joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

テレビよ、さようなら

2009年03月17日 | テレビ
松坂すごいなぁ~ っって、全然観ていないんですけど。



新聞に地デジのこんな記事。

地デジ:公共施設の買い替え支援策も 与党検討


池田信夫さんが主張していた通りのシナリオなわけですね。

地上デジタルが必要かどうかなんて僕にはわからない。

ただ、うちの父親や母親のように、盛んにテレビで宣伝されているのを見て、変えないかんなぁと思って薄型テレビに変えた世帯は多いだろう。べつにお金持ちではなく、むしろ年金暮らしのお年寄りの世帯でもそんな風に刷り込まれた世帯はかなり多いのではないか。

政府がどれだけ愚策を進めても、日々の生活に忙しく、情報も持たない庶民にはその当否を判断する能力などない。

ネットによる動画配信が本格化していっているので、個人的にはほとんどテレビは観ていない。僕の部屋にあるテレビは寿命が来たら、もうテレビとはサヨナラかもね。

冷静に考えれば、あれだけ少ないチャンネルのためにあれだけ高い買い物をするのは無駄だ、と思えるくらいの時代に来たわけですね。


さようなら、テレビ。

「リーダーたちは、かく語りき」『プロフェッショナル 仕事の流儀』

2007年05月30日 | テレビ
昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」は、「リーダーたちは、かく語りき」と題して、これまで登場した管理職の人たちの言葉から、あるべきリーダー・上司の特徴を紹介していました。

その内容は、私にとっては意外なものは一つもありませんでした。私がこれまで本を読んだりして得た知識以外のものはありませんでした。そういう意味では、目新しさのない内容でした。

ただ、じゃあ面白くなかったのか?と問われると、「面白かった」です。

リーダーとして必要な条件を各界のトップの人が語っていたのですが、それはやはり部下との人間関係が話題の焦点になります。

「自分の部下に夢を持たせる。この会社にいたら自分の生活がもっと良くなると思わせるようにすることだ」

「チームの中に問題児がいたとしても、その“問題児”を排除しないこと」

「ある意見(正)に対して、反対の意見(反)をぶつけて刺激を与えると、新しい概念(合)が生まれる。そしてさらに、「反」をぶつけて、新たな「合」を生み出す・・・」

「同じことを何度も言い続けること。人間が行動に移してもらうには、同じことを繰り返し言って、自分の信念を理解してもらうんです」

「正しいことよりも共感してもらえることが大事」

「大事なのは、間違いは誰にでもあるということ。そして間違えたときには、すぐに修正をすることです」

「話すことより聞くことのほうが効果をあげることも多い」

どれも、経営者が書いた自己啓発的な本や、ポップ心理学の本を読めば、書いてあることばかりです。

おそらくこれらのことは、ずっと以前から人々に知られていた、リーダーとして必要な条件なのだと思います。きっと、いつの時代でも、同じことが誰かによって語られていたのでしょう。

しかし、ではなぜそれが今もなおこうして語られ続けているかというと、これらのことがリーダーとしては大事であるにもかかわらず、きっと実践することはひどく難しいからでしょう。

たとえば、大学で経営学や社会科学などを研究している人たちは、上記のようなリーダーとしての条件が、社会を運営していく上で大事であるということを強調しないかもしれない。なぜなら、そこには目新しい知識は無いからです。

「学問」をしていく上で求められることは、そこに「新しい」ことを発見するかどうかです。ある社会学者はかつて、「新しいことを書いていない本は存在してはいけない」と言いました。

そのために、学者たちはつねに「オリジナルな」「新しい」発見を論文に書かなければ評価されません。

それはそれで大事なことなのですが、しかし一般の社会で動いている人たちにとって一番必要なことは、上に挙げたような、誰もが理解しているけれど、しかし実践するのは難しいことを、ちゃんと理解して実行することです。

先日、人はそれぞれの資質から、本を読んで情報を得る人、人間関係から学んで情報を得る人、運動をして情報を得る人、芸術をすることで情報を得る人など、様々な情報取得のタイプがあるということを書きました。

おそらく、「新しい」(目新しい)ことは、本を読むことで私たちはその情報を得ることができます。それに対し、他の情報の得方というのは、文字にすれば目新しくは無いのですが、しかし実践するのがとても困難で、かつ人が生きていく上で実はとても大事なことを得やすいのだと思います。

こう言ったからといって、本・文字によって情報を得ることを否定するわけではありません。ただ、そこに価値を置きすぎては、社会を動かす上で一番大事な知識は何かという問いに対する答えを見誤る危険があるようにも思います。

