joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

詩画集 『クレーの絵本』 パウル・クレー (絵) 谷川俊太郎 (文)

2007年04月30日 | 絵本・写真集・画集



パウル・クレーと谷川俊太郎さんの詩画集『クレーの絵本』を見ました。

以前『クレーの天使』を見たときは、軽いショックみたいなものを受けたのですが、今回はそれほど大きな印象を持ちませんでした。

その理由の一つは、『クレーの絵本』の絵はとても秩序だっているからだと思う。『クレーの天使』は、一見秩序のないような無茶苦茶な絵に見えるのに、なぜか引き込まれ、その絵を見ていると意識の奥にあった感情を掘り起こされるような気がしました。

それに比べると『クレーの絵本』は、表面的にもとてもわかりやすいのです。どの絵の色彩もとてもきれいで、構図も整っています。

そこが驚きの少なかった理由だと思います。

でも私はまだこの画家のことを何も知らないので、また見方が変わるときが来るかもしれません。

『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』 勝間和代(著)

2007年04月30日 | Book

いつも読ませてもらっているブログ『私的なことがらを記録しよう!!』の勝間和代さんが『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』という本を出されました。

この本の内容は、主にキャリアアップにつながるための勉強法をご自身の体験談をもとに話されています。例えば英語・公認会計士などの資格試験に臨むに当たって留意すべきポイントなど。

詳しい内容は読まれるのが一番ですが、著者が強調することの一つが、膨大な知識量が要求される資格試験では、まず基本的な核となる思想を掴むことの必要性です。

例えば、公認会計士の試験でも司法試験でも多くの分野にまたがって試験問題が出されるそうですが、多くの人はその分野の広さに惑わされて、あれもこれもと手を広げすぎるそうです。

それに対して勝間さんが言うのは、その試験でキーとなる分野を最初に徹底的にマスターすること。著者は公認会計士に当時最年少で合格されたそうですが、その理由を振り返ると、色々な分野を最初から勉強せずに、簿記を徹底的に勉強したことがよかったと述べられています。

また著者の知り合いで司法試験に短期間で合格された(元)主婦の女性は、法律の根幹となるような思想を最初にみっちり身につけたとのことです。

これはおそらく、ホリエモンやドラゴン桜などが歴史の勉強で漫画を活用することの効用を述べたことと同じことなのでしょう。つまり歴史を知るに当たっては、枝葉末節の細かい知識は後回しにして、歴史の流れを最初に漫画で押さえることがいいということですね。

多くの知識を処理しなければならないからこそ、最初に核となる思想・考え方を身につけて、それに沿って情報を処理すればいいということだと思います。すべてを頭に入れる必要はないということ。


この本はアマゾンでも1位になるほどヒットしているそうです。ということは、勉強ブームということは前から言われていますが、今は本当に多くの人が大人になっても勉強しているということなんですね。

その際に、この本の著者が言うように、勉強をする際には、ただガムシャラにやるのではなく、基本的に知らなければならないことと後回しにしてもいいことを見究めないと徒労に終るだけだという認識が広まることは、社会にとてもいい影響をもたらすのではないかと思いました。

私がそう思うのは、こういう認識が広まることで、頭のいい人が増えるだろうと思うからではありません。増えるかもしれませんが、それよりも大切なことを、この認識は教えてくれるように思う。

大量の情報を効率的に吸収するということ自体が、ある種のコツを掴まない限りは苦労が多く無駄骨になると大人が知ることで、子供にスパルタ的に一生懸命勉強させれば成績が上がると大人が勝手に期待することが不条理だと理解するだろうから。

つまり、単に知識を教えてもらうだけじゃなく、効率的な勉強の仕方自体を多くの子供は知らないのだし、それを知らない以上は受験勉強ができなくても責めることはできないということです。

この勝間さんの本を読んで、誰もが同じようにTOEICで900点をとることができたり、公認会計士や司法試験に合格できるようになるのか、私には分かりません。また、子供たちが『ドラゴン桜』を読めば学力が上がるのかどうかも、私には分かりません。

ただ、もしそれらの本を読んで頭が良くならなくても、ある種のコツをつかまなければ、“試験”というものはただひたすら徒労で、無駄骨なのだということを認識するだけでも、大人が子供に無理な期待をかけなくなるんじゃないだろうか、と思います。そうなって欲しい。

勝間さんが言うように、“勉強”というのは、同じ時間をかけても、コツをつかめばスイスイ情報を処理できるようになるし、コツがつかめなければ、ただただ多くの知識を前にして疲労するだけの苦行です。

そして、そのコツを子供が絶対に体得すると期待することは、やはりできないのだと思います。そうしたコツを掴むには、大量の情報を前にしてもひるまないだけの自信・自分自身や周りの人間と外界への信頼感などが最低限必要だろうし、そのような態度は家庭や社会の環境によって形成されるので、誰にでもすぐに身につけることができるのかどうか分かりません。やはり、生まれ育った環境も大きく影響するだろうし、遺伝ということもあるかもしれません。

だとしたら、自身は勉強が嫌いな大人が、子供には「勉強しろ」と言ったり、通信簿を見て溜息をつくなどという残酷なことは、本当はできないはずです。

この勝間さんの本を読んで自身のキャリアアップを目指される人は多いのだと思います。同時に、こういう本を読むことで、子供たちが曝されているプレッシャーや苦労を思い出したり、理解できる人が増えれば、もっといいと思います。


参考 『インディでいこう!』 ムギ(著) joy a day of my life

『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』 七田眞(著) 2

2007年04月29日 | Book
昨日のエントリー『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』 七田眞(著)を書き終わって、一日経って想ったこと。

たしかに思考を転換させるには様々な言葉を知っている必要があります。頭に大量の知識が入っている方が、物事を多面的に考察することができます。

それはそうとして、じゃぁ、知識がたくさん入っている方が、自分の感情に流されずに物事を客観的に判断できるようになるのだろうか?

それはたしかにそうかもしれない。

じゃあ、なにがひっかかっているのだろう?

