joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ありがとう

2004年12月31日 | 日記
8月にはいってからブログをはじめて、はや5ヶ月近くがたちました。最初は、どうでもいいことだけど頭に浮かぶことを書こうと思っていました。実際にそうしたことも書いてきたのですが、同時に、自分のためにこれを書いておきたい、そう思える文章を書くようになりました。最初はじぶんがブログを作ろうとしたのに、ブログの側がじぶんを突き動かしていく、そういう側面もあるように思います。

いただくコメントやTB以外ではどういう方々が読んで下さっているのかはもちろんわからないのですが、それでもいつも読んでくださっている方がいて、本当にありがとうございます。

普段の日常では、たとえ一人でも自分の考えを聞いてくれる人を見つけるのは簡単なことではありません。そういうなかで、インターネットをつうじて自分の話を聴いてくれている人がいてくれるのは、本当に幸せなことだと思います。

内容の重い軽いにかかわらず、自分のためにこれを書いておきたい、そう思えるものを書くことが多いのですが、それでも自分の文章を読んでくださっている方々がいるということをとてもうれしく思います。

これからどんな内容の文章が増えるのかはわかりませんが、わたしにとっての関心事がほかのひとたちにとっても興味を引くようなものであれば幸いです。よろしければ、これからもおつきあいください。

それでは、よいお年をお迎えください。


涼風



怖れを癒す

2004年12月30日 | reflexion
今朝、と言ってももうお昼だったけど、いつもの瞑想を10分ほどしていました。目をつむり、腹式呼吸をします。断続的にですが、もう5年ほど続いています。

目をつむっている間は、最近は、からだの中が「浄化」されているような、「細胞が生き返るような」ところをイメージします。「細胞が生き返るような」といってもよくわかりませんね。わたしもよくわからないですが、わからないなりに「こんな感じかな」と想いイメージしています。これは、七田眞さんが本の中で書いていた言葉で、そうイメージして腹式呼吸をすると、右脳の活性化に役立つそうです。

イメージの内容はよく変わります。「瞑想」と言っても、自分の想念をコントロールしているというより、わたしの場合は、「雑念」みたいなものも出てきます。「今日はあれをして、これもしよう」みたいな。だから他の人にとっては瞑想とは言えないのかもしれません。

それはともかく、この瞑想では、わたしにとっては呼吸も大切です。朝、この腹式呼吸をしないと、なんだか息が詰まりそうになるのです。それだけ深い呼吸が習慣化しているのだと思います。5年も続いているのはそのためです。



今日も、その腹式呼吸をしているときに、自分が将来望むことをイメージしようとすると、肉体労働をして働き、家族とご飯を食べている自分がそこにいました。

肉体労働は、わたしがもっとも怖れている職業です。わたしのなかでは、肉体労働とは、低賃金で、下品で、世の中から排除された汚い場所というイメージがあるからです。

冷静に考えれば、「肉体労働」といってもその種類は色々だし、また収入も様々です。でもわたしの中では、漠然とその「肉体労働」への怖れがあります。

でも、瞑想で出てきたのは、自分はその肉体労働をして稼いで、家族と暮らしているというイメージでした。その家族とは、わたしの父と母と姉です。

そのイメージが出てきたとき、一瞬ひるみましたが、あえてそのイメージに踏みとどまり、じっとその映像を見て、「わたしは肉体労働をしている」と思考してみました。からだは多少怖れの感情を感じていました。

瞑想が終わった後、このイメージがどこから来たのかはすぐにわかりました。それはわたしが小さいころの家族の食卓のイメージでした。わたしの父は大工さんで、夜6時ごろに帰ってくる父と、姉二人と、母と、家族五人で夕食をとっていました。わたしが小学生の終わりごろまでそれは続いていたと思います。

わたしは、父が大工さんであるということに対して何かを想ったことはありません。それはあまりにも当たり前の事実だし、またそのことが嫌だとも好きだとも考えたことはありませんでした。

ただ、自分がその仕事をするということは考えられなかったし、そういう大工さんの仕事や肉体労働を「軽蔑」している想念がわたしのなかにはあります。

この「軽蔑」はわたしのなかの怖れが源ですが、同時にわたしは、自分の小さいころの食卓のことに憧憬を感じているのかもしれません。同時に、父がしている肉体労働こそが労働として「正しい」のだ、という想いもあるのかも。

つまりわたしの中には、肉体労働への怖れと憧れが同居しているようなのです。その憧れは言うまでもなく、子どものころの父への畏敬から来ているのでしょう。

私の育った環境では、「働く」ことをしていたのは父であり、その父がしていたのは肉体労働だったのですから、私の中では、「働くとは肉体労働である」という想念が心の奥に埋め込まれていたのかも。

わたしの頭から肉体労働にまつわる想念が消えないのはそのためなのでしょう。

心理学者チャック・スペザーノさんは、わたしたちは怖れているものに対して同時に魅力を感じている、と指摘しています。


「ある心理テストでは、恐怖心が高まると性的エネルギーも高まるという結果が出ています。深層のレベルでいえば、私たちは恐怖を感じるものに同時に魅力も感じているのです。つまり、死を怖れているのなら、そしてあるレベルでは死にひかれ、パートナーに何かが起こることを怖れているのなら、あるレベルではそうなってほしいという願望ももっている証拠です」((『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。


「怖れ」と「こだわりがない」ことは全くちがいますよね。本当に無関心であれば、それは「こだわりがない」になります。「怖れる」とき、それは極端にその対象に関心をもっていることを示しています。

