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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『企業の人間的側面』 ダグラス・マクレガー(著) 2

2006年11月10日 | Book

「『企業の人間的側面』 ダグラス・マクレガー(著)1」 からの続き)


《知識》の利用の仕方

X理論のように規則と監視によって従業員をチェックするという「組織」の特徴をプリミティブな形で分かりやすく提示したのがマックス・ヴェーバーですが、ヴェーバーはそのような組織における管理にとって鍵となるのが、専門官僚層のもつ「知識」だと述べました。後にアンソニー・ギデンズは、同じことを、「情報の収集」と述べました。どちらも同じことをイメージしているのだと思います。

マクレガーは、ヴェーバーやギデンズが国家官僚制を扱ったのとは異なり、私的経営企業を扱っているわけですが、「今日の企業におけるスタッフの地位の高さ」というトピックを取り上げ、前二者と同様に専門知識を持つ「官僚」の権力について述べています。

すなわち、「現代の企業」では現場で働く「ライン」の従業員と本社の中枢で働く「スタッフ」の二つがあるのですが、「スタッフ」は「科学的知識」をもち、それらの理論・知識・情報を用いてX理論的な考え方で「ライン」の従業員を命令・統制する傾向があるということです。当然マクレガーは、このような「スタッフ」の動きは社員の士気を低下させると指摘します。

「スタッフ」は専門知識を備えたいわばコンサルタントなのですが、X理論にもとづいて行動する限り、彼らの理論・知識は現場の実態から遊離した機械的な“コントロール”にしかなりえません。

それに対してマクレガーは、専門知識を持つ「スタッフ」のあるべき行動の仕方として次のように述べます。専門的援助を提供することは、その専門性のゆえに、教える側=スタッフが教えられる側に対して心理的に絶対的優位に立ちやすいという傾向があります。

しかしにもかかわらず、というよりだからこそと言うべきかもしれませんが、マクレガーは、専門知識による助言に関しては、どのような助言・援助を受けるのかを決めるのは教えられる側であり、教える側の専門家ではないということです。

専門知識をもつ者は自分の判断が最高であると考えやすいのですが(これは企業内だけでなく社会一般にも言えるでしょうか?)、それゆえに自分たちが不適切な措置をとっているときにも、そのことに気づきません。また、自分たちのコンサルティングで事態が上手く行かない時は、「「援助」の受け手が反抗的で、愚かで、会社の要請に無関心である」などと言う傾向があります(これも社会一般で見られる傾向でしょうか?)。それに対しマクレガーは次のように言います。

「援助を与える場合にも、他の統制をしたり影響を及ぼすような場合と同様、自然法則に従って事情に会ったものを選ぶことが肝要である。この場合の「自然法則」の一つの重要な特徴は、援助を決めるのは受け手であるということである」(191頁)。

例えば、何か現場で問題が起きて、現場の人間がその解決に行動を起こしているが、スタッフの専門知識・科学的知識の照らして明らかに現場の従業員・管理者が間違った判断をしている場合、スタッフはどう対応すべきか?その現場の人間の言いなりになれば、そのスタッフは自分の仕事=専門知識の活用という責任を果たしていない。しかし現場の人間の求めることに無神経であるならば、それも専門知識を“生かす”ことにはならない。

マクレガーは、そのような場合でスタッフにとって大切なのは、現場の従業員・管理者が行動を起こしていること自体には賛成すること。しかしその行動内容が現場で起こっている問題の解決にとって本当に役に立つのかどうかは分からないので、一緒にもう一度解決方法を考えましょうという態度を取ることだと述べます(195頁)。

何が問題であり、最終的に目指すべき事態が何であるかを決めるのは現場の人間です。そこで援助者ができることは、その最終的な目標に至る道を決める際に、もっとも現場にとって利益となる道は何かを教えることにあります。あるいは、援助者の手助けにより、現場の人間が本当に問題となっているのは何か?など問題の診断を自分でできるようになることが、援助者の存在意義だと言えます。マクレガーは次のように述べます。

「会社の目標を達成する決定は、①技術的にも科学的にも健全なものでなければならないし、②従業員によって実行されるものでなければならないということである。もしこの要件の②を見失うならば、あるいはわれわれが素朴に技術的に健全な決定であればなんでも、従業員に実行させうるのだと考えるならば、会社の能率を増すどころか低下させてしまうという、本当の危険を冒すことになる」(199頁)。