要するに、上の考え方だと、頭のいい人ほど感情的に成熟した人間になる、そういう考え方につながるような気になって、そこがひっかかったのです。

上記の本で七田さんは、家庭での言葉が少ない子供ほど、知能が発達しなくなりやすいと述べています。例えば「早くしろ」「勉強しろ」「ばか」とばかり言われて育った子供は、こうした早急な判断を下す言葉ばかり頭にインプットすることになります。そうなると、立ち止まって考えようにも、考えるための道具=言葉を知らないことになります。すると、自分で考えをひねり出そうにも、自分では何も考えられない大人になりやすい。

こうしたことの公的な統計調査はないでしょうが、それでもこれは説得力のある洞察だと思います。

ただ、じゃあ多くの知識をもっている人は、必然的に物事を客観的に理解する人間になるのかと言うと(七田さんがそう言っているかどうかは分からないけれど)、それはどうなるのだろう?

たしかに、これは上でも言ったように、自分なりに客観的に物事を分析できる人になると思う。

じゃあ、僕が何に引っかかったのかと言うと、大切なのは物事をどれだけ正確に客観的に分析できるかどうか以上に、自分の意見を抑えて他人の話を聴くことができる人間になれるかどうか?ということだと思う。

多くの知識を吸収できる人間が、他人の意見に耳を貸せる人になれるのかどうか。また、安易に他人を感情的に裁かずに、より相手の動機を理解しようとする人間になれるのかどうか。

現代は教育が発達して頭のいい人がとても多いけれど、自分を抑えて相手の話を聞くだけの成熟した感情をもつ人がそれに比例して多いのかと言われると、よくわかりません。

言葉や考え方を多く知るということは、それだけ複雑に物事を考えるチャンスが増えることを意味します。ただそれは、どうしても自分の意見に固執する危険を生むようにも思います。どれだけ言葉や考え方を知っても、それを自分のエゴを強化する方に投資してしまうのです。

多くの言葉や考え方を知っていても、それが自分の感情を抑制して物事を考える方に向かう場合もあれば、“我”を通すために理論武装するという方に向かう場合もあるように感じるのです。

すると、結局一番大切なことは、自分の感情に振り回されずに、自分の感情に触れながら、どれだけ他人の感情に配慮するようになれるかということになります。

そのような人になるために、またそのような人を育てるためには、何が一番大事なのかは、私にはまだ分かりません。


『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』 七田眞(著)

2007年04月28日 | Book
七田眞さんが書かれた『子どもの右脳を鍛える作文練習帳』を読みました。

この本、レビューが書き込まれていませんね。私は七田さんの本は少ししか読んでいないから、熱心な親御さんに比べれば七田さんのことを知らない方だと思うけれど、この本は七田さんのほかの本と比べてもかなりいい本だと思う。あるいは、似たような本をすでにたくさん出されているのかな?

『作文練習帳』という題名ですが、書き込みページなどはありません。でも、作文を書くことの効用や書くための手がかりなどが解説されています。

最近私が思うのは、「右脳」という概念の重要な要素の一つが、「頭に汗を掻く」ということです。

「頭に汗を掻く」とは、要するに、惰性的にものを考えないで、その都度立ち止まってウンウン唸りながら考えを捻り出すこと。多くの人はそれを回避して惰性で生きるのに対し、「右脳」の発達した人というのは、周りの常識に流されずに立ち止まってものを考える習慣のある人のことを言うのでしょう。

そのように立ち止まって考えるには、そもそも思考パターンが何通りもあるということを知っている必要があります。

そして「思考パターン」とは、様々な種類の言葉を知ることで初めて身につく考え方だと言えます。哲学の概念を知らなければ哲学的な考え方はできません。法律用語を知らなければ法律の側面から見たものの考え方はできません。

一つではなく複数の思考方法をもつには、そもそも様々な種類の言葉が頭に入っている必要があります。

例えば、単に学校の教科書の文字だけを知っている子供と、それにプラスして色々な言葉を知っている子供では、その教科書の文字から作ることができるイメージに大きな差が出るでしょう。

様々な言葉・思考方法をもつことは、おそらく感情面でもいい作用を与えるでしょう。様々な言葉・思考方法をもつとは、一つの事柄に安易に判断を下さずに、多面的に考えることにつながりやすいからです。

七田さんがいい作文の書き方として指摘していることの一つに、「したこと作文」ではなく、自分の経験したことを深く掘り下げることがあります。

子供の作文の多くは、「・・・しました」という羅列に終ります。それに対して著者は、一つの事柄に対して、「①面白いと思ったことと、そのわけ ②一番心に残ったこと ③いいなと思った言葉 ④自分ならこうすると思ったこと ⑤自分の生活と比べて考えたこと」などを子供たちに考えさせるように薦めています。

他にも色々な作文の書き方のポイントが上げられています。例えば、「カラオケカスゾ」。

カラーは色。
オは音 言ったこと、聞いたこと、擬声語。
ケは形、大小。
カは感じたこと、自分の気持ち。
スは数や量。
ゾは想像したこと、思ったこと。

見聞きしたことについてこれらの視点をもつだけで、内容豊かな作文になるそうです。

単に「・・・しました」だけではなく、一つの事柄を色々な面から考察すること。これは要するに、上に述べたように、立ち止まって考えることですね。一つの事柄を「これは・・・です」とすぐに断定せずに、それにまつわる多面性を考えることで、安易に感情的な判断を下さずに、物事を客観的に見ることができるようになるのでしょう。

単なる「映画に行きました」という文章はすぐに書くことができます。しかし、その映画について自分の感じたことを書こうとすると、一度自分を内省してから、自分の気持ちにフィットする言葉を探さなければなりません。この探すという行為が、「頭に汗を掻く」ということです。

七田さんは折に触れて子供には大量に知識を与えるべきと説きます。その訳の一つも、多くの知識・言葉を与えることで、様々な思考パターンを頭に作ることを言っているのだと思います。それだけ多くの思考回路を作っておけば、一つの事柄を多面的に考え、解決策などをひらめきやすくなるのだと思います。

こうやって見ていくと、この本の言っていることは、子供だけでなく、大人にもとても大事なことが分かります。自分のできる範囲で、少しずつでも自分にとって不慣れな分野の知識を習得することは、それだけ多くの思考パターンを自分の中に作り出し、安易な判断を控える癖をつけることに役立つのでしょう。

この本は私たちにとって、言葉をもつことの大切さを分かりやすく教えてくれます。また同時に、自分の中にある言葉を「汗を掻いて」探し出してアウトプットすることの大切さも教えてくれます。

