joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ラーメンズ

2007年02月28日 | 日記

ネットを見ていると、たまにMacのコマーシャルをやっています。

このCMのコンビは僕は知らなかったのだけど、ラーメンズと呼ぶそう。とても印象的なコンビです。

まずカメラの前でとても自然に立っていること。全然気負いが感じられない。セリフが自然な言葉となって出ているのです。こういうふうに気負わずに人前に出られること自体、すごいことのように思う。

舞台中心で大人気のコンビなんですね。テレビに出ないから全然しらなんだ。知らないんだけど、カメラの前での自然の振る舞いに、何かタダモノじゃないという雰囲気を出しています。すでに認知されていてもおかしくない、というか。

二人の演技を見ていると、とてもインテリジェンスを感じさせます。もちろん、終らないで生き残るには場の空気を読むのが大事だろうから、どんなお笑い芸人の人たちも頭の機転はよく効くのでしょう。ただラーメンズはそういうのとはちがう、爆笑問題にも似たインテリジェンスを感じさせます。

DVDを一度見てみたいな。そんなことをお笑いコンビで思ったのは初めてだ。

参考:MacのCMについて Start Macモニター座談会  新佃島・映画ジャーナル

ダイエット

2007年02月28日 | 日記

             バス停


今朝は静かな朝です。天気も、うっすら晴れているという感じ。昨日の夕方は小雨が降っていたけれど、今日はどんな一日になるのだろうか。

私はふだんはくズボンはジーパンばかりなのですが、チノパンみたいなものを買う必要がありそう。今は一着しかもっていない。それを穿いていると、たしかにジーパンよりラクなんですよね。

でもどちらにしても、バスなどで窮屈な椅子に座ったときに、ウェストがお腹を締めつけます。痛い。

菓子パンにクリームたっぷりだったりするものは控えよう。食間の空腹時は、食べることに欲求を見出すのではなく、お腹を少し満たすことを目的とすること。これを心がけたいと思います。心がけるというほど大袈裟なことじゃないけれど。

なくしたてぶくろ

2007年02月27日 | 衣料・生活用品と関連して

             草の上のカサ


朝。なかなかハードな夢を見ました。大変だった。

でも今日も天気はよさそうだ。あたたかい。

最近、手袋をなくしました。今年買った、指の第一関節が出せる手袋です。これがあると、手袋をしたまま財布を出したり、携帯MDプレーヤーの操作をしやすかったりと、なかなか便利で気に入っていました。

だからなくなったのはちょっと悲しい。

思い当たる場所を探しても出てこないので、その手袋を買ったお店と同じお店に行ってみると、「季節商品なのでもう置いていません」とのこと。そう、もうお店に並ぶのは春物になっているのね。

町を歩く人の指もとを見ても、手袋をしていない人のほうが多い。

でも、たしかに気温は例年より高くても、指の冷えというのは、ちょっと寒くてもこたえるものです。みんな平気なのだろうか?それとも手袋をするのが面倒なのだろうか?

僕は寒がりなので、薄手の手袋があると4月ぐらいでもしていると思う。とくに雨の日とかは指がとても冷たくなる。

だからなくなった手袋と同じようなものが欲しい。でも、同じ冬に二つも手袋を買うなんてお金の使い方が下手なようにも思います。だったら、もう冬も終わりなので、我慢すべきなのだろうか。

文具店

2007年02月26日 | 店舗を観察して

             公園のシマウマ


昨日と違って今日の天気はよさそう。昨日は寒いし眠たいし、疲れた一日だった。でも今日は朝から気分もすっきりしている。

昨日、ある文具店に紙をめくりやすくするために親指にはめるゴムを買いに行きました。値段は3個で348円。一番大きなサイズでも親指に入るかどうか確かめたかったので、店主のおじさんに「見本はありませんか?」とたずねると、ないとのこと。その代わり店主の人は袋を開けて一個取り出してくれました。