わたしの肉体労働への「怖れ」は、まさに肉体労働をしている父を見て育ったことが関係しているのだと思います。また同時に、おそらく農業などの肉体労働をしてきた父の祖先から受け継がれてきた想念と感情が、わたしの中にもあるのかもしれません。

いずれにせよ、それに関心を持ち、わたしが「怖れ」を抱いているのは事実です。ならば、私がすべきことは、その怖れを感じつくしていくことだと思います。それを感じつくしていく過程で、わたしは肉体労働を偏見のない目でみつめることができ、同時に私自身が願っていることも明らかになるでしょう。


「怖れに光をあて、あなたが本当に願っていることを見つめましょう。あなたの心の暗闇にあったものを光のなかにもってくると、癒しが生まれることを知ってください」(『傷つくならば、それは「愛」ではない』p.236ヴォイス)。


涼風



P.S. チャックさんは、「心の暗闇にあったものを光のなかにもってくる」、つまり心の奥にある怖れを表に引き出すための方法として、「怖れていること」を「起こるのを願っていること」だと考えてみることをわたしたちに薦めています。

これは、感情を感じるための一つの有効な方法です。この方法を実践すると、自分でも知らなかったような感情が体から浮き上がり、やがて消えていきます。「感じる」というヒーリングの手法に興味のある方は試してみてはいかがでしょうか。

豊かさを受けとる

2004年12月29日 | reflexion
よく言っているように、わたしは羨望の激しい性格で、「もっているひと」に対して複雑な感情を抱きがちです。きょうもその感情が出てきて、やっかいだなぁと思っていました。

いやな想いが頭をよぎるとき、わたしはそのことをできるだけダイレクトにノートに書いてみます。例えば、「Aさんは人間として最低だ」、「Dさんは他人の気持ちがわからない」。正直に想っていることをノートに書きます。

想っていることが正しいかどうかは重要じゃありません。それがどんなに醜い考えでも、わたしがそう想っているのは事実なのですから。

想っていることを書き出したあと、次の文を加えてみます、「わたしの頭の中に、こういう思考・思い込みが出てきています」と。そう書くことで、「Aさんは人間として最低だ」、「Dさんは他人の気持ちがわからない」といった考えがまさに一つの思考であり、「思い込み」であると意識してみます。

そのとき、上手く行くときは、じわぁっとした感情が身体から浮き上がるような感触になります。感情自体はそのときによって様々で、なにか肉体の中で埃が落ちて光が射すような感覚を覚えることもあります。



今日もそうして、ある経済的に裕福な人へのネガティヴな想いを書いてみました。「Hさんはもっと世の中の貧しい人たちのことを考えて反省すべきだ」「Iさんも貧しくなるべきだ」。

そう書いていて、でも感情があまり出てこないので、この「Hさん」「Iさん」という文字に線を引いて消して、上に「わたし」と書いてみました。

そのとき、おもわず「あっ」とこころのなかで声をあげました。わたしが心の奥で想っているのは「「わたしはもっと世の中の貧しい人たちのことを考えて反省すべきだ」「わたしも貧しくなるべきだ」といったことだったのです。

まさに他人に対して考えていることは、私自身に対する考えでした。わたしは貧しい人を差別する卑劣な人間だと、自分で自分をそう想っていました。

「貧しい人」はくだらない人たちだと想い、そう想っている自分は悪い人間だともう一人のわたしがわたしを罰し、自分も貧しくなるべきだと考えていました。

「投影」、他人に対して想っていることは、じつは自分が自分に対して想っていることであるという考えは、深層心理学の基本的な理論です。でも、頭でわかっても、それを実感すること、腑に落ちることは、わたしにとってはそれほど簡単ではありませんでした。今日は、その簡単ではないことを体験できた面白い日でした。


まさに、わたしたちは自分で自分をしばり、自分で自分に与えないようにしている。その縛りをひとつひとつほどいていき、与えられている豊かさに感謝していこうと思います。


涼風



ありがとうございます

2004年12月28日 | 見たこと感じたこと
いま、葛根湯を飲みながらこれを書いています。葛根湯を飲み始めて、もう3週間近くがたちます。風邪のひきかけで改善するために飲み始めたのだけど、そのあいだ思いっきり熱が出たりして、あれ?と思うこともありました。

ただ、この少し苦いお薬をあたたかいお湯に溶かして飲んでいると、なんだかじぶんを大切にしている感覚があって、それが好きで飲んでいます。

気温が下がり、部屋にも冷えが入り込んでいる中で、コップに顆粒を落としてお湯を入れて、茶色がかった熱い液体をかき混ぜ、すするようにそれを飲んでいると、「あぁ、じぶんは今、かよわい病人だぁ。お薬飲んで大事にしてあげよう」という感じになります。きっとそれが好きで飲んでいるのだとおもう。

ひとはもっと自分を病人だと思えばいいのかも。こころでも体でもいいけど、自分を病人だと思って、みんなが自分を大事に大事にすればいいのかも。みんな、自分をいたわればいいんだ。



今日、神戸の町をひとりで歩いていました。そのときの気分はそれほどよくなく、不安や嫉妬、憂鬱を感じていました。目の前に見える風景は、灰色の空とコンクリートの道路、沈んだお店通りの雰囲気でした。そのとき、ふと、「もし今のこの状態で自分が恵まれているとしたら」と考えてみました。もし、じぶんが幸せなのだとしたら。

