joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

吉田君がとても印象的 『僕の生きる道』

2004年09月30日 | 映画・ドラマ
『僕の生きる道』を全部見終える。うーん、このドラマは9話目ぐらいまでで語りたいことをほとんど語っているのかもしれない。だから、最期の10,11話ぐらいは大体予想した雰囲気で話が終わっていきました。



★以下、ネタばれあり。



とても印象的だったのは、中村先生(草なぎ君)が亡くなった5年後に吉田君という生徒が教師として母校に帰ってきたこと。強迫的に勉強しか目に入らずまわりの人のことを考えられなかった少年が、ハートをもった人間として、また中村先生に憧れて教師として高校に戻ってくる。そう来たかー、という感じでした。これは予想できなかった、さすがに。

そのときの吉田君の顔が、がり勉のころとちがってとても柔らかい顔に見えたのもおどろいた。髪を切って目をはっきり見えるようにしていたからかもしれないけど、この生徒役の俳優(多分ジャニーズの子)は演技がとても上手いのかもしれない。

このラストでドラマがうまく締まったように思います。



TOEICの勉強は、すこし模擬問題をやってみてがく然とする。リスニングがわかんないよー。リスニングはどうすれば上達するんだろう。

思うに、リスニングというのは頭や心が柔らかい人に向いているのじゃないだろうか。一つ一つわかろうとする完ぺき主義、お勉強主義、受験主義では、やわらかい頭をもてない。もちろんリスニングの上手い人も訓練はしているのだろうけど、それは左脳的な完ぺき主義とはちがうのだと思う。

とにかくやっていくしかない。でも、リスニングの勉強って難しいんだよね。CD付きの本を手に入れても、テキストをみたら何を言っているのかわかるけど、それでリスニング力が上達するかどうかはわからないし。

効果的なリスニング訓練法ってどういうものなんだろう。

電車

2004年09月27日 | 見たこと感じたこと
電車に乗るというのは、必ずしも心地いい体験とはいえない。大体はいつもと同じ路線を乗るわけだし、車内からの風景も決まりきっている。退屈で気分が悪くなりそう。

でも、遠くから電車が走るさまを眺めるのは楽しい。あれがあの電車なのか?と思う。あのよく知っているはずのものとは全くちがうものを見ているよう。

電車に乗っていると、電車はとても長いもののように思える。でも、少しはなれたところから眺めると、電車の初めと終わりがわかるように眺めると、電車がじつはそれほど長くないように思える。

また、電車に乗っていると電車はとても速い乗り物のように思えるけど、駅に入ってくる電車は、スピードを落としているから、機械ではなくまるで生き物のようだ。

ホームに立っていることも、電車に乗ることと同じくらいとても退屈だ。でも、遠くからホームに立っている人を見るのは楽しい。まるで小さいのに、みんなそれぞれの人生と生活をもっているという事実が、とてもおかしい。

みんな同じように電車から降りて改札まで早歩きしている。でも、みんなそれぞれの人生を生きているのだ。

電車は、遠くから眺めるととても楽しい。

呼吸する本たち ( breathing books )

2004年09月25日 | Book
書店で本を買うと、本にカバーをしてくれます。

その本を買った後も、本を守るためにと、そのカバーをずっとすることもあります。

でも、そのうちやっぱりそのカバーを捨てて、本をそのまま見たくなります。

なんだか、カバーをしていることで、本が窒息してしまうような、そんな感じになるのです。

カバーをとり、本の表紙があらわれてくると、本が生き返ったような、そんな感じがします。

Money is flow.

2004年09月24日 | reflexion
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴


あなたが持つお金への概念を探ってみましょう。

お金は「きたない」  お金は「流れる」 お金は「○○○」・・・


あなたが持つ愛の概念をさぐってみましょう。

愛は「温かい」  愛は「無条件」 愛は「△△△」・・・・


この お金や愛 の言葉を「わたし」に変えて読んでみてください。

杉浦類美子 幸せのメッセージ ~ビューティフルマインド~より


お金は汚いとわたしは思っているだろうか?汚いとまで思っていなくても、あまりじっと見たりはしない。お金がばらまかれていたら、なにか悪趣味な感じがする。一面に花がさいていたらとてもきれいだ。でも、お金がぎっしりまかれていたら、あまりいい感じはしない。だってお札の色はあまり明るくないし、デザインもファッショナブルじゃない。

これは観念かもしれない。一万円札は、なにかとても重みのあるもののように感じる。重みと言うか、なんというか・・・ ばらまかれたお金がきれいに見えないのは、お金が何か人間の業をあらわしているように感じるからだ。お金は人間を醜くする、そう思い込んでいる。だから、お金は悪者だと、そう思っている。

