絵描きになるのを諦めたのは、大学受験のころだった。小さな子供のころから画家になると心に決めていた。受験を前にしてこれは当然にも発覚する。発覚というよりも、その本気度が表出してしまう。それで無謀な夢であると父親に諭された。父も絵が好きであったらしく、ユトリロの話を良くしてくれた。これは幼子のころからの話で、責任は彼にもあるのである。パリの街角を描かせたらそれこそ素晴らしい作品になり、今ではその価格はとてつもなく高い。しかし、絵描きが評価されるのは死んでからで、生前は悲惨な生活を送るのが常であると、そうさとされた。
後になって知ったのだが、絵で喰うにはそれなりの段取りがあった。一般的には美術学校に入り先生につく。この先生は大学の俸給が収入のメインで、絵が売れる先生は少ない。売れてもそれほど高くはない。中には売れる先生がいるがこうなるには様々なハードルを超えて行かねばならぬ。後年になってからは「父の謂うとおりにして」良かったと思う。前近代的な徒弟奉公にはとても耐えられない。ましてや売れそうな「薔薇」の絵や、「富士山」の絵ばかり描くのは まっぴらである。
社会生活が長くなると様々な情報に接するようになり、画家という生き物の実態が見えてくる。日本画壇の重鎮にも何度か会う機会があった。偉い教授と謂うよりも、画家がたまたま先生もやっているという感じであった。俸給で食べて住んで、そして絵の具を買う。売れるか売れぬかは亦別の世界の要因がある。金持ちが買う絵というものは一種の手形である。換金性のあるものが、流通性のある絵である。
日本にはギルドはないが、似たようなものはある。
フェルメール展に昨年も行ったが、今となってみれば『青いターバンの少女』の印象ぐらいしか残っていない。この作品だけ特別な扱いで、スポットライトがあてられていた。画面にはニスがひいてあるのか妙にテカッていた。それでも却ってそれが少女の溌剌した様子を強調していた。
好きな絵は《小路》と《デルフトの眺望》他にもたくさんあるが今回はこの二点に絞る。彼の作品はとてつもなく時間が費やされているそうだが、確かにそれは納得できる。細密な描写もさることながら、幾度となく塗り重ねられた筆の跡には、当時の時間も塗り込められているようだ。