joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

“Mind Mapping” Michale J. Gelb(著) 2

2007年05月15日 | Audiobook
“Mind Mapping” (Michale J. Gelb)というオーディオブックを聴きました。と言っても、これは二年ほど前に買ってそのときにも聴いていたのですが、思うところあって再聴。

英語は以前よりも聞き取れましたが、内容はどれほど理解しているのだろう?マインド・マップとは魅力的なツールにたしかに見えますが、どこか私には難しく感じられます。

マインド・マップはご存知神田昌典さんが広め、今では多くの人が思考整理のためのメモとして活用している方法です。公立の中学でも教えられ始めているそうです。

ここで私がマインド・マップの特徴を説明できればいいのですが、私自身はCDを聴いても本を読んでもイマイチ理解していません。

その上で印象を話すと、マインド・マップとは、思考を整理する際に、キーワードを用い、色々な項目のキーワードのつながりを線で表現します。その際には、中心に核となるキーワードを用い、そのキーワードと他の項目との関連がどのように結びつくのかを、線で結ぶことによって、頭の中を整理します。

これは、キーワードとキーワードを「てにおは」でつなげるよりも、見取り図で各項目間との関連を示すので、話の内容を早く頭で整理できるということです。

少し長い話をメモしようとすると、これまで私たちは、項目を一つ一つ並べて、その関連を言葉で説明しようとしました。

 A
 B
 C
 D
 E

のように。しかしこれでは、AとBのつながりは分かっても、AとCのつながりは分かり難いし、BとDのつながりも分かり難いし、A とEのつながりも分かりにくい。

これらの項目のつながりが分かりにくいということは、このABCDEと続く話は、全体として何が言いたかったのか?ということも分かりにくいということです。

そこでマインドマップは、これらの内容(項目)のつながりを、一目でイメージできるように図で示します。

GH
|
M-A-B-C
N   E-IJ
F-KL

こういう感じで(と言っても分かりづらいと思います。ここに理想的なマインドマップの図があります)、キーワードのつながりを描き、話の内容の一つ一つがどのように関連し合っているのかを表現します。

ただ、元々ぼくがメモを取らない人間だということもありますが、と言うよりそれが大きな原因だと思いますが、僕自身がマインドマップを描こうとしても、なかなかうまく書けない。書いていても自分で「なるほど」と思えないのです。

おそらくマインドマップは、自分の理解した話の根本的なテーマをはっきりさせ、そのテーマに沿って全体の話の流れを再整理するツールなのだと思います。

このオーディオブックで挙げられている例で、ビジネス上で対立していた二人の人が、自分たちの考えをマインドマップで表してきました。

マインドマップを書く際には、中心に自分にとってコアとなる価値・ゴールを設定し、そのゴールにとって一つ一つの問題がどう関連するかを線で結びます。

ふたりがそのマップを付き合わせると、一つ一つの言葉では対立していても、相手が本来目標としているゴールが何かが図によってすぐに分かり、自分たちの意見対立は何が原因で、お互いが有している意見のどこか同じなのかがより分かるようになるということです。

これはありうる話だと思う。「意見」の対立というのは、続けていると、お互いの言葉尻の対立を延々と続けています。

しかし自分たちの考えを図で表すことで、そもそも二人の価値は何であり、諸々の項目はその価値とどう関連するかを示してくれると、相手の意見の背景がより分かりやすくなるのです。

この例ではマインドマップの活用例が分かりやすいのですが、それでもいざ自分でマップを作ろうとしてもうまくいかないのです。書いていてもしっくりこないというか。納得感がないというか。

まぁ、ちゃんとまだ理解していないだけなんでしょうけど。

ちなみに、精神科医の中井久夫さんは、1980年に出した彼の著書『分裂病と人類』の中で、このマインドマップとほぼ同様のメモを、読者が理解しやすいように付けています。おそらく、大量の知識を瞬時に整理できる天才型の人たちは、マインドマップ(とフォトリーディング)と同様の思考方法を身につけているのでしょう。

マインド・マップというツールがビジネスとして喧伝されることの意味は、このような天才だけが知っていた方法が私たちにも知ることができるようになったということなのでしょう。

それが、天才だから活用できた方法なのか?あるいは本当は誰でも使える方法なのか?私にはまだ分かりません。

なぜ私がマインドマップに馴染めないかというと、元々図形に弱いからだと思う。言葉と言葉を線で結び付けられても、そのつながりにある関連が頭にすぐに入ってこないのです。

でも、もう一度このマインドマップについては、少しずつでも勉強してみたい(勉強法の勉強だ)。

マインドマップが描く図には馴染めない私ですが、このCDを聴いていても、その発想は分かる気がします。何かを考えるときは、一つ一つの文章で考えるのではなく、イメージとイメージのつながりを意識することで、物事の関連を早く整理するのです。

また、自分が物事を考える際の価値・究極のゴールは何かをはっきりさせるというのも、思考においては有効だと思う。


『右脳をどのように経営にいかすか?』 七田眞 神田昌典

2007年02月25日 | Audiobook

             きらきら輝く道


日本に右脳幼児教育を広めた七田眞さんと神田昌典さんとの対談カセット『右脳をどのように経営にいかすか?』を聞きました。

私は七田さんの本は何冊か読んだことがありますが、その肉声を聞いたのはこれが初めて。

神田さんのオーディオ対談を聞いていると、話し方や声からその人がどういう人かというのを、なんとなく想像してしまいます。もちろんその想像が当たっているかどうかはわかりません。

ただ今回の対談を聴いていると、七田眞さんという方はとても謙虚で温和な人柄なのだなということが伝わってきます。七田さんの声を聴いていると、本当にこういう人がいるんだと驚くほどです。

この対談で七田さんはもちろんご自身の色々な考えを述べていますし、読者の中には意見を異にする場合もあるでしょう。でも、そのような意見の違いがありながらも、七田さんの話し振りを聞いていると、この方は自分の言っていることを本当に自分で信じている人なんだな、という印象をもちます。

これは簡単そうで、じつは難しいと思う。どれだけ立派なことを言っていても、自分が心底からそのことを信じるのは難しい。

しかし七田さんは気負いもなく、とてもリラックスした感じで、淡々と自分の意見を述べていきます。

こういう方は、おそらく、他人が自分と違う意見をぶつけてきても、「あなたはそういう考えなんですね」と認めることができるんではないかと感じます。

右脳教育というのは、イメージや直観力といったことを子供に伝えていく教育だそうです。対談で神田さんも言っていますが、この「イメージや直観」といった概念は、今でこそそういう内容を扱った本が書店に並び、社会的に認知された考えですが、一昔前なら多くの偏見にさらされていた考えでしょう。またその概念に不信な目を向けるほど、余計に右脳の開発は滞るので、馴染めない人はますます馴染めないということになるのだと思います。

おそらく今でも右脳教育に偏見をもつ人も少なくないと思います。

またフォトリーディングという右脳を使う速読を広めている神田昌典さんですら、「私は右脳が開いたということは全然ないんですが…」と言うように、大人は自分に右脳があることを信じることはとても難しいものがあります。

面白いのは、七田眞さん自身が、「私自身も自分には右脳の能力がないと感じていたんですが、友達の右脳の凄い力を見せられて、自分には右脳はまだ開発されていないけど、自分以外の人が右脳を開く手助けをしようと思い、こうやって右脳教育に取り組んだんです」と述べていることです。

たしかに懐疑心を培っている人たちが、自分の中で今すぐに右脳が開くことを信じることは難しいでしょう。右脳を扱う自己啓発的な本はたくさんありますが、その中で右脳を開くことができる読者はわずかだと思います。

