ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが2001年に出版した本の邦訳『
世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊 』を読みました。
ざっと読んだ印象としては、社会学にとってとりわけ新しいことは述べられておらず、これまで彼が述べてきたことを簡単に要約した印象です。もっとも、この本は彼の講演録なので、一般の聴衆が分かりやすい話に的を絞ったのでしょう。
ベックの議論の骨子は、これまでの社会・国家の約束事が機能しなくなった現在の状況を認識するというもの。その代表が、生産の増大による経済発展・福祉国民国家・技術進歩といった約束事です。
いまや流行と化している「自然破壊」という認識を前にして、技術進歩が単純に我々の社会を幸せにしてくれるとは、とりあえずは誰も信じていません。
また人口構成が少子高齢化になり、国内市場が先進国では軒並み縮小する中で、すべての企業が成長することも誰も信じることはできません。
経済成長が約束されず、かつ少子高齢化で国家の年金制度を維持できないことが明らかな以上、福祉制度がこれまで通り維持できると想定することも無理になっています。
こうした20世紀の成長神話を信じることができず、未来の予測が不可能になった状況をベックは「リスク社会」と呼びます。
こうしてみると、このような認識は目新しくもないかもしれません。しかし、これらの当たり前の認識は、ベック自身が80年代からこれらのことを言い続けたことによって人口に膾炙し、私たちにとって馴染み深いものになったとも言えます。その点で、やはり彼は先駆者なのだと思います。
個人的に印象に残ったのは、このような不安と予測不能性ゆえに、独特の新しい倫理が生まれるというベックの指摘です。
国内市場の縮小化に対応して、先進国企業の行動はグローバルになり続けますが、同時に企業のもたらす害悪はもはや国民的合意によって隠蔽されることはなくなります。
大企業による自然破壊や低賃金労働の搾取といった非モラルな行動は、その危害を加える企業と被害を受ける人たちの国籍が異なるほど、被害を受ける人たちの反発は強いものになります。
国家の経済成長がやがて国民に還元されるという神話を信じることができた時代には、環境破壊による住民への危害は、司法・行政によって黙認され、差し当たり被害を受けないマジョリティによっても許容されてきました。
しかし他国の企業によって生活が脅かされるとき、住民たちはその不当性を声を大にして主張するようになります。
「経済成長」という神話は、国家なりのある一つの共同体が全体として発展することを想定しています。しかし経済のグローバル化すなわち企業行動の多国籍化は、一つの共同体はまとまって成長するという神話を崩壊させています。
富の増大の恩恵を受けるのは、成長する企業に属する成員のみであり、同じ国籍でもその企業に関係しなければ貧困へと追いやられます。
そのような状況では、その企業と国籍を同じにしない住民たちは、もはやその企業の行動を無条件に認めることはしません。
そのとき、まるでマルクスの予言が的中するみたいですが、多国籍企業の恩恵に浴することができない人々は、国籍・国境を越えて団結してその企業への反対行動を起こします。いわゆる「アンチ・グローバリズム」は、グローバルに展開するというわけです。
ベックは次のように説明します。
「非常に逆説的なのですが、その世界は、グローバルな危険の挑戦によって、ナショナルなものを超えた再モラル化、行動、抵抗の形式やフォーラムやヒステリーのための新たな源泉を有することになります。身分意識や階級意識、進歩信仰や没落信仰、共産主義という敵対像の変わりに、世界(環境)救済という人類のプロジェクトが登場しうるでしょう。グローバルな危険は、歴史的な瞬間に、少なくとも部分的に、グローバルな共同体を作り出します」(p.119)。
「国民国家」全体の幸福・安寧の増進という神話が崩壊し、同じ国籍でもグローバルに行動できる企業の関係者とそうでない人たちの境遇に差が出るほど、国籍を超えて企業に反対する人たちの利害は共通するようになります。
おそらく、このようなストーリーはヨーロッパの社会学者だからこそ描きやすい展開なのだと思います。ナショナルものへの信仰が、「国民国家」という共同体の形態を生んだヨーロッパで(比較的)崩れており、EU内での人的交流は進んでいます。
それに対して、ヨーロッパ以外の地域では、それほど国籍の壁を越えた連帯が進んでいるという印象は私にはありません。
アメリカにせよアジアにせよ、大企業がグローバルに行動する点では共通しています。また、その大企業の成長に浴することができる人とそうでない人との間の境遇の差が激しくなっているのも、アメリカにもアジアにもヨーロッパにも共通する傾向だと私は想像しています。
しかし、それに対して「下」にいる人たちの意識は、ベックが考えるほどグローバル化しているかというと、どうなんでしょう?アメリカの人は世界で最も外国語を学ばず、海外旅行をしない国だと言われますし、アジアの底辺の民衆が国境を超えた連帯意識を他国の民と分かちあうという傾向を感じることは私はありません。
上記のような底辺の民衆のグローバルな連帯というストーリーは、欧州レベルでは信じやすいかもしれませんが、それを世界的な傾向として論じることには無理を感じます。
ベックはたしかに現代の重要な社会学者の一人だと思いますが、彼の議論は彼が生き呼吸をしているヨーロッパという場所、とりわけEUの中心地であるドイツという場所とは、やはり切り離せないように思います。
私たちがベックを読む際には、その点を考慮した上で、何が日本にも当て嵌まり、また当て嵌まらないかを意識することが必要なのでしょう。これはベックに限らず、「指導的」と言われる欧米の社会学者の書物を私たちが読むときに気をつけなければならない点だと思います。
参考:
『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 ウルリッヒ・ベック アンソニー・ギデンズ スコット・ラッシュ(著)