joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

はぁ・・・

2010年01月03日 | Book
『三上文法から寺村文法へ―日本語記述文法の世界』を買って読んだのだけど、半分ぐらいで読むのをやめました。


ちょっとこれはなぁ・・・


専門の概説書でもなければ、初心者への入門書でもない。


これは研究史に関する学者の研究ノートみたいなもので、論文にも著作にもならない、大学の紀要に載せるようなものじゃないだろうか?


わずか150ページほどのこの本が1600円というのはないんじゃないのかなぁ・・・


殆どの文章で専門的語彙(ジャーゴン)が使われているが、著者自身が言葉をかみ砕いて何かを説明している部分というものがないので、わずかなページ数のなかで著者自身が言いたいことというものが何もない印象がする。


これは同じ専門分野の研究者にメールか手紙で知らせるようなもので、とても一般の人に読まんでもらうレベルではないと思うのだけれど。



私は、この本の内容が高度で理解できないと嘆いているのではない。


そうではなくて、この本は、結局何も言っていないのではないかと思えてきて、そういう本のために時間とお金を使ってしまった自分にうんざりしているのです。


きっとこの本の言っていることで目が啓かれる人もいるにちがいない。しかし、それはごくごく狭い領域の人でしかない。


どんなに薄い新書でも、何かを言おうとはしている。でも、この本は、この本だけで何かを伝えようとせず、専門領域の研究者の共通理解に乗っかって、雑談をしているだけのように思える。


著者に罪はないが、とても時間を悔いてしまう。


こういう本を一般書のような装いで流通させるのはやめてほしい。

『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)

2009年10月21日 | Book
『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)を読んだ。


国語という科目、ではなく、国語の問題というものが何を問うているのかを、はじめて明らかにした本。少なくとも私にとっては。


国語の問題とは論理を問うているのだけれど、それを著者は

・言い換え(具体⇔抽象)

・対比

・展開の追跡(論理)

という三点から指摘している。つまり、国語で問われている論理力とは、上記三点の力だということだ。


言い換えは、一人の人の言いたいことをすべての人に受け入れ可能な言葉に変換する能力を指す。

対比は、個々の論点の明確化・絞り込みを意味する。

展開の追跡(著者はこういう言葉を使わず「論理」と言うのだけれど)は、そのままずばり話を理解することだ。他者の話をそのまま受け取る能力と言える。



この三つの能力は、国語の問題を解くうえで有用だが、自分で文章を書く上でも有用だ。


これは素晴らしい本だと思う。


素晴らしいが、それは国語のペーパーテストが何を問うているのかを指摘したという点でだ。


私自身は、このようなトレーニングをしなくても、書きたいものを書き、読みたいもの読むことが人にとっていいことだと思っている。


ただ、国語という教科のペーパーテストを解く訓練をするうえでは、重要な示唆を与えてくれるし、素晴らしい本だと思う。


著者が来年出すという本も楽しみにしたい。

『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』

2009年06月13日 | Book
『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』(M・グラッドウェル著)


なるほど、と思わせる本。


最初にやってくる直感にしたがった判断が正しいと言っている。


自分が偏見・思い込みに左右されていない分野、これまで修練を積んで自分が熟達している分野では、直観が一番信用できるということです。


そういえば、ある会社経営者の人が、採用面接では志望者がドアを開けて入ってきた瞬間に合否を決めるって言っていた。長い間人を見てきた人は、瞬間で相手がどういう人か分かるんでしょうね。少なくとも一緒にうまくやっていけるかどうかについては。


あるいは、音楽評論家が、CDで最初に音が耳に入ってきた瞬間にそれがいいアルバムかどうかわかるとも言っていた。


それに対して、自分の思い込みがたっぷり入っている分野では、「直観」は信用できない。「この人が運命の人だ」、とか。「これがライフワークだ」、とか。


すぐ読める本です。


参考:Blink: The Power of Thinking Without Thinking - 「瞬時の判断」の力 CD、テープを聴いて勉強しよう!!

書籍 『吉本隆明 子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』

2008年09月28日 | Book
書籍 『吉本隆明 子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』を読みました。


二人の現役の小学校教師が吉本隆明さんを訪ねて対談した様子を本にしたもの。二人が吉本さんに質問をし、吉本さんが答える形で本は進んでいきます。


「子どもの仕事は遊びである」


という吉本さんの言葉は、今の私にはとても鋭く、慧眼であると思えます。


また、


「子どもは大人・教師がどういう人間であるかはすべて見抜いている」


「プロ教師の会のようにテクニックで子供に勉強を教えることができると思うのは間違い」


「教師が子供に見せることができるのは、後姿だけ。子供の成績は「我計らいにあらず」でいいのではないか」


といった言葉も、真理を突いています。


それに対する二人の教師も、


「熱中することを通して子どもは社会性を磨く」


といったことを述べていて、なかなかいいことを言っています。


子どもの視線、遊ぶということなど、子どもが何を感じながら生きているかを、再体験させてくれるように思います。

『「超」育児』 ダニエル・グリーンバーグ(著)

2008年07月21日 | Book
以前紹介した『「超」学校』の著者ダニエル・グリーンバーグさんによる別の著書『「超」育児』を読みました。

上記の本に続き、とてもおもしろい本だった。


興味深いのは、著者が乳児を、生まれてから1歳まで、そして1歳から4歳まで、そして4歳以降というように分けていること。

詳しく説明するのは面倒なので端折りますが、著者は1歳という小さい年齢だからこそ、親が干渉することの不利益を訴えます。

著者は1歳までからという期間について次のように述べます。

「この時期に、子どもの外部世界に対する基本的な関係、態度の多くが決定されます。生後最初の一年間にどう取り扱われたかで、どれだけ自分の身が安全だと感じられるか、どれだけ根本のところで安定していられるか、後になって変えようのないかたちで決定してしまうのです(154頁)。

