joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

涼しくなってきた

2006年08月31日 | 日記


9月になっていないのに、急に涼しくなってきました。

今年の夏にはまいってしまいました。単に気温が高いだけでなく、これだけ蒸し暑く感じたのは初めてのように思います(毎年そう言ってたりして)。気分が悪くなって吐き気みたいなものも感じる日があったのですが、こんなことは今まではなかったように思います。

温暖化と湿度って関係があるのだろうか?

しかし昨日、今日と急にぐっと涼しくなりました。なんだかあっという間に秋が来そうです。それもそれでちょっとさびしい気がするけど・・・


涼風

『スティグリッツ入門経済学』ジョセフ・E・スティグリッツ(著)

2006年08月30日 | Book
ジョセフ・E・スティグリッツ『スティグリッツ入門経済学』を読みました。この本はすでに3版が出ていますが、私が読んだのは初版です。

うん、読みやすかった。経済学の本なのに数式が皆無なので僕でも読めました。

大学の学部時代に「近代経済学」(今でもこう呼んでいるのか?)を勉強しようとして、しかし高校時代に数学を勉強しなかったのがたたって、さっぱり分からず、それ以来経済学恐怖症に陥っていましたが、この本は数式なしで(おそらく)新古典派を説明しているので、すいすい読めました。

ただ、おそらくあまりにも初歩的な内容に限っているのでしょう。この本を読んでも、経済学の素人が新しい知見を得ることは少なく、むしろ既存の経済に対するイメージを経済学的な考えで整理するきっかけを与えてくれるという程度のものだと思います。実際、アマゾンのレビューを見ても、この本で経済学が分かったと考えるのは早計みたいです。

それでも、「経済学的考え方」で現実の問題を考えるきっかけは与えてくれるし、「素人的な感情論」以外の考え方があることを理解させてくれます。

たとえば著者の挙げるトピックの一つは、需要・供給の法則に政府が介入することの是非。著者はその例として、アメリカにおける最低賃金法家賃統制法の影響について述べています(197-209頁)。

最低賃金法は労働市場で不利な立場にある労働者の経済条件の改善を目的としているし、家賃統制法は貧しい人でも家を借りることができるように家賃の上限を定めたものです。

しかし著者は、このような「貧しい人」「弱者」を救済するための法律は、その意図として、誰か特定の個人・団体が、不当に労働者の生産物を搾取したり、不当に高い家賃を押し付けて部屋を借りることができないようにしていると考えている点で、間違っていると言います。

端的に言えば、著者たち経済学者にとって価格とは需要と供給のバランスで決まっているのであって、ある特定の個人・団体が意図的に不当に不利な価格を消費者に押し付けたり、賃金を低く抑えることはないということです。著者はその根拠は挙げませんが、とにかくそうだと言い切ります。

ともかく著者は、それら価格規制が実際にもたらした現実を私たちに教えます。

家賃統制法に関して言えば、家賃の上限を決められたことで、家主は老朽化したアパートを改築するインセンティブを与えられず、長期的には住宅不足をもたらしたそうです。

短期的には、家賃統制法により既存の部屋の価格が下がるので借主は恩恵を得るのですが、長期的には逆に供給される部屋がなくなり、お金のない人が部屋を借りることができなくなりました。

同様のメカニズムは最低賃金制度でも作用します。つまり、最低賃金が設定されることで、雇用主には労働者を新しく雇用するインセンティブが与えられず、求人数が減少します。本来貧しい人を助けようとした政策が、結果的に貧しい人が職に就ける可能性を絶ってしまうわけです。

スティグリッツは最低賃金法について次のように述べます。つまり、最低賃金法は夫の賃金が家族全体を養うことが一般的だった1930年代に制定された。しかし現代では「夫も妻も、そして10代の子供までが働く」ようになっている。「明らかに、彼らのす*べ*て*が家族全員を養うだけの所得を稼ぐ必要はない。加えて、最低賃金の引き上げは、低所得者とはいっても普通、働*け*さ*え*す*れ*ば*最低賃金を上回る所得を稼ぐ。低所得者にとって問題なのは、賃金が低いということではなく、働いていないのが問題なのである。働いていないのは、職がみつからないためか、もしくは健康がすぐれず働けないためである。前者の場合には、職がみつからないといった場合の問題は賃金水準ではなく、失業水準であり、賃金を引き上げたりすると職にありつくことがいっそう困難になる」(208頁)。

この言葉だけを聞くと、本来社会科学は視野を広げてくれるはずのものなのに、社会科学のために人は視野が狭くなるような気がします。

この言葉の中には、職場における働く人の精神状態、職場での生活が職場以外での生活に与える影響などが全く考慮されていないように思えてきます。話題になった番組
「ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~ 」でも取り上げられていたように、過酷な現場できつい労働に就くということは、その人の仕事の時間だけでなく、生活全体の時間をも楽しみの少ない状況に追い込みやすいということでしょう。

「今日では夫も妻も、そして10代の子供までもが働くようになっている」のは、働きたいからそうしているのか、そうせざるをえないからそうしているのかで、その働く人たちにとって意味合いはまったく違ってきます。

上記の著者の言葉を聞くと、どうしてもマルクスの言葉、表面的な法的整合性の裏で貧しい人々は不利な状況で市場で売り買いすることを強いられる現実を経済学は隠蔽するという主張がどうしても頭によぎります。


ただ、こう言ったからといって、スティグリッツが弱者について考えなくてよいと思っているわけでは全くないことは強調しなければなりません。

スティグリッツにとっては、需要と供給のバランスというものはあくまで「非人格的な作用の結果」であり、つまり供給者と需要者が、腹蔵なく悪意もなく正直に、自分の財政状況の範囲で価格をつけているのであって、そのような公平中立なメカニズムに安易に介入してはいけないということです。著者にとって政府が弱者を助ける際に気をつけるべきことは、最初の意図とは異なって市場の力が弱者に不利に働くことがないようにすることです。彼は次のように述べます。

「未熟練労働者の賃金が低すぎることが問題ならば、政府はそうした未熟練労働者に対する需要を増やすような対策を講ずることができる。・・・この目標を実現するためには、政府は未熟練労働者の雇用に対して企業に補助金を供与するか、もしくは未熟練労働者にもっと技能訓練を施して彼らの生産性を向上させればよいのである(つまり労働者への需要を増やす 引用者)。
 また、低所得者層のための住宅供給を増やしたいのであれば、政府は低所得者に対して住宅補助金を供与すればよい。それにより、住宅の供給は増大すると考えられるからである」(209頁)。

つまりスティグリッツが弱者救済策について懸念していることは、それが価格統制の形を採ると、その商品への需要と供給のインセンティブが喪失し、結果的に弱者が市場で相手と契約を結ぶことができない危険にあります。逆に言えば、「弱者」が提供する商品を需要者が高い価格で欲しがるインセンティブ、「弱者」が欲する商品を供給者が低い価格で提供するインセンティブをもたらすような政策を講じる必要があることになります。


ところで、入門書だからでしょうがスティグリッツの説明はとても初歩的な感じはします。しかし最近では上記の価格統制と同様の法律をめぐり議論が起こっています。すなわち、お金の貸与の際の金利に上限を設ける最高裁の判決です。この判決がきっかけで金利の返還訴訟が頻発しているそうです。

経済学者の池田信夫さんは、ブログ
グレーゾーン金利」『池田信夫 blog』
で次のように述べています。

「現在の上限(29.2%)を20%以下に引き下げることが何をもたらすかは、経済学的には明らかである。金利は貨幣のレンタル価格だから、それが人為的に抑えられると、資金の供給(貸出)が減少して超過需要が発生する。この超過需要が満たされなければ破産が起こるか、闇金融に流れることが予想される。事実、2000年に出資法の上限金利が40%から引き下げられたあと、個人破産と闇金融事件が増えた」

池田さんはこの金利上限法は、結果的に需要者(お金の借り手)にとってはお金を貸す業者の減少につながるか、あるいは闇金が増えるなどのマイナス面が目立つことになる点で、(スティグリッツが説明したような)家賃統制法と同じ作用があると論じています。

この問題はどう考えればいいのでしょうね。

市場のメカニズムだけを見れば、池田さんが言うように、この判決によって、お金の貸し手が減少し、資金繰りに困る企業が出てきたり、またファイナンス業界の衰退につながるのかもしれません。この判決で日本の経済状況が危機に陥り、多くの貧困者が出るのであればたしかに問題です。

ただ同時に、ここでは私たちのお金と生活にまつわる価値観も試されているのかもしれません。

資産運用会社の経営者で『スリッパの法則』の著者の藤野英人さんは、村上世彰さんが逮捕された際に、お金について次のような興味深いコメントを出しました。

「私は繰り返し繰り返し、お金のこわさ、そのようなこわいお金を運用するこわさを聞いていた。お金はそれそのものがパワーであるし、人によっては「命よりも金が大事」という価値観の人さえ存在する。少なくとも「命の次に大事なのは金」という価値観の人は珍しいというわけではない。

また金をめぐり争いや紛争が起きる。富の分配という観点で見れば経済的事象は戦争の原因になりやすく(引き金は政治であっても)、お金は見方によれば爆弾よりも怖いのである。本当に取り扱い危険物なのだと思うし、お金に関しては私は今でも臆病だ」(「天才だったが・・・」『RHEOS REPORT』)。