お金を愛するとはどういうことだろう。お金はいずれは出て行く。手元にいくらか残っても、一部は出て行く。出て行くものを愛するとはどういうことだろう。

お金を愛するとは、お金の流れを愛することだと思う。お金を溜め込むことでもないし、お金をばらまくことでもない。入ってきてくれて、出て行ってくれる(かわりにサービスを買える)、そういう流れを愛することだと思う。

お金とは流れだ。それは、わたしたち人間の生命と喜びを維持し作り出していく流れだ。お金の流れが私たちを守り、私たちを育て、わたしたちに喜びを教えてくれる。

ライフコンパス

2004年09月23日 | 日記
先日、株式会社 本物研究所が主催した「ライフコンパス商品説明会」に行って来ました。この説明会については、船井幸雄さんのサイトでの告知で知りました。

船井さんによれば、ライフコンパスでは気になる相手との相性とか、その人の生まれ持った性格、モチベーションを上げる言葉、力を伸ばす環境、調子の良い日・悪い日など様々なことがわかる、ということなので、興味を持ちました。正直に言えば、自分の人生がこれからどうなるのかとか、そういうことがわかるのではないか、という興味がありました。

説明会での印象から言えば、このライフコンパスは、これまでの統計から生年月日を手がかりにその人の性格や人生の一般的な特徴についてかなり的確な指摘をしてくれる、そういうパソコンソフトです。

生年月日でそんなことがわかるのか?という疑問は誰にもあると思いますし、その仕組みについては私も詳しくは説明できません。ただ、私自身に対する診断を見る限りでは、すべてとは言わないけどかなり高い確率でその人の特徴を言い当てることができるようです。

これはよく考えればすごいことです。

私は一時期エニアグラムという心理学を学んでいたので、人間には生まれながらにしてもっている性格があるという考え方には抵抗はありませんでした。しかしエニアグラムが提示している人間の性格は9通り、ウイングを含めれば18通り、サブタイプを入れても54通りです。

それに対してライフコンパスは生年月日ごとにそれぞれの特徴を出してくるので、かなりその人にそった診断を提示してきます。

またこのライフコンパスは、他の人の生年月日を打ち込めば、その人と自分の相性、それもビジネス・友人・恋人・結婚での相性までわかるそうです。

人間関係については自分で操作することができなかったのでその妥当性を実際に試すことはできませんでしたが、私自身への性格診断をみるだけでも、普通ではわからないことを私に会う前からコンピューターは打ち出していたので、これはちょっとすごいものだぞ、というのが私の第一印象です。

べつに私は無料体験会に出席しただけで、この会社とはなんのつながりもありませんが、もしチャンスがあればみなさんもこのライフコンパスを体験してみてはどうでしょうか。そう薦めたくなるようなものでした。

(エニアグラムについては、日本にはいくつかの団体があります。)

夕方のニュース

2004年09月20日 | テレビ
どうして夕方6時から7時まで、さつじんじけんの報道を視聴する習慣が現代人にはあるのだろう。夕方が一日のうちでも、空が特別な色を見せまわりを独特な雰囲気で包む貴重な時間であるのに。

多くの家では、食事をするはずの時間だ。一日のうちでもっともおいしいものを食べている時間でもあるだろう。なぜその時間にさつじんじけんを見なければならないのだろう。

なぜわたしたちはさつじんじけんを視聴することで、なにか真面目なものを見ている気になるのだろう。

『今すぐ話せるドイツ語単語集』

2004年09月19日 | 語学
『DUO 3.0』に触発されて、ドイツ語の勉強ももう一度始めようと思う。僕はドイツ語には10年以上かかわっていたけど、結局全然中途半端に終わっていた。

『DUO 3.0』のように例文で単語を覚えることのできるものを探すと、こういうドイツ語単語集があった。

単語を例文で覚える式の本はたくさんあるけれど、ちゃんとCD付きのものはこれまで意外となかったのではないだろうか。これは2002年に出たものだけど、これまでこういうものがなかったこと自体、不思議だ。これもひょっとしたら、『DUO』の影響なのだろうか。

東進ブックスのこの本を半分ほど読んでみたけど、なかなかいい感じだ。ドイツに暮らしていたときに多少ドイツ語はかじったけれど、しかしあちらで暮らしていると最初は一生懸命語学を勉強しようと思うが、そのうち生活に慣れてきて、普段使うごく限られた言葉しか口にしないようになり、結局あまり語彙数が増えなかった。なんとなく、ですべてを済ましてしまうようになるのだ。