そう考えたとき、目の前の灰色のコンクリートの風景が少し変わりました。それまでは、コンクリートはギスギスした雰囲気を出して、こちらの気持ちを余計に落ちこませようとしているようでした。でも、じぶんが今恵まれているとしたら、と考えてみると、そのコンクリートの道路や壁、建物がすこしやさしくなったように感じました。

やさしくなると同時に、それら道路、壁、建物たちのつながりを感じるようでした。実際にそれらはつながっています。でも、それまではそのつながりが感じられず、建物は建物として、お店はお店として、道路は道路として、壁は壁としてバラバラにそこにありました。しかし、自分が幸せなのだとしたら、と考えると、それらのつながりが感じられ、同時にそれらがやさしくそこに存在しているように感じたのです。ただの人工物ではなく、やさしさを表現するものとして。それらの存在は、わたしをあたたかく迎えてくれているようでした。


夕方近くになり、夕陽が三ノ宮(神戸の中心地)の街にも差し込んできました。きょうの夕陽は、量は多くなくても、するどく光る黄金のような色をして、つやを感じさせるものでした。

夕方に電車で朝霧駅、私の家の最寄り駅まで帰ってくると、空は鮮やかな薄いブルーでした。その鮮やかな薄さは、見ているこちらのきもちを澄んだものにし、地上の世界を絵画の一部にしているようです。つまり、この世のものとは思えない微妙な色彩だったのです。

朝霧駅の海岸から見える雲は、遠くにあるようなのに、同時に目の前に浮かんでいるようです。それは実際の雲ではなく、絵描きがわざわざ舞子の空に描いたように感じられます。実際の雲のようなよそよそしさはなく、とてもくっきりして、とてもわかりやすく、同時に微妙な薄い空にマッチした青と白と灰色が混ざったような特別な雲です。

その朝霧の海岸はとてもきれいでした。そこだけは、別の世界のようです。人もなぜか少ない。それだけに、特別に描かれた作品のようでした。


その場に少しいたあと、家路につきました。家に帰るとき、「ありがとうございます」と唱えてみました。

私には欲しいものがたくさんあります。そして、その欲しいものが得られるかどうかで不安と渇望感が湧き起こります。そういうとき、「ありがとうございます」と言うと、欲しいものではなく、これまで与えられたものが頭に甦ります。これから何が欲しいかではなく、今まで与えてもらったものに感謝しているのです。そのとき、欲しいものを手放している感覚になります。

「ありがとうございます」という言葉の力は、そういうところに(も)あるのでしょう。「未来」へとマインドが暴走していくのを抑え、与えられたものに感謝させることで、「今、ここ」へとわたしたちを連れ戻してくれるのです。

欲しいものがあり不安になるとき、「ありがとうございます」と唱えてみます。


涼風



冬の想いで

2004年12月27日 | 見たこと感じたこと
今日は朝は気持ちよく晴れていたのに、午後になるにつれてやっぱり冬特有のどんよりした晴れになってしまいました。青空は出ているのだけど、黒い雲もあってなんだか空が重い。

この時期は葉っぱも枯れていたり、陰気な緑色になっていたりします。

なんだか中学生のころを思い出してしまいます。ズボンにねずみ色のジャンパーを着て、とりあえず「友達」と遊んでいました。それが習慣のように。でも、全然面白くなかった。

中学生のころというのは、人間関係がひたすら権力争いになっています。高校生以上になると、世間並みの道徳を前面に押し出して「いい人」になろうとしていきます。でも、男の子の場合は、中学生ぐらいはひたすら残忍な権力志向をだれもが表に出していたように思う。わたしの育った環境では。

それで、ある時期からはずっとひとりでいるようになりました。


冬というのは受験シーズンだから、日本人の多くはこの時期を受験の季節として振り返るのでしょう。つまり、多くの人にとっては冬は憂鬱な想い出ができてしまっている。

三者面談、冷たく暗い空、不機嫌な悲しみを表現する親、生徒間の権力の序列に支配された学校、冷たい灰色のコンクリートの校舎、苛立ちと怒りでしか生徒と向き合えない教師のひとたち。冬はこうした風景を思い出させます。

これは普遍的な学校の風景のように思っていたけど、違うのかもしれない。私立のエスカレーター式の学校は違うのかもしれない。そのことに気づいたのは大人になってからだけど。

おとなのひとが、今からもっといい想い出でいっぱいになればいい。そして、昔のことを忘れることができればいい。子供は、もちろん、これからいい想い出が一杯作れるような環境におかれたらいい。

そう思います。


涼風



終わりへと

2004年12月26日 | reflexion
年末がどんどん押し迫ってきました。数日前に風邪を引いて以来、風邪は治ったけれども、疲労感はまだ残っています。英語の勉強をしようとしても、なんだかつらくてすぐ本を閉じてしまいます。さっきも、ぼーっと『冬のソナタ』を見ていました。

これまでチラッとしか見たことなかったけれど、このドラマはわりとおもしろいですね。とくにサンヒョクの嫉妬深さ、チェリンのわがまま、ミニョンの独立独歩の感じなんかはリアリティがあって、人物描写がとても丁寧ですね。他の脇役も、それぞれ独自の性格をうまく表現されている。そのなかで一番人間らしくないのはユジンだけど、まあ、優等生的な役なのでしょうがないでしょう。

このドラマはたんなるメロドラマではないような気がする。こういう人物描写がとても丁寧だから、見ていて共感した人が多かったんじゃないだろうか。筋自体は一昔前の少女マンガみたいでも、それぞれの役のそのときの葛藤が的確に描写されています。