文脈は違いますが、お金と言うのは実態がつかみにくい分(とりわけ最近はネットでのやりとりが増えているので、それだけヴァーチャルな存在になっている)、一度借り始めると自分でもコントロールが効かない危険性があります。

市場の合理性だけを見て、ファイナンス業界の隆盛のために金利について考えないことは、それもそれで危険なことのように思います。お金を借りれなくて苦境にいる人もいるのは分かるのですが、それであれば、金利に上限を定めた上で、それでもファイナンス業を営むインセンティブを業者に与える法律というものはないのかな?とも思います。

この問題に関しても、何が正しいのかは私には分からないし、スパッと何かを批判することもできません。ただ、市場の合理性と産業の隆盛のみを考えることには、違和感もあります。


参考:「グレーゾーン金利」『池田信夫 blog』
   「おやつは300円まで、借金は50万円まで」『微妙に日刊?田中大介』

雨がザーザー

2006年08月29日 | 日記

予報にはなかったのに、今朝の神戸・明石地方では思いっきり雨が降っています。予報では今日は昨日以上の暑さになるということなので、雨上がりで太陽の陽が射すということなのかな。

むっとした蒸気が地面から上がってくるかもしれないけど、雨上がりの明るい色になればいいですね。


涼風

『「ひきこもり」救出マニュアル』 斎藤環(著)

2006年08月28日 | Book
先日、精神科医の斎藤環さんの『「ひきこもり」救出マニュアル』を部分的にパラパラ読んでいました。500ページ以上もある分厚い本なので、半分近くまで読んだあとは、興味が惹かれる部分をページをめくりながら目を通しました。

斎藤さんの本はベストセラー『社会的ひきこもり―終わらない思春期』についで二冊目。『社会的ひきこもり』の内容は忘れていたのですが、今回上記の本をパラパラ読んで、なんとなく思い出したような気もする。

『マニュアル』では、「ひきこもり」の人たちについて、具体的にどう対応すればいいかを、まさにマニュアルとして対策を項目別に書いてあります。

と言っても、印象としては、様々な角度からの質問に対して、斎藤さんの一つの「ひきこもり」観を繰り返し繰り返し述べると言うものだと思います。質問する側はいろいろな質問を思いついても、斎藤さん自身は「ひきこもり」について一定の考えがあるのであって、その同じ考えを何度も粘り強く述べるというスタイルですね。

著者が強調することの一つは、「ひきこもり」の人に対して「おまえたちは子供だ」とか「世の中の仕組みが分かっていない」とか「認識が甘い」とか、道徳的な正論を述べて説教をしても全く意味がないということ。というのは、「ひきこもり」の人たち自身が、そんな世間的な道徳観を人並み以上に身につけていて、自分たち自身がつねに内面で自分を攻撃しているからです。

言われなくても分かっていることをあらためて周りの人に言われても、それは「ひきこもり」の人たちが行動するきっかけにはなりえないし、彼らの自己攻撃を強めて、彼らの内面を破壊するだけになります。

では、なぜ彼らが動けないのかということについては、この本ではその理由は精緻に述べられていないように思います。ただ指摘されることは、「ひきこもり」には男性が多いけれど、それは日本の社会では男の子に親も大きな期待をかけて、学校教育と職業世界がつながっているシステムの中で優秀な成績を修めることを期待するのに対し、その期待に応えたいという欲求と、しかし自分にはできないと言う敗北感とで、もう動けなくなっているということがあること。あくまで一つのパターンですが、両親の価値観との葛藤というのは、おそらくすべての「ひきこもり」の人に共通する“問題”なのだと思います。親の価値観・期待に本来は応えたかったという想いと、親に価値観を押し付けられたことへの反発という想いの中で引き裂かれ、どうにも動けなくなったというのは、一つの基本的な特徴なのではないかと私は予想しています。

期待をかけられてきた中で、人生を「期待に応えて成功する」か「失敗する」かという二者択一でしか見ることができず、自分の丈に合ったかたちで人生を構築するきっかけをなかなか掴めないということ。概ね、斎藤さんの見方はこういうものではないかと、著者がはっきりこう述べているわけではありませんが、私は読み取っています。

その中で、ではどうすれば「ひきこもり」の人たちが「脱出」できるのかも、この本で述べられているわけではありません。おそらく、1000人以上の患者に対応してきた中で、“こうすれば治ります”という方法はないと斎藤さんは感じたのではないかと思います。

ただ、その中でも、「ひきこもり」の人たちが変化する状況は概ね指摘できるということなのでしょう。

斎藤さんが強調することの一つは、周りができることは、当事者が安心して引きこもれる環境を作ることが大事であるということ。元々極端に親の期待を内面化しているがゆえに、柔軟に動くことが難しくなっているのですから、これ以上彼らにプレッシャーをかけることは百害あって一利なしなわけです。状況を変化させる特効薬はないでしょうけれど、とにかく彼らのプレッシャーをなくす環境づくりを心がけること。

この過程では、「ひきこもり」の周りの人も、また治療者も、自分たちの価値観を変更させられるプレッシャーを感じると思います。どれだけ環境をととのえて「ひきこもり」の人たちを“治そう”とがんばっても、そういう思いが強ければ、感受性が過敏になっている当事者たちは、「俺を変えようとしているな」と察知して、余計に維持になって変化を拒むことが多いでしょう。かと言って親御さんや周りの人にとっては、“このままでは困る”という焦燥感が強まると思います。

その中ではどうしても、社会に出て就労して経済的に自立するという“当たり前”と思われる価値観自体を根本的に見直すプレッシャーも受けるのかもしれません。

実際、斎藤さんが繰り返し言うことの一つが、“治療”のゴールは、就労という形態を取ることではなく、複数の他人と親密な関係を取ることだということです。もちろん就労自体が否定されているのではなく、重要なのは就労や他の形態を通じて、他者と交流する回路を「ひきこもり」の人たちがもてるようになるということです。

この他者との交流、あるいは社会参加ということ自体に、また一つのイデオロギー性を認めて批判することは簡単です。ただ斎藤さん自身は治療者として、もし「ひきこもり」の人たちが自分の内面に不健康なものを感じ、それを変化させたいと願っているとき、その契機となるのが他者との交流であると、臨床を通じて体得したのではないかと思います。

「ひきこもり」の人たちは本当に病気なのか?病気だとすれば、そこにはどういう“病理”があるのか?それが“治る”ということはどういうことなのか?この本はそういう疑問に答えてくれる本ではありませんが、「ひきこもり」という一つの現象を通じて世間の正論・道徳を正当化する視点を与えてくれる本だと思います。


『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 2

2006年08月26日 | Book
『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 1)からの続き

アメリカにおける理想主義と物質主義、個の尊厳と機会の平等

ドラッカーにとって分権制が理想なのは、それがより高い経済的パフォーマンスを実現するからではありません。実際彼の観察によれば、GMのすべての事業部が分権制に則って運営されているわけではなく、またそれでも効率よく運営されている事業部が存在していました。彼にとって分権制が重視されるべき理由は、「第一に社会の自由に関わる問題であり、第二に完全雇用にかかわる問題」でした。

最初に述べたように、ドラッカーが政治学者でありながら資本主義経済体制の分析を重要と考えた理由は、1946年という時代の中で、経済発展を拒否して戦争にのみ存在理由を見出すナチズムと、経済発展のみを目標に掲げる社会主義体制が広まる欧州に対して、自分が移住してきたアングロサクソンの国が代表する資本主義体制の中に、ナチズムと社会主義が否定する人間の尊厳と自由を確保する余地の可能性を見出したいがためです。それゆえ彼にとっては、分権制の意義は経済パフォーマンスのみによって測られてはならず、むしろそれが人間の自由を実現しているか否かが問題にされるべきでした。そう考える彼にとって分権制は、リーダーシップを持つ個人を増やすという点で、一つの注目すべき企業形態でした。

上でも述べたようにドラッカーはこの分権制とアメリカの文化との間につながりを見ています。彼によれば、「ヨーロッパの大陸諸国は30年戦争(1618-1648)以降、倫理的なものとしての社会を捨て、ひたすら政治の絶対視と無視の両極の間をうろついてきた」のに対し、アメリカでは社会それ自体が目的とされることはなく、同時に社会そのものを個としての人間の倫理的な価値と無関係の功利的な手段とされたこともないと言います。「アメリカは、国(nation?)、国家(state?)、人種(race?-引用者)に絶対的価値を付与する社会至上主義と、法を倫理的な価値とは関係のない交通法規扱いする社会的功利主義のいずれをも拒否する」(119頁)。

著者はアメリカの政治文化の特質を、個人と社会の関係を対立するものではなく、「物質的な社会組織に倫理的な意味合いを付与する」ことによってその対立を止揚
する点に見出します。「アメリカは、物質的な制度と物質的な進歩は、それ自体が目的なのではなく、理想の実現のための手段であるとする点において、信じられないほどに、そして時には幼稚というほどに、理想主義的である」(120頁)。

