『労働と独占資本―20世紀における労働の衰退』という本を読みました。
私は現在の労働社会学・企業組織論の議論を知らないので、現在の学者達にこの本がどう読まれているか分かりません。ただ、コスト削減のために派遣・アルバイト労働という形態が多用されている現在の企業の実態は、この書が告発した労働のあり方にもう一度近づいているのではないかと思います。
この本が書かれたのは1970年代のアメリカです。分厚い本ですがメッセージはシンプルで、資本制の工場・企業では労働者自身が自分の労働について主体的に考える契機が失われ、ごく一部の経営陣にのみ組織の方向を決める判断の権限が委ねられ、大部分の労働者が―事務労働者も工場労働者も区別なく―組織という大きな機械の一部となって、組織活動のごく末端にのみ関係する労働を行います。そこでは、人間の本性と言える、主体的な思考・行動の機会が奪われ、賃金とひきかえに人間は自分の人間性を放棄して、組織の歯車となります。
労働社会学・経営学の歴史は分かりませんが、おそらく日本企業が隆盛を極めた80年代には、このようなネガティブな主張は日本企業には当てはまらないと思われたのではないかと思います。とりわけ大企業を主な分析対象とする学者には受け入れられなかったのではないでしょうか。
大企業の破綻が明らかになっていなかった時代には、多くの社員が組織がもたらす利益の恩恵を受けていたため、またそれほど正社員を大量に抱えながら組織の運営が上手く行っていると思われていたため、社員の労働のネガティブな性格よりも、日本的経営の特質に注目が当たっていたのだと思います。
しかし90年代以降に解雇と派遣・アルバイトの増加によって、企業の中枢的作業に関われる人材と、まさに「材料」としてロボットとして使われる―工場労働・事務労働を問わず―人材との間に明確に線が引かれるようになる傾向が増えている印象があります。
30年経って、ブレイヴァマンのこのシンプルなテーゼがまた(残念ながら)リアリティを帯びているのが、現在の日本企業の実態ではないかと、私は想像しています。
涼風