joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『「死ぬ瞬間」と死後の生』 E. キューブラー・ロス(著)

2006年06月30日 | Book
エリザベス・キューブラー・ロスの講演録を集めた『「死ぬ瞬間」と死後の生』 を読みました。以前読んだ彼女の自伝『人生は廻る輪のように』と内容はかなり重複しています。そもそも、末期患者と深く接して行く中で、ある時期から彼女の考えはかなり固まって、おそらくどこで話すことも内容は同じなのではと思います。彼女にとっては、新しいことを言うよりも、目の前にいる人に関わることが大事なのですから。

この本を読むと、キューブラー・ロスという人や彼女のメッセージの魅力は、現れてくる現実に対してただただ自分に正直になって取り組みなさいというものだということが分かります。

彼女のメッセージには、末期患者に献身的になること、人は臨死体験ですでに死んでいる親しかった人と出会うこと、人は誰でも自分固有の仕事を課されて生まれてきたのであって、その任務を終えると死に向かうことなどが打ち出されます。その過程で、人は、他人に援助を与え他人から受け取ることの大切さを学ぶと言います。

これらのメッセージ自体は、たしかに重要なことかもしれませんが、多くの「スピリチュアル・リーダー」たちが無数の本で言っていることと同じです。

キューブラー・ロスの魅力は、そうした洞察に至った彼女の徹底的な自分への正直さにあると言えます。べつに彼女はグルになりたかったわけでもないし、ベストセラー作家になりたかったわけでもなく、また無理してキリストのようになりたかったわけではないと思います。

彼女も人間ですから、多少の名誉欲はあったかもしれません。しかしだからといって、表面的にきれいごとを並べ立てる講演家ではおそらくなかったのではないかと思います。

ある末期患者の家族の子供を自分の家に呼んだとき、彼女はその子供にコーラとドーナツを差し出したというエピソードがあります。些細なエピソードですが、なぜか僕にはこれが一番印象に残りました。彼女はその話をするときに聴衆に対して、「もしそんな子供たちに、“健康にいい”飲み物なんて差し出したら、子供たちはどんな気持ちになりますか?ただでさえ家族が深刻な状況にある子供たちに“健康にいい”食べ物なんて差し出して、子供たちの心が開くと思いますか?」と言います。

ホントその通りだ。気分的に滅入っている子供たちを助けたいとか言いながら、そんな子供たちに砂糖や化学調味料がロクに入っていない健康オタクの食品なんて差し出したら、子供たちは不気味な館に来てしまったように締め付けられてしまう。

キューブラー・ロスは、無意味に善意をふりかざすこともないし、“いい人”を演じることもない。ただ彼女は、死の間近にある人と対等に接しようとしただけだと言えます。その結果彼女は、人間には自分の死期を予知する直観力が誰にも備わっていること、死までに克服しなければならない課題が誰にもあること、死は悲しむべきことではなく、ただその人が取り組むべきレッスンが終ったに過ぎないこと、闇雲な延命治療はそういう人間にとってもつ生の意味を忘れさせてしまうこと、などを悟っていきます。

すでに直感的に自分の死期を知り、同時に死ぬまでに周りの人にメッセージを残したいと思っている患者がいる場合には、キューブラー・ロスは患者がその任務をやり遂げることができるよう手助けをします。

また、そういう患者の家族が抱える感情的な葛藤にも彼女は目を向け、家族が患者の死を受け入れることができる状況を整えようとします。

彼女にとっては死の近くにいる人は憐れむべき存在でもなんでもなく、死を前にしてやるべき課題が残っているか、あるいはすでにやるべきことを終えて死後の世界へ入っていくかという選択肢がある人に過ぎません。

このように徹底的に患者と対等な立場に立てるというのも、おそらく彼女が生まれながらにもって生まれてきた特異なパーソナリティでしょうし、同時に私たちが学ばなければならないものなのでしょう。



「個人技の南米」という幻想

2006年06月28日 | スポーツ

ジュビロ磐田の名波選手がコラムで、おそらく誰もが漠然と感じていたことを明確に文章にしてくれていて、「そうなんだよなぁ」と思ってしまいました。それは、サッカー先進国の選手のパスワークと日本チームのパスワークとの違い。

足下でボールをもち、1対1で仕掛けてきた相手に対しては、今の日本の選手は簡単には取られない技術を持っています。

例えば2000年のオリンピックで日本はブラジルと対戦しましたが、そのとき僕が感じたのは、「日本は個人技が主体で、ブラジルは組織が優位だな」ということでした。よく「個人技の南米」と一昔前に言われましたが、その場合の個人技とは何なのか、じつは私(たち)はよく分かっていなかったような気がします。

