joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『マネジメント革命』 天外伺朗(著)

2007年06月29日 | Book
ソニーの元取締役の天外伺朗さんが書かれた『マネジメント革命 「燃える集団」を実現する「長老型」のススメ』を読みました。

内容は、90年代以降に日本企業に採用されてきた成果主義への批判と、なぜ以前のソニーでは画期的な新商品が開発されてきたのかという原因の考察です。この二つの事柄は、ソニーで画期的な新技術を開発せしめた企業内の要素を、成果主義は破壊してしまうという論旨で結びつきます。

内容自体はオーディオブック『「フロー経営」の極意』と重なりますが、そこで天下さんが語ろうとしたことを、この本でより整理して叙述した印象があります。

一つ「なるほど」と思わされたのが、なぜ成果主義が組織をダメにするのか?という問いに関する天下さんの指摘。

マネジメントという行為では、普通の管理者は「指示」を出します。「指示」を出すのは、その通りに部下が動けば物事にうまく対処できると思っているからです。

しかし、マネジメントにおいて、管理者が物事を完璧に把握しているという事態の方が本当は稀なのでしょう。一人の管理者の判断が複数の部下よりも正しく状況を把握していると考えるほうが、よく考えれば、ありえない話です。

つまり、よいマネジメントを構築する上では、

上司は必ず間違う

上司の指示には絶対に誤りがある

ことを原則とすることが肝要です。

これは、その上司が優秀かどうかという問題とは別の話です。

組織というものが、同じレベルの人たちで構成されていると考えれば、優秀な上司の周りほど優秀な部下が集まっています。つまり、

一人の上司よりも複数の部下たちのほうが正しい

ということがわかります。

経営とは、部下たちの方が物事を知っていることを前提にしたうえで、それでも組織に一定の方向性を出すために仕方なく「指示」を出すものだ、ということになります。

部下というものは、本来、その「指示」を受け取った上で、その「指示」を現場で修正・変更してより最適な解を求めて動くことが求められます、

天下さんはこのことを、「やり過ごし」という言葉で表現し(これは経営学者の高橋伸夫さんが広めた言葉だそうです)、組織にとってはそれが不可欠であることを指摘します。

「やり過ごし」とは、

「上司の指示・命令をみずからの判断で優先順位をつけて遂行し、必要に応じて指示されないことまで自主的におこなって、つねに時機に応じた解決策を提示すること」

と定義できる行動です。天下さんは、よい経営のためには、部下が率先して上司の命令を無視・修正して現場に対応できる環境にあるかどうかが重要であると述べます。

「タテマエ論とは裏腹に、どこの企業でも、健全な運営がされているところは、現場がデシジョンの主体なのだ。それは、現場に最も情報やノウハウが集積しており、現場における判断がもっとも的確で素早いからだ」(p.126)

ここから、上司に本当に求められる資質とは、部下が自由に上司の指示を無視・修正して行動できる環境作りができることであり、また部下が自分の指示をどのように無視・修正してよい成果を上げたのかを見極めることである、という洞察が得られます。

それに対して、部下がどれだけ自分の指示を守っているかどうかだけに気を配っている上司は、部下が現場の情報にあわせて行動することを妨げている点で、好ましくない管理者であるということになります。

上司として求められる資質は、誰よりも賢くなることではない。むしろ、賢いのは部下であるという前提をもちながら、その部下が自分の判断で行動できる環境を作ることができることにある、と著者は言いたいのではないかと思います。

この本では、上記のような「やり過ごし」型マネジメントのさらに上の段階に、「長老型マネジメント」という形態が記述されています。ただ、この後者のレベルのマネジメントは、そもそも記述すること自体がかなり難しいと天下さん自身も自覚されているように思います。

従来のマネジメント=指導者型マネジメントが指示によって部下をロボットのように操作しようとするのだとすれば、やり過ごし型マネジメントは、指示を出しながらも、それが部下によって裏切られることを許容します。

天下さんによれば、90年代まで日本企業が躍進できたのは、このやり過ごし型マネジメントが行われてきたからです。それは、上司自身が、自分が「ダメ上司」であることをうすうす感じながらも、表面上は指示を出して、後は部下に自由に行動させるという形態だったと言えます。

日本企業では上司は「ダメ上司」として部下から半分軽蔑されながら、上司はなんとか愛嬌でごまかしてきた、ということです。また、そんな上司の下だからこそ、部下は自分で勝手に行動できたのだと言えます。

この段階では、上司は、自分の「ダメさ」を半分知りつつ、なんとかそれをごまかしているような状況です。

それに対して長老型マネジメントとは、自分より部下の方が現場について知っていることをはっきり認めるあり方です。このタイプの上司は、「自分は部下よりわかっていない」という考えをはっきり認めながら、同時にそのことに対する劣等感をも克服・昇華しているあり方だと言えます。そのようなことは、口で言うのは簡単でも、実際に到達するのが難しいことは、誰にも分かることだと思います。

つまり、組織の外側の状況も、部下の行動も、すべては自分の外側の動きなのだから、それらを自分でコントロールすることはできないと悟った状態です。

また、そのようにコントロールを手放しているがゆえに、ある種の「流れ」「知恵」みたいなものを洞察できる状態に至っているとも言えます。

このようなスピリチュアルなことは、そもそも記述することには向いていません。そのような「長老」のあり方を言葉で細かく規定しようとすればするほど、それはすべてを手放すことで得られる洞察というものから離れていくからです。

天下さんは「長老型マネジメント」の定義として、「指示を出さない」「愚者のおおらかさ」「徳でおさめる」「自分より能力の高い人が大活躍」「部下を信頼し、包み込む」などと共に、「順調なら任せる。危機的状況ないしは変化が必要なときだけリーダーシップを発揮」ということを挙げています。

それに対し、「やり過ごし型マネジメント」は、「指示を出さない」「部下を信頼し包容・評価」などの特徴を「長老型」と共有しながら、基本的にはチームに自律的に行動させるというレベルで止まっています。

つまり、同じように部下に自由に行動させているように見えても、従来の「やり過ごし型マネジメント」の上司が、部下への劣等感から、危機的な状況では動けなくなるのに対し、そのようなコンプレックスを克服している上司は、個々の状況は部下に任せながら、コントロールを手放すことである種の次元の高い精神状態に達し、それによって状況をより一段高い視点で見ることが可能になっているということです。

しかしこのような洞察は、論理的な言葉で説明することは困難です。しかし、だからこそと言うべきか、そのような境地こそ、本当は、上司が目指すべき状態だと、著者は言いたいのだと思います。

英語の発想 日本語の発想 1

2007年06月29日 | 語学
「視点を変える」という日本語を英語にするとどうなるでしょうか?





change viewpoints

とするのは、竹岡広伸さんによると、「日本語の発想であり、最悪」ということです。

その最悪の発想に近い発想をしてしまいました、私は。

より適切な英語は、

look at ... from a dififfernt point of view (differents point of view)

だということです(『竹岡広信の英作文〈原則編〉が面白いほど書ける本』p.24)。

あるいは

look at ... in a different way

など。

『こころのバランスが上手にとれないあなたへ』 田中千穂子

2007年06月28日 | Book


臨床心理士の田中千穂子さんは著書『こころのバランスが上手にとれないあなたへ』の中で、箱庭療法を手がかりに
「自分とつながる」ということを次のように説明されています。