多くの人はそこで「こんなの役に立たないよ」と本を投げます。

七田さんの面白い所は、自分には右脳の力はまだないけど、他人が右脳を開く手助けをしよう、と最初に考えたところですね。人間が素晴らしい能力をもっているのは確かなんだから、色々な方法を試して他人の力を伸ばそうと思ったところです。自分が賢くなるより先に他人を賢くしてあげようと思ったところです。


七田さんの著書では、右脳の特徴は「早く・効率的に」回転すると同時に、「他人との調和」を志向する点です。それに対し左脳は「遅く」回転すると同時に、「自分を守る」というエゴを強化する点です。

「早く・効率的に」思考が回転するとは、言い換えれば、自分の感情に引っ張られずに考えることができるという意味だと思います。つまり客観的に物事に取り組む力ですね。そのように客観的に物事に取り組める人ほど、“自分”というエゴに振り回されないので、他人の意見にも耳を傾けることができるでしょう。

だからよりポイントを絞って言えば、右脳の思考の特徴は、「早く・効率的に」and/or 「強く」考えることができることだと、私は想像しています。

人間の思考の形態には、七田さんの言うように「早く・効率的に」大量の情報を摂取するタイプと同時に、一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考を得意とする人たちがあります。

いわゆる頭がいいと言われる人たちの中でも、たくさんの情報を取り込むのが好きな人もいれば、分野を絞ってコツコツ思考を進めるのが好きな人もいます。

ただ、早く考えるにしても、コツコツ考えるにしても、重要なことはどれだけ自分の過去・感情・エゴにとらわれずに考えることができるかなのでしょう。私は詳しく知りませんが、おそらく七田さんが目指されてきた教育は、偏見や常識やその人の過去に囚われずに思考を働かせる力なのだと想像しています。

七田さんが「大量の情報を早く・効率的に摂取すること」を強調するのは、既存の学校教育が長い年数をかけて、ゆっくりと(鈍く)知識・論理を教え、そのため子供たちは与えられた知識を自分で活用する能力を発達させてこなかったからだと思います。その活用する能力とは、自分で新しく問いを作り出す能力でもあるだろうし、また自分で行動する能力でもあるのでしょう。

このことは、七田さんが子供の教育において、必ずしも既存のレールを上手く渡ることを理想と考えているわけではないことと結びついているのだと思います。むしろ学校の勉強ができなくても、その子の得意なことを伸ばして行けば、その子が将来人のために役に立てるようなことが見つかります、と七田さんは言います。

もちろん、やりたいことだけをやっていても、それで食べていけるかどうかはわかりません。ただ同時に、その子が得意なこと・夢中になれることを見つけた子供は、愉しい時間を過ごすことができるのも事実です。

ただ過去・既存のレールにとらわれないことが子育てで大事だと言う大人は多いでしょうし、そのために「ゆとり教育」が生まれました。しかしその実態は、「ゆとり」というより、単なる放任だったのでしょう。

しかし七田さんの考えている教育は、放任でもないし、かといって子供をミスへの恐怖で凍りついている「労働者」のように扱う教育でもなさそうです。そこでポイントとなるのが、イメージと直観力をキーにする教育ということなのだと思います。

私たちが受けてきた教育は論理を追うことを第一義にします。しかし七田さんは、論理ではなく直観を大切にします。

論理も直観も、知識・情報を脈絡づけるchannel能力です。違いは、論理が目の前の確実・安全な道だけを通ろうとするのに対し、直観は、一見道が見えない場所にも道があることを感じ取るセンサーを発達させていることです。

ここでもポイントは、明らかなもの・確実なものだけを信じる態度(未来への不安と過去への執着)と、崖をジャンプしていく態度(過去を手放し未来を信頼する)との違いです。

先に私は、「一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考を得意とする人たちがあります」と言いました。ただこのタイプの思考は、七田さんが言う「論理」を重視する思考とは異なるのだと思います。

「一つの問題を一歩一歩進めるタイプの思考」とは、たとえ先の道が見えなくても、先に何かがあると信じて進んでいく思考のことを言います。自分のやっていることが実を結ぶかどうかはわからないけれど、それでも何か自分の中で対象に惹かれる部分があるので、一つ一つやってしまう、という態度です。

それに対して論理とは、一つ一つのステップに確実性を求める執着心の表れです。このような論理を追う態度では、そのときそのときのステップではとりあえず安心感は得られますが、つねにリターンを計算できる道だけを歩んでいるので、結果的には既存のレールを歩んでいるだけになります。

こうやって見ていくと、七田さんが考えている理想の教育とは、必ずしも公教育が敷いたレールを上手く歩くことではなく、むしろ既存のレールではない場所に(も)自分が行くべき道があることを信じる力を、子供たちに伝えていく能力のように思います。





『宗教とビジネスの・・・目からウロコの関係!』 日下公人(話し手)

2007年01月08日 | Audiobook

             “Stone Pavement”             


オーディオブック『宗教とビジネスの・・・目からウロコの関係!』を聴きました。お馴染み神田昌典さんによるインタビューCDで、話し手は大学講師で東京財団会長の日下公人さん。なかなか興味深いCDです。

内容は、西洋と日本のビジネス風土の違いは、背景となる宗教の違いに由来するというもの。端的に言えば、西洋のビジネス風土は宗教改革を起こしたカルヴァン派に源流を辿ることができ、神と自分との関係を重視し、人間間の関係を軽視するプロテスタンティズムの思想が、現在の弱肉強食・契約文書重視の西欧のビジネス風土を作っているということを、丁寧に説明されています。

西洋人の行動様式、とりわけビジネスでの行動パターンがプロテスタンティズムに由来するという議論は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが広めた議論で、社会学者の間では新しいものではありません。だから、上記のことをアカデミズムの人が言っていたら、僕は「あぁ、またか」と思っただけかもしれません。

しかし同じ内容でも、おそらくビジネスの現場に立会い国際的に活動してきた日下さんの、物事を一つ一つ噛みしめるように説明する日下さんの語り口を聞いていると、それが本当に今の西欧の社会の特徴を現しているように聞こえてくるから不思議です。こういうところが、肉声によって情報を仕入れることができるオーディオブックの良さでしょうか。

日下さんが語っていることは、

 ・西欧で資本主義を発達させたのはプロテスタントであり、またユダヤ人たちであること。

 ・彼らの多くは、ヨーロッパ中の土地で排斥されたため、オランダに流れ着いた集団であること。その彼らが中心となってビジネスを行い、オランダが商業的に栄えたこと。

 ・彼ら、とりわけユダヤ人は、常に周りの人々から排斥されていたため、自分たちを守るためにも、“契約”という社会習慣を重視したこと。契約を取り決めることで、その後いかなる状況変化が起きようと、その契約を盾に取り自分たちを守ろうとする習慣がついたこと。

 ・一神教であるユダヤの人や、教会ではなく神との関係を重視するプロテスタントの人たちは、自分たちが神によって天国に入ることができることを予定されていると信じ(予定説)、その信仰を確証するために日々の行い、とりわけビジネスに精を出し、それが資本主義の発展につながったこと。

 ・このように神との関係を重視するメンタリティにより、紙に選ばれていることを重視するため、ビジネス上の成果のみを重視する現在の西欧のエリートビジネスマンたちのメンタリティが作り出されたこと。そこでは他人との関係や、他人の感情などは重視されない。

といったことなどです。

このような西欧のビジネス(この言葉も、“商業”とは違うのだろうか?)が“成果”を重視するのですが、おそらくその成果は数字によってのみ示されるのだと思います。数字という明確な形を取ることによって、自分が神に選ばれていることを確証できるからです。