“チーム”



今まで見てきたように、マクレガーがこの本の中で一貫して扱っているのは、企業における“人間関係”の重要性であり、従業員相互の心理的関係です。マニュアル・理論による制度設計は企業にとって一次的な問題ではなく、むしろ人間相互の心理的葛藤とその解消こそが、企業が存続・発展するための最大の課題ということです(それですべてが解決するわけではなくとも)。

この葛藤の解消のための鍵が、従業員の自発性の発展であり、もう一つは従業員と組織の目標の統一です。

マクレガーは当時の集団心理の研究を援用し、上手く行っているor行っていない“グループ”のなかで働いているメカニズムを簡潔に説明しています(○上手く行っているグループの、●は上手くっていないグループの特徴)。


 
 雰囲気

○ 雰囲気が肩が凝らずゆっくりしている。緊張なしに従業員はその環境に溶け込み、グループの動きに関心をもっている。

● 雰囲気は無関心および退屈。耳打ちや私語または緊張があり、敵意と反感が底流にあり、ぎこちなく不自然なよそよそしさがある。成員は仕事に打ち込まない。


 議論している際の光景 

○ 議論にはすべての成員が参加し、本筋の議論しかせず、脇道に逸れない。
  グループの目標を決めるとき、成員同士自由に議論するが、決まったらこれに献身する。成員は目標を理解し納得している。
  成員はお互いに相手の言うことを傾聴する。成員は自分が馬鹿にされているのではないかと心配することがない。
  意見の不一致の際には相手の考えを封じ込めようとはしない。その理由を慎重に検討し、異議を唱えた者を威圧しないで理由を解明しようとする。反対意見が存在することを許容し、反対意見が存在してもグループの活動が継続することを成員は信じている。
  

● 少数の人間が議論を牛耳る。議論が本筋から逸れても誰も軌道修正しない。
  お互いが相手の意見を聴かず、議論は飛躍し、他人の印象をよくしようとするための大向こうを狙った意見が飛び交う。一人ひとりは内心で他人に馬鹿にされることを怖れている。

 メンバー間の心理的関係

○ 批判は建設的なもので、集団が直面している障害を取り除くためのものである。個人攻撃などはない。
  各人は自分の感じていることやアイデアを遠慮せずに表明する。そのため他人が何を考えているか誰もがよく分かっている。 

● 批判には個人的な敵意が含まれる。一人が出すアイデアが「たたかれ」てぶち壊しにされる。
  個人的な感情を公けに発散させないで、内に秘める。個人感情なんぞは、討論に相応しくないものであり、もし会合に持ち出せば、すぐにも爆発してしまうというのが、集団の全般的な空気である。


 決定の特徴

○ 「投票」による多数決は極力行なわない。決定は満場一致によるが、すべての人間は基本的に同意見であり、自発的に協力しようとする。
  グループの長がすべてを決めることはない。異なったメンバーが、それぞれの知識や経験によって、場合に応じてリーダーシップを取る。

● 不一致がある場合、「投票」によって反対意見を封殺して、不満を持つ者を一部に残す(この指摘は、現代の「民主主義」が決して理想的ではないことを示しています NAKANISHI)。あるいはあつかましい成員が自分考えを押し通す「少数の暴力」が存在する。
  多数決による決定で少数派が納得すると考える。
  形式上のグループの長の権限がすべてを決める。


 決定後の成員の活動

○ 措置を取るときは、はっきり分担が決まり、また成員はそれを納得する。

● 成員それぞれが秘密の個人的な目標を持ち、それはグループの仕事に抵触する。
  各成員が互いに誰が何をするか分かっていない。
    
 
 グループ運営それ自体への反省の程度

○ その集団は集団自体の運営について自分で気をつけている。集団は立ち止まって、どのくらい上手く行っているか、また何がその運営の邪魔になっているかを検討することが多い。

● 集団は自身たちのグループの現状についての議論を避ける。 

(270-278頁)


面白いのは、マクレガーは、集団が上記のような特徴を見せて上手く行くかどうかは、リーダーに左右されるものではないと言っていることです。むしろ重要なのは、「メンバーが手馴れたしかも思いやりのある行動をすることが、グループを上手く運営する本当の鍵である」と述べられています。