箱庭療法とは、箱の中の砂の上に自分の気に入ったパーツ(ミニチュアの玩具)を、「そのときの自分の気持ちにぴったりあうように置いていく」作業を指します。箱庭を置くという作業は、「自分のなかで漠然と捉えているイメージを、砂の上に表現する」ことを意味します。つまり、自分の中にあるものを外に出すという作業です。

そこで表現された箱庭が本当に「自分の中」にあったものなのかは誰にも分からないでしょうが、ともかく、そこには無から有へと生じた何かがあります。

この箱庭を置く作業では、クライアントは自分の中にある「イメージ」を箱庭の中に表現していきます。そのイメージは言語化されていない場合もあるでしょうが、ともかく作業する人は、自分で自分の「こころをみる」ことをして、「イメージ」を箱の中に表現していきます。その辺りのことは次のように説明されています。

「まだ自覚的にはつかめていない自分のこころの端っこに、パーツや砂の助けを借りることで、かろうじて手がとどいた、と言ってもよいでしょう」

また別の臨床家の方は箱庭療法を次のよう説明されているそうです。

「心理療法の場で、言葉という象徴ではまだうまくとらえられないでいる自分自身の全体性、もしくは自分が他者や世界と関わっている姿の全体性を箱・砂・パーツといった、言語以外の象徴表現でとらえようとする試みである」と。

そこでは、

イメージ(感覚)→箱庭

という展開があります。この、「自分の中にあるものを現実界に出す」よう手助けする作業は、箱庭療法に限らず、心理療法に共通する特徴なのだと思います。

厳密に言えば、イメージより感覚の方がより先に生じているのでしょう。英語学者の大西泰斗さんは、イメージを用いた英文法理解を説く著作のなかで次のように述べています。

「「感覚」とは、ある表現に対してネイティブが抱いている感触であり、手触りだ。表現がネイティブの中に惹起する、未分化な心理的実在である。一方「イメージ」は、感覚に対して与えられた人工的な特徴づけだ。…「感覚」と「イメージ」は、生のフィールとそれに付された名前と考えてよい」(『英文法をこわす』NHKブックス p.15)。)

田中さんも、「フィーリング」と「考える」という二つの世界をつないでいるのがイメージです」と述べています(p.169)。


自分の中にあるものが何なのかは、それを表現しない限りは私たちには分かりません。

それに対して、何かが表現されると、予想していたものと同時に予想もしなかったものも外に出てくることがあります。私がブログを書いていてよく出くわす快感は、キーボードを叩いているうちに、自分でも考えたこともなかったような論理・考えが出てくることです。

おそらく成功するカウンセリングの多くは、そのように患者自身も予想しなかった考えが患者の口から飛び出してきているのではないでしょうか。田中さんは、箱庭療法では、「クライエント自身もまた、自分が置いた箱庭の意味を「ああ、そういうことだったのか」と、あらためてつかんでいくことができるようになる」ことが起きると指摘します。また、それによって初めて、クライエントは「自分とつながる」ようになるということです。つまり、自分でも予想もしなかったような箱庭の解釈やカウンセリングでの語りを体験し、表面的な考えを超えた思想が自分の中にあることを発見すると言うことです。それを「無意識」と呼ぶかどうかは些細な問題です。著者は次のように述べます。

「このように、箱庭を置くという無意識的な動きと、その置いたものを自覚し、考えていこうとする、きわめて意識的な動きの双方が車の両輪となって、自分が自分にとどいていく、自分が自分につながっていく、という「自己への道」が活性化していくのです」(p.160)。


こうみていくと、自分とつながるうえで重要なのは言葉それ自体ではなく、言葉を選ぶ態度だということが分かります。

田中さんが引く例では、例えば映画を見た時に、単に「よかった」とか「面白い」と言っても、それはその映画について自分が味わった感触に上手く届きません。「よかった」や「面白かった」などという類型的な表現は、自分の感覚の上を滑っていくだけです。

それに対して例えば「ほんわかした気分になった」「ほんのりとした気分になった」というと、「面白かった」よりは、本音に近づいた感覚があります。

ただ、その際にも重要なのは、話し手が注意深く自省して自分の気持ちを言い当てようという意欲があったかどうかです。

心理学の体系の効用と危険もここにあります。つまり、心理学の常識をひっくり返すような論理は、表面的な考えに染まっていた私たちの奥にある感触に最初は届きます。私たちはそれに驚いて、心理学が絶対だと思い込みます。

しかし、そのように心理学が絶対だと思い込んでいると、自分の感覚を言い当てようという注意深さを失い、心理学の言葉を自動的に口にするだけになります。すると、心理学の体系はとたんに生気を失ったものになります。また、このことは、心理学だけに当て嵌まることでもないでしょう。

田中さんは、そのように自分の感覚を言い当てていく作業は、絶えず再解釈にさらされていくことを指摘します。つまり、私たちの感覚には「これだ」という終わりはなく、掘り下げようとすればするほど、言い当てていない部分があることに気づきます。

だから、その言い当てていない気持ち・感覚をずっと抱えていくことも重要になります。

大切なのは、「解答」としての形式的な言葉を使えるようになることではなく、言葉の不完全さを自覚しながら、その不完全さに耐えて、自分の感覚を保持していくことだということです。

そこに初めて、人の主体性が生まれる、と、そう述べているのではないかと思います。


映画 『ゾディアック』

2007年06月26日 | 映画・ドラマ
今月から公開されている映画『ゾディアック』を観ました。これは、1960年代後半に起きた実在の連続殺人事件を扱った映画。

この事件では、犯人は連続的に殺人を犯すと同時に、犯人しか知りえない情報や暗号を新聞社に送りつけ、それを新聞紙面で公開しなければさらに殺人を犯すと警察を脅しました。これは当時のアメリカ社会に一大センセーションを巻き起こしたそうです。劇場型犯罪の走りだったわけです。

映画は、当時の殺害現場を再現するだけでなく、新聞記者や警察の関係者のこの事件に対する関わりを描写していきます。

この連続殺人事件はたしかにショッキングなものです。犯人は当初は殺害に動機を抱えていたものの、その後は無差別に市民を殺害していきます。また、それに関する手紙を新聞社・メディアに送り、世の中が自分の事件に右往左往しているのを楽しみます。

ただこの映画の焦点は、この殺人鬼の生体を描写することではなく、その犯人と事件に関わっていく中で神経をすり減らしていく新聞記者や刑事たちを追うことにあります。

この記者や刑事たちも実在の人物だそうですが、彼らは犯人が送りつける暗号の解読に没頭したり、犯人の正体を暴くことに専念するうちに、自らの生活を犠牲にしていき、心理のバランスをも欠いていくようになります。

今から見れば、この犯人は確かに残酷ですが、これ以上に残忍な殺人鬼は存在するのでしょう。だからこの映画の主眼は、いかにこの犯人が異常であるかを伝えることにあるのではありません(その点は同じ監督の『セブン』との違いです)。そうではなく、この事件に関わっていくうちに、消耗と恐怖に取り込まれていく関係者たちの状態を描くことこそ、この映画が目的としていることです。

事件そのものの残忍性以上に、記者や警察たちの事件への関わりを通して、観客はこの事件に対する恐怖や消耗感を再体験していくことになります。

この事件よりも残忍な事件はあると書きましたが、しかし監督は、この事件がいかに当事者たちにとって恐怖に満ちたものであるかを、観客に伝えます。

私たちは、メディアの報道を通じて日々殺人事件に遭遇します。また映画やドラマではつねに誰かが誰かに殺されています。それを通じて私たちは、殺人事件に驚いたりしなくなっています。