2000年のオリンピックでのブラジルとの試合では、日本の選手は局面局面で1対1では相手の選手をかわしてボールをキープできていました。それだけ見ると、日本の選手の技術はブラジル選手以上でした。

日本の選手の個人技の高さは、日本に来日した元ブラジル代表や他の海外のスター選手も認めるところでした。つまり、一人でボールをもちリフティングしたりフェイントしたりといった技術では、おそらく日本のサッカー選手は十分一流なのではないでしょうか。

しかし、例えば元ブラジル代表のドゥンガは日本の選手に対して「テクニックは上手いけどやたら難しいことをするな」という印象をもったそうです。

そうした日本のサッカー選手に対し、2000年のブラジル戦ではブラジルの選手は1対1の局面になるのを極力避け、つねに数的優位になるようにボールを囲もうとしていました。

また攻撃でも、ブラジルの選手というのは一人で相手DFを突破したりはしません。むしろ彼らはつねに数人でパス交換しながら、絶対ゴールできる状況を作りだそうとします。これは2000年も2006年も変わらないブラジルの傾向だと思います。

名波選手はブラジルの選手たちのパス回しについて次のように述べます。ちょっと長くなりますけど、私にとってはとても参考になる指摘です。

「彼らはただパスを回すのが巧いんではなく、パスした後のサポート、フォロー、これらの絶妙なタイミングを常に考えて動いている。だから、次から次へとオプションが倍増し、パスの出し手はゴール近くになればなるほど多くのカードを持つことができるんだ。人もボールもよく動いている状態の理想の形だと思う。
反対に日本の中盤は、パス回しならば決してブラジルには劣らないはずなのに、パスをした後のサポート、カバーがないためにそれぞれが、来たボールを流していて、結果的には人が動かないでボールを回そうとする。だから、ミスも多く、うまく機能しない。これが両チームの決定的な違いだと思う。」

「ブラジル代表のパスワークは、サポートやカバーが次々に出てくる。パスというのは、そういう動きや気持ちを潤滑油にしてスムーズに流れるもので、前回も指摘したように、自分のパス、というのではそれがどんなに素晴らしいパスでもパスとはいえないんだ。それを受け取る選手、つないでフォローしていく選手がいて始めて「パス」になるんだということを、今日のブラジルの中盤を目の前で見た選手たちは忘れないで欲しい。」

日本には中田や中村や小野以外にも、才能豊かな「パサー」が昔から沢山現れていたそうです。しかしその多くは才能を開花できなかった。評論家でプロのコーチの資格をもつ湯浅健二さんはその原因を、才能があるために、自分のパスや足下の技術に固執して、自分自身が走ることをわすれるからだと述べています(例えばこのコラム)。

以前中田英は、プロに入る前のインタビューで、「サッカーは試合時間の9割以上はボールに触れていないから、その時間にどれだけ効果的な動きをするかが重要だ」と高校生の時点で語っていました。湯浅さんも同様のことを述べています。

「いいパス」をするのは、才能があればそれほど難しいことではないのでしょう。またそれで点が決まれば気持ちいい。

しかしサッカーの試合の90分でそんな決定的な瞬間はわずかです。そんな瞬間をじっと突っ立って待っていても、試合から消えてしまいます。

むしろパスを出したければチームメイトからパスをもらえる位置に自分から走らなければならない。またパスを出しても、すぐに自分からまた動いて次のパスをもらう動きが必要に本来はなります。

「決定的なパス」では、相手DFの裏をかくのは一回きりで、それに失敗すれば終わりです。しかし、自分たちのチームメイトと何度もパスを回しながら前に進むと、相手DFは、「次もパスを出すのか、出すとすれば誰に出すのか、それともシュートを打ってくるのか」といろいろ考えなくてはなりません。このあたりの事情を名波選手は「パスした後のサポート、フォロー、これらの絶妙なタイミングを常に考えて動いている。だから、次から次へとオプションが倍増し、パスの出し手はゴール近くになればなるほど多くのカードを持つことができるんだ」と述べています。

ブラジルの選手は、自分が11人のうちの1人にすぎず、自分と周りとの連携を増やすことで自チームの選択肢を増やしていきます。

それに対して、単に「才能」があるだけの「パサー」は、1本パスを出せばもうプレーを止めてしまうので、相手DFは迷うことはありません。そのパスに対応すればそれで済みます。

