紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

司馬遼太郎が書かなかった”幕末”松蔭講演会より 安田紘一郎雑記帳長

2009-09-28 15:32:24 | Weblog
【司馬遼太郎が書かなかった維新・吉田松蔭編】

一坂太郎講演会より 

「司馬遼太郎氏」の傑作「世に凄む日々」は「松蔭」と「晋作」を
主人公にした代表的な作品となっている。


「司馬氏」はこの作品では「革命家」として「松蔭」を描いた。
そのヒントは1893年に「徳富蘇峰」が書いた伝記「吉田松陰」だと思う。




「蘇峰」はその中で、革命には3つのタイプの人間が必要で、
一つは「新しい時代を予言する予言者タイプの人」
2つは「その新しい予言を実践する革命家」
3つは「新しい時代を形作る建設的革命家」 をあげて
「松蔭」を2つ目の「予言する革命家」として位置づけている。


「司馬氏」は「世に凄む日々」の中で、革命に必要な
3つのタイプとして【予言者】【行動家】【処理家】をしめしている。

松蔭は【予言者】としている。

革命家としての「松蔭」についての描写には、
史実とはかなり異なる面がある。


例えば「松蔭は”革命的市民”の一大結集をまじめに考えた」と
しているがこれは、「草の根に隠れているような人も決起せよ!」という
「松蔭の最後の教え」「草莽崛起」をさしている。


しかし「松蔭」が考える「草莽」とは、それまでに政治に
参加していない「下級武士」をさしており「百姓一揆」を
考えていた訳ではないので
「一般市民」はこれに含まれていない。


「司馬氏」は「松蔭」の「草莽崛起」を「フランス革命」のような
「市民革命」を意識して書いているのである。
だから、作中の「松蔭」や「晋作」は情熱がほとばしり、
活き活きとしている。


「松蔭」を描くうえで欠かせないのが、「松蔭」は強烈な
「天皇崇拝者」であったことです。

「松蔭」は「天皇」を「神」の様な存在と信じ、その「天皇」が
国の将来を心配されていることに強い感銘を受け、
「天皇中心」の国づくりを真剣に考え始めます。

しかし「司馬氏」は作品の中でその事には全く触れずにいる。

戦時中に青春期を送った「司馬氏」としては「松蔭」の
「天皇崇拝主義」を描くのは避けたかったのでしょう。

でも史実からすると「仏つくって魂入れず」という印象は否めない。

「松蔭」は1859年10月「伝馬町」で斬首され29歳の命を閉じている。
「松蔭」が情熱をかけた「夢・維新」は死後9年後のことであった。

新政府側となった「長州藩」は「戊辰戦争」に
5000人の諸兵隊を送り勝利した。


しかし、栄達を期待して凱旋した兵士達は、帰郷後、
その半数以上がリストラされ
農民や商人が蜂起・反乱し大問題となり、軍を率いた
「木戸孝允・桂 小五郎」に衝突、鎮圧され「奇兵隊」の歴史は
“残酷な形”で幕を閉じたのである。

