joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

宇宙正義

2005年03月29日 | reflexion
「カルマというのは、昔、自分が行った行為のつけを支払うということではありません。あなたのバイブレーションがあがるにつれて、過去では避けてきた種類の体験に出会うようになったり、今、あなたが表面意識で欲していることとは違うことにぶつかるようになる、ということだけなのです」(タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』より)


カッターで人の顔を切りつけることはなんでもない。それはとても楽しい。こころの中でいつもそれをしている。

それは一日で治るものでもない。他の人もそうだろう。誰でもスキあらば切りつけてくる。

ならば、カッターをもつ人を上手に避けながら、安心できる人を選び、生活すればいいのではないだろうか。

ただ、それでもいつ誰が切りつけてくるかわからない。それを予測することは不可能だ。予測できる範囲は、私たちが現実を受け入れた範囲に左右される。したがって、その受け入れていない余地からカッターはやってくる。

そのときは、あきらめて切り付けられよう。

しかしその傷は、わたしたちが受容できる現実の範囲を広げてくれる。傷を受けることで、私たちは自分の知らない現実を見ることができるようになるのだ。

予測できる障害を避けることは、私たちが学んだ経験を尊重することだ。

予測できない障害で傷つくことは、これから私たちが予測できるようになる範囲を広げるためのレッスンだ。

見える障害は避けなければならない。見えない障害は受け入れなければいけない。


涼風



タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』


「まっ、いいかぁ」

2005年03月27日 | 日記
だんだんと暖かくなってきました。でも今日はさわやかな日じゃなかった。もわっとしたいやな感じがした。雨もじとじと降っています。

こういう日は、昔から、足の太ももに針が刺さったような感触を覚えます。ズボンの布地に皮膚が敏感に反応するのだろうか、こういう曇りで雨模様の気候だと。それが太ももだというのも面白い。子供の頃からです。

今、姪が遊びに来ています。『グレイトマザー』という夜6時半からの番組を見ていて、有名人の「偉大な」お母さんがその子供に言って聞かせている口癖が紹介されていました。

すると姪が、「わたしのおかあさんの口癖は「まっ、いいかぁ」やから、私が有名になってテレビでお母さんの口癖を紹介したら笑われるなぁ」と笑って言いました。


涼風


『会社はこれからどうなるのか』(2)

2005年03月27日 | Book
『会社はこれからどうなるのか』(1)の続きです。(1)(2)あわせて400字詰め原稿用紙25枚分ほどの分量になります。


ところで、モノの販売においては、デルの例をとって岩井さんは、各部品の柔軟な組み合わせが可能であることが現在のモノの特徴であると述べています。このような形態を「オープン・アーキテクト化」といいます。

モノの生産は以前では労働者や技術者のコツやカンに頼り、必然的に生産工程や技術開発のプロセスが複雑になっていました。またそれだけ複雑だからこそ、特殊組織的人的資産が企業には必要とされていました。

しかしコンピュータはそれら複雑な過程をシンプルに分解して自由に部品を組み合わせることができるようにしました。それは言い換えれば「製品や技術デザインを、いくつかのほぼ独立したブロック-もっと格好良い言葉を使えば、モジュール(Module)-に分解するとともに、その間をできるだけ規格化されたインターフェースで連結してしまうこと」を意味します。たとえばパソコンを、プロセッサ、メモリ、ハードディスク、ディスプレイ、CDドライブ、モデム、接続端子、キーボード、マウス、・・・といった標準化された部品に分解して、部品ごとに独立に生産を行い、最後にそれらを規格化された箱に詰めたり、規格化されたケーブルでつないでひとつの完成品を仕立て上げるのです(236頁)。

この「オープン・アーキテクト化」により大企業は世界中にいる消費者の個性的な欲求に対応する販売を可能にしていますが、同時に小企業が生き残る道もこれにより敷かれることになりました。つまり、大企業がすべての部品を組み合わせて完成品を提供するのに対し、小企業は自分たちが得意とする個々の部品の取り扱いに特化するようになりました。個々の部品の接続が簡単になっているため、ある部品に特化しても別の会社と取引することがより容易になったのです。

岩井さんが指摘しているわけではありませんが、これは従来の「下請け」とは似て異なるものだと思います。「下請け」は自分をその系列化においている大企業が要請するものに合わせて部品を製造する必要があります。

しかし「オープン・アーキテクト化」が一般的となれば、そのような上下の力関係はかなり緩和されるかなくなります。各部品の接続の規格化が企業をこえて一般的となる以上、個々の部品に特化しても特定の大企業に取引先を限定せずに、多くの企業と取引できるからです。そこでは企業規模の大小にかかわらず、対等な企業間の関係が発生する必要があります。もしそこで大企業が自社独自の部品形態にこだわると、多様な完成品を生むことができなくなり、消費者の細かなニーズに対応することはできなくなります。図体がでかいだけに、一度消費者のニーズと離れた商品しか提供できない状態になると、その損失も莫大になる可能性が大企業にはあります。

ともかく、差異のある商品を生み出すのが至上命題である以上、大企業はネットワークを最大限に拡げる努力を続ける必要があります。また大企業の外にいる企業は、とにかく自分の得意な分野に業務を集中させる必要が出てきます(これは上のようなモノに限らず、金融商品や商品としての知識にも当てはまります)。岩井さんは、このような大と小への二極化をこれからの企業動向のトレンドとみています。

それは必ずしも小企業が不利な状況とは言えません。むしろ、小企業は個性的なアイデアで消費者の細かなニーズに対応でき、大企業はその小企業のアイデアを一つにまとめそのネットワークを使って世界的に消費者に届けることができるようになったと言えるのかもしれません。大企業は大きくならざるをえず、それ以外の企業は小さくならざるをえないというのが本当かもしれません。

上から言えることは、大企業のメリットとは、個々の企業や人のアイデアを集めることができる点にあると言えます。ということは、やはり差異のある商品を生むのは、無数にいる個々人それぞれのアイデアだということです。これは産業資本主義段階の大量生産と大きく異なる点です。

個々人がもつアイデアとは、この世に二つとない〈差異のある情報〉です。ポスト産業資本主義の現代で中心となる商品がアイデア=情報であること、このことは企業組織のあり方にどういう影響を与えると岩井さんは見ているでしょうか。

もちろん企業アイデアは機械制工場による大量生産の時代でも重要でしたが、その重要性の度合いが現代は以前と比べ物にならないほど大きいのだということなのだと思います。たとえ同じ内容の商品が二つ以上あっても、元々モノをもっていなかった人々にとってはどちらも価値があったからです。

