joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

自己愛

2007年09月07日 | reflexion
瞑想家でエッセイストの宝彩有菜さんは、「嫉妬」という感情について次のようにおっしゃっています。

「あの人のようになりたいなぁ」と思ったら「それほど、羨ましいのならあの人と、肉体も時間も過去も家庭も仕事も全部、人生まるごと取っかえっこしますか?」と自分自身に聞いてみる手があります。すると、大概、「いや、それはちょっと困る。私はあんなにすさまじい努力はできない。また、あのような大変そうな家庭はいやだ。今のままがいい」と強欲はおさまります。自分は基本的には自分が一番好きなのです」(『始めよう。瞑想』)

最後のところを読んでいると、我が身を振り返って笑ってしまいます。

私(たち)は、他人が持っているものを羨ましいとは思うのですが、それはあくまでそのものを自分も手に入れられたら、ですね。容貌や、スタイルや、お金や、仕事や、名誉や。

でも、“自分”そのものは他人と取り替えたくないのです。“自分”を取り替えてしまったら、私が“自分”を愉しむことはできないわけですから。

私(たち)は、あくまで、この“自分”にいい思い味あわせてあげたいんですね。私たちが一番好きなのは、やはりこの“自分”なんですね。

だから、本当はこの“自分”だけで満足できればいいのですが、どうしても“自分”を何かで飾り立ててあげないと、惨めでかわいそうになってきます。

でも、とにかくこの“自分”は手に持っていたいわけです。だから、もう、この“自分”でとりあえず満足する、そう決めることができたらと思います。


心理カウンセラーのチャック・スペザーノさんは、次のようにおっしゃっています。

「自己愛は健全な自信、平和で穏やかな人生、他の人が困難な時に真実を見ることができるよう援助する能力を生み出します。さらに自分が意味のある存在なのだと認識する、目的を達成する、創造性を追求することで充足を得る、自らの天命を全うするなどの成果を作ります」(“100 Healing Principles”)。

“自分”で満足する、“自分”を好きであることを思い出す、そうできたらいいですね。

嫌う

2007年08月15日 | reflexion


私(たち)は、誰かを嫌うとき、必ずと言っていいほど、その嫌っている人の中に羨ましいと思っている部分があります。

羨ましいとも思わない人のことをわざわざ嫌いにはなりませんからね。

誰かを「嫌う」というのは、自分の「こうありたい」という欲求を素直に表現できないこと、それどころか「こうありたい」という欲求をもつことはよくないことと思っていることのあらわれなんでしょうね。

誰かを「嫌う」とき、私(たち)は、実はその人のようになりたいんですね。

a stain on the silk

2007年05月30日 | reflexion


わたしたちは、親に対して、あるいは親のように慕う人たちに対して、「この人こそわたしを包んでくれる」という期待を抱きます。

あるいは、わたしたちは、自分以外の人すべてに対して、そのような期待を抱いていると言ってもいいと思います。

しかし、そのような期待が強いほど、その期待にそぐわない側面を相手の人に見出したとき、相手への評価が180度逆転して、その人を極悪人のようだと思い込みます。

それはまるで、白くてきれいな大きい布の手触りを楽しんでいながら、そこに一滴のインクがこぼれ落ちただけで、私たちは、その布を汚らしいものと思い込むようなものです。

でも、本当はわたしたち誰もが、インクのシミがこぼれ落ちている白い布のようなものなのだと思います。

Accepting your insincerity and ignorance

2007年05月26日 | reflexion



「非常に混乱していて、頭が悪く、人を愛していないように見える人でも、その人の意識レベルが自分よりも低いとみなす権利は、私たちにはありません。その人は、私達よりずっと深いレベルの愛に気づいているかもしれないのです」

(『なまけ者のさとり方』)


私自身がそうなのですが、「正義」に囚われている人の特徴は、自分が考えている問題を他の人は理解していないし、また考えるべきだ、と思っていることです。

人にはそれぞれの歴史があるので、考え方にもその人のそれまでの歴史が反映されています。それゆえに、その人自身が到達した透徹した認識もあれば、まだ分かっていない問題もあります。

