joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

朝とキャベツ

2006年09月30日 | 日記



わが家の朝食は、なぜかキャベツが出ます。キャベツをお湯で蒸したようなもので、それに味付けも何もせずに食べます。

今までは両親がそうやって食べていたのですが、一度、食べるか?と聞かれ、食べてみたところ、それから「僕も朝にキャベツを食べる」ということになり、毎朝キャベツを出されるようになりました。

キャベツを蒸したものは、何も味付けていないと思うのですが、それでも少し塩味がにじみ出る感じです。少し味付けしているのか?

朝にむしゃむしゃにキャベツをそのまま食べると言うのも、ヘンな気分です。


涼風

むずむずこそばい

2006年09月29日 | 日記



花粉症にかかってしまいました。はなみずが出る出る。

この時期に花粉症に罹ったことは今までなかったのに、どうしてだろうか。

花粉症って現代病なのだろうか。昔に花粉症があっても、ティッシュがなくてはさぞ困ったことだろう。

ティッシュといえば、これも現代の“無駄遣い”文化の一つなのかな。“余計なゴミ”的なものを拭き取るのに、なにもあそこまで繊細な紙を作る必要が本当にあるのだろうかと、昔の人なら思うかもしれません。

ティッシュって、街中で配っているなんて日本以外の国であるのかな?仕事でイギリスに赴任していた友達は、ティッシュの値段の高さに驚いたそうです。彼の細君がその話を九州の実家に伝えたところ、実家のお父さんがダンボール一杯のティッシュをイギリスまで送ってきたそうです。

ヨーロッパで花粉症に罹ったら、ティッシュ代で大変だろうなぁ。あちらに花粉症ってあるのかな?


涼風

“Management Challenges for the 21st Century”

2006年09月28日 | 日記
政治・経営学者のピーター・ドラッカーの“Management Challenges for the 21st Century”を久しぶりに聴いてみました。

久しぶりに聴いてみて、とくに新たな発見があったというわけではないのですが、あらためて感じたのが、彼の未来像は楽観的でも悲観的でもないけれど、しかしとても不確実な時代が来ると考えていたこと。少なくとも出版当時に彼に見えていたことは、これまでの経済先進国の前提が崩れることが明らかだということであって、それに代わる社会の安定した土台となる構造は発見できなかったということです。

今では誰にも浸透している「少子化」という問題ですが、おそらくドラッカーはそのことがヨーロッパと日本に与えるインパクトを早く認識した一人だったのでしょう。この少子化により

 ・どれほど政治家が選挙公約で年金制度の安定を約束しようと、もはやそれを維持することはできないこと

 ・同時に、リタイア後の「セカンド・ライフ」に向けての個人顧客向け金融商品が産業の主流になること

を繰り返し説きます。これが1999年の出版当時にどれだけ卓見した洞察だったかどうかは私には分かりませんが、少なくとも社会の大勢はその流れをまだ予測していなかったと思います。

 この少子化により、年金制度を維持できないと同時に、大量生産方式の巨大製造業を維持することもできなくなるので、個人の寿命を上回る企業という存在は希少になり、逆に個人の寿命が企業の寿命を超え、個人は企業に依存することもできず、また年金・社会保障という国家制度に依存することも難しくなります。

 このように組織に依存することができない中で、それでも経済が富を生み出すとすれば、それはやはりドラッカーの主張する知識労働に基づいた“差異”のある商品作りになります。

個人が組織に依存した人生を送ることができないとき、個人が自分自身の強みを発見し生かしていくこと、それをドラッカーは「知識労働」と呼ぶのでしょう(だから、知識労働=デスク・ワークという意味ではないと思います)。“knowledgeable worker”ですから、自分の頭脳・体内にある“知識”を活用して活動を行なう労働です。

この「知識労働」が主流になる社会とはどういう社会なのかは、でもドラッカーもはっきり分からなかったんじゃないでしょうか。

たとえば「医者」や「弁護士」というのが従来の「知識労働」の典型ですが、このような数が限定される資格業が主流になる社会が訪れるというわけでもないでしょう。

ドラッカーは、「知識労働」とは、自分の仕事は何なのかを自分で見つけることができること、また自分の“強み”を把握できること、と言います。

また同時に、これからは“組織”とは国籍などの制度に縛られず、ますます“operational”な関係だけがクローズアップされると言います。

つまり、個々人がその“強み”を発揮して、その“強み”が機能的に結びつく社会。“組織”は、その関係から事後的に観察されるようになるのかもしれません。

しかしこれはやはり、人口減少によって社会の経済的土台が崩れる中で、それでも人が生き残る場合を考えればどうなるかといように問いを立てた場合の答えであって、必ずそういう社会が訪れるのかどうかは私にはよく分かりません。