・・・

 一歳から四歳の段階で自分の子を分かろうとしない親に育てられてしまうと、子どもはこんなふうに考えるようになります。
 
 親なのに親身になってケアしてくれないし、時間もつくってくれなければ、ちっともこっちに目を向けてくれない・・・―と。

 子どもの側にも親に対する愛があります。子どもなりに温かみと慈しみを親に届けようとしているのです。ところがそこのところを親はちっとも見てくれない。親はたしかに愛してはくれる。けれど子どもの気持ちを分かってくれないし、いいたいことを理解しようとしてくれない。敬意を払ってくれない、と考えているのです

 ・・・

 無関心のさなかに置かれた(託児所やデイケアセンターなど、多くの施設で見られることですが)子どもは、悲観主義的な世界観を持つようになります。何かをやってみようと、しなくなるのです。周りが聞いてくれないからです」(154‐5頁)。


そのような繊細な感覚をもつ子どもに対して必要なことは、失敗をゆるすことだと著者はいいます。


「発達途上にある子どものコミュニケーションシステムは、親や他の人々との関係にとどまりません。周囲の世界との交渉も含むものです。外界と自由に関係する機会を得た一歳から四歳の子どもたちは、世界に対する建設的な態度を築いていくことでしょう。

 自由に動き回る。道具で遊ぶ。何でも試みる。台所で食べ物、ポット、フライパンを手にしみる。

 子どもたちは失敗することを許されなければなりません。飲み物をこぼすこともあるでしょう。なにかを台無しにしたり、壊すことだってある。

 でも、子どもたちは自分失敗したことを、ちゃんと分かっているのです。幻を見ているわけじゃない。彼(女)らは知覚的に優れており、細かすぎるところまで見ているのです。子どもが細かなことに集中できないなんて見当違いもいいところです。・・・

 その子にしろ、たとえば小麦粉を撒き散らしたら、自分は間違ったことをしたと思うものです。そしてそれが許されれば、失敗を、お仕置きされないノーマルで健康なものと考えるようになるのです。その結果、身の回りの物理的空間が自分なりに対処可能な世界であると思えるようになる」(156‐7頁)。


このように、子どもには、というより本来人間には失敗から学ぶ能力が備わっているのだとしたら、大人がすべきことは、子どもが学んでいく手助けをすることです。

つまりそれは、子どもに失敗することを許し、そうすることで、失敗から学ぶ機会を確保することです。


一歳から四歳までの子どもについてこう述べたあと、グリーンバーグさんは、4歳以降の子どもと大人との間には、分別・判断力という点についてもはや違いはないといいます。

たしかに四歳の子と五〇歳の人とでは、経験や知識は違います。ですから、何かを判断する上で参照する経験・知識は大人のほうが豊富です。

しかし、外界から情報を得て、それを自らの知識・経験に照らし合わして判断するというプロセスは、すでに四歳の子は五十歳の人の間に違いはないのです。

自らを取り囲む世界は四歳の人と五十歳の人とでは異なります。だから四歳の子に会社の仕事を与えてもうまくできないでしょう。しかしそれは、単にそれらに関する情報を彼が持たないからに過ぎません。

同じように五十歳の人を保育園や幼稚園の遊び場に連れて行けば、どう遊べばいいか大人は戸惑うでしょう。砂を使って遊ぶとはどういうことか、大人は忘れているからです。


新しい状況に置かれたら、誰でもどうしたらいいかわからなくなるのです。大人でも子どもでも、そこからまた失敗を繰り返して経験・知識をつんでいき、正しい判断力を得るようになります。そのプロセスに、大人も子どもも違いはありません。


そういう子どもに、大人が取り立てて干渉して知識を与えてやる必要は、本当はありません。問題集を無理やり解かせる必要もないし、跳び箱を飛ばせる必要もないのです(本人が自分でやりたいと思わないかぎりは)。


跳び箱を飛ばして、いったいどうするのですか???


人は誰でも、身の回りから何かを学んでいくし、それにつれて、どうすべきかという判断力を高めていきます。著者はこう述べます。


「子どもたちは一種のフィードバック・メカニズムを使って判断していくのです。彼(女)らは自分たちの手の届かない状況にはタッチしません。成長しながらより複雑な状況へと踏み込んでいく。自分から深みに入り込もうとはしないものなのです。

 それはどんな年齢でも見られることでしょう。つねにあたらいいことに挑戦するのが人生です。でもその場合、自らの限界を知って背伸びはしないものなのです」(169頁)。


グリーンバーグさんのこの本を貫く主な主張の一つが、この、子どもには生まれながらに成長しようとする欲求があり、失敗から学び、つねに自分にとってよいことを選択していく判断力を高めようとしている、というメッセージです。

またそれゆえに、大人は、子どもが学ぶ方向について干渉する必要はないということです。



既存の学校教育の欠陥をあげるとすれば、教員が不正な選考で選ばれていること以上に、何を何歳で学ぶのかということを大人が決めることができると思い込んでいる点にあります。

社会の変化のスピードは速いのに、子どもが学ぶ内容は何十年も前から変わっていないのです。その量が減ったり増えたりしているだけで。

何を学ぶのかを決められてしまえば、子どもは自分から何を学んでいくのか考えないようになるでしょう。

自分の興味のあることをしていなければ、それに失敗したとき、その失敗を克服しようとする意欲もわいてきません。


やりたくない教科で失敗しても、そこから学ぶ意思は育たないのです。

結局、多くの子どもは「勉強のできない子」というレッテルを貼られて、テストで間違った箇所をほったらかしにしたままになります。だって、最初から教科学習には興味がないのですから。