作文を書くとは単調な作業ではありません。「自分が書きたいこと」という不確かなものに形を与える作業は、試行錯誤の連続です。その試行錯誤の過程で、私たちは表面上では意識していなかった言葉を探し当てる必要性が出てきます。普段から意識しているわけではない言葉を表に出すことは、面倒くさい。しかしその面倒くささが、私たちに様々な視点から物事を考える習慣を植え付けてくれるように、最近私は思います。

最近は「知育」「右脳」などの訓練法がたくさんありますが、そのどれにも共通するのは、ここまで書いたような、普段の思考とは違う面から思考するという面倒くささに慣れることを目的としているように思います。


参考:受験塾に行かなくてもよい子を育てる法9 七田 眞 ウェブログ

『世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊』 ウルリッヒ・ベック(著)

2007年04月27日 | Book



ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが2001年に出版した本の邦訳『世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊 』を読みました。

ざっと読んだ印象としては、社会学にとってとりわけ新しいことは述べられておらず、これまで彼が述べてきたことを簡単に要約した印象です。もっとも、この本は彼の講演録なので、一般の聴衆が分かりやすい話に的を絞ったのでしょう。

ベックの議論の骨子は、これまでの社会・国家の約束事が機能しなくなった現在の状況を認識するというもの。その代表が、生産の増大による経済発展・福祉国民国家・技術進歩といった約束事です。

いまや流行と化している「自然破壊」という認識を前にして、技術進歩が単純に我々の社会を幸せにしてくれるとは、とりあえずは誰も信じていません。

また人口構成が少子高齢化になり、国内市場が先進国では軒並み縮小する中で、すべての企業が成長することも誰も信じることはできません。

経済成長が約束されず、かつ少子高齢化で国家の年金制度を維持できないことが明らかな以上、福祉制度がこれまで通り維持できると想定することも無理になっています。

こうした20世紀の成長神話を信じることができず、未来の予測が不可能になった状況をベックは「リスク社会」と呼びます。

こうしてみると、このような認識は目新しくもないかもしれません。しかし、これらの当たり前の認識は、ベック自身が80年代からこれらのことを言い続けたことによって人口に膾炙し、私たちにとって馴染み深いものになったとも言えます。その点で、やはり彼は先駆者なのだと思います。

個人的に印象に残ったのは、このような不安と予測不能性ゆえに、独特の新しい倫理が生まれるというベックの指摘です。

国内市場の縮小化に対応して、先進国企業の行動はグローバルになり続けますが、同時に企業のもたらす害悪はもはや国民的合意によって隠蔽されることはなくなります。

大企業による自然破壊や低賃金労働の搾取といった非モラルな行動は、その危害を加える企業と被害を受ける人たちの国籍が異なるほど、被害を受ける人たちの反発は強いものになります。

国家の経済成長がやがて国民に還元されるという神話を信じることができた時代には、環境破壊による住民への危害は、司法・行政によって黙認され、差し当たり被害を受けないマジョリティによっても許容されてきました。

しかし他国の企業によって生活が脅かされるとき、住民たちはその不当性を声を大にして主張するようになります。

「経済成長」という神話は、国家なりのある一つの共同体が全体として発展することを想定しています。しかし経済のグローバル化すなわち企業行動の多国籍化は、一つの共同体はまとまって成長するという神話を崩壊させています。

富の増大の恩恵を受けるのは、成長する企業に属する成員のみであり、同じ国籍でもその企業に関係しなければ貧困へと追いやられます。

そのような状況では、その企業と国籍を同じにしない住民たちは、もはやその企業の行動を無条件に認めることはしません。

そのとき、まるでマルクスの予言が的中するみたいですが、多国籍企業の恩恵に浴することができない人々は、国籍・国境を越えて団結してその企業への反対行動を起こします。いわゆる「アンチ・グローバリズム」は、グローバルに展開するというわけです。

ベックは次のように説明します。

「非常に逆説的なのですが、その世界は、グローバルな危険の挑戦によって、ナショナルなものを超えた再モラル化、行動、抵抗の形式やフォーラムやヒステリーのための新たな源泉を有することになります。身分意識や階級意識、進歩信仰や没落信仰、共産主義という敵対像の変わりに、世界(環境)救済という人類のプロジェクトが登場しうるでしょう。グローバルな危険は、歴史的な瞬間に、少なくとも部分的に、グローバルな共同体を作り出します」(p.119)。

「国民国家」全体の幸福・安寧の増進という神話が崩壊し、同じ国籍でもグローバルに行動できる企業の関係者とそうでない人たちの境遇に差が出るほど、国籍を超えて企業に反対する人たちの利害は共通するようになります。

おそらく、このようなストーリーはヨーロッパの社会学者だからこそ描きやすい展開なのだと思います。ナショナルものへの信仰が、「国民国家」という共同体の形態を生んだヨーロッパで(比較的)崩れており、EU内での人的交流は進んでいます。

それに対して、ヨーロッパ以外の地域では、それほど国籍の壁を越えた連帯が進んでいるという印象は私にはありません。

アメリカにせよアジアにせよ、大企業がグローバルに行動する点では共通しています。また、その大企業の成長に浴することができる人とそうでない人との間の境遇の差が激しくなっているのも、アメリカにもアジアにもヨーロッパにも共通する傾向だと私は想像しています。

しかし、それに対して「下」にいる人たちの意識は、ベックが考えるほどグローバル化しているかというと、どうなんでしょう?アメリカの人は世界で最も外国語を学ばず、海外旅行をしない国だと言われますし、アジアの底辺の民衆が国境を超えた連帯意識を他国の民と分かちあうという傾向を感じることは私はありません。

上記のような底辺の民衆のグローバルな連帯というストーリーは、欧州レベルでは信じやすいかもしれませんが、それを世界的な傾向として論じることには無理を感じます。

ベックはたしかに現代の重要な社会学者の一人だと思いますが、彼の議論は彼が生き呼吸をしているヨーロッパという場所、とりわけEUの中心地であるドイツという場所とは、やはり切り離せないように思います。