また、ドラッカーが経済的不平等の拡大になぜ触れなかったのかも、さしあたり私にとっては分かりません。このような、個々人が“強み”を発揮させる社会は、少なくとも当初においては、ビジネススキルをもつ「強者」たちの独占的勝利につながることは、アメリカとイギリスの現実を目の当たりにしていたドラッカーにとっては自明のことだったはずです。またそれにより、アメリカやイギリスには「先進国の中の第三世界」とも呼ぶべき貧困層が出現していたことも周知の事実です。

このような貧困層の出現は、新しい社会への移行期において生まれる一時的な悲劇なのか、彼は考察しなかったのでしょうか。それとも別のところで積極的に述べているのでしょうか。初期の著作において、失業問題の解決こそ資本主義の使命と考えていた彼の視点は、後期においてはどのように維持されていたのでしょうか?

旅を楽しむ方法

2006年09月27日 | 絵画を観て・写真を撮って


僕は旅行というものをほとんどしません。先立つものが・・・という想いもあるけれど、「旅行に行こう!」という気力も基本的に湧いてこないのです。

だから、国内で旅行した場所というのはほとんどありません(ちなみに住んだことのあるのは国内で5ケ所。父は転勤族じゃないです)。

でも、数年前にドイツに一年半留学していたときは、「せっかくヨーロッパにいるのだから、いろいろな所に行かなければならないのではないだろうか」という軽い強迫観念に囚われて、いくつかの場所に無理やり旅行しました。

でも、それまでろくに旅行したことがなかったので、全然旅行を楽しむことが下手でした。

朝食も昼食も夕食も、どうやって食べるのかつねに考えないとだめだし、コーヒーを飲みたくなったら喫茶店に入らなければならないし、毎日同じ服ばかり着ているし(普段別におしゃれでもないのだけれど)、洗濯しなくちゃならないし(石鹸でゴシゴシ)、何時に汽車に乗るのか調べなきゃならないし、その日に何をするか、「有意義」な計画を立てなきゃならないし。

それで結局、適当に町並みをぶらぶら見る以外は、美術館に入る以外に思いつきません。でも美術館なんて普段行かないよ。だけど旅行したら美術館・博物館に行くものだと思って、じっと「鑑賞」しています。まぁ、それはそれで感動することもあるのですが、結局一日中歩き回って毎日くたくたになって、自分の住んでいるところに戻るときの列車では「これで解放される」という気分にもなりました。

というように僕は旅行がとても下手です。

何が言いたいかというと、でも最近デジカメで町並みを写真に取るようになって、歩くことに楽しみが一つ加わったので、旅行をしても楽しみが増えて、それなりに楽しめるのじゃないかと思ったということです。

無理に美術館に入らなくても、ぶらぶら歩いて写真を撮れば、それなりにその土地を楽しめるんじゃないかと。もともと散歩は好きですから。


涼風

熊川哲也さんが神戸に来る

2006年09月26日 | 日記


昨日の夕刊のテレビ欄の下に、熊川哲也 K バレエ カンパニー神戸公演の広告がありました。「行きたい」と思う。

僕は一度だけバレエを生で見たことがあるけれど、最近はたまにバレエのDVDやビデオを観るので、あらためて生で見てみたい。

熊川哲也さんという人のことは、今まではあまりいい印象をもっていませんでした。べつにテレビによく出るとか、ドラマに出るとか、そういうことは気になりません。ただ、先入観として、果たして日本人がまともにバレエを踊ることができるのだろうか?と思ってしまうのです。

まぁ、こういう疑問はいかにも西欧崇拝とバレエへの無知を表しているんでしょうね。

バレエというと、素人からみれば、西欧人的に8頭身か9頭身くらいの体型じゃないと駄目みたいに思ってしまいます。

また、パリ・オペラ座を取材したドキュメンタリー映画『エトワール』という映画を観ると、バレエというのは本当にヨーロッパの古典芸能なんだなぁと感じて、とても日本人が入れる世界には見えませんでした。

そこではダンサーたちが小学生のときからバレエ団の学校に所属し、つねに厳しい選考に曝され、バレエ団には入れても厳しい競争があり、ごくごく一握りのダンサーだけが主役を努めることができる世界が記録されていました。