はめてみたところ、ちょっとキツイ。そこで僕は「他のお店も見てみます」と行ってそのお店を去りました。

うーん、ちょっと悪いことをしちゃいましたかね。新品の袋を開けて出してくれたのですから。あれはもう無駄になっちゃうのだろうか。

結局他のお店に行くと、1個100円ほどで同じ製品を売っていたので、それを1個買いました。うん、3個よりも1個だったら買いやすい。

最初に行ったお店は、個人営業という感じのお店。どこか狭く暗くセコセコした雰囲気のお店です。次に行ったお店は、店内が広くて綺麗で、品揃えもよさそうなチェーン店。

なんだかお店に対するイメージで購買行動を決定したのだと思います。

将来のカメラ

2007年02月25日 | ちょっと言ってみました

今日、外を歩いていて思ったのは、カメラ機能付きメガネがあれば便利だ、ということでした。

普段はどこに行くにもコンパクトデジカメを持ち歩きますが、今日は寒くて曇りできれいな写真は撮れそうにないし、図書館に返す本を入れたキャスター付きバッグを引くのに神経がいるので、カメラは持っていませんでした。

ただ歩いていると、これを写真に撮ったら面白そう、と思った被写体があったのも事実。

そこで思ったのが、メガネにカメラの機能が付いて、メガネのレンズを通して写真を撮ることができるカメラがあれば便利だなぁということ。シャッターも手で押す必要はなく、頭からイメージを送ればカシャッとできるのだ。

これだとカメラを持ち歩かなくても、気になる被写体があればいつでもカシャっとできます。両手がふさがっていても、いつでも手軽に写真が取れます。

まぁ、僕が携帯電話をもっていないだけで、多くの人には携帯のカメラで十分なのかもしれないけど。

重い寒さ

2007年02月25日 | 日記

             暗い冬の夕方の踏切り


今日は寒い。めずらしく冬みたいに寒い。どこか体の芯まで重いものがドーンと響いているような寒さだ。背中とお腹に氷を置かれたみたいだ。

体も風邪気味のように感じる。風邪の引きかけの一歩か二歩手前のような感じ。

あぁ、やだやだ。


『右脳をどのように経営にいかすか?』 七田眞 神田昌典

2007年02月25日 | Audiobook

             きらきら輝く道


日本に右脳幼児教育を広めた七田眞さんと神田昌典さんとの対談カセット『右脳をどのように経営にいかすか?』を聞きました。

私は七田さんの本は何冊か読んだことがありますが、その肉声を聞いたのはこれが初めて。

神田さんのオーディオ対談を聞いていると、話し方や声からその人がどういう人かというのを、なんとなく想像してしまいます。もちろんその想像が当たっているかどうかはわかりません。

ただ今回の対談を聴いていると、七田眞さんという方はとても謙虚で温和な人柄なのだなということが伝わってきます。七田さんの声を聴いていると、本当にこういう人がいるんだと驚くほどです。

この対談で七田さんはもちろんご自身の色々な考えを述べていますし、読者の中には意見を異にする場合もあるでしょう。でも、そのような意見の違いがありながらも、七田さんの話し振りを聞いていると、この方は自分の言っていることを本当に自分で信じている人なんだな、という印象をもちます。

これは簡単そうで、じつは難しいと思う。どれだけ立派なことを言っていても、自分が心底からそのことを信じるのは難しい。

しかし七田さんは気負いもなく、とてもリラックスした感じで、淡々と自分の意見を述べていきます。

こういう方は、おそらく、他人が自分と違う意見をぶつけてきても、「あなたはそういう考えなんですね」と認めることができるんではないかと感じます。

右脳教育というのは、イメージや直観力といったことを子供に伝えていく教育だそうです。対談で神田さんも言っていますが、この「イメージや直観」といった概念は、今でこそそういう内容を扱った本が書店に並び、社会的に認知された考えですが、一昔前なら多くの偏見にさらされていた考えでしょう。またその概念に不信な目を向けるほど、余計に右脳の開発は滞るので、馴染めない人はますます馴染めないということになるのだと思います。

おそらく今でも右脳教育に偏見をもつ人も少なくないと思います。

またフォトリーディングという右脳を使う速読を広めている神田昌典さんですら、「私は右脳が開いたということは全然ないんですが…」と言うように、大人は自分に右脳があることを信じることはとても難しいものがあります。

面白いのは、七田眞さん自身が、「私自身も自分には右脳の能力がないと感じていたんですが、友達の右脳の凄い力を見せられて、自分には右脳はまだ開発されていないけど、自分以外の人が右脳を開く手助けをしようと思い、こうやって右脳教育に取り組んだんです」と述べていることです。

たしかに懐疑心を培っている人たちが、自分の中で今すぐに右脳が開くことを信じることは難しいでしょう。右脳を扱う自己啓発的な本はたくさんありますが、その中で右脳を開くことができる読者はわずかだと思います。

