joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

絵本 『いろいろ1ねん』 レオ・レオニ

2007年05月31日 | 絵本・写真集・画集
レオ・レオニの絵本『いろいろ1ねん』を読みました。

ふたごのねずみのウィリーとウィニーが、木のウッディと出会い、友達になります。ウッディは一年を通じて季節の変化と共に姿を変えていき、ウィリーとウィニーはそんなウッディと一緒にいて、ウッディのためにできることをしようとします。

季節の移り変わりと、それによって姿を変えていく自然の姿というは、神秘です。ウィリーとウィニーは、そのような自然と接することで、自然が生きていることを学びます。

自分以外のものとの触れ合いは、相手が生きているからこそ可能になっていることが、この絵本を読むと分かります。


いろいろ1ねん

あすなろ書房

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「リーダーたちは、かく語りき」『プロフェッショナル 仕事の流儀』

2007年05月30日 | テレビ
昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」は、「リーダーたちは、かく語りき」と題して、これまで登場した管理職の人たちの言葉から、あるべきリーダー・上司の特徴を紹介していました。

その内容は、私にとっては意外なものは一つもありませんでした。私がこれまで本を読んだりして得た知識以外のものはありませんでした。そういう意味では、目新しさのない内容でした。

ただ、じゃあ面白くなかったのか?と問われると、「面白かった」です。

リーダーとして必要な条件を各界のトップの人が語っていたのですが、それはやはり部下との人間関係が話題の焦点になります。

「自分の部下に夢を持たせる。この会社にいたら自分の生活がもっと良くなると思わせるようにすることだ」

「チームの中に問題児がいたとしても、その“問題児”を排除しないこと」

「ある意見(正)に対して、反対の意見(反)をぶつけて刺激を与えると、新しい概念(合)が生まれる。そしてさらに、「反」をぶつけて、新たな「合」を生み出す・・・」

「同じことを何度も言い続けること。人間が行動に移してもらうには、同じことを繰り返し言って、自分の信念を理解してもらうんです」

「正しいことよりも共感してもらえることが大事」

「大事なのは、間違いは誰にでもあるということ。そして間違えたときには、すぐに修正をすることです」

「話すことより聞くことのほうが効果をあげることも多い」

どれも、経営者が書いた自己啓発的な本や、ポップ心理学の本を読めば、書いてあることばかりです。

おそらくこれらのことは、ずっと以前から人々に知られていた、リーダーとして必要な条件なのだと思います。きっと、いつの時代でも、同じことが誰かによって語られていたのでしょう。

しかし、ではなぜそれが今もなおこうして語られ続けているかというと、これらのことがリーダーとしては大事であるにもかかわらず、きっと実践することはひどく難しいからでしょう。

たとえば、大学で経営学や社会科学などを研究している人たちは、上記のようなリーダーとしての条件が、社会を運営していく上で大事であるということを強調しないかもしれない。なぜなら、そこには目新しい知識は無いからです。

「学問」をしていく上で求められることは、そこに「新しい」ことを発見するかどうかです。ある社会学者はかつて、「新しいことを書いていない本は存在してはいけない」と言いました。

そのために、学者たちはつねに「オリジナルな」「新しい」発見を論文に書かなければ評価されません。

それはそれで大事なことなのですが、しかし一般の社会で動いている人たちにとって一番必要なことは、上に挙げたような、誰もが理解しているけれど、しかし実践するのは難しいことを、ちゃんと理解して実行することです。

先日、人はそれぞれの資質から、本を読んで情報を得る人、人間関係から学んで情報を得る人、運動をして情報を得る人、芸術をすることで情報を得る人など、様々な情報取得のタイプがあるということを書きました。

おそらく、「新しい」(目新しい)ことは、本を読むことで私たちはその情報を得ることができます。それに対し、他の情報の得方というのは、文字にすれば目新しくは無いのですが、しかし実践するのがとても困難で、かつ人が生きていく上で実はとても大事なことを得やすいのだと思います。

こう言ったからといって、本・文字によって情報を得ることを否定するわけではありません。ただ、そこに価値を置きすぎては、社会を動かす上で一番大事な知識は何かという問いに対する答えを見誤る危険があるようにも思います。