そんな厳しい世界で日本人がトップの仲間入りできるなんてとても想像できなかったのですよ。

熊川さんという人がイギリスの国立バレエ団の一等ダンサーだったという話は聞いたことがあったのですが、それがどのくらいすごいのかよく分からなかったし、本当に本当に世界の一流の一人だとは想像していませんでした。

今でも僕は熊川さんという人の踊りを見たことがないし、観たとしても、彼の踊りが一流かどうかは分からないと思う。多分、プロのダンサーなら、みんなすごいと思ってしまうから。

でも、ネットで色んな人の感想を見ても、本当に本当に世界の一流の一人と認められている人なのだということも分かってきました。

そうであれば、そういう人がせっかく日本で活動しているのだから、一度は見てみたいなぁと思いました。

チケット代をみると本気で行こうとまでは思わないのですけど、でも一度は観てみたいですね。

あと、吉田都さんという人のことも僕はまったく知らなかったけど、きれいな人ですね。


涼風

『「仕事が終わらない」告発・過労死』しんぶん赤旗国民運動部(著)

2006年09月25日 | Book


『「仕事が終わらない」告発・過労死』という本を読みました。

遺族が「過労死」を被った被害者の勤務実態を調べ、裁判を起こし、損害賠償・慰謝料・労災認定を得ようとする過程を、共産党系の新聞記者たちが追ったものです。

共産主義の資本主義認識に間違いがあり、また彼らが理想とする国家・社会のイメージが人々を幸せにしないのは確かですが、社会の現状の問題点を指摘するという点では、一つの役割を担っているのかもしれません。

この本では、「過労死」に至った多くの従業員の方たちの事例が取り上げられています。内容自体は、どの事例も、いかに長時間の勤務に被害者が曝され、精神的・肉体的に追いつめられていたかを示しています。内容自体に初めて聞くようなものはありませんが、内容に新しさはなくとも、遺族の方たちにとってはこれ以上もない事実を突きつけられているのですから、その事実を取材することは重要なことでしょう。

ただ、取材の視点が、被害者が異常な長時間労働に曝され、「過労死」に至った後でも会社はその勤務実態を認めないというストーリーだけに固執しているがゆえに、本全体が単調であることは否めません。

もちろん被害者の方たちが過酷な状況に置かれていた事実を指摘することは重要なことだし、これからも必要なことだと思います。

ただ、だから「会社が悪い、会社が悪い」だけでは、問題に対する認識は深まらないだろうということ。

たしかに会社に問題があるのでしょうが、ではその「会社側」の人たちというのはどういうメンタリティで生きているのか?会社という組織には、一部の人だけを「過労死」に追い込み、他の一部の人は安楽に生活できるようなシステムになっているのか?それとも会社全体が「過労死」寸前で動いている組織なのか?そのように会社を追いつめている原因は何なのか?

そういった事柄への考察がないと、単なる「悪者」と「被害者」という図式しか出来上がりません。


日曜の朝

2006年09月24日 | 日記



昨日の夜に寝たのは1時くらい。今朝は9時ごろにいったん目覚めたのですが、その後やっぱり布団に倒れこんで、10時に起きました。うーん、9時間睡眠です。

今朝も天気がいいので、気持ちのいい朝でした。両親はお彼岸でお墓参りに行って、朝食のテーブルには誰もいません。

朝刊を少し開きましたが、やっぱり“新聞”って物騒なので見るのをやめました。ただ、読売新聞の日曜版には“町の情報”みたいなものが付いてきて、それにはけらえいこさんの漫画や話題の家電商品やいくつかの情報が載っていて、こういうのなら読んでも楽しい。

家電情報には一眼レフカメラの売り上げ5位が載っていました。僕にはどれも同じに見えるのだけど、やはり違いがあるのだろうか?PanasonicとかSONYのカメラって、音楽でも流れてきそうですね。

あと、VAIOのボードパソコンの紹介もありました。キーボードを折りたためて場所をとらないのがいいですね。紹介しているのは伊藤忠の研究員みたいな女性でした。かっこよさそうな仕事でかっこよさそうなOLだ。


新聞も、毎日こういうのだけならいいですね。


涼風

すっきりする

2006年09月23日 | 見たこと感じたこと



今日は朝起きると、体と気分がとてもすっきりしていたのが印象的でした。昨日までツーンとした気分の悪くなるような感情を胸の辺りに感じていて、クラクラしていたのですが、一晩寝ることでその嫌な感情が消えたような感じです。