上に紹介した言葉の一つが表している様に、

どれほど単純に見えようと、「同じことを何度も言い続けること」で初めて人間は動くことができるし、また人間の行動が伴わなければ、その知識は価値が薄いとも言えます。

最近同じことを言っていますが、やはり現在の学校教育は、大学までは極端に本・文字による情報の取得に価値を置き、そこからいきなり社会に出て別のタイプの情報の取得を迫られるというようになっているのです。

情報の得方

2007年05月29日 | テレビ
最近、「人にはそれぞれの情報の取得の仕方がある」という話を聴きました。

つまり、本を読んで情報を得るタイプの人がいれば、運動をすることで情報を得やすくなる人もいるし、芸術をしていて沢山情報を得るタイプの人もいれば、人と会うことで情報を得る人もいるということのようです。

「情報」と言うと私たちは文字の内容をすぐに思い浮かべます。

しかし、人と会うことで、社会の動きや人間について深く学ぶ人もいるでしょう。文字では分からない、具体的な人の感情の機微を理解したりもできます。

芸術やスポーツは、それに打ち込むことで、どのようにして、またどのような時に人間はその能力を最大限発揮するようになるのかということを知ることができます。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」を見ていて思うのは、主に、芸術や人と会うことで多くの情報を得て、世界への理解を深めるタイプの人たちがこの番組で取り上げられているのだな、ということです。

つまり、社会に生きる多くの人々が求めているのは、人間関係の知性や芸術的知性だということです。

おそらく、多くの社会人はそのような知性が求められるということなのでしょう。

しかし、学校教育では、そのようなタイプの知性・情報の取得の仕方は、主流ではありません。学校教育では、「文字」に特化した情報が重視されます。

具体的にどうすればいいかは分かりませんが、このような「文字」への集中が教育の一つの問題なのでしょう。

あるいは、教科ごとの「文字」と現実との結びつきを生徒がイメージしにくいことが、子供が勉強嫌いになる一つの原因のように思います。

「自分を信じる強さを持て バレリーナ吉田都」

2007年04月25日 | テレビ



きのうのNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、「自分を信じる強さを持て バレリーナ吉田都」でした。

「吉田都」という名前はどのくらい有名なのだろう?私は1年前のこの時期には知らなかったけれど。バレエファン以外の人でこの人のことを知っている人はどれくらいいたのだろう?

「イチロー」や「中田英寿」は誰でも知っている。でも、吉田都さんという人が到達しているレベルは、おそらくイチローレベルなのだと思います。つまり、世界のトップの中のトップということ。おそらく熊川哲也さんも。

私はバレエの技術的なことは分からないので、外面的な経歴からしか判断できませんが、世界の三大バレエ団と言われているイギリスのバレエ団で最高位に上り詰めているわけですから、やはりすごいのでしょう。

日本人がヨーロッパの伝統芸能の世界でそこまでたどり着くということはすごいことのはずなのに、なぜか世の中全体が盛り上がっているという感じはしない。イチローや中田英寿はあれだけ騒がれたのに。それとも、たんに僕が野球とサッカーについてはちょっと知っているからであって、世の中全体はイチローや中田に対してそれほどすごいとは思っていないのだろうか。


昨日の番組は、それなりに楽しみにしていたのですが、何かあまり意外性がなかった。これは製作者たちの掘り下げが浅かったのだと思う。

ストーリーは他の回と同じ展開です。挫折をきっかけに世界観が変わり、それまでとは取り組み方が異なるというもの。

それはそれでいいのですが、昨日はあまりにもその類型的な展開をなぞりすぎて、吉田さんからしか引き出せないような話がなかったと思う。

例えば、日本人がバレエをすることについて。素人の私には、おそらくこのテーマは日本のダンサーたちがもっとも葛藤する問題だと思う。

スポーツではなく芸術である以上、単に技術的なことではなく、その踊りが表現するものにダンサーがどれだけ感情移入できるかが重要になるはずです。

海外で暮らした人や日常的に欧米の人と接する人はわかっていることだけど、やはり欧米の人の対人関係における我の強さというのは日本の人の比ではない。それぐらい強く振舞っていないとやっていけない社会なのだとよく聞きます。

たしかに同じ人間である以上は根っこの部分で共通するともいえますが、性格の強さという点で欧米と日本の人たちの間には明らかな差があるのです。

そのような、明らかに日本社会とは異なる伝統を持つ社会の芸術に取り組むことは、自分のもつアイデンティティがその芸術表現に合うのかどうかという点で、大きな悩みに直面するものなのだと思います。

