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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『西欧精神医学背景史』 中井久夫(著)

2006年03月30日 | Book
精神科医の中井久夫さんの『西欧精神医学背景史』を読みました。この本はの内容は、ほとんどそっくりそのまま同じ著者の『分裂病と人類』にもおさめられています。後者には他にも「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」という論文が収められ、それらがおもしろかったので「西欧精神医学背景史」も読んでみました。

この単独の『西欧精神医学背景史』は、『分裂病と人類』所収の「西欧精神医学背景史」に詳細な脚注・参考文献を施したもので、後で独立した本として出版されたものです。

「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」で著者は、人類の精神構造を読み解く概念として「分裂的気質」「執着気質」「ピューリタニズム」「職人根性」などを挙げていました。

「分裂気質」は狩猟採集社会で見られ、執着気質は日本の近世に顕著な労働倫理です。「ピューリタニズム」は著者には「分裂気質」に近いものとしてとらえられており、「職人根性」は「執着気質」と区別されるポジティブな労働倫理としてとらえられていました(詳しくは以前のエントリー「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」を参照)。

著者には、分裂気質とは現代では病的なものと見られているが実際にはそれが病気がどうかは時代状況に影響されます。またそれに対し執着気質は一見肯定的な労働倫理として近代社会では(とくに日本では)とらえられますが、それは時代の変化に対応できない硬直した人間性をもたらし、それが同時に刹那的な経済優先の論理をも生み出します(こうした論理展開はヴェーバーの『プロ倫』を思い出させるし、おそらく著者も強く意識しています)。

この執着気質と対置されるものとして著者はピューリタニズムの自律性・独立性・個人主義の倫理を挙げ、またチクセントミハイの“フロー”を彷彿とさせる「職人根性」という“活動”における心的現象を指摘します。

こうした問題関心をもちながら、著者は『西欧精神医学背景史』では西欧の文化と精神医学の発生との結びつきを観察しながら、古典古代における呪術的思考と脱呪術的思考との拮抗からルネサンスにおける統一的世界観(一挙に世界を把握しようとする思考)を経て、魔女狩りというヨーロッパ人による神殺しにより近代が開け精神医学が発生した過程を大胆に論じます。

著者は前半でギリシアにおける呪術的な精神治療の存在を指摘し、同時にそれらに拮抗するものとして、一切の呪術・密儀的なものを拒否する“啓蒙運動”の無視できない勢力をも示すことで、古代にすでに“モダン”(著名な哲学者たちも含まれる)が存在したことを著します。

しかし精神の治療という点ではこの“モダン”は影響力をもたず、むしろ狂気の治療において実践的な効果をもったのは呪術的な治療でした。

ここからローマの滅亡、古典古代文化のアラビア世界への継承などの過程で精神治療が辿った軌跡をみながら、著者は中世の魔女狩りをヨーロッパ文化においても精神医学の成立においても決定的と見る叙述をします。

著者は、詳細な歴史記述は省きながらも(この本は170頁で人類の歴史を描いているのだ)、魔女狩りが起こった文脈を魔女狩りという現象以外の社会変動を考慮して描き出そうとします。

まずイタリアを中心に花開いてしまったルネサンス。古典古代の哲学をアラビア経由で摂取しようとしたこの文化的動きは確かにローマ法や古代の文芸復興を目指しながらも、著者によれば同時に「魔術的、占星術的、錬金術的なものと結合した秘教的ネオプラトニズムの復興」でもありました。ネオプラトニズムとは「世界を統合的な一全体として把握しようとする試みで、しかも実例の収集枚挙や論理的分析によるのではなく、直観と類比と照応とを手掛かりとして、小宇宙から大宇宙を知ろうとする試み」です。「例えば人体は大宇宙の照応物としての小宇宙であり、人体を知ることによって宇宙を知ることができるとする。逆に、星の運行によって小宇宙すなわち人間の運命が予知可能であるとする」ものです(27頁)。