それに対し日下さんは、日本のビジネスの特徴は、“質”を大事にすることにあると言います。それはよく言われる“ものづくり”の良さであり、とにかく質の高いものを作ります。日下さんによれば、音の出ないクルマ、スポーツ選手の汗を鮮明に写す液晶テレビなどを作ろうという発想は、絶対西欧の人からは出てこないと言います。

それは金銭の数字のみを重視する“ユダヤ的”(実際のユダヤの人がそうであるかどうかはともかく)な発想と、同じ共同体内の顧客へのサービスを重視する日本人との違いとも言えます。

一人ひとりがバラバラな存在で、ただ神とのみつながっていると信じている西欧社会の人々では、ビジネスとは他者との闘争の中で自分が生き残るための手段にしかすぎません。またそうしなければ、いつ自分が迫害されるか分からないという恐怖があります。そのような状態では、ビジネスにおいて重要なのは自分を守るための地位・収入を確保する手段となります。

それに対し、共同体の内部にいさえすれば生きていける日本では、そこにいる安心と引き換えに、共同体のメンバーへの奉仕を重視します。そこから、顧客に徹底して尽くす態度が生れ、ビジネス上の合理性だけでは生れない発想をもち、精巧な質を持つモノ・サーヴィスを作り出します。それは例えば上記のクルマやテレビであり、高級旅館であり、料亭などのサーヴィスに現れていると日下さんは言います。彼によれば、欧米で一流といわれているレストランやホテルは、みな日本風だと言います。

もっともそこには影の側面もあり、共同体からいったん排除されると、もはや生きていくことはできないという日本社会の現実があります。そう考えると、現在の派遣・パート・アルバイトに追いやられている人たちの深刻な経済不安という現実は、決してアメリカ流のビジネスが入り込んできたからではなく、元々共同体内部の者(ex.正社員)以外を排除しようとする日本人の心性の典型的な表れかもしれません。

そう見ると、欧米にも日本にも同様に他者を排除する習慣があることが分かります。ただ、欧米では、排除されたユダヤの人たちが資本主義を発達させる原動力となったため、彼らユダヤ流の業績主義・契約主義の行動様式がエリート層の行動様式となりました。

欧米のドラマなどをみていると、必ずしも向こうの人たちが、成果主義や容易な解雇という慣行に順応しているわけではなく、彼らにとっても終身雇用権は喉から手が出るほど欲しいものであり、他人との関係・感情ではなく業績のみを追い求めるビジネス人には違和感をもっていることが分かります。私たちが“アングロ・サクソン系”ビジネス行動様式と考えるものは、必ずしも欧米の人全体に受け入れられているわけではなく、むしろ大衆の大部分はそれに対して反感をもっています。

ただ日本との違いは、優勝劣敗・弱肉強食・契約絶対主義を当然とするメンタリティをもつ層が、最初に資本主義勃興の立役者となり、そのままエリート層となったため、欧米で成功するにはそのような“ユダヤ流”(という言い方は民族差別につながりそうで危険だけれど)、プロテスタント流のメンタリティを身につける必要が生じたのでしょう。

それに対し資本主義後発国の日本は、日本的な共同体主義のメンタリティを残したまま、資本主義的生産様式と技術革新をそのまま欧米から移植してくることが可能でした。組織形態や技術だけは欧米流なのですが、人と人との付き合い方は、それまでの日本的な共同体主義が存続したのです。それゆえ、組織の内部にいる者には、平等に手厚い保護を与えてきましたが、組織外にいる者には差別的な眼差しを向けてきました。

高度成長期の戦後においても、名前の通った大企業とそうでない中小企業にいる人の間の心理的な溝、大企業と社員と系列企業社員との間の心理的な溝、企業社会に入ることができた者と落ちこぼれたものとの間の溝。またそれら溝を境にして、上にいる者が下にいる者を蔑視するメンタリティは、日本においてはつねにありましたし、今もあるでしょう。

集団から排除されたものがビジネスを支配できたがゆえに、弱肉強食が状態となった欧米に対し、集団の中の者を保護し共同体の外にいる者を排除するメンタリティを残したまま資本主義を移植できた日本との違いはここにあります。

このCDでは、日下さんは日本は欧米流のビジネスをしなくてもいまのままでいいんだよと説きます。しかし私には逆に、この話を聞くことで、日本社会の欠点をより意識するようになりました。日本のビジネスが誇るモノ・サービスの高い質が、共同体の外にいる者を排除することで成り立っているとしたら、まだまだ日本社会には改善すべき問題が山積みだということになるからです。

日本の経済成長は常に共同体外の者を過酷な状況に追いやることでしか達成できず、また排除される人たちも共同体の秩序を守るよう規範を内面化されていれば、問題が表面化しないまま、悲劇は静かに進行して行くようになります。


涼風

“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 2

2006年11月27日 | Audiobook

             “Bee on the abelia”


“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 1からの続き)


AND経営

この「AND経営」という言葉は、著者たちが広めたからかどうかは知らないのですが、私でもどこかで聞いたことがあるので、ビジネスマンの人たちには周知なのでしょう。

ところで先日大前研一さんは、「AND経営」という経営手法について批判的に述べていました。(「経営の基本は、AND経営ではなく、OR経営 ~前編~ 2006/9/29  ~後編~ 2006/10/6」 大前研一 『 ニュースの視点 』)。

大前さんが言っていることは、要するに、事業の多角化よりも、その企業の持つ強みを追求することが経営成功の王道ですよ、ということだと思います。

べつに大前さんはこれでコリンズやポラスを批判しようという意図はなく、たんに流行の考え方を批判したのだと思います。

ただこの大前さんの考え方は、コリンズやポラスの思想と対立せず、むしろ同じものだということを押さえておくと、著者たちの考えがよく分かるかもしれません。

著者たちは「AND経営」の重要性を強調しますが、それは端的に言えば、“Preserve the core, and stimulate progress !”と言うもの。要するにコアとなる理念を持ちながら(while~)、あるいは持ち続けることによって(by~)、進歩のために刺激を与え続けなさい、ということ。

理念を持つことは、上での紹介したように、同じ行動を採りつづけることとは違います。理念とは規則ではなく刺激剤であり、束縛ではなく顔を上へ上げさせるものです。それは上司が部下を管理するためにあるのではなく、部下が自分で考えて行動するさいのガイドです。

大前さんは様々な商品を扱う松下は、事業の多角化を目的とする「AND経営」ではなく、基本理念に忠実な「OR経営」だと言います。

「「AND経営」の成功事例として、 日本の松下電器は当てはまらないのか?松下は、あらゆる商品を取り扱える多角化した企業ではないのか?