(アメリカの出版界において、物質的な成功を手引きする成功哲学書と、倫理的・霊的な価値の再発見に導くスピリチュアルな書籍がつね同時ににベストセラーになるのも、この伝統と結びついているのかもしれません。またアメリカのこの傾向は、日本を初め世界中に広がっています)

ここで、アメリカの国民にとって「信条」というものの重要性が注目されます。

著者から見れば、アメリカ人が「アメリカ」という国家を信じるのは、それが共感できる信条を体現しているからです。それに対してヨーロッパ諸国民は、(例えばナチズムを嫌悪しながら国のために戦うドイツ兵士のように)愛国心は人間本性のものであって、その時々の信条に左右されるものではないと考えます。アメリカ人には、国それ自体を重要と考える思想を持ちません。それゆえアメリカ国家は、国民をひきつけるには、つねに何らかの信条を表明しなければなりません(121頁)。

では、アメリカ社会の「約束と信条」とは何かという質問に対して、ドラッカーは次のように答えています。

「アメリカの政治哲学の基本は、個としての人間の重視という、際だってキリスト教的な思想である。ここから第一に、正義の約束すなわち機会平等の約束が生ずる。第二に、自己実現の約束、よき生活の約束、より正確にいうならば一人ひとりの人間の尊厳の約束、すなわち位置づけと役割への約束が生ずる」(124頁)。

このように、「個」を尊重することが同時に社会の公正を要求するところに、アメリカの人々の求める要求の特徴があるのかもしれません。「個」を尊重して欲しいから干渉を排除するのでもなく、社会の公正を要求するから個が社会に奉仕するのでもない。「個」を尊重するために社会の公正を保証することを、同じことですが「個」を尊重するシステムとしての社会の公正をアメリカの人はアメリカ社会と国家に要求します。

この個と社会の公正との関係は、著者が次に述べるように、表面的に考えれば対立します。

「前者(個の尊厳 引用者)は、個たるには人間としての尊厳を必要とするとし、後者(機会の平等 引用者)は、人間としての尊厳は社会とのかかわりによって得られるとする。すなわち前者は、一人ひとりの人間は社会に意味を見出せなければならず、社会は一人ひとりの人間のために存在するとする。後者は、社会的な地位は一人ひとりの人間の能力と成果によって得られなければならず、一人ひとりの人間は社会における働きによって規定されるとする」(127頁)。

著者によれば、この二つのうち「個」の尊厳のみを考えたのが「フランスの封建社会」であり、機会の平等のみを考えたのが「十七世紀イギリスの平等主義」でした。これら二者択一でしか個と社会の関係を考えられない欧州諸国に対し、アメリカの強みは、この二つがともに互いを必要とすると考える点にあるとドラッカーは見ます。つまり、機会の平等という思想と制度的保証がなくては、個に対して社会的な位置づけ、役割、意味という尊厳を与えることはできないし、個が社会的な位置づけと役割という尊厳をもてる社会でなければ、機会の平等という社会的正義を人々が実現するための精神的・物質的資源は存在しないということです(127頁)。

二〇世紀のアメリカにおいて、「中流階級」という思想が勃興したのも、上記のこと社会の関係についてのアメリカ人独特の考えが影響していたと著者は見ます。

「中流階級」という思想は、上流と下流の間にある階級ということを意味しません。社会を区分した中でのひとつの集団ということを意味しません。中流階級社会とは、すべての人が同じ価値観をもつ社会を意味します。

アンケート調査で中流と答える人は、自分の位置づけを所得と地位から算出したわけではなく、またどれだけの富者と貧者、強者と弱者がいるかを考えたわけでもありません。彼らが自らを中流階級と規定したとき頭にあったものは、アメリカには生活のあり方は一つしかないということでした(125頁)。

このような(当時の)アメリカの人の中流意識の根底にある態度をドラッカーは次のように描写します。

 「親しみやすい。人をうらやましがらない。地位を敬いもしなければ、畏れもしない。時として平凡と順応を大切にする。・・・
 平等感がアメリカの特性であることに変わりない。それは、社員が社長に会えること、幹部用のエレベーターのないこと、偉そうな態度を嫌うことに表れている。
 同時にアメリカ人にとっては、中流階級社会とは、誰もが意味ある充実した人生を送ることのできる社会のことである。事実、これまでの中流階級擁護論も、中流階級にある者だけが尊厳のある生活、すなわち個としての位置づけと役割をもつ人生を送ることができるというものだった。
 この中流階級のコンセプトには、社会における位置づけは社会への貢献によってのみ規定されるとの意味合いが含まれている。ここにおいても、中流階級社会には、上流階級は存在しえないことが明らかである」(126頁)。

つまり「中流階級」という概念は、誰もが個の尊厳を満足させる固有の役割をもち、その役割が社会の機能と結びついていることを理想としている状態としているのであって、是正されるべき物質的な格差を前提していない。それゆえこの社会は、誰もがそれぞれの正義を果たし、また果たすチャンスが与えられているという点で、「正義の平等にもとづく無階級社会」(126頁)です。


産業と市民性の調和

そこでドラッカーの探求は、実際の資本主義社会が「個」の尊厳を人々にもたらすにはどうすればよいかという問題に向かいます。彼はそれを、「産業の現場に市民性をもたらす」と描写します。

ここから彼は、具体的な事例をいくつか見ていきますが、それらに共通するのは、「提案制」など、いかにして生産方法・労働条件の改善などに労働者の主体的な参加を促すかという問題認識であり、私は詳しくありませんが、おそらく20世紀の経営学で幾度も取り上げられた事例だと思います。

ただ私が10年以上前に受けた「経営学」の授業を思い出しても、経営学で取り上げられていた従業員の職場における主体的参加という問題認識が、いかに企業の生産性を高めるかと言う視点から論じられていたのに対し、ドラッカーはあくまで政治学者としての視点から、どうすれば労働者が産業社会の現場で「市民性」を回復できるか、自己の尊厳を取り戻すことができるかを考えていた点です。

労働現場における主体的参加の可能性は、ドラッカーにとって、ナチズムと共産主義に対して資本主義が強みを発揮できる特徴であり、またそれがなければ資本主義は歴史的な存在意義がないと言えます。彼にとって資本主義の存在意義は決して経済パフォーマンスの良好さにあるのではなく、市民に生きる意味を与えることができるかという点にありました。


何度も述べてきたように、働く場に「市民性」をより多く回復させる一つの手段が分権制であり、それによってより多くの労働者は自らの労働に対しイニシアチブを発揮できる余地が生まれます。

またその分権制を効率よく、つまり人間関係の恣意や感情ではなく、個々人がフェアで対等な関係を保つために、個々人のパフォーマンスを客観的に測定することが求められ、例えば「コストとシェア」といった基準が採用されます。

このことは、市場原理にもとづいた利益獲得といった経済活動の基本的特徴が、個々人のパフォーマンスをより客観的に・フェアに・他人の恣意に邪魔されずに、測定される可能性を生みます。市場を通じた測定により、個人と個人は対等な関係に立ち、自らの労働に取り組むことができます(理想としては)。

おそらくドラッカーにとっての(当時の)ジレンマは、このように個人が自らの仕事に誇りを取り戻すことができるのは、資本主義経済・市場経済だけであるという認識と同時に、政治学者として、すべての人の幸福は資本主義経済では達成できないのではないかということだと思います。

後期の著作では後者のような理想主義的な観点は彼から失われていったかもしれません。しかし、ナチズムと共産主義に対抗して資本主義こそが人類に幸福をもたらす可能性を必死で探るドラッカーにとって、資本主義企業はたしかに他の社会体制よりも多くの個々人に生きる意味と個の尊厳をもたすのと同時に、失業の不可避性をも含んでいることは、解決困難な問題だったのだと思います。

それに対する彼の処方箋は、雇用を生み出す資本財生産のために政府が支出すべきなど、かなり時代に制約された提案になっています。ただ、個の尊厳は社会における位置と役割によってもたらされると考える彼にとっては、完全雇用は資本主義が決して手放してはならない課題だったのでしょう。


これまで見てきたように、この本は大量生産社会が本格的に機能し始めた時期のアメリカで書かれ、その生産原理が前提にされています。その意味では一見古く見える記述も少なくありません。

ただ、大量生産社会を行なう超大企業という前時代的な例を挙げながらも、ドラッカーが考える問題は、どのような企業形態が人々に幸せをもたらすかという問題であり、その視点から、巨大組織においても個々人が主体性と権限をもって活動できる可能性を示そうとしました。その意味では、この書の分析は、事実の中から彼にとって理想と思われる部分を抽出して、あるべき組織と労働のあり方のモデルを提示していると言えます。

個々人の自立性と主体性の発揮という点を重視する彼にとっては、20世紀も終るにしたがって視点の力点が、巨大組織のあり方から、知識労働者を中心とした機能の結びつきという点に資本主義の基本的特徴を見出すというように変化することは必然だったのでしょう。

ただ、たとえ自律的な知識労働者が増えようと、組織そのものがなくなる訳ではありません。個々の労働者を結ぶ媒介としての・場としての組織は残り続けるわけですし、その場のあり方を考える上では、「分権制」という理念は今でも重要なのだと思いますし、これまでも多くの学者が取り組んできた話題なのだと思います。

