joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

2007年05月27日 | ちょっと言ってみました
私は中学生の頃、多くの子供が複数の教科を教える塾に通っている中で、英語専門の塾に通っていました。

それは、社会人の人が一人で教えている塾でした。

この塾の雰囲気は少し変わっていました。

まず、先生がとても洗練された趣味をもち、インテリアや文具などで私が見たことがないような「舶来」という雰囲気の物で部屋が溢れていました。その先生はとても熱心なキリスト教信者でした。

今から見て、その先生がどれほどの英語力の持ち主だったのかは分かりません。しかし、おそらく塾で教える学生アルバイトとは全く違っていたのだと思います。

私は、その洗練された趣味の部屋と、なんだかすごい英語力の持ち主と共にいるという想いで、そこにいるときはいつも緊張していました。

今から考えれば、その先生は子供に英語を教えるのは丁寧ではありませんでした。正確には、できの悪い子にとっては必ずしもいい先生ではなかったと思います。文法の教え方も難しい言葉をたくさん使っていて、私にはチンプンカンプンでした。

また、教科書の数ページを暗記するよう言われ、授業の始まり前には指定された箇所を暗唱しなければなりませんでした。

今から思えば、それは英語を学び始めた中学一年生にとってはいい教え方なのかもしれません。ただし、英語を学ぶ気のある、あるいはよくできる子にとっては。

私のように怠惰な学生にとっては苦痛以外の何者でもなく、結局授業をサボったり、暗唱できず授業中立たされたりしていました。

その塾には成績のいい子が通っていたので、あまり手取り足取り教えなくても、他の子はみんな勝手にどんどん勉強していい点を取っていたようです。そんななかで、何も分からない私は、とても恥ずかしい思いをよくしていました。


私の英語の成績は中学3年の途中まで、平均クラスでした。

ただ、高校受験前から英語は熱心に勉強し始め、卒業前には当時の私には信じられないようないい点を取るようになっていました。

結局、その塾は中学卒業と同時にやめました。県内でも有数の進学校の生徒が集まるその塾には、私には居場所がないように感じたのです。

ただ、高校になっても、他の悲惨な科目の点数に比べて、英語だけは(私にとっては)マシな点をとっていました。また、私も英語の勉強は好きでした。

今になって思えば、英語だけは勉強する気になれていたのは、中学のときにその英語塾に通っていたことが大きかったように思います。

どういうことかと言うと、何かその道の専門家と一緒にいるという雰囲気の中にいることで、英語なら英語という分野に関して「まじめにやらなきゃ」と思うようになっていたのだと思います。

上にも書いたように、その先生が実際はどれほどの英語力なのかは分かりません。しかし当時の私には「すごい人」のように思えたのです。

そういったその道の専門家とつねに一緒にいることは、子供に対して、それもまだ斜に構えることを覚えていない子供に対して、その分野に真剣に取り組むよう促す効果があるのではないかと、最近になって思うのです。

以前にも紹介しましたが、かつて吉本隆明さんは、学校教育を再生させるための一つの手段として、ある分野の大家を学校に派遣して講義させることを提案していました。

学問の大家と子供たちが触れ合うことのいい点は、「受験」「点数」「偏差値」という枠組み以外で学問を見る視点を学生が知ることができる点にあります。単なる点数のためでない学問的好奇心が、そこに生まれることもあるのだと思います。

結局、大学に上がってからはまた英語は勉強しなくなりましたが、今になって少しずつでも勉強を再開しています。


子供を塾にやるときは、その教科に対して、単純に受験云々の枠組みだけで語るのではない先生を選ぶことも、一つの道なのだと思います。

あと、子供を塾に通わせることが、子供のためなのか、親の精神安定剤代わりなのかも、考えたほうがいいのだと思います。

勉強と学校

2007年05月03日 | ちょっと言ってみました
先日、勝間和代さんが書かれた『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』の感想をエントリーしましたが、個々のページ毎の閲覧数としては(このブログの他のエントリーに比べて)かなり多い人に読んでもらいました。この書籍は今アマゾンでもずっと売り上げランキングで一桁台なので、とても大きな人が関心をもっているのでしょう。

勉強ブームが言われて久しいですが、それは衰える気配はありません。社会人向け大学院に通う人や、速読を学ぶ人や、専門学校などに通う人はとても多い。

多くの子供にとって勉強が苦痛なのにもかかわらず、なぜ大人がかくもこんなに勉強熱心なのか?