たしかに、松下電器は白モノ家電からAV機器、自転車、電池に至るまで、非常にバラエティにとんだ商品を取り扱っています。そして、経営の神様・松下幸之助は、一種の天才経営者であったと私も思っています。

しかし、松下電器の経営手法は、「AND経営」ではなく、基本に忠実な「OR経営」でした。 松下電器の場合には、家電販売網というチャネルを整備することが最重要テーマであり、逆にそれだけを追求していたと言ってよいでしょう。

そして、その販売チャネルに乗せられる商品であれば、何でもOKだったということなのです。だから、ジューサーからテレビから何でも取り扱うことができたわけです」

これはコリンズとポラスの言葉で置き換えれば、「家電販売網というチャネルを整備する」=「水道のように電気製品を提供する」という松下の基本理念・コアがあり、その理念の下に時代・技術の変化に合わせて様々な商品を取り扱うということです。

「AND経営」と「OR経営」という言葉に込めている意味合いは大前さんとコリンズたちとでは反対ですが、言っていることはまったく同じだということが分かると思います。コリンズとポラスにとっては、基本理念に忠実であることが「AND経営」の基盤となります。

またその理念のゆえに、例えば松下は何をしている会社なのかということが消費者には分かりやすくなります。いろいろな商品を扱っていても、松下の理念は、エンド・ユーザーが安価に使いやすい新技術の製品を持てるようにするということだからです(もっとも、この安価ということに固執することで、従業員との派遣契約での違反などのような不祥事が続くと、べつの悪影響が出るかもしれません。それはトヨタについても言えるでしょうか)。

大前さんは、理念を見失った多角化経営の悪い見本として次のような企業を挙げます。

「新幹線に乗ったときにパッと目に入ってきた広告に、 「YAZAKI」の広告がありました。私はその広告を見て、 「大切なことがわかっていないな」と感じました。

その広告では、このような主旨のコピーが使われていたからです。「YAZAKI、何をやっている会社か? 一言で説明できないのが惜しい!」

ヤザキは、ワイヤーハーネスで世界一の会社です。説明しづらいことなんて、何もないはずだと私は思います。

これは、先週も指摘した、まさに「AND経営」の影響ではないかと私は見ています。つまり、「ウチはAもBもCもやっています。」という経営発想がそのまま、広告表現にも適用されてしまっているのです」

このように、いろいろな事業を手がけることが、松下のようにその企業イメージを強くする場合もあれば、上記の企業のように逆に印象を分からなくし、自分たちから「、何をやっている会社か? 一言で説明できないのが惜しい!」と言ってしまうようになる場合があるのかもしれず、大前さんはそのことを指摘しているのではないでしょうか(わたしはヤザキそれ自体についてはよく知りません)。


生え抜きの経営者

このような基本理念の重要性を強調する中で著者たちが説くことの一つが、“Visionary Companies”では経験的に観察して生え抜きの経営陣が活躍していること。

私たちに膾炙しているアメリカ企業のイメージでは、CEOという名称で外部から優秀な経営者が雇われて企業を経営するというイメージがありますが、アメリカ人の著者たちは、そのような企業が長期にわたって成功し続けることはないと指摘します。

その企業の理念・体質を知る者でなければ、その理念にあった経営を行なうことはできません。集団というものが必然的に文化を生み、その文化は時間を経て作られた以上は簡単には消すことができません。どんなに理に適った経営手法を知っている経営者が外部から来ても、内部の文化を知らない以上は、その企業の理念を生かす経営を行なうことができないからです。

後の“Good To Great”で著者の一人のコリンズは、成功する企業には“カリスマ経営者”はいないと指摘しますが、その指摘はこの著書での生え抜き経営陣の重要性の指摘とつながっているのでしょう。

“Visionary Companies”の一つとして挙げられているGEには、ジャック・ウェルチという有名な経営者がいました(私はこの人のことをよく知りません)。彼はカリスマ経営者として喩えられることの多い人ですが、コリンズとポラスは、ウェルチは外部から来た経営者ではなくGEの精神をよく知っている人だったということ、ウェルチ以前にもGEには優れた経営者がいたことを強調します。つまり著者たちから見れば、ウェルチはGEの基本理念を持ち続けながら、時代に合わせて行動を変えた経営者であることになります。


理念

“Good to Great”でもそうですが、この本でも“Visionary Companies”の一つとして、フィリップ・モリスというタバコ会社が取り上げられています。

一見経営における精神的要素の大切さを強調するコリンズとポラスですが、彼らは理念の内容にまで「どうあるべきか」という議論に踏み込みません。重要なのは理念を持つことであって、どのような理念をもつべきなのか、ではないからです。

著者たちにとってはあくまで成功している企業の原因を経験的に調査して共通因子を見つけ出すことが目的なのであって、できるだけ“べき”論を排除したいのでしょうし、またタバコという文化へのアレルギーも著者地のナレーションからは感じられません。

例えば「フロー理論」のチクセントミハイは、働くことと「フロー状態」との関連を述べる際に(“Good Business”)、タバコのようなdistraction注意力の散漫を引き起こす商品を扱うことに対して否定的でした。

コリンズやポラスのように、理念の内容はどうでもよく、理念をもつこと自体が大切なのだと説くことはどういうことなのでしょうか?

コリンズやポラスの議論に従えば、ウォルマートも松下もトヨタも“Visionary Companies”に含められるでしょう。それは、それらの企業が時代に対応できる理念を持ち続けているからです。

しかし、ではそれらの企業が完全な善な存在だったかと言うと、ウォルマートは人件費の圧縮の結果、多くの女性従業員から訴訟を起こされていますし、トヨタの自動車工場で働く人の多くは長時間の労働を強いられて多くの人がアルコール中毒になっていると聞きます。また本来であれば自動車の制限速度を技術的に100キロに抑えれば交通事故の犠牲者は減るかもしれませんが、おそらく大手自動車会社は強硬に反対するでしょう。松下の商売も、今となっては不燃ゴミの大量発生による環境破壊に貢献しているとも言えます。

神田昌典さんは、どんなビジネスをしても、かならず批判される、と言います。

では、どんなビジネスをしても批判されるから、どんなビジネスをしてもいいのだと開き直るのか?

あるいは、その時々の倫理観にあわせてビジネスのやり方を変化させるべきなのか?

ひょっとするとコリンズとポラスの議論は、あまりにも企業を一つの存在と見なし、経営のみに視点を集中しすぎているのかもしれません。ではそれらの企業で働く人たちは幸せに働いているのか?それらの商品を利用している消費者は本当に幸せになっているのか?そういうことを問う視点は見られません。タバコ会社を“Visionary Conpanies”に含めることはそういう姿勢の表れかもしれません。

コリンズとポラスが取り上げているのは、100年以上前に創業した会社が多く、それゆえに歴史的に長期にわたって残ってきた企業を取り上げているのですが、言い換えれば資本主義企業の歴史はまだまだ浅いことをそのことを示しています。100年以上にわたって“Visionary Company”だったから、これまでもそうあり続けることができるかどうかは分かりません。

どのような理念を持とうと、ともかく理念を持つことが企業繁栄の鍵なのか、あるいは理念の内容によって繁栄する企業と廃れるそれとが分かれる時代になるのか?私は後者の社会を望むのですが、それはコリンズとポラスから見れば、ひょっとしたら、一つの倫理・道徳を企業活動に押し付けていることになるのかもしれません。



“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 1

2006年11月27日 | Audiobook

             “Abelia in the sun”


経営学者のジェームス・C・コリンズとジェリー・I・ポラスによる“Good To Great: Why Some Companies Make The Leap...and Other's Don't”(邦訳『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』)を以前に取り上げましたg、その著者たちが“Good To Great”よりも先に出版しベストセラーとなった“Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies”(邦訳『ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則』)のオーディオ版を聴きました。

この二つの著作はアマゾンのレビューでも多くの方が絶賛されていますし、本屋に行けば今でも平積みされているので、かなり高い人気を得ているようです。

この二つの著作の関係は、今回聴いたCDでも触れられています。このCDは原文をそのまま朗読しただけではなく、90年代前半に“Built to Last”を出した後になぜ“Good to Great”を90年代後半に出したのかということも踏まえて、あらためて近年に収録したもののようです。ですので、所々に、本来は後で出版した“Good to Great”についても触れられています。