だから、新しさはなくても見る人をとらえるのだと思うし、言い換えれば、そういった丁寧な性格や感情の描写が多くの日本のドラマには欠けていたのかもしれない。


そうやってぼーっとテレビを見てました。



わたし自身は、この季節は気分的にどんどん暗くなっていくようです。外もすぐに暗くなるし、「年末」というのは終末観を漂わせるからでしょう。あと、この時期にとくに友達と会うということもしないので、ひとりでいることが多いです。

ひょっとしたら、胸の中の傷がどっと押し寄せる時期なのかもしれませんね。この時期は。ヒーリングを学んだ今ではそう思います。「寒さ」というだけでは2月や3月のほうがよっぽど寒い。だけど、12月の終わりというのは一つの世界の終わりをあらわしているみたいで、その「世界の終わり」に対して自分自身が罪悪感を感じているのかもしれません。「世界が終わる」ことと、自分が悪いことをしたということが、結びついているように感じているのかも。いずれにしても、悪魔がこの世界を覆っているようだと言えるかも。

中学2年生の夏に、野球部の部活で同級生に怪我をさせてしまったことがあります。その後、私も親もその子とその家庭に謝り、その子も結果的には身体が改善してよくなり、一件落着しました。相手の親御さんも優しい人たちで、逆に僕に心配してくれたりしました。

しかし、その年の12月の終わりに突如恐怖に襲われました。ひょっとしたら、自分がしたことが原因で、彼は完治しておらず、死んでしまうんじゃないか、と。その冬休み中はずっとその恐怖を感じていました。今から思えば、その恐怖も、年末の「世界の終わり」という感覚と関係していたのかもしれません。


そのころとはちがい、今の私であれば、恐怖への対処の仕方がうまくなっているでしょう。もしなんらかの恐怖がやってきたとき、その恐怖をすべて感じつくしてしまいたいと思います。


涼風



みたくないもの 「地球大進化 46億年・人類への旅 そして未来へ」

2004年12月26日 | テレビ
今晩(25日夜)のNHKで、地球の変化と人間の祖先の進化をあつかった「地球大進化 46億年・人類への旅 そして未来へ」を見ました。たぶん、先日放送していたものの再放送ですね。でも、こういうネイチャーものは、年末年始の定番だけど、思わず見てしまいます。

面白かったのは、人類の祖先が進化したのは、それが他の動物に比べ弱者だったから、というもの。詳しい説明は省きますが、現在の人類につながる昔の動物たちは、つねに他の動物や自然の脅威にさらされてきたそうです。しかしそれゆえ生き残るために、それぞれの時代でその祖先たちは、自らの形態を変化させてゆき、海から地上へと生息場所を変え、地上でも手や足を発達させ、最後に言葉を手に入れました。

弱かったからこそ生き残った、というのは面白い事実です。動物(人)は、追い込まれなければ変化しないということでしょうか。

パウロ・コエーリョの『第五の山』で、神がこう叫んでいました、「悩める者に栄光あれ」と。傲慢になった人間は、そこで成長を止めるという意味でした。

傲慢であるということは、幸せではないということです。それは複雑な不幸です。自分の中に悩みや傷がありながら、意識ではその傷に気づけないからです。たとえ気づきたくても。

わたしたちはじぶんの傲慢さに気づけない。あるいは気づきたくない。なら、どうすればいいのでしょう。

わたしが思いつくのは、自分の周囲の傲慢に見える他人に感謝すること。その人は、私たちの中の傲慢さを体現してくれているのですから。だから、その人の傲慢な態度を見て怒るのではなく、その人の傲慢な態度で傷ついてしまう自分の痛みにちゃんと直面していくことだと思います。そうすることで、わたしたちは自分の傲慢さの裏にある弱い部分に気づくことができるのでしょう。


番組では、地球上で栄えた生物は例外なく死滅したことを強調していました。わたしたちはどこまで自分の傲慢さに気づいていけるでしょうか。


涼風



相手の顔

2004年12月25日 | 日記
きょうは、めずらしく朝早く目が覚めました。目を開けると、布団に入っているのに身体が冷たいのに少し驚きました。急に冷え込んでいるんですね。今は部屋は暖房であったまっているけど、それでもからだに氷が入り込んでいるような冷たさがあります。


パンを食べながらインターネットを見ると、毎朝配信される神田昌典さんのメルマガに、神田さんのグリーティング・メッセージが添付されていました。神田さんのあたたかい声を聴いていると、癒された感じと、心のなかがあたたかくなってつよさが出てくるような感じがしました(メッセージはここから聴くことができます)。

こういうメッセージはメルマガを見ている人全員に配っているから、一種のダイレクト・メールですよね。それに、神田さんは僕のことを知らないわけだから、機械的なものだと言うこともできます。

それでも、僕は聴いていてなんだか希望が湧いてくるような感じもしました。

神田さんの言う「感情マーケティング」というものを僕なりに解釈すると、一つには売り手の顔がお客にちゃんと見えてくるということだと思います。

貨幣を通じてモノやサービスをやり取りしていると、どうしてもギブ・アンド・テイクの関係になるし、接客でどんなにニコニコされても、このひとは本音では何を考えているのだろう」と疑うことがあります。

例えば「お客様のため」という感じで商売人に王様扱いでちやほやされても、逆にそれで「あぁ、この人は私という人間を見ているのではなくて、『お客さま』としてマニュアル通りにわたしをあつかっているんだなぁ」と思ってしまいます。