私たちがベックを読む際には、その点を考慮した上で、何が日本にも当て嵌まり、また当て嵌まらないかを意識することが必要なのでしょう。これはベックに限らず、「指導的」と言われる欧米の社会学者の書物を私たちが読むときに気をつけなければならない点だと思います。


参考:『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』 ウルリッヒ・ベック アンソニー・ギデンズ スコット・ラッシュ(著)

『巨匠フランク・ロイド・ライト』

2007年04月27日 | 絵本・写真集・画集



建築家フランク・ロイド・ライトの主要設計住宅の写真と解説を収めた書籍『巨匠フランク・ロイド・ライト』を読みました。読みましたと言っても、実際は写真を見るだけで、解説はほとんど読んでいないのですが。

フランク・ロイド・ライトという人については、写真家・上田義彦さんの写真集“Frank Lloyd Wright―Fallingwater Taliesin”で初めて知りました。その写真集を手に取ったのは上田さんの写真を見るのが目的だったのですが、そのときにこの20世紀で最も有名だという建築家の建築をはじめて見たのです。

正直に言えば、何がこの建築家をそれほど有名にしたのか、上田さんの写真を見ても分かりませんでした。とりあえずモダンな雰囲気のある建物ですが、その革新性は、建築について素人の私には見当がつきませんでした。

今回この『巨匠フランク・ロイド・ライト』をみて、少しこの建築家の独自性が分かったような気がします。もっとも私は他の建築家についてまったく知らないので、他との対比で何がすごいのかまでは分からないのですが。

彼の設計した住宅は、必ずしも「人に優しい」というコンセプトではないのだと思います。想像してみても、この家に住むことは居心地がいいのだろうか?と首を傾げたくもなります。

そのデザインは、きわめて人工的な匂いがします。“手作り”とか、“人間味のある暖かさ”というものは感じられません。建物のデザインは直線的です。

この直線的な感触は、その建物が大邸宅のわりに一階建てか二階建てに作られ、横に長く設計されていることに由来します。

内部は、これもひじょうに直線的にデザインされ、余計な装飾はありません。プロテスタントの教会に似ています。とても整序されています。

写真では、これらの大邸宅の多くが緑豊かな土地に建てられています。しかし、じゃあその住宅は“自然と調和した”雰囲気を持っているのか?と言われると、そうでもありません。

むしろライトの建築は、人からも、自然からも浮いた、“建築”それ自体の自己主張が感じられます。


普通建物を設計するときに、建築家や依頼主は何を考えるのだろう?

家を建てる人であれば、“中心性”を感じさせる設計にするのじゃないでしょうか?そこは家族が住む場所ですから、家族のメンバーが一緒に住む場所として、単なる空間ではなく、人間同士が感情的に結びつくための場としての住宅が求められるのではないかと思います。

住む人同士の感情的結びつきを促す場としての住宅である以上、一つ一つの個々の部屋と中心となる部屋との距離は、できるだけ等距離になることが求められるのではと思います。これは、部屋の数の多少や大きさの大小にかかわらず、そうではないかと思います。

それに対して、ライトの設計のように高さがなく、横に長く伸びた家は、中心となる場所(例えば居間)と個々の部屋との距離は、その部屋の位置によって大きく異なる場合が出てきます。

ライトの設計に“人間味”が感じられないのは、ふつう私(たち)が考える「家族が住む場所としての住宅」に求めるものを、必ずしもライトが満たそうとしていないことに由来する気がします。

そのような従来の家族に関する価値観とは切り離されて、ライトの設計する家では、そこで暮らす人々が独立した個人としてその空間を愉しむことを狙っているように感じます。

また、必ずしも“自然と調和し”ているようにも見えません。彼の設計には、そのような作為的な“自然”という概念は感じられず、したがって私たちが“自然”という言葉で思い浮かべるような牧歌的な雰囲気は見られないのです。

にもかかわらず、なのか、だからこそ、と言うべきか、ライトの建物は、それ自体が一つの生き物のようです。住む人にも自然にも従属しない、一つの生き物のよう。住む人にも自然にも従属しないけれど、それが一つの生き物のようであることによって、人や自然との関係を結ぶ住宅。

直線的なデザインで横に広く伸びることによって、ライトの設計する住宅は、遠くの場所から識別するような派手さを持たずに、同時に近くに寄ると圧倒的な存在感をもつ建物となっています。

遠くから見える大きな建物であれば、そこに設計者の意図を感じることができます。しかし、彼の建物はそのような派手さを主張しません。しかし同時に、周りの風景に溶け込むような控え目さもありません。その長さが醸し出す存在感は、あらゆる既存の被造物のイメージとも異なるがゆえに、無視できないのです。

そのデザインは地味ともいえるほどシンプルですが、今まで見たことがないものに出会ったような感触を受けるがゆえに、その建築は世界に溶け込むこともありません。

この家に住むことが快適かどうかは分かりませんが、その異質さはやはり見る者の注意を放しません。




巨匠フランク・ロイド・ライト

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「自分を信じる強さを持て バレリーナ吉田都」

2007年04月25日 | テレビ



きのうのNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、「自分を信じる強さを持て バレリーナ吉田都」でした。

「吉田都」という名前はどのくらい有名なのだろう?私は1年前のこの時期には知らなかったけれど。バレエファン以外の人でこの人のことを知っている人はどれくらいいたのだろう?

「イチロー」や「中田英寿」は誰でも知っている。でも、吉田都さんという人が到達しているレベルは、おそらくイチローレベルなのだと思います。つまり、世界のトップの中のトップということ。おそらく熊川哲也さんも。

私はバレエの技術的なことは分からないので、外面的な経歴からしか判断できませんが、世界の三大バレエ団と言われているイギリスのバレエ団で最高位に上り詰めているわけですから、やはりすごいのでしょう。

日本人がヨーロッパの伝統芸能の世界でそこまでたどり着くということはすごいことのはずなのに、なぜか世の中全体が盛り上がっているという感じはしない。イチローや中田英寿はあれだけ騒がれたのに。それとも、たんに僕が野球とサッカーについてはちょっと知っているからであって、世の中全体はイチローや中田に対してそれほどすごいとは思っていないのだろうか。