しかし現代では、絶対にこの世に二つとない商品を作りだすことが企業には求められています。商品としてのアイデア、商品としての情報の特徴はその点にあります。

そのためには、情報は絶対に他社に漏れるようなことがあってはなりません。かといって、企業としてその情報を商品化するには他の社員とのチームワークが不可欠です。つまり全社員がその社のアイデアを共有しかつ外部に絶対に漏らさないという一致団結した精神が必要となるのです。

そのためには社員の会社への帰属意識を高める必要があります。社員に「会社人」になってもらって、その社の情報を守ってもらう必要があるのです。

同時に、その会社独自のアイデア(=情報)をつねに生み出さなければならないのですから、その会社のスタンス、日本的に言えば独自の社風、独自の企業文化がある方が、他の企業では取り替えの効かない商品を生み出しやすくなります。

つまり、このポスト産業資本主義の社会においても、社員が会社への帰属意識を高めるという日本的企業のあり方が強みを発揮するということになります。

これは私には、岩井さんが指摘した汎用的人的資産と特殊組織的人的資産がミックスされた企業形態ではないかと思います。他にはない差異性をもつ情報を生み出せる強みは、組織というよりも、やはり個人がひねり出すアイデアにあります。そのようなアイデアを生み出せる人は、企業を変わっても、また独立してもやっていけるでしょう。

しかし情報を商品として出すには、外部に漏らさないため、社員同士のかなり密接な協力や会社としての管理体制が必要になります。そのような組織を維持するには、特殊組織的人的資産をもつ人が不可欠になります。

また企業は、独自なアイデアを打ち出せる人や組織の情報管理方法に熟練している人を自社につなぎとめるために、安定した雇用を保証する必要も出てきます。またその独自なアイデアをひねり出せる人材を育成する環境を整えることも迫られます。

こうした二つの対立する特性を同時に兼ね備えなければならないのがこれからの企業だと言えます。単純に滅私奉公的な社風を生めばいいというものではありません。

ただ現実のビジネスの趨勢がそうなっているかどうかは分かりません。むしろ岩井さんのこの議論は、ポスト産業資本主義段階において理想とすべき企業形態という意味にとった方が適切です。

一方では、船井幸雄さんのように、企業の使命とは社員を「人財」に育てることであり、そのためにも社員の雇用を会社は保証しなければならないと言う人もいます。船井総合研究所はその点から若い人の正社員としての採用にこだわっているそうです。

また船井さんは、個々の社員にとっても企業にとっても、それらを伸ばすには彼らの長所を伸ばすように配置し、また業務特化を行うべきだといいます。これも、差異・唯一性が価値を生むという岩井さんの議論とひじょうに整合的です。

ただ、多くの企業がそういう方策を採っているかというと、派遣社員・パートタイマーを使う企業の多さを考えても、日本企業全体の方向性はかならずしも岩井さんや船井さんの言うような方向に向かっているとは言えないかもしれません。

あるいは、岩井さんの議論にしても船井さんの議論にしても、個人それぞれが長所・強みをもてばどこかに居場所を確保できるのであり、それが企業に単なる部品として使われるか、貴重な「人財」として使われるかの分かれ目だということなのかもしれません。

長所を伸ばし「人財」を作るとは企業の課題であると同時に、個々人が自ら「人財」となることを意識すべきということなのでしょう。

このように個々人の頭がひねり出すアイデアが最大の価値をもつ時代になることを岩井さんは指摘していますが、このことからもう一つ面白いことを彼は指摘しています。

株式会社とは株主が資金を企業に提供するシステムです。このことから会社は株主のものだという議論が出てきます。

たしかに設備投資が大量に必要だった産業資本主義の段階では、株主のお金が大きな位置を占めると言うことができます(もっとも日本企業の場合もアメリカの場合も、株主が大きくクローズアップされるのはポスト産業資本主義段階に入ってからです。それは、利潤をモノではなく知識によって獲得することが広まり、その一環としてM&Aが広まったから「企業は株主のものだ」という議論が出てきただけです)。

しかし、そのような企業が所有できる設備投資は差異をもつアイデアを生み出すことはできません。むしろ、企業が所有できないアイデア・情報を生み出すヒトの能力が企業価値を高めると言えます。一流のクリエイターが他社に移ったり、独立することを株主は止めることができません。その点で、企業価値を高めることができるのは、ヒトのアイデア力であり、そういうヒトを育てる会社の環境だといえます。それはお金だけを出していて作り出せるものではありません。

その点で、会社が株主のものだという議論は現在ではますます通用しません(設備投資が重要だった時代でも、日本では株式はグループ会社間で持ち合いしていたので、「株主」主権という議論はナンセンスでした。その時代でも企業価値を高めたのは、特殊組織的な人的資産、つまり企業人たちでした)。

このように、まるで現在のライブドア問題を予想していたかのような議論を岩井さんはしています(ホントにため息が出ます)。

アイデアが価値を生むという点では、放送業界はその典型と言えるでしょう。ラジオ局自体は、大した設備投資がなくても経営できるはずです。必要なのは優秀なプロデューサーでありDJです。テレビ局も同様にクリエイティビティのある制作者が絶対に必要です。

そういう意味では、そういう“アーティスト”たちの心をつかみ、同時におだてて躍らせることができるのが放送業界の賢い経営者です。堀江さんは大変なやり方で放送業界に入ろうとしていることがわかります。これまでの失言・失態を取り戻すには大変な努力が必要でしょう。

(だからと言って堀江さんのフジテレビとの提携が失敗になるとはまだ言えないと僕は思います。元々堀江さんの消費者に対するサーヴィス精神とフジの番組制作者たちとの感覚にはかなり似ているものがあって、だからこそフジは彼を番組のレギュラーにしたり、彼をモデルにした番組を作ろうとしたわけですから。ただテレビマンが考える以上に、堀江さんはビジネスマンとしてやり手であり、“他人を出し抜く(=裏切る)”傾向があったことをフジは見抜けなかったということだと思います)


こうした岩井さんの議論を読むと、神田昌典さんや船井幸雄さんといった一流経営コンサルタントが言っていることと整合していることが分かります。

神田さんがいつも口を酸っぱくして言っているのは、昔は簡単にモノが売れた時代だから、これまでの大企業的販売方法は通用しないこと。重要なのは、他社ではなくこの商品を買うことのメリットを消費者に具体的に明らかにすること、などです。
船井さんが言っているのは、これからは“本物”商品の時代だということ。健康を害したり生活に悪影響の出るものではなく、値段が高くてもムダのない良質なものだけが売れる時代がくるということ。

これらも、個々の商品の質(=差異)が価値を生むことをとらえての彼らなりの提言です。

私としては、こういう企業の動向と、社会全体の階層化とはどう関係するのかを知りたいところです。

私がここでまとめた部分はこの本の私にとって印象的だったところだけで、もちろん本当はもっと幅広い議論がなされています。また上に書いたように、まさに今問題になっている企業買収に絡む考察も理論的になされています。その意味で予言的で刺激的な本です。今思っている問題を頭の中できちんと整理したいという人にとっては、とてもオススメできる本です。文章もとてもわかりやすく書かれています。