彼女自身も言っていたように、吉田さんは外見はごくごく平均的な日本人に見えます。そのような人が、欧米社会でも理想とされる体型の人たちが集まって演じている芸術に取り組むのです。単純に見栄えの点でも周りとの違いは明らかだし、それ以上に、役柄になりきって感情表現をする際には、その欧米人という役柄と日本人という自分のアイデンティティとの落差はすごいはずだと思えるのです。

例えば、日本の俳優が欧米の映画に出て、欧米人たちに囲まれて同じように欧米人の役を演じている姿を想像してみます。違和感なく役柄の欧米人を演じることのできる俳優など存在しないのではないかと思います。

でも吉田さんがしていることは、まさにそれです。その上で彼女は本場のダンサーたちに認められているわけです。

だから、そこに到達するまでにどのような試行錯誤があったのか、もっとじっくりと掘り下げて欲しかった。

単純に挫折を乗り越えるというストーリーではなく、文化の相違に直面して、日本人としての自分が欧米の伝統芸能を演じるということに、どのように納得して行ったのか、もっと吉田さんに語って欲しかったなと思います。

楽しみにしていた回だけに、少し残念でした。

「人の中で、人は育つ 中学教師鹿嶋真弓」

2007年04月05日 | テレビ


経営コンサルタントの神田昌典さんの本の中で私が初めて読み、そして最も感動したのが『成功者の告白』でした。この本は、一人の青年が会社をやめ起業し成功するまでに起こる出来事を、おそらく神田さん自身の経験やまわりの経営者に対する観察を基に描いたものです。

主人公タクは立ち上げた会社が軌道に乗ったにもかかわらず、資金繰りやチーム運営の面で危機に立たされます。彼は起業の先輩である神崎にアドバイスを求めたところ、神崎は一見ビジネスとは関係ないアドバイスをします。

神崎は「チームを育てることは子育てと同じ」と言います。すなわち、子育てには、まず五・六歳までは母親の無条件の愛情が必要で、そこで子供は自分は安全であるという基本的信頼感を身につけること。それがなければ厳しいしつけは単に子供の恐怖心だけを煽るということ。その安心感を子供にもたせた上で初めて、父親から社会的生活をする上での厳しさを教えることが効果的なこと。

神崎によれば、多くの経営者は子育てを知らないから、まず男性的な厳しさを社員に押し付けようとし、それで会社は混乱し、ルールや決まりごとなどの軍隊式マネジメントで社員を余計に縛り上げることになります。しかし心理的に抑圧され恐怖を感じながら行動している社員から構成されている企業では、社員が病気になったり顧客への対応が上手く行かなかったりなどの問題が出てきます。

神崎はそのような状態に陥ったタクに対して、次のような処方箋を提示します。それは「グッド・アンド・ニュー」というボールを使ったゲームです。

このゲームは、まず6人ぐらいのチームを作り、ボールを一個渡します。ボールをもっている人は一分間ほど、「24時間以内に起こったいいこと、もしくは新しいこと」を話す。話し終わったときに周りの人は拍手します。そして次の人にボールを渡し、渡された人が今度は話します。合計で10分ほど。

神崎はタクにこれを毎日するよう言います。彼によれば、これをすることで、人は出来事のプラスの面を見つけやすくなると言います。いいことというのはなんでもよくい、例えば映画を見て感動した、電車で座れたなど。いいことや新しいことは、情熱をもって語られたり、笑いを呼んだりしやすい。お互いをよく知るきっかけにもなり、今まで暗く淀んでいた雰囲気が明るくなる、という神崎のアドバイスです(p.218)。

本の中では、このゲームをする際にボールを使うことが効果的な理由も述べられています。

こうした少しの「こころをひらくこと」(ギデンズ)で、実際にタクの会社は大きく変わり始めます。

この話しを思い出したのは、NHKの番組で中学校の教室からいじめや暴力をなくすことに成功している教師の番組をみたからでした(「人の中で、人は育つ 中学教師鹿嶋真弓」)。

鹿嶋さんが教室を立て直すために用いた方法の一つが「エンカウンター」(構成的グループエンカウンター)という授業でした。それは次のように説明されています。

「例えば、「愛し、愛される権利」「きれいな空気を吸う権利」「遊べる・休養できる時間を持つ権利」など鹿嶋が提示した10の権利のうち、何が一番大事かを生徒達に話し合わせる。6人ほどのグループに分かれ、それまで話をする機会の少なかった生徒同士も意見を交わす。大事にする権利も、その理由もそれぞれ違う。話し合うことで、互いの価値観を知り、関係が深まっていく」