昨日の番組は、それなりに楽しみにしていたのですが、何かあまり意外性がなかった。これは製作者たちの掘り下げが浅かったのだと思う。

ストーリーは他の回と同じ展開です。挫折をきっかけに世界観が変わり、それまでとは取り組み方が異なるというもの。

それはそれでいいのですが、昨日はあまりにもその類型的な展開をなぞりすぎて、吉田さんからしか引き出せないような話がなかったと思う。

例えば、日本人がバレエをすることについて。素人の私には、おそらくこのテーマは日本のダンサーたちがもっとも葛藤する問題だと思う。

スポーツではなく芸術である以上、単に技術的なことではなく、その踊りが表現するものにダンサーがどれだけ感情移入できるかが重要になるはずです。

海外で暮らした人や日常的に欧米の人と接する人はわかっていることだけど、やはり欧米の人の対人関係における我の強さというのは日本の人の比ではない。それぐらい強く振舞っていないとやっていけない社会なのだとよく聞きます。

たしかに同じ人間である以上は根っこの部分で共通するともいえますが、性格の強さという点で欧米と日本の人たちの間には明らかな差があるのです。

そのような、明らかに日本社会とは異なる伝統を持つ社会の芸術に取り組むことは、自分のもつアイデンティティがその芸術表現に合うのかどうかという点で、大きな悩みに直面するものなのだと思います。

彼女自身も言っていたように、吉田さんは外見はごくごく平均的な日本人に見えます。そのような人が、欧米社会でも理想とされる体型の人たちが集まって演じている芸術に取り組むのです。単純に見栄えの点でも周りとの違いは明らかだし、それ以上に、役柄になりきって感情表現をする際には、その欧米人という役柄と日本人という自分のアイデンティティとの落差はすごいはずだと思えるのです。

例えば、日本の俳優が欧米の映画に出て、欧米人たちに囲まれて同じように欧米人の役を演じている姿を想像してみます。違和感なく役柄の欧米人を演じることのできる俳優など存在しないのではないかと思います。

でも吉田さんがしていることは、まさにそれです。その上で彼女は本場のダンサーたちに認められているわけです。

だから、そこに到達するまでにどのような試行錯誤があったのか、もっとじっくりと掘り下げて欲しかった。

単純に挫折を乗り越えるというストーリーではなく、文化の相違に直面して、日本人としての自分が欧米の伝統芸能を演じるということに、どのように納得して行ったのか、もっと吉田さんに語って欲しかったなと思います。

楽しみにしていた回だけに、少し残念でした。

『ピューリタン 近代化の精神構造』 大木英夫(著)

2007年04月24日 | Book



神学者の大木英夫さんが1968年に発表した『ピューリタン 近代化の精神構造』(中公新書)を読みました。

主に、イギリスにおける1600年代のピューリタン革命時の、ピューリタン、イギリス国教会、議会、国王などの間で行われた議論・闘争の経緯をスケッチし、そこからピューリタニズムの思想の特徴を描き出そうとしている本です。

この本で行われているピューリタニズム思想の特徴自体はよく知られているものですが、それは大木さんのような方々の努力で人口に膾炙し、私にも馴染み深いものになったのだと思います。

この本の中で私にとって印象的だったのは、ピューリタニズム思想と「人権」思想との強い結びつきについて。

著者は「人権」と所謂「市民権」との違いを強調します。つまり、「市民権」が主に財産の保護・職業選択の自由などを重視するのに対し、「人権」はより人間の自由の根幹に関わるものと受け取られます。言い換えれば、「人権」(「自然権」)の創出により、人間の「自由」というものが存在すると深く意識されるようになったともいえます。

大木さんは、英国の清教徒革命時にクロムウェルらが感得し・実践した「人間の自由」とピューリタニズム思想・真理観との結びつきを指摘します。

従来のキリスト教観では、神の真理はローマ教皇に与えられ、教皇から一般の人に与えられるものでした・それに対しピューリタ二ズムでは、神は個々人一人ひとりに真理を語りかけると考えられます。

ここから、もはや特別な人間だけではなく、すべての人間が神の真理を伝えうるという考えが出てきます。クロムウェルが率いた軍隊の一般兵士には次のような確信が見られたそうです。

「もしひとりの人間から多くの人間に伝えられた伝言を聞かないことが危険であるなら、われわれの多くによって語られた神からの言葉を拒絶することは、もっと危険である」(p.144)。

現実には様々な意見の相違がありながら、それでもすべての人は神の声を聴いていると信じるとき、ピューリタンは現実に存在する議論の相違を積極的な視点で見るよう強いられます。つまり、議論を「建設的」なものととらえるようになります。

現実に存在する意見の相違を肯定的に見るためには、自分の意見も他者の意見も、相互に相違するにもかかわらず、神の意思を反映すると見なす必要があります。ここから、自分や他者の意見は完全な真理に到達していないという相対主義の視点と、しかし神の真理は存在すると言う絶対主義の視点が共存が求められることになります。

我々は誰も真理を知りえない。しかし真理は存在する。この矛盾を生きるためには、一人では真理を知りえないがゆえに、つねに他者が知っている神の真理を参照する必要が生じます。ここから、神の意思を体現するものとしての他者の尊重と、他者が知る神の意思を聴く機会としての議論の重視という態度が生まれます。議論は、自分の意見を言うための場(だけ)ではなく、他者が知っている神の意思を聴く場となります。

大木さんは、以上のようなピューリタニズムの思想を述べたクロムウェルの言葉を引用しています。

「まことにわたしは多くの人々がわたしたちに語るのを聞いた。そして私はそれらの中で私たちに語られたのだと考えざるを得ない。ここに語られたことの中には神が私たちに示そうとされた事柄があると考えざるをえない。それにもかかわらず語られた言葉の中にはいくつか矛盾があった。しかしたしかに神は矛盾の作者ではない。わたしたちは同じ目的について語ったのであり、失敗はその方法においてであるにすぎないと思わざるをえない。目的はこの国を抑圧と隷属から解放することであり、神が私たちをそのために用いられたそのみわざを完成することであり、そこにわたしたちの正義と義の目的の希望を確立することである」(p.143)。

大木さんはこの思想に、ピューリタニズムが「寛容の精神」と結びつく契機を見出します。すなわちそれは、「一方において自分がとらえた真理の断片を大切にし、他方それを真理の全体のように絶対化しないで、他者がとらえた真理の断片をも真理の全体性の把握のために不可欠だと尊重していく態度から出てくる寛容」であるということです。また「近代デモクラシーの源流」は、ここに存すると指摘します。


ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で行った説明では、ピューリタニズムの思想では、神に選ばれた人間はその徴(しるし)を体現するはずであり、その徴は商業活動の実績によって証明されると考えられました。ここから、自分は神に選ばれているはずだということを証明するために、商人たちは商業活動に邁進していったと推測されます。到達不可能な「神に選ばれているはずだ」という徴を証明するための活動ですから、それは永遠に終りのない神経症的な反復へとつながっていきます。ウェーバーは、そこに近代の経済活動の一種の病的な反復性・嗜癖を見出したと言えます。

では、上記のクロムウェルらの思想にはそのような病的性格が見られるでしょうか?


