joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

透明なところへ

2004年08月31日 | reflexion
何か予想外のことがおき、それにショックを受けるということは、「こうあるべき」というイメージをわたしたちがもっていたのだと思います。その「~べき」は、知らず知らずに、わたしたちのこころを、そして顔を縛っていたかもしれません。このショックは、その縛りを解き放つために、やってきてくれたのかもしれません。

ショックなことはつらいし、その衝撃を無視することは、逆にからだを悪くします。でも同時に、その衝撃を時間をかけて感じきっていくと、またべつの感覚がからだにわいてくるかもしれません。

台風のあと

2004年08月31日 | 見たこと感じたこと
夕方、近くの海岸まで散歩に出てみる。台風の後なので砂浜にはゴミのような木々が散乱していた。この木たちは海から来たのだろうか。でも、それほどイヤな感じはしないです。たしかにきれいな砂浜ではないけれど、台風の後なのでちょっと砂浜に物が散乱していても、逆に「あぁ、台風が去ったんだなぁ」という感慨になるのです。

今日の海は青というより水色という感じでいつもと違うきれいさをもっていた。空も白い部分があったりして、ほんとに気持ちよかった。こんな気持ちよさを運んでくれるだけでも、台風ってありがたいなぁ。

とてもきもちのいい散歩ができたのでした。

へいわな日

2004年08月31日 | 見たこと感じたこと
台風が過ぎ去った。一転、今日は天気が晴れ渡っている。すこし生暖かいのが気になるけど、でもこういうのはとてもいいよね。

台風が最大だったときは、なにか無意識のうちに、これはこの世の終わりなのだろうか、この世界はやはり暗黒の世界だったのじゃないか、と思っていたのかも。しかし今こうやって晴れていると、やはりあれは一時的なことで、またきょうから平和な日々が続くのだとかんじられるのです。

きょうは、多くの人がなにかほっとしたような、おだやかな気持ちでいるのじゃないだろうか。ふだんの世間的な心配事ではなく物理的な台風の恐怖を感じたことで、それがすぎさったいい天気の下では、いつもより人は平和を感じているのでじゃないだろうか。

台風が来ている

2004年08月30日 | 見たこと感じたこと
台風が来たというけれど、これは本当に台風が来たみたいだ。そう、本当の台風。ちょっと緊張する台風なんて、何年ぶりだろう。この家が壊れなきゃいいけれど。

こういうときになるとちょっと思うよ、お父さんがせっかく建てた家なんだから、このまま無事であって欲しい、って。ふだんは親不孝者なのにねぇ。

愚痴っぽいかな

2004年08月30日 | スポーツ
山崎浩子さんのサイトを探してみたところ、ありました(→ここです これって、勝手にリンクしていいのかな?)。

なんだかあまりにも手作り風で笑ってしまった(すみません)。きっと御本人がすべて運営されているのでしょう。でも、内容はなかなか面白くて、もっと頻繁に更新して欲しい気もします。

山崎さんといえばクイズ・ダービーの笑えるコメントが印象にあるけど、新体操の解説を聞いていると、ああやはりこの人は専門家でありその道のプロなのだ、と感じました。あたりまえだけどね。

他でどれほど笑わせてくれようと、やはり本業の部分では専門家らしいコメントをききたい。それはどのスポーツ選手にも言えること。テレビ局も、もっと解説者やスポーツ選手をリスペクトしてほしい。スポーツに対して愛情も何も感じないようなスポーツ情報番組をつくらないでほしいのだ。バナナキングなんて誰も見たくないし、すぽるとなんてひどいよ。