涼風



岩井克人著『会社はこれからどうなるのか』

船井幸雄著『船井幸雄の「人財塾」―“デキる人”を続々生みだす絶対法則』


『会社はこれからどうなるのか』(1)

2005年03月27日 | Book
*今回の記事は(1)(2)合わせて400字詰め原稿用紙で25枚ほどの分量になります。


2週間ほど前に図書館で経済学者の岩井克人さんが書いた『会社はこれからどうなるのか』という本を借りました。2年前に出版され、小林秀雄賞を受賞し、テレビでNHKのインタビューにも答えていたので、この本を知っている人も多いのではと思います。

ライブドア問題で今まさに「会社とは誰のものなのか」という議論が株式取得による企業買収に絡み湧き起こっています。この事件を数年前から予測していたかのように、この本で岩井さんはライブドア問題で出てきた「株主・会社・社員の関係はどうとらえるべきか」という問題を、過去と現在の経済状況の変化を踏まえながら議論しています。その先見性にため息がでます。

ここでは、この本の中で私にとって印象的だった議論に触れたいと思います。

この本で岩井さんは資本主義経済といものを簡単に定義しています。岩井さんによれば、「資本主義」経済とはつねに「利潤」を必要として動きます。国家なり団体なりが共同で個々人の生活を保障するのではなく一人一人が生活を営んでいかなければならない以上、個人は「利潤」によって生活の糧を得ます。

昔から存在する「商業資本主義」では、この利潤はある地域である価格で仕入れたモノを、別の地域で仕入れ値以上の価格で売ることで利潤を得ます。ここでは地域間の諸価格の「差異」が利潤を創造します。

それに対し18世紀後半からイギリスで始まった「産業資本主義」すなわち機械制大工場による商品生産では、労働者の賃金と商品の価格との「差異」が利潤を生みます。

そのためには労働者の賃金を低く抑える必要があります。つまり18世紀後半から20世紀の半ばまでは、大量の労働者たちを安く雇う条件が西欧ではありました。そこでは貧困農民が多数存在していたからです。

ここで分かることは、「近代産業資本主義」とは、労働者の給料を安く抑えて初めて成立するシステムだということです。資本主義の発展の歴史は労働者の権利の向上の歴史ですが、労働者の権利が認められ彼らの賃金が保障されるほど、近代資本主義経済は原理的に成り立たないのです。なぜなら、それは利潤は労賃を低く抑えて初めて発生する構造だからです。

このことが明らかになった事態が、1960、70年代から始まったアメリカと西欧諸国の経済的影響力の喪失でした。資本主義のスタートが早かった分、労働者の権利向上も同じペースで成し遂げられ、労賃が利潤を圧縮する構造が西欧経済に発生していました。ここに来て西欧では、機械制大工場による大量生産というシステムではもはや利潤を得ることができなくなりました。

またその頃に日本が世界経済で大きな地位を得た原因の一つは、日本でも労賃の水準は上昇していたのですが、後発国のメリットで外国製品の技術を上手に模倣・改良してすばらしい日本製の製品を産むことで、労賃の上昇を超える生産性を確保していたからでした。しかし90年代になってその技術力による生産性の上昇が底をつき、日本も労賃が企業利潤を圧縮するようになりました。

それに対しアメリカは、60年代にすでに産業資本主義に行きづまり、ポスト産業資本主義への移行を迫られていました。そのときアメリカは、機械制大工場での大量生産によるモノづくりをやめ、労働者を大量に雇う必要のない「情報産業」を利潤獲得の手段にすることを選択しました。

「情報」を商品として選択したことは、以下に説明するように、世界を(現在のように)変化の激しい時代にすることにつながりました。

例えばリンゴはつねにリンゴのままで売れてくれます。私たちはリンゴにリンゴ以外の味を求めません。

しかし情報は違います。例えば商品としてのコンピュータのソフトウェアは絶対に他のソフトウェアと違う必要があります。他と同じ情報しか入っていなければ、消費者がそのソフトウェアを買う理由がないからです。その意味で、商品としての情報はつねに「それにしかない」ものを含んでいる必要があるのです。

情報を利潤獲得の手段にする以上、ビジネスマンはつねに社会の動向に目を見張らせ、競争相手との差異性を発見する圧力にさらされます。顕著な例が金融の国際化ですね。世界中の証券取引所の動向に目を配る必要があります。

また商品としてのモノにしてもつねに差異をもっていなければなりません。労働者の生活水準が一度ある水準に達してしまった以上、モノも単に安いものではなく、「これでしかない」質が求められます。

このようにポスト産業資本主義社会では、企業はつねに差異、つまり特別な質を生み出すことを迫られています。

この本での岩井さんの議論の特徴は、この特別な質(=差異性)をもつ商品を生み出す必要性と企業組織の特徴との相性を考察した点にあります。

まず、現在のビジネスに適合的な組織の特徴を考察する前に、産業資本主義に適合的だった組織特徴に関する岩井さんの説明をみてみます。

岩井さんの説明はこうです。機械制大工場による大量生産では投資費用が莫大にかかります。その費用の回収には機械設備の稼働率を高くする必要がありますが、そのためには「短期的には、原材料の仕入れから仕掛り品の管理を経て生産物の販売にいたる一連の過程を、注意深く調整していく必要がありますし、長期的には、仕入れ先の選別や生産過程の組織化や販売網の拡充などにかんして、市場の動向を見極めながら、これも注意深く計画をたてていくことが必要となります」(227-8頁)。

このように産業資本主義段階では大工場の稼動と末端の販売とが密接に“連携”して生産・販売を調整し、在庫を極力少なくする必要があります。つまり生産から販売までの社員の意思疎通が円滑になるチームワークが必要となります。言い換えれば、生産も販売も宣伝も誰もが同じチームであるという意識の下で協力しあわなければやっていけません。

言うまでもなく、このような「チームワーク」を作ることに成功したのが、80年代までの日本の大企業でした。

岩井さんは、この「チームワーク」を作る労働者の能力を「組織特殊的人的資産」と呼びます。またそれに対立する概念として「汎用的人的資産」の存在を指摘します。

汎用的な人的資産とは、〈どのような組織においても通用するような知識や能力〉です。たとえば「機械や道具を操作できる能力」「会計・税制の知識」「技術開発のための科学知識」などです。

これらの能力の特徴は、どこにいようと、またどの組織に属そうと発揮できる点にあります。会計士はどの企業に移っても会計士として働けるし、通訳もどの企業に入っても通訳として働くことができます。トラックの運転手さんも、クロネコヤマトでもFedexのどちらでもやっていけると思います。