多くの人はそこで「こんなの役に立たないよ」と本を投げます。

七田さんの面白い所は、自分には右脳の力はまだないけど、他人が右脳を開く手助けをしよう、と最初に考えたところですね。人間が素晴らしい能力をもっているのは確かなんだから、色々な方法を試して他人の力を伸ばそうと思ったところです。自分が賢くなるより先に他人を賢くしてあげようと思ったところです。


七田さんの著書では、右脳の特徴は「早く・効率的に」回転すると同時に、「他人との調和」を志向する点です。それに対し左脳は「遅く」回転すると同時に、「自分を守る」というエゴを強化する点です。

「早く・効率的に」思考が回転するとは、言い換えれば、自分の感情に引っ張られずに考えることができるという意味だと思います。つまり客観的に物事に取り組む力ですね。そのように客観的に物事に取り組める人ほど、“自分”というエゴに振り回されないので、他人の意見にも耳を傾けることができるでしょう。

だからよりポイントを絞って言えば、右脳の思考の特徴は、「早く・効率的に」and/or 「強く」考えることができることだと、私は想像しています。

人間の思考の形態には、七田さんの言うように「早く・効率的に」大量の情報を摂取するタイプと同時に、一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考を得意とする人たちがあります。

いわゆる頭がいいと言われる人たちの中でも、たくさんの情報を取り込むのが好きな人もいれば、分野を絞ってコツコツ思考を進めるのが好きな人もいます。

ただ、早く考えるにしても、コツコツ考えるにしても、重要なことはどれだけ自分の過去・感情・エゴにとらわれずに考えることができるかなのでしょう。私は詳しく知りませんが、おそらく七田さんが目指されてきた教育は、偏見や常識やその人の過去に囚われずに思考を働かせる力なのだと想像しています。

七田さんが「大量の情報を早く・効率的に摂取すること」を強調するのは、既存の学校教育が長い年数をかけて、ゆっくりと(鈍く)知識・論理を教え、そのため子供たちは与えられた知識を自分で活用する能力を発達させてこなかったからだと思います。その活用する能力とは、自分で新しく問いを作り出す能力でもあるだろうし、また自分で行動する能力でもあるのでしょう。

このことは、七田さんが子供の教育において、必ずしも既存のレールを上手く渡ることを理想と考えているわけではないことと結びついているのだと思います。むしろ学校の勉強ができなくても、その子の得意なことを伸ばして行けば、その子が将来人のために役に立てるようなことが見つかります、と七田さんは言います。

もちろん、やりたいことだけをやっていても、それで食べていけるかどうかはわかりません。ただ同時に、その子が得意なこと・夢中になれることを見つけた子供は、愉しい時間を過ごすことができるのも事実です。

ただ過去・既存のレールにとらわれないことが子育てで大事だと言う大人は多いでしょうし、そのために「ゆとり教育」が生まれました。しかしその実態は、「ゆとり」というより、単なる放任だったのでしょう。

しかし七田さんの考えている教育は、放任でもないし、かといって子供をミスへの恐怖で凍りついている「労働者」のように扱う教育でもなさそうです。そこでポイントとなるのが、イメージと直観力をキーにする教育ということなのだと思います。

私たちが受けてきた教育は論理を追うことを第一義にします。しかし七田さんは、論理ではなく直観を大切にします。

論理も直観も、知識・情報を脈絡づけるchannel能力です。違いは、論理が目の前の確実・安全な道だけを通ろうとするのに対し、直観は、一見道が見えない場所にも道があることを感じ取るセンサーを発達させていることです。

ここでもポイントは、明らかなもの・確実なものだけを信じる態度(未来への不安と過去への執着)と、崖をジャンプしていく態度(過去を手放し未来を信頼する)との違いです。

先に私は、「一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考を得意とする人たちがあります」と言いました。ただこのタイプの思考は、七田さんが言う「論理」を重視する思考とは異なるのだと思います。

「一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考」とは、たとえ先の道が見えなくても、先に何かがあると信じて進んでいく思考のことを言います。自分のやっていることが実を結ぶかどうかはわからないけれど、それでも何か自分の中で対象に惹かれる部分があるので、一つ一つやってしまう、という態度です。

それに対して論理とは、一つ一つのステップに確実性を求める執着心の表れです。このような論理を追う態度では、そのときそのときのステップではとりあえず安心感は得られますが、つねにリターンを計算できる道だけを歩んでいるので、結果的には既存のレールを歩んでいるだけになります。