こうした方法により、生徒たちはお互いが考えていることを知り、コミュニケーションがしやすくなるそうです。またそれにより、例えば授業で分からないことがあったときに生徒は「わからない」と先生に言いやすくなり、学習面の向上も見られるそうです。

この鹿嶋さんが取っている方法は、まさに神田さんが紹介している方法と同種なのだと思います。何か大袈裟なチーム運営の変革をするのではないこと。しかし、ほんの小さなことですが、最初はとても勇気がいることです。自分が大事に思っていたり、自分にとってよかったことを話すのは、とても照れくさいから。しかし、その照れくさいことを話し続けることで、人と感情的な結びつきが生まれることを両者は指摘します。

この方法が、中学校と企業というある面で似た組織で効果を上げているという面も興味深いですね。中学生は成績・受験で業績を上げなければならないというストレスを抱え、社員は売り上げを上げなければいけないというプレッシャーを抱えています。ただでさえ男性的な競争にさらされているのに、その上に管理者が厳しいしつけを施そうとすると、余計に生徒・社員の心理的な抑圧が高まります。その影響として、一部の生徒・社員は管理者に反抗します。

もちろんこれだけで組織がよくなることはないでしょうけど、こうして感情を分かちあい、他の人に承認されていることを確認しあうことが、競争が最もダイレクトに行われている企業や学校という場所では必要なのかもしれません。

カリキュラムを増やす減らすよりも、もっと重要なことが触れられている番組のように思いました。




写真:桃花

「ベンチャー企業経営者・南場智子」プロフェッショナル仕事の流儀

2007年03月09日 | テレビ

             海、雲、橋


昨日のプロフェッショナル仕事の流儀は、「仕事こそが人を育てる~ベンチャー企業経営者・南場智子」でした。

あらすじ自体は、例えば一年前に見た「夫と会社はこう育てる 経営者・秋山咲恵」と似ているし、ビジネスの現場ではよくあることだと想像できます。

コンサルタントから自ら起業するようになり、失敗・挫折を乗り越えて現在の成功へというストーリーです。また指揮官として社員を規則で縛り付けるのではなく、それぞれの社員が自由に個性を発揮し自分の裁量で仕事をできるようにモチベイトしていくという側面も、例えば「信じる力が人を動かす 経営者・星野佳路の仕事」とよく似ていたと思います。

ただよく似ているからと言って、それを実践できる経営者はやはり多くはないのでしょう。多くはないからこそ、そのような傑出した経営者はメディアで取り上げられます。メディアでは有能な経営者だけが取り上げられますが、それはおそらく経営者の中でも特別優秀な人たちなのだと思います。

テレビ画面を見ていて思ったのは、職場の雰囲気からすごく自由さがあふれているように感じられること。スーツじゃなくてカジュアルな服装が許されているということもあるけれど、社員の顔にやたら活気がみなぎり、それも体育会系的なノリとは違って、とても自由な感じがしました。

誰もが南場さんや南場さんの会社の社員のように生きれるわけではないし、またそうする必要もないでしょう。それでも画面に映った人たちの多くがとても幸せそうに働いているように見えました。ビジネスで生きる人たちがあこがれる理想のように見えました。

「コンピュータ研究者 石井裕」『プロフェッショナル』

2007年02月15日 | テレビ

             黄輝


昨日の夜中にNHKの~コンピューター研究者・石井裕~を見ました。

コンピュータのことは何も知らないので、専門的なことは分からなかったけど、石井さんの顔は印象的だった。

夜遅くてちょうど本でも読みながら寝ようとしていたけれど、石井さんが宮沢賢治の詩「永訣の朝」が好きだというエピソードがあって、そのまま最後まで観てしまいました。ちょうど僕も宮沢賢治の詩を読んでいて、そのときも枕元に詩集があったので。

石井さんの言うtangibleなコンピュータってどういうものだろう?

僕がパソコンを使っていて思うのは、インターネットを嗜癖化することを防ぐのは、人間的なぬくもりがある形態ではないだろうか?ということ。

そのときの人間的なぬくもりとは具体的にどういうことか分からないけど。ともかく、使う必要のあるときにだけパソコンを使うような習慣がついて、他にやることがないからネットを見るという習慣をやめさせてくれるようなコンピュータを作って欲しいなとよく思います。こちらの意志が弱いんですけどね。

コンピュータやネットが、ヴァーチャルなものではなくて、具体的な物体として感じられるほど、それを嗜癖の道具ではなく、生活用品として使えるようにならないかな?tangibleという概念がその手助けになってくれないだろうか?