神田さんが一連の本で、「やりたくないことは絶対にやらない。例えばお客にぺこぺこ頭は下げないし、電話や飛び込みの営業もしない。お客からこちらに来るようにする」というスタンスを打ち出すのも、それによって売っている人の顔がお客によく見えるようになるからだと思います。

普通の商売している人は、誰だっていやだと思うことでも無理にしているところを、「いやなことはやらない」というスタンスを打ち出すことで、お客はその売っている人の本音、本当の顔を見ることができます。

それは、神田さんの本が強調するチラシやダイレクトメールの作り方とも通じていますよね。それは、買う側の感情を喚起するテクニックを強調する面と同時に、つねにたんなる商売人ではない売り手の人間としての顔を見えるようにする、というスタンスです。

その顔がみえるとき、わたしたちは、すこし高くても財布のひもをゆるめることがある。

じぶんが今まですごい金額を払ったときを考えても、それは、売り手がちゃんとその人の顔を見せて、かつこちらのことを考えてくれているように感じたときでした。

デフレの時代というけれど、今の人はほんとうにやりたいと思っていることには徹底してお金をはらう覚悟ができている人が多い気がする。デフレなのは、瑣末なことにはお金をかけないという意味で、逆に興味のあることには人は徹底してお金を出す、そういう時代だということなのでしょう。

人間は本来消費が大好きな動物だとおもいます。だから、パイの奪い合いなんて観念を持たなくても、お客さんに売り手の本当の顔を見せることで、お金はたくさん世の中に流通するのかもしれない。


涼風



ひとつひとつ

2004年12月24日 | reflexion
今晩は、かなり肌寒いイヴですね。冬らしくなってよかったのかもしれない。神戸の元町駅周辺は、ルミナリエ(クリスマス・シーズンに開催されるイルミネーションの展示。神戸にしては大規模そう)を見物する人ですごい混雑でした。わたしもちょっと見ようと思ったけど、あまりにも人が多いのですごすごと帰ってきました。


きょうは(も)、将来起こるかもしれないことを想像したりして、あえてそれにまつわる感情を感じていました。まだ起こってもいないことをわざわざあえて考える必要もないという考えもあるけど、でも少しでも頭をかすめて嫌な思いをするときは、わたしはあえてそのことを正面から想像して感情を感じてみます。

そのとき、たしかに嫌な感情がからだのなかに湧き起こります。今日の感情は、なんだか顔のあたりで感じられるような、痛さをともなったものでした。

それを感じているときはたしかにつらいけど、でも同時に、あえて主体的に自分でそれを選択しているので、やはり感じるということは自由の一つの表現かもしれません。

『なまけ者のさとり方』(地湧社)の作者タデウス・ゴラスさんは、人がなにかを見ないようにしていると、そのなにかがやってくる、と言っています。つまり、何かいやなことが起きるのは、それが「罰」だからとか「因果応報」だからというわけではなく、世の中のあることを怖れで見ないようにしていると、まさにその怖れが現実化する法則がある、ということです。

逆に言えば、じぶんのなかの怖れを見つめる人は、その人にとってできうるかぎりの範囲で世界を正確に見ていることになります。 それは、より偏見のない目で世界を見ているのであり、それだけ「世界」と「自分」との間に境界がないことを意味します。ゴラスさんはそのことを「スペース状態になる」と表現しています。自分という存在が、肉体に拘束されずに広がっているということですね。

「スペース状態」になるまでどれだけ自分のなかの怖れをみる必要があるのかは、人それぞれなのでしょう。ただ、わたしのばあいは、わりと多くの怖れを見て感じていく必要がある、そんな人生を送っているのかも。それだけ偏見のあるものの見方を矯正する必要があるのかも。

感情を感じることは怖いことでもあります。それは、とても受け入れられないと思っている現実を受け入れようとする試みだからです。おそらくその分は成長できるのだけど、わたし(たち)は、成長よりも今までの心地よさの方をやはり優先したいですからね。

「スペース状態」になること、つまり世界との一体感を感じることがヒーリングの目的だとしたら、それは、怖れではない目で世界を見ることを意味しているのでしょう。つまり、ヒーリングとは「いい気分」になることが目的ではなく、むしろ自分の中の見たくない怖れを見ていく作業なのかもしれません(ヒーリングの方法も人それぞれだろうけれども)。

嫌な感情を感じることはつらいことでもあります。でも、それが主体的になされるのなら、やはりそれは「自由」を表現するひとつの行為じゃないでしょうか。その結果として世界との一体感を感じることも素晴らしいですが、そこに至るまでのその「自由」な行為も、素晴らしいものじゃないでしょうか。


涼風



ほっとできる場所

2004年12月23日 | reflexion
おとつい頃から本格的に風邪をひきはじめ、昨日はさらにそれが悪化していました。のどが痛かったり、体温計の温度にびっくりしたり、いつもしていることがまったくできなかったり、です。

わたしは今の生活時間の多くを英語の勉強にあてています。それまで10年間やってきたことをやめ、新しい道を探し始めたけどうまくいかず、もうどうすればいいのかわからなくなったときに、人から薦められたこともあり、英語の勉強を始めました。

それまでは、英語のできる人なんて世の中に多すぎるほどいるし、いまさら自分が少しやっても意味ないし、じぶんが本当にやりたいことは他にあるのだろう、と思っていました。それは、本当にそう思っている部分もあり、だけど同時に、そう言い訳することで英語から逃げていた部分もあるのかもしれません。

