joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“Maenner wollen. Frauen auch. Aber leider nicht

2005年02月26日 | 日記
dasselbe"

上の文字はドイツ語で、「男は求めている。同じく女性も。でも、残念ながら同じものではありません」という意味の映画のタイトルです。アメリカ映画『ビューティフル・ガール』のドイツでの題名です。


ときどき、この女性とSexしたいなぁ。この人のからだはとても気もちよさそうだ。と思うことがある。そう思わされる女性は性格が悪いわけでもないので、彼女にしたらどうだろうと?と思うこともある。

男の子なんかは、そういう思いで女の子に近づき、そのままSexするのかもしれない。そこから真面目な?恋に発展するといいのだけど、まあ概して目的を達すると、急に熱が冷めるのではないだろうか。

その女の子の性格がどれほどよかろうと、その子の体に惹かれて近づいた場合は、Sexしたらもうそれでいいのかもしれない。

女の子にとっては、「それは契約違反だ」ということになる。多くの女の子にとっては、Sexは、それも目的の一つだが、あくまでプロセスの一つにしかすぎない。女性の場合は、ロマンチックな夢がほしいわけで、その過程でSexが盛り上がることもあるのだ。

多くの女性にとっては、Sexはもちろんとても大事だが、それだけではないし、Sexだけを目的に付き合うことは考えられない。

と、書いていて思うのだけど、それは間違いです。女性も、Sexが目的で男と付き合うことは多々あるように思う。とくに多くの人妻の不倫はそうだと思う。

でも、独身の女性が男の人と付き合うときは、Sexだけが目的になるということはあまりないように思う。

それに対して、男の場合は、独身でも既婚でも、Sexだけを目的に女に近づく場合がある(その場合、そのことを自覚している男と、自覚せずに「これは恋だ」と思い込もうとする男に分かれると思うのだけど)。いずれにしても、Sex以上の目的をその女性に見出さない。

それに対して、男がSexとRomanceの両方をある女性に求める場合もある。この場合は、相手の女性が独身であれば、男と女のお互いの思惑は一致しているので、契約が上手く成立する。でも、相手が人妻でSexしか求めていないのに、男が「本気」になってしまうと、やっかいなことが起きる。男の嫉妬は怖いのだ。


「本気」になってRomanceを求めるのはいいですが、Sexが必ずRomanceを伴うとは限らないことを、男女ともに理解したほうがきっといいのだ。相手のことをよく知らずにSexするときは、それが何も保証しないことを覚えていたほうが、男も女もいいのです。


涼風


P.S. そういえば、「男はオオカミなのよ~♪ 気をつけなさい~♪」という唄は、女性の投影の唄だそうです。



ドイツに行きたい

2005年02月25日 | スポーツ
昨日は知り合いの人の就職お祝いで、神戸の三ノ宮で一緒に食事をしました。行ったお店は「チーズ料理」のお店。てっきり日本の食卓ではあまり並ばないヨーロッパのチーズが出てくるのかと思っていたら、単に日本の家庭料理みたいなものにチーズを使ってあるという感じのものでした。

知り合いの人は「おいしくなかった」と言っていた。僕は、まあ嫌じゃなかったけど、「ぜひもう一度」とも思わなかったかな。

面白かったのが、とても狭いところにテーブルが並べてあったこと。カウンターがあって、その前にある廊下みたいなところを無理やり区切ってテーブルを置いて、二人が差し向かいで小さなお膳で食べるようになっていた。

料理店みたいなものは新陳代謝が激しい分、少ない資金でお店を出す人も多いのかな。チェーン店の居酒屋とかよりは、「手作りのお店」という感じがした。「チーズ料理」ということで若い女の人が多かったけど、これからどうなるのだろう。

話の内容は、その人の就職先の職場の話やサッカーのこと。日本代表の話をしていたら、「今の日本代表は左右のサイドがショボい」とその人は力説していました。

たしかに、僕も、サントスや加地がボールをもっていてもワクワクしない。特別突破力があるようにも見えないし、クロス・ボールの精度がいいわけでもない(ように見える)。彼らのいいところを専門家の人が一度検証してくれるといいのだけど。

「日本はサッカーのレベルが上がった」といわれている。それは本当だと思うけど、でも世界の一流国までは大きな差があることが、去年のオリンピックやドイツ戦で思い知らされた。

今の日本は、中盤のタレントでは天才的な選手が続出した時代で、こんな時代は、後から振り返ればもう来ないのかもしれない。にもかかわらず世界とはまだまだ大きな差があるという事実。

中田だって、来年のワールドカップ時では29歳。もうそんなに時が早くたってしまった。

レベルが上がったといっても、今でも日本は、ユースレベルではしょっちゅう韓国に負けている。つまり、アジアの王者として圧倒的に君臨しているわけでもない。なんだか、小野や稲本の世代がワールドユースのときに活躍したことで、大きな幻想を抱いたのかな。

もちろん、98年のときよりもレベルは上がっているとは思うのだけど、それは僕(たち)が思っているほどすごくなったわけではないのかな。


でも、普段から球場に足を運んでいるファンにとっては、そんなことは些細なことに過ぎないのでしょう。強いから応援して、そうじゃないから目をそむけるというのは、おそらく違うのだ。たとえ進歩が遅々としていたり、停滞があっても、そのプロセスを見つめ続けるのがサポーターなのだ。

それはサッカーには限られない話に違いない。


涼風 



こんなんだったと思う

2005年02月21日 | reflexion
なぜ人は頑張るのだろう? と考えてみる。どんなに頑張っても、その人が死ねば誰もその人のことを覚えていない。

定年退職した人のことに社員は関心がない(とよく言われている)。

10年前にドラマで主演していた人のほとんどが、連続ドラマで主演をしていない。あるいは出ていない。

何十冊本を書いて多少有名になろうとも、死後も読まれ続けるのはほとんど無理です。

どんなに他人の注目を集めようと思っても、無理です。あなたのことに関心をもっている人などいません。もし関心をもっている人がいたら、それはその人にとってあなたが利益の道具になるからです。