長州(山口県)は維新の勝者ではあるが、
それは大きな犠牲のうえに成り立っている。

しかし「司馬遼太郎氏」は維新に大きく貢献した「庶民」の
エネルギーの行く末には言及しておらず、
これは“故意”に「司馬氏」が書かなかったとしか思えないのです。

【一坂太郎氏講演会・司馬遼太郎氏が書かなかった”維新”】より


安田紘一郎感想

「司馬さんの小説は、読後、明るい気分になれます。


しかし、それは歴史の”負”の部分を
書いていないからではないでしょうか。

「司馬さん」は歴史をもとに、勇気の湧く小説を我々に残してくれました。

事実もあれば、そうでない負の箇所もある。
「司馬さん」が書かなかった部分にも真実がある。
いかに読むかは我々”読み手”の問題なのでしょう。

今年は「松蔭先生没150年」来年は「松陰先生生誕180年」です。
今の時代を「松陰先生」はどう思われているのでしょう?
是非お聴きしたいものです。


司馬遼太郎が書かなかった”幕末”高杉晋作編 安田紘一郎雑記帳長

2009-09-22 05:38:14 | Weblog
【司馬遼太郎が書かなかった幕末・維新・高杉晋作編】

一坂太郎氏講演会より 

「司馬氏」の著書で「十一番目の志士」があるが、この中には、
登場人物の描写にも史実に即していない物がある。

「高杉晋作」の武士と庶民の混成部隊・奇兵隊を立ち上げに
一役任されたとされる下関の商人「白石 正一郎」は
「司馬氏」によると、山陽道きっての回船業の大問屋で
長州の金蔵と記している。

しかし実際の「白石正一郎」は弱小の商人であり、
「萩長州藩」の支藩である「長府藩」から
さらに分かれた「清水毛利家」の小さな商家であった。

奇兵隊を助けたり長州藩の金蔵などとは全く縁がないのであった。

「十一番目の志士」の主人公「天堂晋助」は農民の出であるが、
後に「高杉晋作」に“剣の腕”を認められ「テロリスト」として
国事に奔走するが、架空の人物である。

「司馬氏」は
【長州に足りないものは一撃で敵を倒し神出鬼没の働き者の志士】と書いている。

「土佐の岡田以蔵」や「薩摩の田中新兵衛」と張り合う
攻撃型の志士を、理論家の多い「長州」に求めたのであろう。

史実と大きく相違点をもって「司馬氏」が「十一番目の志士」に
登場させたのが「赤根武人」であろう。 

「赤根」は「晋作」と共に「奇兵隊」を旗揚げし、
3代目の「奇兵隊総督」になった人物であるが、藩内の和平を望み、
戦いを行う「晋作」との意見が対立する。

「高杉晋作」は下関で挙兵し、多くの若者や奇兵隊員が
「晋作」に従い加勢した。




「赤根」はスケープゴートされた形となり、
一度の弁明も弁解も許されず不遇にも処刑されたのである。

その「高杉・挙兵」を評価し「赤根・幕府内通者説」まで
作り上げたとされているのは奇兵隊出身の「山縣有朋」である。

もちろん、その後、「赤根」の「冤罪は証明された」と作品ではしている。

「司馬氏」は「山県有朋」をとても嫌っていた。
 
陸軍の母体と徴兵制をつくった「山縣」は「司馬氏」の
さまざまな作品の中で
日本を軍国主義にした張本人として描いている。

「山縣有朋」の名前を聞くと悪寒がはしるともらした
「司馬氏」も「十一番目の志士」の中では、「山縣」が
明治になって作り上げた「裏切り者・赤根像」を踏襲し描くという
架空の事実まで立証してしまった。 なんと皮肉なことでしょう。


「吉田松陰」が幕府に1859年10月「処刑」された後、
その”志”を継ぐものとして
描かれているのが「高杉晋作」である。

「晋作」の評価は、すなわち「奇兵隊」の評価に左右される。
「奇兵隊」は永く日本の徴兵制の原点としても論争されている。

「司馬氏」は
【封建時代では、こういう軍隊を成立させること自体が革命的であった】と
高く評価していて、そして
【百姓町人は姓も名乗れない、奇兵隊構想はそれを一挙に許してしまう】と書いている。

しかし、それは基本的に間違いで事実とは異なるのである。

「奇兵隊」は多いときは500人の隊員がおり、
その「5割が下級武士」で残り
大半が「農民」で構成されていた。

しかし、内部では名札によって明確に区別が行われ、
身分の変化までは、許されていなかったのです。

「高杉」を描くうえでのポイントは「高杉」は
「毛利家」の上級武士の家来で、封建制度を壊す、
発火点となった「奇兵隊」の創設者でもあるという、
大きな矛盾を抱えていることである。

「司馬氏」も作中でそのことを指摘しているが、
残念ながら深く追求されていない。

「高杉晋作」はこの矛盾を抱えたまま1867年4月に29歳の若さで
結核のために亡くなりその死をもって「司馬氏」の
「世に凄む日々」も幕を閉じている。



【第3回「司馬氏」の書かなかった維新・松蔭編は次回に投稿します】


安田紘一郎雑記帳

歴史の評価は誰がするのか? 