いろいろな思考がやってくるとそれにつれて気分もいろいろ変化するのですが、でも体の芯の辺りは明るい感じで、ラクな一日でした。

今日は天気もとてもよく、日中はとても暑かった。Tシャツに黒のシャツを着て外を歩いていると、汗をたくさんかきました。

町のあちこちにある花も、天気がよくて太陽の光が降り注ぐので、とてもカラフルできれいな色でした。


涼風

頭痛を治してもらう

2006年09月22日 | 日記



すっかり涼しくなりました。昨日は朝起きると鼻水とくしゃみが出て、外出していると頭が痛くなってきました。

そこで帰りに薬局のARKAへ。頭痛薬を買いに言ったのですが、頭痛薬といえばバファリンしか思い浮かばないのですが、頭痛薬の棚を見ていると当然のごとくいろいろなメーカーの薬があります。

長期連用することもないから、そんなにたくさんの量は要らないと思うのですが、それでも選ぶときには値段と量との関係でなるべく一粒あたりの値段が安いものを探してしまいます。

それでみると、他の頭痛薬に比べてバファリンは少し高めだったように思います。

ただ、たくさんのメーカーの頭痛薬をみていると、「これがいい」というのも見つかりません。「効能」や成分をみても、どれもほとんど同じです。

そこで近くにいる店員さんに「これは効能はどれも同じですか?」と尋ねると「そうですねぇ」という返事でした。

ところで、最近の薬局はこのARKAのようにチェーン店風のお店が多いけど、こういうお店では誰が薬剤師さんで誰が普通の店員さんなのか分からない。でも、店員さんだからと言って、薬局の知識がないとは言えないし、まして僕が尋ねたのは標準的な頭痛薬なので、店員さんにとっては簡単な質問だったと思います。

ともかく頭痛薬を選んで買って帰りました。今も鼻水は出るのですが、頭痛はおさまりました。よかった。


涼風

『ガラス玉演戯』ヘルマン・ヘッセ(著)

2006年09月21日 | Book


ヘッセの『ガラス玉演戯』を読みました。

僕はヘッセの作品を一部しか読んでいないけど、『車輪の下』『知と愛』を読んだあとで読むと、類似のテーマが扱われ、彼にとって初期に抱いた問題は終生付きまとっていたのだなと思わされます。

『車輪の下』を読むと、人間の人生には、その人自身では抗いようもない力が働き、その人が歩もうとした道から引きずりおろすのだなと思わされます。ヘッセにとって、社会的規範であり成功の道だったエリート神学校からの逸脱は、人間の内部には、だれが見ても当然であり正当であると思われた人生の道ですらその人の生にとっては真実ではないことを意味しうることを表していました。

社会的規範に抗い、それから逃走し、既存の社会的なものとは異なる新しい個人的な道を歩むように、“何か”が個人に仕掛けることがあります。

『車輪の下』の主人公は、その抗いがたい力に翻弄され、神学校から脱落し、実家に帰ります。彼は神学校は自分の道ではないことを、自分の中の“何か”によって教えられました。

しかし同時に、その“何か”は、では主人公の彼にとって真実の道は何なのかまでは教えませんでした。

あるいは、その真実の道を教えるまで主人公は耐えることができませんでした。それまで明らかなエリートの道だけを信じていた彼にとって、その道から外れたとき、神学校が自分の道ではないことは分かっても、では本当の道は何なのかを理解するだけの力は彼には残っていませんでした。彼は、社会的な規範にも馴染むことができず、しかし彼に真実の道を教える“何か”について行くほどの精神的な力強さも養っていませんでした。社会的なものに沿うほど彼の個性は飼いならされてはいず、しかし自分自身の道を独り歩むだけの力強さも養っていませんでした。それゆえに、最後に彼が倒れたのは必然でした。

ほぼ自叙伝として書かれた『車輪の下』でヘッセは、自らは職業作家として成功し始めていましたが、神学校から逸脱した自分にとって正しい人生の道は何なのかは分からず、逸脱した時点で一度自分の人生は終ったものと感じられたのではないかと思います。

それに比べれば、円熟期の『知と愛』は、神学校という社会的規範と、それ以外の道との対立と融和がテーマになっています。ここでヘッセは舞台を中世に移しています。舞台を中世に移したからこそ、エリートの道と自分自身の真実の道との対立という問題を、その対立と融和というストーリーによって描くことができたのだと思います。

