そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

悟るということ

2008年10月16日 | 字余り
10/16
今の時代、脳科学の研究も進歩してきており2500年前に釈迦が達したという悟りの世界がどんなものだったか、説明できるのではないか。数学が解ける、哲学的な問題が解ける、自然界の色々な現象が説明できる、このように問題が解けてその結果は普遍的な学問として残されてきたと考えて良い。よく説明できないが学問として残されてきたものは、極々ちっぽけなもので分からないことだらけなのも事実ではあろう。それでは、釈迦の悟りは学問的な成果としてどんな形で残されてきたのか。幾多のお経や教派の教えは、学問的な証拠なのか。それはさておき、まず釈迦はどんな問題を設定して悟ったのか。
出家する時の釈迦は、29才ですでに妻子がいた。この二人を捨てて出家することになるが、二人を捨てるより重要な問題、当然父も母も捨てている。将来、王となるべき地位も捨てるほどの問題が釈迦にはあった。それは何か、人間として普遍的な、根元的な問題であることは確かである。私たち凡人でさえ、理屈を考える年代になると思い通りに行かない自分に苛立ち、どうしてできないんだろう、苦しさから逃れるためにはどうすれはいいんだろう、欲望を遮断し自己を統制するための方法は、こんな俺は何故生まれてきたんだろう、などと考えるものである。釈迦も同じようなことを考え、それが最大の関心事になったのだろう。彼は少しナィーブだったが強靭でこだわる性格だったのかもしれない。ある種の執念をもって家を出た。行をするために家を出た。行をすれば問題が解けると考えたのだ。その問題とは『人間は何故苦しいんだろう』ということではないか?いささかできすぎの話だが『四門出遊』という言葉がある。東の門から出ようとすると老人が、南の門から出ようとすると病人が、・・・北の門には僧侶が通りすぎるところであり、北の門から城を後にしたというものである。これは出家の決意というよりもまわりはみんな苦ばかりを言いたいのではないか。釈迦はこの苦を解決するために家を出る。さて、家を出てから6年後、35才で釈迦は悟る。毒をもって毒を制すではないが、最初は苦行を行った。苦を知るためには苦行をすればよい、ということか。
少し長くなったのでとりあえず終わることにする。今回は問題の設定ができたので、次ぎは解法に入りたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする