暇つぶし日記

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平成と令和

2019年04月30日 13時08分53秒 | 想うこと

 

今日平成が終わり令和になるのだと言う。 ネットの日本のニュースをみていると終わる平成とこれから始まる令和のことで一杯だった。 自分は昭和に生まれ昭和に日本を出たので平成には何の想いもなく、ただああそうかと思っただけだった。 昭和の年を数えることがもうできなくなっていたけれど平成何年なのかは忘れなかったのはたまたま長男が平成初年に生まれたからで、時たま領事館に出かけて何らかの書類に年月日を書き込むときには長男の年齢を思い出してそこに書き込むぐらいで、そのほかには日常の生活には年号が現れることもその影響もなく、だからそれには何の感慨もないものだった。

自分は天皇制はなくともいいと思っている。 オランダも立憲民主主義の王政ではあり、国民には60%以上で支持されてはいるものの自分はそれでも王政を廃止して共和制になればいいと思っている。 どんな理由であれ特権階級を持つ国は平等の精神に欠け、国民の自立・独立に何らかの影響をあたえることになる。 けれど自分はすぐに王や天皇を追放せよなり、平民にもどせといっているわけではない。 それに越したことはないのだが、それはそれぞれの国民が決めることだ。 国民がその政体を自覚しなければどんな政治形態もうまくは動かないことは歴史で明確ではあるが、そこでも権力をだれが握るのか、その権力者がどのように王なり天皇を扱うかが問題になる。 昨今見るところでは日本の権力者が天皇に接近して自分のアナクロニズム的な政治信条を押し付け、憲法に定められた規約に則って平和を希求する天皇の反発を受けていたことが明らかになり、新天皇をも巻き込もうとしているとも伝えられている。 この行為こそ日本の歴史の中で天皇が様々な局面で経験してきたことの繰り返しでしかない。 

国民は単に代替わりで浮かれるばかりでなくこのような歴史を顧み、天皇制のありかたを考えるべきではある。 これまでの保守は伝統的に天皇を奉じその精神的基盤としていたものが今の政府では、天皇の国民の平和を願う心情を自分が考える政治方針に沿うよう操作しようとしているとさえ報じられている。 メディアの殆どが現政権の監視・操作の下に骨抜き的にあるといわれ、その権力監視機能の劣化を国連関連の委員会からも警告として指摘されているようだ。 だからこの代替わりに際してメディアに踊らされた狂騒は今更とはいえ想像に難くないことではある。

天皇皇后が1990年にオランダを訪問されたときにレセプションの場で当時のベアトリクス女王と同席もし、両陛下に拝謁したこともあり、その数年後、秋篠宮両殿下とも接見はしたことはあるけれど自分の考えは変わらない。 皇室・王家の人々には何の意見も想いもない。 彼らはそのように生まれそれ、ぞれぞれの憲法の制約の中でそれぞれの役割を果たしているだけのことだ。 公式の場ではそれぞれの言動に非のあるわけはない。 人々に接し、声をかけ、人々の日々の活動を労うのが役目であるのだからそれを律儀に行う活動は重労働ともなるのは明らかなことだ。 現代における王、天皇は200年前とは違うのだ。 人は自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分で世界の在り様を規定し、あらまほしき形を希求する。 そういう意味では現実の王・天皇には悪いが自分には神も王も天皇も必要はない。

 



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