主人公のゴルトムントは神学校から逸脱したヘッセ自身を表しており、神学生であり学長となるナルチスは、社会的規範を表しています。舞台を中世に移すことで、ヘッセは自分自身の本能のままに生きるゴルトムントという人物を、あたかも本当にそういう人間がいるかのように描くことができ、自分自身の個性を生きることが人間にとって可能であるという理想を表現しました。またそのように個性を生き切るという理想を一方に描いたからこそ、他方で社会的なものたる神学校の象徴であるナルチスをもう一つの理想として描き、二つの対立と融和を表現することができました。

『ガラス玉演戯』は、このゴルトムントとナルチスを一人の人物に凝縮しようとしています。主人公のクネヒトは、作品全体において、ナルチスのような人物像を示しながら、彼は社会的規範たる神学校ではなく、芸術と学問を同時に追及する、現実には存在しない架空の理想共同体「カスターリエン」という舞台の中で「ガラス玉演戯」の名人として生きます。主人公の人柄はヘッセにとってはエリートの道を歩む者なのですが、その主人公が生きている世界は“精神”を追求する理想共同体です。

しかしこの理想共同体は同時に、国家と戦争というヘッセの生きた現実に囲まれています。ここでヘッセは再び、エリートとしての社会的規範と、個性的な真実の道との葛藤をテーマにします。

主人公のクネヒトは、その理想共同体で芸術においても学問においても頂点を極めますが、その芸術と学問が現実と遊離していることに悩み始めます。ここで、保護され閉鎖された空間で理想の“精神”を追求し続けるか、そこから逸脱して自分の個性をもう一度歩み直すかを主人公は迫られます。

この作品のラストは、ヘッセが最後まで、規範に囚われない個性の道を探し続け、彼自身は成功した作家として外面的には自分自身の道を歩んだように見えながらも、自分は本当に自分の道を見出したのだろうかと疑念にかられていたことを表しているようにも読めました。


涼風

『働くということ - グローバル化と労働の新しい意味』ロナルド・ドーア(著)

2006年09月20日 | Book


ロナルド・ドーア著の『働くということ - グローバル化と労働の新しい意味』(2005)を読みました。

扱われている内容は、

 ・イギリス・アメリカそして日本での新自由主義の台頭
 ・労働組合の衰退
 ・従業員のためではなく、株主価値のための企業経営
 ・新しいエリート層―コスモクラット(アメリカでMBAを取り、自国語より英語で話し、自国民より海外の同じ階層と人と交流がある)―の出現
 ・基幹従業員と周辺従業員(派遣社員など)との選別
 ・不平等の固定化
 
といった、最近では馴染みのあるものばかりで、一つ一つの議論に目新しさはないと思います。

著者はイギリス人で著名な方ですが、私はこれまで彼の本を読んだことがありませんでした。ただこの本を読む限りでは、経済的な平等というものの価値を強く信じている人だと思います。

この本の内容で印象に残ることの一つは、著者が経済構造や労働の現場の変化の事例を挙げながら、そこに社会的な倫理の変化を指摘すること。

完全雇用によって「国民」に雇用を確保するという理念が疑われ始めると同時に、アングロサクソン諸国では、企業のトップは平均的な従業員とは比べようもないほどの収入を得ることが当然であるという理念が普及しました。

経済的不平等の広がりというのは、単純に全体の中で上下が半分に分かれることではなく、僅かな上層が社会の富の大半を得ることができるシステムのことを実際には言います。

この企業のトップの収入がその人の能力を公正に反映しているかどうかが問題になります。

雇われる側の従業員の収入は、「労働市場」の需給バランスによって決定されます。そこでは、従業員が文化的に満足のいく生活を送ることを考えて給料が決定されるのではなく、その従業員の企業組織への貢献の度合いが重要になります。

しかしアメリカなどの企業役員の収入は、そのような「市場競争」で決定されるのではなく、役員たち自身の決定で決まります(139頁)。

雇用者と被雇用者のこのような違いは、資本主義が出現した当初から指摘されたことだと思います。ただ問題になるのは、新自由主義が席巻して以降は、経営者が自分たちのこのような特権を十全に活用することにためらいを感じることがなくなり、平均的な従業員の1000倍の収入を得る事態も起きていることです(137頁)。