しかし、映画は、この犯人が「不意打ち」とでもいうべき仕方で市民を襲っていく殺人の怖さを、限りなくリアルな描写で伝えます。

私は、今この映画の殺害シーンを思い出しながらキーボードを打っていますが、それを思い出すと今でも胸が恐怖で冷たくなります。そして思います。日々あふれている殺人事件では、私がこの映画で感じている恐怖とは比べようもないほどの恐怖を、被害者は感じているのだということを。

ビートたけしの『その男凶暴につき』は、暴力の生々しさを私たちに伝えるために撮られた映画だということです。暴力の氾濫で麻痺した私たちの感覚に、暴力とは同いうものかをもう一度思い出させようとした、と監督は語っていました。

毛色は違いますが、この『ゾディアック』は、殺人というものがいかに恐怖に満ちたものかを、私たちに思い出させてくれます。

この事件の犯人よりも「残忍」な殺害描写は多くの映画で描写されています。しかしそれらはすべてエンターテイメントとなり、私たちはそこに殺人の生々しさを感じなくなっています。

『ゾディアック』は、そうした多くの映画とは異なり、殺人事件とはどういうものか、それに関わることはどういうものか、ということを、私たちに思い出させてくれるのです。

『グローバル化の社会学』ウルリッヒ・ベック 『ウェブ進化論』梅田望夫

2007年06月24日 | Book
昨日紹介した『グローバル化の社会学』の中で、ウルリッヒ・ベックは現代の新しい倫理の特徴を「個人化」という言葉の下で理解しています。

「個人化」とは英語の Individualisierung(ドイツ語で Individualitaet) ですが、訳としては「個性化」という言葉の方がその意味合いをよく伝えているかもしれません。簡単に言えば(複雑に言うこともできませんが)、大量生産・大量消費社会の次の段階に至った社会において、経済的キャリアを上昇する以外の生き方を模索する個々人の生活態度を指しています。

ベックは次のように言います。「とりわけ個人化は、リスクを喜んで引き受けリスクから創造性を引き出すための文化的源泉が生まれてきたことを意味している」(p.278)。

大量生産・大量消費社会段階においては、100%の完全雇用が理想とされ、また社会全体がいずれそれは実現される目標だと考えていました。また働く人たちは、フルタイムワーカーとして雇用が制度的に保証されることを望んでいました。

しかし90年代以降、日本でも、また欧米でも、もはや経済全体にそのような余裕がないことがハッキリしてきました。一部の中産階級は雇用が保証されても、それ以外の層はつねにレイオフの危険にさらされる雇用形態を選択せざるをえないようになったのです。日本ではそれは「派遣」という形態を採りました。大卒の大企業社員は90年代の「失われた10年」においても解雇に直面する人はほとんどなかったのに対し(『仕事のなかの曖昧な不安』玄田有史 )、「就職氷河期」世代の若者や女性たちは派遣・フリーターとして、企業のコスト調整の対象とされてきました。

しかし私は、フリーター・派遣の増加は、単に企業の側の都合で増えたのだろうか?という疑問を持っています。もちろんそういう面は決して無視されてはいけませんし、被雇用者の生活を顧みない企業の雇用姿勢は改められるべきだとも思います。働きたい人にチャンスすら与えないのですから。

ただ同時に、若い人たちの間には、頭では「正社員」として働くことが合理的であることが分かりすぎるくらい分かっていながら、それでもそういう道を選択できない人が増えてきたのではないか、という推測も私はしています。

ある雑誌の「派遣で働く30代シングル女性たち」という最近の特集では、派遣で働く女性たちが、契約を更新してもらえるかどうか分からないという不安を抱えながら働く状況がリポートされています(『BIG ISSUE』72号)。そこでは、年数は長く働きながらも、新卒新入社員よりも社内の序列では最下位に置かれる派遣の待遇に対する不満が述べられています。

ただ同時に、興味深いのは、取材されている女性たちのすべては、一度正社員を経験しているということ。何人かの女性は、正社員の仕事が恐ろしく単調で退屈であったり、また長時間拘束されることのつらさから、正社員を辞め派遣を選択したと言います。ある女性は正社員をやめ派遣で働き始めたとき、「雲の上への階段を上っているような、お花畑を歩いていくような気分だった」と述べています。

それでも30代になってずっと派遣で働くことには言いようのない不安がつきまといます。ただそれでは、単に彼女たちは選択を誤ったのでしょうか?

物事を表面的にだけ見ると、正社員をやめて派遣を選らんだ人たちは、単にキャリア形成を上手に考えなかった人たち、ということになります。しかし、一部の人々の行動をも私たち社会全体の意識の表れとみると、様相は少し違ってきます。

人間というのは、100%戦略的に合理的に考えることはできても、それをそのまま行動に移すことのできない人間です。おそらくフリーターや派遣という選択を一定の数の人たちが選んでいるのは、社会全体が表面意識では合理的・戦略的に生きようとしながら、その合理性の間さに耐え切れない意識が社会に存在していることの表れのように思うのです。

簡単に言えば(複雑に言うこともできませんが)、社会の多くの人が合理性一辺倒で行動すればするほど、その合理性に耐え切れない一定数の人たちが出てきます。そいういう人たちは、「正社員」という労働形態からの解放を目指して、フリーターになったり、派遣を選んだりします。「お花畑を歩いていくような気分」という表現は、その解放感にぴったりくる言葉です。

しかし、そうした選択が企業社会の合理性に対する反動にすぎなければ、そこから創造的な道が生まれることもないような気がします。派遣やフリーターを長い間選んできた人たちが、30代後半になって不安の気持ちだけをもつというのは、合理性に対する反動だけで生きてきたからなのではないか、という想像を私はしています。

もちろん、だからと言って、派遣やフリーターを選んだことが間違っているということではないのだと思います。また、今まで間違ってきたから、明日からは「戦略的に」「賢く」キャリア形成を考えようとしても(そう説く人は大勢いますが)、そう上手く行かないのではないかと私は想像しています。

既存の企業社会に耐えられなくなったということは、その人にはきっと常識的な社会慣習に収まらない衝動的(創造的)なものがあることを意味するのだと思います(創造性と言っても、別に芸術だけを意味しているのではありません)。ただ、そのような創造性を実際の生き方に生かすための方法には、便利なマニュアルは存在しません。マニュアルになった途端、そこには創造性は存在しないでしょう。

そのような衝動的な心の動きに適切な居場所を見つけることは、簡単ではないし、最終的にはそれは自分だけが見つけることのできる答えです。人類において、社会の無視できない一定の層が、常識から離れて自分で自分の生き方を見つけていくということを強いられているのは、おそらく現在の先進国が初めての社会でしょうし、日本はその中でも最先端を進んでいる社会です。派遣なりフリーターを選んできた人たちというのは、そのような人類史上の難問に、言わば社会を代表して立たされているのですし、それだけに苦悩も深いのだと思います。

派遣やフリーターの人たちというのは(ここに引きこもり・ニートを加えてもいいでしょう)、自分の将来に対する不安をもろに被りやすい生き方を選んでいます。そこに立たされている人たちは、人類全体にそのような問題に対処するノウハウがないのですから、自分で自分の生き方を構築するという問題に直面していかざるを得ません。