でも、これもせっかくの機会だからと思い、生まれて初めて本格的に英語を勉強し始めてみました。

やってみると、これが意外に面白いんですね。英語を音読することでほんとに英語を体験しているような気になったり、CD付きの参考書を丸まるディクテーションして達成感を味わったり、単語の語源を調べることで、意外な単語同士がおなじ語源をもっていることを知って「へぇ」だったり、またその語源は(じぶんがこれまで勉強した)ドイツ語とも結びついていたり、大西泰斗さんの感覚で英語を学ぶ方法を知って目からウロコが落ちたり、と、楽しいことの連続です。

こうして勉強していくと、英語学習もヒーリングも同じだなぁと思います。ようするに、どちらも方法は無限にあり、どれが自分に合っているかを試行錯誤しながら探していく旅だということです。だから、僕がやっていて面白い方法で他人も面白いと感じるかどうかはわからないです、英語もヒーリングも。


こうして、主にディクテーションを中心に英語を勉強していたけれど、どっかで根を詰めすぎていた部分もあったかもしれません。量自体が少ないような気がして焦っていたけど、同時に疲れもたまっていました。また、英語だけじゃなくて、このブログを書いていて興味を持った分野の本を少しずつ読んだりして、少しの時間でも活字を追うことに費やしたりしていました。今回の風邪はその影響だろうとおもいます。

大阪にあるヒーリングとビジネスのセミナーを行なう会社「Eagle & Bear」の代表の池内秀行さんがブログで、先日つぎのようなことを書いていました。


「忙しくて、くたくたの時の心理状態というのは、自分の思いや事情より、自分以外の人の思いや事情を優先させていることが多い。すぐに思い当たらないとすると、忘れてしまった過去の誰かの思いや事情を優先させているかもしれないし、過去生を信じる人は過去生かもしれない。

  いずれにしても、自分の人生の中心にいないのは事実である。物理的にも中心という位置が一番バランスがとれている場所であり、余分なエネルギーを使う必要がない」(12月11日「私という美術作品」『わたしたち夫婦は幸せな夢をいきてもよい』)。


これを読んで、うーん、そうかぁ、と思いました。

たしかに英語を勉強したり本を読んでいると面白いのだけど、どこかで「くたくた」という状態になっていたと思います。それも心地いいというより、「やらなければ」という想いのほうが強かったかも。「犠牲」をしていたのかもしれません。

仕事ではないのに、「一生懸命」することで、何かを証明しようとしていたのでしょう。じぶんが存在することの正当性を証明したかったのかもしれません。

きのうは風邪でからだがすっかり疲れていました。だけど、ずっと布団にこもるのはやめていました。ずっと横になっていると、余計にからだの熱が頭にきて苦しくなるように感じるからです。

それで机にすわってゆっくりして、しずかな音楽を聴いたりしていました。

すこしでも英語の本を読もうとしたけど、だめでしたね。また、ちょっと重い内容の本も読む気になりませんでした。どちらも、自分のからだにムチをふるっているように感じたのです(ちょっと大げさだけど)。

そこで、ゆっくり紅茶を飲みながら、たまたま人からもらったクラシックのヘンデルのCDを聴いたりしてみました。ヴァイオリンの音がとても心地よくて、からだの中の細胞に秩序を与えてくれるような感じがしました。

また、以前の記事でも紹介した、新井えりさんの『しあわせはゆっくりゆっくりやってくる』(グラフ社)を読み返したりしました。

新井さんは言います、人生は人それぞれであり、うまくいくときもあればそうでないときもある。そもそもこの世界は一人の力では動かせない。なのに自分の力で何とかできると思うから、悩みがでてくる。そうではなくて、この世界の動きに、流れに、つまり「時」に身をまかせましょう、と。その「時」に身をまかせるとき、わたしたちのからだのなかには、しあわせに生きていく素が宿ってきている、と。

そういう文をよみ、そこから自分の人生に思いをはせたりしていると、たしかに風邪で熱っぽいのだけど、机に座っていても、いい心地でいられたように思います。


池内さんは次のようにも書いています。

「忙しくてくたくたの時や、人生で色々起こっているとき、自分の人生の中心に戻りなさいというメッセージかもしれない。自分にとって無理のない場所、それが自分のセンターである。そこにいれば、楽に人生の変化に対処できるし、逆に自ら変化を起こしていくことができる」。


僕にとって無理のない場所とはどこなのだろう。いずれにしても、この風邪は、なにかのヒントをあたえてくれているのかもしれない、そう思います。


涼風


じぶんに向き合う勇気

2004年12月22日 | 日記
東京にある、ヒーリングとビジネスのセミナーを行なう団体「ビジョン心理学ジャパン」のHPで不定期に連載されている、心理トレーナーの栗原弘美さんのコラムが最近更新されていました。それはとても印象に残るものでした。

詳しくは読んでもらえるとわかるのですが、高3で演劇科に通う弘美さんの息子さんが、合宿で同じ科の同級生を集め、それぞれに対する不満などを率直に打ち明けることで団結を深めたという話です。

かれは、じぶんは陰口を言うのがイヤだから、ここで正直にみんなに不満に思っていることを言う、と宣言し、それがきっかけで同級生同士で胸のうちを明かすことになり、それによってお互いのことを理解し合い、つながりが深まったそうです。しかも、それは一回だけでなく、何度か行なわれたそうです。

これは、書けば簡単のことのように思えますが、実際にそれを実践するひとはほとんどいないことでしょう。

わたしたちは他人に対していろいろな不満を持ちます。人にその不満をそのまま述べるひとは、まだいるかもしれません。しかし、それは往々にして、「なぜあなたが悪いのか、かしこい私が教えてあげるよ」という態度になってしまいがちです。