こうしたドラッカーのトピックを取り上げる上では、何度も言うように、あくまで彼は政治学者として取り組んだのであって、生産性を上げる方法を第一に考えたのではないということは留意されるべきだと思います。もちろんそのことは、生産性を上げることを軽視してよい理由にはなりません。ただ、単に物質的な条件を改善することだけを考えるのであれば、ドラッカーから見れば、それはかつての社会主義と同じレベルに堕ちてしまうということです。

また同時に弱肉強食・優勝劣敗を市場原理の必然と考えることも、ドラッカーの真意とは遠くかけ離れています。ドラッカーが市場原理に賛同する理由の一つは、それが個々のパフォーマンスを客観的に測定する基準となりえるため、恣意による昇進などを排除し、それだけ労働者間の関係を対等にできると考えたからでした。つまり、経済学的ではなく、政治学的動機から、彼は市場原理に同意しました。

それゆえ、ドラッカーの意図は、優秀な人だけではなく、人類全てが幸福に生きる条件の探求にあります。市場原理は一つの可能性ですが、それは市場原理から排除されたものを見捨てることをよしとするわけではありません。元々の探求の意図は、全ての人が幸福に生きる条件の探求であり、その条件の一つが労働に個の尊厳と市民性を取りもどすことなのであれば、その活動に他者の救済という社会福祉的活動が入る余地は十二分にあるからです。

私たちが今ドラッカーを読む際には、そのような彼の政治学的意図を前提にすべきなのだと思います。


『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 1

2006年08月26日 | Book
ウィーン生まれでドイツの大学で博士号を取り、ナチ政権時代にイギリスに渡った政治学者ピーター・ドラッカーの著作『企業とは何か その社会的使命』を読みました。

この『企業とは何か』は、彼の処女作『経済人の終わり』と第二作『産業人の未来』に続く第三作だそうです。

『経済人の終わり』は、第二次大戦間近に、なぜナチズムが発生したのかという喫緊の問題を探求するために書かれました。そこでは、ナチズムの発生は、当時の資本主義が示した恐慌・失業・貧困という事態により、それまで欧米の人がもっていた「資本主義により自由と民主主義が発展する」という幻想が打ち砕かれ、それゆえ無気力に陥ったために、経済発展・富裕層を否定し、他者の存在を否定するナチズムに多くの人が惹かれていったと説明されていました。

共産主義ですら資本主義と同様に経済発展を目指すのに対し(それゆえ社会主義国では格差が生じる)、ナチズムは資本主義がもたらすそうしたメカニズムをすべて否定し、“脱経済”の国家体制を目指し、あらゆる階級を質素な生活下に置き、それまでの特権階級・中流階級にナチ党の中での高い地位を与えませんでした。ナチズムとはこのように観念による徹底した平等という倒錯した理念だったのですが、恐慌に襲われていたがゆえに、その理念が人々に受け入れられたとドラッカーは説明します。

つまりドラッカーは、ナチズムの発生は資本主義が人々に自由と民主主義という理念の力を信じさせることに失敗した結果だと見て、それゆえ資本主義はもう一度それがすべての人々に幸福を約束できる体制であることを示さなければならないという趣旨のことを述べました。

それに続く『産業人の未来』では、共産主義とナチズムに対抗するために資本主義が達成しなければならない課題として、雇用を人々に確保することによって彼らが社会における「位置と役割」をもつことを可能にすることが挙げられています。

資本主義はナチズムのように経済発展を拒否することはできません。そのような経済の拒否は、観念が先走り他者につねに闘争を仕掛ける態度を生みます。ヒトラーが物質的富に関心をもたなかったことは偶然ではありませんでした(このことは、賄賂や経済的特権を貪ることに縁のない政治家がそれだけでよい政治家ではないことを意味します)。

同時に資本主義は、共産主義のように単なる経済発展と物質の供与のみを目指すもので終るわけにも行きません。そのような経済中心主義思想は、必然的に、人々から生きる意味の喪失をもたらします。旧社会主義国においては失業・貧困が存在しなかったのは事実だそうですが、同時に多くのアルコール依存者を抱えていたのも、憐れみから最低限の物質を供与することを国家の任務ととらえていたためでした。

ドラッカーは、資本主義社会は、富と同時に、人々に誇りと意味をもつ人生をもてるようにしなければならないと考え、それゆえ「社会における位置と役割」の重要性を説きました。それが、彼が完全雇用を社会の原理とすべきと説いた理由です。

冷戦が始まる前で、ナチズムと共産主義によって存在意義が真剣に揺さぶられていた資本主義という理念を救うために、ドラッカーは雇用の重要性を説きました。それは第二次大戦後の西側の工業発展が始まる前には、考えられる限りの最大限の理想だったのだと思います。

あるべき社会を考えることと、あるべき組織を考えること

この『企業とは何か』が書かれたのは1946年です。富と人生の意味をもたらす資本主義という理念を探るためにドラッカーが着手したのが、あるべき企業経営の探求でした。『経済人の未来』でも述べられていましたが、ドラッカーにとって多くの西側の思想は、資本主義社会について論じようとしながら、実際には商品と貨幣の交換のメカニズムのみを問題視する商業資本主義を論じていることでした。彼にとっては、アダム・スミスやマルクスですら、そのような前時代的な経済体制を問題にしていました。

しかし今問題にすべきなのは、ドラッカーにとっては、組織・企業という経済単位が主流になる経済体制においては、人々にとって何が問題なのかということでした。ドラッカーにとってあるべき社会を今(1946年)考えることは、あるべき企業経営を考えることでした。多くの人が企業を介して経済活動を行うよう強いられる状況において、人々の幸福の可能性を考えるには、あるべき企業と働く人との関係を考える必要があるからです。

ドラッカーにとっては、どうすれば効率的に利益を上げる企業経営を達成できるかというテイラー的な関心は問題外でした。彼にとっては、あくまで、人々が幸せに生きるために企業はどのように経営されるべきかが問題でした。だからこそ、政治学者であるドラッカーは、経営の問題に着手したということです。その意味で、『企業とは何か』は、ドラッカーが、学問の個別領域に囚われずに、自分が考えるべき問題を探求し始めた記念碑的な著作なのかもしれません。


GMにおける分権制


この本ではドラッカーは自動車会社GMの内部組織を実地に調べ、その長所を抽出しています。そこで彼が重視したメカニズムがGMにおける「分権制」。20世紀の経営学に詳しい人にとっては退屈な標語かもしれませんが、1946年当時の彼はGMにおける「分権制」の意義を繰り返し述べます。

この分権制度とは、車種別事業部、車体事業部、各種備品事業部、ディーゼルエンジン事業部、航空事業部など約30の事業部から成り、それとは別に本社経営部門があります。これら事業部はそれぞれ独立した権限をもち、本社スタッフと言えども事業部を無視してその事業部に関わる仕事を行うことはできません。

事業部は、その内部に関しては事業部長に大幅な権限が与えられています。生産・販売・採用などは本社ではなく事業部長の裁量で決まるため、一つの独立企業のように存在します。

ドラッカーは、このような事業部長の独立性は、一つには事業部長に対する報酬の大きさによって保証されていると見ます。GMの事業部では、地位が上であるほどボーナスが多くなります。日本の企業とは異なり、地位が上の者は、総収入にしめるボーナスの割合が大きくなり、つまり管理職ほど業績主義が給与に反映されます(ちなみに『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』の中で著者の大竹文雄さんは、若い人には年功制賃金で、年齢が上がるほど業績主義の賃金制が好ましいと述べている)。

このボーナスは自社株の支給によって払われますが、それによりGMの管理職はおそらく数千万から数億の給与を得ていた(る)のかもしれません。ドラッカーはこのような傾向を、それによって事業部長の経営判断が解雇の危険に左右されなくなり、より企業家精神が発揮されるという理由で、肯定的に見ています。

現在のアメリカでは、こうした一部のホワイトカラーの給与が膨大になる傾向がより強まると共に、それによる格差の増大が社会の歪さを表すものとして批判的に見られています。ドラッカーの生きた時代では、冷戦時の成長がこれから始まる時期であるのに対し、70年代以降のアメリカは、その内部に「第三世界」を抱え込むように貧困・暴力・ドラックが氾濫してきたため、格差が批判的に見られるようになりました。

ともかくドラッカーにとっては、GMのような大企業において分権的な事業部性が取られ、その分権性が機能するには、事業部長の経済的・精神的独立性を保証する自社株支給によるボーナスは肯定されるべきものでした。


事業部の独立性と客観的な測定基準

またGM組織の分権性を機能させる仕掛けとして、事業部の機能の度合いを測る尺度が、コストとシェアという客観的な基準に拠っていることに著者は着目します。

この「コストとシェア」という基準も、今となってはどれほど有効なものかは、経営に詳しくない私には分かりません。実際ドラッカー自身が、近年の著作の中で、何を消費したかというコスト分析以上に、これからの変化の時代では、「行わなかったことで失ったもの」を会計分析に含めること提唱しているからです。

ともかく46年に著者は、この二つの測定方法が客観的なために、独自の権限を持つ事業部が独自の判断で行動することが可能になっていると見ます。

まず、コスト分析の長所は、景気変動などの外的要因を差し引いて生産性を測定できる点にあります。つまり、コスト計算から生産性の低下が見出されるにもかかわらず利益が伸びている場合には、それは当該事業部の成果ではなく環境に要因があることが分かりますし、その逆のパターンも発見できます。