最初に紹介したように、ウルリッヒ・ベックは、しかしこのような状況からこそ、新しい倫理が現在先進国で生まれているのだと述べます。それは、リスクから創造性を引き出すという新しい生活態度です。

そこから、つまりリスクから、不安を乗り越えるような生活態度が生まれるとすれば、どのようなものなのか。ベックは次のように述べます。

「自己自身の生活における自己自身の生活の芸術家は、彼の独自性を守ることで創造的となるだけではない。彼は、互いに対立はするがしかし自律的である生活諸形態を調和させる習練を、不断に積んでいもいる。そして、彼ら自身と彼らの生活とを美的な生産物として創造し、演出している。ここでは、自身のための労働と他人のための労働との直接の関係の中で生活が行われ、物事が考えられ、事物が作られるから、そこに生じてくる市場は、大量消費財市場ではなくニッチ市場である。だがしかし、この特殊な市場は必ずつねに小規模の市場にとどまらざるをえないと言うのは偏見である。その逆こそが正しい。グローバルなローカリティの時代では、ニッチの特殊な市場文化が創意に富んだ生活空間となり、この生活空間から(…)世界市場向け製品のチーフデザイナーがヒントを盗む(…)のである」

「自己発展の動機は自己利用〔搾取〕の動機として働く。まさに経済的利益なるものが個人主義によって意味を失い、まったく逆の評価が下されるようになるから、人は進んでごくわずかのお金のために極めて多くのことをする気になる。ある活動が自己実現とアイデンティティ形成に資するうえでより高い価値をもつならば、それはわずかの稼ぎをも埋め合わせることになるし、わずかな収入を高貴なものにさえするのである」(p.282)。

この記述において、ベックの中で「個人化」という新しい生活態度・倫理と、グローバル化とが結びつきます。

端的に言えば、このような「自己自身の生活の芸術家」たちが世界とつながることを容易にしているのが、インターネットの世界です。「個人化」という倫理自体は、おそらく80年代以降から顕著になっている現象ですが、インターネットの出現はそのような生活態度を爆発的に普及させてきました。

梅田望夫さんの『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 』は、上記のようなベックの洞察を一冊使ってより詳しく述べた本だと見ることもできます。

『ウェブ進化論』は、「オープンソース」「グーグル」「ブログ」「ウィキペディア」「アマゾン」「ロングテール」といったキーワードをわかりやすく解説している本です。そこで述べられている「説明」自体は、おそらく出版された当時ですら、ネットに親しむ人の多くにとっては目新しいことではなかったでしょう。

実際ここで梅田さんが述べているような、無限多数の表現者が生まれるという洞察は、何も「ブログ」や「グーグル」の出現を待たなくても、上でベックがしているように、十分予想できる事態だったのではと思います。ただ、そうした流れが、上記のキーワードに代表されるような新しいテクノロジーの出現によって爆発的に加速されているのも事実だと思います。

インターネットが普及し始めた1990年代後半には、少なくとも私には、ネットが社会を変えるという議論にリアリティは感じませんでした。それは、単に新しい通信手段が増えたということ以上の意味を見出せなかったのです。

しかし、巨大メディア(例えばヤフーなど)を介さずに一般の人同士がコミュニケーションをする流れは、その個人同士を媒介する仕組みが完全にテクノロジーに委譲されるグーグルやウェブログの出現によって加速され、また私たちにその流れを実感させるものになっています。

梅田さんは「ウェブ2.0」の動きによって無数の表現者が表現手段を生むという事態を予想しています。多くの人はそこで、そんな普通の人が「アーティスト」になれるのか?という疑問を持ちます。インターネットはゴミのような情報をふやしているだけではないのか?と。

おそらく、「ウェブ2.0」によっても、これまで一般市民だった人がいきなりプロとしてアーティストになるという事例は少ないままなのではないかと私は考えています。そういう人の数は増えるかもしれませんが、割合がドラスティックに増えるのかどうかはわかりません。

しかし、それは「儲け」「稼ぎ」という視点だけで見るからであって、おそらく「自己表現する」という習慣をもつ人が人口の大部分を占めるようになる今の流れは、少しずつでも人々の生き方に影響をもたらすのではないかと思います。たとえば表面上の生活は変わらなくても、既存の常識から一歩距離をとるメンタリティは確実に人々の間に浸透しているのだと思います。

ある人は次のように述べています。

「梅田望夫さんの講演、「ウェブ社会『大変化』への正しい対応・間違った対応」(フォーサイトクラブ・セミナー)の速記録を読んだ。これは秀逸ですね。
インターネットの本質が「不特定多数無限大と(を)同時に○○するコストがゼロに近づいていくこと」というのはまさしくそうだと思うし、自分たちがEコマースを行う際もそのことを常に基本に考えているが、そこから先の世界に関しても示唆に富んでいる。
 特に印象に残ったのが、「オープンにすれば何か生まれる」と「若い人に教わることを忌避するな」という部分。どうしても僕の世代や僕よりも上の世代になると、クローズにしたい誘惑に駆られてしまう。僕は意思決定する際に、できるだけオープンな方を選択しようとしているが、あくまでも体で覚えているわけではなく、頭で考えて意識的な選択をしているに過ぎない。インターネットが出現したのが20歳代後半だったので、その存在を頭で理解しながら使いこなそう、利用しようとしてきたので、どうしてもそのような使い方になってしまう。一方、若い世代では高校や大学に入ったときからインターネットが常識だった人も多い。あと数年すると、物心ついたときからウェブが当たり前にあった人たちが出てくる。彼らの中には思いもよらないウェブへの接し方をする人もいる。このような人たちの考え方には耳を傾けなければならない。」(「Web社会の変化への対応 2005/09/24」)『健康とECのBlog』

ベックの言う「個人化」が「生活を美的な生産物として創造する」とは、狭い意味での「アート」を行う人が増えるという意味に解するのは適切ではないでしょう。それよりはむしろ、文章でもそれ以外でも、表現行為を行うことで、自分の無意識に触れる人が爆発的に増えることを意味します。

表現行為というのは、それまで自分でも気づかなかった自分の一部を発見することだし、それは必然的に表面的な常識とは離れたものになります。またそれを他者と分かちあうというのは、そのような常識から離れた考え方・態度を他人と共有していくことを意味します。それはブログの文章でも他の芸術でも同じことです。

そのような習慣を生まれてから死ぬまで人々が持ち続けるということは、それは「社会常識」というものが刷新されていくスピードが爆発的に上昇されることを意味します。

例えば、インターネットに親しむ人の多くは、全国紙の新聞の見方を相対化する情報を容易にウェブ上で拾うことが可能になっています。

ウェブ上の表現行為で身を立てる人が増えるかどうかは分かりませんし、それによって「こちら側」の表現者の生活の糧が脅かされるようになるのかどうかもわかりません。しかし、それとは次元の違う側面で、やはり「ウェブ2.0」は多大なインパクトを社会に与え続けるのではと思います。

「個人化」と「ウェブ2.0」は、どちらかがどちらかを産んだという因果関係にはありません。しかしその二つが限りなく相互に親縁的であり、それまでの官僚制社会とは違う傾向を自己の中に見出すよう個々人に強いているのは確かだと思います。