だから、海外に滞在していたから語学に堪能だと思うのは間違いで、あちらで暮らしてかつ毎日ちゃんと勉強していた人だけが語学は上達する。

東進ブックスの本に戻ると、例文はとても基本的な、でも生活に密着した文章がならんでいて、単語も日常生活に必要なものが並んでいる。僕自身は、この生活に密着した言葉をじつはちゃんと覚えていなかったので、こういう初級者向けの本でもわからない文章が結構ある。これは真面目に取り組む価値がありそうだ。

こうなると、でもTOEICの勉強がおざなりになるし、時間の配分をどうしようかな。

サンディーの優しいフラレッスン

2004年09月19日 | テレビ
今、深夜でNHK教育でサンディーの優しいフラレッスン NHK趣味悠々という番組をやっています。

なんだか、不思議な番組です。ゆっくりとした、しかしメリハリもある気の利いたリズムに合わせて、女性たちがテンポのいいステップをふんでいく。これが見ていてとても気持ちのいいのです。

深夜だから余計に異次元の空間に引き込まれていくよう。テレビなのに、みなれたテレビではないよう。ハワイに行って自分も踊りたくなる、そんな番組です。

えいごについてなど

2004年09月19日 | 語学
TOEICのため、ひさしぶりに英語を「勉強」し始めると、単語とか文法とかもっとしっかりやらなくちゃ、と“机上の勉強”モードになっていく。単語集の例文とか読んでいると、ゲームをしている気分で楽しくもある。

でも、英語ってほんとは道具のはず。なのに単純に英語の本を読んだりするのがまどろっこしくなる。「点数が上がらないよっ!」という感じになる。

これは本末転倒なのに、どうしても受験勉強のときの癖が出てしまうのだろうか。もう10年以上も前の話なのに。

でも、TOEICの勉強法を教えていただける『TOIECスコアアップ』によると、とにかく多読することで英語の文法になれることが肝心だと言うことなので、途中まで読んでいた“Eleven Minutes”(by Paulo Coelho)を引っ張り出して読んでみた。

少し読んだだけだけど、なんだかほっとしました。やっぱり勉強じゃない英語のほうが読んでいて楽しい。それに、勉強した単語も少し出てきていたし。

でも、わからない単語もやはり沢山あって、読んでいる気にはなるけど、でもじつは大意もつかめていない気がする。そして、実際の試験ではその肝心の大意がつかめていないと、読んだ気にはなっても点にはならないのでしょう。やっぱりある程度の勉強は必要なのでしょう。

でも、日本語よりも欧語の方がパウロ・コエーリョの雰囲気をよりつかめるのかもしれない。欧米の若者たちの閉塞した雰囲気が、日本語よりよく伝わってくるような感じがする。海外に暮らしたことのある人は同じ意見をもってくれるのではと思うのだけど、人生に希望を見出すと言う点では、日本人のほうがヨーロッパの人よりも長けている気がする。というか、あちらの方が、若者の雰囲気が何か諦念に彩られていた気がするのです。それは、僕が住んでいた場所がドイツの北だからだったかもしれないけど。

もう夜も遅いので(0時26分)、パウロ・コエーリョについてはまた書きたいと思います。


野球について、ふと思う

2004年09月17日 | スポーツ
僕はプロ野球ファンと言っても、実際に球場にはまったく行かない。テレビで見るときも関西の某人気チームの試合しか見ない。小・中学校と野球をやってはいたけど、だからといってそれほど野球を深く理解しているわけでもない。他チームの選手を見て、「これはいい選手だ」と思うことはあっても、やっぱりファンではないチームの試合を見るということはほとんどない。

でも、野球の好きな人と言うのは、贔屓チーム以外の試合を見ても野球を堪能できるのではないだろうか。

日本人は野球が好きだと言われているけど、贔屓チームが好きな人はたくさんいるけど、「野球」そのものが好きな人はいったいどれくらいいるのだろう。たとえばファン以外の人で広島対ヤクルトを熱心に観ることのできる人はどれくらいいるのだろう。セ・リーグの試合ではあるけれど。

ほんとに日本人は野球がすきなのだろうか。

『DUO』へのお願い

2004年09月15日 | 語学
『DUO 3.0』という英単語・熟語集を読み続ける。一通り読んだので、あとは繰り返し読んでとりあえず例文を頭に入れたい。

同時に例文の単語に関連する派生語や同意語・反対語などにも目を通しているのだけど、うーん、やはり例文で覚えないと単語だけ見ても効率はよくないように思える。まあ、ある程度続けてみて様子を見てみるけど。

でも、できたらこの関連語・派生語・同意語などをもちいた例文集で新しい本を作ってくれたらいいのではないだろうか。やっぱりその方が単語が頭に入っていくような気がするけどなぁ。

お願いします、アイシーピーさん!