しかし「正義」に囚われると、他人のそれまでの思考の歴史を無視して、自分の思考の経緯だけが絶対だと思い込みます。自分が到達した「正義」自体は、大切な認識なのですが、彼がその認識に到達しえたのは、彼独特の歴史を歩んできたからです。そのことを自覚していないと、自分だけが「正義」を知っており、他の人はみな無知で不誠実だと思うようになります。

おそらく、誰もが、その人なりの歴史を経て到達した「正義」があります。同時に、その人なりの歴史ゆえに、まだ分かっていない問題があります。

私たちは誰もが誠実で賢い部分を持っているのですが、誰もが不誠実で差別主義者で無知なのだと思います。

「誠実」や「正義」の高みにいるよりは、自分や他人が「無知」で「不誠実」であることを許容できる人になりたいですね。

Heartbreak i

2007年05月22日 | reflexion
なんだか怒りで荒れ狂っている。

人の誠実さへの疑いで怒るというのはどういうことだろうか?

それは、その人が自分の思うようには誠実で立派な人ではなかったという、裏切られた気持ちですね。

でも世の中には不誠実で立派でない人なんてたくさんいるのに、なぜ特定の人のことで怒ってしまうのだろうか。

まぁ、想像できるように、その人に完璧な人であったという想いが強いからなのですが。

人の「不誠実さ」で怒っているときは、それだけ他人に完璧であって欲しいという強い想いがあります。

その期待が裏切られると、なんだか悔しくて悔しくて仕方がないですね。

そう理解してもすぐに悟れるわけではありませんが、自分の中にそういう期待があるということは自覚していたいです。

Acknowledging having lost the game

2007年05月19日 | reflexion

以前、ある人が「人を許すということは、不可能だ。もし人を許すことがあるとすれば、それは忘却したときだ」という意味のことを言っていました。

人を許すことが不可能だと言う場合、そこには、意図的に人を許すことは不可能だという意味が含まれているのでしょう。

たしかに、こころの中のスイッチボタンをポン!と押すと人を許すことができるほど、私たちのほとんどは悟っていません。

人を許すマニュアルのようなものが本当にあるかどうかは、誰にも分かりません。いや、ないでしょう。ないからこそ、「許しのためのレッスン」といったセルフヘルプの本が売れ続けるのです。それは、簡単にダイエットできることはありえないからこそ、ダイエットの方法を説く本やDVDが売れ続けるのと同じです。

ただ、「ゆるし」のためのインスタントな解決策がないことは、実はほとんどの人が知っていることです。だって、「ゆるす」ための方法を実践してみれば、それが簡単ではないことは誰にも分かるのですから。

分かっているのだけれど、それでも私たちは「ゆるす」ことを追い求め続けています。

今日、ふと私が思ったのは、というより思い出したのは、人を「許せない」と怒っているとき、私たちは、その人に「負けた」という事実を中々受け入れることができていないということです。

自分が相手に「負けた」という事実に直視できないとき、私たちはその「負け」を何とか心の中で覆そうとします。そこで、相手を道徳的に劣った者とみなすことで、なんとか相手に勝とうとします。

しかしこの試みは上手くいきません。そもそも自分が「負けている」という事実を直視していないので、いくら心の中で「勝つ」ことを繰返しても、意識の奥には「負けた」という敗北感が感じられないまま残っているからです。

逆に言えば、相手に「負けた」という事実を受け入れることができるとき、私たちは、勝ち負けのゲームから脱することができ、心の中で相手に道徳的に勝つ必要などないのだと悟ることができるのでしょう。

現実での敗北を、心の中での道徳の勝負にすり替えても、勝ち負けに拘っている限りは、私たちは負け続けます。私たちに必要なのは、自分が勝ち負けのゲームのこだわり、それゆえに負けたことを認識することです。その敗北の事実をしっかり直視できたとき、私たちは勝ち負けのゲームを手放すことができます。