万が一、死後にあなたに関心をもつ人が現れても、すでにあなたはいないので、あなたには関係がないことです。

なのになぜ頑張るのでしょうか。


「百年たったらだれもいない。わたしも、あなたも、あの人も」(江国香織著『すみれの花の砂糖づけ』


涼風



『マスター・アンド・コマンダー』

2005年02月20日 | 映画・ドラマ
何かを「証明」しようとしているときは、たいてい上手く行かないし、疲れるばかりです。おそらく、わたし(たち)の行動の大部分の動機が、この「証明」を目指しています。「有能な人間」であることを他人に認めてもらおうとしています。

もし「有能な人間」であることが認められなければどうなるでしょう?そう、「馬鹿」になりますね。「馬鹿」であると他人に思われることは、多くの人にとって恐怖です。

『マスター・アンド・コマンダー』という2003年のアメリカ映画があります。19世紀初め、英仏戦争時にフランスの太平洋進出を食い止めるべく、南半球でのイギリスの戦艦とフランスの新型戦艦との激突を描いた映画です。

映画自体は、イギリスとフランスの船同士が広い海を舞台に互いの意表を付き合う心理戦や砲撃戦を組み合わせたスリリングな戦闘シーンがメインですが、決してそれだけではありません。

艦長の友人である医師がその純粋な学問的興味からガラパゴス諸島に寄せる子どものような好奇心。またその医師と艦長の友情と葛藤。例えば、任務を優先させる艦長に対し、ガラパゴスへの上陸を禁止され博物学上の歴史的発見を目の前にして断念せざるえない医師の悔しさ。国家軍隊の伝統に誇りを持つ艦長に対し、進歩的で民主主義的な医師が加える皮肉の数々。それでも最後にはゆるしあうお互いの関係。

また徴兵によって船に乗せられた平民と、子供でも士官候補生である者たちとの身分上の序列。

そういった色々な事情を手際よく鮮やかにこの映画は扱っていきます。

その中でわたしにとって一番興味深かったのは、ひとりの士官候補生と平民たいとの軋轢でした。

その候補生は心優しいひ弱な青年で、どうみても軍人には向いていません。にもかかわらず厳しい航海の中で平民たちを指導しなければならないのですが、元々荒くれ者たちが徴集されている平民たちは、そのひ弱で頼りない候補生を軽蔑します。そして、ある決定的な事件がきっかけで、その候補生は船の中で村八分のような状態になり、心理的に追い詰められていきます。

たとえ身分が上でも、船の中で多数を占める平民に嫌われることは、軍人として必要な統率力の欠如を意味します。また元々気の弱い彼には、自分に反抗してくる荒くれ者たちを怒鳴りつける勇気はありません。

そうした状況で、この青年は極限まで心理的な苦しみを負うことになります。

この青年は「馬鹿」です。軍人としての道を歩みながら、それに見合う能力を示すこともできず、平民や他の士官候補生、あげくの果てには艦長にまで諦められます。

映画の中では、この青年は本当にのろまでグズな者として描かれます。

しかし、その青年が一瞬だけ輝きを見せる場面があります。平民たちが酒を飲み荒っぽく歌を歌う中で、それを横で見て感動した青年は思わず一緒に口ずさみます。しかしその出自が高貴だからか、彼の声はあまりにもノーブルな「美声」で、まわりの雰囲気にそぐいません。平民たちも調子が狂い、青年に白い目を向けます。

これはその青年が荒くれ者が集う軍隊では適応不可能な「馬鹿」であることを示すと同時に、彼の素晴らしさを伝える場面です。

監督のピーター・ウィアーはこの映画で、軍人の示す勇敢さと同時に、対比的に知性や芸術が人間にとって持つ大切な意味を(それとなく)表現していきます。
この対立軸は主には艦長と医師とのあいだの葛藤を通して描かれますが、この青年の例は、組織の中での有能さと、個人としての素晴らしさが調和を見せなかった場合の悲劇を表していました。

すばらしい才能をもつ人間もある場面では「馬鹿」でのろまで邪魔者でのろわれた存在でしかないという事実を、否応なく描いています。


わたし(たち)は馬鹿であることを怖れます。それは世の中の秩序が提示する価値観にただそぐわないだけだということを理解するのは、簡単ではないようです。


涼風



怖い

2005年02月18日 | 家電製品にかかわること
Yahoo BB!のモデムに電源を入れた後にパソコンを起動すると、立ち上がるまでにとても時間がかかります。他のことで東芝のパソコン・サポートセンターに問い合わせ時にその話をすると、「2年間使ってリカバリしていないのなら、余計なゴミが溜まっているから、データのバック・アップをしてリカバリをしたほうがよい」ということを(丁寧な言葉で)言われました。

それでCD-ROMにデータを保存したら、あっという間に主なデータは保存されてしまいました。パソコンに詳しくなく、データの保存にはフロッピーを使っていた僕は、一気に不安になってしまいました。「なんでこんなにたくさんのデータが一枚のCD-Rに入るの?」それは便利の証なのだけど、ほんとにデータが保存されているのか心配になります。便利すぎて不安というこの気もちは、パソコンに詳しい人にはわかるまい。

おまけにCD-ROMへ保存されたデータは、フロッピーへの保存と違って、「読み取り専用だから云々」という言い訳でなんだか使い勝手が違うし、ますます不安になってきます。

というわけで、念のためにフロッピーを買ってきて、データを保存しようとしたらえらい時間がかかってしまいました。やっぱりCD-Rの方がダントツに便利だ。でもやっぱり不安。なんでこんなにフロッピーとCD-Rでは保存速度や量が違ってくるのだろう。

しかし、便利すぎて不安になるというのは、困ったもの。元々パソコンには全く疎いのだけど、これではますます新しいソフトの形態に慣れていけなくなる(慣れたことはないのだが)。携帯電話も、Webを見るようになる前に使うのをやめちゃったし。

これでは、(買う予定はないのだが)ipodなんて使いこなせないのじゃないのだろうか。あんな小さい機械に1万曲も入っていたら、それぞれの曲がぎゅうぎゅう詰めになってぺちゃんこになっちゃうじゃないですか!