ピューリタンの思想では、個々人は不完全でありながら、同時に真理を部分的に体現すると考えられます。またそれゆえ、その真理を完全なものとするために、他者が知る神の真理を参照する必要が強調されます。

しかし個人が真理を知りえないという前提がある以上、そこにもまた、神経症的な無限の真理追究活動があり、それには他者がもつ「欠陥」を無限に追及する精神が生まれます。「寛容の精神」は、他者が真理を知ることを認める態度から生まれますが、それはつねに、他者も完全な真理には到達していないと言う認識につながります。

ここから、自分への懐疑と同時に、他者への懐疑が生まれ続ける土壌が出来上がります。

それがいいことなのか悪いことなのか、私には分かりません。いや、もちろん悪いことじゃないでしょう。何かを信じきるよりは、つねに懐疑の態度を持つことのほうが健全に私には思えます。

大切なのは、そのような懐疑と人間への不信とが結びつかないような雰囲気が社会の中に生まれるかどうかですね。論理的な意見の異同と、意見が異なる他者への心理的な不信とが結びつきやすいこと、それが問題なのだと思います。私の印象では、その結びつきをもたないような成熟した人はほとんど存在しないのではと思います。それは、ピューリタニズム思想の伝統がある欧米でも日本でも、そしておそらく他の地域でも、事情は同じじゃないでしょうか。

民主主義に必要なのは、ピューリタニズム思想云々よりも、もっと深い部分での他者への信頼の感覚、意見が異なる者への心理的な信頼の感覚のように思います。それとも、ピューリタニズムにそのような信頼の感覚があったと言えるでしょうか?

絵を描く

2007年04月22日 | 日記



ふと思い立って、今日、絵を描いてみました。

私は元々絵を描くのは好きでした。子供の頃。

ただ、じゃあ図画や美術の成績がよかったかと言うとそういうことはなく、大体通信簿で3だったと思う。

でも、それでも絵を描くのは好きでした。自主的にどんどん絵を描いたということはなく、学校の授業で描く機会があったときに描いていたぐらいだけれど。

中学校で部活を選ぶときも、美術部と野球部とどっちにしようか?と少し迷いました。

高校でもデザイン部に入りたいと思ったし(なぜ入らなかったのだろう?)、美大に行けたらなぁと頭でぼんやり考えたりしていました。全然絵なんか描いていないのに。

芸術への憧れがあったんでしょうね。

でも、子供のときに絵を描いていても、周りから「上手くない」と言われ、自分には絵の才能がないし、才能がないならやっても仕方ないなと思ったのだと思います。

でも、まぁ今だから次のように思えるのかもしれないけど、文章にしても、絵にしても、写真にしても、上手くする必要なんてないんですよ。大切なのはただすることなんだから。

「ただすること」。このことの大切さを教えてくれたのが、ジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』『あなたも作家になろう―書くことは、心の声に耳を澄ませることだから』です。

これは文章を書くことを薦めている本です。薦めているといっても、文章の“コツ”や書き方を指南しているわけじゃない。内容なんてなんでもいい。句読点や正しいスペルもどうでもいい。継続的にただ書き続けること、ただそれだけで自分の中の何かに触れることができることを、著者は丁寧に教えてくれます。

「ただすること」。これは文章だけじゃない。おそらく写真もそうです。上手に写真を撮る必要なんてない。ただ撮り続けること。それが重要です。たまには飽きたり、自分の下手さに嫌になることもあります。それでも継続的にすること。それが重要なんです。

私たちの中にある泉は、“Flash of Genius”「天才の閃き」によって掘り当てることはできません。そういうのは天才だけにできることなので、天才に任せておきましょう。凡人は、ただし続けることが大事です。内容がいいか悪いかも重要ではありません。

やり続けることによって少しずつ変化が起きます。良くなったり悪くなったり。

まぁ、ホントに嫌ならやり続ける必要はないでしょうが。ただ、何かをしていると必ず飽きが来ますが、それでも少しずつ続けることで、何か変化がさざ波のように起きるかもしれません。

とまぁ、こういう精神が、文章を描くにしても、写真を撮るにしても、大切なんじゃないかと思います。

なので、少しずつ絵も描いてみたいと思います。

さっそく、色鉛筆と画用紙を買ってきました。色鉛筆は、ダイエーの24色鉛筆が800円ほどで、クーピーペンシルだとその倍くらい。最初はダイエーの24色鉛筆を買おうとしましたが、100円ショップでも12色があったのでそっちにしました。12色で描いていて、どうしても24色が欲しいと思ったら、そのときに買い換えたいと思います。すぐに飽きたらもったいないし。少し飽きても、し続けることが大事なんだけど。

絵本 『悲しい本』 マイケル・ローゼン (著) クェンティン・ブレイク (絵)

2007年04月22日 | 絵本・写真集・画集



「よくも、そんなふうに死ねたもんだね?私をここまで悲しませて」


イギリスの絵本作家マイケル・ローゼンとクェンティン・ブレイクが書いた『悲しい本 SAD BOOK』(あかね書房)を読みました。


これは悲しいお話を描いた絵本ではなく、悲しみを描いた絵本。

悲しい悲しい悲しい悲しい。

悲しさからすぅっーと浮き上がる本。

ずどーんと暗いところと、その暗闇からふぅっと浮かび出る少しの白く淡い光を描いた本。

誰の悲しみにも共通する部分。

そう、これは誰の悲しみにもあることを描いた本。

悲しみの向こうにあるものを描いた本。

だから、読んでいて自分の中の透明な部分を思い出させてくれる本。


悲しい本

あかね書房

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『英語で折り紙』

2007年04月21日 | Book



『英語で折り紙』という本で、折り紙に挑戦してみました。

私は元々は手がとても不器用です。おかげで工作や技術・家庭科などは、本当にできなかった。当然折り紙もほとんど折ったことがありません。

それが今になって折り紙をしようと思ったのは、折り紙のように頭と手を同時に動かすことをすることで、ふだん使っていない神経を鍛えることになると思ったから。鍛えるというのは大袈裟だけど。