このコスト分析が事業部ごとに独立に行われることにより、事業部それぞれの生産性と利益への貢献が明らかになります。

同様にシェア分析からも、たとえ利益が下がろうとシェアが伸びているならば、利益低下の原因は消費者の嗜好の変化にあり、例えばある特定の車種を生産している事業部の責任は少ないことになります(同時にユーザー調査部門の責任が問われる)。逆に利益が増加してもシェアが減っているならば、得られるはずの利益を失っているという点で、当該車種事業部の能力が問われることになります。

このようにコスト分析とシェア分析は、利益の増加・減少の原因が事業部の生産性にあるのか、外的な要因にあるのかが分かり、変化を要請されているのは何なのかをハッキリさせるのに役立ちます。

このように各事業部の成果を測る尺度を最大限客観的な数字に還元させることで、ある事業部は本社や他の事業部に対し独立性を保つことができ、事業部長とそれ以下の社員はGMという組織に対しより対等な位置に立つことができます。

それまでは、GMの組織に見られる自由闊達さや、情報と説得の重視や、命令的要素の欠落は、それまでGMを率いていたアルフレッド・スローンの人柄によるとされてきました。それに対し著者は「政治的な秩序を支配者の人柄や被支配者の好意に依存するという人柄論は、きわめて危険である。それどころか、そのような見方が一般化するということは、GM自身が自らの強みの原因を理解していないことを示すがゆえに、一転して弱みともなりうる」と述べます(59頁)。

むしろ著者は、ある組織の特性は、それを担う指導者の人柄ではなく、その制度形態に左右されると見ます。


分権制によるリーダーの養成

このことは、ドラッカーが所謂“カリスマ”的な経営者の意義を否定する点にも表れています。

彼から見れば、運営に「天才やスーパーマン」を必要とするような組織は存続可能性が少なく、むしろ「ごく平均的な人間によるリーダーシップ」で充分なように組織されて初めて合格です。

そのため、ある組織が存続するためには、「納得しうる継承のルール」が必要であり、平均的な人間を指導者に養成するための機会が保証されていなければなりません。平均的な人間が「しかるべき試練」を経る機会が保証されなければ、偶然天才的な人間がその組織に現れるという“奇跡”を望むしかなくなります。

ドラッカーは、このような指導者・リーダーシップが多数養成されることが、第二次大戦後の企業において必要であると見ていました。20世紀の企業形態の代表が自動車産業に象徴される大量生産ですが、それは(ブレイヴァマンが『労働と独占資本』でより詳細に記したように)、労働者から熟練技能を得る機会が奪われ、労働者の組織化と労働の単純化が中心になる生産形態です。

労働者を組織化するという機能が20世紀の企業において中心になるからこそ、ドラッカーは、その機能を担う“リーダーシップ”が多数養成される必要性を指摘しました(社会思想史家の平子友長先生は『社会主義と現代世界』の中で、このように労働者を組織して生産性を上昇する点に「資本の権力」の所在を見出し、この組織化能力の重要性を認識し損なった点に、社会主義経済崩壊の原因の一つを見ています)。ドラッカーは次のように述べています。

「大量生産とは、たんなる技能の集積ではなく、広く適用することのできる一般原理である。その本質は、仕事の組織化をもって技能に代えることである。大量生産では、現場管理者の数はかつての熟練労働者よりも少なくなる。未熟練労働者の数は多くなる。しかし現場管理者に要求される知識と能力は、熟練労働者に要求された技能よりもはるかに大きい」(29頁)。

「現場管理者に要求される能力は、熟練労働者に要求されていた能力とは異質であって、より高度である。より理論的である。昨日の熟練労働者は仕事の道具の使い方を知ればよかった。今日の現場管理者は大量生産の原理を知らなければならない。・・・まさにアメリカの産業発展は、大量生産のリーダーを育成できるか否かにかかっている」(30頁)。

ドラッカーにとっては、このようなリーダーを育成する一つのメカニズムが、分権性に基づく事業部制と、各事業部の成果を客観的に測る基準(コストとシェア)の存在でした。それにより、それぞれの管理者の人間的性格に左右されずに、また人間関係が合う合わないに左右されずに、リーダーシップを育成できるというわけです。彼は次のよう述べます。

「GMの経営政策は、経営から恣意と独断を排除し、秩序と権威によるチームワークを機能させる。あらゆる権限を客観的な基準のもとにおくことによって、それらの権限を正統かつ強力にする。 
 こうしてGMでは、あらゆる権限が地位ではなく機能に基盤を置き、あらゆる決定が権力ではなく客観的な基準に基盤を置くという、真の連邦制が実現されている」(77頁)。

組織の働きが「機能」に基づくという思想は、90年代に出版された彼の著作でより重要性が強調されています。グローバル化に伴って、もはやビジネスという機能は国境だけでなく組織にも左右されず、名目的・法的に組織は存在しても、重視されるのは組織の地位ではなく各個人の機能とその結びつき(パートナーシップ)であると強調されます(“Management Challenges for the 21st Century”)。

このような人と人の対等性、パートナーシップ、すなわち「連邦制」の達成は、政治学者としてのドラッカーが資本主義の理想の中に捜し求め始めたものでした。


分権制と保守主義

同時に彼にとって強調されなければならないことは、GMにおける分権制が決して一つの教条として尊重されてはならないことでした。

「『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 2」でも取り上げたように、ドラッカーの考えでは、ヨーロッパでマルクス主義・社会主義・ナチズム・フランス革命などの流血を伴う革命運動が起こったのは、人間の理性によって真理に到達できると考える思想が生じたからでした。その理性信奉が自己のみを正しいとする傲慢さを生み、闘争をもたらしました。

これに対し著者は、アメリカの独立宣言の起草者トーマス・ジェファーソンやイギリス保守主義の思想家エドマンド・バークの現実に立脚した思想に自由の可能性を見ようとしました。

そこでドラッカーが重視したのは、例えば二大政党制により政権の方針がつねに懐疑に晒されるシステムの構築や、連邦制による地方自治の独立性などであり、それによって一つの考えがすべてを支配する可能性の排除でした。

そこで重視されているのは、“多元主義”という教条の現実化ではなく、反権威によって、一つの思想・一つの権威がシステムを支配し現実の変化に対応できなくなることを防ぐための制度的保証でした。

ドラッカーは、アメリカの政治において自分が見出そうとした理想の連邦制のあり方を、今度はGMという20世紀を代表するアメリカ企業に見出そうとしました。つまり著者にとってGMの分権制は、それによって各事業部が独自の裁量で行動できるため、つねに多様な考えをもつ社員を保持することを可能にしました。また各事業部の成果は客観的な尺度で判定されるため、社員間の間に感情・恣意による葛藤をできるだけ排除し、風通しのよい組織を作りました。同時に数多くの独立した事業部それぞれでリーダーシップを育成できることで、数多くのリーダーを輩出することができました。

ドラッカーが重視したのは、このような分権制は決して分権制のための分権制ではなく、組織のダイナミズムを保つために現実的に時間をかけて自然にできあがった制度だということです。

著者はアメリカ合衆国憲法の強みをつぎのように述べます。

「合衆国憲法は何をなすべきかを定めた計画ではなかった。実用本位の規則でもなかった。それは統治のための機関をいくつか設け、膨大な権限とともに限界を定めた。法についての客観的な規範を定めた。意思決定についての原則を定めた。
 それらの原則は、いかに行ってはならないかを定めるだけのものだった。例外は具体的な手続きを定めた憲法修正についての条項だけだった。統治の方法やシステムは現実の経験に任せられた。これが合衆国憲法の成功の秘密だった」(67頁)。

同様のことはGMにも当てはまりました。

「本社経営陣と事業部長との関係に適用すべき分権制のコンセプトや客観的な尺度についても、二〇年代のはじめには考えが確立していた。
 しかしこれらすべてのものが、組織と手続きの原則にすぎなかった。何を行ない、何を行なわないかについての原則ではなく、いかに行ない、いかに行なわないかについての原則だった。
 具体的な構造、具体的な組織、具体的な経営政策、具体的な意思決定は、具体的な状況や個性とのぶつかり合いの中で徐々に形成されていった」(67頁)。

ドラッカーは分権制は決して教条になってはならず、むしろ現実への対応を促すのであり、また分権制の長所を発揮させるのであれば、専制的なメンタリティをもつ幹部がいることがメリットになりうることを指摘します。

このように分権制が教条に堕ちてしまった例として、ジャーナリストのピーター・バロウズがhpの内部を取材したものがあります(『HPクラッシュ』)。そこでは、元々各社員の自律性を尊重して働きやすくするために、民主的に互いが対等に意見を述べる慣習がhp内にできあがったにもかかわらず、70年代以降はそのような“民主制”が“hpウェイ”として喧伝されるのに伴い、一つの習慣化した儀礼となり、現実への対応のための民主制ではなく、民主制のための民主制へと堕落していました。バロウズはここにhpの停滞の原因を見ています。これは、ドラッカーが理想とした分権制とは似て異なるものでした。