こうした彼らの試みは、当時のペストの拡大(人口の3分の一が死亡)、大公開による金銀流が引き起こしたインフレ、梅毒の流行、ルターの教会批判と宗教戦争による農村の荒廃などの大変動の時代に起こっていました。こうした大変動の時代では、論理的な推論ではなく、一挙に世界の運行を予測する思想が求められていたからです。「これらの問題を現実の平面において解決することに彼らは失敗したのであった。彼らの多くは幻想のレベルにおける解決を、占星術と結びついたネオプラトニズムを媒介として行おうとした。実際この時代ほど未来の予知が緊急の課題であったことはなかった」。そして「急激な現実の変化に対して、人々は極度の不安に陥っていた」(28頁)。集団ヒステリーがここから起こります。

こうした経済的不安、生存の不安が魔女狩りの背景にはありました。つまり、農民は農村の荒廃に疲れ果て、領主は農民の経済活動減退に怯えていました。こうした事情に、不況下での官職の不足と官僚の失業=ルネサンス教育を受けた大卒者の就職先の消失という問題が重なります。

一方では自分達の経済的破綻と悲惨な境遇の責任を求める者たち、もう一方では宇宙運行の予測の術を学びながら職のない者たち、さらに失職の恐怖に怯える官僚たち。実はこれらの者たちの欲求をとりあえず適えてくれるのが「魔女」の虐殺でした。

民衆は魔女狩りによって自分達を襲った運命の理由を見つけ出すことができ、領主は民衆の怒りの矛先を魔女に押し付けることができ、ルネサンスの中で学んだ者たちは世界を理解することを示すことができ、官僚たちは魔女狩りによって自分達の仕事を作り出すことができました。

またこの「魔女」の殺戮は、上記の者たちが行った殺戮の一つでした。すなわち、当時には「魔女」と並んでユダヤ人・アラビア人(十字軍・異端審問)もが殺戮の対象となったということです。

著者はここに、ヨーロッパ人の集団ヒステリーが「親殺し」の形をとったことに注目します。つまり、ユダヤ人はアラビアからの文化的翻訳を行いアラビア文化とギリシャ・ローマ文化をヨーロッパに伝え、アラビア人はヨーロッパの古代文化だけでなく後のヨーロッパの哲学・科学の発展を導く思想を欧州に伝えた後に虐殺の対象にされたのです。

魔女狩りとはこのような“育ての親殺し”の延長だということです。

すなわちそれは中世における女性文化であり、それは「遠く古代オリエントの地母神崇拝に始まり、エジプトにおけるオシリス崇拝、ギリシア・ローマにおけるアフロディテー・ヴェヌス崇拝を経て、一方ではマリア信仰、聖女崇拝となり、ケルト族の文化の中で聖盃伝説にうけつがれてゆ」きます(35頁)。また一方で「土俗的な女性文化」もありました。

これらの女性文化の中には農村における“薬草で治療する老婆”もおり、後のルネサンスのネオプラトニズムよりも遙かに早くその一人はすでに二世紀に「統合的な神秘体系」をつくっていました。

このように中世に至るまでヨーロッパでは女性は畏怖の目で見られていた側面があったのですが、ルネサンスの知識人たちはこれらの「治療する老婆の文化」を、それらが本質的には自分たちの思想の先人だったにもかかわらず、というよりだったからこそ、「過去を代表する、薄汚く、いかがわしいもの」とみなして抹殺しようとしました。

このような経済的・文化的な勢力覇権の争いによってヨーロッパでは「親殺し」が行われたということです。

著者はこの魔女狩りの終息によって、つまりルネサンスに先んじて統合的な世界把握を行ってきた呪術的思考がルネサンスという統合的世界把握によって排除されつくした後で、初めて精神医学というものがヨーロッパで発生したと論じます。

著者はその代表的であり先駆的な場所であるオランダに注目します。

著者によればオランダは中世においてすでに「商品経済に適合した集約的な労働が営まれ、そこに勤勉と工夫に基づく近代的な職業倫理が最も受容されやすい素地」であり、その自由な雰囲気によりユダヤ人の移住地にもなっていました(45頁)。

このこととオランダがカルヴァン派が普及した場所でもあることはおそらく結びついていました。この派の人たちは「確かにサタンの存在を深く信じる人たちであるけれども、彼らの預定救霊説によれば、サタンとの闘争は現世における勤労によってなされるべきものであり、また神があらかじめ定め給うたことに関してサタンは無力」でした(46頁)。