スポーツ選手が純粋だというのはわれわれの勝手な期待だけど、でもテレビ局の安直なバラエティ発想にまきこんで欲しくないのだ。ファンとしては。

五輪の野球がよかったのは、プロ選手のひたむきさが見られたからだ。プロなんだから技術があって当たり前、それプラス一生懸命にやるところにファンは感動するのだ。

新体操とか解説者とか

2004年08月30日 | スポーツ
オリンピック新体操はカバエバが1位になりました。おめでとうございます。

でも、個人的には3位のベッソノバが一番よかったなぁ。予選で白鳥のような衣装を着て演技をするかに彼女を見て、うっとりしてしまいました。手足がとても長く、かつ音楽に合わせて無駄のない、それでいて華麗な演技をするので、見とれてしまうのです。

解説の山崎浩子さんも、本音ではベッソノバを押していたんじゃないだろうか。口ぶりにそんなことがうかがえました。

2位のチャシナ選手もとてもよかったです。身体は上の二人より小さいけれど、とてもスピード感と技術のきれのある演技をしていたと思います。

あと、山崎浩子さんの解説ぶりは聞いていて気持ちよかった。素人にもわかりやすく新体操の採点のポイントを説明していくれていたし、それ以上に声がとても聞き取りやすく、かつすっと耳に入ってくるような透明な声をしていて、今大会の解説者の中でも中々のものだったと思う。僕はマラソンの有森さんや増田さんの解説もまあまあいいけど、山崎さんの解説がベストかな。

NHKにしても民放にしても、解説者にはもっとボイストレーニングをするように要請して欲しい。どんなにスポーツの知識があろうと、解説者であるということは声で商売しているのだから、視聴者にとってもっと耳障りのいい声を出す訓練が必要だと思うのです。

内容的にはいいことを言っているのに、発音がぼそぼそとしていて印象がよくない解説者はいっぱいいる。そういうのは本人にとっても損なのだから、もっと声のプロとしての自覚が欲しいのです。

そう考えると、女性の解説者は概して通りやすい、つまり聞きやすい声をしているのかな。まあこれは、女性だから人に自分の意思を伝えることにおっさんたちより慣れているのでしょう。伊達公子さんの声も聞きやすい。(ウィンンブルドンの解説人は、男性もよかったと思います)

以上、とりとめのない感想でした。

文学を読む

2004年08月28日 | Book
本を読むとき、そこに書かれてあることを頭の中に貯め込もうとします。せっかく本を読むのだから、知識を蓄えて、これからの生活に活用しようと思います。本は道具で、生活のためにあります。

生活は、道具を用い、武器を用いて切り開いていくべき荒野のようです。それは未来へと向かっています。

文学を読むときも、わたしは、最初はそういう「利用しよう」という気持ちで本を読んでいます。しかし、読みすすめるうちに、文学は利用するものでも貯め込むものでもないと感じ始めます。文学とは、その一文字一文字で完結している世界であり、それを読んでいるときの私は、未来へと向かっておらず、まさにそのときの時間と同化しているのです。文学を読むことは、未来へと向けて何かを貯め込むことではなく、過去も未来もない世界へと一人で入り込んでいくものであるかのようです。

国際試合の日本人

2004年08月28日 | スポーツ
シンクロナイズド・スイミングで日本チームが銀メダルを取りました。ロシアとの差はぼくにはわかりませんでしたが、専門家には歴然だったのでしょうか。選手の皆さんや関係者の方々はいつもロシアの後にいるのでとても悔しいのかもしれません。その心中は私たちが察するのはむずかしいでしょうが、でもやはり世界で2番目なのですから、本当におめでとうございます。

シンクロにしても新体操の村田選手にしても、演技をする際に「日本文化」をあらわすような曲が使われていました。太鼓などを使ったり。わたしたち日本人にとってはこの日本文化は決して馴染み深いものではないし、もっと西洋的な音楽(?)を使えばいいのに、などと思ったりもします。無理に合わない「日本文化」を表さなくても、と。

