暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

Les Invasions Barbares; 見た映画 Feb.07 (1)

2007年02月03日 10時44分10秒 | 見る
LES INVASIONS BARBARES (みなさん、さようなら)
THE BARBARIAN INVASIONS
INVASION OF THE BARBARIANS

2004年 99分 (カナダ/フランス)


監督: ドゥニ・アルカン

脚本: ドゥニ・アルカン
撮影: ギイ・デュフォー
音楽: ピエール・アヴィア
 
出演: レミー・ジラール レミ
ステファン・ルソー セバスチャン
マリ=ジョゼ・クローズ ナタリー
マリナ・ハンズ ガエル
ドロテ・ベリマン ルイーズ
ルイーズ・ポルタル ディアーヌ
ドミニク・ミシェル ドミニク
イヴ・ジャック クロード
ピエール・キュルジ ピエール



さて、週末のテレビ深夜映画を観るとなるとテレビガイドのBBC,フランスのTV5,ベルギー局、ドイツ局、およびARTE局か、それとも今開かれているロッテルダム国際映画祭がらみで、そうだ今日同僚が日本映画の「花」という赤穂浪士にからんだ時代映画をみたときいたところで、毎晩なにか報道のあるオランダ局か、と40分ほどFMでジャズを聴きながら山と積まれた一日分の皿洗いを済ませてビールと林檎を片手にソファーに落ち着いたら、11月末の選挙で保守連合右派政権が瓦解してキリスト民主党と労働党、それにクリスチャン連合という小党の振り子が少し左に向いて中立からどれぐらいどちらかにふれたか議論のある連合政府の構想がかたまりつつありもうほぼ組閣がみえているとのニュースの後、現れたのがこの映画だ。

テーブルにおかれたテレビガイドに週末の夜となると沢山映画が並ぶ中でそれじゃあ、何にしようかなと見渡して特別の嗜好がなければフランス映画を見ることにしている。 理由はウイットと色、適度なテンポに無粋な音の洪水がないこと、概して、厭うべきアメリカ色が少ないことだ。 アメリカ映画を忌み嫌うということではないし、日常には何かと自然に目に飛び込んでくるのだから避けようはないことでもあり、自身、チャンバラ映画に月光仮面、西部劇と戦争映画で育っているのだからそれなりの恩恵も受けているということは否定できないのだし、パックスアメリカーナに反対と言う事はない。 

抗っても無駄な事は世の中何処を眺めても明白であり、それに黙々と従うというのならこの映画の趣旨の幾分かは見えないということになるのだろう。 カナダというアメリカに接し何かと屈折した土地で1960年代から若者が知的に格闘してきてそろそろ人生の終末を迎えることに当たって友人や家族その周辺の老若男女、を集めて死仕度の、話の都合上彼らの80歳前後の親たちがみえない、私と同年の生まれを主人公にした男のコメディーとなると自然と身が入る。それに、自然と、主人公の友人達と何週間かまえに日本で久しぶりに再会した、みな孫の話でもちきりだった自分の友達をも比べることとなりさもあらんというところが幾つかあった。

実際、先週も身内の中で不幸があり何週間か前に談笑した70を越えた叔父が突然亡くなるということもあり、家族とその葬儀を巡って人間模様を8時間の時差を越えて話したすぐあとでこの映画が始まって、蛮族、もしくは野蛮人の侵入とでも訳されるタイトルに期待したものだ。 案の定、自立して家庭をもとうかという子供達を残して映画では常套の息子、父親の葛藤、そのごの和解、それに死に行く父親の友人たちがそれぞれの行き越を病室に横たわる本人の周りで単なるノスタルジアとせず現在進行形とでもいうような、老人の洗練された蛮族、野蛮とでもいうべき生きることに関しての健康な執着のもたらす小さな侵入とでも言うものが若い世代とのスリあわせの中で、日没前の黄金の輝きを文字どうりそういう背景の中で見せる体裁のよい話に仕立てているのには心地よい思いをした。

このクレジットを見るついでにネットのレビューをいくつかをみたのだが、どれも短く紹介しているもののなにか消化し切れていないしものが多く、評者の年齢にしても映画の主人公の子供より下の年齢が多いのだろうとみえ、蛮族、野蛮人の意味みさえ理解していないようだし、その責も邦題の「みなさん、さようなら」とつけられた配給元の能天気に現れているのだから何をやいわん、である。 登場の老人たちが自分たちの青春から壮年期を通り越してきた思想遍歴などを語る場面では一体、観るものの中でおどれほどちゃんと理解できるものがいるのだろうか。 スノッブと一顧だにしなくてもいいのだがそれが見るもののリトマス試験紙になっていることも監督の意地悪な仕草であるのだが、もちろんこの中の老人たちはそんなことを斟酌するわけでもなくさっそうと今も野蛮振りをウイットでで示す仕組みになっているのだから、その初老人たちの少々浮わつきぶりを息子の現世利益追求の鬱屈で押さえ気味にみせる監督のバランスもみえ、またそこで人生喜劇を犯罪サスペンス的に引き締めるという目配りもつけている。

分からない、意味がもうひとつ、という素人評が多く観られた一方、ムードに流れて画に浸る者もいる素人評者の多いなかで、ではその素人評者たちには20年以上も前だろうか、ヘンリー・フォンダにオスカーを取らせたいと娘のジェーンがそのような父娘の和解を試みるという黄金の池をめぐって、というような話があったようなのだがそのシリアスさを日没時の景色の美しさを共有しているのだからフォンダものなら感動するという評が簡単にでるのだろうが、ここで喜劇にしたカナダ映画はある意味ではあと10年ほどすれば同様のスラップスティックがアメリカ映画からも出るような気がする。そういえばそれはすでに夜の9時台に女性を狙い撃ちにする民放に多く見られる、気の抜けたビールのようなアメリカ病院物のメロドラマにあだ花としてあるじゃないか、とも指摘を受けそうだし、既に病院で死ぬことを題材にした日本の喜劇があったようなのだからそれとこれが何故オスカーの外国映画賞をとったのかを比べるのも暇つぶしにはなりそうだ。