このようなカルヴァン派の論理と都市の商業の発展によりオランダは独特の自由の空気を生み出します。「カルヴィニズムと自由思想は現実に共存しえたのであり、この両者が相まって、まずオランダにおいて思想的寛容、世俗化、契約に基づく人間関係、現世内禁欲、勤勉と工夫による問題解決、すなわち―全体的総合により導出される解決ではなくて―現実世界の中を行動し、実例を枚挙し、困難を現実の水準での勤勉と工夫によって克服しようとする、統合主義syntagmatismから範例主義paradigmatismへというべき大きな思想的転換がなされ」ました(47頁)。

自由な雰囲気から生まれたこの勤勉が支配する「範例主義」は、測りえないものを虐殺する“親殺し”から、それらを矯正すべき病者と見なす視点を生み出します。もはや狂気を表現する人間は燃やされるべき悪魔憑きではなく、「道徳的に堕落した怠け者」へと変身したのです。

著者は論文「分裂病と人類」において、分裂気質の者とは、微分的認知の能力を失った社会において、それら能力を確保すべくこの世にもたらされた社会の貴重な人財ではないかと述べています。おそらくその記述と対応するかのように、かつてその能力で薬草で病者を癒しディオニソス的治療を行いえた者たちは、魔女狩りを経て、処刑の対象から矯正の対象へと転換していきます。それはヨーロッパ人の自らの親殺しに対する罪滅ぼしであるかのように、どこか罪悪感を伴った柔軟性のない試みだったのかもしれません。自由であるはずの雰囲気の中で、もはやルネサンス的思考にもとらわれていないにもかかわらず、ヨーロッパはその自由の中で範例主義という硬直したレンズを用いるようになります。

著者は次のように述べます。「産業革命とフランス大革命を境として、それ以前においては、―人間を集団で扱うモデルは修道院のような多様な人間集団社会であったためであろうか―精神病者は犯罪者や売笑婦、身体障害者などとともに“施設”(Institution, Anstalt)に収容されているが、産業革命による大工場制度および大刑務所の出現、フランス大革命期を契機とする国民皆兵による常備軍、義務教育などの出現によって、人間集団を統制するモデルは刑務所や兵営に変換され、精神病院も、精神病者のみを収容し、男女を区別し、しばしばし制服を着用させ、すべてを同一形式の部屋とし、同一症状の病者を同室に集めることとなる。管理上の能率を理由に数千人を収容する大精神病院が出現する」(51頁)。

またこのような矯正の対象としての精神病者が誕生がすることにより、医学教育はそれまでの講壇による教授・思弁的な錬金術的生理学・ルネサンス的解剖学などから、具体的に病人に接する「臨床教育」重視へと転換しました。そこでは「個別的な精密な臨床観察、病理解剖所見との対応、統計的方法による総合、百科事典的記載と一切枚挙的な疾病体系の建設」(51頁)という近代臨床医学の基礎が成立します。

このような精神病院の建設はそれまで癒されるべき者を迎えていた修道院の消滅と結びついていました。呪術的思考が漂っていた時代では畏怖すべきものが存在すると同時に、測りえないもの・人をそれとして許容する文化がヨーロッパにはありました。

しかし魔女狩りを通過して市民革命とカルヴィニズムの展開を経た今、すべての空間は道徳的に立派な者と劣った者が存在するだけの場所へと変わり、劣った者は秩序化された「病院」に収容されるだけになり、修道院のごとき「現世を避ける人々」を受容する場がヨーロッパから失われます。それゆえ「人々は容赦なく貨幣経済に巻き込まれ、労働か投機に身を投じなければならなかった」のです(64頁)。

著者は、産業革命と市民革命を前後する歴史的過程の中で、カルヴィニズムの勤勉の論理が支配の論理へと転化した事実を指摘します。それは多くの歴史家がしていることなのでしょう。

しかしヴェーバーと同じく著者も“なぜ両親に耳を傾ける勤勉の論理が資本の運動に身を委ねる支配の論理、あるいは政治的・軍事的征服を正当化する支配の論理へと転化したのか?”という原因の詳細な分析は行っていません。

カルヴィニズムが教会の権威を無にし聖なる者を自己のうちにのみ存すると見なしたとき、そこから世俗化がはじまったと研究者は説明します。しかし、ではなぜ権威のよりどころが自己のうちにのみ存すると見なすと、人は自己のうちにあるはずの権威をいとも簡単に忘れ去ってしまったのか?それとも、人間は弱い生き物だからそんなことは自明だというのか?