最初に出版した“Built to Last”では、20世紀を代表するアメリカの大企業を取り上げ、その中でも特別すぐれた業績を収め、かつアメリカを代表するようになった企業=“Visionary Companies”と、同じく20世紀を代表する大企業となりながら、トップに上り詰める企業とはならず、また人々の心に強い印象を残すことはできていない企業=“Comparison Companies”を比較し、“Visionary Companies”に共通する要素は何かを探っています。

こう書いていて面白いのは、この本は必ずしも「どうすれば競争の中で生き残れる企業になれるのか」を探求する普通のビジネス書とは違うということ。

たとえば“Visionary Companies”と“Comparison Companies”の対比例として、GEとウェスティングハウス、ソニーとケンウッド、ヒューレット・パッカードとテキサス・インダストリー、ウォルト・ディズニーとコロンビア・ピクチャーなどが挙げられています(前者が“Visionary Companies”、後者が“Comparison Companies”)。

こう見ると、ウェスティングハウス、ケンウッド、テキサス・インダストリー、コロンビア・ピクチャーといった“Comparison Companies”も、倒産したわけではないし、長い期間にわたって産業界で確固たる地位を築いているわけです。

しかし著者たちリサーチ集団から見れば、これら“Comparison Companies”は、収益の面でも社会的な影響力という点でもイメージの面でも、社会全体に強い影響力を与える企業とはなりえていないと判断されます。

企業の目的を、利益を上げ組織を存続させること《だけ》に置くならば、これら“Comparison Companies”は十分合格点を与えられるのですが、著者たちはこれらの企業には何かが足りないゆえに、トップにはなれないのだと見なします。


“Clock Building”と“Time Telling”

著者たちが“Visionary Companies”と“Comparison Companies”の違いとして挙げる点の一つが、それが“Clock Building”な企業か“Time Telling”な企業かということ。

これは持続性と散発性として対比できるでしょうか。

それは理念と戦術の違いとしても言い換えられるかもしれません。

実際、著者たちが何度も強調することの一つが、“Visionary Companies”には理念があること。それも抽象的なものではなく、現実の問題にぶち当たったときに何を基準に考えればいいかを教えてくれる指針です。

その指針自体は、理念ですから、直接的には現実の問題に答えてくれるわけではないかもしれない。しかしその理念を思い出すと、自然と採るべき方向が見えてくるような、そういうものです。

例えば著者が挙げる例の一つがソニーの設立趣意書。これは有名なものですが、当時は安かろう悪かろうというイメージを世界中にもたれていた日本の製造技術を、高品質なものとして世界中に示そうという理念を創業者の井深大さんは掲げました。つまり、利益を上げるためではなく、まだ日本のエレクトロニクス・メーカーが未発達だった時代に、自分たちがなすべきことは何かを考えて、井深さんは日本の製造技術を世界のトップに高めるという理念を掲げたわけです。

このような創業時のソニーのスピリットについては、最近ソニーを退職した天外司朗さん(「天外伺朗こと土井利忠さんの生前葬」 『船井幸雄.com』)の対談CD『「フロー経営」の極意』でも述べられています。

そのような理念を持つゆえに、ソニーは時代の変化に対応できたのだとも言えます。ウォークマンにせよ、コンパクト・ディスク(これはソニーが開発した)にせよ、またはアイボにせよ、技術の進化をリードするという目的がブレていないがゆえに、何をすべきかが社員にもハッキリしたのでしょう。

逆に言えば、映画や音楽事業の買収による事業拡大は、ソニーが「自分は何をすればいいのか」という当初の理念を忘れているがゆえに起こした迷走とも言えます。映画や音楽といったソフトに関しては、どういうものを自分たちは作るのかという理念をもっているわけではありません。もしそうだとしたら、結局は時代の流れに場足り的にしか対応する他ないからです。そうすることで散発的に大ヒットを飛ばし“時の人”=“Time Teller”にはなれるかもしれません。しかし時代の変化に対してどう対応するかという指針をもっていない場合には、“Clock Builder”にはなれません。

ソフトに関する理念とは、例えばディズニー(あるいはピクサー)のように、どういう映像を作りたいのかという明確なビジョンがあること。それゆえにディズニーは、いろいろな作品を作りながらも、それらすべてが「ディズニー」というブランドをイメージさせるものになります。それは全盛期のジブリにも、あるいは少し前の映画会社ミラマックスにも共通するかもしれません。

ディズニーにしてもミラマックスにしても、その作風への批判があります。ディズニーはあまりにも大衆受けするレディ・メイドな作風で、例えばエリックス・ザルテンの『バンビ』のような生きることの厳しさ・優しさを胸を鋭く衝く形で伝える作品を、徹底的に“ディズニー的”に分かりやすく変えてしまいます(「私はディズニー・アニメが好きだけれど、『バンビ』のような作品を観ると、たしかにディズニーという人は罪な人なのだ」江国香織『泣かない子供』)。またミラマックスも、そのあまりにもオスカー狙いの作風が批判されているそうです。

しかしそれらが批判されるのは、一つ一つの映画だけではなくて、それらを作る会社が確固としたイメージをもつからであり、それはつまりその会社が「どういう映像を作るのか」という理念をもっているからです。

それに対して、「どういう映像を作るのか」という基本理念を持たない場合、その時々にいい作品を作ったり作らなかったりするだけで、結局持続的にブランド・イメージを打ち出すことはできません。そのような映像のブランドを作っていないと著者たちが指摘するのが、コロンビア・ピクチャーズです。

中谷彰宏さんは対談『「まわりの人を一瞬でファンにする方法」』の中で、ブランドとはロゴではなく信用だと言います。つまり、顧客との信頼関係ですね。「この企業であればこうしてくれる」とお客が信頼感をもつことで、その企業はブランドを初めて作ることができます。

コンサルタントの神田昌典さんは、おそらくその対談を受けて「ブランドとは、いかに熱狂的なファンが多いかどうかを示すもの。それだけシンプル。芸術的なロゴやトレードマークは本質的には必要ではない。小さな会社がブランドをつくるには、ファンづくりにエネルギーを注ぐ」と述べています(『┃--「仕事のヒント」神田昌典365日語録-- No.107』)。

「お客の信用」「ファン」ということを、ポラスとコリンズの議論の文脈に置くと、要するに顧客が「この会社は何をしてくれるのか」ということをイメージしやすく、またそのイメージを思い浮かべた際に、お客さんたちがどこか胸にワクワクするものを感じたり、ホッとしたりといった、どこか肯定的な感情を感じることが、「ブランド」だということではないでしょうか。分かりやすく言えば、何か“夢”を与えてくれるような。

この本ではウォルマートも取り上げられていますが、ウォルマートはすべての販売商品に関して返品を受け付けたことで有名です。徹底的に安い商品を提供し、消費者のサービスに応え続けると言う同社の姿勢には影の側面もあるかもしれませんが(例えば「ウォルマート、好きですか?」 『裸のニュー・ヨーク』)。

しかし、ともかくも「ウォルマートは…してくれる」という期待を顧客に植え付けることには同社は成功しました。あるいはユニクロであれば「安くてわるくないデザインの服を作ってくれる」。スタバやドトールなら「安くてくつろげる場所を街の中に作ってくれている」。「この会社は…をしてくれる」という明確な期待を顧客がもてるようにすることができています。このような期待がブランドへとつながります。

そのように顧客の中に期待を作らせるのが企業の基本理念だと言えるし、企業が時代の変化を先取りして行動できる時というのは、時代の変化の中でその理念を生かすにはどうすればいいかを考えるからかもしれません。

理念があるからと言って、同じものを売り続けるわけではないし、同じことをし続けるわけではない。むしろ時代の変化の中で、その理念はどのように適用できるかを考えることができる、そのような普遍的な理念をもつことが大事なのかもしれません。