恥ずかしい話

2007年02月01日 | テレビ

             「枯葉」


わたしも「あるある」にだまされて、ある健康法をほぼ毎日していました。最近まで。

いや、騙されていたかどうかも分からないけど。ひょっとしたら、捏造は10回に1回か3回に1回程度だったかもしれないし。

3回に1回だったとしても、3回に2回は正しい情報を流していたことになる。捏造が3回に2回だったとしても、3割は正しい情報を流していたことになります。だから、僕が「これはいい」と思ったある健康法も、間違っていないのかもしれないけど。


「どん底の会社よ よみがえれ 弁護士・村松謙一」『プロフェッショナル 仕事の流儀』

2007年01月12日 | テレビ

             “Trees in the park and crosswalk”


昨日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、会社再生に携わる弁護士の村松謙一さんが取り上げられていました(「どん底の会社よ よみがえれ 弁護士・村松謙一」)。

その中で印象的だった言葉は、政府の委員会に呼ばれた村松さんが、潰れる会社をすべて助けなければいけないのか?と聞かれて、「100%助けなければいけません。企業の救済は生命に関わることですから」とおっしゃっていたことです。

例えば、経済構造や消費者の趣向が転換する中で、国の主力となるべき産業は変化していきます。このときわたしは、時代から取り残される産業への保護は断ち切り、新しい産業が成長しやすい基盤を整えればいいのでは、と考えます。

これ自体はおそらく間違った考えではありません。しかし同時に私の中で、「それでは仕事を失う人やその家族はどうなるんだ?」という疑問が出てきます。

おそらく社会科学的に考える場合、より多くの人を助けて国の経済全体のパフォーマンスがよくなることを願っているのですが、どうしてもその言葉は「時代遅れ」の仕事に携わっている人たちにとって冷徹なものに聞こえます。

このとき社会科学的に考える私がもっているエクスキューズは、「不都合な真実を伝えるのが社会科学の役目だ」という言葉です。

しかし私自身がいつもこういう言葉には違和感を感じます。社会科学が全体の繁栄を願い、今困っている人の状況の改善を願っていることは確かですが、どこか血の通っていない言葉に感じます。

どうしてわたしがそう感じてしまうのかについて、昨日のテレビで村松さんの言葉や姿を見て少し分かったように思う。

ようするに、村松さんがやっていることは、『ER 緊急救命室』のドクターたちと同じで、来た人は全員助けなければならないし、目の前で死にそうになっている人をたくさん見ているからこそ、「100%会社は救済しなければならない」=そのつもりで仕事をしなければならないという覚悟をもっているのでしょう。

それに対して、「時代遅れの産業から新しい産業へのシフト云々…」を語るときの私の頭の中には、机上の上での「国民全体のパフォーマンス」という概念があるのですが、まさに生死をさまよう場面にいる人の状況を想像する力が欠けているように思えるのです。

つまり、私自身が「国の経済のあり方」ということを考えるときは、村松さんとは違って、まさに生死をさまよって迷う人たちのことを想像する態度が私には欠けているのです。

おそらく「国の経済のあり方」ということを考えるときに求められることは、「時代遅れの産業から新しい産業へのシフト云々…」という次元で思考をストップをさせないことです。その考え自体はいい考えかもしれません。しかしそれは「一人死ぬけど99人助かるからいい」という考えです。そうではなく、社会科学に求められることは「100人助けるにはどうすればいいか」を真剣に考えることではないかと思います。99人まで助けても、残りの一人をどうやって助けるかを考えることです。

おそらくその解答は、簡単には見つからないでしょう。「時代遅れの産業に携わる人」には、補助金を削りながら、最低限の生活を営むだけの援助をするのか?あるいは、新しい産業に対応できるよう教育のチャンスを(どの年齢の人にも)与えるのか?

そういう難しい問題を考えたときにはじめて、科学の論理は生活の実感に応えるものになるように思います。つまり、現実の推移を論理的に分析するだけではなく(それだけでも大変で難しい仕事だけど)、新しい時代で落ちこぼれそうになる人を一人残らず助けるという問題に試行錯誤しながら取り組むことによってはじめて、社会科学は高みにたった机上の空論ではなくなるように思います。


涼風

よくわからない事情

2006年10月31日 | テレビ


昨日のNHKの番組『クローズアップ現代』で、人を採用したくても応募者がいない地方の企業の現状が取り上げられていました。ちょっとネットで検索してみても、多くのブログで取り上げられています。

ある山梨の企業は、東京に近いにもかかわらず応募者が足りなく、山形に会社の機能を一部移して人確保に努めるようです。

途中からしか見なかったので事情がよく分からなかったのがもどかしかったです。この会社は製造業のようでしたが、理系の人を探しているから採用できる人がいなかったのでしょうか。それとも文系の人でもよかったのにいなかったのだろうか。

