暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

最後の荷物

2018年04月06日 17時55分16秒 | 日常

 

歯医者から帰宅すると玄関に荷物が届いていた。  日本に帰省していた時、2月の4日に大阪日根野の郵便局から送ったものだ。 別段急ぐようなものでもなかったので船便で送ったのだが、それが今着いたのだからこれには約2か月かかっている。 このようにしてゆうパックで日本からものを送ることはこれが最後になるのだと思った。

自分たちに子供ができてから定期的に日本からこのようにしてものが送られてきた。 こどもの服であり日本食であったりした。 定期的にオランダにこのようにして送るのであるから母が郵便局に電話するとうちに局員がこしらえた荷物をとりにきてそこで清算する。 そして次回の為に箱を持ってこさせるのだが上客なのだから箱は只で呉れるのだとも言っていた。 しょっちゅう日本に帰省できるわけでもなかったから親不孝をすこしでも挽回するためにほぼ毎週電話でこちらの様子を伝えていたけれどその40分か1時間の通話の殆どが母の周りの人々の様子のことを向うが一方的に話し、こちらはアアとかウウとかいうだけのことが多かった。 電話代を安くするためだといって特別な電話番号を契約していてほとんどが向うからかかってきた。 昔は航空便と船便の二種類でまだサル便はなかったけれど遅いものでもいいと言っても航空便で送ってきた。 娘が出来た時何段もある雛飾りのセットを航空便で送ってきたのには驚いた。 それも言われるままに知り合いの日本人家族を招いてひな祭りをして祝ったのだがちゃんと雛飾りをしたのはそれが最初で最後だった。 27年前の話だ。 

自分でこのようなパックをいくつも作り送ったのは8年前になる。 母が一人で住んでいた借家がゴミ屋敷となり痴呆が始まっているのに驚き恐怖して慌てて走り回り介護付き住宅を見つけてそこに住まわせそのまま放ってあったうちを整理するのに夏休みの2か月間帰省してひとりでこつこつと捨てるものを棄て、貰ってもらえるものを親戚に配った日々を思い出す。 初めはゴミの山のなかで呆然となったものの2か月かかってやっと滑り込みセーフでやり遂げた。 そのとき甥の軽トラがなければそんな作業はできなかった。 市のゴミ焼却場に定期的に家具やゴミを持って行き、市の事務所に食器・台所道具類、繊維類などを運んだ。そして自分の本や雑貨に母親の手紙、写真の類などをオランダにこんな梱包にして幾つも送った。 そのときに近所の小さな郵便局に何度も3つ4つまとめて軽トラで持って行きそこからオランダに送っていたので顔を覚えられていた。 それにそこの職員が母のもとに定期的に送る箱を取りに来ていたので家がどのようになっているのか話さなくとも分かっていたようだ。 

ゴミ屋敷は整理して家主に家を返したものの介護住宅に入った母の元には一人が住めるような家具や衣類に雑貨が沢山あった。 ゴミ屋敷から介護付き住宅に引っ越すときは自分は仕事があったのでその用意、実行は叔父叔母夫婦に任せてあった。 去年母が亡くなった時自分も生きるか死ぬかというような手術の後で葬式はおろか部屋の整理にも行けず住んでいた部屋を施設に返すのに整理をするのも全て叔父叔母に任せた切りだった。 電話でどのようなものか聞いていたし何度もその部屋には行っていたのでどこに何があるか分かるもののそれでもものが溢れて捨てるものが殆どだった。 電気製品や家具などは使えるものは使ってもらい、本、手紙、写真の類は残してもらうよう手配した。 1月の末日本に帰省した時叔父のうちで見せられたものが今ここに入っている写真、手紙、衣料品などだ。 雑貨もいくつかあるかもしれない。 9.1kg、11.5kgの二つの箱の内容物表示のところには写真、古着としか書かれておらず、それは自分が手書きしたものではあるけれど実際中に何をいれたか憶えていない。 大きな箱に4つも5つもあった整理されるべき最後のものを家族4人で振り分けたのだが自分には写真と書類だけがあればいいと思っていたのが家人や娘は衣料を選び、息子は雑貨に興味を 示し手早くまとめ、後は処分してもらった残りがこうなったので実際中に何が入っているのか知らない。 いずれにせよこれがこのようにして日本から送られてくる最後の荷物になることは確かだ。 これで日本との縁はもうなくなるのだということを象徴しているようだ。