しかし、大切なのは、不満をそのまま述べることではなくて、その不満を相手に対して口にしているのは、相手を攻撃したいからではなくて、そういう不満を持っていることで自分はつらいこと、そんなつらさを抱えたままあなたと表面的なつきあいをするのは嫌なこと、だからその不満をあなたに打ち明けることで、本当のあなたと本当の私でつきあっていきたいのだということ。そのことを姿勢で示すことなのだと思います。

でも、これも書けば簡単だけど、実践するのは(わたしには)とても難しいように思います。どんなにこちらが率直に打ち明けているつもりでも、不満を述べられた方は、自分が攻撃されたと思ってしまう可能性があるからです。そして、不満を打ち明けた自分に対して相手が「仕返し」をしてきたとき、「ああ、この人にはどれだけ言っても永遠にはわからないな」とこちら(わたし)は思い、コミュニケーションを打ち切ります。

弘美さんはこういうような状態になったコミュニケーションについて、つぎのように述べています。


「私たちはこころの中でいとも簡単に人を切り捨ててしまいがちです。「あの人は違う世界に住んでいる人」「言ってもわからない」などと言い訳をして。よく私たちは「何度言っても聞かない」と言いますが、いったい何度言ったのでしょうか。多くの場合、その人に直接伝えるよりも影で文句を言っていることのほうが 何倍も多いのでは?また、伝え方はどうだったでしょうか。感情に任せて責め立てたり、権威的であったり、あるいは人の前でその人に恥をかかせたりはしませんでしたか?思いやりと誠実さを持ってコミュニケーションをとったら、その人に対してもっとちがう体験ができるのではないでしょうか。」


わたしは栗原弘美さんのセミナーには何度も出たことがありますが、彼女自身はつねに自分の中の嘘偽りのない正直さがどこにあるのかを探し続け、それをセミナーの受講者に積極的にわかちあうことを実践しているひとです。

ただ、彼女が言うように、わたしたちはいとも簡単に人を切り捨てます。しかし、その切り捨てたときの自分の頭や胸の中には、とても冷たいものが流れています。

おそらく、わたし(たち)は、他人が自分の言うことを分かってくれなかったとき、「相手に認めてもらえなかった自分」を受け入れるのが怖いのでしょう。そのときの屈辱感に直面するくらいなら、こころのなかで相手を切り捨てた方がましだと思います。

でも本当は、そのとき切り捨てているのは、相手の人ではなくて、屈辱感を抱えたじぶんなのでしょう。その切り捨てられた「屈辱感を抱えた自分」は、こころの奥にずっと埋め込まれてしまい、結局残るのは、「クールに振舞うわたし」というニセのじぶんです。

わたし(たち)は、相手に正直になってもらいたいと言いながら、じぶんの本当の姿に直面するのさえ怖いのです。「相手に認めてもらえない自分」という屈辱感に直面するのが怖いのに、相手にだけ正直になって欲しいというのはおかど違いでしょう。

もし「わかちあい」が成功するとしたら、相手に不満を言う勇気(だけ)ではなくて、不満を言われたときの自分の「屈辱」「恥」といった感情にどれだけ向き合えるかという勇気が大切になってくるのでしょう。

それらの感情をじぶんが受け入れていくのにどれだけ時間がかかるかを考えれば、他人が自分(わたし)の言うことを理解してくれるのに時間が必要なのも、当然ではないでしょうか。


涼風



見えないもの 感じるもの

2004年12月21日 | reflexion
朝起きたらのどが痛かったり、風邪気味で頭を中心にからだ全体が疲れていたり、心理的にショックに近いことがあったり、いろんなことがきょうはありました。

この現実はすべて自分の観念が作り出しているのであり、傷心や失望はじぶんの思い込みが期待通りに行かなかっただけであるということを理解しているつもりでも、そのショックの最中自体は、自分の感情が現実だと思い込んでしまいます。

大切なのは、そこで踏ん張ることですね。傷ついた感情が現実としか思えなくても、その感情に向き合い、その感情が消えてなくなるまで感じつくすことを選択すること。そこでは、わたしの意志の力が大きな役割を果たします。


おそらく、傷つくことは、わたし(たち)が成長するために欠かせない体験なのです。

人生で傷つく量は、人によってちがいます。あまり傷つかずにスイスイ人生を楽しくしあわせに泳ぐ人もいれば、大きな心痛を抱えながら生きる人もいます。これは、どちらがどちらよりえらいという問題ではないのでしょう。

ひょっとしたら、どちらかが人間的により高い段階にあるのかもしれません。でも、それはわたしたち人間にはわからないことだと思います。

今の私に言えるのは、ひと(わたし)は、自分が直面する傷に向き合うことが大切だということ。それが他人より多いか少ないかは、とりあえず考えなくてもよいこと、だと思います。その上で、ちゃんと傷を感じることは大切だし、貴重な経験だろうということです。


こころの傷は、なにか見えるもの、確かなものにしがみついていたことに由来します。しがみついていたけど、その期待通りに行かなかったとき、わたしたちは傷つきます。

そのときの感情を感じつくすということは、つまり、「見えないもの」にひとつひとつ近づいていく過程のようにも思えます。

きょう、ひさしぶりに、浅見帆帆子さんの『あなたは絶対!守られている』(グラフ社)を読んでみました。見えないけれど、ひとはなにかに守られていることを、とてもわかりやすく浅見さんは教えてくれます。