ブラジルの選手に個人技があるように見えるのは、彼らは思いもがけないような形で他の選手とパスワークをするから。予測できない動きで連携を行います。その意外な連携を見て、その場の「閃き」でプレーしているように見えます。たしかに「閃き」なのでしょうが、あくまでその「閃き」は他のチームメイトと共有された「閃きであって、まるでテレパシーで意見交換しているみたいなパスワークです。

それに対して日本の選手のパスは、自分の才能を見せるだけの個人的なパスにすぎず、まわりの選手との連動もありません。「世界」との戦いで中田が「キラーパス」をしなくなったのも、それは結局は効果的ではないとどこかの時点で考えたからなのではないかと思います。

ジーコ監督は「日本はフィジカルを鍛えるべき」と言っていて、それはそうかもしれないけど、ジーコ自身が知っているブラジル独特のチームプレーを日本に導入する必要性は感じなかったのだろうか?


涼風

参考:「日本代表における「組織」と「個」の不幸な関係」『ふぉーりん・あとにーの憂鬱』 「組織」と「個」を対立させる日本サッカー関係者の考え方への疑問が出されています。

「次がどこであろうと、ここから去り、次に向かう」 『日本サッカー…』『葉っぱのフレディ』 

2006年06月27日 | Book
スポーツ・ライターの増島みどりさんが、ブラジル戦後にピッチに座り込んだ中田を観察しながら、次のように述べています。

「確かに中田は動けませんでした(ブラジル戦終わりの時間)。しかし、それは「わずか」10分ほどです。彼が全力で走りきったのは、あの90分でも、今大会270分でもない。ユース代表に入った95年から実に11年にも渡たるひとつの時代を駆け抜けたのです。にもかかわらず、それだけ大きな何かにわずか10分ほどでけりをつけて、涙をふいて立ち上がった姿こそ、「戦う」ことだと思いました。次がどこであろうと、ここから去り、次に向かう、そういうことです。サッカーとは、スポーツとはそういう移り変わりに生きるものだ、と彼は悟っているのでしょう。

長かった時代が終わり、しかしすぐに始まっている何かのために前を向くこと。中田選手があの短い時間で、実に偉大で、美しい表現をしたことに私は心打たれました。言葉にできないほどの無念や失望、充実に試合終了から11分でけりをつけ、切り替えてみせたあの姿は、忘れられません。」

「コラム「俺がピッチで倒れたら…」~走り続けた中田英寿」


サッカーの試合は、ピッチにいる個々人にとってのゲームであるのと同時に、そのチームに関わった選手・スタッフと、それを取り巻くサポーター・社会をも巻き込んで行われます。

試合をしているのはピッチ上の選手だけなのですが、そこに至るまでには個々の選手のサッカーを含めた人生があり、また選手同士の葛藤もあると思います。

サッカーはチームスポーツですが、例えば野球よりもずっと中心選手の意向でチームが構成されやすいスポーツです。中心選手が監督に「俺はこの選手とやりたい」「あの選手はいらない」と言えば、それに監督が従う場合もあると聞きます。それは、その中心選手なりに客観的に判断しての場合もあるし、個人的な趣味で中心選手によって排除される選手もいます。

体育会系の部活動をした人はよく知っているように、スポーツ選手の素顔というのはとても意地汚いものです。勝ち負け・上手い下手がダイレクトに現れるスポーツでは、そのチーム内での序列はハッキリし、同じ仲間と言っても中心選手が他のメンバーを虫ケラのように扱ったりすることも珍しくありません。

そこまで低次元のことはなくとも、いずれにしても個々の選手の思い入れとは別に、サッカーという組織スポーツは、個々人のサッカーへの情熱とは別の論理によって動いていきます。それは監督のサッカー観であったり中心選手のサッカー観、あるいはその社会のサッカー観によって左右され、現場の選手はそのサッカー観に引きずられて、ある選手はメンバーに選ばれ、別のメンバーは排除されます。

そこで働いているのは、必ずしも監督や中心選手の趣味ではなく、むしろサッカーの歴史的な発展の論理であり、その論理に沿う沿わないで活躍できる選手とそうではない選手が選別されていきます。

