joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

3時間では足りない 『キング・コング』

2006年01月10日 | 映画・ドラマ
映画『キングコング』(公式サイト)を観ました。

内容は言わずもがなのキングコング。野生の巨大ゴリラがニューヨークに連れてこられる悲劇を描いています。

(ネタバレあり。と言っても、筋書きはみなさんご存知だと思います。)

最初の1時間は大恐慌時のニューヨークの悲惨な状況が、女優アンと映画監督カールの不遇な事件を通して描かれます。アンは舞台での仕事を失い、カールは映画制作の打ち切りを命じられます。

しかしカールは出資者の意向を無視し無理やり謎の島での撮影を強行すべく撮影隊を連れて出港します。その直前に偶然アンを見つけた彼は、主演女優として彼女をスカウトし、船に乗せます。

この最初の1時間だけでもスリルと迫力たっぷりです。CGを使ったという当時のニューヨークの光景や、映画監督カールの破天荒な行動は観ていて痛快です。

しかし、そうした映画としての面白さは、キングコングの住む謎の島に到着してから一変します。

それまではあらすじや登場人物たちの生き生きとした演技を楽しむことができました。しかし謎の島に着いてからは、とにかく異様な映像が次から次へと出てきます。その迫力は映画史に残るものでしょう。『ロード・オブ・ザ・リング』を遙かに凌ぐ映像が連続します。

その映像のすごさについては実際に見てもらうしかありません。ただ心臓の弱い人にはお薦めしません。本当にショックを受けかねません。私は途中で正視できなくて目を背けていました。えげつない映像が続きます。

そういうシーンに至っては、映画としての面白さというものを逸脱し、映像としての迫力を追求するとか完成度の高い映画を作るとか、そういった一般的な映像の作り手の意図を超えて、監督ピーター・ジャクソンの完全に個人的な趣味の世界が繰り広げられるのです。

ここで私は、その映像に圧倒されひっくり返りながらも、違和感を感じてきました。私が見た『キング・コング』(ジェシカ・ラング、ジェフ・ブリッジズ主演)もほぼ同じストーリーをなぞっていますし、当時としては驚きの特撮で巨大ゴリラを再現していました。

しかし当時の映画では、あくまで白人女性と巨大ゴリラの心の交流に主眼が置かれていたのです。野生の島のシーンのほとんどが、ゴリラと女性との交流のプロセスが丁寧に描かれていたため、一種の人間ドラマとして見ることができました。

しかし今回の映画では、野生の島の映像ではただひたすらに監督の趣味的なグロテスクな映像が続き、必ずしも女性とゴリラの交流が深く描かれていないのです。

この違和感は、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』を観たときに感じたものとな時です。第一、第二の『ロード』が傑作だったのは、その映像の迫力と同時に、映像だけに負けないしっかりしたストーリーがあったからです。しかし『王の帰還』ではストーリーの展開がなくなり、ただ大規模な戦闘シーンが続くだけになっていました。それゆえ『王の帰還』は『旅の仲間』『二つの塔』ほどの傑作にはなりえなかったというのが私の感想です。

この『キング・コング』も、ゴリラと女性の交流のプロセスを丁寧に描くことを疎かにし、野生の島での恐竜やら巨大昆虫やらをひたすらマニアックに描いており、その映像自体はものすごいのですが、人間ドラマとしての『キング・コング』がどこかに置き去りにされ、単なるスペクタクル映画に落ちかかっているのです。

もし、アンとゴリラとの野生の島での交流がもっと描かれていれば、この映画は完璧なものになっていたと思います。

しかしそうした不満も、後半のニュー・ヨークのシーンで緩和されます。NYでのアンとの再会、巨大都市で戦闘機に抵抗しようもなくただやられていく巨大ゴリラの悲しさ。自己表現を力を通じてしか行えないものが、自分の無力さを思い知らされるとき、そこには哀れだけが残ります。その悲しさとアンへの愛情が重なり、ラストのキング・コングは人間に運命を翻弄された者の悲しさを表現しています。同時にこの場面で、ゴリラとアンとの交流が再度描かれることで、このドラマが単なるスペクタクル映画ではないことを観客は再確認することができます。


