組合としては団体客は募集していません。

時代でしょうか、「川床」も様子が様変わりしてきて
最近は「日本料理の割烹」や「中華料理」の店まで様々で
料理によって予算が違いますので個々の店と相談してもらっています。

ですので「組合」としての「PR」は「京都にお越しやす」程度に抑えて
むしろ「環境面」に配慮して活動しています。            70

料理旅館として私ども「幾松」が拘りますのは「料理」です。

特に、選び抜かれた「最上級の京野菜」と「日々水揚げ」される
新鮮な「近海物の魚貝類」を、ふんだんに用いています。

その素材を自慢の調理人がつくる伝統的な京料理・京懐石です。

料理につきましては「若女将(久保真奈美)」より話します。

以上「久保幾松専務」

「若女将」
「幾松」の料理は「かみ締めれば・かみ締めるほど」素材の
「うま味」が「じわーっ」と出てくるのが「特徴」です。

ただ少し「薄味」なので、その特徴を生かしつつ、とっつきやすい味、
一般的な味に工夫しています。

馴染のお客さまにも同じ物は出しません。
旬の食材を使って、毎回違う料理を召し上がって戴いております。

「鯛しゃぶ」「寄せ鍋」「すき焼き」などの「冬季限定」のメニューもあり
「百貨店」に出している「おせち料理」も好評です。

良く「商談や婚礼・結納」などに利用して戴いておりますが
「世界遺産の下鴨神社」などで「式」を」あげて「披露宴」を
私ども「幾松」でしていただく事も多くなりました。

「桂小五郎」と「幾松」のロマンスの舞台という「めでたい場」であり
「一時の恋」に終わらず「終生変わらぬ愛情」を持ったまま
「苦楽」を共にした生き方は、新しい人生を踏み出される
若いお2人には最高の場面を提供させていただきます。

以上 幾松・久保若女将


京都案内人・中村 正氏

京都の案内をしていますと、よく受ける質問の一つに
「本能寺」がありますが
今の市役所近くにあります「本能寺」は本当の
「本能寺跡」ではないのです。
観光客用の本能寺です。

本当の本能寺は堀川高校近くにあり今は
「旧本能寺跡」の石柱があるだけです。


豊臣秀吉が信長の敵を破ってから天下人となり
京都の町の都市改革をしました。
京都の周りにお寺を配置し城壁りとたのが「寺町」であり
その際「本能寺」も移動したのです。

そしてその街の中に「たて街」などを創りました。
そこで行われる「祇園祭」についてお話しますと
7月14日・15日・16日ごろの「宵山・宵々山」などを経て
「7月17日」の巡幸となるわけですが、
実は祇園祭は「7月の1日」から始まり「31日」まであるのです。

祇園祭の「鉾」を立てるのに「3日間」ほどかかります。
日頃は「八坂神社」近くの倉庫(白い建物の倉庫)の幾つかに
分離して保管して「7月の7日か8日」ごろに鉾を出し準備します。

組み立ては「7月の10日」に始めますが
朝の7時にまず長刀鉾から組み立て、
続いて8時に菊水鉾と鶏鉾を組み立て始めるのです。
これは毎年決まっています。

たてる場所も決まっており、毎年同じ場所にたてます、
間違いない様に道路に「4つの印」をつけて固定して
埋め込んでありますが普通に見ただけでは判りません。

これから鉾の立て方についてお話いたします。

以下は次回投稿致します


安田紘一郎雑記帳

「桂を出せ!」と迫る、新撰組局長「近藤 勇」に対して
「幾松」は一歩も引かず
「もし、探して桂がいなかったら、
 近藤さん腹を切る覚悟はおありやすか!」

事前の調べで「桂」が「幾松」に潜んでいる事は
当然知っていたはずの「近藤勇」は
この「幾松」の気迫に意気を感じたのであろう、
その場を引き上げたという。

最近、良くニュースで知る「男女関係の殺傷事件・夫婦間での殺傷事件」は
多くの人を殺伐とした気持ちにさせます。

幕末から維新を命懸けで生きた「幾松」と「近藤勇」の
このやり取りに、一人の男に人生をかける「女」の心意気と
武士として日本人として「国」を思う心と共に
「幾松」の気持ちくんだのであろう「刀」をおさめた
「男・近藤勇」の優しさに共鳴するが
今の日本人をみて「幾松」は「近藤」は何と思うのだろう
是非、聴いてみたいものである。



桂小五郎と新撰組・司太夫・中村正氏講演より 紘一郎雑記帳

2010-04-01 05:05:59 | Weblog
桂小五郎と新撰組の足跡を尋ねる会
京都案内人中村正氏・島原司太夫・幾松久保専務の講演より

京都散策 
【第1部「島原・輪違屋(司太夫)と八木邸」】講演

清話会安田 

本日は「清話会主催・京都見学会」にご参加戴き有難う御座います
ご案内の通り「島原から八木邸、そして幾松」へと見学して参りますが
これからは「京都案内人の中村様」のご説明を聞きながら
巡ってまいりますので宜しくお願い致します。

