(「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 1からの続き)
こうした悲劇はバブルのときに日本人は懲りているはずなのですが、なぜか今日本には庶民のレベルにまで、おそらく中の下まで投機にはまりつつあります。それは、執着気質によって規範に沿ってひたすら大量生産を行うこれまでの体制を維持しえないことは明らかになっても、新しい経済倫理をいまだ私たちが見出していない証拠です。
あるいは、今の投機への熱中は、執着気質が極限まで進んだ果ての現象かもしれません。中井さんは執着気質を「とりかえしをつけよう」とする性向だと述べます。つまり、失ったもの、あるいは規範から外れてしまったものを、「本来あるべき」ところに戻そうとする強迫的な努力です。
しかしそのような強迫的な努力がもはや実を結ばず、それでもなんとか自分達が本来いるべき場所に戻るべく「とりかえしをつけよう」とすると、一攫千金の幻想を追い求めようとします。
規範とは確実であるから規範なのですが、その確実なものがなくなったとき、それでもなお何かにしがみつこうとすると、本来規範にはなりえないものを規範とみなします。投機・ギャンブル(投資ではない)があたかも規範であるかのように人々に崇拝されますが、それは、がみつくものを失った執着者が崖の向こうに掴もうとした幻想です。
規範のない「リスク社会」を生きる上で頼りになるのは、執着ではなく、分裂気質が有する微分的認知の能力です。それは「自己の人間的弱点への敏感さ、上司・部下に対する対人的距離の周到な測定と対人的な鎧の完璧性、心理的・肉体的困苦への耐性とその計算された誇示、かすかな徴候への感受性と予想される事態への先取り的対処、きわめて複雑な状況の解読、そして自らの置かれた状況とそのなかでの自らの姿に対する突き放した観察からくるユーモア」という資質であり、予測の効かない世界で機転を働かせる直感的能力と言えるかもしれません。「この倫理下にも人は努力するが、むやみに勤勉であったり、愛他的であったりはしない。禁欲はむしろ他者と共有する人格の個別的欲求にむけられ、発想の原点が自己にあることは決して失われない」。
個人的に興味深いのは、中井さんがこれらの微分的認知の能力を、「プロテスタンティズムの倫理の一つの枝」と述べていること。これは実際にはどうなのだろう?
(この枝は、英国貴族のnobless oblige、キプリングの「白人の重荷」、シュムペーターの「たえざるイノベイションの原動力としての経営者」としてヨーロッパの中で受け継がれたと指摘されている)
たしかにヴェーバーはプロテスタンティズムの倫理を、経営者の特質として理想的に見つめている。彼は予測と結果の考量に基づく自己の意志による決断を最高の倫理として称揚したけれども、それは明らかにプロテスタントの倫理の中に彼が見出したものです。ヴェーバーは彼の生きた時代のドイツを有能な政治指導者不在と診断しましたが、それに代わりドイツを担うことができるのは、経済というジャングルの中で創意工夫を行える企業家であると見なしていました。予測不可能な当時の大戦下のヨーロッパで微分的認知能力のあるのは企業家だったわけです。
しかし同時にヴェーバーは、近代組織官僚の「計算可能性」のみを思考し・規則に固執する強迫的性格を軽蔑していたけれど、それらの特質もプロテスタンティズムの成れの果てだと見なしています。つまり、神の御心に適うべく強迫的に行動する特性は、黙々と与えられた任務を忠実にこなす官僚の精神へと転化したというわけです。
一体プロテスタンティズムは分裂気質なのか執着気質なのか?