ただ、これは、国際試合を何度も積んでいる選手やコーチからすれば、自然な選択なのかもしれません。わたしは一年半ドイツに留学していたことがありますが、そのときは自分は本当に西洋コンプレックスをもった日本人なんだ、と思わされました。同時に、ヨーロッパにいる日本人を見ても、西洋人と友達をつくったりすることで優越感をもったり、他の日本人を低く見たり、あるいは日本人同士で固まってヨーロッパの人のことを噂したりと、自分が日本人でしかありえないことを強く意識させられました。

国際化(死語)とか言っても、日本人のほとんどは向こうの社会に同化できない東洋のサルなのです。

そのドイツにいるときに、日本文化に関する催しがあって、尺八の演奏会がありました。尺八などに私は全く興味がなかったのですが、成り行きでその会場に知人と行きました。しかし、尺八の音を聴いた瞬間、とてもなつかしい感情がわきあがってきたのを覚えています。自分が日本の土地で育ち培った感覚が一挙に湧き起こったのです。

シンクロや新体操などの選手・コーチたちがどういう理由で日本文化的な音楽を選ぶのかはわかりませんが、国際試合の経験を積み、ヨーロッパの選手たちの演技に囲まれることで、自分たちが出せるものはなんだろうかと考えたときに、自然に日本的な音楽にむかうのかもしれません。

なぜありがたいの?

2004年08月28日 | reflexion
「感謝は大事」とよく言われます。でも、むずかしいですよね。わたしたちの意識は惰性で反応することに慣れているので、なにかあっても感謝の感情はなかなか湧いてきません。

そこで、「ありがとうございます、と言うことが大事」だとも言われます。このことについては、いろいろな本で最近は言われていると思います。ありがとうございます、と意識的に言うことで感謝の気持ちがわいてきます。これは、何かいいことがあったときに言うのもいいけど、むしろ何もないときにこそ言うのもいいようです。「ありがとうございます」と唱えること自体が、自分のこころを和やかにしていくのです(詳しくは、野坂礼子さんの一連の本など。例えば『「ありがとう」で願いがかなう不思議な話』)。

これは、ほんとうにそうだと思います。気持ちのいい夕方、静かな夜などに散歩に出たとき、「ありがとうございます」と唱えると、世界の恵みを一身に感じられるようになります。

でも、歩いていてとても疲れているとき、とくに感謝すべきことも見当たらないときなどには、私の場合は、「ありがとうございます」と唱えても言葉が空しく響くだけのことがあります。「ありがとうございます」を口にしても、ただの言葉・記号でしかないのです。

そういうときにわたしが使うのは、「なぜありがたいの?」という言葉です。この言葉は、宝彩有菜さんの一連の著書(たとえば『続 気楽なさとり方』など)で詳しく説明されています。

私たちがなにかに感謝するのは、感謝する理由があるからです。しかし、感謝する理由があらわれるまで待っていては、感謝するチャンスは中々ありません。最初に書いたように、わたしたちの意識は怠慢なので、なにに感謝すべきかに関してよく気づかないからです。

そこで「ありがとうございます」と唱えると、頭が勝手に感謝すべき理由を探し出すのですが、場合によっては「なぜありがたいの?」と自分に聞くことで、明確に理由を頭が探し出してきます。

たとえば、暖かいお風呂に入っていても、それって当たり前のことですよね。でも、そのときに「なぜありがたいの?」と自分に聞くと、こんなタイル張りの部屋で、ステンレスの浴槽で、暖かいお風呂に入れるなんてなんて幸せなのだろう。昔だったらこんな気持ちの言いお風呂に入れなかっただろうし、今でも場所によってはこんなに清潔で快適なお風呂はないのかもしれない。社会が豊かになってくれたおかげで、こんな気持ちのいい思いができるんだなぁ」といろいろと頭が考え出します。ここまで細かく頭が動くことは私にとっても稀ですが、「ああこんなお風呂の設備があってありがたい」ぐらいは思います。そうすると、とても感謝の念がわいてきます。なんだかミもフタもないですが、ありがたいとおもいます。