自分が成長したい・向上したいと思うことをやらせないでいると、成長したい・向上したいと思う人間には育たないでしょう。そういう人間は、大人になるともはや学ぶことはしない人になります。

学校教育の大きな問題はそこにあります。













『サマーヒル教師の手記 世界でいちばん自由な学校の二年間』 ジョン・ポッター(著)

2008年07月21日 | Book
ご存知イギリスの歴史あるフリースクール、サマーヒル・スクールで先生をしていた方の、学校在籍時の日記を本にしていたもの。

著者は今では日本の大学で先生をしているみたい。


サマーヒル・スクールの特徴は、一応カリキュラムが用意されているけれど、授業に出る出ないは子どもの自由であること。また学校の運営が生徒たちにも議決権がある集会によって運営されていること。


こういう理念を掲げている学校についての本だけれど、本の大半は学校の日常生活における些細な煩わしい出来事に教師がうんざりしている記述で占められている。

それは子どもたちに対してではなく、教員間のいざこざといったことに対して。

これだけを読むと、サマーヒルという世界中のフリースクールの象徴的な存在で働くことは、それほどいいものでもないと思えてきます。

あと、全寮制という学校で働くことによるストレスも大きいみたい。24時間学校の業務に拘束されるわけですから。


それでも、この学校の意義については著者ははっきりと記しています。


「サマーヒルにも反社会的なところのある子はいる。そのうちの何人かには、ほとんど進歩らしい進歩はみられない。いっぽう、サマーヒルに来て劇的に変わった子もある。私がここへ来てからの二年間だけを見ても、たとえばルーシーなどは、最初の頃にくらべればとても社会性があり、ずっと幸福な子になっている。あの頃は、こんなに変わるだろうとはとても思えなかった。

来たばかりの頃は大変な問題児だと思われた子でも、今では共同体の中で最も協調的で、人から好かれるようになっている者もある。クレアとアンドラの二人も、サマーヒルのおかげで素晴らしくなったと、私が自信をもっていえる子らである。もしこの子らが公立学校の厳しいやり方で教育されたら、今とはすっかり違った人間になっていたのは間違いない。

現在いる問題のある子供のことを考えるときには、このように素敵な子に変わってきた子が何人もいるということを思い出すことが大切だ。中には、サマーヒルのやり方が向いていないという子もいないとはいえないだろう。しかし、サマーヒルへ来たために公立学校へ行ったのよりも悪くなったというような子どもは、まずあり得ないにちがいない」(p.213)。


なぜそんな素晴らしいことが子どもに起こりえるのかなんて考え込む必要はないでしょう。ただ自由を与えられれば、人間は正しい道を進むのですから。


『フリースクールとはなにか』 NPO法人東京シューレ(編)

2008年07月21日 | Book
この本は題名は『フリースクールとはなにか』となっているけれど、中身は東京シューレの歴史や実際の生活の内容の紹介です。


多くのフリースクールが経営的に細々とやっているなかで、多くの生徒を集めて大きな校舎をもってスクールを運営している東京シューレの秘密については分からなかった。


どうしてここまで多くの生徒を集めることができたのだろう?


読んでいて印象深かったのは、著者のゲームに関する記述。

東京シューレでは一応カリキュラムのようなものがあるみたいだけど、実際は勉強するもしないも自由で時間のすごし方も自由みたい。何をしてもよいことになっているらしい。

その中でやはり子どもたちに一番人気があるのはゲームだそうです。

面白いのは、大人である著者自身も最初はゲームに偏見を持っていたこと。

「スタッフから見てもそうだった。「ゲームももちろんいいんだけど、他にも世の中、おもしろいことがいっぱいあるのに・・・」」(175頁)。

しかし著者は、実際はゲームが子どもたちにとって年齢を超えた共通の文化であり、共通の関心事であり、共通の話題であることに気づいていきます。

また子どもたちはゲームを通じてコミュニケーションをとっていることも。

「仲間づくり、譲りあい、けんか、楽しさの追及・・・ゲームという遊びのなかで、異年齢の子供どうし、関係をつくりあい、世界を広げている」

「もし子どもが学校に行かずに、一日中本を読んでいても、それが歴史物などではなく、ファンタジーや殺人事件が起こる推理小説だとしても、大人はそれほど心配しない。それが、ことゲームとなると、途端に親は落ち着かない」(176頁)

こういう記述は読んでいてどこかすっきりする。



僕が子どものころにはすでにロックは大人は批判の対象ではなかったけれど、ゲームへの偏見というのは、おそらく昔のロックへの偏見などと同じなのではないだろうか。

「ゲーム」とか「ロック」というふうに一括りにして批判することはできても、個別のゲームや個別のロック・グループについて論評することはできない。まともにそれらに向き合っていないからです。


人が何かに熱中しているとき、そこには“何か”があると考えるほうが、生産的ですね。

『イノベーションと起業家精神〈上〉その原理と方法』 P・F・ドラッカー(著)

2008年05月11日 | Book
経営学者P・F・ドラッカー著『新訳 イノベーションと起業家精神〈上〉その原理と方法』を読みました。原書が出たのが1993年です。

この本(「上」だけだけど)で著者が探求しているのは、企業が利益を生み出すイノベーションとは何なのか?ということ。著者は、イノベーションとは供給者が“新しいもの”を創造するというよりも、現実の変化に気づくことだと強調します。

著者は、現実の変化が起こっている兆候を見出すヒントを七つ挙げています。

イノベーションとはニーズの変化の発見である

一つ目の変化の兆候を見出すヒントは、予期せぬ成功と失敗に注意を払うことです。

「予期せぬ成功」とは、自分が第一に売ろうとしているわけではないのに、なぜか結果的に売れてしまっているというもの。例えば、婦人服を主に売ろうとしていたのに、家電が売れてしまったかつてのR・H・メイシーという百貨店のように。