このようなヴェーバーの「混乱」とは異なり、中井さんは執着気質的労働倫理とプロテスタンティズムの倫理とを次のように区別しています。中井さんによれば、ヴェーバーのいう「職務忠実」・ヨーロッパの勤勉の倫理はより「職人根性」に近いといいます。
「職人根性」とは対象へのあくな問いかけ、洗練、等等であり、それに対して執着気質的労働倫理は「はるかに不安定であり、ほとんど一過性」のものでさえある。つまり、それは内在的な動機に基づく行為ではなく、その場その場で他者(社会)から与えられた反応だといえる。「計算可能性」の追求は、執着気質者の自律的な行動を持続させるのではなく、つねに与えられた尺度への依存をもたらすのであり、彼はつねに他者から指針を与えられる必要がある。それはつねに「対人関係を巻き込んでの努力、人と人との間に立ちまじっての努力」である。
「「職人根性」は、或るほんとうの父なる神といってもよい、かたくなに沈黙にする絶対的なものの下における努力の倫理であり、執着気質的職業倫理は、そのような神が次第に見失われていく過程における倫理、世俗化された良心の倫理である。執着気質の人が「頼まれたら断われない」という裏には世俗化された社会から自らが疎んぜられることの恐怖がある。「職人根性」の人は、むしろ安易な依頼をかたくなに断わる。執着気質の人は、自己作品の是認の基準を究極には人々に依存する。「職人根性」の人は、自らあきたらなければ、自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する」(53頁)。
このようプロテスタンティズムの倫理を理想的に読み解くのは中井さんばかりではない。手元にないので正確な叙述は分からないけれど、心理学者のチクセントミハイは自らが分析した「フロー体験」と、ヴェーバーが見出したプロテスタンティズムの倫理との類似性を指摘しています(『楽しみの社会学』)。
「フロー体験」とは、他者から与えられた動機ではなく、自分の中から自然にわきあがる興味・関心・欲求にそって行為するとき、人は対象と自己との区別がなくなり、ただその活動に没頭していく過程を示した言葉です。そのとき人は、自然な流れの中で、自分の能力を最大限に発揮し、えもいわれぬ充実感と喜びを得ます。おそらく、トリノでの荒川さんはそうだったのでしょうね。
このフローの例としてチクセントミハイは外科医・チェスプレーヤー・読書・ロッククライミングなどさまざまな活動・職業を分析しています。
しかし私は、チクセントミハイが「フロー体験」とプロテスタンティズムを同一視した文章を真面目には受け取れなかった。
「フロー体験」とは明らかに充実感と喜びの感覚であり、人間の幸福の達成です。
しかしヴェーバーがプロテスタンティズムに見出したものは反対の悲劇の感覚に彩られていると言っていい。それは、神の存在を殺したことの罪責感から逆にひたすら神に尽くそうとする神経症的な行動だと言えます。プロテスタントの経済人の資本蓄積は、決してチクセントミハイが言うような幸福感には彩られておらず、むしろ神を追放してしまった以上、後の人生で自分がすべきことはその神の奴隷となって行為することでしかありえないという諦めと自責の念です。
これは、ヴェーバーが間違っているのか、チクセントミハイがプロテスタンティズムを誤解しているのか?
この疑問はそのまま中井さんの記述にも当てはまります。「職人根性」が中井さんの言うように「或るほんとうの父なる神といってもよい、かたくなに沈黙にする絶対的なものの下における努力の倫理」であるとしても、それは自らが追放してしまった神への罪悪感には苛まれていない。おそらく「職人根性」とはそのような悲劇性とは無縁であり、その親方は神でも宗教でもなく、自らの内面から湧き起る(それは宗教によって植えつけられたものではない)感覚にのっとって活動し、また「自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する」。
その「職人根性」はたしかに目の前の課題に淡々と対処していく点で、たしかにヴェーバーの言った「ザッへ(事柄)への献身」に近いように見える。しかしヴェーバーはその「ザッへ(事柄)」への回帰を、一つの断念によって強いられる挫折としてとらえている。しかし中井さんが言いたい「職人根性」とは、そうした悲劇の産物ではなく、むしろもっと自然なものだと思う。
これは、ヴェーバーがプロテスタンティズムを誤解しているのか?それとも中井さんが誤解しているのか?