上に紹介した言葉の一つが表している様に、

どれほど単純に見えようと、「同じことを何度も言い続けること」で初めて人間は動くことができるし、また人間の行動が伴わなければ、その知識は価値が薄いとも言えます。

最近同じことを言っていますが、やはり現在の学校教育は、大学までは極端に本・文字による情報の取得に価値を置き、そこからいきなり社会に出て別のタイプの情報の取得を迫られるというようになっているのです。

a stain on the silk

2007年05月30日 | reflexion


わたしたちは、親に対して、あるいは親のように慕う人たちに対して、「この人こそわたしを包んでくれる」という期待を抱きます。

あるいは、わたしたちは、自分以外の人すべてに対して、そのような期待を抱いていると言ってもいいと思います。

しかし、そのような期待が強いほど、その期待にそぐわない側面を相手の人に見出したとき、相手への評価が180度逆転して、その人を極悪人のようだと思い込みます。

それはまるで、白くてきれいな大きい布の手触りを楽しんでいながら、そこに一滴のインクがこぼれ落ちただけで、私たちは、その布を汚らしいものと思い込むようなものです。

でも、本当はわたしたち誰もが、インクのシミがこぼれ落ちている白い布のようなものなのだと思います。

絵本 『はる・なつ・あき・ふゆ』 ドゥブラフカ・コラノヴィッチ

2007年05月30日 | 絵本・写真集・画集
クロアチア生まれの絵本作家ドゥブラフカ・コラノヴィッチによる『はる・なつ・あき・ふゆ』を読みました。

彼女は1973年生まれ。クロアチア紛争(1991-5)の時にはすでに20歳を超えています。

この人は一度アメリカの大学で美術を学んだ後、またクロアチアの大学で絵画を専攻されたようです。そういう人って多いのかな。東欧からアメリカに移住する人は多いのかもしれないけど、そこからまた母国に還るという例は。


主人公の女の子アンナは、おじいさんとおばあさんの住んでいる家によく遊びに行きます。彼女はその家の近くの森に、おじいさんやおばあさんと遊びに出かけます。そこには、季節ごとに様々な世界が広がっています。

森は静かな時間が流れています。この森の絵も、見る者の慌てる心を、じっととらえて離しません。

森には植物や空気が広がっています。この森の絵も、とても奥行きがあります。色です。色が奥行きを作り出しています。この色を見ていると、自分も広い世界の中にいるような気分にさせられます。

色の素晴らしさが、紙ではない世界を読者に体験させてくれるのです。


はる・なつ・あき・ふゆ

評論社

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切符

2007年05月29日 | 日記



昨日電車に乗っていたのですが、降りる駅に近づいて切符を探すと、入れたはずのポケットを探してもありません。それからポケットというポケットを何度も探し、かばんの中も見てみましたが、やっぱり見つかりません。

仕方がないので改札の駅員さんに事情を話すことにしました。そのときは、一体どれぐらい払わなきゃならないんだろう?と少し不安になりました。

しかし無いものは無いので駅員さんに話すと、ポケットを見てみましたか?と言われたので、私はもう一度その場で探しましたが、やっぱりありません。

すると「じゃあ、今度から失くさないように気をつけてくださいね」と言われ、そのまま改札を通してくださいました。

○○電車の○○駅の駅員さん、どうもありがとうございます。とてもうれしかった。

情報の得方

2007年05月29日 | テレビ
最近、「人にはそれぞれの情報の取得の仕方がある」という話を聴きました。

つまり、本を読んで情報を得るタイプの人がいれば、運動をすることで情報を得やすくなる人もいるし、芸術をしていて沢山情報を得るタイプの人もいれば、人と会うことで情報を得る人もいるということのようです。

「情報」と言うと私たちは文字の内容をすぐに思い浮かべます。

しかし、人と会うことで、社会の動きや人間について深く学ぶ人もいるでしょう。文字では分からない、具体的な人の感情の機微を理解したりもできます。

芸術やスポーツは、それに打ち込むことで、どのようにして、またどのような時に人間はその能力を最大限発揮するようになるのかということを知ることができます。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見ていて思うのは、主に、芸術や人と会うことで多くの情報を得て、世界への理解を深めるタイプの人たちがこの番組で取り上げられているのだな、ということです。