医者の言葉、患者のことば

2004年09月13日 | 日記
というタイトルが掲げてあった雑誌『論座』を本屋で見かけました。

おもしろいですね。なぜ「医者」には「言葉」で、「患者」には「ことば」なのでしょうか。編集者の意図はは雑誌を読めばわかるのかもしれません。ただ、僕自身はこのタイトルには何か感じるものがありました。

前にも話したように、わたしは「モーニング・ノート」というものを毎日書いています。これは思い浮かぶことをそのまま書き連ねるのですが、最近は全部ひらがなで書いています。

ひらがなで書きはじめたとき、なんだか解き放たれたような感じがしました。もう文章を書くときに漢字を思い出さなくていいのです。大袈裟に言えば自由になれた感じがしました。とにかく何でも書ける、そう思えたのです。

漢字は大切な日本の文化です。と同時にそれは、私たちの身体と精神にある程度の縛りを与えなければ習得できないものです。すべての文章をひらがなで書くことは、この縛りから自由になって考える手段なのかもしれません。

「言葉」ではなく「ことば」と書くとき、場合によって後者のほうがなんだかやさしを感じさせます。それは、上のようなことと関係があるのかもしれません。

中谷彰宏さんはある本でこう言っています、

「漢字ではなくひらがなで書くと、中身が濃くなる」と。

なぜなのでしょうか。ひらがなは、なぜか胸にしみこんでくるような味わいがああるときがあります。それは、ひらがなの方が漢字よりもより口に出す音とダイレクトに結びついているからなのでしょうか。

漢字を書くには、頭の中でより秩序を求めているのかもしれません。それに対し、ひらがなは、こころで思ったことをそのまま表現しているのかもしれません。


そうだから

2004年09月12日 | reflexion
この世界(Universe)に、よろこびは存在する。だって、よろこびという言葉があるのだから。

私たちは喜びを知っている。だって、喜んだことがあるのだから。多くの人は喜んでいるのだから。

なら、この世界が素晴らしいと考えてはいけない理由がどこにある?

この世界はすばらしい。ここには、たしかにすばらしいものがあるのだから。そこに、あるのだから。

モーニング・ノート

2004年09月11日 | 日記
今日の、私が住んでいる神戸の朝は気持ちよかった。わたしはモーニング・ノートを毎朝書いているけれど、今日のような日は書いていて気持ちよかった。

モーニング・ノートとは、毎朝ノート3ページに思い浮かぶことをひたすら手書きで書くことです。うまく書こうとするのではなく、文章がめちゃくちゃでもいいから、ただひたすら書くこと。それによって、「きちんとしなければ」という自己検閲の奥にある自由な創造性が顔を出してくるそうです。(詳しくはジュリア・キャメロン著『ずっとあなたがやりたかったことを、やりなさい』 『あなたも作家になろう』を見てみてください)

モーニング・ノートを書くことは、ヒーリングに似ている。楽しいけど楽しくないのだ。自分を掘り下げることは、胸の中の内臓をひっくり返しているようで楽しくない。でも、ひっくり返すことで、なにか自分を再構成しているようで、その感覚が楽しい。

書くことは楽しくない。なんだかとても辛気臭い。なんだかとても貧乏くさい。そうした嫌なものがたくさん自分の中からわきあがってくる。

でも、なんだか続けてしまう。そのときは、それでいいのだろう。

そうだったのか

2004年09月07日 | reflexion
わたしたちが右へ行くか左へ行くかで悩むのは、なぜなのでしょうか。それは、どちらの方角が自分にとってベストが分からないからですね。

でもじつは、この「どちらがベストかわからない」ことでわたしたちは「悩む」のではありません。わたしたちが「悩む」のは、ベストの結果が欲しいからと言うより、間違って後で後悔する苦しみを味わいたくないからです。

わたしたちは誰でも間違います。しかし、私たちの苦しみは、じつは間違ったからではなく、間違ったことを後悔することから生じます。

間違いを認めて次から正しい選択をしようと前を向くか、間違ったことで自分をずっと責め続けるかの違いと言ってもいいでしょう。後悔とは自己攻撃の一つのかたちです。

そして、自分を責めたくはないので、正しい選択は何かと必死で考え、迷い悩みます。

大切なのは、「正しい」選択を行うことではなく、どのような選択をしても後悔しない、つまり自分を責めないことです。「正しい」選択を必死で求めることは、間違うかもしれない自分を攻撃していることです。

どのような選択をしても、自分は許されていること。間違った選択などないのだということ。間違いと思えるものも、次から生きていくための一つのレッスンに過ぎないこと。これらのことを認識することが大切です。

(参考『人生が楽しくなるちょっとした考え方』宝彩有菜著)