この問題が重要な問題かどうかは分からないけれど、答えることもできないのでとりあえず置いときます。
ともかく、執着気質的倫理とは、中井さんによれば「神が次第に見失われていく過程における倫理、世俗化された良心の倫理」である言えます。しかしこの倫理は、
執着できるもの(「経済成長」「中流への上昇」「終身雇用」「年金」etc)がある間は機能しても、それが失われると依存するもののない恐怖に陥ります。うつ病が現代の日本で以上に発生しているのは、従来の規範からの脱落(「失業」など)により「くやみ」「とりかえしがつかない」という感情に圧倒され、「とりかえしをつけよう」とする執着の努力がもはや行えないことに原因があります(50頁)。
現在の日本は、このように執着的気質が挫折したにもかかわらず、失った微分的認知の能力を(不可能であるにもかかわらず)何とか取り戻そうとする絶望的な幻想をもっていると言えるかもしれません。
それは、確実に物事をこなす能力をもつリーダーを見出せない中で、何か一挙に物事を変えてくれるのではないかという幻想を一人の政治家に投影していることに表れています。
なんら実績もない政治家、行動だけでなく「口」すら伴わない政治家を50%以上、場合によっては90%近く支持するという異常な状態が数年間も続いたことは、その政治家の特性だけでは説明できないことです。
本来は微分的認知能力をもたない者が、「リスク社会」となった時代において必要なその能力を無理にでも持とうとするとどうなるか?
中井さんは執着気質を過去の範例にのっとる「立て直し」路線とみなし(その代表者として二宮尊徳が言及されている)、それに対して日本の江戸時代に見られた分裂気質の例を「世直し」路線として指摘しています。それは混乱の時代において新しい社会の道筋を把握しようとする資質です。しかし中井さんは、日本ではこの「世直し」路線はひ弱なものだっと述べています。
「「佐倉惣五郎大明神」でも、より幻想的な人物像だが、ミロクや鯰進行(地震に代表されるカタストロフによる世情一新待望)となれば全く茫漠としており、あなたまかせである。「ニ・ニ六事件」の将校たちは、クーデター後についての計画をまったくもたず、すべて「大御心にまつ」とし(しかし現実の天皇は決して「世直し」路線に賛同しなかった)、荒木や真崎などの、現実には保身に汲々としている老人たちに幻想的な期待を寄せた。より大規模な「決起」が1941年に国をあげてなされたが、対戦終結への見通しはおろか、第一段作戦終了後の計画さえもち合わせていなかった。おそらく対中国戦の泥沼からの幻想的解放を希求したことと、ヒトラー・ドイツの戦勝に幻想的期待をもったことを想定するほかはない事態である」(63頁)。
現在の首相の特長については多くの人が語っているのでここでは触れない。しかし彼が異常な人気を保ちえた原因は、彼の単なる世論操作のテクニックではなく、国民の心理に目を向けたほうが納得のいく説明が得られる気がします。
その心理の一つが、依存するものを失ったなかで混乱した世界の解決を欲するとき、世界を単純化してくれる言葉・態度であり、それを発する能力をもったのが彼でした。
微分認知能力とは、わずかな兆しを察知して将来を予測する能力です。彼には政治闘争、言い換えれば対人関係の心理戦を勝ち抜く動物的勘があります。それは、人の嘘を見抜く能力、つまり弱みを察知し、相手が本当に思っていること・また自分も本当に思っていることを察知する能力と結びついています。正直だとも言えます(正直と誠実は違います)。
その正直さへの動物的感覚により、政敵も国民も、彼が納得した答えを提示しているような印象を抱きました。それがほんとうに納得のいくものなのかどうかは歴史が後に教えてくれますが、ともかく執着気質とは異なる直感的な動物的勘を彼が備えているのは確かであり、私たちはその彼の資質が社会に未来を切り開くと思い込みました。