ドラッカーが観察したこのような分権制による連邦制の実現は、社会の変化に対応しながら、各成員が対等な立場に立ち、多くの成員がリーダーシップを担うチャンスを得ることができるという点で、ドラッカーの考える理想としての社会形態です。


『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 2に続く)

『文で覚える英検プラス単熟語』

2006年08月25日 | 語学

『文で覚える英検プラス単熟語』の『1級』『準1級』の二冊を、1年ぐらいかけてやりました。

と言っても全部やったわけではなく、『1級』はCDに収録されている文章をチェックして、『準1級』はCD3枚のうち2枚分です。それらの範囲では、一つの文章に一つの重要単熟語が含まれていて、そういう短い文章がずらっと並べられて、CDではネイティブの人がそれをどんどん読み上げていくというもの。本を見ながらその文章を聴いていくのが単語を覚えるのに一番効率的かなと思いました。

これは『DUO3.0』に影響された勉強法です。読んだことのある人はご存知のようにDUOでは、一つの文章に重要語句が効率的に散りばめられていて、そういった短文がずらっと並んでいます。

そういう文章をどんどん読んでいくことがホントに単語を覚える上で効率的かどうかはまだ僕には分かりません。そもそも何をもって「効率的」ととらえるかによるけれど。

僕自身は英語の検定試験を受けるために単語の勉強をしたわけではないし、試験問題を解いたりもしないので、どれくらい単語が効率的に頭に入ったかはまだ分かりません。

ただ、当たり前だけど、英検の1級用の単語を見たぐらいでは、英字新聞の英語には全然対応できないだろうとは思います。大意はつかめるかもしれないし、それができるのであれば十分かもしれないけど。

なんだかはっきりしない評価ですけど、勉強するペース作りにはいい参考書じゃないかと思います。Duoのように一つの単語に詳細な説明(反意語・類義語…)はありませんが、きれいに例文が並んでいて、重要語句がそこに含まれています。

(同じようなスタイルの単語集に、『TOEIC TEST頻出1200語』『TOEIC TEST必修1200語』があります。ただ、すべての例文がCDで吹き込まれていないのが残念な点です)。

スニーカーを買う

2006年08月24日 | 衣料・生活用品と関連して


楽天でスニーカーを買いました。値段は2500円ほどで送料込みで3000円。お店の店頭では4000円ほどで売られていたので、わりとお得な買い物だったのかも。

元々対面販売のお店で買うつもりだったのですが、どうしても欲しい色で自分に合うサイズがなく、諦めていました。靴をネットで買うという発想はなかったのですが、お店で別の色で自分に合うサイズは確認していたので、思い切って(?)ネットで買ってみました。まだ足と合わせていませんが、色が違うとサイズの大きさが違うと言うこともまさかないので、大丈夫だと思います。

でも、靴なんて絶対実際に合わせてみないとだめだから、ネット販売に向かないと思っていたけど、すでに結構ネットのお店があるんですね。

今回僕が購入したネットのお店では、一週間以内であれば返品を受け付けるそうです。ただし525円の返送料は購入者負担です。

ネット販売で安く買えるのであれば、有名メーカーの靴であれば、対面販売のお店でサイズを調べてネットで買うという人も少なくないのかもしれません。

これまで向かい合わなければ買わないと思っていたものも、どんどんネットで販売されている。お薬もそう。お薬も、向かい合って説明を聞いていると、こちらはなんとなくいい加減に、あるいは緊張して聞いてしまうことがあるけれど、メールのやり取りで詳しい説明を受けると、より自分に合ったお薬を購入できる場合があるかもしれない。

他にどんなものがあるだろう、「えっ、こんなものもネットで?」みたいなものは。


涼風

『幸せになるためのイタリア語講座』

2006年08月22日 | 映画・ドラマ
先日も言いましたが、ずっと映画を見ていませんでした。「映画ファン」と自認するには映画好きの人に申し訳ないぐらいしか映画はこれまでも見ていなかったのですが、レンタルのお店に行くのは習慣づいていたので、ながーく映画を見ていないとさすがに「最近はみていないなぁ」という感慨に耽っていました。

と言っても要するに映画ではなくアメリカのドラマ『ER 緊急救命室』のDVDを見ていただけなのですが。

レンタルに行くとなぜついつい『ER』に手が伸びたかと言うと、『ER』が面白いだけではなく、ドラマなのでとりあえず一話45分で終るから、2時間見なくてもいいという心理的な抵抗感のなさが大きかったように思う。気持ちに余裕があれば、二話見ればいい。だけど映画なら2時間ぶっ通しで見なきゃならない。それに比べればドラマは疲れたら、そのときの話でやめて次の日に見ればいい。そういう気軽さがよかった。と言いながら、借りたその日に一枚のDVDに入っている四話分を見ることも多かったのだが(四話で190分なので、見終わった後にぐったりしている)。

ということで、映画を見る忍耐力を忘れるのも悲しいので、久しぶりに映画を借りてみてみました。映画は『幸せになるためのイタリア語講座』。2000年に北欧のデンマークで製作されたものです。たぶん、世界的にヒットした、正確には世界各国でそこそこ話題になった映画だと思います。

主な登場人物は男三人に女三人プラス何人かの人たち。それぞれが夢の挫折を背負っていたり、面倒を見ている親が問題を抱えていたり、配偶者を失ったばかりだったりと、悲しさ一杯の人生を送っているのですが、そんな彼らが初心者のためのイタリア語講座での出会いを通して仲良くなるというもの。その過程で痛みと喜びみたいなものに直面したりします。

「大人のラブストーリー」というより「不幸でビンボーな人たちのラブストーリー」という感じ。この映画のよさは、そんな悲しい境遇をやさしく見つめて、見ている人をちょっとほっとさせてくれるようなところだと思います。

物語の進行がゆっくりで、それを退屈と見るか、独特の間合いと見るかは人によると思います。僕は18のチャぷターを三日ぐらいに分けて見ました。最初ちょっと退屈しちゃったのですが、それでも全部見終わった後には小さな満足感がありました。


涼風

It comes into bud.

2006年08月21日 | 日記


昨日は社会学者のSさんと、その後輩で同じく社会学者のTさんに誘われて、メイド喫茶に行きました。

Sさんは都市におけるアキバ系にまつわる文化に関してフィールド調査もしていて、店長にインタビューしたこともあるそうですが、その一環でその喫茶店に昨日も行ってきました。

メイド喫茶とは・・・と語れるほど僕は詳しくないのですが、要するにウェイトレスさんがメイドの格好をしてお客さんに対応してくれるところで(お店に入ると「お帰りなさいませ」と言われる)、最近はよくメディアでも取り上げられていますね。

一口にメイド喫茶と言ってもいろいろなヴァリエーションがあって、単にウェイトレスがメイドの格好をしているだけ喫茶店もあれば、注文などの際にお客さんと雑談できるところもあれば、もっと積極的にウェイトレスがメイドとして一つのテーブルに付くような所もあるそうです。

昨日行ったところは、二番目のようなお店で、ウェイトレスが注文を取りに来たり、食事を運んで来たりする際に、お客さんと雑談していました。

僕は初めてだったので緊張して何もしゃべれませんでしたが、頼んだオムライスにケチャップで文字を書いてもらえるというので、「オシムの言葉」と頼んだところ、ちょっと複雑すぎてウェイトレスの人は明らかに困っていました。

印象としては、ウェイトレスがメイドの格好をしている以外は、普通過ぎるくらい普通の喫茶店だということ。たしかにウェイトレスさんがお客さん(女性もいる)と話すのは普通の喫茶店と違いますが、それも立ち話程度であって、適当にウェイトレスも切り上げて去っていきますし、お客さんたちもそれを当然と考えているみたいでした。

昨日のお店は、内装も真っ白で装飾が全くないお店だったので、明日からいつでも普通の喫茶店として使えるような感じです。


涼風 

おこられた感じ

2006年08月20日 | 日記


神戸市立図書館に本の貸し出しの延長手続きに行くと、ちょうど前に予約した本がまとめて三冊来ていました。しかしその時に僕は貸し出し冊数限度の10冊を借りていたので、少しだけ取り置いてもらうことに。ライブラリアンに「もっと余裕をもって借りてくださいね」と言われたときは、なんだか怒られているような気がしました。

他に兵庫県立図書館と明石市立図書館からもたくさん本を借りている。もちろん期限内に全部読むことはできません。

だけど図書館に行くとついついあれもこれもと借りてしまいます。

こういうのってライブラリアンの人から見ればエゴイスティックに見えるのでしょうか?

