joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『リクルートのDNA―起業家精神とは何か』 江副浩正(著)

2007年08月31日 | Book
江副浩正さんが書かれた『リクルートのDNA―起業家精神とは何か』を読みました。江副さんがリクルートを起業してから、事業が発展するまでの経緯を簡単に綴ったものです。それに、江副さんが実際に知り合った他の経営者の方々の紹介も添えられています。

これだけを読むと、あまりにも淡々とリクルートが発展したように見えて、江副さんは大きな困難に当たることもなく会社を発展させてきたように見えます。もちろん会社に訪れた危機も述べられているのですが、あまりにも淡々と触れられているので、読む側はスリルを感じません。しかしそれは、江副さんが一つ一つの問題に一喜一憂せず、苦しんで汗をかきながらも、それら問題に取り組んできたからそう見えるだけなのだと思います。

リクルートの発展を綴ったものなので、リクルートという会社のダークな側面は述べられていません。これだけを読むとリクルートはあまりにも理想的な会社で、そこで働く社員は幸せに満ちているように思えます。

この本を読んだ人の多くが感じることなのでしょうが、経営者・起業家というのは、やはり頭でっかちの人間には向いていない仕事なのだなと思います。

江副さんという人は、とにかく目の前の問題に集中して取り組める人で、物事に過剰な意味づけをせず、物事の持つ意味をシンプルに考えることができるのです。それだけに、物事を論理的にかつ実践的に分析することができます。

この「シンプルに考える」ということに向いている人が、ビジネスの分野ではとくに求められるのでしょう。

ただ、私には忘れてはいけないことと思われるのは、そのように「シンプルに考える」思考というものは、人間の唯一の思考パターンではないし、それが一番正しい考え方でもないということです(もちろん江副さんがそう言っているのではありません)。

人間は自分が住んでいる世界の考え方が唯一の考え方だと思い込みがちです。ビジネスの世界にいると、シンプルで実践的で素早い考え方だけが唯一だと思います。反対に専門家の世界にいると、その専門の世界のジャーゴンでしか考えられなくなります。

ところで、この本で江副さんは、リクルートは「情報産業」の発展を担ってきたと言っているけれど、リクルートが行ってきた、住宅情報・求人情報、あるいは今行っている結婚情報・出版情報って、「情報産業」なのだろうか?

それら前面に出てきているリクルートの事業というのは、要するに「広告」です。でも、「広告」って情報という言葉と同じなのだろうか?

リクルートはどこまで主体的に“情報”を作り出していると言えるだろう?

リクルートのしていることは、今さら言っても当たり前だと思われるだけですが、“編集”です。つまり、リクルートは“創作”をしているわけではありません。“編集”というのは、創作者たちの情報の流通を促進する役目を担っています。

だからこそ、リクルートは「情報産業」と言えるのですね。情報を作りだすのではなく、情報を整理して発信する役目です。それが情報を作り出す人たちの意欲を高め、また情報への需要を掘り起こしていきます。

その点では、やはり「産業」に携わるということは、江副さんのようにシンプルに考えることが求められます。彼らの役目は、情報を整理して商品化して流通させることにあるのであって、情報を作りだすわけではないからです。

新しい情報は、現実の動きから一歩はなれて立ち止まって物事について考えることから生じますが、それを流通させることは、モノであろうと情報であろうと、どこまでも現実の動きについていかなければならないからです。

江副さんはたしかに新しい産業を発展させた人ですが、おそらく江副さん自身が一番自覚されているように、していること自体は、旧産業にも新産業に共通する「経営者」の行動です。

「頭が…」

2007年08月29日 | 日記
百歩譲って、勉強を学ばせるために子供はみな学校に行かせなければならない、と考えたとします。

でもね、小学校から高校に至るまで、文部省が決めた今の日本の学校のカリキュラムって、もう少しなんとかならないのか?と思ってしまいます。

あらゆる分野にわたって網羅的に知識を詰め込んでおくべきという考えが、このカリキュラムにはあります。

それは、一種恐怖に根ざした動機によって作られたカリキュラムかもしれません。満遍なくいろんなことを教えておかないと、あとで教育者が責任を問われるかもしれない、という恐怖。

たとえば日本語の文法。今の日本語の文法教育を学んでも、それで日本語が上手くなる人なんていないと思う。様々な品詞の機能を分類して、それぞれの特徴を教え込もうとしても、それを完璧に覚えることができる子なんて、全体の一割もいないんじゃないだろうか。

その一割の子にしても、それが自分の使う日本語に役に立つなんて子はいないでしょう。

歴史にしても、あんな瑣末な知識ばかり覚えさせてどうするんだ?知識が歴史を見る上で前提になるのは分かるが、無味乾燥な事実の羅列を覚えさせても、それで歴史に興味が湧く子なんていないと思う。