彼の持っていた動物的勘が微分的認知と言えるものだったのかどうか、長谷川慶太郎さんならイエスと答えるでしょうが、私には分かりません。
この中井さんの本は分量的には多くないのですが、こうやって感想を書いていても思わずたくさん文章を引用してしまう、刺激的な本です。興味があれば、ぜひ読んでみてください。
この本には、他に「西欧精神医学背景史」という論文が収められています。
涼風
こうした悲劇はバブルのときに日本人は懲りているはずなのですが、なぜか今日本には庶民のレベルにまで、おそらく中の下まで投機にはまりつつあります。それは、執着気質によって規範に沿ってひたすら大量生産を行うこれまでの体制を維持しえないことは明らかになっても、新しい経済倫理をいまだ私たちが見出していない証拠です。
あるいは、今の投機への熱中は、執着気質が極限まで進んだ果ての現象かもしれません。中井さんは執着気質を「とりかえしをつけよう」とする性向だと述べます。つまり、失ったもの、あるいは規範から外れてしまったものを、「本来あるべき」ところに戻そうとする強迫的な努力です。
しかしそのような強迫的な努力がもはや実を結ばず、それでもなんとか自分達が本来いるべき場所に戻るべく「とりかえしをつけよう」とすると、一攫千金の幻想を追い求めようとします。
規範とは確実であるから規範なのですが、その確実なものがなくなったとき、それでもなお何かにしがみつこうとすると、本来規範にはなりえないものを規範とみなします。投機・ギャンブル(投資ではない)があたかも規範であるかのように人々に崇拝されますが、それは、がみつくものを失った執着者が崖の向こうに掴もうとした幻想です。
規範のない「リスク社会」を生きる上で頼りになるのは、執着ではなく、分裂気質が有する微分的認知の能力です。それは「自己の人間的弱点への敏感さ、上司・部下に対する対人的距離の周到な測定と対人的な鎧の完璧性、心理的・肉体的困苦への耐性とその計算された誇示、かすかな徴候への感受性と予想される事態への先取り的対処、きわめて複雑な状況の解読、そして自らの置かれた状況とそのなかでの自らの姿に対する突き放した観察からくるユーモア」という資質であり、予測の効かない世界で機転を働かせる直感的能力と言えるかもしれません。「この倫理下にも人は努力するが、むやみに勤勉であったり、愛他的であったりはしない。禁欲はむしろ他者と共有する人格の個別的欲求にむけられ、発想の原点が自己にあることは決して失われない」。
個人的に興味深いのは、中井さんがこれらの微分的認知の能力を、「プロテスタンティズムの倫理の一つの枝」と述べていること。これは実際にはどうなのだろう?
(この枝は、英国貴族のnobless oblige、キプリングの「白人の重荷」、シュムペーターの「たえざるイノベイションの原動力としての経営者」としてヨーロッパの中で受け継がれたと指摘されている)
たしかにヴェーバーはプロテスタンティズムの倫理を、経営者の特質として理想的に見つめている。彼は予測と結果の考量に基づく自己の意志による決断を最高の倫理として称揚したけれども、それは明らかにプロテスタントの倫理の中に彼が見出したものです。ヴェーバーは彼の生きた時代のドイツを有能な政治指導者不在と診断しましたが、それに代わりドイツを担うことができるのは、経済というジャングルの中で創意工夫を行える企業家であると見なしていました。予測不可能な当時の大戦下のヨーロッパで微分的認知能力のあるのは企業家だったわけです。
しかし同時にヴェーバーは、近代組織官僚の「計算可能性」のみを思考し・規則に固執する強迫的性格を軽蔑していたけれど、それらの特質もプロテスタンティズムの成れの果てだと見なしています。つまり、神の御心に適うべく強迫的に行動する特性は、黙々と与えられた任務を忠実にこなす官僚の精神へと転化したというわけです。
一体プロテスタンティズムは分裂気質なのか執着気質なのか?