涼風



すぅーっとする

2005年02月17日 | reflexion
きのう、知人のとても幸せなニュースがメールで届きました。その知らせを読んだとき、わたしは自分の気持ちがどう反応するか不安でした。本当に素直に喜べるか、心配だったのです。

しばらく自分の反応をみていましたが、そんなに大きく動揺することはありませんでした。つまり、それはひとつの喜ばしいニュースでした。2時間もすれば、もう何もかも元通りのようになっていたように思います。


「この世の苦痛を解き放つ方法が、同時にあなたをより高い霊的な悟りへと導いてくれるとは、じつに素晴らしい真理だとは思いませんか。しかも、その方法はじつに簡単です。ただ、「さからわないこと」それだけなのです(『なまけ者のさとり方』より)。


そのあと、雨上がりの曇り空の夕方を散歩しました。雨上がりの曇り空の夕方はとても静かでした。気温も寒くない程度にひんやりして、水がじとっと地面や建物に染みこんだようで、落ち着いた世界を作っていました。

たしかに、雨上がりの曇り空の夕方に騒ぐ人はあまりいないように思います。

曇り空でも、雨上がりだからか、空気は比較的澄んでいました。きっと、多くの人が落ち着けたのではないかと思います。


涼風



慣れるのが大事

2005年02月17日 | reflexion
比較を手放すのは難しい。なぜなら、他人と比較することで、自分が幸せか不幸せかを判断することに慣れているから。

自分だけで満足することは難しい。自分以外のものに意識を向けずにいることは、何にも摑まらないことを意味するから。それは宙に浮きそうで怖い。

それならば、自分以外のものを摑んで自分のそばにもってきて、自分と比較して、できるならばそれを貶めることで、自分が幸せであることを確認したほうが簡単だ。

ひとりで宙に浮くのは怖い。しかし、自分以外のもの(ex. 他人)を水中に沈めれば、自分の位置が変わらなくても、自分が幸せであると思い込むことができる。

そのために、わたしたちは他人をコントロールする。実際にコントロールできなければ、頭の中で相手を貶める。

でも、そうしても永遠に幸せにはなれない。他人の首根っこを捕まえて水中に沈めても、エネルギーを浪費して疲れているだけ。

おそらく、本当にしあわせになるには、何にもつかまらずにひとりで浮いていくことを覚えたほうがよいのだと思う。


涼風 



自分に正直とは?

2005年02月14日 | reflexion
ある本で次のようなことが言われていました。ニュースというのは、ほとんどの人にとっては一生起こらないことを取り上げている。つまり、ほとんどの人にとっては無関係なショッキングなことを取り上げている。だから、そういう話題は避けるために、ニュースを見ないほうがいい場合もある。

そうだなぁと思わされる場合もあります。殺人事件の類はそうですよね。毎日毎日殺人事件は報道されるけど、多くの人はそれを身近に体験することはない。

もちろん、起きた事件は痛ましいし、そのことについて原因や対策を社会が考える必要はあると思うので、起きたことから目を背けるのはよくないと思うのですが、


世の中には、向き合わなければいけない話題というのはあるのだろうか。そういう話題を論じるのが仕事の人たちも世の中にはたくさんいます。しかし、それは本当に論じなければならないのか、あるいは論じたいから論じているのか。世の中から「嫌なこと」がなくなったら、彼らのすることはなくなってしまうのだろうか。

僕も社会について考えますが、それも、考えなければならないのか、考えたいから考えているのか、自分でもわからない場合があります。

なぜ僕は小泉首相が嫌いなのだろうと探ってみると、僕には彼があまり頭がいい人には見えないんですよね。頭がよくないにもかかわらず、政策を行なう立場に立ち続けようとするのを見て、僕は(勝手に)イライラしています。

小泉さんが頭のいい人かどうかは本当のところは分かりません。ただ、小泉さんを見てイライラするのは僕の勝手であって、小泉さんには関係ないということ。イライラしているかぎりは、彼の政治を正しく判断できることもないのでしょう。

昨日は夢の中にも小泉さんが出てきた。よほど彼の姿に僕の隠れたこだわりがあるにちがいない。


涼風



「嫌い」の本質

2005年02月12日 | reflexion
父親が風邪で寝込んでから、もう5日ぐらい経っている。ただの風邪でも年齢が年齢なので、じつはドキドキしたりしています。まあ、たまに起きて何かしていたりするし、母親はゆったり構えているのだけど。

ふだんは粗暴にみえる人でも、風邪で寝込まれるとちょっと怖くなる。

もし父親が元気になって横暴に振舞ったとしたら、わたしの中にはまた怒りが出てくるだろう。

それはそれでいいのじゃないだろうか。親と子の場合は、お互いが元気なうちはわだかまりがあるのが普通だし、人間である以上解けない誤解というのもあるだろう。

誤解はべつに解けなくてもいい。嫌いあっているあいだはお互い嫌いあっていればいいのだ。

おそらく、好きと嫌いや憎しみは両立するのではないだろうか。親子の関係に限らず、人間関係全般で、好きと嫌いは両立するのではないだろうか。わたしはあの人のことが好きだけど嫌いだ、という風に。

誤解が解けなければ、AさんとBさんは一生に憎み合ったままだろう。しかしそれは、じつはAさんもBさんもお互いに相手にわかって欲しいという欲求の現われなのです。

わたしは何年にも渡って人を憎み続けることがあります。今でも、過去の恨みを思い出して、想像の中で何人かの人を叩きのめし、侮辱のかぎりをつくすこともあります。

しかし、わたしは思うのですが、わたしが憎んできた人はすべて、どこかでわたしはその人たちに憧れていたり、友達になりたかったりしていたのです。おそらくわたしはその人たちのことが好きだったから、自分の期待がかなわなくて憎んでいるのだ。

好きでなければ憎めない。

誤解が解けない以上、二人が和解することはないけれど、それは二人がお互いに好き合っていることの証明なのだ。


涼風



じぶんが大事

2005年02月10日 | reflexion
神戸のJR三ノ宮駅や元町駅前では、雑誌“BIG ISSUE”の販売員の方たちが立って販売活動をしています。

メディアでよく取り上げられたのでよく御存知だとは思いますが、主に住む家のない方たちが販売をしています。雑誌の内容は普通で、映画や音楽、社会情勢の話題などです。べつに“BIG ISSUE”でなければという必然性は感じさせませんが、“BIG ISSUE”ではだめだという感じでもありません。

