joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

国語と文化

2009年10月23日 | 日記
石原千秋さんの中学入試の国語と大学入試の国語関連の本を読んで現代文の入試傾向を見ていると、私にとっては、大学入試の現代文のほうが圧倒的に読みやすい。


なんというか、問題文を作った人の意図も設問を作った人の意図も容易に読めてしまいます。


これは、わたしが多少なりともアカデミズムの人の物の考え方を知っているからです。


それに比べると、中学入試の現代文のほうが、著者や問題作成者の意図を読むのに苦労します。


もちろん中学入試の問題にもある程度はなれます。


ただ、もし私が(私立)中学の先生と日常的に付き合い、一緒に働き、飲み会などにも出席していたら、もっとはるかに中学入試の問題も理解できるでしょう。


国語というのは、それぐらい、問題作成者と同じ文化に触れているかいなかが重要なのです。


国語という科目は、他の科目以上に、学校という文化に左右されています。アカデミズムの空気が合う子どもは大学の現代国語の問題に苦労しないでしょうし、道徳的な意図をもつ中学国語に波長の合う子どももいるでしょう。



ただ同時に、そのどちらにも興味のない人だって世界には山ほどいます。

「国語」の存在理由

2009年10月21日 | 日記
国語という科目は、論理力を問う科目だ。


文章の読解や作成で論理力が必要とされるのは、それが誰が読んでも疑問の余地なく同じ内容を伝えていると複数の人が意見が一致しなければならない時だ。それはどういう時か?


それは、一つの組織内である意思を共有しなければならない時だ。


複数の人の間で意思を共有することが絶対に必要な時、文書は誰が読んでも同じでなければならない。そこに解釈の多様性が入り込んではならない。


だが、実際の学校国語(大学入試も含めて)で扱っているのは、評論にしても物語にしても、解釈の多様性が許される分野だ。いや、許されるどころではない。解釈の多様性がなければ発展することがない分野だ。


解釈の多様性とは、言い換えれば、文章の想像には無意識が関与していることを意味している。


文章の創造(文章に限らないが)は、すべて表面上の意思によってコントロールされているのではない。むしろ文を書いてから、自分が書いたものを確認することもあるし、そういうことは多い。そのとき、その文字の「意図」などというものは、書いた本人ですら確定できるものではない。


わたしは、「意味」など存在しない、と言いたいのではない。


意味は存在する。


しかしそれは、表れた文字を表面的にたどることによって得られるものではない。


文章の意味は、それを書いた人と読む人の内奥に存在する。それは捕まえたと思ったら逃れてしまうようなものだ。それは「意味は存在しない」ということではない。存在しないのであれば、つかまえたとも逃したとも思うことはできないのだから。



「国語」の存在理由を見つけ出すのは難しい。

『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)

2009年10月21日 | Book
『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(福嶋隆史著)を読んだ。


国語という科目、ではなく、国語の問題というものが何を問うているのかを、はじめて明らかにした本。少なくとも私にとっては。


国語の問題とは論理を問うているのだけれど、それを著者は

・言い換え(具体⇔抽象)

・対比

・展開の追跡(論理)

という三点から指摘している。つまり、国語で問われている論理力とは、上記三点の力だということだ。


言い換えは、一人の人の言いたいことをすべての人に受け入れ可能な言葉に変換する能力を指す。

対比は、個々の論点の明確化・絞り込みを意味する。

展開の追跡(著者はこういう言葉を使わず「論理」と言うのだけれど)は、そのままずばり話を理解することだ。他者の話をそのまま受け取る能力と言える。



この三つの能力は、国語の問題を解くうえで有用だが、自分で文章を書く上でも有用だ。


これは素晴らしい本だと思う。


素晴らしいが、それは国語のペーパーテストが何を問うているのかを指摘したという点でだ。


私自身は、このようなトレーニングをしなくても、書きたいものを書き、読みたいもの読むことが人にとっていいことだと思っている。


ただ、国語という教科のペーパーテストを解く訓練をするうえでは、重要な示唆を与えてくれるし、素晴らしい本だと思う。


著者が来年出すという本も楽しみにしたい。

『秘伝 中学入試 国語読解法』

2009年10月13日 | 日記
『秘伝 中学入試 国語読解法』という本を読む。


これは、受験国語の文章を取り上げ、それを大学の文学教員としての立場から論評している本。


大学教員であり文学研究者という経歴の方からみれば難しくないであろう文章にさまざまな解説や感想を加えられています。内容は、まっとうなことが生真面目に的確に述べられています。


