Le modèle nu de l'étudiant de l'image
『 命をかける覚悟がないなら、政治家なんかになるなよ 』
フランシーヌ (※1) と同い年の、娘がこういった。
仙谷由人は全共闘の社会主義同盟,いわゆるフロントの出身で,安田講堂では弁当運びばかりしていてゲバルトには参加しなかった日和見主義者です(笑) その証拠にひそかに(笑)司法試験の受験勉強を続け,合格と同時に中退し学生運動からも撤退した
岩下俊三のブログ
素朴に毛沢東主義なんぞを信じている、政治や歴史のオンチが、日本の指導者では、まことに危うい。民主党から出た、西岡武夫参院議長に、『』と言われてしまった仙谷由人や菅直人に覚悟なんか、あるわけがない。棚ぼたの、あんころ餅をつかんで離さない、無恥蒙昧の徒とはまさに両名のことを謂う。
支那は悪しき隣人で、法治観念のない軍隊ヤクザの国、ましてや「戦略的互恵関係」なんぞは、マヌケな貢ぎ物だ。このまま、日本の資本と先進技術を支那に、渡し続けていたならば、彼らは本当にステルス戦闘機 『殲 20』 を完成させる、可能性もある。自動車だけではなく、航空機産業も、支那と「戦略的互恵関係」などと云いだしたならば、ジェット・エンジンの技術も流出しかねない。支那に対して、『中国様』なんぞと、妙ちきりんな敬語を連発するアホウが、これ以上権力の中枢に居すわれば、なにをしでかすか判らない。
尖閣諸島防衛の国事よりも、自分たちの利益を、優先させる財界は、日本を危うくさせてきた。『殲 20』は、自衛隊の軍事演習で尖閣防衛の意思を鮮明にした日本などに対する、ブラフ=根拠のない脅しではあろう。軍事技術を輸出できた方が、低コストになるナンテェ与太を言っていると、低コストで易々と支那にステルス戦闘機を作らせることにもなりかねない。水面下では、日本はすでにこの技術を完成させている。
自民党をはじめとする野党は、仙谷のくびは何としてでも取らねばならない。
菅直人は無能故、オペレーターがいなければ動かない木偶人形。 外交でも作文の棒読みだ~
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やはり、これからどんだけ莫迦をやるかわからない。やはりこの人も、辞めてもらわねば。 ポチっとお願いします。
岩下俊三氏は、東大闘争当時の仙谷由人をよく知る人物で、上出のブログをなさっておられる。わが郷の「仙谷由人は弁当運びの日和見主義者」などの出典は、此処である。関連記事は、http://blog.livedoor.jp/shunzo480707/archives/3041279.html#comments に投稿されている。コメント欄もあわせて読めば、仙谷の人となりが判って、興味深い。
ネット右翼的な感覚からすれば、仙谷由人=全共闘となるのだろうが、これは正鵠を得ていない。 わが郷でも、天国と地獄 仙谷の地獄が、口をあける ですこし書いたが、全共闘運動は左翼共産主義運動ではなかった。「極左暴力集団」とは、マスコミが勝手に張った、レッテルであり真実を表していない。反サヨクそして、米国のベトナム侵略反対が、大括りできる共通の目的で、最大の成果は沖縄の施政権返還である。最近ではキルギスの政変は、暴力的なデモから始まっている。とうじの政権を転覆させている。戦後レジームのマスコミは絶対に書かないことではあるが、当時アメリカは、日本の自民党政権が転覆されるのを、現実的リアリティをもって危惧していた。それで、米軍基地は残すが施政権は日本に返還することで、反戦・反米・沖縄返還闘争のガス抜きを計った。それほど当時の反安保・ベトナム戦争反対・沖縄本土復帰闘争は、激烈であった。
そして今の日本の課題は、その延長線上にあることを知るべきである。反安保は本当は、右翼が行うべき、最大の課題である。しかし、東京裁判において、その中心になるべき軍人や政治家はほとんどが、絞首刑になるか、その他の粛正をうけてしまった。アメリカ軍の戦後統治に於いて、右翼とくに軍人は徹底的に、弾圧された。しかし、左翼は一定程度自由が与えられていた。それで本来は、民族自立・日本再軍備とすべき、その情熱は、左翼の運動の中に紛れ込んでいった。60年安保当時の社会党や共産党は、反安保はポーズにすぎなかった。実際、日本の再軍備を真っ先に否定したのでは、日本のリアリティのある自立など、うたかたの夢であった。そのような擬制の左翼に飽き足らない、若者たちが、日本共産党や社会党を決別して、新しい戦いを生み出していった。「反帝國主義」と「反スターリズム」が思想的な潮流であった。「反スターリズム」とは、今で言えば、反サヨクである。
