joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

2007年10月30日 | 日記


街を歩くとずっと同じ風景が続くことに驚きます。

目の前には3年前や4年前と同じ風景があります。

しかし、そのころ大学に入学した人はもう卒業であり、生まれた子供は幼稚園に通い出しています。

明らかに私の中では時間の変化を感じなくなっているのです。

時間から起伏が消え、ただ数字としての時が過ぎていきます。

単線的な「時計」が刻む時間観念は、歳をとるほど実感していくものではないでしょうか。

幼い頃ほど、季節の変化がダイレクトに体に感じられ、一年の積み重ねが重いものに感じられます。

時間の流れは20歳までは遅く、それ以降はそれ以前の3倍の速さに感じられるようになるそうです。つまり、20歳を過ぎる頃には、実は、人は人生の半分を過ぎているのです。

目の前には秋の風景が広がっていますが、私には10年後も20年後も30年後も同じような光景がそこにあるのではないでしょうか。

30年後や40年後には首相も変わり、政党も変わり、社会は様変わりしているでしょう。

しかし私の中身はまったく変わっていないのではないかと思います。10年前の自分と今の自分に変わりがないように。

歳を重ねるほど、何も変わらなくなっているのです。

「インカ・マヤ・アステカ展」

2007年10月30日 | 絵画を観て・写真を撮って
先日、近くの博物館の「インカ・マヤ・アステカ展」に行ってきました。ヨーロッパによる植民が進む以前の中南米の遺品が数多く展示されていました。お面や像や飾りや。

それらの展示品をみてまず思ったのは、

「宮崎駿のデザインみたいだなぁ」

です。もちろん、本当は宮崎駿自身がこれら中南米の古代・中世文明の美術デザインを模倣したのでしょうが。

それらのデザインをみて感じるのは、なんだか厳かでないんですよね。安っぽいという言い方は違うかな。なんだか、思わず笑みをこぼしてしまうのです。親しみやすさ、でしょうか。

頭でっかちなデザインじゃないんですね。


ひょっとして芸術というものは(も)、西洋的と非西洋的に分けることができるのでしょうか?

西洋的な芸術とは、自意識の強い芸術。芸術する者の特権性が作品から感じられる芸術。「立派な人間」を描こうとする芸術。

それに対して非西洋的な芸術とは、人間という種に独自性を認めない芸術。人間の顔に「個性」を認めない芸術。

だから私たちは西洋的な芸術は意識的な産物であり、非西洋的な芸術は無意識的な作品であると感ずる、とこんなことはいえるだろうか?

そんなことをインカ・マヤ・アステカ展」を観て感じました。

『「学力低下」をどうみるか 』尾木直樹(著)

2007年10月28日 | Book
『「学力低下」をどうみるか 』という本を読みました。著者はテレビでも見かける尾木直樹さん。2002年の本ですからもう5年も前です。

この本で尾木さんが言おうとしている中で印象的だったのが以下の点です。

日本の子供が学力低下しているという言説は間違い

この尾木さんの主張は、2000年に経済開発協力機構OECDが32カ国の15歳の男女を対象に実施した「国際学習到達度調査」(PISA[生きるための知識と技能])の結果を踏まえてなされたもの。

日本の子供の「学力低下」が騒がれ始めたのは、国際教育到達度評価学会IEAによる成績調査において、かつては1位を占めていた日本の数学力が99年に5位になったことを受けて起こった現象でした。

それに対し尾木さんは、世界190カ国の中で数学5位・理科4位という成績を維持していることを「学力低下」とみなすことがおかしいことを指摘します。

またOECDのPISA調査は、単なる基礎知識の定着度を測定するのではなく、「覚えた知識や技能を実生活上でどの程度生かすことができるのか」という応用力を測ろうとしているテストであることを確認したうえで、日本の子供の「読解力」は「総合読解力」8位、「情報の取り出し」6位、「解釈」8位、「熟考・評価」は5位と好成績を修めている。また、「数学的リテラシー」ではなんと1位で、「科学的リテラシー」では2位とのこと。

このPISA調査結果は日本でも大きく報道されたのでしょうか?それを踏まえてた上で、今でも「ゆとり教育」批判が行われているのでしょうか。この調査結果が公表された当時、私はドイツにいたのですが、ドイツはどの分野でも軒並み中・下位グループで、国中が大騒ぎしていました。