ただ、料金が200円の割りにページ数が少ないのが難点かもしれません。

この雑誌についてはつい最近もテレビで取り上げられていて、販売していた元会社経営者の方は、「慈善をお願いしているのではなく、いい商品を提供しているのだ、という自負の下にやっている」と言っていました。


駅前に“BIG ISSUE”を売っている人を見かけたとき、わたしは「お金を払いたくない」という思考が出てきました。これはよくあることで、“BIG ISSUE”の販売員の方をみると、「俺のお金なんだ。誰にも渡したくない」という思考が出てきます。べつに、販売員の人たちはただ雑誌を売っているだけなのに、「お金を取られたくない」という思考が出てくるのです。

ただ、そういう思考が出ると、同時に自分がとても貧しい人間のように感じます。とても閉じこもった人間、貧しい人間のように感じます。

そういう自分も嫌になったので、自分をひらきたいという想いから、途中で引き返して200円を払いました。

1000円札をわたそうとしたとき、販売員の人に、「えっ、200円ないの?」と少しぶっきらぼうに言われたように(こちらが勝手に)感じました。

そのとき、僕の中では、「そんなことを言われるのは不本意だ」という想いが出てきました。つまり、せっかく200円を払*っ*て*あ*げ*て*い*る*の*に*、そんな態度で言われる筋合いはない、と僕(の頭の一部)は考えたようです。

要するに、ぼくにとって“BIG ISSUE”は、買いたいから買う雑誌ではなく、お金を持っている心優しい僕がお金を恵んであげる、そういう雑誌だと考えていたようです。

こういう考えはたしかに差別的だと思います。だから、そういう考えはなくなったほうがいいとも思います。


でも、そういう心的体験を繰り返すことで、僕自身が学ぶことも多いように思えます。だから、僕と同じような考えをもってしまう人がたくさんいても、そのことを自覚できるなら、最初はそれでいいのじゃないかと思います。ようは、そこから自分が何を学べるかです。


涼風



にごった水槽の中

2005年02月09日 | 見たこと感じたこと
午前中、ひさしぶりに晴れた光が部屋の中にも差していました。とても白い感じがしましたし、気温も明るく感じました。

午後になり、外を歩いてみます。外の風景には、とくに感動は感じませんでした。ただ退屈に家々の壁が見えるだけです。霧も多く、陽もそれほどは差さず、なにかこもったような感じもしました。

こういうときは、車の排気ガスがとりわけ鬱陶しく感じます。視界も遠くまで開けず、寒くないだけに空気の埃が目立つようにも感じます。

海も、薄緑青色(英語でacquaと言うそうな)ですが、旧式のカラー・テレビの画像みたいで、何でもありません。

歩いていてイヤな感じもしました。ただ、すこし考え方を変えると、すこし気分がすっきりしました。


きのう紹介したNHKスペシャルの番組で、35歳で工場の派遣労働にチャレンジした方は、最初、「もうこれ以上は下にいくこともないし、ここから頑張ります」と言っていました。

そうした取り組みの気もち自体は、すべての人が肯定的な印象をもつものだと思います。「どん底からこつこつ頑張る」、それ自体はひとつの人生の生き方として多くの人が大事だと考えていることです。

でも、彼はやはり何かが違うと感じて、仕事を4ヶ月ほどでやめました。

「どん底からこつこつ頑張る」ことはたしかにいいことだと僕は思います。ただ、同じ頑張るでも、どこかチューニングが合っている感覚がなければ、「こつこつ頑張る」という既成のストーリーを鵜呑みにして、結局はうまくいかないということになる場合もあるような気がします。

番組に出ていた方の人生の背景はわからないので、彼にとってどういう選択が正しいのかはもちろん僕にはわかりません。

ただ彼の話とはべつに、僕自身の印象として、一般論として、「どん底からこつこつ頑張る」というのもor「起業して成功する」のも、それが既存の「人生ストーリー」に無理矢理自分をあてはめようとしているときは、うまくいかないのではないか、そういう印象があります。


夜には、サッカーの試合がありました。てっきり日本の楽勝だと思っていた僕は、9時ごろのインターネットで「日本追いつかれる」という記事を見てびっくりしました。

結果はみなさん御存知のように大黒選手のゴールで勝ちました。よかったばい。


涼風



笑うと色っぽい

2005年02月06日 | スポーツ
シャラポワが初優勝 ダベンポートに競り勝つ (共同通信) - goo ニュース


テレビですこしシャラポワ選手を見ていたら、あまりいい気分にはならなかった。あまり相性がよくないのかな、とも思います。去年のウインブルドンのときも、いい感じしなかったし。

なぜだろう?美人で強いから羨ましいのかな、と思いました。たしかにそうだと思います。そんなに恵まれて不公平だと思うのです。

でも、たんに美人で強いからではないと思う。きっとシャラポワ選手が闘争心、競争心を隠さずに全面に出して人前に出てくるから、なんだか嫉妬してしまうのだ。

彼女は大会前に、「ランキング1位のダベンポートに勝ちたい」と堂々と言ったそうです。その話を記事で読んだとき、そのあまりの率直さに、言われたほうは戸惑ったんじゃないかと想像しました。もっとも、競争中の競争の世界だから、そんな発言は日常茶飯事なのかもしれないけれど。

シャラポワ選手は他人に勝ちたいという競争心を隠さない。でも、それを隠して謙虚に振舞うよりも、そうしたほうがよっぽどさわやかに見えるものなのかもしれない。

僕はどうしてもその勝気なところに押されて、テレビを観ていても楽しくなれない。それはもちろん、僕自身がシャラポワ選手には負けたくないと思っているからです。


涼風



すこしワクワク

2005年02月04日 | 家電製品にかかわること
最近は少しずつまた音楽を聴くようになったので(と言っても、じぶんのライブラリからほこりのかぶったCDやテープを取り出しているだけだけど)、やっぱりいい音源のオーディオが欲しいなぁと思う。今わたしがもっているCDラジカセは、多分3000円もしなかったんじゃないだろうか。