しがみついているものをひとつ手放すことで、わたしたちは、わたしたちを守ってくれるものをより感じるようになっていくのでしょう。ただ、そこに至る過程が人それぞれだということなのかもしれません。

そして、その守ってくれるものに近づくほど、人は、その人本来の道をすすむようになるのでしょう。


涼風



黒と灰色の世界

2004年12月20日 | 見たこと感じたこと
きょうは(も)、寒いし、灰色が覆ったような空の日でしたね。わたしは、しみるような冷たさの感情を感じていました。

天気が悪いと、暗い気もちになり、空が明るいと、いい気もちになります。陽の光が出てくると、小鳥も心地いい声を鳴き始めます。

できうるならば、この暗い世界が引き起こす感情を、すべて感じつくして、すいとってしまいたい、そう思います。


涼風



冷たいくもり

2004年12月19日 | 見たこと感じたこと
きのう、少し遠出をしたのと、おとついにわりと歩いたこと、そして最近は睡眠時間をちゃんと取っていなかったこともあり、今日は午睡をとりました。時間は1時間半ぐらいなのですが、ぐっとねむった、という感じです。ちゃんとふとんを敷いたのもよかったかもしれません。

寝起きはそれほどよくはありませんでした。目が覚めてもからだが起き上がらず、すこしそのまま休んでいました。

昼寝からこちらの世界に帰ってくると、世界はとても静まり返ったように感じます。きょうは曇りの天気だし、薄暗い中でたたみやガラス戸も冷たいままでそこにいるような感じです。

深いところまで行ってきたような感じなので、あたまは少しくらくらします。昼寝から起きると、あまり幸せな感じはしません。へんな罪悪感のほうが大きいかも。自分が悪いことをしている子どもという感じになります。

昼寝から起きた直後は、わたしは、ふだんの自分に戻るのに少し時間がかかるのかも。眠るという行為が、それも日中に眠るということが、この世界から逃げていたように思い込んでいるのかな。だから起きた時は、悪いことをした子どものように自分を感じるのかな。

そういう気分に、曇りの天気や退屈な寒さが追い打ちをかけてきたのかもしれません。


涼風



きもちいい成長

2004年12月18日 | 日記
今日は、いつもお世話になっているRさんが経営する教室が開催した、生徒たちによる暗唱発表会に行ってきました。小さい子どもたちが、マザー・テレサの言葉や英語による自己紹介を暗唱・朗読したり、カルタ遊びや円周率の筆記をしたりして、お母さんお父さんたちにふだんの成果を披露します

発表会は、秩序の中にもなごやかさが漂う、心地いい会でした。その場にいることが、とても楽しかったです。

おそらく、全員で100人以上の人が見ている中で、子どもたちは前にたって暗唱・朗読をします。でも、みんな堂々と発表していました。その凛とした姿は印象的でした。


きょうの子どもたちはまだまだ幼いのですが、とても親御さんたちといい関係をもってるなぁ、と感じます。親に愛情を受けて育てられて、きもちよく自立していっている、という感じかな。へんにまわりの大人に依存的に振舞うこどもは見かけませんでした。楽しく生きているこども(ひと)は、まわりに依存している暇はありませんからね。


心理学者アンソニー・ストーが『孤独―自己への回帰』の中で強調したことの一つはこのことでした。親に十分な愛情をうけている子どもほど、ひとりでいることに耐える能力を身につけます。ひとりでいられるというのは、つまり、他人を「利用」せずに、楽しみを見つけることができるということですね。そして、そんな人ほど、まわりに人をひきつけるのかもしれません。

今日出会った子どもたちは、親から沢山愛情をもらっているので、どんどん成長している! そんな感じでした。たしかに子どもたちもすごいのですが、そう成長できるような環境を提供している親御さんたちやRさんたちもすごいなぁと思います。


そんな親と子どものいい関係は、決して当たり前じゃないですね。



外を歩いていると、親が子どもに怒りをあらわにしているのをみることがあります。「お母さんはお前のことをもう信用できないよ!」「ついてくるな、ひとりで帰れ!」と鬼の形相で女の子を怒鳴りつける母親。レンタルビデオ店で男の子の背中を足で蹴りつける父親。そういった光景をみることがあります。

そういう光景を見ると、たしかにこちらは胸が痛みますが、その親たちだって本当はどうすればいいかわからず、子どもがどう感じているかを考える余裕もないのでしょう。

わたしたちは子どもに幻想を見ます。子どもはかわいらしいもの、従順なもの、そう思いたがります。ふだんの生活やこれまでの人生で他人からたっぷり傷つけられている大人ほど、「子ども」に幻想を抱き、子どもが愛らしい存在でいてくれることを望みます。彼らが愛らしくいてくれることで、慰めをえることができるからです。

しかしこの幻想は、子どもが少しでも大きくなると打ち砕かれます。子どもは子どもの自我を身につけ、大人の論理も身につけ、かならずしも大人が期待するような「かわいらしい子ども」とは違う姿を見せるからです。そうすると、大人は、子どもがすこしでも「憎たらしい」姿をみせると、自分の傷ついた経験を呼び起こされ、子どもを子どもとしてみることができなくなります。おなじ大人と思ってしまって、子どもに脅威を感じ、おもわず怒りを見せてしまいます。


今日出会った子どもと親御さんたちは、見ていてとても気持ちのいい関係と感じました。すべての子供がこういう環境に恵まれる時代がくることを望むことは、贅沢ではないとおもいます。


涼風