「反帝國主義」と言うのがくせ者で、ここに新左翼運動の、コミンテルン的な限界があった。戦前の日本の左翼運動は、コミンテルンの強い影響下にあった。モスクワ中央からの日本への指令は、「天皇制打倒」であった。この時代後れの、フランス革命をアナロジーした命題は、アメリカをも色眼鏡で見ることとなった。「アメリカ帝國主義」っていったいナニよ、とは思う。アメリカには、帝王も国王もいない。アメリカをして日本に戦いを挑ませたものは、欧州の金融資本主義である。その背後にはユダヤの野望が隠されていた。日本の戦前・戦後の左翼運動は、このユダヤのワナにはめられて、本当の敵が見えなくなっていた。本当の敵はユダヤの金融主義であり、その手先のアメリカ政治であった。が、ユダヤは国論を分断するために、ボンボン・嬢ちゃんの自称・知識人に「共産主義」の幻想を吹き込んだ。
であったが故に、左翼の運動はアメリカの実態がよく見えていない。アメリカは欧州・ユダヤの金融資本の出店であった。冷戦構造のなかで、アメリカの金融資本は、軍産の利益を積み重ねて、欧州を凌ぐようになった。
全共闘運動は、東大の医局の待遇がどうのとかから端緒は開けたが、そのようなちいさな問題よりも、ベトナム戦争反対と、アメリカから自立できない自民党政治に対する、戦いに昇華していった。ざっと当時の様子をなぞってみれば、仙谷由人は全共闘運動にあこがれていたていどの日和見主義者であったことが判る。これは有り体に言えば、結局かれは、サヨクであったにすぎない。真に日本の自立、当時で言えば非道なベトナム戦争に対する反対、このために身を挺して戦わないものは、ポーズだけのサヨクにすぎない。当時の言葉で言えば、スターリン主義者であった。だからこそ彼、仙谷由人は「毛沢東バンザイ」などととぼけたことが言えるのだ。かれは共産主義者などとは言えない。そもそも自称で共産主義を名乗っているもののほとんどは、本当は官僚主義者である。仙谷由人も薄汚い、民主党の党官僚である。
政治は民衆の支持を集めてナンボ。であるから詳細な理屈なんぞは、屁の役にもたたない。『自衛隊を暴力装置と言った』こういった、一般ウケすることで押しまくって、野党が参議院で、仙谷由人の問責決議を押し通したのは、正解である。
いやしくも、議会民主主義を標榜する、民主党であるならば、参議院の議決は尊重せねばならない。
自党から出た、参議院議長の西岡氏に、ああ 『 菅首相と仙谷氏を酷評「国を担う資格なし」 』 まで言われてしまった。
如何に厚顔無恥な菅直人でも、ここまできたら 仙谷の首をすげ替えるしかない。
ここまで追い込まれてきた。 無能で恥知らず、ザマアではある。 そう思う方
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本日の話題の記事
仙谷の醜い そっくびを たたき落とせ 【わが郷】
Francine Lecomte ♪ (※1)
フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日「フランシーヌの場合」が出来た。
本日は 62位です。m(_ _)m => ランキングを見る
アクセスの記録 2011.01.07(金) 1856 PV 578 IP 900 位 / 1518354ブログ
過去記事などの ご紹介
本日は懐かしい、40年前の昔話です。時代は変わり人も変わります。
家人からは、オヤジはゴリゴリの右翼だとか言われてます。
しかし当時は、いまのネット右翼からみれば、極左のノンセクト・ラジカルでした。
絵描きになるのを諦めたのは、大学受験のころだった。小さな子供のころから画家になると心に決めていた。受験を前にしてこれは当然にも発覚する。発覚というよりも、その本気度が表出してしまう。それで無謀な夢であると父親に諭された。父も絵が好きであったらしく、ユトリロの話を良くしてくれた。これは幼子のころからの話で、責任は彼にもあるのである。パリの街角を描かせたらそれこそ素晴らしい作品になり、今ではその価格はとてつもなく高い。しかし、絵描きが評価されるのは死んでからで、生前は悲惨な生活を送るのが常であると、そうさとされた。【フェルメール】
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えた いのちひとつ
フランシーヌ
この歌は3ヵ月後の6月に発売された。新谷のり子さんのデビュー曲であるこの歌は80万枚を超える大ヒット作となった。以後、新谷のり子さんは反戦、反核、反差別をテーマにコンサートを続けておられるという。思えば、この曲が大ヒットした1969(昭和44)年は、学生運動がもっとも盛り上がったときであった。ベトナム戦争、沖縄闘争のうねりと共に時代の心を代表し、多くの人々の支持を得た。恐らく、今の50代以上の人には、忘れられない曲ではないだろうか。