こうやって見ていくと、七田さんが考えている理想の教育とは、必ずしも公教育が敷いたレールを上手く歩くことではなく、むしろ既存のレールではない場所に(も)自分が行くべき道があることを信じる力を、子供たちに伝えていく能力のように思います。





気持ちのいい朝

2007年02月24日 | 見たこと感じたこと

             お庭


今朝は7時間寝ました。ここ二、三日は一晩で5時間ほどしか寝ていなかったので、ひさしぶりにすっきりした朝だ。

窓を開けてみる。おお、ものの形がくっきり見える。朝日も差して朝の匂いもする。今日はいい天気なのかな。予報は… 晴れだ。今日はよさげな一日です。


絵本 『ノアルの手紙』 オオサワ チカ(絵) 天沼春樹/あまぬま はるき(文)

2007年02月23日 | 絵本・写真集・画集

             


絵本 ノアルの手紙(オオサワ チカ 絵 天沼春樹 文) を読みました。図書館でこの絵本を手に取ったのは、ノエルの秘密 という絵本を以前に読んでいて、何を読もうかなと思って本棚を眺めていて「ノアル」という言葉が眼に飛び込んできたから。ノエルとノアルが似ているから。

内容は、故郷のアルゼンチンから遠く離れた場所に住む内気なカラス・ノアルが村に馴染んでいく姿を描いています。

なんだか不思議なお話だ。

まず、絵が少し独特だ。ユーモラスで親しみやすそうで、でもどこか素っ気無く、暗い世界のようにも思える。大人が見ると何か心の奥の秘密の場所を覗いているような感じもしてくると思います。

内容は、これも微笑ましいのだけど、でも単純ではない。何も動きがないようなストーリーでありながら、いつの間にかノアルの状況は変わっています。

例えば夜に夢を見るとき、夢はどんなにいいお話でも、どこか暗いものが漂っています。この絵本はそれに似ているかもしれない。暗いと言っても、ネガティブな意味ではありません。ただどこか、表面的な愉しみや幸せとかを越えた世界を、絵本全体が現しているのです。絵や文が明示的にそのことを語っているわけではありませんが、読んでいくうちに、心の深層の動きを見せられているような感じになります。

絵本について書いていると、いつものことですが、自分が感じたことをうまく説明するのが難しいです。



2007年02月22日 | 日記

             山茶花沿いの道


昨日はほんとにあったかかった。いや、今は毎日のようにあったかいのだけど。もう冬の格好をしていたら汗だくになるし、陽射しがとてもきつい。


最近印象的だったのが、

「悟りとは、悪が勝利すること」

という言葉です。見かけた本をパラパラめくっていたら出会った。

要するに自分の内面で“悪”とみなしていることを受け入れるということです。

こういうメッセージは今までも多くの人が言っているけれど、なんだかとてもはっとしました。

“悪”を受け入れるといっても、どこかで、“正しい自分”が“悪”を許容するという、エラそうな立場に立っているのかもしれません。でも「悪が勝利すること」というと、もうこの世界の“悪”を積極的に肯定することのように思えます。

もちろん“悪”を行うことを推奨するわけではないでしょうが、今まで出会った言葉とは少し違うように思います。

『経営と文化』 林周二(著)

2007年02月21日 | Book

             ウィンター・コスモスと菜の花


林周二さんという経営学者の方が書かれた『経営と文化』(中公新書)という本を読みました。1984年出版ですからもう20年以上前の本です。

この時代はプラザ合意による円高不況前で日本経済が世界の第一線に立っていた時代です。現在の経営学者が本を書けば、おそらくどれも現在の経済・雇用情勢をめぐる激変に触れた危機意識の高い文章になるでしょう。それに比べれば、この本では日本経済の危機や“グローバリズム”という考えも示されず、淡々と各国の文化の相違がその地の企業体に与える影響について述べられています。これは時代の違いを感じさせる点です。

そのため、究極的に何が問題なのか?という危機意識はあまり押し出されません。ただそれゆえに、学者として著者が企業と各地域の文化の関係について記述する文章の客観性が前面に出てきます。

文化については、“和”“根回し”“心術倫理”を強調する日本の企業に対し、“個人”による直接的な“交渉”や“リーダーシップ”を協調する欧米・韓国などの企業という説明がなされます。