ここで起業家にとって重要なのは、「予期せぬ成功」である家電販売に力を注ぐべきだということ。この場合ではそれがイノベーションに当たります。当たり前のことのように思えるけど、「予期せぬ成功」は経営者の最初の予想が外れていることを意味しているので、そのミスを認めることができず、商売の機会を逸する経営者がいることを著者は指摘します。商売をしているにもかかわらず、利益を得る機会よりも、自分の思い入れを優先させてしまうのです。著者は次のように言います。

「マネジメントが報酬を支払われているのは、その判断力に対してであって、無びょう性に対してではない。マネジメントは、自らの過誤を認め、受け入れる能力に対しても報酬を支払われている。特に、それが機会に道を開くものであるとき、このことがいえる。だが、このことを理解している者は稀である」(p59)。

「予期せぬ失敗」も同様に、経営者がたてた予想が外れた現実から、消費者のニーズをつかみ出す機会となります。

例えば、消費者を「一般」「中流の下」「中流の上」「上流」と区分して、フォード自動車会社は1950年代に「中流の上」を狙ったクルマ“エドセル”を売り出したけれど、失敗。

しかしこの失敗からフォードは、上記の区分がもはやあてはまらない行動を消費者はとっていることを見出します。それが、「ライフスタイル」という消費行動です。

「中流」でも「上流」でも「一般」でもない、「ライフスタイル」重視の消費者の出現に対応してフォードが開発したのがサンダーバードであり、それは成功をおさめます。これもイノベーションです。

ドラッカーによれば、この「ライフスタイル」という消費行動は、ベビーブームによる人口の重心の10代への移行、高等教育の普及、女性の生き方の変化が生じる前に起こっているということです。興味深いですね。

ドラッカーは言います。「ライフスタイル」という言葉が何を意味するのかさえ、まだわれわれは分からない。しかし“何か”が起こったことをフォードは失敗から学んだ。起業家にとって大切なのは、変化が起きた原因を知ることではなく、変化が起きたことを知覚することである、と。経営者は学者ではないのですから、変化の原因を説明する必要はないのです。

利益の源泉は消費者の行動の変化にあるのですが、その変化の兆候を見分ける機会は、自社や他社の成功と失敗にあることを著者は指摘します。


この「予期せぬ成功と失敗を利用する」に続いて挙げられるイノベーションのチャンスが、
「(業績、認識、価値観、プロセスにかかわる)ギャップ」
「ニーズの存在」
「産業構造の変化」
「人口増の変化」
「認識の変化」
です。

ただ、内容としては、どれも、消費者のニーズの変化をつかむことの重要性を表しています。そういうことは、多くの人にとって、あまりにも自明の理と思えるかもしれませんが。

イノベーションとは問題の解決である

 「業績ギャップ」では、需要が伸びている産業において、無駄な生産を行わずに需要に対応した供給を行えば業績は伸びるはずという事態において、その効率的な新しい生産技術が現れた例が取り上げられます(鉄鋼業における高炉から電炉への転換 p.88)。

ここで大切なのは、(例えば電炉という)新技術を発明したということではなく、無駄な生産によって鉄鋼業は膨大な利益獲得の機会を逸しているという「業績ギャップ」を認識できたということです。この業績ギャップの認識によって初めて、「無駄の多い非効率的な機械的プロセスを効率的な化学的プロセスに変える」必要性という課題・問題が明確化されます。イノベーションとは、このような課題を解決することであって、新技術を発明することではない、とドラッカーは強調します。

例えば、海運業界は長年船の輸送速度を上げることで利益を増やそうとしてきました。しかし、海運業界が利益の機会を逸していた主な原因は、港に入った船が遊休している時間の間に発生する貨物船のコストでした。つまり解決すべき課題は、船の速度を挙げることではなく、船の港での遊休時間を減らすことでした。そこで、積み込みと輸送の分離という「イノベーション」が行われたのです。それは新技術ではありませんが、紛れもなく「イノベーション」でした。新しい技術ではなく、何が課題であるかを発見したことこそが「イノベーション」だったのです(93-94)。


ハイテク

新技術がイノベーションではないとは、ドラッカーが再三強調することです。当時すでにシリコンバレーでブームを起こしていた「ハイテク」に対し、その経済成長への貢献を疑問視していたドラッカーは、新技術で勝負しようとする起業家について次のように言います。

「知識によるイノベーションが失敗するのは、起業家自身に原因がある。彼らは高度の知識以外のもの、とくに自分の専門領域以外のことに関心を持たない。自らの技術に淫し、しばしば、顧客にとっての価値よりも技術的な複雑さを価値としてしまう」(p.189)。

ハイテク起業家は、消費者にとっての課題・ニーズよりも、自分の技術革新に固執してしまうのです。ハイテクによって起業することの難しさは、他のイノベーションが消費者の抱えている問題・ニーズを発見することから始まるのに対し、ハイテクはそれ自身が他者のニーズを作り出そうとする姿勢を持っていることです。

パソコン、インターネット、携帯電話による便利さへの需要は、それらが普及して初めて生まれました。携帯電話が写真やビデオを撮る必要性が消費者にあったかどうかわからないけれど、その機能が内蔵された商品が発売されて始めて、消費者はそれが当たり前と思い込むようになりました。

このように、ハイテクすなわち知識によるイノベーションは、あらかじめ消費者のニーズを明確に予測することはできません。受け入れられて初めて、そこにニーズが存在していたことがわかる産業なのです。そこには大きなリスクが付きまとう。ドラッカーはこのことについて次のように述べています。