(だから、安さだけを追求するような理念は、顧客の人件費の圧縮→従業員の士気と生活水準の低下→社会の格差化へとマイナスの影響を社会全体に及ぼすため、これからも残り続ける企業を生むかどうかは分かりません)

ウォークマンやCDは、人類の技術の進化の流れを人より早く先取りしたもので、それはソニーの発明であると同時に人類の発明です。“Clock Builder”とは意味は違うかもしれませんが、人類の時計に自然に身を任せたがゆえに、誰よりも早く人類の時計の動きを読むことができたわけです。それは、技術の改善・進歩を体現するという理念をもっていたがゆえに実現できたことです。

しかし、そのような理念を忘れてしまった場合、人類の時計の動きが読めないので、HDD全盛の携帯オーディオの流れを読めなかったり、映画事業で持続的な成功を収められなかったりします。


“Built to Last” by J. C. Collins, J. I. Porras 2 に続く)

“The Eupsychian Ethic” Abraham H. Maslow

2006年11月18日 | Audiobook


アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908 - 1970)が1969年に出版したワークショップの音声記録“The Eupsychian Ethic (Audio Cassette) ”を聴きました。

6本組みのテープで、5時間くらいの長さ。おそらく大学のゼミナールのような形式で、しかし参加者は必ずしも同じ組織に属している人ではないようです。ゼミの進行は、マズローが自分の考えを述べながら、時おり参加者が質問・意見を述べるというもの。マズローの声はマイクを通して聴き取りやすいのですが、参加者の意見は最初はちょっと聞き取りづらい(後に行くに従って改善されるけど)。

ゼミ特有の、議論の流れを無視して自説を滔々と述べる参加者もいて、マズローが“I don't agree(「そうは思わない」)”“We've lost each other(「ちょっと話が見えないですね」)”とうんざりした様子で言うのも聞こえて、聴いていて苦笑いしてしまいます。

話の内容は、「善い人間とは何か?」「自己実現とは何か?」「志向経験とは何か?」「人を助けるとは何か?」といったマズローの著書の議論をそのまま引き継いでいるように聴こえます。

ただ、これらのテーマは、あまりにも私たちが身近に考えすぎていたため、逆にアカデミズムの学問が真剣に避けている問題だったのでしょう。

その傾向は今でもそのまま引き継がれているように思います。マズローの名前を知っている人は多いし、マズローの議論も「自己実現の理論ね」「欲求段階説でしょ」と知識として知っている人は多いのですが、彼の議論を重要なものとして受け止めている人がどれだけ多いのかは、ちょっと分かりません。

私たちは相変わらず、自分の考えと違う人を野蛮で頭が悪く不誠実な人とみなして、真剣に内省することはないのですが、マズローの議論の核心は、単なる知識としての心理学ではなく、単に他人を批判することを超えて、自分はどうあるべきなのかということを考えるための手段だからです。

このゼミでは、マズローの議論の基本的な説明を超えて、それらの著書における議論を踏まえて、より彼のテーマを深めようとしています。

例えば、人が“善い”ことを行い、“善い人間”になったとして、「だからどうなの?」とマズローは問います。

“善い”ことを行なう、“善い”ことを想う、“善い”こころの状態にある。これらは私たちが普段から目指していることです。しかしそれら“善い”状態を実現したとき、すでにその“善い”ことはなされたのに、「自分は“善い”ことをしたのだ」「自分は“善い”人間なのだ」と想い続ける状態にとどまることは“善い”ことでもなんでもありません。

“善い”状態とは、「自分は“善い”かどうか?」という内省にとらわれていない状態だと言えます。その問いを持っていない時からその問いをもつようになるのは必要な過程かもしれません。しかし、その問いをもち、“善い”ことをなし、それでもなお“善い”という観念にとらわれ、「自分は“善い”ことをしたのだ」と想い続けるとき、それではすでに“善い”ことというマスターベーションの状態にあります。

マズローの主要概念の一つに“至高経験(peak experience)”というものがあります。この“至高経験”は、自分のしたいこと、自分の内的な欲求に従って行為するときに訪れる体験で、チクセントミハイが“フロー”と呼ぶ経験に近いものだと思います。マズローはこの“至高経験”も、それにとらわれるかぎりは、すぐにそれは“至高”なものではなくなると指摘します。

例えばセックス。多くのスピリチュアル・リーダーや心理学者が、セックスは一つの貴重な心的体験となりうると言っていますが(かと言ってセックスをしなければ人間的に成長できないわけではないでしょうが)、マズローはセックスによって“至高経験”を得られるのが事実だとしても、ただセックスだけにとらわれるなら、それは“son of a bitch”(「尻軽女」の意、しかし女性が男性に対して罵る際にも使われる)でも“至高経験”を得られることになってしまう、と述べます。

こうした“善き”ことへの固執の否定面ともかかわりますが、マズローにとって理想的な状態とは、そのような“善い”“悪い”のような二分法を破棄した状態だと述べます。それは“道教的感覚”であり、ただそのときそのときの経験に直面することが必要なことであり、図式にはめて判断することは“善い”こととは関係がないということです。


このような“善い”“悪い”という概念自体は“エゴ”の強化につながります。“エゴ”という構造体は、それら概念図式によって境界づけられることで、自分を硬直的で狭まっていくものにしてしまいます。

マズローにとっては、したがって、“自己実現”に近づくために必要なことは、そのような概念図式をどれだけ自分から解き放ち、“エゴ”を脱するかにかかってきます。マズローの言うように、“エゴ”を強くすることは結果的に自分を弱くすると言えるし、“エゴ”を解き放つことで逆に強い“エゴ”をもつことにもなります。

ただこういう議論の追求が必然的に至る場所として、“善悪”を解き放ち“エゴ”を解き放つといったことは、何か固定的な状態を定義づけることではないのですから、「“エゴ”を解き放つ」と言った時点で、それも“エゴ”を強化する一つの概念にもなりうるわけです。私たちは頭で考える限りはどこまで行っても、“善悪”などの二分法から解放されることはありません。「“善悪”はよくない」という言葉も一つの“善悪”の判断だからです。

だから結局は、おそらくマズローも意識していたことですが、言葉はつねに言葉の内容を実現することはできません。もし言葉に言えることがあるとしたら、言葉は言葉で表現しようとすることは表現できない、という事実かもしれません。

マズローが“道教的感覚”ということの重要性を言うのも、儒教のような強固な善悪の判断を批判する道教の柔軟さに惹かれたからだと思います。しかし同時に、“道教”もそれが言葉で表現されている以上、“道教”が表現しようとしたことを裏切り続けます。例えば「“流れ”を大事にする」と言った時点で、それは流れを無視したドグマになりうるからです。

結局はマズローが言おうとしたことも、マズローの著書からは分かることができません。いや、マズローの言おうとしたことはマズローの著書から分かるのですが、マズローの言っていることはつねに現実によって裏切り続けるということでもあります。

そのときそのときの現実に直面して行動していく際には、“善悪”の判断かも必要かもしれませんし、その判断や概念図式が流れの一部になっているかもしれません。

こう書くとまたマズローの言うことに戻りますが、“peak experience”とはやはり経験であって、後からリファレンスしてそうだったと確認できる状態です。最初から私たちは「“peak experience”とはこう」とは予測できないのかもしれません。それはひとつの“peak experience”という概念なのですから。