この役員の収入の決定には、おそらく新古典派経済学者が想定するような「競争」による決定メカニズムは働いていません。従業員の収入は、需給バランスによって「中立的」に決定されているのに対し、役員の収入は恣意的に・感情に影響されて決まります。著者は、「自分の給与を決める報酬委員会のメンバーを、社長自身が任命する仕組み」が多くなったこと、「報酬調査専門のコンサルタントが、各社の経営トップの報酬に関する情報を広く定期的に集め、そうしたデータを、各社の報酬委員会が利用するようになったこと」という事実を指摘します。

このような「報酬調査」を利用している事実は、役員の報酬というものは、従業員の給与とは異なり、需給バランスではなく、社会的な「常識」なり「通念」なりといったものを頼りにして決まることを表しています。中立的に誰もが納得できる給与決定システムがないので、「報酬調査」という統計を当てにします。つまり、「社会規範」によって決まるのであって、効率性を考えて決定されるのではありません。

しかし、従業員の給与はそれに対し、生産手段を持たない労働者と経営者との間で、需給バランスによって「中立的」に価格が決定され、労働者の生活に対する考慮はなされません。

また需給バランスではなく、「報酬調査」という統計から“妥当”な線を探るという、恣意的な金額の決定がなされるにもかかわらず、企業のトップは、それが自らの能力を公正に反映したものだと考えるようになっています。著者はあるCEOの次のような言葉を引用します。

「私のCEOとしての何百万ドルの年収は、会社に対する、したがって株主や社会に対する私の潜在的な貢献の客観的評価を表しています。客観的というのは、取締役会の報酬小委員会が、経営人材市場における世間相場についてヘイズ・コンサルタンツやインカムズ・データ・サービシズなどから、徹底的に市場情報を集めて決めた報酬であるからです。つまり、私の仕事に対する公正な報酬です」(136頁)。

しかし、外部の情報に頼る時点で、経営者の報酬というのは、明確な決定方法というものはなく、「他の経営者もこれくらいだから」という“通念”に頼っていることを意味しているのではないかと思います。

労働組合が力を持っていた時代には、大企業の従業員の年収もそのような「世間相場」で決まっていたのですが、組合がその力を失うにつれて、従業員の年収は「世間相場」ではなく「需給バランス」で決まるようになり、報酬額の決定権を持つ者は自らの給与を恣意的に決めることが可能になりました。

ただ恣意的と言っても、完全に個人の自由で決まるわけではなく、社会的な通念と言うものを考慮しつつ、経営者の給与は決まります。そこで問題となるのは、なぜ新自由主義が席巻して以降は、経営者の給与は平均的な従業員の1000倍以上の額に上ることが社会的に許容されるようになったかです。もちろんその際には、従業員を“リストラ”することで、株主を価値を高めたという理由で、高い報酬を得る経営者も出現しました。

従業員の生活と人生を脅かすことで企業の価値を上げた場合には、賞賛されるような規範が欧米で、そして日本でも生まれました。その経営者の年収で1000人の従業員の生活を救うことができるにもかかわらず。

これはあまりにもマルクス主義的な偏向した考えになるでしょうか。

このような規範の変化の原因として著者は、

 ・戦争にはぐまれた国民的結束の喪失
 ・豊かな社会における社会的連帯の喪失
 ・性的欲望の解放による規範の喪失
 ・女性運動による個人主義の台頭、家族の連帯感の低下

を挙げています。

労働組合が力を持ちえたのは、戦時にはぐくまれた「国民」という観念の強化と、男が妻子を養うという家族の価値が信じられていたがゆえに、すべての労働者(=成人男性)には家族を養うだけの報酬を得る権利があるという社会的通念が生まれ、社会の誰もがそれを当然と考えたため、そのような「世間相場」で従業員の年収も決まりました。

しかし、それら「国民」「社会」「家族」といった価値が失われると(それは労働運動が国民にとって勝ち得た経済的権利がもたらした事態でもあるのですが)、従業員は単なる「個人」とみなされます。

一人の従業員の背後には家族がいるという観念がある場合には、従業員の年収は家族を養うだけの額になるべきという社会的規範の強制力が働き、経営者はそれを考慮せざるを得ませんでした。

しかしもはや従業員が「一個人」でしかなく、彼には守るべきものも何もないとされるとき、その「一個人」は家族といった労働世界以外の世界を維持する生活者としてはみなされず、ビジネスのために利用される一つの「道具」として見做され始めます。