この本の中で私に印象的だったのは、文化の違いによる時間感覚が経済活動に与える影響についての記述。

例えば

・ アメリカの経営者は、〈現在から未来に〉眼を向けて経営する。そこでは、ヴァイタリティvitality、アバンダンスabundance(豊富さ)、モビリティmobility(可動性)といった思想が重視される。
・ 西欧の経営者は、〈現在から過去に〉眼を向けて経営する。そこでは経験、必要性necessity、安定性stabilityといった思想が重視される。

といった傾向が見られます(p.149)。

実態は知らないのですが、アメリカでは資本の所有と経営とが分離しているため、経営者はつねにリスクを怖れずに市場を開拓しようとします。現在でも、ベンチャー・キャピタルからお金を借りた起業がアメリカでは頻繁に見られると言われています。

それに対してイギリスやフランスなどでは、19世紀の資本主義企業の形態を受け継いだ「いわゆるオーナー経営者とか金融出身の資本家型経営者」が多く(写真家ラルティーグの父親は大銀行の副頭取だったそう)、そのため資金の損失を怖れて過去の栄光を維持することを志向するそうです(p.149)。

ではこの図式で言えば日本の経営者の世界観はどうなるのでしょうか?

まず、アメリカ型でも西欧型でもない世界・時間観としては、眼を未来だけでも過去だけに向けるわけではない、輪廻的な世界観が考えられます。現在から未来へ眼を向ける場合でも、過去へ向ける場合でも、それらの場合では時間は単線的に進むと考えられます。

 ―→○――→○――→○――→◎
  過去  現在  未来  終末

それに対して輪廻的な世界観では、現在・未来・過去が円上のどこかに位置し、時間はその周りをグルグル回るようなイメージになります。

しかし林さんは、おそらく日本人の時間意識は、そのような輪廻的なものではないと言います。

単線的な時間間隔では、過去・現在・未来は厳然と区別されたものです。それゆえにアメリカの経営者は“未知”の領域を“開拓”しようとし、西欧の(19世紀的)経営者は取り戻せない“過去”に郷愁を感じます。ここでは、未来も過去も現在とは区別されたものです。

他方で輪廻的な時間間隔では、現在・過去・未来はもはや区別できないものと感じられます。

それに対して林さんは、“日本人”の時間間隔は、現在・過去・未来の違いは意識され、過去から現在そして未来へという一方向的な感覚をもちつつも、過去は現在に流れ込み、い、また現在も未来へとつながって流れていると指摘します。

「…日本人型の文化時間意識にあっては、過去は単に永遠に過ぎ去ってしまったものではなく、現在のなかにそれは脈々と活きているものと認識される…。…祖霊たる死者や先祖の魂も、子孫のもとへ帰ってくるというのが日本人一般の宗教観・人間観・自然観です。…未来に関しても、それは現在の人智の及ばないものではなく、飽くまでも現在の延長線上にあって、現在の人間の支配可能領域として考えるのが、日本人の常で…」(p154)。

(そういうふうに言われると、川の流れのように って、見事に“日本人”の感覚を表している歌なのね)

この指摘に関連させて著者は、海外から日本に来た人たちがみな「この国において、なお過去が活き、現在と溶け合っている」と驚くことを紹介します。ある海外の学者は、京都のお寺を見学しても単なる観光対象としか考えられず無信心客があふれていることに心を動かさないのに対し、伏見のお稲荷さんにはとても感動したそうです。つまり稲荷信仰には「古い民族のアミニズム信仰」が生きており、それが人々の日常生活行動の指針になっていることが感じられたということです(p.150)。

こういうことは“日本人”の私たちには分かりがたいことです。ヨーロッパに行くと、とりわけ西欧諸国に行くと、昔の町並みが保存され、町中至るところに教会があることに気づきます。それを見ると、歴史を大事にしているのはむしろ西欧の人のように思えます。しかし実際は、例えばドイツでは、そのような“中世風”の家並みは第二次大戦後に国家政策として意図的に再建されたということです。過去の価値を復元することによって、ナショナリズムを意識的に維持するためです(戦後ドイツ 三島憲一)。

それに比べれば、日本は国家・役所によって過去の町並みを都市全体にわたって残すということはほとんどないでしょう。京都のような特別お寺が多い場所を除けば、多くの“小京都”で申し訳程度に昔の家が残される程度です。