マクレガーは、集団における“リーダー”に関して、それは特別な人柄を備えていなければなれないものではなく、教育次第で誰もが務まるものであると考えます。むしろ、カリスマ的なリーダーシップに組織が頼ることに危険性がよりあります。

普通、(当時 今でもか?)リーダーとして求められる適性として、計画し行動を起こす能力、問題を解決する能力、広く人々と意見を交換し、それをうまく活用する能力、責任を引き受ける能力、人間関係を扱う能力などが挙げられます。しかしマクレガーによれば、そうした能力は生まれつき特別な資質をもっていたから修得できるという類のものではないということです(212頁)。

“リーダー”というものは、なにか「こうあるべき」と普遍的に定義できる特徴をもったものではありません。むしろ時代や状況に応じて組織に求められる課題は異なり、それゆえ求められるリーダー像も異なってきます。

マクレガーが生きた1950年代は戦後のアメリカで、資本主義が本格的に成熟期へと入っていく時期ですが、そのような自由経済社会が本格的になる時代には、消費動向など時代の変動が激しくなり、軍隊とは異なり対応する課題は未知数なものとなります。それゆえ求められるリーダー像も普遍的に定義することは困難になっていったのだと思います。

それゆえリーダーを育てる際にも必要なのは、これもY理論と同じで、各人が「自分自身の方法で」、自分自身の特殊な環境に十分気をつけて、その場に応じた必要な条件を作り出させるようにすることです。

このことは、リーダーシップも、各人の特性に合わせていろいろな形のリーダーシップが存在するということであり、特定の型でリーダーシップの要件を定式化することは不可能だという結論になります。

むしろ変化が激しい時代には、各人それぞれが自分に合ったリーダーシップを発揮するような環境を作ることが大事なります。

上記の「上手く行っているグループ」の特徴でも、グループの運営で重要なのは形式上の一人の議長がすべての決定を下すのではなく、各人の得意分野でそれぞれがリーダーシップを握ることになります。

それゆえ状況や課題に応じて、誰が実質的なリーダーシップを取るかも異なります。

また上の「上手く行っているor上手く行っていないグループ」の特徴でも取り上げられているように、グループ運営においては、単に仕事の内容について話すのみならず、各人がグループ運営それ自体についてどう思っているかを反省するきっかけが重要になります。

それが公式の会議で為されるか、あるいは雑談で為されるかはケースバイケースでしょうか、議論の進め方の手続き上の問題や、各成員間の個人的感情の問題、グループそれ自体への不満など、各人が本当のところどう思っているかについて、わだかまりがある場合には、グループは円滑に運営されません。

だからと言って「胸のうちをすべてさらけ出す」ということを無理やりやらせるこ
とは感情的な反発を招くだけですし、実際暴力的であるけれど、同時に、各人が「これではグループにコミットできない」と感じるときは、それをみんなに言う勇気が求められる場合もあるでしょう。



これらのマクレガーの議論は多くの経営学者に知られているでしょうし、また多くのビジネスマンにも知られているところなのでしょう。

ただ私は、このマクレガーの考えを凌駕する議論が、この本が出た1950年以降に出されたのかというと、彼の基本的な考えを反駁するものは出ていないのではないかと予想しています。

おそらくマクレガーの議論が理想主義的で道徳的であるのに対し、「現実はこうだから」と実利的でテクニックを強調する、あるいは従業員を規則と報酬で管理するX理論に後退する場合が多いのではないかと思います。

もしそうだとしたら、それはマクレガーの言うY理論、個人の自己実現、従業員と組織の目標の統一といったテーゼが、マニュアルによって達成できるものではないことにあるように思います。

人は「こうすればこうなります」という理論に頼るのですが、それは不確実な世界の中で明示的に処方箋を出されるほうが安心するからです。それゆえ規則と監視による管理は、人間が他人への恐怖感を持つ限りはなくなりません。

マクレガーの議論は、マニュアルによって達成できるものではなく、むしろグループが上手く行ったときに事後的に検証可能な状態のようにも思います。

ただ、じゃあY理論について議論することは無意味なのかというと、もちろんそんなことはなく、自分たちがX理論について傾きY理論から離れているときに、自分たちの方向性を疑ったほうがよいシグナルを確認するために、マクレガーの議論はとても参考になるのではないかと思います。





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