会津に行ってきた。「戊辰戦争」で集団自決を図った「白虎隊」が
町のシンボルとなっているが、「白虎隊」が
その後の日本に大きな名を残すほどの
偉大な仕事をしたとは思えないが「会津の悲劇の象徴」として
幼い子供たちがかたり継がれている。

この様な英雄の誕生には「史実以上」の宣伝が重要なのでしょう。

先の「2次世界大戦」の「正しい評価」は「誰が」「いつ」するのでしょう。






司馬遼太郎が書かなかった”維新”坂本龍馬編安田紘一郎雑記帳

2009-09-14 18:00:30 | Weblog
【司馬遼太郎氏が書かなかった”維新”坂本龍馬編】

一坂太郎氏講演会より「司馬遼太郎先生」が
書かなかった”幕末・維新”の中から
「龍馬編」「晋作編」「松蔭編」の3回に分けて
投稿致します。




一坂太郎氏講演会より

国民的作家「司馬遼太郎氏」の歴史小説は、多くの
日本人の歴史の原点になっている場合が多いが
実際には、意図的に書かれなかった事実もあり、
誤った歴史認識を抱かしてしまった面も多々ある。

この講演会では「司馬氏」の小説では表れていない史実の
裏側についてお話します。

「司馬小説」に限らず、歴史上の人物が偉人や英傑として人気を得たのは、
死後の伝記や芝居、小説によって宣伝されたからである。


幕末の人気者「坂本龍馬」は死後、すぐに英雄として評価された訳ではない。

一般の国民が”幕末の志士”知ったのは、
明治になって出版された「絵草紙」だった。


「吉田松陰や晋作、玄随、西郷、大久保」などが
「幕末の志士ベスト100人」として顔を並べるなかに
「龍馬」の名を見る事は出来ない。
「龍馬」は明治の初めには全く無名の人物だった。

彼を有名にしたのは、明治16年に作家の「坂崎紫瀾」が
「土佐新聞」に連載した「汗血千里駒」という
小説の中での登場であった。

「汗血千里駒」は「龍馬」が自由と平等を求めて闘うという内容であるが、
「作家坂崎」は自分の政治思想の普及のために
「龍馬」という無名の人物を利用して書いているので史実通りではない。


それが最も現れているのが「大政奉還」のくだりである。

二条城で一番後ろにいた「竜馬」が大声で「大政奉還」を
「将軍慶喜」に勧め、「慶喜」がその意見を取り入れ
「大政奉還」したとしているが、全くありえない話であり
一介の浪人に過ぎない「龍馬」が将軍に拝謁したり
意見を述べる立場になかったのである。

戦後「龍馬」を一躍”人気者”にしたのは「司馬氏」の
「竜馬がゆく」でした。

戦時中を含めてそれまでは「海軍の祖」としてのイメージでしたが、
ここから再び、自由と平等を求めめる闘う青年像として蘇ったのであるが
史実でない事が多い。


「龍馬がゆく」の「作品のテーマ」が集約されていると思われる
「代表的一節」の「薩長同盟の場面」では「龍馬」が
「このままでは長州が可哀想ではないか」と
「西郷」に詰め寄ったと書いているが、
本当にこの「龍馬」の振る舞いが無ければ、本当に「同盟」がなかっのか?