それに対して組織特殊的人的資産について岩井さんは次のように説明します。

「組織特殊的人的資産とは、個々の組織のなかでのみ価値をもつ知識や能力のことです。いや、それは知識や能力というよりは、ノウハウや熟練といったほうがよいかもしれません。たとえば特定の道具や機械にかんする慣れや、一緒に働いている他の従業員とのチームワーク、長年維持してきた取引相手に関する詳細な情報や、職場内での人間関係の把握や、研究開発プロジェクト参加者同士の専門家としての信頼関係、経営トップの経営構想や経営思想の理解といったものです」(155-6頁)。

これらの能力の特性は、まさにその組織にいて初めて発揮されるところにあります。Aという会社に長年いる「社員」は、その会社の活動に適合した労働を誰よりも知っていることになります。また、そのように社員を会社に長くいさせる制度(終身雇用、年功序列)を日本の大企業は採用してきました。

戦後の消費者の欲求は、まずモノの欠乏を解消することでした。どのような質(=差異)をもっているかよりも、冷蔵庫なら冷蔵庫、テレビならテレビをまずもつことが最優先でした。

そういう社会では、ビジネスは消費者のニーズをとらえることに努力する必要ありませんでした。消費者が持っていないモノはたくさんあったので、とりあえずそれを提供していけば売れていたからです。

そういうビジネスの状況では、日本の大製造企業が優先したのは、まずモノの生産から販売までを円滑にするシステムを作りあげることでした。そのためには、上に引用したようなノウハウを社員が身につける必要があります。社員にそのノウハウを身につけてもらうには、つまりその組織に長年いることで身につくノウハウを習得してもらうには、定年するまで一生その企業で働いてもらえるようなシステムを作る必要がありました。

しかし、このようにたんにモノを作れば売れる産業資本主義時代は終わりました。上で述べたように、今では質(=差異)をもった商品を生み出す必要性に企業は迫られています。この質(=差異)を生み出すのに適合的な組織とはいかなるものと岩井さんは考えているでしょうか?

まず、産業資本主義の段階と同じように現代でも大企業がビジネスでアドヴァンテージをもつことに変わりはありません。

現在の大企業の特徴は、言うまでもなく、世界各地に生産・販売拠点をもつころができる点にあります。このネットワークの拡がりが、商品に独自の質(=差異)を付加するのに役立ちます。岩井さんは有名なパソコン・メーカーのデル社の例をとって次のように説明します。

「「デル・モデル」とよばれるサプライ・チェーン・マネージメント(SCM)方式とは、デスクトップ型のパソコンの場合でしたら、本体の生産は自社工場が受け持ち、ディスプレイなどの周辺機器の生産は全世界に散らばる三〇程度の部品メーカーが請け負い、インターネットを通じて顧客から製品とその仕様にかんする注文を受けとると、指定された仕様に対応したパソコン本体と周辺機器とを顧客と距離的に近い物流拠点にただちに空輸して、その場で組み合わせ、梱包し、発送するという方式です。これによって、一方で、顧客の好みに応じた多様な製品を提供できるとともに、他方で、製品在庫の水準を基本的にゼロにまで下げることができたのです」(240頁)。

岩井さんによれば、このように各部品を柔軟に組み合わせて顧客の趣味に対応すること自体は、他社も模倣できます。しかしデル社が他より抜きん出たのは、その物流ネットワークをできるだけ拡げ、製品の注文から受け取りまでの期間をさらに短縮したところにありました。それによって販売量が拡大し、さらに値下げを実行することができました。

このようなネットワークの拡がりによって差異をもつ商品を提供できるのはモノには限られません。その顕著な例が金融です。岩井さんはつぎのように説明します。

「グローバル化によって全世界がひとつの金融市場でおおわれてしまったいま、世界中のおカネの貸し手と世界中のおカネの借り手が少しでも条件の良い借り手と貸し手をそれぞれ探しあっているのです。その際、そのような貸し手と借り手のあいだの橋渡しをする金融仲介業においては、一方でおカネの貸し手である個人にたいしては、銀行口座や消費者ローンや投資信託や保険契約などさまざまな金融商品をパッケージとして提供でき、他方でおカネの借り手である企業に対しては、運転資金の融資や社債・株式の引き受けから資産運用のアドバイスや会社合併の仲介までさまざまな金融サービスをやはりパッケージとして提供できることが、商売上で圧倒的な有利さをもたらすことになります。すなわち、銀行、証券、保険などの多種多様な業務を同時にいとなんでおり、チャンスがあれば巨額の資金を一瞬のうちに移動したり、多数の専門スタッフを直ちに動員したりできることが、グローバルな金融市場での激しい競争を勝ち抜くためには不可欠であると言われているのです」(248-9頁)。

このようにみると、大企業がもつ「アドバンテージ」というのは、販売と中枢との距離(=時間)を短くすることで大量に商品をさばくネットワークにあると言えます。逆に言えば、そうしたネットワークを作って顧客の個性的な要求に対応しなければ大量に商品を売ることができず、大企業は生き残れないということを意味します。広いネットワークは大企業のアドバンテージでもあり、同時に命綱であるとも言えます。



『会社はこれからどうなるのか』(2)に続きます。

面白い試合でした。

2005年03月26日 | スポーツ
サッカー日本代表とイランとの試合。負けはしましたが、しているサッカー自体は今まで見た中で一番質の高いものに感じました。

たしかにゴール前付近での崩しはみられなかったのは残念だし課題だと思います。でも、ディフェンスが二人しかいないことで、つねにサイドの加地を使ったりして前に前にボールを出すことを迫られ、また中盤の守備の意識も高くなって(とくに小野の相手ボールに対するチェックが激しかった)、チーム全体で攻撃態勢に入るテンポは高くなっていたと思います。

もちろん結果が一番大事ですが、今まで薄氷の思いで勝ってきた試合よりも今日の試合のほうが観ていて面白かったです。

とにかくまだまだ戦いは続きます。一喜一憂せずにじっくりワールドカップ最終予選を楽しんで、日本代表を応援したいし、彼らにドイツに行って欲しいと思います。


涼風


文句あれこれ

2005年03月25日 | スポーツ
夕方、ダイエーに縁が壊れた眼鏡をもって行き、ついでに本屋をのぞくと、『球界再編は終わらない』という新刊本がありました。

ぱらぱらめくると、楽天が仙台をフランチャイズにした経過が書かれてありました。内容は予想通りで、元々神戸にチームを作ろうとした三木谷さんに対し、オリックスの宮内さんや阪神の人たちが、「元々神戸はタイガースの地域。それに関西で三球団は採算に合わないことはわれわれが知っている」と言われ、行き場を失った三木谷さんは仙台に速攻で乗り換えたそうです。