「一個人」は自分のためだけに働く者とみなされ、そのような者に十分な年収を与えるべきという規範は生まれにくいのではないでしょうか。20代、30代の派遣労働者やアルバイトが時給1000円前後で「使われ」、彼らの人生を考慮した給与の決定が行なわれないことは、このような社会通念がもたらした(つまり、私たち社会全体の想念)事態であるように思えます。

個人が個人のために生きることが正当なこととみなされていないのではないかということです。そのため、そのような個人は自分の生活を維持することもままならない給与しか受け取ることができません。

また個人の生活・人生を考慮した給与の決定が行なわれていないことと、経営者の給与が平均的従業員の1000倍にも上るというアングロサクソン諸国での事態とは、つながりがあるのだと思います。つまり、経営者の給与も、経営者という個人の生活を考慮した額とはかけ離れた、およそ“非現実的”な、本来ならヴァーチャルな世界でしか想像できないような数字に設定されているのです。生活を行なうのに必要な額という基準から見れば、周辺労働者の額はそれか遙に低く設定され、経営者の給与はその基準から遙かに高く設定されているのです。

ここには、“現実感覚”というものが失われている事態があります。

この本は、主に従業員という立場の改善というものに主眼を置いた議論がなされているので、企業経営者の視点、創業者の視点というものがありません。それだけに経済的な不平等というものを「不公平」なものと見る視点が強調されている傾向があります。

それが“偏向”なのかどうかはともかく、最近の企業文化と従業員の立場にある人の状況をあらためて眺めるには、議論が上手く整理された本なのではないかと思います。

ただ経営者と言っても、創業で苦労した中で誰もが真似できない創意工夫で競争を切り抜けた人もいるし、借金してでも従業員に給与を払って死に物狂いで経営している人もいます。

だから、この本が想定しているのは、経営者全般ではもちろんなく、すでに巨大組織化している企業や、株式上場で莫大な利益を上げているベンチャーなどを指しているのではないかと思います。このあたりの事情については、私自身もっと勉強が必要です。


参考:派遣業の問題点について『貞子ちゃんの連れ連れ日記』

   ストックの分配による不平等の是正“404 Blog Not Found”

『紙屋悦子の青春』

2006年09月19日 | 映画・ドラマ


『紙屋悦子の青春』という映画を見ました。

本当なら、最近はわざわざ映画館で映画を見に行こうという気はあまりないし、もし行くとして非日常的なスペクタクルを味わえる映画にすると思います。ぱっとした気晴らしのために。

ただ、この映画は原田知世が主演だということと、新聞やテレビで何度も宣伝を見て、彼女自身がこの映画についての思い入れを語っていたので、見に行くことにしました。

原田知世との映画での出会いは、8年前の『落下する夕方』を見てから。あっ、でも彼女のCDはその一年前から聴いていたか。

『落下する夕方』からもう8年も経っているなんてなんだか信じられない。この間、時代の雰囲気も自分もあまり変わっていないような気もする。

今回の映画の原田知世も、以前と変わっていない。


映画は、特攻に行く青年がその友達に、自分の好きな女性との見合い話を設定するというもの。画面は三つから四つほどしかない、とてもこじんまりとした映画で、ほとんどが登場人物たちがお膳を囲んで座って話をするシーンです。

この映画は戦争映画なのだろうか。戦争映画なのだけど、この映画のよさは、戦争を背景にしながらも、登場人物たちの人間関係の機微を上手く表現している点にあるのだと思います。戦争という特殊な状況下で表れる、人々の日常の自然な感情を上手く捉えているのだと思います。

だから、登場人物たちの一つ一つのセリフや感情表現に、観客は感情移入できるのじゃないでしょうか。

観ていて、本上まなみという人が演技が上手なのに少し驚きました。

あと、おそらく劇の上での登場人物たちの年齢と、演じている俳優たちの実年齢はとてもかけ離れていると思うのですが、にもかかわらずその違和感をまったく感じさせないことも後から考えて印象的でした。役者が話の中にピタッとおさまっているのです。