そういう知識を暗記する能力がつまらないと言っているんじゃない。そういう問題を前にして、ゲーム感覚で覚えていけることは、その子の情報処理能力の高さを示している。

でもね。世の中には、「なんでそんなことを学ぶのか?」という動機の部分で自分の中で腑に落ちないと動けない人もいるのです。というより、そういう人が多いのです。

しかし学校教育では、「なんでそんなことを学ぶのか?」ということを考えずにとりあえず目の前に出された問題に取り組める子が「頭のいい子」とされ、「なんでそんなことを学ぶのか?」が分からないために学ぶ意欲の湧かない子は「頭の悪い子」と思われるようになっています。

多くの子供は、そのような基準で「頭が悪い」ために、大人から叱られます。べつに他人に危害を加えているわけでもないのに、あたかも悪いことをしたかのように思い込まされます。


もちろん、こう言ったからといって、じゃあ子供に何も教えずに自由放任すればいいのかというと、それでいいと言う勇気はありません。自分が為政者の立場に立てば、多かれ少なかれ、今の学校教育と同じような制度をデザインするのではないでしょうか。

だから、具体的に何を変えればいいかと問われると答えられませんが、せめて大人一人ひとりが、他人を「頭がいい」「頭が悪い」と判断する際の自分の基準を見なすことができれば、と願います。

映画 『コープスブライド』

2007年08月29日 | 映画・ドラマ
ティム・バートン監督が2005年に製作したアニメ映画『コープスブライド』(原題“Korpse Bride”)を観ました。

結婚を控えたある男性ヴィクターが、夜の森で結婚式に言う誓いの言葉を練習していると、間違って「死体の花嫁」コープス・ブライドにプロポーズしてしまいます。自分が求婚されたと勘違いしたコープス・ブライドのエミリーは、ヴィクターを決して放そうせず、死人の国にヴィクターを引き込もうとします。果たしてヴィクターは許嫁のヴィクトリアの元へ帰ることができるのか…?

この映画もアニメーションですが、登場人物たちの表情がとても豊かで、実写と同じ、あるいはそれ以上に登場人物たちの感情が痛いほど伝わってきます。

このアニメはストップモーションアニメと言って、人形を1コマ1コマ動かして絵を完成させるという、恐ろしく根気のいる作業を通じて作られています。それでももちろん絵の動きは通常のアニメに比べてぎこちない。しかし、にもかかわらず人物描写は秀逸。このことから、アニメにおける感情表現の上手さというのは、CGの進歩とは関係ないんだなと気づかされます。

途中で挿入される歌もいい。コープスブライドが後半で自分の心痛を綴った歌詞は、観る者の心を打ちます。

とてもおもしろい映画で、わたしは3回も観てしまいました。


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もう一息

2007年08月27日 | 日記


まだまだ暑いことは暑いのですが、ムッとした暑さ、「灼熱地獄」という状況は去って行ったように思います。

クーラーをつけなくても凌げます。

明日からは最高気温も徐々に下がるみたいです。

もう一息だ。

映画 『エターナルサンシャイン』

2007年08月25日 | 映画・ドラマ
『エターナルサンシャイン』(原題“Eternal Sunshine of spotless mind”)という映画を観たのは、もう1ヶ月以上前のこと。

この映画が作られたのはもう3、4年前のことです。たしか脚本がアカデミー賞にノミネートされていました。賞を取ったのかもしれない。脚本を担当したのが、傑作『ジョン・マルコヴィッチの穴』『アダプテーション』を作ったチャーリー・カウフマンだと聞けば、納得する人も多いのでは。

『エターナルサンシャイン』も、上記ニ作品に似ています。話の内容が妙に入り組んでいながら、そのややこしさによって観る人の感情の奥に潜んでいるものをぐりぐりと表に出していくのです。

平凡な会社員ジョエルは、ある朝いつものように会社に行こうとするが、気まぐれで急に行き先を変え、海に行こうとする。そこで彼は不思議な女性クレメンタインと出会う。二人は意気投合するのだが… 画面を観ていると、どうやら二人はそれ以前から知り合っていたらしい。ん?でも最初の場面では、二人はたった今出会ったばかりのはず。なのになぜ前から知り合いなんだ。前から知り合いなのに、なぜ二人はお互いのことを知らないんだ???