涼風

参考:「キングコング凄ぇ!」『たけくまメモ』

   「キング・コング」『映画瓦版』

   「キング・コング(日本語吹替え版)」『映画瓦版』

男性性の攻撃性

2006年01月10日 | Book
社会学者アンソニー・ギデンズは、男性と女性がもつ攻撃性の違いを、その養育経験の違いから説明するチョドロウの見解を引用・支持している。

人間の持つ攻撃性は、彼の親密性研究の大きな論点だった。 

「(社会学者の)チョドロウは、男性か女性かを自覚する学習がごく幼少期の経験であり、子どもの両親に対する愛着にはじまる、と主張する。さらに、チョドロウは、フロイト以上に、父親よりも母親の重要性を強調している。母親は子供がまだ幼い頃には確かに最も影響力を及ぼす人間であるため、子どもは、情緒的に母親と結びつく傾向がある。

 女の子は引きつづき母親ともっと緊密な関係を保つ-例えば、母親を抱きしめてキスしたり、また母親の行いをまねする-ことができる。母親との明確な断絶がないために、女の子や、後の成人女性は、他者とのもっと連続性のある自己意識を発達させていく。女の子のアイデンティティは、もうひとり別の人間の、つまり、最初は母親の、さらにその後はひとりの男性のアイデンティティに、融合していくか、あるいは依存していくことになる。チョドロウの見解では、この点が女性に感受性や思いやりの心といった特質をもたらすことになる。

 男の子は、出生時からの母親との明確な結びつきをもっと徹底的に拒絶することで、自己意識を獲得し、女性的でないものをもとにして男性性の理解を作り上げていく。男の子は「女々しい子」や「おかあさん子」にならないことを学ぶ。その結果、男の子は、他の人たちと緊密な関係を結ぶことに相対的に未熟で、世の中に対するもっと分析的な見方を発達させていく。男の子は自分たちの人生についてもっと積極的な考え方をし、業績を重視するが、その過程で自分自身の感情や他人の感情を理解する能力を抑制してきた。

 男性のアイデンティティは(母親との)別離をとおして形成されていく。それゆえ男性は、その後の人生で他者との感情的に緊密な関係性に巻き込まれると、自分のアイデンティティが危機にさらされる感じを無意識にいだく。一方、女性は、他者との緊密な関係を欠くことを、女性の自己評価にとって脅威と感じていく。

 女性は、主に関係性によって自分自身を表現し、また定義づける。男性は、こうした(他者との関係性への)欲求を抑制してきたために、世の中に対して女性よりもコントロール的な態度をとる。

 チョドロウの考え方は引きつづき重要である。その見解は、女性の本質についての多くの点を教示しているし、また、いわゆる男性の非表出性-男性が他者に自分の感情を表わす際に直面する困難-の由来を理解するうえで有用である」

アンソニー・ギデンズ著『社会学』第3版p.131-2  現在第4版

もちろん、こうした攻撃性は男性だけに限られるものではない。現在のビジネス社会は、男性と女性に対してとともに「感情の非表出性」を促していると言える。むしろ、ビジネス社会が個人に強いていく攻撃性は、より女性の「感情の非表出性」を顕著な現象にしている。

これは、子供の頃から女性は男性に対して敵意を感じているため、ビジネス社会という戦場において、「今こそ私は男のように強くなった」という万能感をもたらすのかもしれない。

そう考えると、いずれにしても男の持つ攻撃性・優位性が、男女ともに「強い男」になることへの憧れを生むのかもしれない。

こうした人間の持つ攻撃性は、とくに現在の政治・経済の表舞台にいる人たちにみられる現象です。

このような攻撃性は、もっと憂慮すべき問題として取り上げられるべきです。単にセンセーショナルな話題としてではなく。

このような攻撃は少なからず社会全体に伝播するように私には思えます。


涼風