これは、役者たちの演技がみな達者であることと同時に、役者の人たちの個性とお話の中の人物たちの性格とが、信じられないくらいにぴったり重なったからなのだと思います。

映画が終っても立ち上がる観客の人はいなくて、劇場が明るくなるまでみんな席に座っていました。


涼風

ピリピリ

2006年09月18日 | 見たこと感じたこと



台風が来ているからか、なんだかジトーっとした湿気で、空も鉛色の曇り空です。座っていると、いつの間にか額に汗がたまってきます。

そうか、こういうときに除湿機があると便利なんですね。

まぁ、扇風機でも気持ちいいのですが。

昨日こそ映画に行こうと思い、気分を整えていました。すると父がお昼から、田舎でもらってきたお米をコイン精米所に持って行って精米すると言います。

父は一人で行くつもりだったのですが、お米は重いので、一緒に行くことにしました。父がナビゲートして、運転は僕。

車で30分ぐらいのところでしょうか。場所は神戸の少し奥に入ったところで、山や田んぼの間に道路が通っています。自然が多いのですが、そういう自然はあまりきれいではありません。

以前ある人が言っていたのですが、「自然」と「田舎」は違うそうです。

「自然」は生命を育み、人々に癒しを与えます。それは私たちの貴重な財産です。

「田舎」とは「高齢者」と「貧困者」が居住し、中央に見捨てられた、寂しく荒れた場所です。

植物がたくさんある点では同じなのですが、「自然」には私たちはポジティブなイメージを持ちますが、「田舎」に対しては蔑視的な視線を投げかけ、私たちの感覚はそこに拒否反応を示します。

「田舎」の山や林や植物は、荒れた感じがします。人々から見捨てられたような。

「自然」は、私たちは必死に保護し、とても貴重な財産のように思います。


昨日行ったコイン精米所は、神戸の中心から道路で少し行ったところなのですが、山や畑の間に無作法に道路が無理やり作られ、日曜日の退屈な午後に人々が車をブンブン走らせていて、なんだかピリピリした感じでした。


涼風

一眼レフに触る

2006年09月17日 | 絵画を観て・写真を撮って


先日ブログに載せている写真をほめられて嬉しかったので、家電屋に寄ったついでに(生まれて初めて)「一眼レフ」のカメラを見てみました。

僕はデジカメが普及する前にカメラを持ったことがないし、デジカメが普及してからもデジカメを買ったことがないし、今使っているデジカメも本来は父親のものです(僕ばっかり使っているけど)。

なのでデジカメの種類は何も分かりません。お店のカメラを見ていて、とりあえず、コンパクトデジカメと一眼レフデジカメがあること。一眼レフ=デジカメではなくて、「一眼レフデジカメ」というものがあることがなんとなく想像できました。

その「一眼レフデジカメ」は大きい。大きいしなぜかどれも黒色です。これはなぜなんだろう?コンパクトデジカメはどれも銀色なのに、なぜ一眼レフはどれも黒色なのだろうか?

それはともかく、一眼レフデジカメを手にとってみると、重い。コンパクトデジカメに比べてはるかに重いです。この重いカメラをもって歩くには、やはりそれなりに「写真を撮るんだ」という意気込みが必要のように思います。

またお値段もやはり高めですね。

後、コンパクトデジカメと一眼レフでどのくらい写真に差が出るんでしょうね。

と思っていたら、シンクロするように、宝彩有采さんのメルマガが送られてきて、次のように述べられていました。

「さて、最近のデジカメの進歩は著しいですね。
コンパクトなカメラでもきれいに写りますし、
なんと言ってもフィルムも焼きつけも不要ですから、便利です。

とはいっても、以前良く使っていた一眼レフで撮った写真のようにはいきません。
やはり、レンズが違います。以前は、望遠とか、広角とかを使い分けて、構図や絞りをきめて、
一枚一枚真剣に写真をとっていました。
ですから、出来上がった写真も、なんとなく、趣があって下手なりに、自己満足の世界がありました。」

<宝彩有菜のメールマガジン>

というので、やはり分かる人には明らかな違いがあるみたいです。写真に明らかな違いがあるのかな。

とりあえずはコンパクトデジカメで写真を撮る楽しみをもっと体験してから(今でも楽しいのだけど)、次のことを考えることにします。


涼風

もう間に合わない

2006年09月16日 | 日記



久しぶりに映画を見に行こうと思ったら、最終回の時間は2時半から。朝10時からと昼の12時半からと2時半からの一日三回のようです。

もう間に合わないですね。ついでに髪を切ろうかと思っていたのですが、外に出て行くきっかけを失った感じです。

昨日は夜はとても暑くて少し汗をかきそうでした。風は冷たいのですが、残暑を搾り取っているという感じでしょうか。

今日は、少し晴れていて、暑くもなく、寒くもないという感じです。

土曜日なので、町全体にゆったりした感じがあります。


涼風