あまりにも世間の予想と同じなので拍子抜けします。でも、べつに神戸は阪神タイガースのホーム・タウンではないと思う。阪神ファンが多いのは事実だけど、タイガースはとくに自分のホームタウンを明確にせずにブランドで殿様商売をしているだけだと思う。

京都の人口は100万以上、大阪は300万、神戸は140万。これで三チームの採算が成立しない理由はないと思う。

ここはやはり三木谷さんは神戸にチームを作ることで押し切ってほしかったです。ヴィッセル神戸との相乗効果はあったのではないだろうか。ただ、そうなるとイメージ的にも顧客獲得という点でもオリックスへのダメージは大きかっただろうけど。今でさえオリックス・ブレーブスはまさに企業の道具というイメージがある。「大好きなバッファローズ」を統合し、「神戸から抜けていった」オリックスを心から応援しようというファンが増えるとは思えないのだけど。


NHKのニュースでは7時台も10時台も毎日ライブドア問題を流しています。おかしいよ。公共放送として再出発すると言っていた筈じゃないのですか?国民の関心事だからという理由で毎日トップニュースで扱うのなら、民放と変わらないです。それこそ、「消費者の欲しがるニュースを流せばいい」という堀江さんの言うことをNHK(と民放)はいまだに実践している(「ジャーナリズムとはなにか?という議論が一応あったにもかかわらず)。

ライブドアとフジグループがどうなるかなんて、さしあたりはそれら個々の企業問題にすぎない。たしかに毎日色々起こっているけど、それは一日一日では事態が落ち着かないということなのだから、長期的に適当な間隔で取り上げれば十分なはずです。それを視聴率のために毎日六本木ヒルズのビルを映すのはみっともないです。まるでNHKへの批判をかわすためにやっていると思われても仕方がない。


最近はこの問題に絡んでフジテレビの社員の人たちへのインタビューもあります。テレビ局の社員もふつうの人に見えます。だって、テレビ局の男性社員というと、合コンが大好きで遊んでばかりいるというイメージが僕にはあったので、普通そうに見えると意外だったりします。

日本のように「テレビマン」というのが国民の羨望の的というのは、今では万国共通とはいえないのかもしれない。

ドイツのテレビでは、チャンネルが20チャンネル以上はあったと思います。学生寮だったからケーブルテレビが見れたのかもしれないし、どういうシステムになっていたのか分からないのですが、とにかくとてもチャンネルが多かった。あれだけチャンネルが多いと、広告収入もそれほどは入らないと思います。

世の中の人はどのくらいケーブルテレビや衛星放送に加入しているのだろう?でもいまだに日本では東京のキー局は殿様商売をしている。10年ほど前に社会学者さんの橋爪大三郎さんは吉本隆明さんがテレビを論じた傑作評論集のあとがきで、「ケーブルテレビの普及で、今までのテレビが送り出してきた国民的タレント、国民的番組というのはなくなるだろう」と言っていました。しかし10年たっても既存の東京キー局の位置は揺らいでいるようには見えません。

それは、必ずしもコンテンツ制作能力がキー局にあるからではないように思う。たしかに一部のテレビマンにはクリエイティビティがあるのだと思います。フジの深夜番組なんかには、時々とんがった感性の番組がありますよね。でも大半は煮詰まっているという状況がもう何十年と続いている。

ごくわずかな局にしか電波を与えないという日本の電波法自体が特殊なのだろうか?


涼風


日本経済新聞社『球界再編は終わらない』

吉本隆明『情況としての画像 高度資本主義下のテレビ』


モノを大切にする

2005年03月24日 | 家電製品にかかわること
今日、神戸三ノ宮の山側を歩いていると、NHK神戸の近くを通りました。その建物の一階は、展示スペースみたいになっていて、どうやら自由に人が入れそうだということは前から気づいていました。そこで、小降りの雨が降っているときに赤信号だったので、私はなんとなくその建物に入ろうと思いました。

そこでは義経展をやっていました。でもべつに珍しいものがあるわけではなく、ドラマの人物相関図やミニシアターで撮影時のオフショットを流しているぐらいでした。

NHKの職員の人は、なんだか背筋が伸びて、顔も「企業人」という厳しさが混じっていて、なんだか異星人みたいでした。場の雰囲気が人を作ると美輪明宏さんは言っています。きれいなオフィスでいつも働いていると、それに似合った顔になるし、ボロい建物にいつもいるとそういう雰囲気の人になる、と。美輪さんのそういう言葉はエリート主義的でぼくは嫌だけど、同時にそれはある面では正しいのかもしれない。

いずれにしても、NHKの人たちは雰囲気が「えりーとおぉぉぉ」という感じが少ししました。でも、本当はどういう人たちなのか、話してみたい。

NHK神戸の受付のお姉さんはとてもきれいでした。べつに買い物するために入ったわけじゃないのに「いらっしゃいませ」とか言われて照れてしまいました。もっとその人を見たかったと思ってしまいます。


今日は星電社にも行きました。三ノ宮には(この家電ブームの時代にもかかわらず)じつは大きな家電屋さんがなかったりします。この星電社ぐらいです。

おそらく、神戸は郊外に大きな家電屋はたくさん出店しているのだと思います。三ノ宮のような窮屈なところには、店を大きく構えられなかったのでしょう。

星電社にしても、全部で5階の建物だけど、それほど広くないし、一階はTSUTAYAもあるしで、品揃えが豊富なわけじゃありません。つまり、車がなくて郊外に出られない人にとっては、神戸は家電を買うのにあまり便利な所ではないようです。

そこで電子辞書のケースを買いました。今もっている電子辞書は一年ほど前に買ったものだけど、いつもむき出しで使ってきました。それで気にならなかったけど、なんだかむき出しで使うことで、その電子辞書を粗末に扱っているような気がした。

モノを粗末に扱っていると感じると、自分の「こころ」もなんだかすさんでくる感じがします。物を粗末に扱うことと人を軽んじる態度をとることは、じつは同じことのようにも思います。要は、相手がどう感じているか以上に、自分を傷つけています。

たとえば、ADSLのモデムを僕はじゅうたんにそのまま二年間置いてきました。それもやはりモデムを粗末に扱っていたのだと思います。毎月レンタル料を払っているのに。

だから、最近からそのモデムを同じ幅の箱に載せてみました。ついでに埃をティッシュで拭いたりもしてみました。

たったそれだけですが(なので)、すこし気分が軽くなったような気がします。

そして今日電子辞書ケースを買いました。その売り場には、「電子辞書の液晶の修理には1万円かかります!」という貼り紙がありました。ちょっと、じゃなくすごくショック。

そう、電子辞書はあくまで「電子」なのだから、「壊れる」可能性をつねにもっています。

電子辞書にしてから単語を引くのが楽になって「これで重い辞書を持ち上げるストレスから永遠に開放されたばい」と思っていたけど、今持っている辞書もいつかは「壊れる」わけですね。電化製品である限り。