そこでは才能がありながら活躍できない選手がいるなど不条理なことも起きますが、そうしたことも含めて、しかし全体的にはサッカーは客観的な歴史として展開していきます。

「彼が全力で走りきったのは、あの90分でも、今大会270分でもない。ユース代表に入った95年から実に11年にも渡たるひとつの時代を駆け抜けたのです。にもかかわらず、それだけ大きな何かにわずか10分ほどでけりをつけて、涙をふいて立ち上がった姿こそ、「戦う」ことだと思いました。次がどこであろうと、ここから去り、次に向かう、そういうことです。サッカーとは、スポーツとはそういう移り変わりに生きるものだ、と彼は悟っているのでしょう。」

個々人のサッカーへの情熱などお構いなしにサッカーの歴史は進んで行きます。日本代表は10年近く中田に率いられて進歩し、多くの選手が日本代表に情熱を傾けてきましたが、そんな人々の思い入れなど無視するかのようにサッカーの歴史はブルドーザーのように日本のサッカーへの思い入れを踏み潰してサッカーの発展の歴史を歩んでいきます。

たしかに日本のサッカーは進歩しているのでしょうが、そんな局地的な進歩など世界のサッカーの歴史にとっては無であったかのように、ブラジルの選手たちはいかにもブラジルらしい、昔からのブラジルスタイルで日本のサッカーを粉砕していきました。彼らにとっては本番前の練習であるかのように。ブラジルの選手たちにはこれから世界のサッカーの歴史を発展させる役割が始まるかのようであり、日本戦はそのためのウォームアップだったかのようです。

しかし、日本には日本のサッカーの歴史が存在することは否定できません。世界の歴史の発展から見てどれほど小さなものであろうと、日本という辺境の地でもたしかにサッカーの歴史は動いていきます。

また日本がいくら無視しようと、アジアのサッカー小国でもサッカーの歴史は動いています。

日本代表の歴史の中にも、不条理にもその歴史から弾き出された才能ある選手がいたかもしれません。しかしそうした選手たちの思いや、あるいは他のアジアのサッカー選手の思いなど簡単に踏み潰して日本のサッカーの歴史は進んできたし、これからも進んでいきます。そこでは勝者が日本のサッカーの歴史を作ってきたし、作っていきます。

しかし日本国内でのそうした勝者も、世界のサッカーの歴史の発展の前では簡単に踏み潰されていきます。

こうして多くの敗者の屍を大量に残しながら、歴史というブルドーザーは発展という途を進んでいきます。

これはサッカーだけではなく、歴史というものがそのように多くの民の死を作り出しながら、存在し続けるものが発展の証として歴史として構成されていきます。

構造改革でどれほど多くの人が不遇な状況に追い込まれようと、そのような敗者の思いを踏み潰しながら、歴史は進み、残った者が歴史の発展の証人として存在していきます。そのような不条理を多く生み出しながら、歴史は歴史として〈発展〉していくとされます。

そのような歴史の不条理さにもかかわらず、また歴史に生きる人々は「次がどこであろうと、ここから去り、次に向か」っていきます。多くの人の無念さを後に残しながら、それでも歴史は人々を前へと駆り立て、さらに歴史を構成するよう動かしていきます。

歴史という何か巨大な動きは、それ自体が客観的なものとして存在し、人々の生をブルドーザーのように踏み潰していきます。その客観的な歴史の動きの中で、個々人の主観的な歴史は翻弄され続けます。歴史のこうした客観性と主観性との相克の中で、それでもなお歴史は人々に歴史を作るよう強いて行きます。「次がどこであろうと、ここから去り、次に向か」わせるのです。

これを歴史哲学というのなら、この歴史哲学を鮮やかに教えてくれた本の一つが後藤健生さんの『日本サッカーの未来世紀』です。

またサッカーではないですが、人の生と死と、それでも進む歴史との葛藤を同じように描いているのが、『葉っぱのフレディ―いのちの旅』です。

この二冊は、とても似たもののように私には感じられるのです。


涼風

アンソニー・ロビンズのメッセージ 1-21

2006年06月25日 | 見たこと感じたこと


アンソニー・ロビンズの言葉をあるサイトで見つけて面白かったので、これまでいくつか紹介してみました。出典は(「夢湧子の一言コラム」 『大空夢湧子のビジョン心理学』)です。

ネット上で見つけた彼のメッセージを一度に全部コピペして紹介するという方法もありましたが、それではコピペした自分がその言葉をすぐに忘れるだろうと思って、一日一つ紹介してみました。