会社帰りの疲れた帰り道、退屈な時間、つらいことがあったときなど、唱えてみてください、「なぜありがたいの?」と。頭が感謝すべき理由を探し出し、感謝が湧き起こるかもしれませんよ。

こんな素敵な言葉を教えてくれた宝彩有菜先生に感謝感謝です。ありがとうございます。

しあわせに苦しんだ 『地獄は克服できる』 ヘルマン・ヘッセ(著)

2004年08月26日 | Book
ヘルマン・ヘッセ著『地獄は克服できる』を読みました。

知的に生きることと素朴に生きることは両立するのでしょうか。洞察を深めること、自分の内面を掘り下げていくことと素朴に生きることは両立するでしょうか。

ヘッセが忌み嫌った現代人・現代社会は、知的すぎるのでしょうか、それともただの機械なのでしょうか。

ヘッセは、現代社会の病から逃れられている?ヘッセだけが?

自然を愛し、言葉をつらねること、それは素朴なことでもなければ、知的なことでもないのでしょう。

素朴とは、注意力を全方位的にはたらかせないこと。怠慢でいること。

知的とは、思考を暴走させることで自分のことが分からなくなること。

自然を愛し、孤独に慣れ、しかし言葉を手放さずに内面を探求したヘッセは、自分が生きるべき自分だけの世界を見出していきました。その世界は、誰もが入ることのできない世界、だけど独善ではない世界。ヘッセだけの世界にもかかわらず、傲慢や独善とはちがう世界。

ヘッセはヘッセの人生を生きた。その言葉は、なにかを説明しているのではない。その言葉は、ただヘッセの生を表現しているだけ。表現に正誤はなく、善悪もない。

ヘッセはそうでしか生きられなかった。

愛とこころと身体

2004年08月25日 | reflexion
昨日、今日と所有している本の整理をしています。読書家の人に比べればたいした量じゃないし、あまり読まない人から見ればびっくりするような感じかな。

本を整理して身体を動かしていると、ブログに書きたくなるようなこともあまり思いつかない。ふだん自分が考えていることなんて、身体を動かしていれば出てこない、そんなものなのかもしれない。

頭と身体の関係について。身体を動かさないと頭は動かないのかも。身体を動かさなければ、頭の思考の方向も一緒かもしれないしね。

スザンナ・タマーロが言うように、愛というのは頭がよくなければ実践できないことかもしれない。

この場合の「頭がいい」というのは、人の気持ちをちゃんと理解する、それだけの推理力・洞察力という意味だったと思う。惰性ではなく、つねに事態の新しさを察知して対応していく能力。愛とはそこからはじまるものかもしれない。「愛している」なんて言うのは簡単なんだ。

人を愛することができる人は、身体もちゃんと動かせる人のことなのだろうか。いざというときに、ちゃんと身体が動く人。

愛とは、身体とこころを動かすこと。

サッカーならもっと悔しがってるよ。

2004年08月24日 | スポーツ
負けちゃいました、日本。野球のことです。

一発勝負だから今回の試合が両国のレヴェルを表さないとは思いますが、かといって日本のほうがオーストラリアより文句なく上だともいえないのかもしれません。

バッティングはなんとなくたんぱくな感じがしました。中距離打者が並んでいるわりにはつなぎはあまりみられませんでした。谷、小笠原あたりはブレーキだったのかもしれません。

ただ、おもいっきり悔しくならないのは、国内のプロ野球の状況が状況だから、あまり同情できない気もします。

Jリーグを過大評価したくありませんが、そもそも日本のプロ野球は、野球のレヴェルを発展させようとか、野球の文化をもっと根づかせようとかそういう意識が希薄に感じます。サッカーなら、リーグの運営、ユースの育成、国際大会への取り組み、サッカーの普及などなどすべてを視野に入れてよい方向を模索しています。

今回の敗戦が、現状のプロ野球を改革する機縁になれば・・・って、書くのもなんだかむなしい。

『ペーター・カーメンチント』 ヘルマン・ヘッセ(著)