この本に書かれてある3分の2近くの折り紙作品に挑戦してみましたが、ほとんど満足に完成させることはできませんでした。

まず私の場合は、紙と紙を折って正確に重ね合わせるということができない。かならず不一致になってはみ出してしまうのです。おかげで紙を折っていくうちに最初の不一致がボディーブローのように効いてきて不恰好になります。

あと、本の説明を読んでもわからない所が多い。

この分からない経験で思ったのですが、数学や算数のできる人は折り紙もうまいんじゃないでしょうか。逆に言えば、折り紙をしていて上手くいかないとき、私が思い出したのは自分が算数・数学が全然できなかったことです。

一つ一つ計算を正確にして、解答を導き出すために柔軟に発想するというのは、算数・数学と折り紙に共通していると思うのです。

私の場合は、計算をきちんとする(紙を正確に折る)ということはまどろっこしくて上手くいかないし、証明問題で答えをポーンと思いつくような柔らかさもありません。

折り紙の解説を読んでいると、どうしても分かりにくい箇所に突き当たります。それはおそらく、図や文字だけで説明するのがとても難しいのだと思います。

そういうときに柔らかい頭を持っている人は、図を見ただけでどうすればいいかパッと思いつくんじゃないでしょうか。

まぁ、その点では、今になって折り紙をするというのは、自分のふだん使っていない神経を刺激するという意味でいいかもしれない。

ちょこちょこやってみたいと思います。

絵本 『しあわせの王子』 ワイルド(原作) いもとようこ(文・絵)

2007年04月20日 | 日記



オスカー・ワイルドの原作で、絵本作家のいもとようこさんが絵を描き文を書いた『しあわせの王子』を読みました。

以下ネタばれあり。


絵について。

まず、とにかく絵が素晴らしい。この絵を見ていると、本当にこの絵が描く世界に自分がいるような気がしてきます。本当に、自分が金色の像の王子と同じ場所の、高い高いところにいるような気がしてきます。

話の内容について。

この王子は、しあわせな人だったのだと思います。彼が辿った軌跡は悲劇であり、最後は無残な状態になるけれど。

王子が素晴らしい人だったのかどうかは分かりません。彼は一見善意の人に見えます。しかしその善意のおかげで、つばめは大きな悲劇に見舞われます。王子は、何の罪のないつばめの生を奪ったのです。

それでも、このお話をみていくと、王子はしあわせだったのだと思います。彼は、自分の本性に従って、その本性の赴くままのことをできたのですから。それは、単なる自己犠牲ではなく、彼にとっては、他人のためを考えることが、彼の本性の実現だったのですから。

そのときでも彼は、おそらくずっと泣いていたのだと思うし、心を痛めていたのだと思います。彼は、ふつう「しあわせ」な人たちが感じる幸福感を一度も感じずに、ただ他人の痛みを感じ続けていました。苦痛だけが彼の人生を支配していました。おそらく、一人助けても二人助けても、彼の苦痛が消え去ることはなかったでしょう。その苦痛の中で、彼は自分にできることをしたのですが、そのときでも彼が苦痛を感じ続けていたとしても、それでも彼はしあわせだったと言えるでしょう。

ただそのしあわせは、他者の痛みを感じる本性を与えられたものだけに許されるようなものだったのだと思います。

しあわせの王子は、ただ自分のためだけに生きたとも言えます。彼は、自分のしたことをするために、つばめのことを考えなかったのですから。

それでも、つばめは王子を恨まなかった。王子が自分の生を生きているがゆえに、つばめは王子を恨むことなどできなかったのだと思います。



しあわせの王子

金の星社

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『エデンより彼方に』

2007年04月19日 | 映画・ドラマ



2002年のアメリカ映画『エデンより彼方に』は、1950年代の「古きよき」黄金の時代のアメリカを舞台にした映画です。主演は、歳をとるほどキレイになっていく不思議女優、ジュリアン・ムーア。

以下ネタばれあり。

アメリカ郊外の高級住宅地に住む主婦が主人公。彼女の夫は大企業の重役。子供が二人。主人公の女性は、「理想の主婦」として雑誌に取り上げられるような、美しく、洗練された趣味をもつ女性です。

この典型的な「幸福」を絵に描いたような家庭が、夫の秘密を妻が知ることで壊れていく過程を映画は追っています。

この映画ではジュリアン・ムーア演じる主人公の白人女性が黒人男性と恋に落ちます。しかし映画の主題は恋愛それ自体ではなく、「古き良き」アメリカ社会(白人社会)が、その上品で輝いていた外面の下にもっている偏見と差別を浮き彫りにすることです。

その残酷さが最も表れるのが、主人公が「友人」の主婦仲間に、夫の秘密と、黒人男性への想いを打ち明ける場面。その友人は彼女を抱きかかえながらも、「越えてはいけない一線」を、これ以上ないと言うほど残酷な形で彼女に教えます。

また映画の中のある場面ではこういうセリフが吐かれます。「この土地に黒人差別はないさ。だって黒人はいないからね」


この映画は差別・偏見の残酷さを教えてくれますが、同時にそれがなぜ克服が難しいのかも教えてくれます。

差別・偏見は、それをもつ人にとっては、差別・偏見が存在することはまったくディメリットがないし、少なくとも自分たちにとって関わりのあることとは思っていません。

例えば「白人」社会の成員にとっては、「黒人」が差別を受けることは、自分たちの社会を(一応は)脅かしません。最初に「黒人」を連れてきた世代にとっては「黒人」を隷属的な地位に置くことは必要だったことですが、後の世代の「白人」はもはや「黒人」を無理に隷属的な地位に置こうとはしません。それは、後の世代の「白人」にとっては、社会の格差の構造がはっきりと固まっているので、今さら意識的に「黒人」を隷属させる必要がないからです。