四月

2007年04月03日 | reflexion


四月は、私たちにとって子供のときから新しいものが始まるときです。幼稚園に行き、小学校に行き、中学校に行き。私たちはこの季節に親から引き離され、集団組織に連れて行かれました。

その儀式は一見素晴らしく神聖なものとして演出されています。桜の演出の下で、自分と親はよそ行きの新しい服を着、居心地の悪い緊張感をもちながら、新しい組織の場に加入します。

その組織への参入により、私たちは規則を課され与えられた任務をこなすよう訓練されていきます。またその任務をこなすことが、“社会性”を身につけるものと社会的に認知されます。


四月は私たちにとって、家や親という楽園から引き離され、業績遂行と社会性獲得のための訓練の場へと引き渡される時期です。そこで私たちは、親と社会により、自立した大人への道を歩むよう祝福され期待されます。

多くの人にとって四月の明るさが痛く感じられるのは、四月がそのような組織・社会への参入を試みた時期であり、しかし多くの人は自分は親や社会が自分に期待したものを達成できなかったと感じているからです。

親が多くの希望をもって自分を社会・組織に送り出しておきながら、今の自分は結局は何も成し遂げられなかったという罪悪感を多くの人がもっています。四月は、親が自分にかけた期待の重さと、その期待に自分は応えられなかったという失敗感を、私たちの中に引き起こします。

また「成功」した人にとっても、親が自分にかけた期待と、その期待に応えるべく頑張った自分の軌跡を思い出し、それが本当に自分の望んだ道だったのかもう一度問うてしまう時期なのでしょう。

それゆえに私たちにとって桜に彩られた四月の明るさは、とても痛いものに感じます。




写真:丘の上の家々

Forgiving anyone is accepting yourself.

2007年03月30日 | reflexion
宝彩有采さんは著書で、人を恨むというのは、現状の自分は不幸だと言う認識が最初にあり、その不幸な状況を誰かのせいにしたいがために、過去の人を攻撃すること、と説明されています。

そうした言葉を思い出しながら、昨日思ったのは、許しというのは最終的には自分が自分を受け入れること、ということでした。

人が他人を恨むのは、その他人のおかげで自分は不幸になったと思い込んでいるからだと思います。そのときわたし(たち)は、実際は、その他人ではなく、不幸になった自分に怒っています。こうありたいという自己イメージとは程遠い、負けた惨めな自分です。

そんな悲惨な自分の状況を直視したくないので、目を逸らすために他人を攻撃します。でも本当はわたし(たち)は自分に怒っています。他人に負け、勝つことのできなかった不甲斐ない自分に。

だから、許すとは、本当は他人を許すのではなく、そのような“負けた”自分を受け入れることのように思います。





You shuold row with the current.

2007年03月28日 | reflexion

             青い空と白い雲の下の道路


昨日は頭の中がパニックだった一日ですが、一日寝るとだいぶ落ち着きました。なんだかほっとする。天気もいいし。今日は晴れだ。とてもおだやかですね。

ある対談で七田眞さんは、「“これ”しかないなんて思うことはないよ。人生には色んな道があるから一つの道にこだわる必要はないよ」と言って子育てをした経験を話されています。

うーん、本当はそうなんだろうな。本当はそうなんだけど、悩んでいるときは「これしかない。これがだめならもうだめだ」と思ってしまいます。

「これがだめならもうだめだ」というのは、世界がとても小さく見えてしまっているんですね。あるいは、広い海で泳ぐのが怖くて、岸の小さな筏につかまっているようなものなんでしょうね。

「私たちは、問題が解決するよりも問題のある状態を好む」という話を心理学の先生から聞いたことがあるけれど、それも同じことなんでしょう。この場合では、広い海に浮かぶことが解決なのに、海に浮かぶのが怖いから、岸の小さな筏につかまり続ける。でも実際は、その筏は沈みかかっているのに。

浮かんでいる勇気が欲しいですね。

You had better think for yourself.