でも「いいやつ」を買おうとすると2万円から3万円は出さないといけないし、そこまでする気力もありません。

と考えていて、きのうふとアマゾンでスピーカーを検索してみたら、1500円ほどでパソコンにつなげられるスピーカーが売ってあるんですね。レビューも好評みたいだし、これだと安いラジカセよりもよっぽどいい音で聴けるのかな。イヤホンで聴くかぎりではパソコンで音楽を聴いてもいい音質だと思うし、かなり乗り気になってます。

でも、僕はパソコンにまったく疎いのだけど、ノート・パソコン(2年前に購入したDynabook)にはどれほどの曲が入るのだろうか。ipodだって1万5千曲なんだから、それよりも入るはずというのは素人の考えなのだろうか。

あと、パソコンを「いろいろと」操作して、どこに保存するとかで、入る「音楽の量」も違ってくるんですよね。あぁ、悲しいまでにメカ音痴だとこういうときに悩んでします。

でも、ホントは、気合を入れてネットや説明書を見れば、どういうふうにすれば効率的にたくさん保存できるかわかるのだろうけど。要するに、自分が使っていない行動・思考パターンを実践するのがめんどうくさいだけなんです。

もうひとつ気がかりなのは、スピーカーにつないでしまうと、パソコンを机からじゅうたんにもってきて寝っころがって使うのが面倒になってしまうのかな。それはちょっと嫌かも。机の上に拘束されないのがノートのいいところだから。

でも、そう言いつつも、スピーカーにはとても乗り気になってます。これで色々な音楽が生き返るかな?


涼風



水筒だからいい

2005年02月03日 | 衣料・生活用品と関連して
ちょっとよく歩いた日なので、疲れました。気分的にすぐれなくて、なんだか退屈でつまらなくて、よーく自分を見てみると不機嫌な一日だったのかもしれません。

一緒に住んでいる家族の態度も冷たいように感じます。冷静に考えれば、いつもと変わらないのだけど。

JRの神戸線に乗っていたのですが、最近は電車の中でチョコレートを食べたり、水筒のお茶を飲んだりします。

羞恥心がなくなってきたのかな。電車の中がすいていると、べつにいいんじゃないだろうかと思ってしまいます。

特急や新幹線ならお茶を堂々と飲めるのに、在来線だとどうして一瞬躊躇してしまうのだろう。まあ、深く考えるような問題じゃなくて、要するに同じ電車でも長距離と在来線では乗っている人の“意識”が違うんでしょうね。

長距離列車の席は、長時間そこに座るわけだから、乗客にとってある種の独占的な空間でかつ“生活”の一部を行なうところ。だからお弁当を食べても誰もおかしいとは思わない。

でも在来線の席はそこまで個人に属する独占的な空間とは“社会的に”認められていないでしょうね。だから、そこで(僕のように)お茶を飲む人は他にはあまりいません。もっとも、最近は化粧をする女性もいるので、みんなの意識も変わりつつあるのかな。

よって、新幹線も在来線も、社会構成員の「意識」によって構成される社会的構築物なのである。なんてね。

でも、JR神戸線、とりわけ朝霧駅から須磨駅にかけては電車の中から瀬戸内海を一望できて、ちょっとしたリゾート気分を味わえます。その海を見ながら、最近の新しい車両の中でお茶を飲むのはいい気分だったりします。


涼風



待つ 『子どもの知力を伸ばす300の知恵』 七田眞(著)

2005年02月02日 | Book
わたしの部屋のじゅうたんは、今年買ったばかりの白い毛のじゅうたんです。一応、「白」なのですが、見ようによっては銀がかっているようにも感じます。しょっちゅうしないのですが、そこに横になるとふわふわした毛の感触を楽しむこともできます。さらにじゅうたんの下には、おそらく暖房のために親が敷いたシートみたいなものが横たわっています。だから、じゅうたんに触れると「厚み」を感じます。午後4時ごろ、そのじゅうたんの感触を楽しみながら横になりうとうとしていると、そのまま寝入ってしまいました。起きたら5時半でした。


「こども」について知りたいなぁと思ったので、すこし前に小浜逸郎さんの『方法としての子ども』を読みました。とりあえず読んでいるあいだは著者のいいたいことはわかった感じがしたのですが、読み終わるとなんだかなにも残らない感じがしました。

要するに、子供、おそらく3歳くらいの「意識」が身につき始めた時期の子供がどういう心的現象を経験しながら、一つ上の段階の子供へと変身していくのかということを扱っていて、それはそれで興味深い議論でした(難点を言えば、不必要に「理論的」に語ろうとしていること。小浜さんは「自分は論理的に思考するのだ」という自負があるのかもしれないけど、内容自体はもっとわかりやすく書けるように思います)。ただ、いまじぶんが知りたいこととは違うように思いました。もっとも、僕自身が自分がなにを知りたいのか、自分でも分かっていないのだけど。

小浜さんの本については、「時」が来たらまた触れたいと思います。

そこで、ちょうど一年前にも読んだ七田眞さんの『子どもの知力を伸ばす300の知恵』をもう一度読んでみました。題名にあるように、どうすれば子供を「賢い子」「いい子」に育てられるかについて具体的なアドヴァイスがなされています(この本は、私が買った直後にPHPから文庫が出ました)。

読んでいて、なんとなく、「いい子」だけでなく、「いい人間」とはどういうものかと七田さんが考えているのかわかる気がします。

七田さんが言うには、「子育て」とは、子どもにわがままを抑える癖を身につけさせること。子ども(=人間)とは元来わがままなのだから、子育てとは、子どもにじぶんを抑制させるしつけをすることだということ。

「こころの育った状態とは「わがまま」を取り去った状態を言います。教育とは「わがまま」を取り去ることです。・・・心の育った状態とは、人に対して深い思いやりを持ち、自分の感情を抑えルールを守る力が育っている状態を言うのです」

「非行に走る子どもの特徴は、自分を抑えることができず、わがままである、ということです」

「・・・きちんとしつけなくてはいけないことは、(子どもが)泣いても我慢させる態度が、親に必要です。我慢するしつけの基準は、もしも親がそれを許せば「子どもの心が悪くなる」ものは許さない点におきます」