絵本 『注意読本』 五味太郎

2007年06月23日 | 絵本・写真集・画集
五味太郎さんの絵本『注意読本』を読みました。

あはは。相変わらず最高だ、五味さんは。


「がんばれ がんばれ!!」と言われてがんばったところで スジでもちがえたりしたらアホくさいので あまり得意でもないものはある程度までがんばるように ちゅういしましょう


という感じで、世の中の人の生態を鋭く抉りながら、「そんなものは他人の生き方なんだから、適当に合わせときゃいいんだよ」と五味さんはわたしたちに教えてくれます。

「注意する」ということは、まわりのペースに巻き込まれずに、適当に付き合っていけよ、ということみたいです。

普段のわたしたちのまわりにある思い込みに気づかせてくれるし、人間ってみんな他人のことを考えているようでも実は自分に都合のいいことを言っているだけなんだぜ、と教えてくれているみたいです。


注意読本

ブロンズ新社

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書籍 『グローバル化の社会学』 ウルリッヒ・ベック(著)

2007年06月22日 | Book
ドイツの社会学書籍『グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答 』を読みました。著者はドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック

原著は1997年に出された本なので、かれこれもう10年前の本です。ただ読んでいて思わされたのは、内容がまったく古びていないこと。今の私たちにとって目新しい指摘はなされていませんが、著者が論じている問題は今も問題であり続けています。

90年代以降になってたしかに社会・世界は急速に変化しています。しかし、変化の速度は急激でも、基本的な方向性(純粋市場化・情報のグローバル化・文化間の衝突)は、東欧の壁崩壊以後に定まっており、その進路を猛スピードでこの世界は突っ走っているという印象です。

内容をすべて紹介するのは冗長になるので、私にとって印象的だった部分について触れたいと思います。

上にとってのグローバル化

まずベックは、他の多くの論者と同じように、「グローバル化」は多国籍企業のみに莫大な利益をもたらし、社会の大部分には富を還元しないということを指摘します。つまり、生産拠点・営業地域・指揮系統が世界各地に分散しているのが常態であり、多国籍企業は税金を自社にとってもっとも有利な国で払うことにすることが可能であるということです。

このことは、政治と経済との結びつきによって国家の支配を形成していた旧来の「国家資本主義」モデルが無効になることを意味します。資本主義がその歴史において、とりわけ20世紀において、政治・行政が巨大経済組織に様々な便宜を払っていたのは、巨大経済組織がもたらす税収によって初めて国家は財源を賄うことができ、またそれら組織によって職が生み出されるという計算があったからでした。

グローバリズム化が引き起こしたのは、そのような政治と経済との結びつきがもはやありえなくなるのではないかという危険の可能性でした。多国籍企業はコスト削減のために安価な労働力が豊富な地域に生産拠点を移し、納税額の最も低い場所で納税するように組織編制するようになります。

多国籍企業がもはや国家を必要としなくなったのが、グローバル経済の特徴と言えます。つまり、多国籍企業は「超国籍企業」になるというわけです。

それゆえ多国籍企業は、出自である国家の社会安定のために貢献する必要から解放されます。それに対して、国の大部分の雇用を創出する中小企業が、同時に法人税をも支払うことで福祉に貢献するよう強いられます。

グローバル化の一つの側面は、上で述べたように、多国籍企業にとってもはや国家・国境・政治は以前ほどの重要性をもたないということにあります。現代の資本主義は、国家の援助を受けずに活動することが比較的可能になっており、また国家に対する義務(=納税)をも免れつつあります。


下にとってのグローバル化

エスタブリッシュメントにとってグローバル化がもつ意味がこのようなものだとすれば、「下々」の人々にとってはグローバル化はどのような意味合いをもつのだろうか?

単純に言えば(複雑に言うこともできないのだけど)、流通や通信にとって世界中がつながることは、逆に個々の地域が直接世界とつながることを意味します。それは、生産拠点の世界への分散が同時に現地の文化と超国籍企業との接触であり、それによってローカルとしての場が再活性化されることを意味します。

国民国家という官僚制制度の下では「中心-辺境」という枠組みで世界から排除されていたローカルが、もう一度「中心」とつながるきっかけを与えられるわけです。ただその「中心」は国民国家における首都ではなく、「世界」という秩序も制度もない曖昧な「中心」なのですが。

超国籍企業が跋扈する世界とは、政治の影響力が及ばない世界であり、それゆえ指揮系統が場に依存しない状態です。そこでは「中心」というものが、「首都」や「本社ビル」といった具体的な場に依存しなくなります。むしろ「中心」とは、人々の観念の中に生まれるものと言っていいでしょう。「中心」とは場によって生まれるのではなく、頭脳の行為を意味するのであれば、場は関係ないわけです。

そのような「中心」が世界各地のローカルに生産を指令するとき、ローカルは「中心」とつながっているのですが、そのときローカルがつながっている「中心」とは、人間の頭脳と言ってもいいように思います。

これは何も超国籍企業と生産拠点という例だけのことではなく、通信による人々のつながりに関しても言えることでしょう。私以外の人が100万人以上はすでに言っていることなので書くのが気をひけますが、グローバルな移動が容易になったり、インターネットで世界中とつながることは、人々の頭の中から国境・境界・秩序の絶対性を(比較的)崩していっているはずです。

そこで生じるのは文化・生活様式の「マクドナル化」といったものではなく、もっと複雑で捕まえがたい事態です。「マクドナル化」とは、一つの基準が世界を支配することを意味します。しかし、そのような想定は、一つの指令機関が社会を隈なく統制できると考える旧来の国民国家像と結びついています。

通信や流通・移動手段の高度化による「場」の喪失がもたらすのは、そのような予測可能な秩序ではなく、ローカルと別のローカル、ローカルと「中心」とが予測不能な接触・衝突を起こすという事態です。


トランスナショナルな国家の構築の必要性

ベックも指摘しているように、このように「上」も「下」もグローバル化の流れに沿って、「国家」「首都」とは無縁な「中心」とつながりながら行動するように強いられています。

同時に、もはや国民国家という境界内で成立する資本-労働との対立という枠組みは崩壊していきます。階級闘争というものは国家が付与できる権利の獲得を巡る闘争であるがゆえに、「国家」に縛られない行動が可能になった大企業にとっては、もはや「労働者」と交渉のテーブルに就く必要性はなくなりました。

派遣労働の増加を見ても分かるように、現代でも低賃金にあえぐ人々は多数いるのですが、生産・事業の場所を容易に世界各地に転換できる体制になった企業は、団体として圧力をかけてくる「労働者」と向き合う必要がありません。「労働者」は依然として場に拘束された生活を強いられる中で、大企業はその場から逃避することで、階級闘争を回避することができます。こうしてグローバル化においては、「上」と「下」とが接触せずにいることが容易になっていきます。

こうした状況から、立場の弱い人は大量に存在しながら、彼らが団結することも不可能になり、見えない無数の失業者・貧困者へとなっていきます(「失業・貧困の個人化」)。

ベックは、現代において要請されているのは、国家という制度を失うことで基本的人権・市民権を失いがちな人々の権利を守るためのトランスナショナルな権利・制度であると指摘します。それには国境を越えて行動する超国籍企業の行動を拘束する規定も含まれます。彼はそのために必要な条件に関して、次のハーバーマスの言葉に自分の主張を代弁させます。