2007年03月25日 | reflexion

             チューリップ


大分前の話ですが、あるサイトで「わたしに合う一眼レフカメラってどんなものですか?」という質問をしました。

何人かの人が答えてくれたのですが、最初に返事をくれた人は、具体的な機種名は挙げずに、「あなたの写真は画角は何mmだからそれに合うレンズがいい。写真のファイルにも色々な情報が載っているので、それに合うカメラを探せばいい」という答えでした。

私としては明確に「○○社製の△△」と機種を指定してくれるような答えを求めていたので、そういう返事を書いてくれた答えがとても有り難いと思いました。

でも今そのときのQ&Aを読み返してみると、もちろん具体的なメーカーやレンズの型番を紹介していただいた答えも有り難いのですが、そのように具体例は出さずにカメラ・レンズの選び方を教えてくれた最初の答えも、じつに的確にこちらのニーズに答えてくれていたものだと分かります。

私自身が自分で考えてカメラやレンズを選ぶには、具体的な機種名だけでなく、選ぶ際の基準だけを示してくれて後は自分で選ぶように促してくれる答えというのも実はとても有り難いものだと思います。

私(たち)が人に質問するときは、大抵の場合明確で具体的で分かりやすい答えを望みます。それは、私(たち)が欲しているのは、自分で問題を解決するよりも、相手に具体的な答えを教えてもらうことでこちらが安心したいだけから。要するに、自分がしがみつけるようなガイドラインが欲しいだけなんですね。そのときは、自分自身で考えるという態度は置き去りにしています。

言うは易し行うは難しですが、自分で考えるようになりたいものです。

Fear of having everything you deserve

2007年03月21日 | reflexion

             白い光の差す歩道


心理トレーナーのチャック・スペザーノさんの本を読んでいて印象に残ったことの一つは、

「競争して他人に勝つことはできない」

   や

「勝とうとするとき、意識の奥底では負けることを前提している」

といった彼の言葉でした。


「他人に勝つことはできない」という命題は、ちょっとわたし(たち)をシュンとさせます。その言葉は、いかにわたし(たち)が勝ち負けにこだわって生きているかを思い出させるからです。

「勝つことはできない」という言葉は、そのように意識の底で着々と練っていた策略が無効であると宣告されたようで、悔しさと恥ずかしさでいっぱいにさせられます。

「勝つこと」の反対は「負けること」ですが、「負けること」とは言い換えれば「恥をかくこと」と言ってもいいかもしれません。「勝つことはできない」と言われると、勝とうとして策略を練っていたのにそれが全部無駄だと分かり、つまり負けを宣告されたような感じになり、人前で恥をかかされたような気持ちになります。

ただ、逆に言えば、「人に勝つことはできない」ということは、私たちは「人に負けることもできない」ということを意味しています。

「人に負けることはできない」ともし言われたら、それもまたわたし(たち)は居心地が悪くなります。「決して人に負けることはできない」という命題もまた、わたし(たち)はすぐには受け入れることはできません。

おそらくそれは、つねに人に勝とうとしていたわたし(たち)が、じつは意識の奥底では「自分は負ける」と思い込んでいるからだと思います。「自分は絶対に負ける」と思い込んでいるのに、神様に「人に負けることはできない」なんて言われても、「いやいやわたしは絶対に負けて恥をかきますよ」と言い返したくなる自分がいます。

「人に負けることはできない」ということは、とても素晴らしいことです。それは、いついいかなる時でも、わたしたちのなかには誰にも否定することができない素晴らしいものがあることを教えてくれるからです。でもわたし(たち)は、そういった素晴らしい事実を前にして、「いえいえ」と尻込みする自分がいます。

このことは、素晴らしいものを受け入れることを人はいかに怖がっているかを教えてくれます。

想いは実現する

2007年03月15日 | reflexion

             団地の前に停められた単車


ここ数日頭で悩んでいる状況について振り返ると、じつはその状況は、以前からそういうことが起きると怖いなぁと懸念していたことでした。やっぱり想いは実現してしまうものなんですね。

懸念していたことが何もかも全く思ったとおりに実現してしまったわけではありません。具体的な状況は、怖れていた事態と同じではありません。でも悩んでいる内容自体は、「こういうことで悩みたくないなぁ」というまさにそのことが起きているのです。

想念の現実化するパワーはやっかいですね。それをよい方向に使いたいです。

Humor makes flow and freshness.