「その(知識によるイノベーションにつきものの)リスクは、それが世に与えるインパクト、そして何よりもわれわれ自身の世界観、われわれ自身の位置づけ、そしてゆくゆくは、われわれ自身にさえ変化をもたらすことに対する代価である」(p.207)。


イノベーションとは、現実の変革ではなく、変化への対応である

ハイテクは、イノベーションの例としては主流ではないとドラッカーは考えていました。彼にとってイノベーションとは、あくまで自分を取り巻く環境・現実の変化を知覚することであり、現実を変えることではないのです。

イノベーションとは、環境の変化を知覚して、ほかの供給者がまだ行っていないサーヴィスを提供することにある、と彼は考えていました。

現実・環境は必ず変化するし、今もしている。そのときに何もしないことは、それ自体がリスクを作り出していると言えます。イノベーションとは、そのようなリスクを回避し、予期せぬ成功や失敗、ニーズの変化を知覚することです。

ドラッカーはイノベーションに成功するものは保守的であると言います。それは、変化する現実を受け入れ、的外れのサーヴィスを行うリスクを回避し、何もしないリスクを回避するという意味で、保守的であるという意味です。


参考:「ベンチャービジネス」の幻想 池田信夫 blog

書籍 『ひきこもりの社会学』 井出草平(著)

2008年04月16日 | Book
『ひきこもりの社会学』という本を読んだのは去年の11月でした。著者の井出草平さんはまだ大学院生で、修士論文をもとにした本のようです。

「ひきこもり」といっても当事者それぞれで原因が違うかもしれません。しかし著者はインタビューの人数を絞り、「学校」と「ひきこもり」との関連性を探ろうとします。

「ひきこもり」の原因には親子関係や友達関係などいろいろあるかもしれませんが、それら他の要因よりも、まず「学校」という存在が「ひきこもり」とどのように関連するのかを問うのです。

著者の主張の一つは、「ひきこもり」にいたるパターンには「拘束型」と「開放型」があるということ。

「拘束型」とは、真面目に出席し勉強しなければならないという学校の規範にがんばって適応しようとしながら、一度それに失敗したがために、自己否定感によってもはや学校に再度適応することができなくなってしまった人たちのことを指します。これは「登校拒否」につながり、やがて「ひきこもり」へと至るパターンです。

このようなパターンをたどる原因を、著者は当事者たちの心理的な自罰傾向に求めます。当事者たちは学校に適応すべきであるという規範を強くもっていながら、実際には集団に適応できない。そして、そのことを誰にも言えないために「逃げ場のない」状態になり、ひきこもりへと移行していくのです。

その際、なぜ「逃げ場のない」状態になるのかと言えば、それは、本来は適応すべきであるのに適応していない自分を恥じ、自分を責め、それゆえに具体的何か行動をするということが不可能になるということでしょう。著者はこのようなひきこもりのメンタリティを次のようにも述べます。

「「ひきこもり」に暴力傾向があったとしても、それは反社会的な行為として行われるのではなく、社会的に「まっとうな」人生を送れていないことに対するいらだちや、そのことを親などに指摘されることによって噴出する暴力である。「ひきこもり」の暴力傾向は対象が他者や物であるとしても、その行為の意味は自罰的であることが多い。自罰傾向とは、社会の規範と現在の自分を照らし合わせて、その落差に自分を罰する必然性を見出していると考えられる。つまり、「ひきこもり」という逸脱をしながらも、当事者に強固に保たれる「規範意識」が指摘できるのである」(96頁)。

「拘束型」は人よりも規範意識が強いため、その規範に沿えない自分を許すことができず、人の目を避ける生活に移っていくと言えそうです。


それに対し、「開放型」のひきこもりとは、主に大学に入ってからひきこもる人たちを指します。この人たちは、「拘束型」の人たちとは異なり、中学・高校の規範に実際に適応して、順調な学校生活を送っていました。

しかし彼らは、大学に入ると、その自由さゆえに、行動できなくなります。中学・高校ではどのような授業を受け、どの席に座り、どこでお弁当を食べればよいかが分かっているので、規範により沿う人たちにとっては、生活しやすいと言えます。

しかし大学に入ると、それらがすべて自由となり、すべてを自分で決めなければならなくなるため、それまで規範に依存していた人は大学という場所を怖れるようになり、ひきこもりに至るのです。

著者はこの「拘束型」と「開放型」をひきこもりの二つの類型にまとめています。

この二つに共通しているのは、どちらも社会の規範を信奉している点です。つまり、まじめに学校に通い、よい成績を取る若者が理想だという規範への信奉です。

「拘束型」は、それらの規範を信奉しすぎたために、順応できない自分を許せなくなり、ひきこもるようになりました。

「開放型」は、それらの規範を守る生活をすべて用意してくれる中学・高校では問題が起きなかったのですが、そのようなお膳立てが失われる大学に入ると、自分が何をすればよいか分からなくなり、ひきこもるようになりました。

両者の違いは、「開放型」の人たちがひきこもる大学生活という時期には、高校までの通学する・勉強するという規範に加えて、うまく集団に溶け込むという新しい規範が追加されていることでしょう。

高校まではクラスも席順も決められたため、集団の中での自分の位置すら学校が用意してくれていました。しかし大学では集団の中でどの位置を占めるのかという問題すら、自分で決めなければならない。その規範が重くのしかかるのでしょう。

こう見てみると、「拘束型」が重荷に感じる規範と、「開放型」が重荷に感じる規範は、同じ性質のものではないように思います。「拘束型」が重荷に感じる通学・勉強という規範は、近代国家が設定したルールです。それに対し「開放型」が重荷に感じる集団への溶け込みという規範は、近代以前から続く日本社会独特の規範だという印象のように思います。