つまり、社会に生きる多くの人々が求めているのは、人間関係の知性や芸術的知性だということです。

おそらく、多くの社会人はそのような知性が求められるということなのでしょう。

しかし、学校教育では、そのようなタイプの知性・情報の取得の仕方は、主流ではありません。学校教育では、「文字」に特化した情報が重視されます。

具体的にどうすればいいかは分かりませんが、このような「文字」への集中が教育の一つの問題なのでしょう。

あるいは、教科ごとの「文字」と現実との結びつきを生徒がイメージしにくいことが、子供が勉強嫌いになる一つの原因のように思います。

2007年05月27日 | ちょっと言ってみました
私は中学生の頃、多くの子供が複数の教科を教える塾に通っている中で、英語専門の塾に通っていました。

それは、社会人の人が一人で教えている塾でした。

この塾の雰囲気は少し変わっていました。

まず、先生がとても洗練された趣味をもち、インテリアや文具などで私が見たことがないような「舶来」という雰囲気の物で部屋が溢れていました。その先生はとても熱心なキリスト教信者でした。

今から見て、その先生がどれほどの英語力の持ち主だったのかは分かりません。しかし、おそらく塾で教える学生アルバイトとは全く違っていたのだと思います。

私は、その洗練された趣味の部屋と、なんだかすごい英語力の持ち主と共にいるという想いで、そこにいるときはいつも緊張していました。

今から考えれば、その先生は子供に英語を教えるのは丁寧ではありませんでした。正確には、できの悪い子にとっては必ずしもいい先生ではなかったと思います。文法の教え方も難しい言葉をたくさん使っていて、私にはチンプンカンプンでした。

また、教科書の数ページを暗記するよう言われ、授業の始まり前には指定された箇所を暗唱しなければなりませんでした。

今から思えば、それは英語を学び始めた中学一年生にとってはいい教え方なのかもしれません。ただし、英語を学ぶ気のある、あるいはよくできる子にとっては。

私のように怠惰な学生にとっては苦痛以外の何者でもなく、結局授業をサボったり、暗唱できず授業中立たされたりしていました。

その塾には成績のいい子が通っていたので、あまり手取り足取り教えなくても、他の子はみんな勝手にどんどん勉強していい点を取っていたようです。そんななかで、何も分からない私は、とても恥ずかしい思いをよくしていました。


私の英語の成績は中学3年の途中まで、平均クラスでした。

ただ、高校受験前から英語は熱心に勉強し始め、卒業前には当時の私には信じられないようないい点を取るようになっていました。

結局、その塾は中学卒業と同時にやめました。県内でも有数の進学校の生徒が集まるその塾には、私には居場所がないように感じたのです。

ただ、高校になっても、他の悲惨な科目の点数に比べて、英語だけは(私にとっては)マシな点をとっていました。また、私も英語の勉強は好きでした。

今になって思えば、英語だけは勉強する気になれていたのは、中学のときにその英語塾に通っていたことが大きかったように思います。

どういうことかと言うと、何かその道の専門家と一緒にいるという雰囲気の中にいることで、英語なら英語という分野に関して「まじめにやらなきゃ」と思うようになっていたのだと思います。

上にも書いたように、その先生が実際はどれほどの英語力なのかは分かりません。しかし当時の私には「すごい人」のように思えたのです。

そういったその道の専門家とつねに一緒にいることは、子供に対して、それもまだ斜に構えることを覚えていない子供に対して、その分野に真剣に取り組むよう促す効果があるのではないかと、最近になって思うのです。

以前にも紹介しましたが、かつて吉本隆明さんは、学校教育を再生させるための一つの手段として、ある分野の大家を学校に派遣して講義させることを提案していました。

学問の大家と子供たちが触れ合うことのいい点は、「受験」「点数」「偏差値」という枠組み以外で学問を見る視点を学生が知ることができる点にあります。単なる点数のためでない学問的好奇心が、そこに生まれることもあるのだと思います。

結局、大学に上がってからはまた英語は勉強しなくなりましたが、今になって少しずつでも勉強を再開しています。


子供を塾にやるときは、その教科に対して、単純に受験云々の枠組みだけで語るのではない先生を選ぶことも、一つの道なのだと思います。

あと、子供を塾に通わせることが、子供のためなのか、親の精神安定剤代わりなのかも、考えたほうがいいのだと思います。

Accepting your insincerity and ignorance

2007年05月26日 | reflexion



「非常に混乱していて、頭が悪く、人を愛していないように見える人でも、その人の意識レベルが自分よりも低いとみなす権利は、私たちにはありません。その人は、私達よりずっと深いレベルの愛に気づいているかもしれないのです」

(『なまけ者のさとり方』)