一つには、大人になって、ある程度の年数を生きていると、世の中の仕組み・動きを以前より知っているので、“勉強”という抽象度の高い活動でも、その抽象的概念を具体的な社会の動きと関連させることが容易になっているのだと思います。

英語にしても簿記にしても、働く上での活用のイメージを持ちやすいでしょう。また働くなどの実践的な場面から離れても、英語学習であれば、言葉(例え母国語でも)が実際に使われる仕方について大人のほうが経験が豊かな分だけ、イメージを持ちやすいでしょう。また簿記にしても法律にしても、大人になってから勉強すれば、それを具体的に自分がどう用いるかイメージしやすいし、また世の中の仕組みも大人のほうが身をもって実感しているので、専門的用語が現実では何を指すのかも容易に類推できるのだと思います。

また大学という、理論的な事柄を学ぶ場に大人が行きたがるのも、そのような抽象度の高い考えでも現実と関わりがあることを以前よりも容易にイメージでき、同時に理論的な考察が現実への理解をより深めることを実感しやすくなっているのでしょう。これは経済・法律系の学問に限らないと思います。

それに対して子供が勉強嫌いなのは、社会の仕組みや人間関係、あるいは自分自身への省察などをそれほどしたことがないため、抽象度の高い概念について具体的なイメージをもつことができないためです。要するに「なんのためにやるのかわからない」のですね。

「ゆとり教育の弊害」ということが言われますが、以前と同じように、子供に抽象的概念と現実との関わりをイメージさせる努力をせずに、ただ「学力」を上げさせるようにしても、多くの子供は受験勉強で疲れ果て、大学で自分から学ぶという気力を失うのではないでしょうか。結局同じことを繰返すだけになります。

例え学力があったとしても、昔から日本の大学では学生は勉強しないのが当たり前でした。卒業時には受験で覚えたことのほとんどを忘れていたのですから。「ゆとり教育」が本当に悪かったのか、まだまだ答えはわからないと思う。

どうすれば子供たちに、教科書の内容に具体的なイメージをもたせることができるのか?

例えば大前研一さんは、子供たちにより社会の現実を教えるために次のように提案されています。

「職業教師に任せるのではなく、社会全体が「面」として教育に参加し、各論としての教育を展開するべきだろう。

例えば、5人の子育てを経験した母親が、子育てについて話をしたり、消防士の人がたばこによる火事の実情を話すのだ。

このような社会の中の実体験に基づいた教育であれば、教育効果は期待できるだろう」(職業教師ではなく、社会全体で教育の担い手になるべき


他の例では、吉本隆明さんは、学問のその道の「大家」に学校で話をしてもらうべきと言っていました。

「学者」と言うと現実音痴の代表のように思われていますが、ある分野で最も優れている人ほどになると、その分野と現実との接点をよく知っており、また知っているからこそその道の「大家」になれたのだ、という趣旨で吉本さんはそう言われたのだと思います。


ただ、自分のことを振り返ると、こうした方法でどれほど子供たちが「社会」「現実」「学問」に目覚めるのか、よくわかりません。

一部の優秀な子供は目覚めるでしょう。「頭のいい」子というのは、教科書の抽象的概念をより具体的に豊かにイメージできるから勉強が楽しいのであり、そういう子は現実の社会で生きている人たちの話にも敏感に反応できるからです。

でも、大部分の子にとっては、他の多くの学校の行事と同じような意味しかもたないような気がする。

じゃあどうすればいいんだ?という最初の問いにもどるのですが、とりあえず思いつくのは、“学校”という場を、強制収容所のような秩序が支配する場からなるべく遠ざけることかな。そのためには、できるだけ教師の数を増やして、一人の教師の負担を減らすことが必要のように思う。

今、日本の学校では一クラス平均何人なのかネットで調べようとしても、なかなか分からない。そんな単純なことがなぜすぐに検索できないのか。どんな検索ワードなら分かるのか?

