福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

“女子・こどもの視点”だから 冊子で“男性の視点寄り”の世界観を得たい・知りたいと思ってます

2013年04月05日 19時52分00秒 | 子どもに まちの歴史や その魅力を伝えるには・・・?!
今日の予定の1つだった“遅咲きの桜”を見に行こうかな・・・というのは 結局行きませんでした。

午後の用事のために出かけて、そのあとの時間によっては写真を・・・のつもりだったので、
なんだかもう なんとなく空の色が、桜の花の色に合わないかな、と思ってしまって。

明日あさっての春の嵐で、遅咲きの桜の花びらも、もうとんでしまうんだろうなとは思ったんですが。
せっかくなので、青い空と 淡いピンクの花の組み合わせを撮りたかったんです。

遅咲きの桜の花は、来年の楽しみにしたいと思います
 

結局 写真を撮ろうかと思っていた時間には 本屋さんにいきました。

この2冊を買いました。

偶然 見つけたんですけどね。
フォーラム福岡の この号は、今までのこのまちの歴史と、これから進むべきこのまちの在り方とが わかりやすくまとまっているような気がして。

それに、どうしたって、私の視点って“女子&こども”の視点になっちゃうんで、
男性の視点寄りに書かれたものを読んで、その世界観を得ること・知ることって、大事なのかもなーと思うんですよね・・・。

どこまで理解がついていくかは、また別問題ですが

理解すること、読み深めることについては あわてずいきたいな。
ちょうど こもりっきり状態を控えているので、こま切れ時間を生かす形で、この冊子、読んでいこうかなーと思います。


そうそう・・・今まで このまちのことを理解するために参考にしていたものの一つは・・・これ↓。

偶然図書館で資料見つけて、コピーとったんですけど、
市政100周年の時にまとめられたものなので、そのあとの20年ちょい分がないのが・・・
でも、この説明には、“日本や世界の主なできごと”がのっているので、いろいろ知るのには便利なんですよねー


九州トラベルの冊子のほうは・・・・・
以前に買っていた、九州・沖縄の週末女子旅の雑誌と 比較しながら読んで しばらく楽しみます


似たものを取り扱っていても、視点や切り口が違うと、全然中身って違うから~♪

この2冊↓も そうですけどねー

同じ“戦国武将”を取り扱っている冊子なんだけど・・・男性目線と女子目線、全然違っていて、そこがまた 面白いです



まちまなびに費やせる時間・・・・
ちょっと来週から再来週いっぱい、
もしくはもう少し先まで・・・長ければ数か月先まで・・・・・・・
まちまなび自体は 少々小休止になりそうで、
ちょっと 今までと同じようには まなびの時間、まとめの時間 作れないだろうなと思っていたけれど、
かなりのこま切れ時間でも 読みやすそうな冊子も手に入ったし。
小休止前のまちまなびとしては、鴻臚館跡のこと、「?」が「!」になって スッキリしたし。

なんだかいい感じにまとまってきて、自分なりに 納得して 緩やかにできる状況が整ってきたので、よかったです

9世紀の 国と このまちの在り方から、“開かれた 交流のまち”としての特徴の積み重なりを感じます

2013年04月05日 09時45分38秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(~2012年)
昨日、学習マンガと表(出てきた陶器を貼ったもの)を照らし合わせて、確認した内容を
年号を追いかけるかたちで 整理してみると・・・・・。



804 第18次遣唐使 学問僧 空海・最澄ら入唐
(838-804=34年)
838 鴻臚館の初見、学問僧 円仁 入唐(行った最後の遣唐使)
(851-838=13年)
851 僧・円珍 博多に来て、唐商船での渡航の機会を待つ
   ※約1年2か月後にかなう(853?)
(858-853=5年)
858 入唐僧 円珍、唐商人の船で帰国し、鴻臚北館門で歓迎の宴、誌をよむ
(894-858=36年)
894 遣唐使を廃止

※最後の遣唐使から 遣唐使の正式中止が決まるまでの年数 894年-838年=56年

56年って、長いですよね。
それだけ長い時間、正式な遣唐使ってストップされていたんですね。
今の時代で56年という年数を考えても、結構長い年月だと思うんですが、
当時の56年というのは、もっともっと 長く感じられるものだろうなと思いました。


結局。

入唐僧・円珍さんが戻ってきた858年から894年までの36年の間・・

いや、それよりも もう少し前から・・・・ですよね。

やっぱり、学問僧・円仁さんが行った838年以降、
最後の遣唐使から 遣唐使の正式中止が決まるまでの56年の間・・・
国が正式に遣唐使を出さなくても、
古代・博多の鴻臚館で商取引が行われて、日本と唐との 人やものの交流は途絶えずにいたんですよね?


中唐から晩唐時代の陶器のかけらが、掘った時に結構出てきたんでしたよね。
イスラムのガラス器や陶器も、このあたりの時代のものでしたっけね?


いやぁ~、改めて追いかけてみると、古代・博多の鴻臚館は “大陸との接点・交流の場”という、重要な役目を 本当に果たしてきたんですね。

そういう場所がある このまちって、
やっぱり『海と海の先にある国に開かれた、交流のまち』としての特徴が イロイロ積み重なっているんだろうなと思いました。


昨日今日で 数字でも確認し、絵と写真でも確認し・・・・・なんだかすっきりしました!
いやー、“開かれた、交流のまち”としての歴史を知るって、やってても楽しいですね
少し時間が空くかもしれないけれど、今回「そうなんだ!」って気づけたこと、ちゃんと地図づくりしよう!