このようなヴェーバーの「混乱」とは異なり、中井さんは執着気質的労働倫理とプロテスタンティズムの倫理とを次のように区別しています。中井さんによれば、ヴェーバーのいう「職務忠実」・ヨーロッパの勤勉の倫理はより「職人根性」に近いといいます。
「職人根性」とは対象へのあくな問いかけ、洗練、等等であり、それに対して執着気質的労働倫理は「はるかに不安定であり、ほとんど一過性」のものでさえある。つまり、それは内在的な動機に基づく行為ではなく、その場その場で他者(社会)から与えられた反応だといえる。「計算可能性」の追求は、執着気質者の自律的な行動を持続させるのではなく、つねに与えられた尺度への依存をもたらすのであり、彼はつねに他者から指針を与えられる必要がある。それはつねに「対人関係を巻き込んでの努力、人と人との間に立ちまじっての努力」である。
「「職人根性」は、或るほんとうの父なる神といってもよい、かたくなに沈黙にする絶対的なものの下における努力の倫理であり、執着気質的職業倫理は、そのような神が次第に見失われていく過程における倫理、世俗化された良心の倫理である。執着気質の人が「頼まれたら断われない」という裏には世俗化された社会から自らが疎んぜられることの恐怖がある。「職人根性」の人は、むしろ安易な依頼をかたくなに断わる。執着気質の人は、自己作品の是認の基準を究極には人々に依存する。「職人根性」の人は、自らあきたらなければ、自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する」(53頁)。
このようプロテスタンティズムの倫理を理想的に読み解くのは中井さんばかりではない。手元にないので正確な叙述は分からないけれど、心理学者のチクセントミハイは自らが分析した「フロー体験」と、ヴェーバーが見出したプロテスタンティズムの倫理との類似性を指摘しています(『楽しみの社会学』)。
「フロー体験」とは、他者から与えられた動機ではなく、自分の中から自然にわきあがる興味・関心・欲求にそって行為するとき、人は対象と自己との区別がなくなり、ただその活動に没頭していく過程を示した言葉です。そのとき人は、自然な流れの中で、自分の能力を最大限に発揮し、えもいわれぬ充実感と喜びを得ます。おそらく、トリノでの荒川さんはそうだったのでしょうね。
このフローの例としてチクセントミハイは外科医・チェスプレーヤー・読書・ロッククライミングなどさまざまな活動・職業を分析しています。
しかし私は、チクセントミハイが「フロー体験」とプロテスタンティズムを同一視した文章を真面目には受け取れなかった。
「フロー体験」とは明らかに充実感と喜びの感覚であり、人間の幸福の達成です。
しかしヴェーバーがプロテスタンティズムに見出したものは反対の悲劇の感覚に彩られていると言っていい。それは、神の存在を殺したことの罪責感から逆にひたすら神に尽くそうとする神経症的な行動だと言えます。プロテスタントの経済人の資本蓄積は、決してチクセントミハイが言うような幸福感には彩られておらず、むしろ神を追放してしまった以上、後の人生で自分がすべきことはその神の奴隷となって行為することでしかありえないという諦めと自責の念です。
これは、ヴェーバーが間違っているのか、チクセントミハイがプロテスタンティズムを誤解しているのか?
この疑問はそのまま中井さんの記述にも当てはまります。「職人根性」が中井さんの言うように「或るほんとうの父なる神といってもよい、かたくなに沈黙にする絶対的なものの下における努力の倫理」であるとしても、それは自らが追放してしまった神への罪悪感には苛まれていない。おそらく「職人根性」とはそのような悲劇性とは無縁であり、その親方は神でも宗教でもなく、自らの内面から湧き起る(それは宗教によって植えつけられたものではない)感覚にのっとって活動し、また「自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する」。
その「職人根性」はたしかに目の前の課題に淡々と対処していく点で、たしかにヴェーバーの言った「ザッへ(事柄)への献身」に近いように見える。しかしヴェーバーはその「ザッへ(事柄)」への回帰を、一つの断念によって強いられる挫折としてとらえている。しかし中井さんが言いたい「職人根性」とは、そうした悲劇の産物ではなく、むしろもっと自然なものだと思う。
これは、ヴェーバーがプロテスタンティズムを誤解しているのか?それとも中井さんが誤解しているのか?
