joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

スターバックス

2008年10月20日 | 店舗を観察して
スターバックスって、どうしてあんなに無意味におしゃれな服装をした人でいっぱいなのでしょう?


どうしてあんなに無意味におしゃれを装ったボサノヴァ風の音楽ばかりかかっているのでしょう?


どうして空間のデザイン性ばかり意識して実際には座りにくい椅子が置かれているのでしょう?


どうしてあんなに小さなクッキーが200円もするのでしょう?


どうして砂糖をべたべた塗っただけのまずいドーナツを置いているのでしょう?

本来の学びの場

2008年10月05日 | 日記
「講義ノート屋」氷河期 京阪神の大学で「閉店」続出(朝日新聞) - goo ニュース


この記事に

「大学での学びは誰のためにあるのでしょうか。授業に出席することなく、『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易であり、本末転倒です」

という大学の学長が学生に送ったーメール文が紹介されている。

よくわからないのは、なぜ「授業に出席することなく、『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易」なのだろうか?

講義ノートを読んで勉強することのどこが安易なのか?

学者が出している書籍の中には、その学者の講義を学生がノートにしたものも多くある。もちろんその中には名著と呼ばれているものもある。

講義ノートを読むことも、著者が執筆したノートを読むことも、同じです。結局はそれを読んで、読者は著者の考えを理解するのだから。

講義ノートを読んで勉強することは、本を読んで勉強することと同じです。

そこには安易さなどありません。

そんなことは、自分自身の研究過程を振り返ればわかるはずです。

学者の人ほど、そのことを理解しているはずです。

なのに、なぜこの学長は

「『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易」

などとおかしなことを言うのでしょう?




本当におかしなことは、勉強するためには講義に出なければならないという考え方にあります。

「講義に出る」。

これほど時間と労力を浪費し、学生の勉強への意欲をなえさせるものはありません。

人の話を聴いて、それを理解して、ポイントをノートにまとめる。

これはとても難しく労力のいる作業です。

もちろんそのような作業を完ぺきにこなすことは、社会に出てからの財産になるでしょう。

でも、それは大学の勉強に必ず必要な作業ではありません。

一番勉強しやすいのは、読んでわかる文章でまとめられた本を勉強すること。


だから、大学の先生が学生に自分の言いたいことを本当に理解して欲しかったら、自分の言いたい内容を文章にして本にして販売すればいいだけです。

出版社が出版してくれなかったら、コピーを配ればいい。

何も言葉と黒板だけで説明するという、聴く人にとって分かりにくいことをする必要はありません。

そんなのは時間の無駄です。

大体、何十人・何百人もいる教室でおもしろい講義をするなんて、普通の人には無理です。余程の達人でも、毎週毎週するなんて不可能です。

そのような講義に出ないと勉強したとみなさないなんて、おかしいにも程がある。100分間机に座るという拷問に出ないと単位を出さないなんて、学問とはまったく関係がありません。

もしそんなことを考えている学者がいたら、即刻考えを改めてください。



大学の講義というものは、本当は要りません。

要るとしたら、学生が分からなくなった時に、教えてあげることができる人です。

教室では講義がなく(だから教室も必要なく)、教師は学生の質問にいつでも答えてあげることができるよう研究室で待機する。


それが本来の正しい学びの場です。







学力テスト

2008年10月01日 | 日記
学力テストに関する議論が続いています。


子どもたちにとっては、自分たちの成績が低いことで大人同士がいがみ合い、中傷し合っているのですから、健全な状況とは言えません。




学力を上げるために、学校に塾の先生を呼んだり、いろいろと行政は試みています。


しかし、学校で学ぶ内容が本当に子どもたちの将来に役に立つのかという議論はなされません。その点については疑いの余地がなしとされています。


もし私たちが生きていく上で学校の5教科を習得することが必要であるなら、わたしたちは大人になってもそれらでいい点を取ることができなければなりません。


しかし実際には、学校の教科の内容を全部忘れてしまっていても、私たちの大部分は仕事をしていくのに困らないはずです。



この「学力」という幻想にいつまでわたしたちはとらわれ続けるでしょうか。


大人になったときに必要なことは、問題に対して自分の力で対処していく癖を身につけていることです。


しかし、子どもたちに勉強を教えている人は誰でも知っています。


「勉強」を教えられてきた子どもたちは、人から指示されなければ動くことができないし、同時に人の指示をちゃんと聞くこともできない人間に育っているのです。


これがどれほど恐ろしいことか分かりますか。


全国の小学生の子どもは、学校、塾でこういう言葉を言い続けています。


「今黒板に書いたことはノートに書かなければいけませんか?」


大切なことは自分が理解しているかどうかであるのに、すべての動作を教師の指示に合わせなければならないと思っているのです。


もともとある学科に興味をもっている一部の子どもは、教師の指示にとらわれずに自分の興味で学びを進めていきます。


しかしその他の大部分の子どもは、自分のしたくないことを「しなければならない」と思い込み、本当はしたくないことをしているために、ぼーっとして教師の話を聞いていません。


まだ教師や大人に刃向う子どもはいいでしょう。


もっとも深刻なのは、やりたくないことをするために、自分の好奇心や興味を殺して、ひたすら大人の言うことに合わせようとする子どもたちです。


つまり、私たちの子ども時代のことであり、今の子供の大部分のことです。


彼らは自分の興味のないことをしているのですから、その教科の内容について自分で考えることなどしません。


また教師の話の内容を深く理解しようともしません。


とにかく、教師の言葉の表面的な部分だけをなぞろうとします。


結果的に、教師の話に合わせようとして、まったく的外れのことしかできないようになります。


こうして、既存の教育は、人の指示に従おうとしながら、人の指示の内容を理解することができない人間を大量に生み出しているのです。


彼らは、組織の中でしか生きていけないにもかかわらず、組織に必要な仕事もできない人間へと育っていきます。


わたしたちの社会の大部分はそのような人材で構成されており、今の教育もそのような人材を再生産しています。


でも、学力テストの点数などは教育にとって重要でも何でもないということに、多くの人は気づき始めています。