このPISA調査の具体的な「問題」については、尾木さんがこの本で簡単にまとめていますし、類似の本は多いでしょうから、興味のある方はご覧になってはいかがでしょう。

例えばこの調査では「読解力」は「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」と定義されています、

私には、ここで紹介されている問題の具体例はどれも難しい問題ですが、それでもこのPISAの問題が、単なる知識を問うのではなく、それらの知識を自分の力で応用していく力を試しているのだということは伝わってきます。多分、本当に「頭のいい」子でなければ解けない問題が多いのでしょう。そういったテストで好成績を修めている以上は、日本の子供の学力が低いとはとても言えないのでしょう。


もう一つ尾木さんが強調することは、

総合学習は確かに子供の学ぶ意欲を高める

ということ。

ここで言う総合学習とは、つまり自分の学びたいテーマを自分で選び、自分で調べていくこと。要するに大学で書くレポートのようなものを高校段階で取り組むということですね。

そのレポートのテーマは、例えば

「米の関税化」
「テレビゲームと少年犯罪」
「介護保険について」
「学校週五日制」
「産業廃棄物の光と影」

などなど(p.188)。

総合学習には、生徒が一人ひとり自分でテーマを掘り下げることから、教師と生徒が一緒になってディスカッションして行ったり、著名人を招いた講演会を開いたりと様々な形態があるようですが、どれにも共通して言えるのは、他の学校の教科のように「正答」があるわけではないことや、現実の社会により密接に結びついた問題が取り上げられると言うこと。

この総合学習を取り入れて生徒の意欲を高め、大学進学率を驚異的に上げた京都の公立高校・堀川高校が有名ですが、同じような例が以前から存在していることが尾木さんの本を読めば分かります。この本でも、総合学習を取り入れることで大学進学率を上げた高校が紹介されています。


もちろん、総合学習を取り入れればすべての子供の成績が伸びるわけではないでしょう。それで子供のやる気がでるならば、すべての日本の大学生は勉強ばかりしていることになります。

おそらく堀川高校というのも、公立ではトップクラスの高校で、元々勉強の素質のある子が集まっているのだと思います。ただその素質を伸ばすきっかけがこれまでなかったということなのでしょう。

ただ同時に、以前、偏差値で言えば50前後の私立大学の教員の人と話していて、社会問題についてディスカッションさせたり調べたりさせると、いわゆる「一流大学」と呼ばれる学生と遜色はないとおっしゃっていたことが印象的でした(それに対して、語学力はやはり落ちるとのこと)。

つまり、偏差値の高低に関わらず、より現実生活に根ざした問題について学習させることは、たしかに子供の学ぶ意欲を高める効果はあるということなのではないでしょうか。


尾木さんのこの本を読んで感じるスタンスは、決して子供の「学力」が低いことがよいのではないということ。ただ、科挙のような従来の知識偏重は子供にとって望ましい「教育」の役割を果たさないということです。

最近思うこと

2007年10月26日 | 日記
迷惑メールの多さにうんざり。Outlook Expressでメール受信すると、おそらく一日に百通は来ているのじゃないでしょうか。メールチェックするたびにそれらを消去する労力を考えると、迷惑メールが社会全体に及ぼしている被害はどれぐらいものものなんでしょ。

これって騒音おばさんと同じじゃん。

政府の間でこういうことが問題にならないと言うことは、何か簡単な有効な手立てがあるということ?

(勝手に)切羽詰まる

2007年10月23日 | 日記
このブログでは、なんのことを言っているのかわからない文章というのは極力書かないようにしようと思っているのですが、自分の具体的な状況を事細かに書かない限りはそういう文章になりそうです。

なんだか物事が自分の思い通りに行かないことにひどくイライラする。相手には相手の都合があるし、最終的には自分に責任があり、自分が招いた状況だから他人を責めることはできないのだけど。

と言うより、他の人から見たら、全部あなたの責任だよ、それにその程度の状況でひぃひぃ言うなんてこと自体おかしいよ、と言われそうです。

いい天気が続くので写真でも撮りにいきたいですが、それだけの心の余裕をもてるでしょうか。

結婚式

2007年10月20日 | 日記
今日は結婚式でした。

結婚式ってなんだか不思議です。

人は大体自分と同年輩の人とつるむのに、結婚式では老若男女いろいろな人が一つの場にいます。

最初に人前式の結婚式があり、その後フラワーシャワーがあり、披露宴へ。滞りなく式は進んでいきます。

結婚式場の人たちは、みんな丁寧な対応をされています。

よく「最近の若いやつは礼儀を知らない」という言葉を聞きます。おそらく何十年も前から同じことは言われ続けています。でも、その「最近の若いやつ」も、いつの間にか働いて、仕事の場では顧客に対しこれ以上ないというくらい丁寧な物腰で敬語を使い人と接しています。