しかし一つの経験をした後に、「ああ、あれは“peak experience”だったな」とは言えるかも知れません。

“善悪”という概念も同じことかもしれません。私たちは前もって何が「善い悪い」とは言うことができません。そのように前もってああだこうだということは“議論”であり、“議論”とは不確実な未来を固定的な概念によって判断しようとする試みです。だから“議論”する際に必要なことは、自分はつねに間違っているかもしれないと意識し続けることであり、その間違っているかもしれない主張によって他人をコントロールしようとする欲の放棄です。

しかし、“peak experience”にしても“善悪”という判断にしても、ひとつの経験について振り返りあとから振り返り「ああ…だったなぁ」とリファレンスする際に使うことはできるかもしれません。

概念とはそのように、それまで起こったことを検討する際にリファレンスする道具として最も役に立つものであり、しかし不確実な未来を判断することに使う場合には、視野の無意味な固定化を招くだけなのかもしれません。

そのようなリファレンスには、たしかにマズローの議論はひじょうに有効なものなのだと思います。


『300万円で起業する、ゼロからの集客法』 神田昌典

2006年10月25日 | Audiobook


『300万円で起業する、ゼロからの集客法』というオーディオセミナーを初めて聴いたのは、もう半年以上前になります。話し手は経営コンサルタントの神田昌典さんで、神田さん自身がゼロから起業するためのノウハウを語っています。

このCDを聴こうと思ったのは、神田さんのCDセミナーは聴いたことがあるけれど、それは神田さんが誰かにインタビューするもので、神田さん自身のインタビューを聴いたことがなかったので、一度聴いてみたいなぁと思ったからでした。

神田さん自身の起業体験については、これまでも『非常識な成功法則』『60分間・企業ダントツ化プロジェクト 顧客感情をベースにした戦略構築法』『成功者の告白』、そして『あなたの会社が90日で儲かる!』、などで語られていましたし、このCDの内容もそれらの本と重複する部分が少なくありません。

それは逆に言えば、彼が「企業ではこれだけが絶対に重要」と考えていることは、かなりシンプルに原則化できるということなのでしょう。

とりわけ神田さんがいつも口を酸っぱくして強調するのが、「粗利」の計算の重要性。まるで、一つの商品につきどれだけ粗利を得られるかを考えなければ、ロマンを追い求めることはできても、ビジネスは成り立たないと言っているようです。

例えば、単純に考えると、商売と言うと“モノ”を売ろうと考えてしまいます。しかし、例えば千円の“モノ”を売るとき、一ヶ月の生活費を30万円として、一体何個売らなければならないか。要するに、30万円の粗利を得るには、千円のモノは何個売る必要があるのか。

粗利を半分としてみます。60万円の売り上げを月に上げるには、60万÷1000=600です。

素人が一人でビジネスを初めて、一ヶ月で千円のものを600個売るというのは、ビジネスについて知らない僕には、とても大変なことなんじゃないかと思えます。一日20個の売り上げが必要です。

しかも、生活費30万と言っても、そこから諸経費や宣伝費を引くと一体どれだけ手元に残るでしょう。その残った金額で、例えば家族を養っていけるでしょうか。

こう見ると、粗利半分というのは、ベンチャーにとってとてもきついことがわります。また、“モノ”を扱うことの大変さも分かります。

“モノ”を扱うことがビジネスとして成り立ちやすかったのは、“モノ”が昔は不足していたからなのでしょう。しかし“モノ”が溢れている現代では、他との差異をそのものがもっているかが重要になります。また、家族を養えるほどの利益を上げるには粗利を相当高く設定する必要があります。原価千円のものだと、価格を1万円にするひつようがあるかもしれません。1万円のものを月に何十個も売ることは、宣伝費なども考えると、ベンチャーには大変なことに思えます。

それゆえに、神田さんは安易に“モノ”を扱うビジネスには手を出さないことをいろいろなところで強調します。自分の熱い思い入れがあり、他とは違うモノを提供できる自信があり、かつ粗利を高く設定できるものならばビジネスとして成り立ちえます。しかし、普段から身の周りに溢れている安価な生活品などでは、それらは既存の企業がすでに市場を押さえているので、十分な粗利を得るほどの価格を設定することは困難です。

こうした考察から、神田さんは、こういうモノが溢れている時代だからこそ、自分の仕事(には限られないでしょうが)などでの経験を“知識”としてパッケージ化して売ることを提唱します。それであれば原価はただみたいなものですし、“知識”という不確定さのゆえに、その“固有さ”“特別性”をアピールしやすく、十分な粗利を得られるだけの価格を設定しやすいからです。

ただ同時に、その不確定さゆえに、“知識”を売るさいには、売る人自身の誠意が消費者によって試されます。

“知識”は、それが役に立つかどうかは、モノ以上に、それを買った人の使い方に左右されます。つまり、その“知識”自身が本物かどうかは、明確に確かめることは難しく、それだけにお客がその知識に納得するかどうかは、その知識を使った結果と同時に、それを売る側の態度・誠意にかかってきます。

そうした際に、神田さんがどういう行動をとったか、それは実際にCDを聴いてくだされば、神田さんの言いたいことがよく分かるのではないかと思います。またこの問題は、神田昌典さんと本田健さんの対談『小冊子を100万部配った、革命的口コミ術とは?』も合わせて聴くと、より興味深いものになると思います。

『300万円で起業する、ゼロからの集客法』は神田さんのかなりパーソナルな体験を語っているので、もちろんすべての人に当てはまることはないと思います。ただそれでも、ベンチャーを志す人が多い中で、気をつけておくべき点については、直截に述べられているのではないかと思います。

このCDでビジネスというものが全部分かるわけではもちろんないでしょうが、ビジネスというものの仕組みの一端が分かって興味深かったです。

『30年後』 船井幸雄 神田昌典(聞き手)

2006年10月17日 | Audiobook


自分の読んだ本や、聴いたオーディオブックや、観た映画や、聴いた音楽の感想を書いていると、それらを読書・鑑賞したときには強い印象をもたなくても、自分にとって心に残るような感想を書いてしまうことがあります。そういうときは、自分の意識の表面では多くのことを受け取ったとは思っていなくても、“書く”(キーボードを“打つ”)という作業をしているうちに、自分の内面が掘り下げられて、意識の表面では知らなかったようなことを意識の奥は対象から感じ取っていたのかもしれません。

だから、自分の接した情報については、印象に残っていなくても、なるべく感想を書くようにしています。

船井幸雄さんと神田昌典さんの対談『30年後』ダントツ企業実践オーディオセミナー)を聴いたのは今年の4月ごろ。でも、なぜか今まで感想を書く気になれませんでした。すばらしい内容なのですが、何かテープを聴いていて違和感もあったのです。

船井幸雄さんの本は何冊か読んだことがありました。『経営のコツ』『船井幸雄の「人財塾」』『5年後』『本物時代の到来』『素晴らしい未来が見えてきた』などです。

これらの本は、船井さんの著書の中でも、比較的実践的な事柄をテーマにしていると思います。もちろん自己啓発ではあるのですが、現実の事柄に材料を取って話を展開しています。

それに比べると『30年後』は、かなり船井さんの“オカルト”的な知識を前提に議論が進められています。

船井さんの議論の趣旨は単純で、「これまでの経済活動はみんな自分の利益だけを考えて動いてきました。しかしこれからは自分以外のすべての人にとって利益になるように行動しなければ、物事は上手くいきませんよ」というものです。

船井さんが提唱する“本物”の技術というのも、「人間の体や環境にやさしい技術・食品でなければこれからは広まりません」という、とてもシンプルなものです。

そのように、「商品にしても、売り方にしても、誰にとっても利益になるものでなければだめです」というのが船井さんの主張です。

このような「誰にとっても利益になること」という命題を追求すると、「自分のことだけを考える」という“エゴ”の発想を生み出す「物質」「人間の肉体」という既存の考えを否定し、“見えないもの”を追求する方向へと進むことがあります。