新卒採用で人を採れなければ、他に20代で仕事を探している人はいくらでもいると思います。そういう人を採らずにわざわざ山形まで本社の機能を移してまで人探しをしようとするというのは、それだけ高いスキルをもった人を探しているということなのでしょうか。

それとも、文系でもいいのに大卒者を採用できなかったのでしょうか。

「格差格差」と言われ続けているし、僕もそれに同調しているけど、日本の経済が上向きになっているのはたしかなようですね。もちろん、それが非正規雇用の数が増えたことによるものなら、人々の生活はよくならないので問題です。

ただ新卒採用の増大ということは正社員のチャンスが広がっていることなので、いいニュースなのだと思います。

「失われた十年」が出口の見えない不況のように見えたけれど、各企業の経営の方向性の調整がこの15年ほどでやっと上手くいきだしたということなのでしょうか?



この記事はあまりにも「従業員」よりの文章になりました。経営者の事情の深刻さよりも「従業員」の立場をすぐに気にすると言うのも、一つの偏向ですね。

『ゆるナビ』

2006年09月07日 | テレビ


きのう、たまたまNHKの『ゆるナビ』という番組を見ました。と言っても全部じゃなく、ほんの一部なのだけど。

番組の雰囲気としては、なんというか、アロマセラピーの道具も扱うおされな雑貨屋さんを番組にした感じです。

番組の中の「○○のない暮らし」というコーナーで、千葉の九十九里浜に喫茶店を開いている夫婦が取り上げられていました。そのお店の雰囲気はすごくよかったです。ものすごくシンプルで清潔な感じのお店です。

このお店では、お客さんに自分の趣味を押しつけたくないという意図で、BGMを流していないそうです。

海の近くで、自分たちのお気に入りのモノを揃えて、頭に描いていたお店を実現できて、とても幸せな人たちだなと思いました。

ぼくはフードビジネスについてはまったく詳しくありません。ただ、あまり広いとはいえない店内で、食事よりもお茶・コーヒーをメインにしてそうなお店で、果たして経済的にやっていけているのだろうかということも思いました。

でも、やっていけているからそのお店は存在するし、その夫婦の人たちも赤ちゃんを育てているし。

なんだか、こんな幸せそうな人たちがホントにいるんだ、という感じの人たちでした。


涼風

やさしいニュース

2006年08月05日 | テレビ


テレビが下品というのは、おそらく今に始まったことじゃない。昔は野球拳を放送していたらしいし。

ただ、ワイドショーだけじゃなく、夕方のニュースでの放送ですら、ナレーターの声がどうしようもなく下品に聴こえます。

子供が死んだり陰惨な事件を報道しているのに、それを説明するナレーションがひたすら煽るような下品な声で、悲劇に見舞われた人たちの心情を逆撫でするようです。

またアナウンサーたちも一応真面目な顔をして悲劇を報道するのですが、その顔がインスタントに作られた真面目さであることが伝わってきて、悲劇にあった人たちの気持ちに心情的に共感しているようにはとても見えません。テレビの(下手な)演技者としてわざとらしく真面目な顔をしているだけのように感じます。

こういう傾向は夕方のニュースや夜のニュースにも顕著になっています。

こういう傾向が今になって初めて起こったことなのか、それとも昔からなのかは分かりません。単に僕の感受性が変化しただけかもしれないからです。

ただ、どうしても、ニュース番組はニュースの内容について真剣に考えてないように感じます。


と、こう書いて、ではどういう雰囲気を僕はニュースに期待しているのだろう?

やはり冷静で客観的な報道。今のニュースは、とても感情的です。何が善で何が悪かを分かりやすい図式で画面に作り出し、それに煽るようなコメントをつけて、“糾弾”します。

そのような感情的な報道を見ていて不快に感じるのは、そこに“被害者”“弱者”に対する本物の共感はなく、善悪の感情を煽ることで視聴者の気を惹こうとする作用だけを感じるからです。

何が善で何が悪かを安易に決め付けるとき、そこに本物の優しさや善意はなく、“罪人”を罰そうという残忍さを感じてしまいます。

やはり、そういう残酷さを感じて、僕はニュース番組に不快さを感じるのでしょう。

逆に一つに事件に対する多面的な視点や詳細な情報をつけるほど、人は残忍な感情で他人を罰することができなくなります。すると、意図的に作り出した善意ではなく、自然でニュートラルな優しさみたいなものが伝える側にも見るものにも生まれるものだと思います。