ロビンズのメッセージについて、紹介しなかったものも含めて全部を以下にご紹介します。


1.人には相手が期待している以上のものを与えること。それも機嫌よく。

2.あなたの良い話し相手と結婚すること。年をとってくると、相手の会話の能力は他の能力と同じぐらい大切になる。

3.聞いたことを全て信じてはいけない。持っているものをすべて使ったり、眠りたいだけ眠ったりしないように。

4.「愛してます」と言う時は、本気で言うこと。

5.「ごめんなさい」と言う時は、相手の目を見て言うこと。

6.結婚する前に、少なくとも6ヶ月は婚約期間をもつこと。 

7.ひと目惚れを信じること

8.人の夢を笑ってはいけない。夢のない人は、他にあまり持っていない。

9.深く情熱的に愛すること。傷つくかもしれないけれど、人生を完全に生き切る方法はそれしかない。 

10.意見が合わない時には、フェアに戦うこと。相手を罵倒しないこと。

11.その人の親戚によって本人を判断しないこと。

12.ゆっくり話し、素早く考えよ。

13.あなたが誰かに答えたくない質問をされた時には、微笑みながら「なぜ知りたいんですか?」と聞いてみよう。

14.偉大な愛や偉大な達成には、大きなリスクも伴うことを覚えていよう。

15.だれかがくしゃみをした時には、「ブレスユー」と言おう。

16.あなたが負けた時にも、そこからの学びまで失うことのないように。

17.3つのRを覚えていよう。自分への尊敬(Respect),他者への尊敬
(Respect)、あなたのすべての行動への責任(Responsibility)。

18.小さな言い争いによって素晴らしい友情を台無しにすることのないように。

19.自分がミスをしたと気づいたら、即座にミスを訂正するための措置をとること。

20.電話に出るときには微笑むこと。話し手は、あなたの声で違いがわかる。

21.ひとりの時間を作ること。


何か感じるものはあったでしょうか?

紹介した言葉はその日一日の間なんとなく頭に残っていたのが不思議で私自身が面白かったです。読んでくださった方の参考になっているのか分からないのですが、私自身にとって面白かったし、別の人のメッセージで面白いものも見つけたので、また近いうちに紹介したいと思います。



涼風

日本1-4ブラジル

2006年06月23日 | 日記


今大会ではアルゼンチンの成熟度が話題になっていますが、今日の日本戦でブラジルは独特のコンビネーションを取り戻したと言えるでしょう。昨日の読売新聞で元ヴェルディ監督の李さんが「ブラジルの選手はつねに選択肢を三つ・四つもちながら、それを他の選手とコンビネーションさせる。しかし日本は一つの選択肢をもつのでアップアップだ」と言っていましたが、今日のブラジルはまさに各人が閃きでとっさの判断をしながら、にもかかわらず選手間で共通の意思を瞬時にテレパシーで打ち合わせたかのようなプレーを披露しました。これがブラジルなのでしょう。次のメキシコ戦でも今日の後半のようなプレーができれば、ブラジルはアルゼンチンと互角に闘えるチームになるのでしょう。

日本の一点目の失点は、まるで2002年大会のトルコ戦の失点のように、一瞬エアポケットに入ってディフェンスがボールウォッチャーになり、ロナウドをフリーにしました。この失点には論理的な理由があるのか、それとも日本の人に独特の集中力の欠如なのか、専門家の意見を聞きたいところです。

後半は日本の選手の終盤の足が止まってしまいましたが、それでも後ろまで下がってボールをもらい必死で組み立てをしようとした中田英寿が印象的でした。本調子ではない中村に対し、中田はいついかなる時でも精神力と体力を持続させて体を動かし、かつ論理的・効果的な動きを続けます。

昨日僕は中田の“キラーパス”が嫌いだったと書きましたが、彼が“キラーパス”をしていたのはフランス大会の予選までで、本大会ではむしろつなぎのパスを多用していました。

イタリアに渡って以降はますます崩しのパスは消え、シドニーオリンピック代表と合流した頃からは、すっかりチームリーダーとしてまわりとのバランスを考えるプレーに徹するようになりました。

元々“キラーパス”も中田なりの論理性から導かれたパスだったのでしょうが、一度回りの選手との連携も考えるようになると、“キラーパス”以上に全体最適化のプレーをするように彼の中ではスイッチを切り替えるようになったのでしょう。