「三歳までに親に一度も強くしかられたことのない子どもは、自分を抑えることのできないわがままな子どもに育ちます。・・・三歳までに、親が本当に叱った時にこわいという印象をもっていると、それがブレーキになって、わがままをしなくなるのです」

「子育てには基本に限りないやさしさがあり、その上に厳しさがないといけません。やさしさだけではだめなのです」


わたしには子どもがないので想像ですが、一部の大人にとっては子供をしかるというのは難しいことだと思います。そもそも「叱る」ということはとても難しい行為です。

「叱る」は、おそらく「怒る」とは区別できます。

「怒る」について、心理学者のスペザーノさんは次のように言っています。


「「怒り」は、「コントロール」のひとつのかたちです。「コントロール」とは、ほかの人たちに、あなたの望みどおりのやり方で動いてもらおうとする、あなたのやり方であなたのニーズを満たしてもらおうとする試みです」

「「怒り」には、こんなメッセージが含まれています。「こんな風に感じるのはあの人のせいなのだから、私の感情も振る舞いも、絶対に正当化されるものである」と。これは未熟さのあらわれであり、私たちが持っている、耳を傾ける、学ぶ、受け取る、変わるといった能力を妨げます」

「「怒り」は、傷心、罪悪感、死んだような感じ、怖れ、欲求不満といった、深い感情を隠そうとする防衛的感情です」

「自分自身を責めている人だけが、ほかの人を非難し、攻撃します」(『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』より)


 わたしは以前、大学のゼミで、ゼミで先生が取り上げる教師のテーマが気に入らず、思い切り大きな声で「こんなの時間の無駄だよ!」と叫んだことがあります。

わたしにとっては、そんなテーマを取り上げること自体が「正しくない」と思い、またそのことを怒りをもって「告発」するのは「正当な」行為だと思っていました。

しかし、そのような「正しさ」の裏には、必ず「自分は不十分な、いけない存在だ」という観念が潜んでいます。自分が不十分であるために、その不十分さを「道徳的な正しさ、誠実さ」で埋め合わせようとします。その一環として、「道徳的に正しくない」他人を攻撃することで、自分の存在の正当化を図ります。

「怒り」とは、一見「正しい」ことを言いながら、その「正しさ」を利用して自分の存在を正当化しようとする試みです。自分の「正しさ」を証明するために、他人を自分のやり方にあわせようと必死でコントロールします。

そうして上手く「怒り」、上手く他人をやりこめた人は、いっときのあいだ自分の「正しさ」の余韻に浸ることができますが、すぐに罪悪感に襲われます。すると、その罪悪感から逃れるために、急に「親切で心優しい情愛」を見せたり、あるいは余計に傲慢に振舞って罪悪感を払いのけようとします。


子どもを「怒る」ことも同じことなのではないかとわたしは想像しています。

「しつけ」とは、「正しい」ことを教える試みです。しかし、元来わがままな子どもに「正しさ」を示すのは、かなりエネルギーがいることでしょう。

その「正しさ」を教えるさいに、多くの大人はどうしても、「じぶんの不十分さ」に直面しなくてはなりません。「何でも欲しがってはいけない」「人のものを取ってはいけない」「他の子をいじめてはいけない」。これらの「正しさ」を言うことは簡単なようですが(実際簡単ですが)、大人のほとんどすべては「何かを欲しがる」「他人のものを奪う」「他人を攻撃する」という性格を身につけています。

そうしたじぶんの性格を棚に上げて、「何でも欲しがってはいけない」「人のものを取ってはいけない」「他の子をいじめてはいけない」と子どもに教えなくてはなりません。しかしそのさい、その「正しい」ことを言うときに、それによってじぶんの不十分さを補おうとする、つまり「自分の正しさ」「じぶんの十分さ」を主張しようとすることにどうしても陥ってしまうのではないかと思います。こころの仕組みの必然として、「しつけ」と「自分の正しさの証明」をごっちゃにする感情に否が応でも大人は巻き込まれてしまうのです。

その「自分の正しさ」を主張して、子どもを自分に合わせようとするためには、当然「怒って」、「コントロール」しなければなりません。

たしかに言っていることは正しいのですが、それは子どものために言っているのを通り越して、子どもを攻撃することで「自分がどれだけ正しいか」を証明したいという感情に大人は巻き込まれるのです。つまり、「正しいしつけ」を隠れ蓑にした感情的攻撃です。

もちろん親のほとんどは、「じぶんは子どものためを想って叱っている」と言うでしょう。しかし、よほど成熟した人でないかぎりは、「正しい」ことを、「怒り」「コントロール」を混じえずに言うことは困難だと思います(そんな人をわたしは見たことがありません)。それぐらいわたしたちにとって、「正しい」ことはじぶんの不十分さを感じさせるし、またその不十分さの感覚から逃れるために、「正しい」ことを強く声高に言おうとします。


そのように「正しい」ことを言う際の罪悪感から逃れたいために、放任主義を取る親もいるでしょう。「しつけ」を勝手な大人の怒り、無意味な厳しさととらえてしまった人は、「子どもは自由が一番」と思い、自由にすることでそのうちいい子に育つと思ってしまうのです。

「ゆとり教育」というものの性格は、そういうものなのでしょう。しつけ、規律ということを、「子どものコントロール」という側面だけでとらえてしまうのです。つまり、しつけを「怒り」「コントロールと同一視してしまったのです。そのさい避けられるべきだったのは、大人による子どもへの「怒り」「コントロール」だったのに、一部の教育者たちが間違えて、しつけそのものを放棄してしまったのです。


七田さんが提唱しているのは、おそらく、「しつけ」から「怒り」を取り除くことです。この本の中で彼は、「子どものわがままを放ってはいけない」と何度も何度も繰り返しながら、同時に「きつく叱ってはいけない」とも繰り返します。この場合に意味しているのは、「叱ることがいけない」のではなく、「感情に任せて攻撃する」つまり「怒る」ことはダメですよ、という意味だと思います。「怒ってはいけません」「子どもをコントロールしてはいけません」と何度も七田さんは言いたいのだと思います。七田さんは次のように述べています。