誰かがどこかで言っていたけれど、司書の人は本当は本を借りて欲しくないそうです。自分がきれいに手入れしている本が借りられると、汚れてしまうから。自分が大事に借手入れしている本を、さも自分のものであるかのようにエゴイスティックに借りてしまう利用者のことが好きになれなくても、それは仕方がないことのように思う。

本も、本を貸す人も生きているのだ。


涼風

バレエ 『チャイコフスキー: 《白鳥の湖》』

2006年08月19日 | バレエ
DVDの『チャイコフスキー:バレエ《白鳥の湖》』を観ました。

映画『エトワール』を観て以来、バレエ関連の映像をちょこちょこ観てきたのですが、本格的な、つまり一幕から最後までの作品はやっと初めて観ました。

この『白鳥の湖』は主演がルドルフ・ヌレエフマーゴ・フォンテイン。ヌレエフは旧ソ連時代に1961年に西側に亡命した伝説的なダンサーということです。

白鳥オデット役のマーゴ・フォンテインという女性は、ヌレエフの亡命後に彼とコンビを組んで数々の名演を残したそうですが、びっくりなのがその年齢。ヌレエフ亡命時に彼が23歳だったのに対し、彼女はそのときすでに42歳。

バレエ団のパリ・オペラ座を取材した『エトワール』では、女性ダンサーは40歳で引退することになっていると団長が語っていましたが、このフォンテインと言う人は、普通なら引退を考える年齢でヌレエフとコンビを組み始めたそうです。

このDVDは1966年の舞台ですから、ヌレエフ28歳、フォンティンは47歳です。

この舞台でヌレエフは主演だけでなく振り付けも担当しているそうです。おそらく一流のダンサーが集う劇団で、主演を務めるだけでなく、振り付けも行うのですから、28歳の青年が何十人も参加するプロジェクトをコントロールしているんですね。

よほどずば抜けた才能を彼がもっていたということなのでしょう。

技術的に他のダンサーよりどれほど凄いかは僕には分かりません。ただ素人でも、あるいは素人だからこそ、ヌレエフとフォンティンには一種の“華”があり、オーラが漂っていることが分かります。

またヌレエフの鋼のような肉体が踊るとき、触れると切れそうなその動きは限りなくシャープで、空気を切り裂いていくようです。

『白鳥の湖』はダンサーの教科書のような作品なのでしょうが、観ていても、時々ドラマの展開とは関係なく、“バレエとはこういうもの”というような踊りを、とりわけ群舞で見せてくれているような気がします。

私はとくに第四幕での白鳥たちの群舞の動きと、そこに絡むオデット姫とジークフリート王子の踊りが好きになりました。

66年の映像ですが、DVDだからか、とてもクリアな映像で違和感は全然ありません。私は映像も音響も全然気にしない性質ですけど、チャイコフスキーの音楽も聴いていて弾む感じでとてもよかったです。


涼風


『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』 チクセントミハイ/ルイス(著)

2006年08月18日 | Book
“フロー理論”の心理学者ミハイ・チクセントミハイとおそらく同じく心理学者のスーザン・A.ジャクソンの共著『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』を読みました。

フローな状態、すなわち自分にとってしっくりことをしていて、とても“ノッている”状態になることについてチクセントミハイはこれまでにも書物で説明してきましたが、この本はスポーツにおけるフロー状態の特徴についてスーザン・A.ジャクソンと一緒に研究したもの。

ただ、もともと『フロー体験 喜びの現象学』『楽しみの社会学 』でも、フロー状態を説明する際にスポーツの事例は取り上げられていたし、この“フロー”な状態の特徴はスポーツにおいてこそもっとも識別しやすいもののように思います。


チクセントミハイの他の本とも内容は重複していますが、この本で再三述べられることの一つは、(スポーツにおいて)“フロー”な状態になるための条件として、自分の技能の水準と挑戦する水準とが緊張関係にあることの重要性です。

つまり、自分の技能よりもあまりにもレベルが高い挑戦は“フロー”になりにくく、同様に技能より下の課題でも、つまらなさを感じて“フロー”に至りません。自分の技能よりも少し上の水準に挑戦するとき、人は自己の限界に挑戦する意欲が湧きますが、そのときに自分でも思いもかけなかった能力を発揮しやすいというわけです。

このときの限界への挑戦で特徴的なのは、過剰な自己意識をもっていないこと。自分の技能よりもあまりにもレベルが高いと、それまでの自分の過去の経験を思い出し、自分の至らなさを意識させられます。つまり、本来スポーツの目的は体を動かすことなのですが、それとは関係ない“自己”にまつわる雑念に支配されるようになります。

それに対して自分の技能よりも少し上の水準に挑戦するとき、そのとき自分の意識がフォーカスしているのは、その時点の自分の技能水準が限界まで発揮された状態、あるいは自己ベストの能力を発揮してそれまでの限界を打ち破った状態です。そのときの行為者は、自分の意識が完全にそのスポーツ行為に向かい、過去や未来などの“自己”にまつわる雑念から解放されます。

この状態の時に人は最高の状態である“フロー体験”を経験することになります。

この“フロー体験”を“幸せの体験”とみなすとき、人にとって“幸せ”というものが簡単に得られるものではないことがよく理解できます。

自分の技能水準と挑戦水準とが均衡ではなく、わずかに不釣合いに挑戦水準が高いとき人は己の限界を突破する意欲を掻き立てられるのですが、そのようにして行為者の技能水準が高まったとき、必然的にこれまでの挑戦水準は物足りなくなり、もはや行為者にとって挑戦への意欲を掻き立てるものではなくなります。

すると行為者は目前の課題に意識を集中させることができなくなり、スポーツ行為以外の“自己”をめぐる様々な雑念(賞金、名誉etc...)に支配されます。

これを“幸せ”ではない状態とすると、どれほど才能に恵まれた人でも、つねに自動的に“幸せ”が与えられるわけではないことが分かります。どれほど才能があろうとも、つねに自己に対して意欲と集中力を掻き立てる挑戦課題を課さなければ、“フロー”な状態に至ることはできません。

このことは、才能を持って生まれた選手が自動的にベストプレーヤーになるわけではないし、観る者を感動させるわけではないことを意味します。

なんらかの部活動に所属したことのある人ならよく知っていると思いますが、誰から見ても才能に溢れた少年も、学校の部活動という空間の中で、スポーツ行為それ自体に集中せず、その部活内での権力関係で優位に立てることから、同じ部内の部員への虐めに走ったり、あるいは若いときの誘惑で遊びに走ったり。こういうことは学校の部活内だけでなく、プロスポーツのチーム内でもあるそうです。

プロと言っても多くは20代の青年で集まりですから、スポーツそれ自体に集中せず、同じチーム内での権力関係で優位に立ってまわりを虐めることや、遊び回ることに意識をフォーカスさせてしまう選手もいるそうです。

こういったスポーツ以外の心理的誘惑に負けてしまうと、どれだけ才能があっても、一流選手にはなれないし、なれたとしても長続きしないでしょう。

たとえばサッカーで足下のテクニックが上手い選手が一流になれない場合、それはサッカーは広いピッチ内でボールと人を動かすスポーツであることを意識して自分も走らなければならないことを理解することに失敗したときが多いようです。

そのサッカー選手は、生まれ持った足下の才能に安住してしまい、より上のサッカーというスポーツにおけるより高いレベルを目指すことを忘れてしまったのです。

このように、スポーツにおいて“フロー”を経験するためには、つねに自己を高めることができる挑戦水準は何かを考え続け、それを目指すための努力が必要になります。

このことは、フロー(=幸せ)を経験するためにはつねに努力が必要なことを意味します。ただ、その努力というのは、たしかにつらいものですが、旧来の道徳観による「苦労が大事」というものとは少し違います。

むしろその苦労は、自分が何を目指しているかハッキリし、それを目指すことに自分自身の中で納得感がある場合の苦労であり、ただ闇雲に「苦労が大事」と念仏をとなえることとがは全く違うでしょう。

この納得感のある苦労・努力ということと、自分の技能を少し超える挑戦水準を設定することの重要性とは結びついているように思います。

自分の技能を少し超えるところに課題を設定するとき、人はそれを達成することで自分がつけた足跡をはっきり認識し、その際に自分が達成したことを認識します。この達成感が自分はある方向に向かっているのだという満足感を与えます。このようにして得られる満足感が、その人に努力を持続させるモチヴェイションを与えます。

才能というものは、もって生まれたものかもしれません。しかし、自分の進む方向性を認識し、適切な課題を自己に与え、持続的に努力するよう自分を意識づけることは、まわりのサポートで可能なことのように思いますし、あるいはその人自身の意識の高さによって克服される場合もあるでしょう。

“フロー”あるいは幸せを感じることができるかどうかは、持って生まれた才能よりも、むしろ後者の、その時点での自分の技能・自分の目指す方向性の明確化・そのための適切な課題設定・それをこなすための努力などにより左右されます。

持って生まれた才能だけでプロ選手になる人は多いでしょう。ただ、一流選手になれるかどうかは、上記のような後天的な要素がかなり強いように思います。

またこのことは、私たちにとって安定した幸せというものが幻想であることを教えます。ある程度の物質的安定はつねに必要だと思いますが、それに加えて自己の限界に挑戦し続ける課題が自分になければ、その人が“幸せ”を感じることはかなり難しいのでしょう。

既存の秩序を壊して社会を不安定にすることはたしかに問題なのですが、バブル以前のように、仕事はつまらなくても誰に対しても組織の中でポジションを与える官僚制社会が、本当に戦後の日本の人々を幸せにし続けたかどうかも、考え直された方がいいような気がします。

重要なのは、製造業優位で薄く広く多くの人に仕事を保証できた経済体制が不可能になった今という時代に、それでも人に“幸せ”を与える条件とは何なのかを考えることです。もちろん、それは単に就業を不安定にする社会とは(絶対に)違うでしょうが、同時に誰もが同じように人生のルートを歩むことをよしとする社会でもないはずです。