2007年03月14日 | reflexion

             落ち葉や雑草に囲まれた石の段
 

心理カウンセラーのチャック・スペザーノさんは、「ユーモア」を癒しの一つとして挙げています。

「ユーモアは涙と同じように、解放や癒しを作り出し、解決できないと思えるような苦境から私たちを助け出します。怖れ、痛み、罪悪感、しがみつきを溶かし、ありそうにないこと、つじつまが合わないことを示します」

「ユーモアは、どんな場合でも私たちを滞らせたままにはしません。むしろ自分で自分を閉じ込めてしまったところから私たちを自由にしてくれ、再び正しい方向へと私たちを進めてくれるのです」

100 Healing Principles

私たちは、笑いながら人を恨んだり失ったものを後悔したりすることはできません。どんなに落ち込んでいても、ユーモアによって笑っている瞬間の私たちは、時間と場所を超越します。時間や他人との比較は、私たちを個別的な存在として意識させます。しかし笑っているときの私たちは、ふだん私たちが「これが私だ」と思っている制約を忘れさせてくれます。

むしろ笑いは人生の真実を見せてくれるように思います。深刻なことや罪悪感はすべてエゴの策略であり、しがみついているものは本当は私たちにとって真実ではないことを教えてくれます。

笑いは私たちが望むような明確なガイドや解答を与えてくれるわけではありません。でも、笑いは私たちに執着しているものを手放させ、もう一度宙に浮かんで泳ぐように促してくれるような感覚があります。

Aufhoeren

2007年03月10日 | reflexion

             枯木の公園


本田健さんは、ある講演会で次のように言っています。

「人は自分のライフワークをしようとすると怖れが出てきます。カウンセリングをしていると、アロマの匂いをかぐのが怖いんです、とか言う人がいるけど、そんなの普通は怖くないでしょ?ということは、その人はアロマに関わることをしたいんです。他にも、幼児教室をするのが怖いとか、人前に出て歌を歌うのが怖いとか言う人がいるけど、そう言うことは、ホントはその人たちはそれがしたいんです。だから、何かをしようとして怖れが出てきたら、その方向に進むのが正しいんです」(本田健&クリストファー・ムーン講演会 「夢を生きる、豊かさを生きる」)。


春からあることをしようと準備していましたが、中止になりました。人と話し合って止めたのですが、怖れが出てきて自分から中止になるように仕向けたといったほうが本当は正確かもしれません。

それは、そのやりたいことがあまりにも素晴らしすぎて、その素晴らしさに怖れをもったのかもしれないし、自分には難しいと思ったのかもしれません。

ともかく中止になったことは事実ですから、早く手放して次のステージに移りたいと思います。

こんなことを言っても読んでいる人は何のことかさっぱり分からないのですが…

今回のことではRumikoさんにいろいろとご相談にのっていただきました。本当にありがとうございました。


迷惑

2007年03月05日 | reflexion

昨日は最悪の一日だった。なんだか周りの人にものすごい大迷惑をかけてしまったandかけるんじゃないだろうかという怖れにとらわれてしまった。

こういう「取り返しがつかないほど周りに迷惑をかける」という想いは、子供のころからよく自分の中で出てくるものです。実際に人に迷惑をかけたこともあります。

想いが先か現実が先かはわかりませんが、何かあるとすぐに「人に迷惑をかけてしまう」という恐怖感で暗い奈落の底に落とされたような感覚になります。

こういう日本の人に典型的な心性なのだろうか。