ただ、文章の傾向や問題の出し方にいろいろな批判が加えられていても、ではどういう国語の問題がいいものなのか、なかなか見えてきません。


いや、そもそも国語教育とは何なのか?どうあるべきなのかが見てきません。


「国語は道徳と化している」と述べられていますが、著者は自身が属するアカデミズムの論文や研究書のように、知的な中立性という立場を小・中・高生が身につけることを理想としているのでしょうか?


子どもの中学受験に深くかかわり、入試問題を多く解いていますが、そこから著者が何かを得ているという感触はこの本を読んでも分かりませんでした。


「国語」という科目に深い考察を加えた本ではなく、試験問題を解いた、そういう本。

国語

2009年10月11日 | 日記
「国語」という科目を疑わないことの過ちは、次の点にある。


文を書くという行為は、無意識の発露である部分が多い。


「文を紡ぐ」ともいうが、それは最初から最後まで計画されて書かれているわけではないのだ。


わたしは小説を書いたことがないから、これはひょっとするとしょうせつにはあてはまらないのだろうか?


少なくとも、説明文にせよ随筆にせよ、文を書くというのは、そのときの流れで書いてあることが多い。


その際には、本人ですら意識しない“間違っている”言葉の使用が行われている。しかし、厳密にいえばそれは間違いではない。本人が言いたいことがはっきりとは意識されていないがゆえに、あやふやな言葉遣いがされているだけだ。


しかし「国語」という科目は、文章がすべて一字一句計画的に構成されているという思想の上に成り立っている。


だがそれは、文を書くという行為も、文を読むという行為も、最初から最後まで首尾一貫した論理によってなされるのではなく、その都度都度適応した意味を自分自身が作り出しているということを無視している。


「国語」は、問題として採用された文から生気を奪い取り、それを記号の配列とみなす。


わたしは、文を書いたり読むことがいい加減な行為だと言いたいわけではない。ただ、文を書く読むというのは、自分によって制御できない無意識の働きによってなされているのだ。


その無意識の作業を意識化することは、本人にとって意味あることだ。


しかし「国語」という科目は、そうした無意識的な作業とは無縁に、ただ言葉の表面だけを追う。


文を書く読むという行為は感受性を発揮する行為だ。しかし国語はそうした個性を無視し、死んだ文字に人を向き合わせようとする苦行に近い。


この不毛な科目をまじめに批判することを怠っている、我が国の膨大な数の知識人の罪は重い。

現代文

2009年10月07日 | 日記
現代文という国語科目は、その存在意義がわかりにくいけれど、いいかげんな科目というわけではない。


簡単にいえば、問題作成者の質問に的確に答えることが現代文で問われていることだ。


それは問題文(作者のある文)を単に読む能力ではない。問題作成者の質問を理解して、その質問に合う答えを問題文から選ぶ能力だ。


これは、自分の頭の中で《問い-応答》を構築できる能力を意味する。


この能力は無駄な能力ではない。ただ、他の科目に比べればひじょうに難度の高い課題だ。


わたしたちは、とくに日常の会話では、問いと応答の論理性をそこまで厳密に要求していないからだ。


この論理性を鍛えるうえで、現代文という科目がそこまで有効か?という疑問も出てくる。


論理性が必要だと思うのなら、そういう場面を想定した課題を考えるべきだ。


法律などだ。倫理学などだ。


また、設問も、そのような論理性を鍛えるという観点に沿って、適切に作られるべきだ。ほとんどの国語の問題は、重箱の隅をつつくだけの、答え探しゲームになっている。


国語が必要だと思う人は、国語で身につけるべきと思っている基準を明確化すべきだ。

おひさしぶりです。

2009年10月06日 | 日記
ずっと書き込みしていなかったけど、アクセスしてくださっている人は本当にありがとうございます。


実生活での変化がいろいろあって、いろんな人とあったり、いろんなこと思ったり、うれしいことがあったり、ストレスがたまったり・・・


ちょっとつかれたよ~ 限界かな。