中田が本当にチームリーダーとして日本代表の顔となったのは、シドニーオリンピック予選の頃からだったような印象があります。

ただ、中盤での地道なつなぎのパスや、少し後ろ目から攻撃の起点・連携の起点となるボール回しをするようになってからは、素人の僕には中田の良さというのはわかりにくくになりました。テレビのカメラはどうしてもボールホルダーを中心とした画面になるし、その画面では後ろでのパス回しの起点や忠実な守備を理解するのは難しいと思うのです。

しかし、それでも今日のブラジル戦などは、明らかに周りが足が止まっている中で、それでも懸命かつ論理的・効果的なボール回しのために走る中田英は目立っていました。いついつかなる時でも気持ちを切らさない彼のサッカーへの情熱がそこにはあるように感じました。


涼風

予選リーグ3巡目はお休みモード

2006年06月20日 | スポーツ


W杯の予選リーグも3巡目に入り、決勝Tをかけた闘いもあれば消化試合モードの試合もありとなっています。私はワールドカップが始まってから一日一試合ほど見て来たのですが、慣れないサッカー観戦にやや疲れてきました。これを一年中続けるサッカージャーナリストの人たちはすごいですね。ていうか彼らはこれをスタジアムでして、ワールドカップの場合はさらにテレビ観戦もしなくちゃならないわけですから、いくら好きでやっているとはいえ、集中力を維持するのは大変だと思います。

3巡目は同じリーグの試合は同時刻で行われるはずですから、試合開始時間も遅くなると思います。そうなると遅くに始まる場合は夜中になって見るのもつらいので、毎日見るというわけにはいかないし、消化試合モードの試合を見るのも、よほどサッカー専門家モードにスイッチを入れないと集中して見れないので、パスしたくなります。

3巡目は私はお休みモードに入って、決勝トーナメントまで気力を準備したいと思います。

そういえば日本の試合の開始時刻とテレビとの関係が報道されていましたが、まぁたしかにそれは問題だとは思います。純粋にいいサッカーの試合を見ることができないという点で。

選手や監督は4年間をこの機会のために準備してきたわけですから、それをテレビの都合でやろうとするサッカーができないというのは、かわいそうですね。この場合、相手も同じ条件だというのは関係ないですね。問題は勝ち負けというよりサッカーの質・発展に関わることですから。納得いく条件で闘わせてあげたいところです。

ただこの時期にドイツで30度近く上がるというのも異常気象の部類に入るんじゃないでしょうか。あちらは一般の家屋にはクーラーがないほど、日本と違って気温は上がらないし、上がっても湿度は低く、汗もかきません。組織委員会もこんな暑さは予想できなかったんじゃないでしょうか。

ただ予想できたとしても時間がビジネスに左右されずに決められたかは疑問です。

昔のワールドカップのビデオを見ると、試合は大抵日中に行われていますね。今年のドイツの暑さは温暖化が影響しているんでしょうか。

暑さでサッカーが台無しになった大会としては94年のアメリカ大会が有名ですが、これもテレビに合わせたためでした。

日本戦は、あと2時間ぐらい遅らしてもよかったですよね。そもそも日本人全員がサッカーに興味をもっているわけではないし、好きな人だけが見ればいいのだから。

涼風

『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 ポール・R・シーリィ (著)

2006年06月20日 | Book
僕は少し難しい本を読むと一回で理解することはあまりありません。一回目はほとんど理解していないこともある。しかしなぜか、全然理解していないのに、ページを読み進め日本語を頭の中で読んでいきます。

そして二回目に読むと、その本が意外と理解できていくことがあります。一回目のときは全然理解していなかったのに、二回目に読むと自然に文章からイメージができてきます。スピードはゆっくりなのですが、一文字一文字が頭に入ってくる感じです。

一回目には理解できていないのに、二回目には理解できるというのは「不思議」です。だって一回目には分かっていないのだし、それから二回目を読むまでにべつに何か資料を調べたりもしていない。つまり一回目も二回目も読む条件は同じはず。なのに一回目には分からなかったことが二回目には分かっていることがあります。

なぜそうなのかを推測すると、頭の中に「不思議」な能力があると仮定せざるをえません。つまり、一回目に読んでいるときに、頭の表面的な部分では「理解できない、理解できない」と苦痛に感じているのですが、意識のその表面的な苦痛の裏で、頭は、あるいは今流行の「脳」という言葉を使えば、脳は私の知らないところで文章を読んでいることになります。脳は理解しているのですが、その理解を私の意識まで届けることができていない。