こういった謎を映画は最初に観客に提示し、観客は徐々に、二人が以前から知り合いでいながら、なぜまた初めて出会ったかのような態度を取るのか、その理由を知ることになります。


チャーリー・カウフマンの脚本は、二つの話を同時進行で進める。そして、それらの話が意外な結びつきをもっている。

ただ彼の脚本の素晴らしさは、その意外な発想・アイデアで映画が終っていないところです。そのような意外性のある話を書きながら、その意外性が後々で観る者が普段見ないようにしていた奥深い感情に直面するように促しているのです。

ちょうどこの映画が、恋愛の痛みを観客に再体験させるように。


僕はチャーリー・カウフマンの映画を観ていていつも感じるのは、そのような話のおもしろさと同時に、登場人物たちの生活観・リアルさが画面から伝わってくること。アパートの古ぼけた感じや、道路の汚さ、豊かさと貧しさ、そういった生活のリアルさが画面からとてもよく伝わってくる。それはハリウッドかインディーかという違いではなく、作り手がどれだけ日常描写に細心の注意を働かせているかということだと思う。

レンタルDVD店に行って、何も借りたいものがないけど何か借りておきたい、というときに借りると、トクした気分になる映画だと思います。


エターナルサンシャイン DTSスペシャル・エディション

ハピネット

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2007年08月24日 | 日記


灰色の雲は少し残っているので、青い空は真っ青というわけではありません。

純粋な青さでもないし、色も薄い、少し疲れた感じです。

それでも明るい光が差しているので、建物の白さが昨日よりは映えています。

絵本 『みんなでつくっちゃった』 長新太(さく)

2007年08月24日 | 絵本・写真集・画集


長新太さんの絵本『みんなでつくっちゃった』(大日本図書)を読みました。


最初、「ん?」 と、なんのことかわからなかった。

二度目に読むと、ああ、そういうことかぁ、と思いました。

思わず「ふふ」と想いながら。

「みんなでつくったのさ」という絵本です。

レコーディングダイエット

2007年08月22日 | 日記
話題のレコーディングダイエット、僕も始めてみました。

ビリー隊長の下に入隊することも考えたのですが、DVDが1万円以上もするし、時間もとられます。

その点レコーディングダイエットは食事をメモしていくだけです。

僕は3キロぐらい痩せられたらそれでいいのだけど、上手く行くかなぁ。

提唱者の岡田斗司夫さんは著書の中でカロリーもメモして、毎日体重と体脂肪率を測ることを薦めています。

でも、カロリーまでメモるのはちょっとめんどうかな。あと、僕の家の体重計は体脂肪率まで量れないけど、わざわざ新品を買うのもなぁ。

とりあえず食事の記録を続けて行って、「なんかいいかも」と思えたら、カロリーも調べてみるようにする、でいいのではないだろうかな。

変化が現れたら、また報告したいと思います。

ENGLISH@HEART講演会 「体感の文法」

2007年08月21日 | 語学


先日、英語学者・大西泰斗先生の講演会に行ってきました。

大西さんの〈イメージで理解する英文法〉については、『ネイティブスピーカーの英文法』など、研究社のネイティブスピーカー・シリーズでおなじみだと思います。また、NHKで放映され、DVDも出ている『ハートで感じる英文法』も書店の店頭でよく見かけます。

その大西先生が講演会で私の地元まで来ると知ったときは、やはり生で見たい!と思った。普段、講演会とかには興味は湧かないのだけど、大西さんの場合は著書も殆ど読ませてもらっているし、テレビで放映された番組もおもしろく見させててもらっていたので、一度ライブでお話を聴きたかったのです。

講演会の内容は、『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』でも取り上げられていた、SVOやSVOOなどの文型がもっているイメージについて話されました。つまり、具体的な単語や個々の文法がもつイメージではなく、もっとも基本的な英語の文章の形式がもっているイメージについてです。

その話は、知識としては自分は知っているつもりだったけど、やっぱり著者の話をライブで聴くと、先生が何を伝えたかったのかがよりはっきり分かった気がします。講演会に行ってよかった。

英語の話し以外で印象的だったのが、大西先生が、自分は今は何をするにしても「これは幸せかどうか?」を基準にして行きたい、講演をするにしても強制的に集められたのではなく自分から話を聴きたいと思って集まった人の前で話をしたいんだ、ということをおっしゃっていたこと。

あと、英文法をできるだけ専門外の人が分かる形で伝えて、多くの人の苦しみを取り除きたい。それが職業人としての自分の使命なんだという意味のことをおっしゃっていました。それは、自然に多くの人をよりハッピーにしたいという意味なのだと思います。

英文法という一つの専門の世界に打ち込んでいても、その狭い専門という道を通してできるだけ広い世界の多くの人に貢献したいということなのだと思います。

そういう生き方は、とても羨ましく、素晴らしいもののように思えました。

大西先生、スタッフの皆様、ありがとうございました。

『さらに おとなは・が・のはもんだい』 五味太郎

2007年08月18日 | 絵本・写真集・画集
五味太郎さんの『さらに おとなは・が・のはもんだい』を読みました。

 「学校がつまらないから行かないというのは、このラーメンはまずいから食べないというのと同じです。つまらないから行かないのも、おもしろいから行くのも、等しくノーマルな現象です。
 問題はその中間に〈おもしろくないのに学校に行っている子〉、つまり、まずいラーメンなのに食べている子がいるということです。そういう子どもたちは今、自分がラーメンを食べているのか雑巾がけをしているのかすら、よくわからなくなっているわけです」