結婚式場で働く人たちの機敏さに私はずっと感心していました。


結婚式はとてもいい式でした。

一人ひとりのスピーチが簡潔で、そのどれもが新郎新婦の人柄を伝えるものでした。

新郎新婦のお二人には末永く幸せになって欲しいと思います。


『西洋絵画の巨匠 (2) ゴッホ』

2007年10月18日 | 絵本・写真集・画集
画集『西洋絵画の巨匠 (2) ゴッホ』を観ました。その名のとおり、ゴッホの画集です。

ゴッホの絵から感じるのは、言いようのない素朴さです。狙って描けるものではないでしょう。彼には自分の見たものがそのままの形で目の前に迫ってきていたのではないでしょうか。

多くの人も感じているように、その太い線と粗い色使いは、観る者にとって痛々しく感じられます。現実の物がそれだけ太い線を持ち目立つ色をしていたということは、ゴッホはつねにその現実を視て痛みを感じていたんじゃないでしょうか。

おそらくゴッホといえども単に感じたままをキャンパスに色を塗っていたわけではなく、彼なりの技術の習練があり、微調整があり、計算があったでしょう。

にもかかわらずその絵に接すると、感じるのは描いている者の心痛です。

彼はずっと苦しみ続けていたのではないでしょうか。現実に馴染みたいと思いながら、彼の別の一部が決して現実世界に順応することを拒否し、現実と内面の世界の追求とに引き裂かれていたのだと思います。

単に現実に順応できるのなら幸せに暮らすことができます。

単に自分の内的世界に引きこもるのなら、それもまた幸せな世界です。

しかしゴッホは(そして狂人と言われる人のすべては)、この二つのどちらか一つを選ぶことができなかったんじゃないでしょうか。現実への憧れを持ちながら、自身は現実に順応できないとき、彼にとって現実は彼を脅かすものであり、また自分には手の届かないものであり、また彼を地獄に突き落とす場所でもあるのです。

現実に対するその愛憎交わる感情を抱えていると、その人が現実とコミュニケイトする方法は、芸術だけだということになる場合があります。ゴッホにとっては、絵を描くことだけが、自分を受け入れず自分を地獄に落とそうとする現実と何とか折り合いをつける方法だったのではないでしょうか。

彼が絵を描いていて癒されるということはなかったのではないかと思います。彼はただ現実に接するときの痛みを絵にしていたのではないでしょうか。




西洋絵画の巨匠 (2) ゴッホ
圀府寺 司
小学館

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英英辞典

2007年10月16日 | 語学
とりあえずどの単語でもいいのですが、手元にある単語帳から一つ単語を選び出して見ます。

・entreat 嘆願する 懇願する

Their parents entreated them to drive more carefully. (両親は彼らにもっと慎重に運転するよう懇願した)

少なくとも僕にとっては、entreatというのは馴染みの薄い単語です。

でも、それを「懇願する」と聞いても、確かに意味は分かりますが、この単語のニュアンスはホントに伝わるのでしょうか?

「懇願」という言葉自体、日常的に使われる言葉ではありません。人によっては、国語辞典で調べる人もいるかもしれません。そういう言葉を訳語として当てられても、結局entreatの意味は分からないということになるでしょう。

今度は、この単語を英英辞典で引いてみます。

entreat: to ask somebody to do something in a serious and often emotional way(真剣な、かつしばしば情緒的な仕方で、誰かに何かをするよう頼む)

これは英英辞典なので、無理に単語に「日本語訳」を当てようとはしません。そうではなく、その言葉のもつニュアンスを伝えようとしているのです。

言葉の学習としては、やはり「訳語」よりも、英英辞典の方が、その言葉のもつイメージを生き生きと伝えるのだと思います。

そこでふと思ったのだけど、英英辞典を日本語訳したものって出ないのだろうか?