しかし二回目を読むと、脳は自分の理解したものを、どうすれば私の意識まで届けることができるかについてコツをつかむようになるのです。

一回目に読んでいるときに、意識上は理解していないのに、脳は勝手にすでに文章を理解しているという考えは私をわくわくさせます。私たちの脳は自分の目にしたものからすでに多くの情報を勝手に受け取っているのですから。

『あなたもいままでの10倍速く本が読める』は、おそらくそういう頭の働きを積極的に活用しようとしている本です。

私はこの本が提唱している“フォト・リーディング”のテクニックをマスターしていないから、言わんとすることを全部わかっていないと思うけれど、わかっている部分もあると思う。

著者が言うには、本は隅から隅まで“読む”のは非効率であり、眼に文字を写し取ってイメージ化していくものだということ。一ページに一秒ほどかけてページの文字を“見て”、眼にページを“写し取り”、それで全頁をめくっていく。

この時点で私たちの脳は本の内容をすべて理解している。しかし脳はそれだけでは自分の理解したものを上手く私たちの意識に届けることができない。

そこで脳が仕入れた情報を引き出すために、私たちは自分の問いを明確にする必要がある。つまり、その本から自分は何を知りたいのかということです。その問いを明確にして、また本をめくっていき、“インスピレーション”で「ここ」と思う部分の文章・段落に眼を通して行く。

よく本屋で何気なく手に取った本でぱっと開いたページにはっとさせられるような文章に出会うことがあります。これは面白いと思って買って家に帰って読みます。たしかに買って読むとその本は面白いのですが、もっとも有益だった情報は、その本屋で手にとってパッと開いたときに飛び込んできた「ここ」の文章だったりします。

結局インスピレーションは無駄なプロセスを省きいきなり核心を突く文章を私に教えてくれているのです。

フォトリーディングはこのインスピレーションを信頼する本の理解の方法です。一文字一文字読むのではなく、自分は自分にとって重要な情報を引き出せることを信頼して、頁をめくり眼に留まっていく文章から内容を理解していきます。

僕自身はむしろ一文字一文字文章を読むことの快感をなかなか手放せないので、この著者の態度だけが正しいとは思いにくいのですが、それでも興味深い本ではあります。


参考:「フォトリーディング・セミナーに行ってきました その1」 『日々の生活から起きていることを観察しよう!! by ムギ』

オーストラリア0-2ブラジル 予選2巡目

2006年06月19日 | スポーツ

テレビの画面を見ていると、オーストラリアの守備陣がいかに統率されてブラジルの選手に効果的にチェックに行っていったかがわかります。黒いユニフォームはまるでラグビーを思い出せますが、まさにそれらしく激しいチェックでことごとくブラジルの攻撃の芽を摘んでいたのが印象的でした。

この日の豪州は日本戦よりもよかったんじゃないでしょうか。イングランドと引き分けようと引いて守ったパラグアイやトリニタード・トバコと違い、たとえ自陣で相手にボールを持たせるとしても、選手全員が各人の役割をきっちり守ってブラジル選手を押さえ込み、チャンスのときには果敢に攻めます。ボール支配率はブラジルが上だったんでしょうが、自らのプランをきっちりこなしていた点ではオーストラリアの方が上でした。互角の勝負だったと言うのは言いすぎでしょうか。ともかくオーストラリアは意図を持ってゲームに挑みそれを実行するという点でクレヴァーなチームです。

次のオーストラリアとクロアチアの勝負は実力が拮抗する見応えのあるものになるでしょう。

涼風

日本0-0クロアチア

2006年06月19日 | スポーツ

中田ヒデも終了後に語っていましたが、やはりカウンターの文化というものを東欧あるいはサッカー伝統国はもっているなぁと思わされました。日本はただ単調に足下にボールを同じペースで回して崩そうとするだけなのですが、相手は引いて守る時間・アタックをしかける時間をチーム全体が把握してプレーにメリハリをつけています。

NHKラジオの解説の小島さん(元代表GK)が言っていましたが、相手は意図的に攻撃する時間帯と守る時間帯を決めて、守る時間帯でもカウンターのチャンスを窺っています。つまり守備もつねに攻撃を前提とした守備なのです。たとえ自陣に多く引いていたとしても、それによって相手を誘い出してスペースを作って攻撃する準備のための守備です。当たり前のようですが、そうしたことを意図的にできないのが日本のサッカーの段階なのでしょうか。

高校サッカーではとりあえず前線に放り込んで才能のあるアタッカーに点を入れさせるだけの強豪高が見られますが、それは伝統国では“カウンター”とは呼ばないのでしょう。ロングボールを使うサッカーとカウンターサッカーとはきっと違うのです。