トランスナショナルな権利・制度を作るためには、諸国民国家が共同しなければならない。そのためには「〔トランスナショナルな〕内政として認識できるように、拘束力ある協同の手続きで結束しなければならない。そのさい、そうした協同の手続きは、コスモポリタンたる義務を負う諸国家の共同体によって取り決められる。肝心な問題は、広い範囲にわたって一体となった複数のレジームの市民社会と政治的公共圏において、コスモポリタンとして強制力をもちつつ連帯しようとする意識が芽生えうるかどうかである。市民の意識状態が内政に影響を及ぼすように変化したことによるこうした圧力の下で初めて、グローバルな行為能力をもったアクターの自己了解も変化し、選択の余地なく協同して互いの利害を尊重しなくてはならない共同体のメンバーとしてみずからをよりいっそう理解できるようになるのである」

その後でベックは自分の言葉で次のように述べます。「そのつどの公共圏において、国際関係からトランスナショナルな内政へのこうしたパースペクティブの転換に、国家の垣根を越える仕方で注意が払われず、住民グループ自体が自分たちの利害関心からしてこの転換に賛同することがないならば、政府側のエリートにそうしたパースペクティブの転換を果たさせることなど期待できはしない。別の言い方をするならば、トランスナショナルな国家は、トランスナショナルな国家についての意識があり、そうした国家を意識するようになることによって、はじめて可能になる」(p.211)。

ベックは、このトランスナショナルな国家と旧来の国民国家との違いについて、後者が「国境の画定とナショナルな対立」を軸にしているのに対し、前者は「グローバル化とローカル化」という軸をもっていると述べます。

このトランスナショナルな国家(諸国家による協同構築物)は、旧来の国民国家のように言語・民族の統一性を排他的に確保するためではなく、むしろあらゆる属性を持つ個人の権利を保護するためのものであり、国境・民族を越えて差異を保証するための制度です。ベックは次のように述べます。すなわち、「エミール・デュルケムが行った〔機械的連帯と有機的連帯という〕区別」を引き合いにして、異質な国家どうしが協同することで「有機的な主権」を産出するのだ、と。彼は旧来の国家が有していた権限に由来する権利を「排他的主権」と呼び、それに対してトランスナショナルな国家が生み出す権利を「有機的な主権」あるいは「包容的主権」(すべての者を包括するような権利)と呼びます(p.252)。

こうした「国境を越える」視点をもつからこそ、「グローバル化」と経済成長至上主義とをベックは区別することができるのだと思います。少なくとも現在の日本で「グローバル化」が論じられる際、その多くは「日本はそれに対してどう対応すべきか?」という問いと結び付けられ、「いかに競争力を高めるべきか?」という問いへと自動的に転換されていきます。

しかしベックにとってグローバル化とは、旧来の主権国家がその支配能力を失う中で、巨大組織に依存することのできない大部分の人々の権利はどのように維持されるべきかという問いと結びつきます。

それゆえに、経済成長至上主義は、必然的に他国の貿易赤字を招くこと、あるいはコスト切り詰めのために賃金の低下を招くことが、ベックにとっては当たり前として「問題」にされます。

おそらく日本のアカデミズムでもこうした議論は行われてきたのでしょうが、一般の人々に届く議論はどうしても、グローバル化と経済競争という問題に絞られ、「日本はどうすべきか」という視点だけで論じられます。そこからは必然的に、他国に生きる人々の生活を犠牲にすることへの配慮のない、経済成長戦略だけが論じられることになります。

最初に述べたように、この本が出版されたのは1997年であり、またこの本で扱っている内容は多くの人がどこかで聞いた話でしょう。にもかかわらずこの本の内容がアクチュアリティを失っていないのは、グローバル化という現状認識を行いながら、そこから「国家」という枠組みが失効していることと、グローバル化と成長至上主義とを短絡的に結び付けていない点にあります。むしろ、グローバル化による経済競争の激化によって被害を受ける人々の間には、国境を越えた共通点があることをも指摘します。

そう書くとまるで「万国の労働者よ、…」という議論を想像してしまいますし、ベック自身はマルクス主義を否定するにしても、どこか理想主義的に見える部分もこの本にはあるのですが、しかし私には成長至上主義に陥ることを防ぐきっかけとして、それは大切な視点ではないかと思います。

映画 『ネバーランド』

2007年06月22日 | 映画・ドラマ


2004年のアメリカ・イギリス映画『ネバーランド』を観ました。主演はジョニー・デップ。共演にケイト・ウィンスレットやダスティン・ホフマン。

内容は、名作『ピーターパン』をイギリスの劇作家ジェームズ・バリが書くきっかけとなった、デイビス夫人とその四人の子供との交流を描いたもの。ただ、映画の最初に“Inspired by True Stories”とあるように、あくまで実話にインスパイアを受けているのであって、史実をそのままなぞった話ではないそうです。実際にあった出来事を基に、ファンタジー映画として成立するように内容は変更されています。

ジェームズ・バリは新作の公演が不評に終わり、落ち込みを紛らわすために公園で書き物をします。そこで彼は未亡人のデイビス夫人と四人の子供たちと出会います。バリはその男の子たち、とりわけ三男のピーターとの交流を通して、あの『名作ピーターパン』を書き上げるのですが・・・

これはまるでジョニー・デップのために作られたような映画。一体この映画のバリ役を他に誰が演じることができるのか想像がつきません。デップ演じる劇作家バリは、年齢は大人でも子供のような純粋さとユーモアを兼ね備えた人物。彼は、父親をなくし塞ぎこんでいるピーターや、必死に母親を助けようとするその子供たちに、その持ち前のユーモアと想像力で、現実の中に喜びを見出すことの大切さを教えていきます。

ジョニー・デップはこの役でアカデミー主演男優賞にノミネートされましたが、確か当時は批評家に「ノミネートされるべきではない」「彼のベストの演技ではない」と評されていました。

しかし私には、今まで見た中でもこの映画のデップがベストです。おどけたようなユーモアを出しながらも、基本的には感情を抑えた彼の演技は、ファンタジーでありながら派手な演出を見せないこの映画に見事にフィットしています。『エド・ウッド』よりも、『スリーピー・ホロウ』よりも、私はこの映画のデップが好きです。

他の役者もまたみな素晴らしい。ケイト・ウィンスレットやダスティン・ホフマンも、知名度は一流なのに、静かに進行する映画にピタっと合う演技を見せ、画面に溶け込んでいます。

他にも、バリの妻役やデイビス夫人の母親役の女性など、出てくる役者みなが的確に役柄を演じて行きます。

これだけ有名な役者を起用しながら、映画は派手な演出もなく、ファンタジーでありながら、そこに嘘を感じさせません。音楽も、これも静かながら素晴らしい。

そのような落ち着いた展開だからこそ、ラストの場面で感動を呼び起こすのです。


ただ、とても感動的な映画だけに、デイビス家に実際にその後に起きた出来事を知ると、複雑な気持ちにさせられます(長男のジョージは第一次大戦で戦死し、四男のマイケルは20歳のときに、友人と共に溺れ死にます。さらに、「ピーターパン」のモデルとなったピーターは、ピーターパンと自分が世間で同一視されることに生涯悩み続け、63歳のときに、バーを出た後で列車が向かってくる線路で投身自殺します)。

ヘルツで感じる独文法 1

2007年06月20日 | 語学
おこがましいタイトルをつけましたが、批判・補足・訂正大歓迎。

bestehen

・辞書の一番初めに載っているbestehenの訳は「存在する」です。

Das Geschaeft besteht schon fuenfzig Jahre.(その店はもう50年も続いている)

単に「存在する」というよりは、「持続する」というイメージですね。私には、この言葉には、何かこう、ドリルがぐりぐりと土の中を掘って進んでいるというイメージがあるんです。つまり、何もしなくても存在するのではなく、何かの力が働くことで存在している、というか。

このぐりぐりというイメージが生かされているのが、次の使い方。

・Japan muss staendig einen harten Exportwettkampf bestehen.(日本は絶えず厳しい輸出競争に打ち勝っていかねばならない)

bestehenが4格(~を)の目的語をとると、このように勝ち抜く・生き残るという意味合いが出てきます。やはり、bestehenは単に「存在する」のではなく、意志なり力が働いて存続しているのです。

このbestehenが前置詞と共に使われると、意味が広がります。しかしそこには、同じようにこのぐりぐりのイメージが生きています。

・auf et3 bestehenで「…に固執する」。

Er bestehet auf seinem Recht.(彼は自分の権利を主張して譲らない)

上記の文章でも「彼の権利」にぐりぐりとしがみついている様が見て取れるでしょう?