英英辞典のよさは、「日本語訳」を当てるのではなく、その言葉がもつ意味を色々な言葉を使って説明しようとしていることです。

entreatが英和辞典では「懇願する」のに対し、英英辞典では「真剣な、かつしばしば情緒的な仕方で、誰かに何かをするよう頼む」になるのです。それは、単に日本語の辞典と英語の辞典という違いではなく、言葉の説明のしかたの違いだと言ってよいでしょう。

だとしたら、英英辞典のように単語を説明する辞典を日本語訳で出してもいいのではないだろうか?あるいは、日本人でそういう辞典を新たに作ってみてもいいのではないだろうか。


2007年10月13日 | 日記


つい先日まで蒸し暑い蒸し暑いと言っていたのに、いつの間にか秋になっていました。

秋は好きなのですが、夏と秋の中間の涼しく過しやすい期間がなかったのは残念。

『プーシキン美術館展 シチューキン・モロゾフ・コレクション』

2007年10月13日 | 絵本・写真集・画集
一昨年の暮れから昨年の初めにかけて東京で展覧会が行われた『プーシキン美術館展』のカタログが図書館に置いてありました。アマゾンで検索してもひっかかからないので、市販されていないのかも。

プーシキン美術館とはロシアの美術館で、シチューキンとモロゾフという19世紀終りの絵画収集家が集めたフランス印象派の名画が多く収蔵されている美術館とのこと。

この画集に収められているのは、ドガ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、モネ、ルソー、ゴッホ、ピカソ、ゴーギャンといった有名な画家から、私のような超ド素人は名前も知らなかったような画家の絵もあります。

しかし、名前に関わらず、どの絵もどの絵も素晴らしいし、私の印象に残ったのは、上記の有名な画家以外の画家の絵でした。

とりわけ、ギヨーマン「廃墟のある風景」(1897)、ド・シャヴァンヌ「貧しき漁夫」、カリエール「母の接吻」、ビュイヤール「室内」(1904)、マティス「ブーローニュの森の小道」(1902)、マティス「白い花の花束」(1909)、マルケ「街路樹にかかる太陽」(1905)、マルケ「オンフルール港」(1911)、といった絵が私には印象的でした。

マティスはもちろんですが、他の画家もみんな有名なのでしょうね。

上に挙げた絵の中でも、私にはアルベール・マルケ(1875-1894)という画家が今回の画集で一番印象に残りました。

なんだか惹きつけられるのです。

この人の絵はほかにも観てみたいです。画集は出ているのかな。


この画集を見ると、モロゾフとシチューキンという人の審美眼が確かで、絵画を知らない私が見ても、その趣味のよさは伝わってきます。

機会があれば、是非一度手にとって見て欲しい画集です。

専門家と啓蒙書

2007年10月12日 | Book
前のエントリでも取り上げた、神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』から、印象に残った言葉など。

「啓蒙活動においては、分かりやすい伝わりやすい表現にするために、複雑なものを単純化し、特殊なものを平凡で卑俗な見かけに置き換えねばならない。その過程で、ときには、本質的な部分が切り落とされたり歪曲されたりする。本質についての把握が確かであることが、啓蒙活動における核である。したがって、啓蒙書の質を見てみると、その専門家の程度が量れる。着眼点は、切り落としと単純化がじゅうぶんであるか、本質部分を切り落としたり歪曲したりしていないかである。その事情は、ちょっと生け花に似ている」(神田橋條治『追補 精神科診断面接のコツ』

そう言われてみると、素人に対して面白い本を書ける人は専門家としても優れてる場合が多いのではないかと、私も(漠然と)思います。

やはり、そういう人たちは、自分のしていることが人間や社会とどういう関係にあるのか突き詰めて考えているのでしょうね。

少し前から新書ブームですが、そういう新書の中にも、専門家として活動してきた人が、自分のしてきたことの核をまとめているものもあるでしょう。学者・専門家と一般の人との垣根を低くしたという点で、よい傾向なのでしょうね。

「天が下に、新しきこと何も無し」

2007年10月10日 | Book
本の感想を書くときは、とりあえず一通り読んで、大体は読み終わったあとに記憶を頼りにページをパラパラめくってキーボードを打っています。