ともかく西欧の、また世界の歴史においては勤勉の論理から支配の論理への転換が至る所で観察され、日本もその岐路に立たされていると言えるかもしれません。

支配の論理が広まるところでは「勤勉は依然説かれたにせよ、それは通俗道徳としてであった。慈善あるいは福祉は、人々を堕落させるものとしてつねに強力な反対にあった」(70頁)。

読んでいて気になるのは、硬直的(に私には思える)な「範例主義」を生み出し、聖なるものをこの世界から追放したカルヴィニズムが、しかしそれが支配の論理へと転化する前は、精神病治療と幸福な関係を結びえたことを著者は指摘しています。

それは例えば、医師としての職業倫理に基づく医師が労働治療を行っている収容所を定期的に訪れる図もありました(66頁)。

あるいは「有名なテューク家」のように、イギリスの片田舎に「ヨーク退息所 (York Retreat)」を設け、軽症患者が村の街路を歩き、ときに村人の家に下宿するなどの「モーラル・トリートメント(moral treatment)」であり、そこでは治療者が家業として精神病者とともに生活する伝統が発展したということです。著者によれば、それは「積極的に天職callingの倫理」に基づき、「職人的に洗練された技能」だということです。

逆にこの様な天職の倫理をもたない医師は、この時代には「技能を技術として解」すことになり、19世紀前半までは“ジェントルマン”として、それ以降は“科学者”として世俗の支配の論理で優遇される地位を確立します(71-3頁)。


著者は上記の範例志向性による精神治療の“矯正”的性格、医療機関の組織化・官僚制化は、もちろんイギリスだけでなく、過程に違いはあろうと、フランス・ドイツにも見られるとしています。

アメリカはカルヴィニズムの勤勉の論理が最も顕著に支配の論理へと転化した地域です。著者はその原因を「西部へのフロンティア運動」にみます。すなわち、「プロテスタント的勤勉の倫理が、その他、その職に踏みとどまって努力するということを前提とするからであり、フロンティアの開放は、この倫理の規定を掘りくずし、端的な「力の倫理」に道を譲らせる強い傾向をもつ」からです。このような状況では精神病者は優勝劣敗に必然として顧慮されませんでした(82-3頁)。

(こうした「大陸」あるいは地理の感覚と人間の心性との結びつきは、専門家には自明すぎることなのでしょうか。著者は後半でロシアについて言及する際にも、その文化が端的な「量の追求」を目指すメンタリティを備えていることを重視しています)

このようにして精神医学、「正当精神医学」が範例主義・症例の詳細な記述・巨大精神病院建設などを擁し大学の医学のメイン・ストリームになったのに対し、ヨーロッパにはそれに包摂しえない精神医学、「力動精神医学」が誕生します。

この「力動精神医学」は当初大学の外で、民間の呪術的治療の技能をもった者から生まれます。後にスイスの20世紀の精神科医エランベルンジュが『無意識の発見』で詳細に記したように、患者と一対一で“ラポール”を成立させ催眠術を行う治療の発達です。18世紀には民間
の間で広まったこの治療により、人々は人間の人格には表面上の人格の裏側にもう一つの人格が存することを意識するようになります。

(この術師の代表者の一人の名前は「メスメル」といい、mesmeriz「(催眠術をかける」という言葉はここから生まれたのでしょう)

こうした呪術的治療は古典古代の時代から存在していたもので、魔女狩りによって息の根を止められたかのように見えながら、「無意識」というものの存在がまるで動かしえない事実であることを証明するかのように、再び歴史の表舞台に登場してきました。