ただ、変化をつねに要請される今の社会の中で適切な課題を設定することは、つねに困難を伴います。

例えばドイツW杯で日本はオーストラリア戦で同点にされたときに一挙にパニックに陥ってしまいました。グループリーグを勝ち抜くには、対戦する三国のなかでもっとも力が劣ると思われた豪州に勝たなければならず、1点リードしている時点では守り切ることが必要だったのですが、相手に同点にされた時点で、その試合に勝つというプランが崩れただけではなく、その1点でグループリーグ突破という目標すら無理だという妄想が選手の頭の中で広がったのではないかと思います。

豪州相手では引き分けはもちろん負けることすら充分予想できたのですから、勝てなかった場合でもどうすれば予選リーグを勝ち抜けるかを選手が考えていれば、そういう混乱には陥らなかったはずです。豪州戦に引き分けても、クロアチアに勝てば充分チャンスはありました。豪州に1点差で負けても、クロアチア戦で引き分ければ、ブラジルに勝てば予選突破が見えてきます。W杯で2点差でブラジルに勝つのは欧州の一流国でも困難ですが、1点差で勝つことは考えられないことではありません。1点差で勝てばよいのであれば、ブラジル戦で前半終了間際でロナウドに同点にされても、選手たちはモチベイションを後半でも維持できたでしょう。

豪州に勝てれば最高のスタートを切ることができたのですが、それはあくまで“最高”の想定であって、物事はつねに“最高”に進まないことは本当は誰でも知っているはずです。

要するにW杯での日本の敗退原因の一つは、最高の状態でないとき、また一見状況が混乱しているときに、それでも自分たちの集中力を維持するための適切な課題設定ができなかったことにあると想像できます。

チクセントミハイ/ルイスは、状況が混乱に陥った中で、それでもプレーし続けるために、「物事を単純化する」というあるホッケー選手の次の言葉をとりあげています。

「私は物事をできる限り単純にするようにしています。20のことが考えられたら、それを3つか4つの点に絞りこんで、常に、すべてのことを単純に、はっきりするようにしています。そうすると、気持ちがリラックスするのです」(171頁)。

また著者たちは、プレー中に自分の集中力を維持するための工夫の一つとして、「代替案を準備する」ことを挙げます。

「非常によく練られた計画でさえ、興奮した瞬間に行き詰ったり、だめになったりすることがある。このようなときに代替案が生きてくる。代替案は、不利な試合状況で用いるために、対処方法、つまり再び戦術に集中するための方法を用意することによって作られる。・・・試合を決定づける可能性のある場面で、どのように対応するのかを前もって練習しておくことにより、興奮しているときにでも適切に対応できる可能性が高まる」(173頁)。

このように、課題をつねに設定しなおすことは、スポーツに限らず、一般の人のライフプランでも有効なことなのだと思います。

私たちはつねに願望を持って人生を歩むのですが、大部分の人はその過程で挫折を味わいます。これは、私たちが世の中の価値観に合わせて願望をもつからですが、そうした一般的な価値観と私たち一人一人の固有な特性とが齟齬をきたすため、必然的にもたらされる事態です。

その意味では、挫折は、私たちにもう一度わたしたちの特性とその時点での能力に見合った課題を設定しなおすチャンスだとも捉えることができます。

心理カウンセラーのチャック・スペザーノは、人間の心理における「期待」と「目標設定」を次のように区別します。

彼によれば、「期待」とは、「物事がこうあるべきだと思い描くイメージ」です。この「期待」の特徴は、たとえそれが実現しても決して本人は満足できず、充足感をいだかないことにあります。

満たされても満足できないことが「期待」の特徴の一つですが、それは私の印象では「期待」が、外的に与えられた、つまり世の中の価値観に沿ってもつようになった願望だからだと思います。スペザーノは次のように述べます。

「あらゆる『期待』や要求の影には、過去の人生の重要な時期に満たされなかった欲求が潜んでいます。なんとかその欲求の埋め合わせをしようとして、さらなる『期待』をもつのです。ところがたとえ期待通りの結果が今ここで得られたとしても、過去の欲求がみたされたというわけではありません」(『セルフセラピー・カード』40頁))。

自分が内的に望んだというよりも、自分の欠乏感を埋め合わせるために、世の中の価値観に沿う願望を達成しようとするため、それがどれだけ達成されても、自分を内的に満足させるには至りません。

自分の外側にあるもの(金銭、名誉etc...)を求めることは、“フロー”な状態とは対極にあると言えます。

スペザーノは、このように「期待」に囚われた心理的状況を脱するための一つの工夫が、「期待」するのではなく、自分で「目標設定」することだと言います。

「『期待』することはストレスを引き起こす最大の原因のひとつです。…自分に『期待』をかけるよりも、目標を設定する必要があります。目標はたとえ外すことがあったとしても、修正して新たな目標を設定することができます」(41頁)。

混乱した状況の中で、物事が上手くいかないとき、自分で再度目標を設定することは、自分に合ったことと自分の能力に応じたことをもう一度吟味することを意味します。そこで適切な目標が設定されたとき、その人は“フロー”な状態に至るためのきっかけを得たことになります。

そこでは、もうその人は自分の外側にあるもの(金銭、名誉etc...)で自分を満たす必要はなく、その設定した目標に向かう過程それ自体に“幸せ”を体験することができます。チクセントミハイ/ルイスは、その状態を「オートテリック」なものと呼んでいます。つまり、自分の特性と技能水準にあったその行為に従事すること自体に喜びを見出しているのです。

“フロー”な状態自体は、目標を設定したり、努力で得られるものではないでしょう。それは、その道の一流の人にとってはつねに得られるものですが、普通の人にとっては偶然も作用している体験だと思います。

ただ、“フロー”自体をしあわせの絶対的な基準にしてしまうと、私たちの生の可能性を探る参考にはなりえないでしょう。むしろ参考にすべきは、“不幸せ”と“幸せ”の原因を探る上でフロー理論が示唆することです。

そのことの一つは、これまで述べてきたような目標の設定であり、集中力の持続のための工夫です。

私たちの集中力をそらし、行為自体を楽しむことを妨げているのは、自分の能力を超えた過大な目標だったり、行為の結果のみを問題にしたりすることにあります。行為の外側に「期待」をもつとき、私たちは往々にして過去に満たされなかった体験を外的なもので満たそうとしています。

そうではなく、その行為自体に自分たちが集中できる、そのような目標設定が、私たちを余計な雑音から解放します。

人の幸せに関するこうした視点は、これからつねに変化を強いられる社会状況の中で、自分や社会について考えを深めてくれるもののように思います。


参考:「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』 「フロー」な状態としてチクセントミハイがよく挙げる八つの特徴が紹介されています。

   “Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

   『楽しみの社会学』ミハイ・チクセントミハイ(著)

   自己と“流れ” 『フロー体験』ミハイ・チクセントミハイ(著)

   『フロー体験 喜びの現象学』ミハイ・チクセントミハイ(著)

日本2-0イエメン

2006年08月17日 | スポーツ


まず昨日のイエメン戦(サッカー日本代表試合)で印象的だったのは、NHK-BSの山本さん(前ジュビロ監督)と原さん(前東京FC監督)の解説。二人ともコーチ目線で見ていて実にシビアというか冷静というか。前半のサントスについて「このままでは後半に交代ですね」とか、前半の日本の出来について「これでは今までと変わらない」とか、率直に思ったことを言っていて、それも客観的に感情を交えずに言っていたので、聞いていてなんだか笑ってしまいました。こういうところがNHKのスポーツ中継のいいところです。アナウンサーもへンに盛り上げようと思わないし、解説者もズバズバ言います。

なかなかナイスな放送でした。

試合の方は、ご存知の通り、引いて守る相手を崩せず、また崩すための工夫も前半はなかなか見られず、ストレスの溜まりそうな試合でした。

ただ、公式戦でのこういう展開を見ていて、こういう試合を続けながらなんとか勝ち星を重ねたジーコの心労・プレッシャーも相当だったろうとも思いました。

観客であるわれわれはもっといいチームにできないのかなと思っていましたが、アジアでの負けは許されない状況で、引いて守る相手を崩せない状況で、それでも最後にはこじ開けるだけの忍耐力をチームにもサポーターにももたらしたのは、ジーコの無視できない功績なのかもしれません。

昨日の試合では前半でもバーに当たる巻のヘディングシュートなどがあったし、後半には羽生の加入とサントスのサイドからの攻撃で、自分たちで相手をひきつけスペースを作るゲームができていたと思います。

さて、次は海外組を召集するそうなんですが、誰を呼ぶのだろう?


涼風

参考:オシム・ジャパン 2010年への挑戦「チームで戦うという基本を忘れた日本代表」 大住良之

虫が少ない

2006年08月16日 | 日記


今年の夏で気づくのは、少なくとも僕の家に関しては、虫が少ないということ。

夏になると蚊はもちろんですけど、夜にデスクスタンドを点けていると、そのまわりによく小さな虫が寄ってきました。

でも、今年は虫がめったに来ないし、刺されることも少ない。

あまりの暑さに虫もダウンしているのだろうか、と本気で考えてしまいます。


涼風