中世風の石畳の道で覆い尽くされている西欧の国と違い、日本の道路はグレーのコンクリートで敷き詰められています。そう、日本はグレー色の国です。100年前は土の色の国だったのに、あっという間に風景は変わりました。

にもかかわらず、海外から来た人には、日本の風景には過去や信仰心が生きているといいます。

林さんはそのような時間意識をもつ日本人のことを次のように言います。

「過去と未来とが現在という時において同時に会する文化時間構造をもつ日本。…将来のおみくじは、恐らくは、みくじ機械そのものにセンサーを備え、籤を引く人の人相や動作などをコンピュータで分析して、その人の吉凶を科学的に予測し、ワープロで籤を打ち出して供給するようなものになるだろうと、筆者は予言できます」(p.158)。

動物占いってしたことないけど、パソコンでやるわけですから、こんな感じかな。またライフコンパスというソフトウェアは占いとコンピュータとの融合であり、林さんの予言は概ね当たったといってよさそうです。

林さんは、このような「現在志向」が、戦後の日本のモノづくりに反映されたと指摘します。

例えばトランジスタが発明された際、「アメリカ人」はそれを宇宙や軍事への利用に向けましたが、著者によればそのことは、「アメリカ人」が未来を「過去ないし現在からの脱却」と見なすことに由来しています。新しい発明を未知の領域の探求に使うのです。

それに対し「日本人」はトランジスタを、ラジオ・テレビ・電卓などの小型化に活用しました。

戦後の日本の製造業での躍進は、世界から「模倣の文化」と揶揄され続けました。ご存知のように他国の発明の改良に長けていたからです。海外から見れば、そのような日本の傾向は“ずるい”と受け取られていたのでしょう。

しかし林さんの議論に従えば、それは“ずるさ”というよりは(orだけでなく?)、「日本人」があくまで過去・現在と続いている時間と交じり合う未来という時間認識をもつゆえに、未知の領域の開拓ではなく、既存のものを未来に向けて一歩ずつ改良していくことを志向するからです。日本の製造業は他国の発明を盗んでラクをしようとしていたのではなく、ただ「日本人」には“まったく新しいもの”を創造するということは、彼らの時間意識にはそぐわないのです。「日本人」には“まったく新しい”未来というものは存在せず、未来とはつねに現在・過去と交じり合っているものです。

このように“まったく新しい”ものを構想・探求しない「日本人」は、それゆえ莫大な開発費を未知の分野に投資することを好みません。あくまでリターンを計算できるものに資源を集中させます。それゆえ、新しい発明を製造業に生かす際にも、市場で大量に売り捌くことができるものに改良します。このような傾向は、90年代の不況にさらされながらも、何とか家電分野で日本企業が地位を保っている原因でもあります。

評論家の日下公人さんは、液晶テレビなんていう20万円もするようなテレビを作り出し、消費者がそれを買いたがるなんていうことは、「アメリカ人」には発想できないことだと言います。もっと鮮明に、スポーツ選手の汗が滴り落ちる様を見たいと消費者が思い、技術者がそれを追求するなんていうことは、日本でしか考えられないと(『宗教とビジネスの・・・目からウロコの関係!』)。

「現在志向」であるがゆえに、未知のフロンティアの開発ではなく、あくまで“日常”の生活を改良する視点で製造業の開発が日本では続けられます。

この「現在志向」と、“和”を尊び、職場の人間との調和や“お客様”への最大限の“心遣い”を行う傾向は結びついているのでしょう。“まったく新しいもの”が存在すことを意識しようとしない心性により、日本の人たちは、今自分の周囲にある物・人とよい関係を保つことで自分の身を守ろうとします。

“全く新しいもの”が存在するのであれば、現在の人間関係を断ち切って新しい生活を始めることができます。しかし「現在志向」の日本の人は、あくまで“今”にしがみつき、今もっているものに執着することで生き延びようとします。

21日にポストした『はじめの一歩』(古川元久著)でも指摘されていたように、今の自分たちの生活が激変するかもしれないという可能性を考えることを私たちは嫌います。なんとなくこのままの生活が上手く続いていくのではないかとナイーブに考えます。しかしそのような心性をもつがゆえに、政府系を含め大銀行は膨大な不良債権を抱えこみ、大銀行の救済という形でその負担は国民に押し付けられてきました。また国家公務員による莫大な国債発行にも眼を背けてきました(日本全体が夕張化しているという事実。  大前研一のニュースのポイント)。国民はなんとか今の生活が続くだろうと現実を見ずに夢想し、国家・経済エリートたちもなんとかなるだろうと思いながら、論理的な計算をせずに企業・国家財政の運営を行ってきたのです。