フロイトの業績はこうしたヨーロッパのもう一つの精神医学の展開の文脈の中で理解されるべきものであり、精神分析が彼の全くの独創でもなんでもないことをエランベルジュは明らかにしています。『無意識の発見』の翻訳者の一人である中井さんも次のように述べます。「(フロイトが強調した 引用者)転移についていえば、神経症を転移神経症に変換して治療することは(…)、広い文脈においては完全本復治癒(…)を理想としつつ疾患をまず別の、より無害な、治療しやすい疾患に変換することを治療とする太古以来の医学、特に精神医学においてはおそらくシャーマニズムの成立以来の、治療手段であり、狭い文脈においても18世紀末におけるラポール発見以来の伝統に沿うものであろう」(95頁)。

著者によれば、このような力動精神医学の正当精神医学に対する対抗文化性は、力動精神医学がウィーンやパリなど大学(=正当精神医学の温床)との関わりが希薄な独特の“サロン”を発達させた都市で広まったことと結びついていることを指摘します。

つまり、16世紀に成立したヨーロッパの家屋における「個室」を舞台としたサロンにおいてこそ、広場の笑いや激論は「密室の秘めやかな忍び笑いや内省的なつぶやき」に変わり、「人間心理の細やかな襞や対人関係の微妙な感覚」といった精神分析に不可欠な要素が発達しえたということです。「この変化が、例えば英語においてself-を前綴りとする多数の単語を輩出させたことは、ピューリタニズムの一つの物質的基礎といってもよいほどであろう」(110頁)。

ウィーンでフロイトがもてはやされた当時(エランベルンジュによれば、フロイトは当時のウィーンにおいて異端ではまったくなく、むしろ経済的にも名声の点でもその栄誉を享受していた)、フロイトのライヴァルであるピエール・ジャネはフランスで催眠術を実践し、社交界の花形だったそうです(ジャネについても、『無意識の発見』では比較的詳細に紹介されています。エランベルンジュによれば、ジャネは本来フロイトと肩を並べる重要人物)。

ウィーンやパリで力動精神医学が普及したのに対し、ドイツで大きな広がりを見せなかったのは、あまりにも巨大な権威を大学が保持し、大学に対抗する文化的な場がドイツでは発展しなかったことと関連があるということです。

このように正当精神医学と力動精神医学が緊張関係にあったヨーロッパとは異なり、アメリカではそれら二つが奇妙な融合を見せます。・つまり、そのフロンティア精神により歪なまでに実践志向の精神を持つこの地では、科学的な態度と力動精神医学が結びつき、本来微妙な心理に分け入る繊細さを要求される精神分析が、きわめて論理的で簡明な言葉に翻訳され、大学でも受け入れられます。

この傾向は今日でも顕著であり、おそらくアメリカほど大衆に精神分析的志向が手軽な“ドリル”として大衆に広まった国はなく、またそのレディメイドされた心理学は“グローバル化”というキャッチなコピーにぴったりするように世界中に広がっています。

そこでは、A→Bという単線的な思考(これは本来呪術的思考と対立するのだが)が心理分析と結びつき、操作的な態度と治療とが奇妙に融合しています。



ここまで述べた歴史的過程でも中井さんはもちろん上記以外のことを豊富に述べており、その博識とバランス感覚には読んでいて溜息が出ます。

また向精神医薬の歴史についても述べられていますが、素人の私には読解するのはとても困難でした。


ともかく中井さんの関心の一つは科学的思考と呪術的思考、対人場面でのコントロール的態度とモラル・トリートメントな接触、などの歴史のおける緊張関係にあるのだと思います。

そこで大きな役割を果たすのがピューリタニズムなのですが、著者ももちろん分かっているように、ピューリタニズムは上記の緊張関係にある両者に関係しているということです。

「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」でもそうだったように、中井さんの記述ではピューリタニズムは両義的な内容をもちます。分裂気質と執着気質、支配と自由、これらの両方ともがピューリタニズムと関係をもちます。

これは中井さんが混乱しているのか?それともピューリタニズムにその両者の要素があるのか?あるいは僕が誤読しているだけなのか?あるいは歴史的なほかの要因が作用してそうした混乱した印象をピューリタニズムに課しているのか?

このひじょうに興味深い論文を読んで、そんな疑問を持たされます。

ピューリタニズムは自由を産み、支配の論理を生み、官僚制を生み、モラル・トリートメントを産み、またアメリカでは科学的思考と呪術的思考との結びつき(『10分で神と交信できる!』)を産んだ原因かもしれず、いろいろな疑問をもたされます。


涼風



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