興味深いのは、おそらく会社という場所は、通学・勉強という規範と、集団への溶け込みという規範の両方をクリアした人がもっとも適応しやすい場所なのではないかということです。高校までで通学・勉強という規範をクリアし、大学で集団への溶け込みという規範をクリアした人が、比較的な会社という場所に入っていきやすいのではないでしょうか。

「ひきこもり」というと医療者がその心の病を治すという視点でかかれたものはありますが、この本は個々人の心の病が社会的な規範と密接に関連していることを分かりやすく教えてくれる点で、とても興味深い本でした。

『自由学校の設計―きのくに子どもの村の生活と学習』

2008年04月07日 | Book
『自由学校の設計―きのくに子どもの村の生活と学習』を読みました。

著者の堀真一郎さんはもともと大阪市立大学生活科学部の教授だったそうですが、50代でそれをやめ、和歌山に自分の理念に基づいた学校を作ったそうです。

この学校は全寮制。既存の学校教育とは異なり、自然に囲まれた立地を生かして、体験学習のような授業を優先しているそうです。

また普通の学校のように年齢別にクラスが分けられてもいません。テストも宿題もありません。

サドベリー・バレー・スクールの本を読んだときにも思いましたが、こういう自由な発想で作られた学校は、興味深いのですが、実際にどういうことが行われているのか本を読んだだけではよく分かりません。

ではそれはそうでしょう。実際の体験を重視しているのですから。カリキュラムをこまかくきめているわけではないのです。

この学校はサドベリー・バレーのようにまったく自由というわけではなく、ある程度はカリキュラムはあるみたいです。ただそれらを教える際にも、机に向かってカリカリ勉強するというものとは程遠いようです。

この学校も、実際にどういうことが行われているのか見てみたいです。

参考:「学校法人きのくに子どもの村自由学園」


効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』

2008年03月23日 | Book
今やすっかり時の人となられた勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』を読みました。

内容はすでに多くのブログで取り上げられているし、書店のビジネスコーナーで平積みされているので、手に取ったことのある人も多いと思います。

私にとって印象が一番強かったのが、著者が述べる「アウトプット」の方法。著者がマッキンゼーにいたときに身につけた方法だそうですが、相手に自分の言いたいことを効果的に伝えるための方法のようです。

たとえば、自分の言いたいことの優先順位をはっきりさせ、とにかく重要なことのみで内容を組み立てることです。

一見当たり前のようでいて、実はこれは難しい。人って、自分の言っていることから自分で平気に脱線していきますからね。

著者が紹介する『ロジカル・シンキング』という本を読んでみたくなりました。


この本で著者が述べていることは、一つ一つは大げさなことではありません。ただ著者が普通の人と違うのは、日々の生活・仕事で「こうした方がより効率的」という小さなことにたくさんきづき、かつそれら一つ一つを突き詰めることだと思います。思うだけでなく、生活の中で実行・継続していくのです。

それは「大発明」でも「ひらめき」でもないかもしれませんが、その多くの小さなことを継続できることが、著者を普通の人から区別しているように感じました。

『 「超」学校』ダニエル・グリーンバーグ(著)

2008年03月08日 | Book
先日、天外伺朗さんの『教育の完全自由化宣言』を紹介しましたが、そこで扱われていた「サドベリーバレー・スクール」に興味がわいたので、創設者のダニエル・グリーンバーグの著書『「超」学校』を読んでみました。

とっても面白い本でした。

天外さんの本でその内容は予想していましたが、その予想を裏切らず、その予想をより豊かに膨らましてサドベリーバレー・スクールの様子を伝えてくれている本です。

本を読んだだけでは、実際にこの学校がどう運営されているのかはわかりません。

ただ、年齢によって分けられたクラスはありません。そして担任の教師も、決められたカリキュラムもないそうです。

そこは自由の国。

そう、ホントに自由の国のようです。

子供たちは、遊びたいだけ遊んでいいそうです。

そういえば、子供のころ、野球部や学校の行事でキャンプに行っても、テレビを夜に見たいと思わなかったし、そういうことを言い出す子もいませんでしたね。

遊びたいだけ遊びながら、自分の中に「これを学びたい」というものが出てきたら、学校の中にいる「スタッフ」をつかまえて、勉強を教わるそうです。あるいは、学校の外にいるその分野の「先生」に弟子入りしたり。

そうやってホントにすべてを自主的にやらせてしまうそうです。

既存の学校教育はもちろんありませんが、それに代わる「ユニーク」な教育方法もないみたいです。とにかく、放っておくのです。

ただし、勉強に関しては放っておかれますが、サドベリースクールという共同体の秩序は守る義務があるそうです。その秩序がどのようにして守られているかは、ぜひ本書を読んでみてください。

興味深いエピソードに満ちた本ですが、ひとつ二つ、著書の言葉の引用を。

著者は、何も教えない学校に、他の学校の「問題児」が送られてくることに触れて、そこに「問題児」と社会との格闘を見ます。

「実際問題として、サドベリー・バレー校では「問題児」の方が素晴らしい行いをしているのです。…理由は簡単です。「問題児」であることは、戦いを放棄していないサインだからです。こうした子供たちの尊厳を破壊し、矯正し、普通の鋳型に押し込もうとしても、彼(女)らは戦いをやめないのです。屈服を拒否するのです。反抗するだけ元気があるのです。
 確かに、彼(女)らのエネルギーが自己破壊的な行為に向かうこともあります。しかし、その同じエネルギーが、抑圧的な世界との闘いからひとたび解放されれば、自分自身の内面世界の構築へと速やかに流れを変え、よりよき社会の建設へと向かいさえするのです」