「ママが厳しく、パパが少し甘いのは子どもにとって支えになります。二人とも厳しすぎると救いがありません」

「二歳前後になったら、いけないことは泣いて反抗しても、いけないと教えなくてはいけません。・・・初めはきつく叱り(三十秒)その後急に変わってやさしくなり抱きしめて、叱ったわけを言ってあげる、このやり方を覚えてください」

「してはいけないことは前もって言ってやり、子どもがそれをしたは口で叱らず、表情や態度でいけないことを教えるようにしてください。怒った表情ではなく、悲しい表情でしてくださることです」

「子どもを叩いて育てるのは、全く逆効果で、子育てを難しくするばかりです。押入れに入れる等の体罰も避けてください」

「子どもの態度を改めるには、お風呂に入ったときに、話してあげるのがよろしいです。 どのような態度が人に嫌われるのか、だからどういうふうに人に接してはいけないのかなど、その場でなく、普段話しておいてくださることが大切です」


子供を育てるときに、厳しく育てるのがよいか、それとも自由に育てるのがよいか、という議論の立て方があります。しかし、それは「厳しく」とか「自由」とかいう言葉に惑わされて、子育てにとって大事なことを見落としてしまっていのでしょう。「厳しく」というと“スパルタ”みたいなものを連想してしまうし、「自由」というと“放任”を思い浮かべます。でも、どちらも間違いなのでしょう。

“スパルタ”はたんに大人が自分の感情を垂れ流しているだけだし、“放任”も「正しい」ことを言いたくないという大人のわがままです。

それに対して七田さんが言いたいのは、子どもを育てる際の、親自身が自分の感情を抑制することを学ぶ必要性です。

上記のように「わがままをゆるしてはいけない」と言いながら、「きつく叱ってもいけない」と七田さんは言いますが、それは同時に親自身に忍耐を強いる作業です。こどものわがままを許さないようつねに「監視」しながらも、わがままを見つけても親に自動反応的にきつく叱らないよう警告していますが、それは大人にはストレスのたまる作業でしょう。「怒り」というストレス発散が許されないのですから。


「子どもすることはすべて実験、あるいは学習なので、叱ることはいけないのです。・・・
叱ることは全くありません。親は腹を立てて叱りますが、言って聞かせてもわかりませんから、これは叱るほうが無理というものです。腹を立てずに、して欲しくないことをする時は抱いてその場から連れ出してくださればよいのです。
腹を立て、叱って育てると、言うことをきかない子になり、とても難しい子育てをするようになるので、叱らず、ほめて育てる子育てを実践してください」

「わがままが出て、ひっくり返った場合、あつかい方を間違うと大変です。あとの子育てをとても難しくしてしまいます。
 そのような場合、わがままを通してはいけないのです。無視して泣かし続けるか、気を別のものにそらせるかして、わがままを我慢させなくてはいけません。無視して泣き止んだら、優しく抱いて、「よくがまんしたね」とほめてあげることが大切です。・・・
 反対に子どもの気持ちを大事にするという口実でわがままを許すと、子どもはいつでもひっくり返ってわがままを通すことになるでしょう」


子どものわがままを、怒らずに、しかもそれをゆるさないこと。それは同時に、親自身が、「わがまま」という過ちに感情的にならずに、冷静に対処することでもあります。「他のこどもをいじめる」「何でも欲しがる」などの子どもの行為に冷静に対処するということは、「他人を攻撃する」「今以上に欲しがる」というすべての大人がもっている自身のニーズにも冷静に対処するということです。

つまり、子どもに忍耐を教えるのは、親自身が忍耐を学ぶことなんですね。子どものわがままに感情的にならないという抑制を学ばなければ、子どもに抑制をしつけることはできないということです。みなさん大変ですねぇ(笑)。


“スパルタ”でも“放任”でもない「第三の道」(笑)を七田さんは主張しているわけですが、これは心の教育だけでなく、知的教育(=勉強)にも七田さんは貫こうとしています。これはもう「右脳教育」として有名ですね。ただ、「右脳教育」の本質はまだまだわたしには分かりません。分かりませんが、右脳教育教室で体験授業させてもらっときの印象だと、言葉・数字を映像(イメージ)で処理する能力を養うことのように感じました。

言葉・数字をただ文字として理解しようとすると、頭の中では貧相で退屈な「文字」だけが並んで、感情が乗ってこず、頭の回転も鈍るような気がします。典型的なのが英語の文法学習ですね。

右脳学習はそうではなく、幼児・子どものころに言葉・数字を映像として理解する発想を身につけさせることで、頭の中で豊かで多様な思考パターン築かせるのが狙いのように思いました(あくまで素人の感想です)。

ともかく、こうした知的教育も、子どものころから積極的にさせるべきだと七田さんは言います。そしてそのやり方も、“スパルタ”でもなく“放任”でもないやり方です。

「子どもの取り組みは、子どもが楽しむことを一番大切なこととして、押しつけをしないことを決まりにしてください。
ノルマをつくって、いやでも、どうでもさせるというやり方は押しつけになり、お勉強を楽しくないものにし、ママと子どもの関係をおかしなものに変えてしまいます」

このように、無理やりコントロールして勉強させてはいけないといいながら、同時に七田さんは、子どもには積極的に学びの材料を与えてやるべき、といいます。七田さんによれば、「子どもはつねに楽しさを求め、学ぼうとしているものなので、その性質を上手に利用してくださればいい」とのことです。


「子どもは学ぶのがとても速いものです。教える親、あるいは教師の側がそれを知らず、同じ絵本やカードをいつまでも見せ続けていると、「もういい、飽きた」とサインを出します。今まで喜んでいたのに見なくなります。
子どもがもう頭に入れてしまったのに、そのサインも気づかず、おなじものを延々と与え続けていると、子どもは学ぶことをすっかり嫌いになります。
親がそれに気づいて、絵本を新しくどんどん変えてやり、カードをどんどん新しい変化のあるものにしたり、見せ方を変えてやると、再び目を輝かせて学ぶようになります」