私自身がそうなのですが、「正義」に囚われている人の特徴は、自分が考えている問題を他の人は理解していないし、また考えるべきだ、と思っていることです。

人にはそれぞれの歴史があるので、考え方にもその人のそれまでの歴史が反映されています。それゆえに、その人自身が到達した透徹した認識もあれば、まだ分かっていない問題もあります。

しかし「正義」に囚われると、他人のそれまでの思考の歴史を無視して、自分の思考の経緯だけが絶対だと思い込みます。自分が到達した「正義」自体は、大切な認識なのですが、彼がその認識に到達しえたのは、彼独特の歴史を歩んできたからです。そのことを自覚していないと、自分だけが「正義」を知っており、他の人はみな無知で不誠実だと思うようになります。

おそらく、誰もが、その人なりの歴史を経て到達した「正義」があります。同時に、その人なりの歴史ゆえに、まだ分かっていない問題があります。

私たちは誰もが誠実で賢い部分を持っているのですが、誰もが不誠実で差別主義者で無知なのだと思います。

「誠実」や「正義」の高みにいるよりは、自分や他人が「無知」で「不誠実」であることを許容できる人になりたいですね。

映画 『ユナイテッド93』

2007年05月26日 | 映画・ドラマ
映画『ユナイテッド93』を観ました。監督は、『ボーン・スプレマシー』のポール・ハギス。911テロ事件でハイジャックされた飛行機の一つの内部で何が起きたのかを、忠実に再現しようとした映画です。

911テロで、ハイジャックのあった4機のうち、1機だけが目標に到達せずに墜落しましたが、それがユナイテッド航空93便でした。残されたテープなどから、映画制作者たちは乗客がハイジャック犯に抵抗を試み、それゆえハイジャック機は目標であるホワイトハウスに到達せずに墜落したと解釈しています。

(参考:「ユナイテッド航空93便テロ事件」

映画はドキュメンタリー風に進み、機内の様子や管制塔などの映像を徹底的にリアルに描こうとしています。

しかし、本当にリアルな映像にしていたら、ここまでの映画的な臨場感を産まなかったでしょう。やはりこの映画は、いい悪いは別にして、一つのエンターテイメントなのです。

私自身がこの映画でもっとも緊張したのは、ハイジャック犯が乗っ取りを行うまでの時間でした。犯人たちが緊張で押しつぶされそうになる一方で、何も知らない乗客たちは機内で平凡に過ごしています。同じ時間と場所にいながら、犯人とそれ以外とでは、見ている風景がまったく違うのです。

このコントラストは、観る者に、テロの恐怖を強烈に印象づけます。まさに、日常の退屈な平和に恐怖が潜んでいる様が描かれます。


この映画を観ていて思わされることの一つが、アメリカ映画界における俳優の層の厚さ。特定の人物をヒーローにしないために、意図的に無名の俳優がキャスティングされたそうですが、登場する俳優たちがどれも迫真の演技をします。

ハイジャック犯を演じた俳優たちは、この映画を観たアメリカの人たちから、これから余計な反感をいだかれないだろうか?と心配してしまうような、なりきった演技をしています。

映画としてとてもよくできている映画だと思います。だから、観終わった後に満足感が残ります。

しかし、いい映画だからこそ余計に、乗客だった人たちや遺族の人たちに対して、この映画はいい印象を残すのだろうか?とも感じました。

この映画が制作される前に、ほとんどすべての遺族から承諾を貰ったそうです。ただ、面白い映画であるゆえに、この映画を観て「満足」することがいいことなのかどうか、よくわかりません。

この映画で起きたことがどこまで本当なのかはまだ分かっていません。しかしこの映画はとてもよくできているために、多くの人はこの映画が本当に事実を再現していると思うのではないでしょうか。

頭では、「これはフィクションである」と分かっていても、911テロ事件を思い返すとき、一度この映画を見てしまったら、いつもこの映画のことを思い出してしまうでしょう。

それがいいことかどうかは、わかりません。

絵本 “A Little Schubert” by M. B. Goffstein

2007年05月25日 | 絵本・写真集・画集


“Franz Schubert heard music when his friends heard nothing,”