この問題が重要な問題かどうかは分からないけれど、答えることもできないのでとりあえず置いときます。
ともかく、執着気質的倫理とは、中井さんによれば「神が次第に見失われていく過程における倫理、世俗化された良心の倫理」である言えます。しかしこの倫理は、
執着できるもの(「経済成長」「中流への上昇」「終身雇用」「年金」etc)がある間は機能しても、それが失われると依存するもののない恐怖に陥ります。うつ病が現代の日本で以上に発生しているのは、従来の規範からの脱落(「失業」など)により「くやみ」「とりかえしがつかない」という感情に圧倒され、「とりかえしをつけよう」とする執着の努力がもはや行えないことに原因があります(50頁)。
現在の日本は、このように執着的気質が挫折したにもかかわらず、失った微分的認知の能力を(不可能であるにもかかわらず)何とか取り戻そうとする絶望的な幻想をもっていると言えるかもしれません。
それは、確実に物事をこなす能力をもつリーダーを見出せない中で、何か一挙に物事を変えてくれるのではないかという幻想を一人の政治家に投影していることに表れています。
なんら実績もない政治家、行動だけでなく「口」すら伴わない政治家を50%以上、場合によっては90%近く支持するという異常な状態が数年間も続いたことは、その政治家の特性だけでは説明できないことです。
本来は微分的認知能力をもたない者が、「リスク社会」となった時代において必要なその能力を無理にでも持とうとするとどうなるか?
中井さんは執着気質を過去の範例にのっとる「立て直し」路線とみなし(その代表者として二宮尊徳が言及されている)、それに対して日本の江戸時代に見られた分裂気質の例を「世直し」路線として指摘しています。それは混乱の時代において新しい社会の道筋を把握しようとする資質です。しかし中井さんは、日本ではこの「世直し」路線はひ弱なものだっと述べています。
「「佐倉惣五郎大明神」でも、より幻想的な人物像だが、ミロクや鯰進行(地震に代表されるカタストロフによる世情一新待望)となれば全く茫漠としており、あなたまかせである。「ニ・ニ六事件」の将校たちは、クーデター後についての計画をまったくもたず、すべて「大御心にまつ」とし(しかし現実の天皇は決して「世直し」路線に賛同しなかった)、荒木や真崎などの、現実には保身に汲々としている老人たちに幻想的な期待を寄せた。より大規模な「決起」が1941年に国をあげてなされたが、対戦終結への見通しはおろか、第一段作戦終了後の計画さえもち合わせていなかった。おそらく対中国戦の泥沼からの幻想的解放を希求したことと、ヒトラー・ドイツの戦勝に幻想的期待をもったことを想定するほかはない事態である」(63頁)。
現在の首相の特長については多くの人が語っているのでここでは触れない。しかし彼が異常な人気を保ちえた原因は、彼の単なる世論操作のテクニックではなく、国民の心理に目を向けたほうが納得のいく説明が得られる気がします。
その心理の一つが、依存するものを失ったなかで混乱した世界の解決を欲するとき、世界を単純化してくれる言葉・態度であり、それを発する能力をもったのが彼でした。
微分認知能力とは、わずかな兆しを察知して将来を予測する能力です。彼には政治闘争、言い換えれば対人関係の心理戦を勝ち抜く動物的勘があります。それは、人の嘘を見抜く能力、つまり弱みを察知し、相手が本当に思っていること・また自分も本当に思っていることを察知する能力と結びついています。正直だとも言えます(正直と誠実は違います)。
その正直さへの動物的感覚により、政敵も国民も、彼が納得した答えを提示しているような印象を抱きました。それがほんとうに納得のいくものなのかどうかは歴史が後に教えてくれますが、ともかく執着気質とは異なる直感的な動物的勘を彼が備えているのは確かであり、私たちはその彼の資質が社会に未来を切り開くと思い込みました。
彼の持っていた動物的勘が微分的認知と言えるものだったのかどうか、長谷川慶太郎さんならイエスと答えるでしょうが、私には分かりません。
この中井さんの本は分量的には多くないのですが、こうやって感想を書いていても思わずたくさん文章を引用してしまう、刺激的な本です。興味があれば、ぜひ読んでみてください。
この本には、他に「西欧精神医学背景史」という論文が収められています。
涼風
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