相手に意図的にボールを持たせ、それもその時間帯を長く作り出すという、見た目には消極的でも知的にはゲーム全体をコントロールするサッカーというものが日本には足りないのかもしれません。

まぁ、日本代表に選ばれる選手たちは誰よりもサッカーのことがわかっている人たちだろうから、そんなことは言われなくてもわかることで、それが簡単にはできないから苦労するのだろうけど。

次はブラジルですが、まずブラジルにはオーストラリアに大量点で勝利して欲しいところです。その上で予選突破の途が開けてきますが、いくら予選でも、またブラジルが予選突破を決めていても“勝利”はおろか引き分けをプレゼントしてくれることも、当たり前だけど、ないでしょう。

ヨーロッパのリーグでは意図的にお互いが“手打ち”をして引き分けて勝ち点1を取ろうとする慣習があるそうですが、南米にはそんな“政治外交的”な文化はサッカーにはなく、ブラジルから来た選手が、引き分けで終わらそうと両チームの選手が“画策”しているのに、空気を読まずに点を入れてしまった“事件”もあったそうです。

いくら予選でもブラジルはサッカーでの“敗北”は受け入れないでしょうし、ましてジャポネーゼに負けるわけにはいかないでしょう。日本は“奇跡”をおこす必要があります。次の試合は夜の、というより朝の4時からですががんばって応援したいところです。

涼風

『視線のエロス』

2006年06月18日 | 映画・ドラマ
一週間ほど前に関西では深夜に『視線のエロス』というフランス映画をやっていました。なんとなく観てしまった。

内容は妻子もちの中年男が遊びで若い女をセックスに誘い、そのまま不倫の深みにはまっていくというもの。

とても他愛ない内容ですが、この映画の軸はストーリーではなくカメラがすべて男の視線で真正面から若い女性の顔を捉えていること。取り立てて斬新なアイデアにも思えませんが、そういうカメラの映画が少ないのも事実で、それなりに飽きません。

女性を真正面から捉えるショットが続くわけですから映るのはずっとヒロインです。このヒロインに惹かれるかどうかでこの映画が好きになるかどうかが分かれるんじゃないでしょうか。女優はイザベル・カレという人。知性と清楚さと悪戯っぽさと真面目さを微妙にブレンドした細身の美人で、僕は結構好きになりました。

この映画の前半は、要するにこの女性とセックスがしたいという中年男の願望をずっと描いています。相手の若い女性は中年男に惹かれつつも不倫の関係に入ることに躊躇します。

地位とお金のある妻子もち男性が露骨に「ただ若くてきれいな女とセックスしたいんだ」という欲望を言葉に表していきます。にもかかわらず女は表面上は拒みつつも男に惹かれて行きます。

不倫の始まりの多くはこういうものかもしれません。結婚しているけれど、人生にアクセントが欲しくて、男の人生の最高の喜びだと思っている「若い女性との恋愛とセックス」を自分だってしたいと思う。まるで「おもちゃが欲しい」と駄々をこねる欲望のように。

ただ、結婚している男というのは単に若い女の体を欲しいわけではなく(そうであれば風俗に行けばいいのですから)、“性愛”というものが欲しいのだと思います。たしかにセックスをしたいのですが、恋愛の表現としてのセックスとセックスの表現としての恋愛を欲しているのだと思います。

「結婚しているからといってどうして恋愛をしちゃいけないんだ?!?!?!」と既婚男性が言うのを聞いたことがありますが、それは結婚で失った人生の希望が恋愛でもう一度甦ると思えてしまうのでしょう。

映画はこうした男の欲求がかなえられていくうちに、最初は背徳の香りをもちながらみずみずしい感覚をもたらしてくれたセックスと恋愛が、“不倫”として感情の泥沼にはまって行く過程を描いています。

人生に彩を添えると思っていたセックスと恋愛だったのに、所詮はお互いの欲求を満たそうと互いが子供のようにおもちゃを奪い合う“闘争”へと変貌し、二人は精神的に疲弊していきます。

終盤はそれでもフランス映画らしくなのか自己陶酔的な男のモノローグで不倫の泥沼の現実がぼやかされ、若い女性は男との関係から脱します。

題材もありふれていて、見ていて恋愛や人生について何か新しい発見を与えてくれる映画ではないと思います。

ただ、個人的にはヒロインが魅力的だったので飽きずに最後まで見ることができました。


涼風