学校制度の大きな問題の一つですね、自分がまずいラーメンを食べていることに気づいていない人間を大量生産していることは。

学校って、どうしてあんなに息苦しく、つまらない場所なんでしょう。

学校に行かない自由というものがあればいいですね。

学校に行かなくても、友達と遊ぶことができて、勉強もできて、スポーツもできる。

そういう環境がある国は、「美しい国」じゃないかもしれないけど、いい感じの国なんじゃないでしょうか。

学校に行かされていると、「体育」や「勉強」のできる子が優秀な子で、そうじゃない子はダメだという先入観をもってしまいます。

「体育」ができなくても、自分の好きな競技なら楽しく体を動かせるという子は、きっと多いですよ。「運動場」という不自然にきれいな土の上で50メートルをただ走らされるなんていうつまらないことを、無理にやらせないで欲しい。

どのような教科にせよ、点数で順番づけするということは、一割ぐらいの人間だけに「いい気分」を味あわせて、その他の人間をその教科を嫌いにしてしまうことです。

ある程度は点数でモチベイションを子供にもたせることも必要なんでしょうか?

まぁ、そういう側面もあるかもしれません。

だからこそ、それでもどうしても学校は嫌だという子に学校に行かないという選択肢
を確保することは、「活力ある国づくり」には必要なことです。活力というのは、多様性を認めることから始まるのですから。


「子供のころ、ハンカチ・ちり紙を忘れて、先生に怒られたとか、通信簿に〈忘れ物が多い〉と書かれたという人、けっこう多いと思います。あの、わすれたことを〈叱る〉というのはなぜなのか、ぼくにはいまだによくわかりません」

忘れ物をして困るのは、本人のはずです。忘れ物をすると授業はちゃんと受けられないですから、その子どもは困ります。宿題を忘れて困るのも、勉強をしなかった子です。

困る上に叱られるなんて、踏んだり蹴ったりです。

でも、先生が忘れ物をする子を叱るというのは、実際のところは、教室の秩序を乱しているように思えて腹立たしいからなんですよね。

全体授業というものの目的は、子供を勉強のできる子にすることではないんでしょうね。全体授業の目的とは、集団の秩序を子供に教え込むことにあります。

単に子供を勉強のできる子にするのであれば、補助金を出して、一人ひとりに家庭教師をつけるほうがよいです。でも、そんなお金はないので、全体授業にします。

しかし、全体授業にすると、勉強を教えるという目的から外れて、秩序・規範を子供に植えつけて、規則で縛るということが第一の目的になります。規則でしばらなければ、全体授業は維持できません。

そう考えると、学級崩壊(今でもあるのか?)というものも、必然的に起きたと言うことができます。子供が無理やり規則で行動を縛り付けられることを拒否するのは、自然なことです。

今という時代に学校の先生という職業が大変なのも、当たり前といえば当たり前のことです。子供はほんらい自由を求めるのに、それを少数の先生が統率しようとするのですから。

個々の先生の指導力という問題を超えています。学校制度というものが軍隊制度に由来し、集団を規律させるという特徴を持つ以上、それを拒否する子供が増えて当然です。

それでも、高度成長期までなら、学校という制度にしたがっていれば、自動的に安逸な生活を得ることができるという信仰が社会全体に行き渡っていました。たから学校に大人しく通う子供も多かったのでしょう。

しかしそのような信仰をもはやもてないと大人が知り、そういう大人を子どもが見て育っている以上、子供が学校という制度を信頼しないのも当然です。

そういう子どもたちを統率できるような人は稀だし、それができないからと言って教師を責めるなんてことはできません。

とにかく、いろいろな成長のルートを子供が発見できる、そういう国になればいいですね。



さらに・大人問題
五味 太郎
講談社

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絵本 『ねむる』 長新太

2007年08月17日 | 絵本・写真集・画集
長新太さんの『ねむる』を読みました。

夜の静けさが描かれています。

子供にとって、夜は夜としてとても生き生きとしています。

大人は、夜中まで起きていたりする経験があるので、夜は昼の延長でしかありません。

でも、子供にとって、夜、特に夜中は、昼とはまったく別の世界です。

その夜独特の世界が、この絵本では描かれています。

子供が夜中に起きて家の中を歩くと、昼にあった物たちは、暗闇の中で夜の中でじっと静まっています。その静まり具合を、長新太さんは、「グー」とか、「スー」とかいう言葉で表現しています。

その夜の不思議さを、読む者に思い出させてくれます。



ねむる
長 新太
文溪堂

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