・in et3 bestehenで「…に(本質が)ある」。

Meine Arbeit besteht im Uebersetzen der deutschen Texte ins Japanische.(私の仕事はドイツ語のテキストを日本語に翻訳することです)

これも、単に「ある」「存在する」のではなく、in「~の中に」足場をつかんで存在しているというイメージです。

・aus et3 bestehenで「…から成り立つ、…で構成されている」

Wasser besteht aus Saerstoff und Wasserstoff.(水は酸素と水素から成り立っている)

「存在する」という言葉が、なぜこのように 「…から成り立つ、…で構成されている」という意味にもなるかと言うと、aus以下の構成物の力を借りる、あるいはaus以下の要素によって初めてぐりぐりと存続しているというイメージをこのbestehenが持っているからではないでしょうか。


では最後にもう一度。bestehenという単語を見かけたときは、これまで見てきたようなぐりぐりという感覚をその文章から読み取ってください。


(参照 『表現と作文 ドイツ重要動詞50』 白水社)

映画 『ニュースの天才』

2007年06月18日 | 映画・ドラマ

2004年のアメリカ映画『ニュースの天才』を見ました。主演は『スター・ウォーズ』のアナキン(ダース・ベイダー)役のヘイデン・クリステンセン、共演にピーター・サースガード、クロエ・セヴィニーなど。

アメリカで権威ある雑誌として認められている“The New Republic”で、1990年代後半に、ある一人の記者が書いた記事が捏造だったことが判明するという事件があったそうです。それも、1本ではなく20本以上の記事が。

アメリカのジャーナリズムでは取材源に対するチェックはかなり厳しいということなのですが、この記者スティーブン・グラスは、自身が原稿チェックの経験を持っていたため、どうすればチェックを潜り抜けられるかも熟知していました。

おかげでその一流雑誌に勤める記者たちの誰もが、編集会議で自身の捏造した“ネタ”を披露するグラスの嘘を見抜くことができず、グラスによる長期にわたる捏造記事の発表を止めることができませんでした。

映画では、この実話をかなり丹念になぞり、ある事件をきっかけに他誌の記者に捏造がバレそうになったグラスが、必死で編集長に嘘を隠そうとしていく様子を再現しています。その過程でグラスは、自身が捏造した記事を本物であると周囲に思い込ませるために、様々な嘘を重ねていくようになります。しかしやがて・・・

この映画でとにかく感心したのが、実在する元記者のスティーブン・グラスを演じたヘイデン・クリステンセンの演技。

この映画は捏造を重ねていく記者の内面を深く追うことはせずに、グラスの行動や表情を表面的に追いかけていきます。しかし、その行動を見ただけで、観客は、この記者が自分の感情に触れることを忘れ、自分に仮面をかぶせ、さらには自分が仮面をかぶっていることすら忘れてしまうぐらいに、内面に深い闇があることを感じ取っていくことができます。

おそらくグラスの中にあったのは、単純な虚栄心だけではないと思います。それは、状況に適応しようとする心性であり、周りの人間が驚く姿を見ることの快感であり、(捏造された)見事な記事を見て自分自身が興奮していったのでしょう。つまり彼自身も、自分が考え出した話に夢中になって言ったために、作り話に没頭して行ってしまったのです。

自分が本当に考えていること・感じていることを内省するだけの注意力を失い、周りの状況の動きだけに翻弄されている人間の悲しい姿がここにあります。ただ彼は、そのあまりにも卓越した演技力のために、自分が演技していることすらわすれてしまったのではないかと思います。

ヘイデン・クリステンセンは、そのように嘘をつき続ける人間が、実は自分を完璧に見失ってしまっていることを、その表情によって見事に表現します。

この映画では編集長を演じたピーター・サースガードが批評家から絶賛されたそうです。たしかにそれは素晴らしい演技なのですが、私にはこの映画を作っているのは、やはり主演のクリステンセンの演技のように感じました。

『竹岡広信の英作文〈原則編〉が面白いほど書ける本 』

2007年06月16日 | 語学
『竹岡広信の英作文〈原則編〉が面白いほど書ける本 』という本をしてみました。著者の竹岡広信さんは、『ドラゴン桜』の教師のモデルにもなったそうです。

私は英語のアウトプットに自信がなかったので、今回鍛えるべくやってみました。去年の夏から始めて、二回通してしてみました。一年かかったわけです。

この本の特色は、模範解答をできるだけ平易な英語を使って作っていること。難関大学の英作文の問題も扱っていますが、単語はおそらく中学生でもわかるようなものを使っています。

著者の竹岡さんは、ネイティブでなければ書けないような英語を学ぶのではなく、知っている単語を使って言いたいことの50%でも表現できるような、そういうトレーニングを与えることをこの本で目指したそうです。

簡単な英語を使って作文するというのは、日本語を英語に翻訳する際に、できるだけ英語の論理に置きなおすということを意味します。日本語の問題文につられて、そのまま当て嵌まるような英単語を探すのではなく、知っている簡単な英単語でも実は日本語で考えていることを英語で表現できるということを学ぶわけです。

だから、使われている単語自体は簡単でも、英語の発想を学ぶという点ではとても有益な本なのではと思います。

例えば、「一つ一つの文化財は、それを維持するために尽くしてきた数多くの人たちの多年の努力の結晶である」という文章を英語にしようとすると、「AはBである
」という文章の構造になっているので、私たちは A is B という文章で英作しようとします。この文章で言えば、「文化財+is+結晶」という文を作ろうとします。

しかしそのような発想は竹岡さんによれば英語の論理とは違うとのこと。彼の模範解答によれば、例えば

we should not forget that a lot of people who have been maiking great efforts to preserve many traditional buildings around us for a long time

という形がより英語の発想から見て適しているとのことです。

これは一例で、英語の形としてより適切な表現を作るための情報が、この本にはぎっしり詰まっています。あまりにも情報が多すぎて、真面目な受験生が一からこの本を読もうとすると途中で倒れてしまうのではないかと思います。それとも、若さでこの本を全部吸収してしまうのだろうか?