2004年08月22日 | Book
ヘルマン・ヘッセ著『郷愁』をよみました。

ヘッセといえば『車輪の下』を思い浮かべる人が多いと思いますが、これは『車輪の下』以前に書かれたとのことです。

『車輪』が過去の暗い体験を吐き出したように感じられるのに対し、『郷愁』はもっと成熟した人間が自分の人生の記憶を辿ってたんたんと描写したように感じられます。

なにか一つのストーリーがあるというより、本当にこれまで主人公が体験したことを思い出すように綴っているだけなのです。

自然の描写などは、彼が自然から受けたものがたんなる鑑賞の域を超えた“なにか”であることが伝わってきます。

人から見れば、その自然体験や人物描写は一種のエリート主義にも見えると思いますが、それも嫌味をこえてひとつの文章芸術にまで高められています。これは訳者もすごいのでしょう。

27歳の時の作品だそうですが、一つの域に到達したような、そんな感じがします。ここですでに、いったん人生を受け入れることを学んだようです。

その後ヘッセがどういう彷徨をしたのかも、知りたくなりました。




ちょっとおかしくない?

2004年08月22日 | スポーツ
福原愛ちゃんというのは卓球が上手いだけじゃなくて、スター性というかタレント性がありますね。トークなんてあたまの回転が早くて見ていて面白い。

でも、愛ちゃんと同じく卓球の4回戦に進出した選手は他にもいたはず。僕の知る限りは、その選手たちの試合は、中継はもちろん、ニュースですら見ませんでした。

これはちょっとひどいよ。愛ちゃんに注目するのはわかる。日本に帰ってからいくらでもインタビューすればいいでしょう。

でも、せめてアテネでやってる間でも同じ活躍した選手たちには平等に接して欲しい。だって、その選手たちを支えてきた人たちはその選手の姿を全然テレビで見れなくて、同じ選手の試合ばかり見せられるのだ。愛ちゃんの試合なんて、同じ試合を3回ぐらい再放送していたぞ。

ぼくはアトランタ以降まともにオリンピック中継なんて見てきませんでした。だから僕の記憶にあるオリンピックはロスアンゼルスとソウルです。もちろんそこでも中継されなかった試合は沢山あったのかもしれない。でも、今回のような不公平はあったのだろうか?

オリンピックが商業主義になっていることは仕方がないと思う。そうしなければ五輪は経済的に自立できなかったのだから。

だけど、正直言って、中居くんやさんまさんをアテネでみたいとは思わないよ。これじゃあオリンピックという特別な雰囲気がなくて、テレビ局の(いつもの)安直なバラエティ発想でスポーツの楽しみが半減です。

もちろん選手にとっては、こういうときぐらい目立ちたいだろうし、スター扱いしてもらいたいかもしれないけど。

放送の公共性というものを考えたら民放とはいえ今回の五輪中継には?なのだけど、そんな真面目なことを言ったって無駄なだけかもしれない。でもNHKだったらもっと平等に試合中継すべきなんじゃないでしょうか。

innocence

2004年08月20日 | reflexion
 わたしたちは純粋無垢な存在として創造されました。創造主が清らかさそのものですから、清らかさが私たちの真実にしてもっとも深い本質なのです。わたしたちの清らかさは世界を純粋無垢として見ています。清らかさは許しさえ不必要にする理解や自愛をもたらし、他の人たちを罪悪感から自由にします」(『癒し大全』チャック・スペザーノ著)

 自分が無実であるとおもうと、世界をより正確に認識できます。他人に加えていた非難の多くが、自分を罰することから来ていたことに、はたと気づきます。

 自分が「清らか」であると認識するとき、なにか白い雨が降ってくるような感覚になることがあります。同時に、最終的には自分を受け入れざるをえないのだと感じます。

 自分がいる場所から、世界を見るしかないのだと思うようになります。