すると、壊れるたびにまた買わなければならない。ショック。本の辞書なら一生使えるけど、電子辞書は一生使えないのだろうか。壊れるたびに3万円を払わないといけないのかと思うと、とてもショックです。

でも、仕方がありません。電子辞書だから便利なのだから、電子辞書のリスクも引き受けねば。「音声付きのほうがよかったかなぁ」とか思ったこともあるけど、そんなことを言わずにこれからも大事に使って行きたいと思います。


涼風


reference:

美輪明宏著『人生ノート』

トマス・ムーア著『失われた心 生かされる心』第11章「モノと共存して生きていけるか」

ひとつ学んだ

2005年03月21日 | 日記
文庫本の中でも文字の小さい本を読むときに、目を大事にしたいと思って虫眼鏡で読んでみました。30頁ほどです。読んでいるときは気づかなかったけど、読み終わったあと少ししたらすっかり気分が悪くなっています。車酔いや船酔いのあの感じです。馬鹿なことした。

目を大事にしたいと思っただけなのに、逆効果だったのね。要するに、度のきつすぎる眼鏡を長時間かけたのと同じことなのかな。あぁあ、ホントばかみたい。

でも、楽天のページとか見ると、読書用のルーペとかで1万円以上もするようなものを売っているけど、ああいうのは気分が疲れないのかな。要するに目は悪くならないのかしら。楽天の欠点は、レビューがあまり書き込まれていないところなんですよね。ただ日本中の商店を集めただけで。


僕は20歳のころ、とても目を粗末に扱いました。目が悪くなるのが分かっていたのに野球ゲームをしたり、度のあっていない眼鏡をかけていたり。若かったから、体を粗末に扱っても気にならなかったんですね。

そのおかげで今は眼鏡なしでは何も見れないようになっています。自業自得。

そういえば、視力をよくする手術とかあるそうですね。中谷彰宏さんはそれを受けたそうです。ただ、新しい種類の手術なので、副作用があるかどうかはまだわからないそうです。

でも、スポーツ選手とかでも、動体視力をよくするための手術を受けたという話を聞いたことがあります。

まぁ、とにかく、今の僕にできることは、現在の目を大切に使うために、テレビはなるべく見ないこと、見るとしても離れて見ることぐらいです。

そういえば、パソコンって目は悪くならないのかな?あるいは、パソコンでDVDを見るときも、画面が小さいから、やめた方がいいのかな?

考え出すときりがなくなってくる。

こういうときこそ、七田さんの言うイメージ・トレーニングがいいのかも。目がよくなっているっ、てね。


涼風


reference:

中谷彰宏『3分で右脳が目覚めた。』

七田眞『右脳がぐんぐん目覚める4倍速CDブック』

「世界一頭がよくなりたい」

2005年03月20日 | reflexion
僕は世界一頭がよくなりたいと思っています。

だから、他に頭のよさそうな人を見ると嫌になります。さらに、頭がいいだけじゃないのに頭のよさも見せている人を見ると、腹が立ちます。お前たちは黙ってろ、と言いたくなります。

でも、おそらく世界一頭がいい人というのは、頭がよくなりたいとは思わないんじゃないでしょうか。世界一あたまがいいぐらいであれば、「頭がよくなりたい」という欲は湧かないと思います。

いや、ひょっとすると、世界一頭がいい人でも、「もっと頭がよくなって、他人を寄せ付けないぐらい頭がよくなりたい」と思っているかもしれません。

でも、世界一頭がよくなれる人というのは、おそらくそのための努力が苦にならない人なのだと思います。

これは明石家さんまさんが言っていたのですが、バスケットの世界で一番練習するのはマイケル・ジョーダン、ゴルフではタイガー・ウッズ、日本のプロ野球ではイチロー選手なのだそうです。

わたしが想像するに、世界でトップに立つには、生まれた時点での才能プラス、努力することが苦にならない、言い換えれば努力を努力と思わない人がその世界でトップに立つんじゃないでしょうか。

才能だけであればイチローより上の選手はたくさんいる、と言う野球人は一人ではありません。それはつまり、イチローは練習の人だということですね。

だからイチローは偉いといえるけれども、イチロー選手には野球の練習を努力とは感じない適性があったんじゃないかと思います。

中田選手よりボールさばきが上手い日本人選手はたくさんこれまでにもいたと思うし、今でも小野選手や中村選手のほうが足元でボールを扱うテクニックは上に見えます。それでも中田選手が日本でゆるぎなくトップだと僕には思えるのは、ピッチ全体の動きとの関係で自分がすべきことを瞬時に判断する能力がずば抜けているからだと思います。つまり、単に足でボールを扱うというサッカー固有の才能よりも、サッカー以外の世界とも共通点を持ちやすいインテリジェンスを中田選手はもっているのだと思います。だから、その中田選手が自身のHPで、大学に行って心理学かデザインを勉強したいと言っているのを読んで、僕は激しい嫉妬にかられました。サッカーだけでもすごいのに、彼なら他の分野でも成功できる頭のよさをもっているように感じるからです。

そんな中田選手も、日本でプレーしていたときは、とにかく練習熱心だったそうです。居残り練習で、ユースの選手をつかまえて、ボールをパスしあって足元で止めるという単純な動作を延々と続けていたそうです。中田選手には、そういう単純な反復練習が嫌にならない適性があったのでしょう。そういう点で、彼にも、サッカーの練習を厭わない適性があったんだと思います。

その世界でトップになる人というのは、練習が嫌にならないようです。中谷彰宏さんは、三流は練習しない。二流は一生懸命練習する。一流は練習を練習と思わない、と書いていました。

最初に、僕は世界で一番頭がよくなりたいと書きました。でも、世界で一番頭がよくなるために努力をしているかというと、していません。また努力を努力と思わないかというと、文章を読んでいて苦痛になることがしょっちゅうです。今日も、朝12時に起きて、ボーとしているうちに時間が過ぎて、夕方に散歩に出かけました。

つまり、頭では世界一頭がよくなりたいと思っても、体は正直に「お前はそんなものにならなくていいよ」と言っているのです。

なので、今日も、この後は借りてきたDVDを見てゆっくり過ごそうと思います。


涼風


ブログで想うこと

2005年03月19日 | 日記
こうやってブログを書いていると、他の人のブログもたまに見るように当然なります。それで感じたのは、ブログが登場したことで社会には鋭い洞察力をもった人がとても多いのだという印象。

何かを論じるという仕事は、これまでは学者や評論家、政治家、ジャーナリストなどの一部が新聞や雑誌ですることという印象がありました。でも、最初はホームページの登場で、そしてブログの登場で、実は世の中には上記の人たちに劣らない論客が沢山いるのだということが分かってきます。