ともかく、教師一人当たり10人ぐらいにまでなれば、教師の人たちのストレスも相当に減るのじゃないだろうか。野獣のような思春期の子供たちを相手にするには、それぐらいの人数が限度だと思う。

たしかに人件費の問題があります。でも、最近の医療崩壊問題で医師の人が言うには、医師が本当に欲しているのはお金でも休みでもなく、自分の仕事への誇りだ、ということです( つきつめれば、誇りがもてなくなってきたのだと思う。 『女医の愚痴』)。すべてとは言わなくても、過酷な労働を強いられている勤務医の多くはそう思うでしょう。

教師の人たちの多くも、出世云々よりも、もっと余裕をもって生徒と接することが本当に望んでいることじゃないだろうか。



参考:「ゆとり教育で学力が向上した ~逆風を追い風に変えた京都の教育改革」 NBOnline

将来のカメラ

2007年02月25日 | ちょっと言ってみました

今日、外を歩いていて思ったのは、カメラ機能付きメガネがあれば便利だ、ということでした。

普段はどこに行くにもコンパクトデジカメを持ち歩きますが、今日は寒くて曇りできれいな写真は撮れそうにないし、図書館に返す本を入れたキャスター付きバッグを引くのに神経がいるので、カメラは持っていませんでした。

ただ歩いていると、これを写真に撮ったら面白そう、と思った被写体があったのも事実。

そこで思ったのが、メガネにカメラの機能が付いて、メガネのレンズを通して写真を撮ることができるカメラがあれば便利だなぁということ。シャッターも手で押す必要はなく、頭からイメージを送ればカシャッとできるのだ。

これだとカメラを持ち歩かなくても、気になる被写体があればいつでもカシャっとできます。両手がふさがっていても、いつでも手軽に写真が取れます。

まぁ、僕が携帯電話をもっていないだけで、多くの人には携帯のカメラで十分なのかもしれないけど。

通話料タダ

2007年02月14日 | ちょっと言ってみました

ソフトバンク携帯同士だと9時から21時まで通話料タダだそうですけど、いっそのこと、auとDocomoとSoftbankが統合して、基本料二千円ぐらいにして通話料24時間タダにしてくれたらユーザーには一番ありがたいのじゃないだろうか?とふと思いました。

あっ、でもそれだと一社独占になるから、基本料がいくらでも上げられてしまうのか。


最高速度

2007年02月12日 | ちょっと言ってみました

エントリー「バス」のコメント欄にも書いたばっかりなのですが、私がいつも思っているのは、なぜクルマは速度を100キロ以上でないように作らないのか???という疑問です。

最高速度によれば、日本の法定最高速度は100キロ。本気でこの法律を守るつもりがあるのなら、自動車会社にそれ以上の速度が出ない車の製造を政治も行政も義務づけるはず。

100キロでは遅くて車の魅力が出ないという人もいるでしょう。しかし人間の快楽というものも相対的なもので、100キロしか出なければ、次第にその速度が速く感じられるんじゃないでしょうか。

スピードが100キロに制限されれば、運輸業界もすべての会社が速さを競うことはできなくなります。すると、運転手個人にプレッシャーをかけて速く貨物を届けるようにすることは会社もできなくなって、ドライバーの人たちの労働負担も減らないだろうか。

社会全体から見ればメリットの方が大きい気がするのだけど。

バス

2007年02月07日 | ちょっと言ってみました

             陽に照らされた、緑、黄緑、黄色の葉


先日本屋のジュンク堂に行くと、「不都合な真実」が売り上げトップ5に入っていました。ネットを観ていても多くのブログで取り上げられています。

実際に温暖化が進んでいるかどうかは、自然科学者ではない私には分かりません。ただ、資源の無駄を避ける生活をすること自体は、それだけ注意力を働かせて生活することだから、いいことのように思います。

「これ終わり、ポイ!」よりは、すでに存在しているモノを再利用するというのは、モノを大事にすることだから、それだけ配慮・注意力が必要なわけで、いいことなんじゃないでしょうか。

あと、コンセントを抜いたりするのも。

こういうことは、自分に無理がない程度に、そして他人が自分と同じように行動しなくても怒らない程度に、自分でできる範囲でやってみてはいいのじゃないでしょうか。

僕がいつも思うのは、バスを完全無料化すること。

そうすれば多くの人はマイカーを避けてバスを使う気がする。バスに乗ると、多くの年配の方が乗っていますが、おそらく無料乗車証を使用されているのだと思います。でもこの方たちも自宅にはマイカーをもっているはずです。

そう、タダならやっぱりバスを使うんですよ。

もちろん、マイカーを運転する愉しみはあるだろうけど、日常で生活する分には、タダならバスで十分という人も多いんじゃないでしょうか。

すると、クルマの交通量が減って人は町を歩きやすくなり、排気ガスの排出量も減って空気もきれいになります。

クルマの売り上げは落ちてしまうかもしれないけど、その分バスの生産が増えるかもしれません。