1960年代は、後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。全共闘の学生達は大学当局との団体交渉(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。そして、ついに、1969(昭和44)年1月、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した、「東大・安田講堂事件」が起こった。全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。18日早朝、守る学生は400人、攻める機動隊8500人。300台を超す放水車、投光車、防石車、そしてへりが投入される。東大・安田講堂の屋上からは何百本の火炎瓶が投げ落とされる。上空警視庁のヘリコプターからは、催涙弾、地上からも猛烈な放水とガス弾。空陸一体になっての攻撃が始まった。まるで戦争である。大学紛争のシンボル、東大・安田講堂をめぐる攻防戦は実に35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した。逮捕者は、東大構内で633人、安田講堂で377人(東大生は20人)。(朝日クロニクル・週間20世紀より)。幸い、学生・機動隊とも負傷者は多かったが死者はなかった。この安田講堂(砦)の落城が、全共闘運動の分水嶺だった。この東大全共闘を支えたのは、団塊の世代であった。「出入り自由の柔軟な集合体」の全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったが、この柔軟性が新左翼各派の付け入るところとなり、東大闘争を複雑にした。党派の思惑に振り回され、非妥協を競い合った挙句武装闘争というスタイルが前面に出てしまった。このあと、大学紛争は関西を中心に全国に飛び火する。その数はピーク時77校。だが、秋には、1校また、1校と正常化した。それは、安田講堂事件後、強行採決された大学臨時措置法が圧力となり、紛争が長引くことによる「閉校」を恐れる大学側が、積極的に機動隊を導入したからである。
安田講堂事件の終焉後、学生達の間ではシラケが進行していたが、一部のセクトは過激化、武装化への道を進み赤軍派など過激なグループが出てくる。そして、赤軍による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍によるリンチ事件、あさま山荘事件、へとつながっていくのである。
思えば、1969(昭和44)年のこの年は、経済が成長し、人々の生活と意識が大きな変化していた一方で、日本の政治・経済・社会はもちろん、水俣病に象徴される環境公害被害など、すべての面で大きな問題を抱えていて、その矛盾が噴出した年でもあった。この年を特徴づけるものは、何と言ってもデモと集会で、一番よく知られているのは、ベトナム反戦・反安保をかかげる集会やデモである。その先頭を走ったのは、青年労働者であり、学生だった。学生たちは街頭で政治的課題で行動しただけではなく、自分たちの問題である教育制度や中身の歪み、学歴中心社会の問題や旧態依然たる学問の現状に激しく厳しい批判を投げつけた。全国の大学や高校で学園紛争が生じた。その象徴的なものが、前年の日大紛争であり、この年の東大・安田講堂事件であった。
この年、映画では、高倉健の任侠もの、藤純子のお竜さんが大流行。網走番外地の健さんも 緋牡丹のお竜さんも裏街道をゆくはぐれ者。はぐれものが受けた時代だった。安田講堂内の学生たちは、敗北を承知で機動隊と対決し、火炎びん、催涙ガス弾が飛び交うこととなった。当時の加藤一郎学長代行の最終提案は学生達の要求を大幅に取り入れたもので、受諾すれば一応の勝利になるものなのに、「東大紛砕」を叫ぶ学生達は恐怖と戦いながら安田砦にとどまった。そこには、玉砕の美意識見たいなものがあった。今の人の大勢や権力や高度成長や生き残り競争を支配する価値観からすればまことに、馬鹿な生き方に見えるだろう。しかし、任侠の封建的な世界と先鋭的な革命の理論をもつ若者の行動には、抑圧された者が止むに止まれず決起したときには、美しく負けようといった精神につながる面があっったように思われる。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/48b242487e2d82ab97d721db7cb9ce72
(わが郷にて、若干の編集 「映像添付」 などを加えてあります。)