そういう意味では、やはり僕は人の優しさに接したいのでしょう。


涼風

「ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~ 」

2006年07月24日 | テレビ
昨日24日の夜にNHKスペシャルで「ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~ 」という番組が放映されていました。低所得で長時間労働を強いられている人たちの現状を取材した番組です。個人的にはショッキングなドキュメンタリーで、激しく感情を揺さぶられる映像でした。

その中で印象に残ったことの一つに、ある大学教授が低所得できつい労働を強いられている人の映像をスタッフに見せられて、次のように述べていたことです。

「こういう映像を見て、じゃあ可哀想だから福祉にお金をつぎこみましょうという風に考えては駄目なんです。国家の予算には限界があるんですから。だから規制緩和をして稼げる人にいっぱい稼いでもらって、その人に税金を払ってもらえるのがいいんです。そういう風に全体を見なくては駄目で、可哀想だからという理由で困っている人にお金を支出してはいけないんです。」

「子供の教育には税金を投資すべきです。機会の平等を保証して、子供がやりたいことを目指して挑戦できる社会になる必要があります。ただ、挑戦して失敗した人たちを国家の財政で助けてはいけません。」

他の識者が深刻な表情で低所得の人たちの問題を指摘し、ドキュメンタリーもその状況の深刻さを強調する映像を流す中で、この大学教授の方だけが明るくハキハキと上記のような趣旨の発言をしていたのは印象的でした。


彼の言う「規制緩和」というのが非正規雇用による労働環境の悪化を放置するものだとしたら、それは結局は富める者とそうでない者との差を固定化するだけになります。

規制緩和によって結果的に国家予算が増えるとしても、それが子供への教育には使われても、現状の労働環境の改善につながらないのであれば、必然的に“敗者”を作り出すシステムを志向することになります。


大雑把な議論ですが、“チャンス”というものは子供にも大人にも与えられるべきです。そのためには、予算は子供の教育だけでなく、中高年の人たちがチャレンジする機会の提供のためにも使われたほうがいいでしょう。「失敗した人たちに対して国家が面倒見てはいけません」という彼の意見は、だから社会のためにはならないのではないかと思います。

低所得の人たちへの支出は福祉依存を生むのではないかという怖れを上記の財政学の教授はもっているのかもしれません。しかし、福祉依存が問題であるとして、依存させないために放置するというのも、その考え方自体が問題です。

一つの方向性は、中高年の人たちでも、若い人と同じようにチャレンジできる機会を提供することです。それは依存ではなく、自立のためのチャンスを誰にでも、一度失敗した人にでも与える考えです。


ただ、これがいわゆる“第三の道”と呼ばれる(呼ばれた?)「新しい福祉社会」の基本的な構想なのですが、こう書いていてもどこか私には違和感が残ります。

国家財政でできることという視点で議論を考えるために、一方では「弱者を救うのは二の次」という意見が出て、もう一方では「いや弱者にも援助とチャンスを」という意見が出ます。両者は対立するように見えますが、「弱者」の問題を国家財政・官僚制度との関連で考える点では同じです。

しかし、必要なことの一つは、学者・識者としてではなく、一人の人間として自分は「弱者」のことをどう考えているのかを、誰もが内省することのように思います。そうしなければ、「弱者側」に付くと妙に深刻な表情で現状を嘆いたり、「財政健全化側」に付くと妙に元気になって“強者”を擁護する意見を述べるようになります(テレビに出てきた人たちがそうだったという意味ではなく)。

「弱い」立場にある人たちを目の当たりにして、自分はどういうように感情を揺さぶられているのかを見つめない限りは、どれだけ奇麗事を言っても、聴く人の気持ちに訴えることのない上滑りした言葉しか出てこないように思います。


「夫と会社はこう育てる 経営者・秋山咲恵」『NHK プロフェッショナル 仕事の流儀』

2006年05月01日 | テレビ

今回の『NHK プロフェッショナル 仕事の流儀』は、「夫と会社はこう育てる 経営者・秋山咲恵」でした。

僕は感動して鳥肌が立ちやすい性格なんですが、この番組は構成が上手いので観ていていつも熱くなってきます。今回も45分間夢中で見ていました。面白かった。面白かったので今日の再放送も見てしまいました。