M・B・ゴフスタインの絵本“A Little Schubert”を読みました。


ゴフスタインという人は、私たちの体を通して流れているものの存在を信じているし、その存在を私たちに教えてくれる人です。

彼女の絵本は、何かを表現しているというより、実際に存在するものをただ描写しているだけだと言えます。

私たちは、本当は、何かを表現する必要はなく、ただ本当に存在するものを指し示せばいいだけなのです。

ゴフスタインは、彼女にとって当たり前のことを、示しているだけです。

だから、彼女の絵本は、ゆるぎない強さをもっています。

“Nodame Cantabile”でお勉強

2007年05月23日 | 語学



洋書でペーパーバックの“Nodame Cantabile 1 ”を読んでみました。

ひー、面白い。こんなに面白いマンガだったのか。

日本語で読んだほうが大笑いできたのかもしれませんが、英語でも十分面白さが伝わってきます。

これは英語版です。

英語でマンガを読んだのは初めてですが、これは語学学習の教材としてかなりのスグレモノなんじゃないでしょうか。

なんと言っても、日常会話の英語の生き生きとした感覚を読んでいてとても感じるのです。

僕は英語圏で暮らしたことがないけれど、読んでいて「あぁ~、生の英会話ってこんなんだろうな」と思いました。

「英会話」のための学習書を読んでも大抵つまらないですよね。そういう人には是非お薦めです。笑いながら、どういう場面でどういう言葉が使われるものなのかが分かります。

夏至まであと一ヶ月

2007年05月23日 | 日記



いい天気が続いています。

いつの間にか日がとても長くなっています。

考えてみたら、夏至まであと一ヶ月なんですね。

つまり、これから二ヶ月が一年のうちで最も日が長い期間です。

そう考えると、なんだか名残惜しいです。

絵本 『くものこどもたち』 ジョン・バーニンガム

2007年05月23日 | 絵本・写真集・画集
ジョン・バーニンガムによる絵本『くものこどもたち』を読みました。

不思議な絵本です。

空高いところにいるとはこういう気分だろうなと、読者に思わせてくれます。

空高いところにいるときの孤独。

その孤独は、くものこどもたちによっても癒されません。

空高いところにいるときに、くものこどもたちに出会ったことで、主人公の男の子はほっとします。彼らによって淋しさを癒されます。

男の子はくものこどもたちと一緒に空高いところで遊びます。

空高いところは自由なところです。

あまりにも自由すぎて、文字通りにも比喩的にも足場がありません。

足場がないことは、自由ですが、淋しいことでもあります。

その自由さを愉しみながらも、男の子は足場があることへの懐かしさに駆られます。

空高いところにいるような気分に読者をさせてくれる絵本です。

浮いていて楽しい。でも、淋しさも伝わってきます。


くものこどもたち

ほるぷ出版

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Heartbreak i

2007年05月22日 | reflexion
なんだか怒りで荒れ狂っている。

人の誠実さへの疑いで怒るというのはどういうことだろうか?

それは、その人が自分の思うようには誠実で立派な人ではなかったという、裏切られた気持ちですね。

でも世の中には不誠実で立派でない人なんてたくさんいるのに、なぜ特定の人のことで怒ってしまうのだろうか。

まぁ、想像できるように、その人に完璧な人であったという想いが強いからなのですが。

人の「不誠実さ」で怒っているときは、それだけ他人に完璧であって欲しいという強い想いがあります。

その期待が裏切られると、なんだか悔しくて悔しくて仕方がないですね。

そう理解してもすぐに悟れるわけではありませんが、自分の中にそういう期待があるということは自覚していたいです。

弱い

2007年05月22日 | 日記



僕の特徴の一つとして、わざわざ自分の「弱み」(あるいは「弱み」だと思い込んでいるもの)を人に教えるということがあります。

私自身は、そうした「弱み」を伝えた上で、相手の人に私のことを理解して欲しいと思うのですが、なかなかそう上手くもいきません。

自分の「弱み」を相手にさらすというのは、正直だと言えますが、別の見方をすれば甘えです。

普通、人は「弱い」人と付き合いたくありません。「弱い」人を見ることで自分の中の「弱さ」に直面させられるからです。「弱い」者いじめとは、そのような自分の中の「弱さ」に直面することを避けるために、その「弱い」人を殴り・排除する行為なのでしょう。それとは逆に「弱い」人を助けるのがしんどいのは、助ける側がその過程で自分の中の「弱さ」を受け入れるように強いられるからです。

自分の「弱み」を相手にさらすというのは、「これだけ弱い自分を受け入れてください」というメッセージです。依存の一つの形だとも言えます。しかし普通の人はそんな弱い人を抱え込むような余裕はありません。