ただ先日読んだある本の箇所がすごくよかったので、まだ全部読んでいない本ですが、ここで紹介したいと思います。

「精神療法の領域で「革命的な」新手法や見地が開発されたとき、それは必ず粗雑な手技や認識である。開発ののち繰り返し試行され、現実と突き合わされるうちに、細部が整えられたり修正されたりして細やかな手技・認識として完成する。そうなった時点で眺めてみると、その完成物はさほど際立たない外貌となり、昔からの周知の方法や認識を再開発しただけであることが明らかになる。とはいえ新手技や新認識でなくなるわけでもない。「天が下に、新しきこと何も無し」という老人の知恵と、「日々新たなり」という生きる姿勢とは、言葉の見かけの上で対立するだけで、人の生の現場では矛盾なく両立する」(神田橋條治(著)『追補 精神科診断面接のコツ』p.59-60)。

私は精神医学については全く何も知らないし、カウンセリングについても知りません。それでも、療法家に対して書かれたこの本は、素人が読んでも、自分のこころについて洞察を深めるのにとても役立ちます。

上の言葉もその一つです。

心理学は私たちの日常に溢れており、素人である私(たち)は、その中に自分の知らなかった自分を幸せにしてくれる方法があると思いこみます。

それはたしかに幸せにしてくれるかもしれませんが、それが私たちを幸せにしてくれるのは、その本に書かれてある内容の真髄が、知っている人は前から知っているシンプルなものだと分かる時なのかもしれません。

こころはこころにすぎないのであり、こころは昔の人ももっていたのですから、こころをみるのに新しい方法など、めったに現れることはないのでしょう。

フロイトの精神分析ですら、少なくともその起源はヨーロッパの18世紀に求められるし、深く追えばもっと以前からかもしれません。

何が真実か分からなくなったときは、私たちはもっと自分が本当と思っていることに耳を傾けていいのでしょうね。

『フィガロの結婚 ザルツブルグ音楽祭』

2007年10月09日 | Music
昨日の晩、おそらく1時間ほどですが、初めてオペラを見入ってしまいした。NHKで放送されていた、『フィガロの結婚』。

わたしはオペラのことは全く知らない人間で、今まで興味もなかったのですが、昨日生まれて初めて「いいなぁ」と思いました。

モーツァルトだったので分かりやすかったのでしょうか。

こちらの先入観で、オペラ歌手というのはみんなお腹が出ている太った人たちと思い込んでいたのですが、全然そんなことはないんですね。みんな痩せている歌手ばかりでした。

キスシーンも(たくさん)あるし、しょっちゅう抱擁しているし、軽い踊りもあるし、思っていたよりもずっと面白そうですね、オペラって。

NHKではしょっちゅうオペラは放映しているので、また観てみたいと思います。

最近の物欲

2007年10月06日 | 家電製品にかかわること
もう1ヶ月以上前から欲しい欲しいと心の中で唸っているその対象が、下の電子辞書。

CASIO Ex-word (エクスワード) 電子辞書 XD-GW7150 日中韓対応手書きパネル搭載 音声対応 26コンテンツ収録 5.5型高精細液晶 ドイツ語上位モデル

カシオ

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一般向けのドイツ語辞書では最も評価の高い独和大辞典に独英辞典もついているという、スグレモノの電子辞書。パソコン経由でフランス語辞典も古語辞典も他にも一杯入れることができます。

こういう最近の電子辞書のよさそうな所は、手書きで文字検索ができる点。漢字とか簡単に調べられそうです。

百科事典もついて、何でもすぐに調べられそうだし。

これ、5万近くもするんですよね。欲しい欲しいと
言っているだけのうちが、ラクでいいですね。


机の上にドイツ語辞書と漢和辞典とフランス語辞典を置いていると、それだけで圧迫感が胸に迫ってきます。

まぁ、逆に言えば、その積み上げられた書物を見て、「これが5万円分かぁ」と思えば、我慢できるかもしれません。


(こういうことを書くとまるで数ヶ国語を自由自在に扱える人間が書いている印象を与えかねませんが、もちろんそんなことはありません)

「出張! ハートで感じる英語塾」が今日から始まる

2007年10月04日 | 語学
今日のNHK教育23時10分から、英語学者・大西泰斗さんの「出張! ハートで感じる英語塾」が始まるみたいです。

大西さんはすでに有名な英語の先生ですが、まだ彼の話を聴いたことがない人は是非見てみてください。

大西先生の、言葉と人間の感覚との深い関連についてのお話は、英語のみならず他のヨーロッパ言語を理解するうえでも大きな参考になるのではないでしょうか。

さらには、日本語を初めとして、そもそも言葉とは何なのか?ということを考える上でも大きな示唆を与えてくれるのではないかと思います。