ただ、感想を頭の中でまとめようと思っても、何が面白かったのかイマイチはっきりしない。見ていて思ったことは…

「うーん、たしかに二人ともキレそうな顔をしている」

「でも起業して苦労と挫折とどん底を味わったんだ。だから(?)地に足がついた顔をしているんだ」

「広くてきれいなオフィスだなぁ。こんなところで働けたら楽しいかなぁ」

「わー、いいマンションに住んでるぅ」

とかとか他愛のないことばかり。そんなことが面白かったんだろうか。

番組では働く視聴者のヒントになりそうなことを確かに紹介しています。

・製造と品質管理、営業(理系と文系)などをまったく同じフロアですることで、社員の心の中にある“カベ”(「あの人は別の部署だから」みたいな)を取り除く」

・何ヶ月先まで計画が見通せる手帳

など。たしかに普通の人にはない発想かもしれない。しかしそこが面白かったのだろうか。

上記の点を除けば、紹介されていたのはよくある起業成功ストーリーだったのかもしれない。二人だけで小さな部屋を借りて始めた起業。電気代も払えない日々。失敗の恐怖。険悪になる夫婦… しかし「失敗してもまた一からやればいいじゃないか」という夫の言葉。一念発起して融資を受ける。そして急成長への階段。

言葉にすればありふれた起業ストーリーだ。ありふれてはいるが、多くの人が実現できないプロセス。そのプロセスをなぜ二人は達成できたのか?番組では、おそらく視聴者が一番知りたいそのポイントに触れない。探そうとしていない。

たしかに秋山さんの会社は魅力的だ。秋山さんも魅力的だ。彼女の夫も夫婦関係も魅力的だ。そこから伝わってくるオーラを観ているだけでも楽しい。

秋山さんは地に足をつけて現実的に立ち回りながら、難しい決断を下し、適切に部下に指示を出し、また悩む部下を見守る。

それらも、多くの人が大事なことだと分かっているけど、しかし実際にはできないことだろうから、たしかにその秋山さんの姿を見るだけでも興味深かったのかもしれない。

しかし、あえて消化不良の点を挙げれば、今回は、魅力的な人を取り上げているだけで、なぜ彼女が魅力的になれたのか、その秘密まで探っていない。

彼女はこれまでにもメディアで多く取り上げられてきた人らしいから、取材対象として発掘するのは難しくなかったと思う。

また彼女と会社の歴史と今をそのまま伝えるだけでもたしかに面白い番組になっている。

でも、なぜ彼女と彼女の会社がどん底から今のように輝くような会社になれたのか、その秘密には到達していなかったように思います。

民主主義はいらない 「チームの力がヒットを生む 商品企画部長 佐藤章」

2006年04月21日 | テレビ


昨日の『プロフェッショナル 仕事の流儀』はキリンビバレッジの部長・佐藤章さんでした。

ちょっとかっこよ過ぎたね、この人。まさに乗りに乗ってるサラリーマンという感じで。周りから尊敬され、上司からも注目されって感じで。大企業のエリートサラリーマンの王道という感じ。

僕もこの大企業で働く人たちがなんだかきらきらして眩しく見えました。

こういう立場の人が今はすごく世の中から羨望を集めるのかな。大企業の正社員というステイタス、その中での出世街道。それは以前でも人(男)が憧れる人生だったけれど、もし格差が広がる社会になるなら、それがもつ意味は過去と違い、格段に下層には重みのあるものに感じるのかもしれない。

たしかに三浦展さんが言うように、現在の格差社会とこれまでの階層社会との違いは、下流の人が「もはや自分は上へ上がれない」という絶望感をもつ社会になることかもしれない。

団塊の世代以降の退職が始まり新卒採用が増える機運もあるので、実際に格差がどこまで広がるかは分からないけれど。




それはともかく、今回の放送で興味深かったのは、佐藤さんが「そのプロジェクトについて一番考えている人に全面的な決定権を与える。民主主義はいらない」と言っていることでした。

民主主義は良く、権利の平等が良いと私たちは教えられてきた。誰にでも自分の意見を言う権利はあるし、すべての人の考えを聞くのがすばらしいことだと私たちは思っている。

でも佐藤さんは、商品開発の現場では、その商品に一番思い入れがありしっかり考えている人にすべての権限を渡すほうが、インパクトのある商品が出来やすいという。

中途半端に会議をして、大して考えてもいないのに「こういう方がいいんじゃない」とか議論の途中で言い出す人の意見を参考にすることなんかない、ということです。

これは専制でもなんでもないのでしょう。社員それぞれに個性があり、その社員が熱くなれるプロジェクトは違ってくる。だったら、上司がすべきことは、そのプロジェクトに熱くなれる人を見極めて、その人にイニシアティブを発揮させること。

「みんなの意見が大事」とか言って、自分で議論を引っぱるのではなく、ただなんとなく口を開く人のことは無視していいということです。

なんだか分かるなぁと感じました。