終戦の思い出
2016/08/15
昭和20年8月15日に、私は国民学校1年生でした。
小倉の西小倉小学校に4月に入学しましたが、6月には空襲が激しくなり、住んでいた菜園場にはB-29が墜落することもありました。深さ5m直径20mくらいの大穴が開いていました。 夜は、大抵、防空壕で寝ていました。 近くの愛宕山(小倉高校の裏山)には、高射砲陣地があり、昼間子供が遊びに行くと、暇なのでしょう、兵隊さんは良く相手をしてくれました。 高射砲は、弾を飛行機に当てるのではなく、高度を測定し、その高さで爆発させると、弾の破片で飛行機を傷つけるなどと習いました。
6月には、疎開と言って、家を売らされ、防火帯とされ、田舎に引っ越しました。
山口県の西市というところで父の生まれ故郷です。
西市国民学校は、運動場は全部畑になっていました。サツマイモが植えてあり、1年生の仕事は、芋の葉をとることでした。100本ごとにひとくくりにし、50くくりくらい作りました。芋の葉は、食料として町で配給になるのだと、大事な仕事だと強調されました。
小月に航空隊があるからでしょう、空襲警報が田舎でもよく鳴りました。
そうすると授業は裏山で行われ、遠足気分で楽しいものでした。
飛行機が山に落ち、子供たちは、防弾ガラス取りに行きます。防弾ガラスはプラスチックの一種でしょう、机に擦り付けると、甘い良い匂いがするので人気でした。
紙がないのでしょう、1年生の試験や作文・お絵かきは、上級生の試験用紙の裏紙です。
4年生の試験答案紙が配られ、その内容を見ると、1年生にはとても難しく、4年生はすごいもんだと尊敬したものです。
8月15日は、快晴の暑い日でした。 祖父が町内会長していたので、近所の人20人位が家の裏でラジオを聞きました。あまり良く聞こえず、誰も何のことか分からないようで泣いたりする人も記憶にありません。
家に入るのに、顔を洗えと言われ、井戸水で洗うととても冷たく目が覚めた気分だったのを覚えています。
すぐに進駐軍が田舎にも来て、武器の回収です。河原に鉄砲・刀が山積みされ灯油で燃やされ、みなひん曲がったスクラップになりました。
ジープが神社の石段をそのまま登ったと評判でした。
秋の祭りは、華やかでした。どこにこんな人がいるかというように雑踏でした。
2016/08/15
昭和20年8月15日に、私は国民学校1年生でした。
小倉の西小倉小学校に4月に入学しましたが、6月には空襲が激しくなり、住んでいた菜園場にはB-29が墜落することもありました。深さ5m直径20mくらいの大穴が開いていました。 夜は、大抵、防空壕で寝ていました。 近くの愛宕山(小倉高校の裏山)には、高射砲陣地があり、昼間子供が遊びに行くと、暇なのでしょう、兵隊さんは良く相手をしてくれました。 高射砲は、弾を飛行機に当てるのではなく、高度を測定し、その高さで爆発させると、弾の破片で飛行機を傷つけるなどと習いました。
6月には、疎開と言って、家を売らされ、防火帯とされ、田舎に引っ越しました。
山口県の西市というところで父の生まれ故郷です。
西市国民学校は、運動場は全部畑になっていました。サツマイモが植えてあり、1年生の仕事は、芋の葉をとることでした。100本ごとにひとくくりにし、50くくりくらい作りました。芋の葉は、食料として町で配給になるのだと、大事な仕事だと強調されました。
小月に航空隊があるからでしょう、空襲警報が田舎でもよく鳴りました。
そうすると授業は裏山で行われ、遠足気分で楽しいものでした。
飛行機が山に落ち、子供たちは、防弾ガラス取りに行きます。防弾ガラスはプラスチックの一種でしょう、机に擦り付けると、甘い良い匂いがするので人気でした。
紙がないのでしょう、1年生の試験や作文・お絵かきは、上級生の試験用紙の裏紙です。
4年生の試験答案紙が配られ、その内容を見ると、1年生にはとても難しく、4年生はすごいもんだと尊敬したものです。
8月15日は、快晴の暑い日でした。 祖父が町内会長していたので、近所の人20人位が家の裏でラジオを聞きました。あまり良く聞こえず、誰も何のことか分からないようで泣いたりする人も記憶にありません。
家に入るのに、顔を洗えと言われ、井戸水で洗うととても冷たく目が覚めた気分だったのを覚えています。
すぐに進駐軍が田舎にも来て、武器の回収です。河原に鉄砲・刀が山積みされ灯油で燃やされ、みなひん曲がったスクラップになりました。
ジープが神社の石段をそのまま登ったと評判でした。
秋の祭りは、華やかでした。どこにこんな人がいるかというように雑踏でした。