このような「現在志向」の態度は、たしかに日本の製造業を今でも一定の地位に保つ原因となっているのだと思います。しかし同時に、そのメリットを覆すほどのディメリットを私たちにもたらす怖れがあるのかもしれません。

『はじめの一歩』 古川元久(著)

2007年02月21日 | Book

             Tree         

信頼は世間知らずとは違います。何かの感情や傷心につながるような情報を否定したりはしません。状況をありのままに認識し、受け入れながらも、あらゆることがポジティブな形に変わって現れることを知りつつ、マインドのパワーを促進させるのです。( 100 Healing principles チャック・スペザーノ著)


ネット中毒気味の私ですが、最近ブックマークからヤフーやグーの表紙ページを外しました。ですのでここ数日はヘッドラインニュースを読んでいません。

僕は新聞もろくに読まないし、自分でニュース番組を見ることもないので、こうやっていると“ニュース”というものにはあまり触れません。

まだ大きな変化を感じているわけではないけど、「最近のニュースは?」と聞かれてもすぐには出てこない。ブログでまた政治家の失言があったことを知ったぐらいです。

多分、“ニュース”の95%以上は今すぐに知る必要のないことなのだと思います。“ニュース”が一週間遅れでメディアで放送されても、多くの人の生活はほとんど変わらないのだと思う。

たとえ株の売買をしていても、短期で売り買いする以外は、影響ないのではないでしょうか。あるのかな。でも僕の(本で)知っている投資家は株は長期で売買するものだと言っているけれど。

「不都合な真実」から眼をそむけることがいいことだとは思いません。でも、少子高齢化・環境温暖化・国家財政の危機といった問題は、昨日今日起きた問題ではありませんし、速報ニュースで情報を得るのにはそぐわない問題です。

おとつい、古川元久さんの『はじめの一歩』を読みました。少子化自体を食い止めることは不可能なこと。ピラミッド型の人口構成を想定した福祉制度は必ず破綻すること。温暖化は事実であること。世界的に見れば食糧・エネルギーはすでに不足に陥っていること。こういった「不都合な真実」な問題の存在を指摘します。

この本は研究書ではなく、政治家が今本当に考えるべき問題は何なのかを人々に知らせるために書かれた、パンフレットのような本です。20分もあれば読める本ですし、上記の問題に対する解決策が具体的に述べられているわけではありません。

ただ、印象に残ったのは、古川さんが、「起きて欲しくないことは起きないと考える」人々の傾向に釘を注そうという姿勢を強調している点です。

日本サッカー代表監督のオシムさんは、「オプティミストで通すには人生は長すぎる」「私はつねに最悪の結果を考慮して行動している」と言います。

うん、たしかにそうした厳しさが私には欠けているかな。

そうした情報は、むしろガヤガヤ騒がしい速報的なマスメディア以外の場所から得るほうが、まだ問題と向き合えるように思います。

慢性的な首の痛み

2007年02月19日 | 日記

今朝起きてみると、首を寝違えていました。

ただ、首の痛みは昨日今日なったわけではなく、以前から慢性的に少し痛い状態でした。今朝はその痛みに大きな追い討ちをかけられたようものです。

とりあえずシップを貼りましたがなかなか痛みが取れません。

以前ナースの方に教えてもらったアリナミンZを買いに薬局に行き、薬剤師の人に寝違えに効く薬を質問したところ、寝違いを治す薬というものはないけど、痛みを和らげるものはありますといわれ、薬を教えてもらいました。そのお薬は以前頭痛を治すときに買ったものと同じだった。まだまだたっぷり錠剤は残っていたので、無駄にならずにすんで少し嬉しい。

しかしこの慢性的な寝違えの微妙な痛みはとれないだろうか?

薄手のコート

2007年02月18日 | 日記
    
             夕日の陽射しを浴びるススキ


なんだか全然寒くなりませんね。

私は冬に一番上に着る上着を四着持っていますが、クリーニング代が高くつくので、今年の冬は二着だけ使っています。しかしその二着とも、今の気温ではとても暑く感じます。

ここは春に着るような薄手のコートが欲しいところです。

こういう気候が毎年続くと、さすがに温暖化が怖くなります。それとも慣れてしまって、おかしいとも思わなくなるのだろうか?