それに対して、より厄介なのは、社会や親の要請に順応してしまった「優等生」たちです。これはサドベリースクールの中でも外でも存在する問題です。

「社会の犠牲者とは「問題児」ではなく、実はこうした「優等生」なのです。何年もの間、外部の権威に寄りかかってばかりいたので、自分自身がなくなってしまったのです。目から光が、心の奥からは笑いが消えてしまっている。破壊的な行動は起こさなくとも、自分で建設するということを知らないのです。
 こんな子供たちにとって、自由とは恐ろしいことなのです。こうしなさい、ああしなさと、誰も命令してくれないのですから」

著者は、そんな「優等生」たちに必要なのは、指示のない状態に置き、何をすればいいかわからない状態に彼らを置くことだといいます。そこではじめて、「優等生たち」の中にも「自分」が芽生えてきます。

「(「優等生」への)もっとも有効な薬は、「退屈」の大量投与です。これが効くことがときどきあるのです。この学校には学習を組織してくれるプログラム・ディレクターがいませんから、「優等生」たちは時にそのまま「無為」の世界へさ迷い込んでしまいます。彼(女)らの「退屈」が耐え難いまでになったとき、本当の絶望の中から立ち上がり、自分なりの生の枠組みを作り出そうとする気力が生まれるのです。
 わたしたちは、その「反転」の瞬間がその子に到来する瞬間に、前もって気づきます。そして、その「反転」のプロセスを見守ります。その瞬間は遅かれ早かれ、いつかはやってくるものなのです。しかし、可哀相なのは、苦痛に耐えなければならない「良い子」たちです。したくもないのにさせられ、そのうちに習い性になった服従のつけが、こんな形で回ってきたわけですから」

 「この学校に幼いころ来て成長した子供たちは、「問題児」になることも「優等生」になることもありません。幸運な子どもたちなのです。それは、表情を見るだけでわかります。
 自分自身に安らぎ、環境の中でリラックスしているので、自分の目標を見失うことなく、浮き沈みに対処できるのです」(231-234頁)。


日本では、こういう自由の退屈さを与える機会があるでしょうか?大学がその機能を果たしているでしょうか?大学に入ったころには、すでに子どもは教えられたことをこなすことしか考えない人間になってしまっています。多くの子は、退屈さの辛さから逃げてしまい、楽しくもないことに遊んだり、資格の勉強をしたり、大学院への進学の準備を始めたりします。

サドベリーバレーでは、誰もが自分の内なるものに気づくことができるのでしょうか。一度、この目で見てみたいです。


*こういう興味深いところもあります。

*こちらはアメリカ本家のhp

『教育の完全自由化宣言』 天外伺朗(著)

2008年02月25日 | Book
天外伺朗さんの新著『教育の完全自由化宣言』(飛鳥新社)を読みました。

これまでの天外さんの著作と基本メッセージは変わりません。人間の心理は意図的にコントロールできるものではないこと。人それぞれには「内発的動機」(=創造性)が備わっており、それは他者から信頼されまた自己を信頼することで発揮されること。しかし現在の学校教育は、そのような人が持つ創意を殺そうとしているということ。

天外さん自身は教育の現場にいろいろ触れた体験を現在されているようですが、この著作にはそういう経験について詳しく書かれていません。むしろこの本は、エンジニアとしての経験から、人が能力を発揮する環境とはどういうものか、またその条件と比較して学校教育はうまく行っているかを、多少抽象的に議論したものです。

だから、やや観念的な議論になっている印象は否めません。

むしろこの本の長所は、モンテッソーリ、シュタイナー、デューイ、ニイル堀真一郎さんなどの教育学者の議論の要点を紹介してくれているところです。私はこれらの人たちの思想を知らなかったのでとても興味深かった。

どの教育者も、学校を規則で縛るような体制は子供を押し殺してしまうことを述べます。ただ、これは軍隊式の現在の学校体制では避けられないことでしょう。

上の教育者の紹介の中でも興味深かったのは、ダニエル・グリーンバーグがアメリカに開設したサドベリー・バレー・スクール。この学校では「授業」というものが存在しないそうです。

「グリーンバーグのサドベリーでは、大人の計画した授業というのは原則として存在しない。子供が「学びたい」という気持ちになるまで、まったく放っておかれるのだ。学びたいと思った子供は、教師を選んで定期的に授業を開いてくれるように交渉するのだ。人気のない教師は、誰からも声がかからない。
 当然のことながら、五年も六年も、毎日釣りばかりしている子供も出てくる。しかし、完全に子供を信頼してまかしてしまえば、子供は徹底的に遊びつくし、やがて学びに目覚めるときが来る。そうなると、イヤイヤ勉強している子供の何百倍もの効率で知識を吸収していく。
 事実、過去のサドベリーの卒業生は立派な社会人が多いし、大学もほぼ100パーセント第一志望に入学するという」(p.228)。

 「完全に子供の自由に任せてしまうので、読み・書き・足し算・引き算などを覚えない可能性もある。たしかに、四、五歳で読み・書きができるようになる子もいれば、十歳になっても覚えない子も出てくる。
 ところが、不思議なことに、設立以来ひとりの例外もなく、十五歳になると全員が読み書きを完璧に覚えてきた。早く覚えた子と、遅くまで覚えなかった子とで、まったく差はないという。」

これは結構衝撃的な報告ですね。「こどもにじゆうを!」「管理教育反対!」と唱える人は多いでしょう。でも、それを実践することほど怖いことはないと思う。「管理教育反対!」と唱える大人の多くも、どこかで「人間・子供はこうあるべき」という理想を子供に押し付けようとしているし、その点では子供を信頼していないからです。

それに対してサドベリー・スクールでは、もう完全にすべてを子供に任せてしまうわけですから。でもそれで結果的にどの子も立派に社会人として育っているところを見ると、荒唐無稽な考えではないということですね。

とても興味深い報告です。


『「学力低下」をどうみるか 』尾木直樹(著)