中村氏
今日一日お付き合いをさせて戴きます中村です。
皆様は、大変ラッキーです。
今日、見学予定であった「島原・角屋」さんが生憎休館中で
外観だけは見ていただけますが中に入る事ができません。

ところが、現在京都に「3人」しかいない太夫のうちの一人
「司太夫」が島原を案内してくれて、
その上、入館禁止の「輪違屋」の中に皆様入館戴き
輪違屋の説明やお話をしてくれるとの事です。
滅多に入れない輪違屋ですので楽しみして下さいませ。

それでは「島原の大門」で「司太夫」が待っていますので参りましょう。
【移動】

●司太夫の話

今、京都には「花扇太夫」と「如月太夫」と私の3人しか「太夫」はおりません。
ここが「島原大門」で昔の「島原」の面影のある場所は、
この「大門」とこれから参ります「角屋」さんと「輪違屋」さんだけとなりました

もともとは甲子園球場「6個分」に敷地が有ったとの事です。
今は大半が民家になったり、駐車場になったりしています。

太閤秀吉が開いた「花町・二条万里」が江戸時代「この地朱雀野」へ
移転となりました1641年のことです。
その移転が京都中を巻き込んでの大騒ぎとなり、
その騒ぎと混乱が「島原の乱」みたいといわれ
此処の地名が「島原」となりました。

島原は通称であって正式住所は「京都市下京区花屋敷」で
ネットで「島原」で検索したら「九州の島原」が出て来ます(笑)

今日は東京からのお客様もいらしゃいますが、この「島原」は
江戸の「吉原」との根本的な違いが有ります。

島原は「芸」を売るところで「吉原」とは全く違うのです。

又、京都の祇園に比べて格式が高く公家の遊びでありましたので
公家の衰退と共にこの「島原」も衰退してきたのです。

島原には「置屋」と「揚屋」が御座いまして
「置屋」には「太夫」や「芸妓」がおり
「揚屋」からの注文に応じて「派遣」していました。

角屋さんが「揚屋」で「輪違屋」さんが「置屋」です。

角屋さんの歴史をみますと「西郷隆盛」や「久坂玄随」が出入りし
幕末から維新の先人達の行動の一端がわかります。

「輪違屋」さんは「芸妓」を育てるところでもあり「養花楼」ともいわれ
二つの名前を持っております。
置屋には「お客様」は上がってきません。「揚屋」である「お茶屋」さんへ
「芸妓」さんを送り出すところなのです。

この部屋は「私達太夫」が「太夫道中」をするときに使う
一番大事な「部屋」で「高の間」といいます。

「高」のマークが付いていますが「高島屋」ではありません(笑)
此処のお名前が「高橋さん」なのでこの「マーク」になったようです。
「輪違屋」のマークみたいな物でしょう。

このお部屋の特徴はその障子の小さな窓みたいなところを
開けてみてください、窓ではありません、
この中のに「ローソク」をたて、火をともして「障子」を
しめると部屋全体が明るくなる仕組みになっています。
「間接照明」ですね。

そしてそこの「床の間」を見てください「松竹梅」になっています
この太い柱が「松」でそこの「竹」とこの古木は梅の古木です。
お座敷は縁起を担ぐので意識して「松竹梅」にしたのでしょう。

そこの「掛け軸」は「桂小五郎」の書いた物です。
「春の」情景を見事に描き出している作品です。

そして、ここにあっても可笑しくないのです。
明治5年以降に「輪違屋」に多くの人が来たとの記録が残っているからです。

でもいつ来てもこの「小五郎の掛け軸」が見えるわけでは有りません
四季に応じて掛け軸を変えているので、今は「この掛け軸」なのです。

下の階に降りましょう「「紅葉の間」です、
この絵はあの有名な「八千代太夫」の絵姿ですね。
本当に優雅な落ち着いた創りとなっている事は
感じていただけることと思います。

これが「近藤勇」の書いた物ですが「近藤勇」はこの「輪違屋」には
来た事はありませんので「揚屋」で「近藤」に呼ばれた
「芸妓」が書いてもらって持ち帰ったのです。

この中には「芸妓」さんたちが残した「書き物」も多く残っていますが
年季が明けてから「遊び」に来て、昔を懐かしんだ物が多いのは
「島原」の特徴で「身体」を売る事が無く「芸」磨き売り物にした
「芸妓」さんの明るい当時の有り様が判りますね。