「この土地に黒人差別はないさ。だって黒人はいないからね」というのは、もはや「黒人」を恐れる必要のない立場の人たちのセリフです。もはや、“差別する”ということを意識的に遂行しなくても、構造的に「黒人」が下に追いやられるシステムが出来上がっているので、「黒人」を排除する努力が要らないのです。

ここに差別の一つの特徴があります。確立した差別は、もはや差別している人が、自分は差別をしているということすら気づかないのです。

これは同時に、なぜ差別を克服するのが難しいのかを示しています。「黒人」「ユダヤ人」「女性」「障害者」etc… これらの人たちが自分たちのグループに入ることをマジョリティは拒否します。しかし、その拒否が差別であるとはマジョリティの人は思いつきません。むしろ、それは慣習であり伝統であり、あるいは理にかなったことと思い込んでいるので、彼らは、それがどれほど相手の心を傷つけ、また一部の人たちから人生の希望を奪うことに加担しているのかということに想像力が及ばないのです。

差別をする人たちは、それが偏った見方だとは思っていません。そもそも、自分の意見が偏っていることに気づく人は、実は偏った見方をしない人たちです。むしろ差別をする人たちは、自分の意見の正しさを疑うことを拒否します。

差別を受ける側は、差別・偏見によって築かれる障壁が克服困難であることを知り、絶望します。しかし差別する側は、それが悪いことであり、どれほど他人を絶望に追いやるかに気づきません。差別する側が自分たちがしていることが差別であることに気づかないことこそ、先に述べたように、差別の一つの特徴です。

このことは同時に、誰もが自分は他人の差別に加担する可能性があることを示しています。差別とは、差別する側が気づかずにいることができるほど一部のグループの人たちを排除することに機能している構造のことです。それゆえに、自分だけは他者を差別することはないとは、誰にも言えません。

差別とは、他人に対してあるレッテルを貼ることで、その相手がどういう人間であるかを吟味することなしに、一定の判断を下すことです。

人種差別を受けているグループの男性は、同時に女性だけが家事をすることを当然と見なすかもしれません。フェミニストの女性は、相手が男性であるというだけで罪深いと見なすかもしれません。

差別について考えることの難しさは、自分を容易に正義の側に立たせてしまい、自分が加担している差別の構造には気づきにくいことです。

もちろんこのことは、差別について考えることが無駄であることを意味しないでしょう。ただ差別について論じる際には、誰かを裁き攻撃することを目的にしないことと、それでも今日も一定のグループがいわれのない不条理な待遇を受けていることを世の中に知らせる必要のあること、これらのことに留意すべきなのだと思います。この二つの両立は、簡単なようで、難しいのだと思います。

バレエ 『ラ・シルフィード』 パリ・オペラ座

2007年04月18日 | バレエ



先日NHKで放映されていた、パリ・オペラ座によるバレエ『ラ・シルフィード』を観ました。私は『ラ・シルフィード』を観るのがそもそも初めて。

『ラ・シルフィード』と言えば漫画家・山岸涼子さんの『アラベスク』で、主人公がコンクールで踊った題材です。ラストのこのシーンは、同じ作者の『日出処の天子』文庫版・第4巻の厩戸の王子のシーンに匹敵する、神がかり的な描写です。

その『ラ・シルフィード』ですが、たしか20世紀初めから主流となった「古典バレエ」「ロマンティック・バレエ」の源流と言われていたはず。『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』などですね。と言っても私はその特徴を言えるほどには詳しくないのですが。

おはなしは、村の若者ジェームスは同じ村の娘エフィーと結婚を控えています。しかしその彼のもとに妖精シルフィードが現れ、彼を誘惑します。ジェームスはシルフィードに惹かれ、エフィーを放って妖精のいる森の中へと入っていきます。・・・

この『ラ・シルフィード』を観ていると、踊りがとても繊細な振り付けだということ。『白鳥の湖』のように、これでもかというほど見せ場が連続するのではなく、むしろ踊り手の表情や手・身体の動きによる繊細な感情表現がキーとなっています。

群舞も、群舞独特のダイナミックな振り付けではなく、あくまでストーリーに沿った静かな踊りです。

この舞台では、主役の一人ジェームス役のマチュー・ガニオが輝いています。彼は当時19歳で、ちょうどこの頃にオペラ座の最高位エトワールに任命されたそうですが、立ち居振る舞いからしてサラブレッドのような気品が漂っているのです。一目彼の動きを見た途端に、この人は本物だ、そう呟いてしまいます。

私は他のバレエの種類も、またマチュー・ガニオという人の他の舞台も見たことないけど、それでもこの『ラ・シルフィード』はこのダンサーにとってはまり役なんだなと思わされます。

そのマチュー・ガニオを含め、もう一人の主役シルフィード役のオーレリ・デュポンと、準主役でエフィー役のメラニー・ユレルが三人で踊る踊りは圧巻!静かな踊りですが、息を呑んでしまいます。

オーレリ・デュポン演じる妖精シルフィードは妖精だけあって空を飛べるという設定なのですが、マチュー・ガニオが手で支えてジャンプするシーンなどは、本当に身体に重さがなく宙に浮いているよう。この軽さを演じることができるのが、主役である人の力量のすごさなのでしょう。

個人的には、とにかくマチュー・ガニオが光り輝いている舞台だと思えます。この人の踊りを観ていて、私は例えばロジャー・フェデラーのテニスを連想してしまいます。

私はテニスについては詳しく知りません。それでもフェデラーのプレーする姿を見ていると、フェデラーがテニスをしているのではなく、テニスがフェデラーの身体を借りてプレーをしているのではないかと思えてきます。玄人の人がどういう感想を持つのか知りませんが、フェデラーのプレーは、いい意味で個性がなく、まさにテニスそのものだ、と感じるのです。

マチュー・ガニオの踊りにも同じものを感じます。素人から観れば、マチュー・ガニオの踊りはいい意味で個性や癖がなく、その踊りがすべての人にとって理想のように思えるのです。

この若いダンサーの踊りを観ることができたのは、とても幸せなことだった、そう思ってしまいます。


「ラ・シルフィード」(全2幕)

TDKコア

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