全くそんな史実は無いのである。

よく調べてみると「岩国・吉川家」の資料の中に明らかにしている。

京都で「薩長同盟」が結ばれる際、長州藩の「桂小五郎」と
薩摩藩の「西郷隆盛」は互いになかなか頭を下げず、
会談が始まらなかった時、「龍馬」が飛び込んで来て
「お前たちは自分のことしか考えないのか、日本の国のことを考えろ!」と
説いたとのエビソードがある。

「長州」と「薩摩」の、どちらが頭を下げるか、
というような面子の問題ではなく「長州征伐」に関しての、
天皇のご意思と幕府、そして長州、薩摩を巻き込んだ裏交渉で
最後は「薩摩」が折れる形で同盟が結ばれたのが史実である。


それでは、なぜ「龍馬」の話にすり替わったのでしょうか。

維新後に歴史を記すにあたり、この「裏事実」を白日の下に
さらす事をさけ、「浪人・坂本龍馬」にその役を押しつけたと考える
歴史学者が多い。

「司馬氏」も史実ではなく、その意見を「龍馬がゆく」に
取り入れたのでしょうがいまだに謎は多く残っているが、
決して「龍馬」の一言で歴史が動いた訳ではなかった。


一坂太郎氏 講演会「司馬遼太郎が書かなかった維新」
次回は「高杉晋作編」です。


紘一郎 感想

出版社で人気のある歴史上の人物は「信長・龍馬」と聞きましたが、
我々は作家や脚本家の創りあげた世界での、
人物像を本物と錯覚している場合が多いように思う。

今まで、「天地人」の「直江兼続」については、
あまり勉強したことは無く、
「篤姫」も昨年までは「和宮」よりも印象の少ない人でした。

大河ドラマの影響は凄いものですね。

そんな中で「一つ一つ、丁寧に歴史実を探し・書着続ける」
「作家一坂太郎氏」の著書や講演に感動している。











なにわ大阪の話・堀井良殷氏講演録より・安田紘一郎雑記帳

2009-09-08 11:05:13 | Weblog
【なにわ大阪・興亡記】

大阪人発奮せよ! 堀井良殷氏講演録より

昔の日本は「日本海側」が交通の大動脈で、
太平洋側はあまり発達していなかった。

それは風が、西から東へ吹いているからです。

[大阪]は大陸から"人や文明"が”西風”に乗りやっきた
「西風社会」の中で発達してきた、つまり”地球の自転”に
よって生じる風の向きが、日本の運命を決定したのである。

物資を積み込んだ船が、太平洋を回らず”瀬戸内海”を通り
突き当たったところが”大阪湾”でした。

「西風社会」の中における「物流拠点」として「大阪」に
モノが集まり、人がついて来て、市場が出来、宿が出来、
食料が必要になり”食べ物”が発達し、内外の交流地点となり
「食文化」も発展してきました。

当時の”なにわ”は、多くの土地が砂地であり、中に入ると
河内湖なる湖があり、「上町大地から生駒の麓」までが
その河内湖の中であったようです。

そんな”なにわ”を整備し素晴らしい街にしたのは
1500年以上前の「仁徳天皇」の偉業であり
”400年ほど前に大阪”を開発した「豊臣秀吉」とは歴史や
規模が違いすぎるのである。

では「仁徳天皇」は、なにをされたのでしょう!

砂地を船が入れるように堀り、掘割を作りました。
それが、中の島を流れる「大川」なのです。

その「大川」は河内湖のたまっている水を「大阪湾」に
流す役目をし、沼地や池などを干上がりさせ、”水田”と
なり”稲作”などが発達したのです。

今の「河内平野」にある【大阪市の東部から東大阪市、大東市、八尾市】
のどの広範囲に及ぶ辺りでしょう。

農地が出来”米”が出来、国家財政も潤いました。

【高き屋に、登りて見れば煙たち、民のかまどは、賑わいにけり】と
「仁徳天皇」が”上町台地”の突端にあった”高津宮”から
水田を眺めて詠んだ句として伝わっております。