2007年10月28日 | Book
『「学力低下」をどうみるか 』という本を読みました。著者はテレビでも見かける尾木直樹さん。2002年の本ですからもう5年も前です。

この本で尾木さんが言おうとしている中で印象的だったのが以下の点です。

日本の子供が学力低下しているという言説は間違い

この尾木さんの主張は、2000年に経済開発協力機構OECDが32カ国の15歳の男女を対象に実施した「国際学習到達度調査」(PISA[生きるための知識と技能])の結果を踏まえてなされたもの。

日本の子供の「学力低下」が騒がれ始めたのは、国際教育到達度評価学会IEAによる成績調査において、かつては1位を占めていた日本の数学力が99年に5位になったことを受けて起こった現象でした。

それに対し尾木さんは、世界190カ国の中で数学5位・理科4位という成績を維持していることを「学力低下」とみなすことがおかしいことを指摘します。

またOECDのPISA調査は、単なる基礎知識の定着度を測定するのではなく、「覚えた知識や技能を実生活上でどの程度生かすことができるのか」という応用力を測ろうとしているテストであることを確認したうえで、日本の子供の「読解力」は「総合読解力」8位、「情報の取り出し」6位、「解釈」8位、「熟考・評価」は5位と好成績を修めている。また、「数学的リテラシー」ではなんと1位で、「科学的リテラシー」では2位とのこと。

このPISA調査結果は日本でも大きく報道されたのでしょうか?それを踏まえてた上で、今でも「ゆとり教育」批判が行われているのでしょうか。この調査結果が公表された当時、私はドイツにいたのですが、ドイツはどの分野でも軒並み中・下位グループで、国中が大騒ぎしていました。

このPISA調査の具体的な「問題」については、尾木さんがこの本で簡単にまとめていますし、類似の本は多いでしょうから、興味のある方はご覧になってはいかがでしょう。

例えばこの調査では「読解力」は「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」と定義されています、

私には、ここで紹介されている問題の具体例はどれも難しい問題ですが、それでもこのPISAの問題が、単なる知識を問うのではなく、それらの知識を自分の力で応用していく力を試しているのだということは伝わってきます。多分、本当に「頭のいい」子でなければ解けない問題が多いのでしょう。そういったテストで好成績を修めている以上は、日本の子供の学力が低いとはとても言えないのでしょう。


もう一つ尾木さんが強調することは、

総合学習は確かに子供の学ぶ意欲を高める

ということ。

ここで言う総合学習とは、つまり自分の学びたいテーマを自分で選び、自分で調べていくこと。要するに大学で書くレポートのようなものを高校段階で取り組むということですね。

そのレポートのテーマは、例えば

「米の関税化」
「テレビゲームと少年犯罪」
「介護保険について」
「学校週五日制」
「産業廃棄物の光と影」

などなど(p.188)。

総合学習には、生徒が一人ひとり自分でテーマを掘り下げることから、教師と生徒が一緒になってディスカッションして行ったり、著名人を招いた講演会を開いたりと様々な形態があるようですが、どれにも共通して言えるのは、他の学校の教科のように「正答」があるわけではないことや、現実の社会により密接に結びついた問題が取り上げられると言うこと。

この総合学習を取り入れて生徒の意欲を高め、大学進学率を驚異的に上げた京都の公立高校・堀川高校が有名ですが、同じような例が以前から存在していることが尾木さんの本を読めば分かります。この本でも、総合学習を取り入れることで大学進学率を上げた高校が紹介されています。


もちろん、総合学習を取り入れればすべての子供の成績が伸びるわけではないでしょう。それで子供のやる気がでるならば、すべての日本の大学生は勉強ばかりしていることになります。

おそらく堀川高校というのも、公立ではトップクラスの高校で、元々勉強の素質のある子が集まっているのだと思います。ただその素質を伸ばすきっかけがこれまでなかったということなのでしょう。

ただ同時に、以前、偏差値で言えば50前後の私立大学の教員の人と話していて、社会問題についてディスカッションさせたり調べたりさせると、いわゆる「一流大学」と呼ばれる学生と遜色はないとおっしゃっていたことが印象的でした(それに対して、語学力はやはり落ちるとのこと)。

つまり、偏差値の高低に関わらず、より現実生活に根ざした問題について学習させることは、たしかに子供の学ぶ意欲を高める効果はあるということなのではないでしょうか。


尾木さんのこの本を読んで感じるスタンスは、決して子供の「学力」が低いことがよいのではないということ。ただ、科挙のような従来の知識偏重は子供にとって望ましい「教育」の役割を果たさないということです。

専門家と啓蒙書

2007年10月12日 | Book
前のエントリでも取り上げた、神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』から、印象に残った言葉など。

「啓蒙活動においては、分かりやすい伝わりやすい表現にするために、複雑なものを単純化し、特殊なものを平凡で卑俗な見かけに置き換えねばならない。その過程で、ときには、本質的な部分が切り落とされたり歪曲されたりする。本質についての把握が確かであることが、啓蒙活動における核である。したがって、啓蒙書の質を見てみると、その専門家の程度が量れる。着眼点は、切り落としと単純化がじゅうぶんであるか、本質部分を切り落としたり歪曲したりしていないかである。その事情は、ちょっと生け花に似ている」(神田橋條治『追補 精神科診断面接のコツ』

そう言われてみると、素人に対して面白い本を書ける人は専門家としても優れてる場合が多いのではないかと、私も(漠然と)思います。

やはり、そういう人たちは、自分のしていることが人間や社会とどういう関係にあるのか突き詰めて考えているのでしょうね。

少し前から新書ブームですが、そういう新書の中にも、専門家として活動してきた人が、自分のしてきたことの核をまとめているものもあるでしょう。学者・専門家と一般の人との垣根を低くしたという点で、よい傾向なのでしょうね。