よく考えれば当たり前ですね。どの分野でもそこでトップにいる人たちは頭を使って論理的に考える作業をしていることが多いだろう。そういう人たち、たとえばビジネスマンなんかにはこれまで発言できる媒体がなかったわけだけれども、ITの登場で誰もが自分の頭にある知識を外に出せるようになった。

このことは、「専門家」と「大衆」という概念の区別をますます危うくしていますね。

ただ、そこから、ブログを通じて一気に健全な民主主義が醸成されるかというとそれも疑問です。誰もが何でも言えるようになった分、罵詈雑言を並べる人も増えたわけだから。僕もそういうことをネットでしたことがあります。

鷲田小夜太さんは、どの分野でもトップ10%がしっかりした仕事をしているのなら、その分野は正常に機能をしている、と言っていました。つまり、世の中でしっかりものを考えることのできるのは、10パーセントいればいい方だということです。

でも、いずれにせよ、その世の中全体の10パーセントがその気になれば発言できるチャンスが急激に増えたことは事実です。それはやはりいいことなんだと思います。


涼風


reference:

鷲田小夜太著『大学教授になる方法』

意識のひろがり

2005年03月17日 | 日記
「そのあまりありがたくなく感じられる事態を気を落ち着けて見つめ、精神的にその事態のすべてを受け入れて味わい、しかも、そのことを嫌ったり憎んだりしている自分を愛してやりさえすれば、あなたのバイブレーションはさらにあがってゆくのです」

『なまけ者の悟り方』より)


人が幸せになるにもかかわらず、そのことが自分にショックを与えるのはどういうときでしょうか?

友達が結婚したとき、友人が昇進したとき、知り合いの子供が有名校に合格したときにショックを受けるとしたら、それはなぜなのでしょうか。

おそらくそれは、彼らが得たものは本来は自分のものだという意識があるときだと思います。「自分のものだ。誰にも渡さないぞ!」という独占と所有の意識が元々あり、にもかかわらず「それがやつらに奪われた」という想いがあるとき、悔しさがこみ上げてくるのだと思います。

しかし、本人も頭では分かっているように、それは元々自分たちが所有していたものではありません。

自分のものではないのに自分のものだと思い込んでいること。それはつまり、頭の中で幻想が肥大化した異常な状態です。思考の正常な機能が阻害されていると言えます。そこまで異常になっている機能を元に戻すにはどうすればよいでしょうか?

自分ではどうにもできませんよね。そこまで思考のバランスが崩れているのですから。自分のものでもないのに「奪われた」なんて悔しがるのは尋常じゃありません。

そんな異常な状態を正常にするには、外側からのショックが必要です。つまり、「自分のものだ」という思考が誇大妄想であることを分からせる現実が起きることが必要です。

友達が結婚すること、友人が昇進すること、よその子供が有名校に合格すること。これらの「事件」は、それにショックを受ける人たちにとって幸せなことです。なぜなら、それによって思考は現実を正常に認識でき、自分は何も所有してはいないことがはっきりと分かるのですから。

多くの人が「傷つくことはいい経験だ」というのは、そのことで人は正確に現実を認識できるようになるからです。何も自分のものではないことを、そのときはじめてわたしは体で理解します。

「ありがとう、兄弟姉妹。わたしの意識をここまで導いてくれたことに感謝します」


涼風



reference:
『なまけ者の悟り方』

Das Glueck haengt sich von ...

2005年03月16日 | reflexion
「『観念』によって、私達が何を見るか、どんなふるまいをするかが決まります。世界をどう見るか、見方を決めているのが『観念』です」

「この世は『観念』の世界であり、私達は成長してより高次の観念を持ちます。やがて『観念』や想念などをすべて超越し、地上にいながら天国にいるような体験をするようになるのです」

『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』より)


私たちは自分たちの不幸の原因を見つけることが得意です。精神分析を編み出しては、幼児期の体験や親の教育を現在の不幸の原因にしたり、社会科学を生み出しては、経済状況や日常の人々の意識のあり方に潜む権力が自分を不幸にしていると思い込むことができます。

しかし、「不幸」とは自分が他人を攻撃することではじめて成り立つ状態です。たとえどんな状況にいようとも、他人を攻撃しない人は「不幸」になることができません。

現実はわたしたちに色々な条件を課してきます。しかし、条件とは一つの事実にすぎません。その条件によって不幸になるかどうかは、わたしたち自身が選ぶことができます。

親の養育によって不幸になったと嘆く人がいるとします。しかし、親の養育が人を不幸にするかどうかは、誰も科学的には証明できません。ただ、そう解釈することで心の治癒が起こっているという事実があるだけです。

親の養育によって不幸になったと嘆くということは、現在その人は不幸な状況にいるということです。つまり、本当はその人は自分が不幸でいることを嘆いているのであり、その嘆きを正当化するために、親を攻撃しているのです。

親が彼(彼女)を不幸にしたのかどうかは誰にも分かりません。しかし、彼が自分の状況を呪い親を攻撃することで、彼が不幸になっているのは分かります。

「不幸」とは状況が作り出せるものではありません。「不幸」とは状況に対するその人の対応が作り出すものです。

最近わたしは思います。かつての社会主義国は本当に不幸な国だったのだろうか?と。

彼らは自由がなかったのでしょうか?しかし、資本主義国に自由はあったのでしょうか?会社に縛られた人たちにどれだけの自由があったのでしょうか?もちろん自由はあったでしょうが、それなら社会主義国の人たちにも同じぐらいの自由があったと考えてはいけない理由はないように思います。また、レールを外れることに怯える現在の私たちに自由があるでしょうか?将来どうなるか分からないという不安に怯えながら、お金のストレスをもち、しかし何とか生活しているというみんなにとって、それがどれほどの「自由」を与えていると言えるのでしょうか。

社会主義にもどるべきと言いたいのではありません。また社会主義のほうがいいと言いたいのでもありません。

ただ、外的条件が人を不幸にしたり幸福にするのであれば、一部の上層を除けば、資本主義も社会主義も人類にとっては同じに思えるのです。

逆に考えて見ましょう。私達が幸せだと感じるときはどんなときでしょう?もしそれが、他人に対する信頼や、自然の恵み、世界の穏やかさをかんじることであるのなら、資本主義と社会主義にそれほどの違いはあったでしょうか。

北朝鮮の人々が過酷な状況にあることは想像できます。しかし、日本にも、また世界のどの国にも、食べるものも仕事も家もない人は少なからずいるのが現在の世界です。彼らはどこにも逃げることができません。