「仁徳天皇」は、そのころ入ってきた”鉄の土木工具”で
この大事業を計画し”治山治水””新田開発”を行いました。

その技術集団が行った「堺市の仁徳天皇陵」に運び込んだ
”砂の量”はエジプトのピラミッドに匹敵するかそれ以上と
言われております。

当時より大阪は”商人の町”といわれますが、それは間違いです。

物流拠点の”大阪”は、物資を運ぶのは”命がけ”であり、
”山賊や海賊”から、”身の安全”や”物資”を守る為には
当然「武装」したのです。

商売と武力は裏腹の関係であり、武装勢力は安全を守るでけではなく
流通税や通行税をとり、侍もどんどん、大きくなっていき
大阪は「武家集団」の町でもありました。

その”大阪”を「商人の町」としたのは「徳川幕府」なのです。

「徳川の天下」を作るために知恵を絞った「家康」は
「大阪冬の陣・夏の陣」で「大阪城」を丸裸にし「炎上」させ
「豊臣勢力」が再起しないように「大阪を非武力化」しました。

そして「大阪」には領主を置かず「「大阪城代」が「進駐軍」として
僅かな(100人~150人)なお供だけで管理させ、
急速に発展する「江戸」への物資を賄うだけの「商売の町大阪」と
変えて行ったのです。

家康が幕府を開いた頃の江戸は小さな漁村でした。
そこに突如「大侍軍団」が集まりました。

侍は「飯は食うけど、米は作らない」消費人口であり
その超大な消費人口を抱えた江戸を支えたのが
「物流システム」があり、船もありマーケツトもある
大阪を「天下の台所」として商売の町にしてしまったのである。

その上「士農工商」なる身分制度を確立させ、「侍の町江戸」から
「商人の町大阪」を見下ろした存在としたのである。

【士農工商ともに天の一物なり、、天に二つの、道あらんや】と説き
皆、社会のために役立つっていると【士農工商】の愚かさを講義する
京都の呉服屋の番頭をしていた「思想家」の「石田梅吉」が出て
商人について次の様に言っている。
【真の商人は 先もたち 我々も立つ事を 思うなり】

儲けることも大事だが、本当の商人は、まずお客のことを考える!
そうすれば”利他と利己の両方が立つ。
己を利することと、他人を利することは、車の両輪であるべき!
こう断言している。

大阪の低迷はこんな簡単なことを忘れているのが原因でしょう。

大阪人は、この「石田梅吉」の言葉を思い、大いに発奮し、
商売の原点に戻ることが、大切ではないでしょうか!

堀井良殷氏講演録より


【紘一郎 感想】

多くが、利益追求を強く思い、いつに間にか「東京」に進出し
「本社」も東京に移転し、バブルに飲み込まれている「会社」や
そして「人(芸能人に良く見るケース)」も山ほどある。

関西の「良いもの・古いもの」を見捨てて
目先の欲で関西を去るものを見てきた。

「剣によって立ったものは剣に滅び”利”のみを追求するは”利”に滅ぶ」

●人間は”利益を追求する為”に生まれてきたのではない!



茶の湯と水・千 宗守師講演会より・安田紘一郎雑記張

2009-09-01 13:25:07 | Weblog
「茶の湯と水」講演会より
講師
【千 宗守師(武者小路千家14代家元)・(財、官休庵 理事長)】

「茶」はどこの国でも「チャ」とか「テイ」と発音する事を
考えてみてもわかるように、もともとは一箇所(中国・ミャンマー)
できたものであろう。

私達はよく「日常茶飯事」と言う言葉を使うが、
この「ご飯・米」と「茶」の「茶飯」の歴史は全く違い
日本では「米は2000年」の歴史があるのに対して「茶は800年」
の歴史しかない。