私は二回通して問題を解いてみましたが、それでも模範解答以外の情報にはあまり目を通しませんでした。受験生が書いてしまいがちな誤答の例も問題文ごとに書かれているのですが、そこまでも読んでいられませんでした。

この本がどれぐらい私の身につき、またどれくらい役に立つのかはまだ分かりません。とりあえず通してやってみて、それでもまた見直してみないと身につかないのではないかと思うぐらい、情報が詰まっているのです。

ただ、竹岡さんの意図とは違うのでしょうが、私自身は、この本は、細かな情報で止まらずに、模範解答をどんどん読んで、自分なりに英語になれるというようにすればいいのではないかと思います。

受験生であれば「間違い」に気をつけなければなりませんが、私たちの多くはすでにそれから解放されているわけですから、「間違い」を気にせずに、自分で英文を作ってみて、竹岡さんの模範解答を見て、自分の知識・感覚にフィットする回答を自分なりに作っていって、またそれを英語を使う場面で使ってみるというようにすればいいのではないかと思います。

書籍 『職場はなぜ壊れるのか』 新井千暁(著)

2007年06月16日 | Book
『職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理』(ちくま新書)という本を読みました。著者は精神科医の新井千暁さんという方。

たまたま図書館で見かけて借りた本ですが、今年の2月に出版された本で、アマゾンに26件ものレビューが書き込まれています。ベストセラーだったんですね。

内容は、産業医として某企業で働く著者の視点で、成果主義という制度が職場で働く人を心理的に追い詰めていく状況が記録されています。

経営学者の大野正和さんは、『過労死・過労自殺の心理と職場』で、日本の企業で過労死が起きる原因を次のように指摘していました。

すなわち、日本で過労死が90年代以降に増加しているのは、必ずしも日本人全体が働き過ぎであったり、働くように追い詰められているからではありません。むしろ日本経済の世界的地位がピークに達した80年代以降から、集団・和を尊ぶ精神が日本人から失われていき、それゆえに一部の旧来のメンタリティをそなえた人に残った仕事の皺寄せが行き、そこから過労死が生まれているのです。

つまり、以前には団結して協力し合うというモラルが日本の労働者に合ったのに対し、そのようなモラルが崩れ、責任を他人に押し付け自分だけのことを考えるというメンタリティを多くの人が身につけるようになったために、一部の真面目で責任を自分で背負い込みやすい人が追い詰められていっているのです。

この新井千暁さんの著書を読むと、そのような大野さんの仮説が十分に検証に耐えうるのではないかと思わせてくれました。

著者は成果主義が浸透して行った90年代以降の日本企業をまじかで見て、その弊害がどのように職場に現れていたかを報告します。

まず、成果主義は本来チームとして初めて機能するはずの組織から集団を尊重するモラルを失わせ、個人本位の行動・メンタリティを社員に植え付け、それゆえに組織が機能不全に陥るということ。

成果主義を導入したある大手電機メーカーの社員からは、「自分の目標達成しか眼中にないから、問題が起きても他人に押し付けてしまう」という声も出ていました。また社員は自分の評価がつねに短期的に下されることに敏感になり、誰もが失敗を恐れて「挑戦」を回避するようになり、ヒット商品が生まれなくなったとのこと。さらに、おそらく評価に直接つながらないからでしょうが、アフターケアやメンテナンスといった顧客へのフォローがおろそかになり、トラブルが続出したとのことです。

そのような状態に陥っていた会社で28歳の男性システムエンジニアが自殺するという事件が起きました。元同僚の証言によれば、その自殺した社員は単にノルマのプレッシャーに押しつぶされたのではなく、むしろ職場のモラルの崩壊によって追い詰められていったことを指摘します。

大きなプロジェクトに取り組み必死に仕事をする彼は、その期にどのような評価になるかは他の社員にも分かります。学校のテストの成績が他の子にも知れ渡るようなものです。その彼に対する妬みから、別の社員は細かな雑事を彼に押しつけ、彼が自分の評価に関わる仕事に取り組むことができたのは、夜になってからでした。

自分の評価につながらない他人からの任され仕事に追われ、結局自分の仕事は、評価が下される期限までには間に合いそうにありません。そうした中で彼は自殺へと追い込まれていったことが推測されるということです。

組織が組織であることの強みは、集団で行動することで一人ではできないことができる点にあるのですが、そこに一人ひとりの能力を数字で査定する制度が持ち込まれると、そのような集団の長所が失われていくことになります。

例えば上記の例で言えば、「雑事」も、それが行われなければ組織が機能しないがゆえに、自殺した「彼」はやらざるをえなかったわけです。だとすれば、それも組織に十分に貢献している仕事なのですが、すべての雑事を数字で評価するということはおそらく不可能でしょう。

著者が指摘していることの一つは、成果主義が導入されることで、職場に新しく配置される人への教育がまったくなされなくなること。

おそらく「新人研修」といったことはどの企業でも行われているのでしょうが、具体的な現場に来た新人に対して、つまり何をやればいいのか分からない人に対して何をすればいいのかを教えるという当たり前のことをする習慣が、社員に根付かなくなっているのです。

これは上で紹介した大野さんも指摘していた点ですが、日本の企業の一部では、新人が職場で何をするかを教えず、そのために職場で右往左往する新人を叱り飛ばすということが常態になっています。

「先輩」社員からすれば仕事は自分で覚えろ(俺もそうしたのだから)ということなのですが、視点を変えれば単に社員教育を疎かにしているだけです。

新人や後輩を育てるということは、本来であれば、善意でやるようなことでもないでしょう。働いてもらわなければならない社員に働いてもらわなくては、結果的に損をするのは組織です。右往左往する新人を横目で見ている「先輩」も、その新人が上手く働けるようにならなければ組織の利益が減り、結果的に自分の損になるはずです。

これが、成果主義が会社に持ち込まれると、自分のノルマの達成が主眼になるので、まして社員への評価が(学校の通信簿のように)相対評価で行われるようになると、他人の低評価が自分の高評価につながるため、新人や他の社員への知識の伝達・教育が上手く行かなくなります。

それが結果的には自分の利益の損失にもつながることは、会社は集団であるということを考えれば火を見るよりも明らかなのですが、成果主義はそのような合理的な思考をできなくなるようにさせ、個人の目先の利益だけを社員に追わせるようになります。


こう考えていて、思ったのは、学校という組織で子供たちに成績がつけられていくことの弊害。学校という組織は、一見集団を重んじているようですが、周りの困っている友達を助けようということは、教師は子供に教えません。少なくとも、英語や数学を教えるほどしつこく教えたりはしません。

学校という場所は、子供たちに集団におけるモラルを身につけさせない場所なのではないか、とふと思いました。

学校という場所は、何か目標を持って進んでいる組織ではありません。たしかに学校の経営者や教員は、進学実績を上げて学校の名前を売り生徒を獲得するという目標を共有しているかもしれません。しかしだからと言って子供たちに「この学校を有名にするために、君たちも頑張って成績を上げよう」と言う教師はいないでしょう。

学校という場所では、子供はとりあえず集団行動をさせられながら、周りの子供とチームとして協力し合い一つの目標を追求するという経験はさせられずに、自分の成績を上げることだけを要請されます(もっとも、部活動が前者のような経験をする機会を提供しているとは言えるかもしれません)。

そのために、学校という組織は、集団行動をしながら、個人個人の感情はバラバラという、よく考えればヘンテコリンな組織になっています。

成果主義は、会社という組織を、限りなく学校に近づけるものと言うことができます。個々人は自分の成績を気にして、チームとして機能することが二次的な問題になるため、集団として同じ場所・同じ時間にいながら、気持ちはバラバラなのです。