どこにいても人間は幸福になれるし、また不幸にもなれる、と言い切ることは勇気が要ります。『ライフ・イズ・ビューティフル』は破廉恥な映画ではないかという批判もドイツではあったそうです。あまりにも能天気ではないか、そう批判することもできます。

一気に「どこにいても人間は幸福になれるし」と完全に思い切る必要はないですが、人がその人しだいで幸せになれるその範囲を少しずつ拡げてもいいのではないかと思います。


涼風



『落下する夕方』

2005年03月14日 | 映画・ドラマ
『落下する夕方』という映画があります。1998年に公開された日本映画で、2週間ほど前に関西地方ではテレビで深夜に放送されました。

当時東京に住んでいたわたしは、この映画を銀座で2度観ました。その後ビデオ化されて、レンタルでも3度ほど見ていると思います。もっとかもしれません。

この映画を通じてわたしは江国香織のことを知り、彼女のデビュー作から『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』まですべて彼女の作品を読むようになりました(その後彼女の小説とは疎遠になっている。『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』の印象が悪すぎたみたい)。

この映画がもしレンタル店にあったら、興味があったら見てみてください。はまれば何度でも見たくなるような映画です。内容と同時に、雰囲気がとてもいい映画です。

僕にとっての理想の東京というのは、この映画の中にある風景かもしれない。この映画の場面になっているようなところにはあまり行ったことがないけれど、僕がもう一度東京に住みたいと思ったのも、この映画のような雰囲気の中で生活したかったからかもしれない。

東京が好きな人というのは、べつに新宿や渋谷や恵比寿や自由が丘や六本木や赤坂や青山や…といった有名な場所が好きなわけではないように思う。あるいは、それだけではないと思う。

むしろ、東京の透明な所が好きな人も多いと思う。何もかもが普通。何もかもが一般的。土着性がない。でも、日本にはそういう透明な場所は東京にしかない。だから東京にこだわる人が世の中にはいるのではないだろうか。

東京の都心は何気ない建物や町を歩いていても、すごい権力の匂いがするときがある。それだけに東京に住んでいるだけで何かのイヴェントに参加しているような錯覚を地方出身者に抱かせる。

でも決してそれだけではない庶民の東京みたいなものがある。その風景をすごく的確にこの映画は切り取ってくれているのだと思う。

ずいぶん即物的な関心で、文学的な哀愁のないような思い入れだけど、僕がこの映画が好きなのは、結局そういうところにあるのだと思う。
内容はどうでもいいのだ。登場人物たちが場面の中で生活し、そこにコップやテーブルがあり、町があり、空があり、人が歩いている。その風景をみるだけで満足してしまう。

ビデオにとったこの映画を観ていると、この映画をかつて見た時間が過去のものとなり、もうすでに存在しないことが不思議に思える。時間は、その存在を証明することができない。1998年に僕はたしかにこの映画をある心理状態で見たのだけど、それが本当に存在したことを誰も証明できないのだ。その事実を思うととても不思議。

誰も証明できないけど、たしかにその時間が存在していたことも事実だし、僕がそのころ東京に住んでいたことも事実だ。そして色々なことを考えたり、感じたりしていたのも事実。

もうあれから7年近くもたつのに、その事実が生生しいことが不思議。おそらく20年後も30年後も、この映画を見たら、その時間があったことに驚いて不思議になるにちがいない。

90年代後半というのは過去なのだろうか?過去なのだけど、僕にとっては過去とは違うし、20年後も30年後も過去ではないような気がする。

それは僕の年齢のせいかもしれないし、時代が実は90年代後半と今では大きくは変わっていないのかもしれない。インターネットも携帯もあったし、当時も今も経済状況はよくない。90年代後半と90年代前半はまったく時代が違うかもしれない。しかし90年代後半と2000年代はそれほど大きく違わないのかもしれない。


涼風


今年のオスカーあれこれ

2005年03月14日 | 映画・ドラマ
昨日から姪が家に泊まりに来ていました。彼女は今小学五年生です。

もともと体は小さかったのですが、小学2年生ぐらいから急に太り始めました。彼女の父親がジャンクフードが好きみたいなので、その影響だと僕の母親はぼやいていました。

彼女は今でも太りめなのですが、「わたしは、○○ちゃんかわいいと友達に言われる」と自慢というか抵抗したりしています。普通、かわいい子に対しては誰も「かわいい」とは(当たり前なので)言わないような気もするけど。

でも昨日は、「わたしのことが好きな男の子が二人いる」と自慢していました。その男の子たちがかっこいいのなら自慢してもいいんだけどねぇ。


昨日はBSでアカデミー賞をやっていました。いろいろ気づいたことがあって少し面白かった。

・ マーティン・スコセッシのしゃべり方はウッディ・アレンにそっくり。
・ オープニングでジュード・ロウをネタにからかったクリス・ロックに対してショーン・ベンが本気で反論して、まるでチンピラみたいだった。『ミスティック・リバー』のあの役はほんとにはまり役だったわけね。見ていて怖くなったよ。
・ ケイト・ブランシェットは、迫力と謙虚さが混ざり合ったような人柄。
・ チャン・ツィーはかわいかった。アジア発の本格的大物女優になるか。
・ ナタリー・ポートマンやキアステン・ダンストをオスカーで見ると、あの子役たち(『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』『レオン』)がすっかり映画界の華になっているのだ     と思わされる。もう10年近くたつもんね。
・ プリンスが主題歌賞のプレゼンターで登場。受賞者がプリンスの前でひざまずいて手にキス
をする。やっぱり多くの人に尊敬されているんだねぇ。

などなど。オスカー・シーズンということもあるけれど、今映画館では面白い映画がとにかくとてもたくさんやっている。全部見ようとしたらラクに一万円を超えそう。


涼風



何かしている

2005年03月11日 | 日記
インターネットがADSLでつなぎ放題になったのはいいけれど、時々そのせいで呼吸困難になる。以前、自宅じゃない場所でLANでつないでいたときも、体も精神も完全にネット依存状態になったころがあるけれど、今も時々そんな感じになる。たいして重要じゃないことをネットで調べないときがすまなくなるのだ。やっぱりネットは体によくない。

ネットもテレビも携帯もゲームも、どれも体によくないと思う。詳しく言うと、それに依存すると体によくない。

現代は依存しないものを見つけるのが難しい。新技術に依存しないように瞑想するとする。でも、瞑想セミナーに10万円をつぎこむ人もいる。

わたしたちは何もしないということが怖い。ゲームをしないからといって、本を読み漁ることが健康的だとはいえる根拠はない。携帯をしないからといって、「自然」に触れることに没頭することが健康的だという根拠はない。「自然」もひとつの依存の対象になりうる。「精神」や「心」の探求も依存の対象になりうる。ネットをしないからといって、英会話の勉強をすることが健康的だという根拠はない。

何もしないことがわたしたちは怖い。

涼風