飯(米)は永く平穏であるが、「茶」は短い歴史の中で競う
インパクトのある存在なのです。

「茶の湯」は600年で「茶道」は江戸時代半ばからの
 200年の歴史です。

「茶事」は懐石料理全てを意味し、酒・料理を楽しみ、終わり
休憩後の「濃茶」を飲んで、その後の「薄茶」まで「4時間」を
かけていただき、使う「道具」も5人で「1000点」以上もあり
「茶の文化」は「総合芸術」で「5感」を全て使い、
西洋の「聞く・見る」文化とは基本的に異なります。

中国の雲南省から2000年前に伝わったと思われる「お茶」は
805年「遣唐使」として大陸に渡った「最澄・空海」が帰国し
真言宗・天台宗を布教していく訳ですが、
同時に持ち帰った「茶の種子」も広めて行きます。

「最澄」は比叡山の麓で出入り口である「坂本」に植えました。
それが坂本にある、日本最古の茶園「日吉茶園」です。
以後、それが「宇治」へと移り「宇治茶」となっていく訳です。




「お茶」は「薬」として重宝され、仏教の修行中の「眠気覚まし」に
活用されたことを思えば、寺院中心に広まっていったのが解ります。

815年には「嵯峨天皇」が「近江唐崎」に行幸のさいに「僧永忠」が
「天皇」にお茶を差し上げた事が「日本後記」にあります。

894年「菅原道真」の建議により「遣唐使廃止」となり
以後、「宋朝」の時代まで交渉が途絶えます。

日本では多くの文化が「室町時代」に繁栄しますが「茶」も
同じように繁栄を続けて「抹茶文化」としていきます。

中国では「宋の時代」に「抹茶」の文化は終り、「烏龍茶」や
「ジャスミン茶」などの「茶文化」と変わっていきました。


その後日本での「茶の文化」は「文永の役」や「弘安の役」など
紆余屈折経験しつつ、「安土桃山時代」の英雄「織田信長」と
「豊臣秀吉」によって花開きます。

1537年に「豊臣秀吉」が誕生した年に「千利休」が
初めて「茶の湯」の歴史に登場致します。




「利休」のお茶はなぜ旨いのか!
それは「利休」は一番良い「茶」を使い、
どこで「茶会」をしても必ず「水」は「京都」から
取り寄せる、気遣いをしたからです。

1585年、秀吉は関白任官のお礼として「茶会」を開き
「正親町天皇」お招きし「利休」を補佐役としました。
その際「朝廷」より「利休」の号を賜りました。

それは「利休」が「秀吉」から「切腹」を命じられた
の1591年の「6年前」のことでした。

歴史をみると「京都」から「鎌倉」へ移った時代、そして
1600年以降は「江戸」に中心が移り、明治には「天皇家」
まで「東京」に移られましたが、「お茶」の本家だけは
「京都」から出ないのです。

それは「お茶」の基本は「水」にあり、全国いや世界中の
どこを探しても「京都」の「水」に勝る「水」は無いからです。

それを一番知っていたのは「利休」でした。

次回講演会ではその「京都の水」についてお話したいと思います。
有り難う御座いました。


【紘一郎雑記帖】

 この千宋守師の講演を聞き次の話を思い出しました

織田信長が「堺」に行った際「利休」に茶室に招かれました。

【信長】が茶室に入ろうとするが【入り口】が小さくて入れません。

信長ー【おい、利休!入り口が小さくて入れないぞ!】
利休ー【天下人様、腰をかがめてお入り下さい】
 信長は腰をかがめて入ろうとしましたが「太刀」が邪魔です。

信長ー【おい、利休!太刀があたって入れないぞ!】
利休ー【そのお腰の物を、隣の「森蘭丸様」にお預け下さい】
 信長は太刀を「蘭丸」に渡して入室しました

信長ー【利休よ!茶はたいそう面倒くさいものだな!】
利休ー【外に居た方は「天下人様」、
    茶室にお入りになったのが本当の「信長様」です。】

●古い物や文化を破壊してきた信長はこのとき
 「お茶」の文化に気づき、以後大切にしてとの話を思い出しました。