江戸の「吉原」では「年季明け」は本当に少なかったようですが
「島原」は大半が「年季明け」をし「女達」に住みやすい町であったようです。

この「近藤勇」の掛け軸では「吉原遊郭」の心算で「島原」にきた
「近藤勇」が「花魁」と異なる「芸妓」遊びで恥をかき
「カルチャーショック」を覚えた様子が面白いですね。

島原は遊郭ではなく、「芸」が売り物の町ですので、
琴・三味線・踊り・お茶などの多くの「師匠」や「裏方の女性」の
出入りもあり「自由」な町で有りました。

お客様も色々な方があり「久坂玄随」は「母親」とともに
遊びに来たとの記録も残っております。

輪違屋は昭和58年に重要文化財に認定されました。

現在、唯一つの「置屋」であり「揚屋」が無いので「お客」も頼めば
「此処で」遊ぶ事も出来ますが、因みに予算は一人数万円でしょう。

気が向いたら遊びに来てくださいませ。有難う御座いました

司太夫にお礼を言い「八木邸」へ移動

●八木邸案内人氏の説明

八木邸はは昭和58年に重要文化財に認定されました。

天井を見てください、とても低い所が有りますね
今の若い人は立ったままで通れない高さです

それはこの八木邸の中では「刀」を振り回してはダメ、
抜いてもダメですという事で、高さ制限が有りました

新撰組が京都にやってきたのは「147年」前の「1862年」でした。

その頃の京都は尊皇攘夷の嵐が吹き溢れ、治安が悪く
大変怖い不安定な都となっていました。

その治安維持の為に幕府は「守護職」を儲け会津藩主「容保公」が
担当致しますが、そこに「徳川14代将軍」が京都に来る事になりましたが
その時の「武士」はサラリーマン化して「刀」が使えません。

そこで「江戸」で集められた「腕自慢」の武士達が「234名」が
「中仙道」を通って「16日」かけて京都にやってきました。

引率は「清川 三郎」でした。着いたとこが此処です。壬生でした。

ところが幕府と清川の間で行き違いや思いの違いがあり、
すぐ江戸に帰る命令がきて「2日滞在」で江戸に引き返す事になりました。

しかし、江戸に帰らず「13名」が幕府の為に働きたいと
言って京都に残ったのです。

それが後の「新撰組」になるのですが、
当初は清川が江戸に帰った後ですので
食べて行けず「会津公」に嘆願し許可が出て、
この八木邸の前の「前川邸」に「松平家お預・新撰組」の
看板を立てたのです。新撰組のスタートでした。

そしてその後は、隊員募集し、そこに荒くれ者が入隊し人員が増えまして
問題が噴出しはじめたので「土方歳三」が「局中法度」なる規則をつくり
新撰組を管理いたしました。

その法度違反がもとで皆様ご承知の「芹沢 鴨」事件が起こるわけですが
芹沢・新見などのグループはこの部屋に「6人」で住まいしておりまして
近藤・土方のグループはあそこに見える離れの部屋に寝食したのです。

1863年(文久3年)9月18日の、まだ夏の暑さが残る雨の夜に
「芹沢鴨」が酒を飲まされて殺害されたのは「この部屋」で
そこの壁までが「血」で真っ赤になっていて、
壁の塗り替えや修理が大変だったそうです。

「新撰組」がこの「八木邸」に住まいしていた
「2年半」が一番輝いていた時代でした。

「禁門の変」を含めて長州・薩摩・あるいは土佐など、
尊皇攘夷派の武士との熾烈な戦いはこの「八木邸」の
「この部屋」から「近藤も土方も沖田」も出陣して行きました。

その後、新撰組は「八木邸」から「西本願寺」へと本体を移しました。
ところが「お寺」と「新撰組」は上手く行かず
「お寺」がお金をだして「不動村」という場所に
屯所を移転するわけですが、
すぐ戊辰戦争が始まり戦いに敗れた「新撰組」は
東へ東へと敗退し後退していき、幕末から明治へと
時代は移り変わっていきました。

中村氏 
次は「幾松」に移動いたします。 

●京都散策講演 第2部「桂小五郎と幾松」は
講師「幾松・久保専務」は次回投稿致します。
次回は4月5日に投稿予定です


安田紘一郎雑記帳

島原は「花街」であるが「遊郭」ではなく、
「江戸の吉原」とは全く形態の異なる、江戸時代の
「歓楽街」であった事を「司太夫」の話で知り
まさに「目から鱗」の感じである。

「吉原」の心算で遊びにきて、恥をかき、恐縮している「近藤勇」の
姿が目に浮かぶのは何故だろう。

「近藤勇」も幕末を生き、形こそ変われど「日本」の夜明けの
「一役」を担った立派な「武士道精神」を持った
「武士」であったからでしょうか。