「子どもの反応を見ながら、すべて子供を楽しませるというねらいで進めてください。くれぐれも子どもが嫌がっているのに押しつけにならないようにしてください」


この本を読むと、七田さんは、こころのしつけ、つまり子どもに自分の感情をうまく抑制させることはとても難しいと考えている印象があります。それぐらい、人間は元来わがままで自己中心的な生き物だととらえているようです。

それに対して“学ぶ”ということについては、上で引用したように、七田さんはかなり楽観的にとらえているようです。やり方さえ間違わなければ、子どもは元来学ぶことが大好きなんですよ、と言いたいのだと思います。

ただそこでも大切なのは、〈こうあるべき〉という理想像を親が描き、それに子どもを合わせようとしてはいけないということ。そうしないように親自身が自分を抑制することを学ぶことの大切さです。

元来学ぶことの楽しさを子供(人間)はもっているのだから、子供が楽しんでいるかどうかを基準にして、積極的に学ばせてあげればいい、そう七田さんは考えています。

つまり、学ばせるという介入を親は積極的にすべきでありながら、同時に子どもが何に楽しんでいるかというその方向性については、子ども自身が本来持っている〈傾向性〉〈趣味性〉〈ギフト〉に任せることを親は学びなさい、そう七田さんは言いたいのだと思います。

ここでも、こころのしつけと同じように、積極的に養育に関与すべきと提言しながら、同時に子どもを自分の理想像に無理やり合わせるような感情的な行動を慎むよう親に警告を発していると言えます。七田さんは次のように言います。


「子どもを賢くしようとして教えすぎると、逆に自分で考えることのできないだめな子にしてしまいます。
なんでも自分でやらせ、自分で考えさせるように徐々に変えていかれるのがよろしいです。初めはひたすらインプットしてやればよいのですが、ある程度進んだら一方的に教え込むのではなくて、自分でさせる方針にして、親のほうは口に出さず、できるだけ聞く方にまわってください」

「一日の知的取り組みは、30分から1時間もあれば十分なので、あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけないと、親が自分にプレッシャーを感じるのはやめてください。
子育てはおおらかにのんびり育ててくださるのが一番上手く行く方法なのです。あれこれやりすぎて、親も子もストレスを感じすぎてはいけません」

「手のかけすぎ、時間のかけすぎ、言葉のかけすぎは過保護になります。子どもの時間をすべてうばい、子供自身の活動をうばってはいけません」

「おけいこ教材などやりすぎないようにし、むしろ外遊びを奨励してください。」


常識的にみれば、七田さんの言葉は矛盾にあふれています。厳しくしつけるように言いながら、厳しく叱ってはいけないという。また、子どもにはどんどん新しい教材を与えてやるべきと言いながら、子どもが楽しんでいるかどうかを基準にして学習を進めるべきと言う。ただ、こうした矛盾も、本全体を読めば矛盾でもなんでもないことが、七田さんの文章からはジワっと漂ってくるようです。

ようするに、簡単に言えば、子ども(人)に関わることは、コントロールではないし、放任でもないということ。コントロールも放任も、自分の罪悪感(「自分は不十分でいけない存在だ」という想い)を隠すための(子ども、他人を利用した)感情的行動です。

コントロールは、自分の罪悪感を隠すために、「正しい」ことを子ども(人)に押し付けます。
放任は、自分の罪悪感に萎縮してしまい、子ども(人)に対して「わたしには正しいことをあなたに言ってあげられる資格はありません」と土下座しています。

それに対して七田さんの提唱する教育は、大人が自分に対して罪悪感をもたずに、それによって正しい動機で正しいことをちゃんと子ども(人)に言ってあげ、またしてあげることだと言えます。

そのように大人が自分に対して罪悪感をもっていないときに、わがままを言う子どもに冷静に対処し、子ども自身がそのわがままな態度を乗り越えるのを〈待つ〉だけの忍耐を示すことができます。

また知的教育においても、「こういう学習をすべき」「これだけの点を取るべき」という理想像を押し付けずに、子どもが学習を〈楽しむ〉ことを信頼してそばで見守ってやることができます。

子どもを乳幼児・幼児の段階から学習させるというと、まるで「お受験」だけを想像して、「悪しきエリート教育」のようにも思えます。しかし、子どもが〈楽しむ〉ことを信頼するという点を見れば、七田さんが考えている教育は、これまでの学歴偏重主義とは違うのではないかと思います。また、もちろん「ゆとり教育」とも違います。

七田さんが考えている知的教育は子どもを積極的に観察し、彼が〈本当に〉望んでいることがはっきりするのを忍耐強く待つ教育なのかもしれません。彼は次のように述べています。


「勉強が嫌いというのは困ります。子どもは好きな教材を与えてやると喜んで取り組みます。嫌いなものを押し付けず、好きなことをさせてあげるとよく伸びます」

「習い事は時間と経済の許す限りしてあげればよろしいです。ただ何でもするけれど、すべてが平均的で、得意なものは何もないでは困ります。
うちの子供は将来役立つものは、これだと親が考えたものに重点を置くようにしてください」

「勉強にしばらず、外でよその子と遊ぶ時間もとるようにすると、皆とも遊べ、落ち着きも出て、創造性も高まります。あれもこれも欲張っては、あぶはちとらずになります」

「叱らず楽しく進めてくだされば問題ありません。優れた才能を育てるには、ハードなトレーニングは必要なものです。遊ばせて育てては何も育ちません。
子どもを頑張らせてくださることは、大切なことですし、よいことです。自身を持って子どもの才能を育ててあげてください」


総合学習見直し 「ゆとり」弊害、他教科圧迫 学力低下加速、現場努力も限界に (産経新聞) - goo ニュース

「学力低下」ということが近年叫ばれ続けていますが、その反動で単に一生懸命勉強させる、受験科目を多くする、というのでは、昔に返るだけのように思います。もちろん既成の学校教育で「個性を伸ばす」なんてことを言う余裕はないと思いますし、またそこでま公立学校に求めるのは酷だとわたしも思います。

ただ、“スパルタ”か“放任”かという二者選択とは違う教育のあり方をわたしたちは考えるべきだし、七田さんはその仕方を、乳幼児・幼児の教育という点から考えたパイオニアなのではないかという印象をもちました。


涼風