このオーディオセミナーでは、船井さん自身がそのような一見“見えないもの”、常識では考えられないことをこれまで追求してきた軌跡が振り返られています。

それは例えば、既存の物理学を否定するような空中浮遊であったり、超能力であったり、前世をめぐり議論であったり、人類の歴史が転換した契機の話だったりします。

そのような船井さんの軌跡は、「誰にとっても利益になること」「博愛」というものに船井さんが目覚めたことと、もともと理系出身で探究心旺盛だったことが結びついて彼を導いてきたのだと思います。

ただ僕自身はこのテープを聴いていて、ここまで超自然的な話をする必要があるのかな?とも思いました。

前世があるかどうかは普通の人は分からないし、人類の歴史の起源も専門家以外の人には馴染みの無いことです。勉強熱心の人や専門家がそういうことを調査するのは分かるのですが、どう生きるべきかということは、そこまで専門的で超自然的な事柄に精通しなければならないことと結びついているのだろうか?という疑問も出ました。

もっともそれは僕自身の性格なのかもしれません。

船井さん自身は、かつては「ケンカの船井」と言われ、コンサルタントとして流通業界では競争相手からも恐れられていたそうです。しかし、ある事件をきっかけに、それまでの自分のやり方を反省させられ、自分のことだけを考えるのではなく、誰にとっても利益になることを考えなければならないと思い始めたということです。

そこから“エゴ”の発想を生み出す「物質」「肉体」の観念を超える超自然的なものへの探求が始まったのだと思います。

でも、なまけものの僕としては、そういう超自然的なことを知らなくても、「自分だけのことではなく、他人の気持ちも考えよう」と思うだけで、ただそれだけでいいんじゃない?と思ってしまいます。超自然的なことって、探求しなくても、信じていればそれで十分なことのようにも思ってしまうのです。

でも、船井さんの本が読まれた数を見ても、船井さんが現代の日本に及ぼした影響力は相当に大きく、船井さんの本がきっかけで博愛に目覚めた人も相当多いのかも知れません。ものすごくすばらしいことを成し遂げてきた人なのだと思います。



“Managing in the Next Society ”

2006年10月12日 | Audiobook


オーディオブック“Managing in the Next Society ”を聴きました。ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる』の原書をプロのナレーターが朗読したもので、CD3枚の要約版です。

内容的には“Management Challenges for the 21st Century”をコンパクトにした感じで、このCD自体に特別オリジナルな内容は無かったような印象をもちました。

一つ気づいたことは、ドラッカーはこれからNPOボランティアが社会の主要な組織形態になると考えていて、それ自体は特別珍しい考えではないと思いますが、彼がNPOが社会の主流となると考えた理由は、“knowledgeable worker”が労働世界で主流となると予測したことと密接に結びついていると言うこと。

“knowledgeable worker”(「知識労働者」と感触は同じかな?)の特徴の一つは、自発的に活動できる範囲を与えられることを求められること。おそらく単なる「従業員」とは異なり、与えられたことをこなすのではなく、自分のする仕事を自分で決める自由を求める人々のことです。その意味で、“knowledgeable worker”は“デスクワーク”と同じではありません。

そのような“knowledgeable worker”にとっては、仕事の魅力はお給料だけにあるのではなく、むしろ自分の仕事にどれだけ満足感を見出すか?どれだけ自分からやる気の出る仕事をできるか?という要因が彼の仕事の決定において大きな意味を持ちます。

このような“knowledgeable worker”が主流になることは、組織の形態が、partnershipに基づくallianceになるということです。allianceを英英辞典で引くと、an agreement between countries, political parties, etc. to work together in order to achieve sth that they all wantとなるそうです。

要するに、対等な立場の“knowledgeable worker”による合意が社会の核になるということですね。そのような合意は“knowledgeable worker”たちがどれだけ自発的にその契約にコミットできるかがキーになります。

このような自発性が核になる社会では、まさに文字通りNPOなどのボランティアが社会の主要な構成要因となってきます。もはやお金だけが労働者を動かす原因にならないからです。

ドラッカーはこのCDで、これまで教育とは若者が受けるものを意味したが、これからは生涯にわたって人々は教育を受け続けると述べています。少なくとも経済先進国ではその通りになり、あらゆる労働者がつねに知識をヴァージョンアップするために“勉強”していますね。大学院社会の到来です。

このように生涯にわたって“勉強”をすることは、もはや“勉強”とは「いい学校に行くためのもの」ではないことを意味しているのかもしれません。

もちろん多くのビジネスマンが“勉強”しているのは(べつにドラッカーは“study”という言葉を使っているわけではありませんが)、多くの場合はより収入を増やすためという側面をもっているでしょう。

しかし同時に、生涯にわたって“勉強”するとき、その“勉強”は必然的に、「これは何のためにしているのか?」という問いを人々に意識させる筈です。

若いときであれば思考をストップさせて、とにかく目標の点を取るために勉強することができるかもしれないし、また人生の一時期にそのように一つの目標にコミットすることはポジティブな意味を持ちうるかもしれません。

しかし生涯にわたって勉強する際には、「いい点をとるため」「スキルをあげるため」「収入を増やすため」という目標と同時に、「これをすることは自分にとって何の意味があるのか?」「どんな勉強が自分には本当に必要なのか?」ということを意識させるのではないかと思います。

つまり生涯にわたって勉強する際には、その人の自発性は何に向かうことを求めているのか、その人自身が反省することを強いられるように思います。ドラッカーは“knowledgeable worker”にとって大事なことは、「自分の強みとは何か?」という問いを自分に投げかけることだと述べています。

そのように人々が自分の強みを問い、自分の自発性の源泉を掘り起こすとき、その人は従来の企業だけではなく、より自由に、たとえばNPOなどの組織で活動することを求めるのかもしれません。


このCDは3枚組ですが、一枚一枚の最初と終わりにピアノによる音楽が少し流れるのですが、それがちょっと冷たい感じがするのが印象的でした。たしかにドラッカーは必ずしもばら色の世界を予測しているわけではないし、そもそも未来を正確に予測することはできないと述べているのですから(それは出生率をコントロールできないことと結びついています)、その冷たい感じの伴奏と内容とはマッチしているのかもしれません。しかし、やはり私としては未来は明るくあって欲しいので、もう少し違う音楽でもよかったのでは、などと(どうでもいいことを)思ってしまいました。


参考:「ネスクト・ソサエティ ~ Managing in the Next Society by ドラッカー」 『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

“Management Challenges for the 21st Century”by Peter F. Drucker 2 “joy”

“Management Challenges for the 21st Century”by Peter F. Drucker 1 “joy”

“Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

2006年06月12日 | Audiobook


心理学者チクセントミハイが2003年に出した著書“Good Business: Leadership, Flow, and the Making of Meaning”オーディオCDを聴きました。

チクセントミハイのフロー理論とビジネスとの関係については、ソニーコンピュータサイエンス研究所代表の天外司朗さん(本名は土井利忠さん)が著書『運命の法則』の中で指摘しています。

フロー理論とは、その人にとってなにか“しっくりくる”ような分野や思わず夢中になってしまうことに関わっていて、我を忘れてその行為に没頭しているときの心理的状態を分析した理論です。チクセントミハイは60年代からシカゴ大学で“フロー”な状態についてアンケートなどを用いて分析してきました。

別のオーディオブック“Flow : The Psychology of Optimal Experience”で著者は、フロー理論について分析を始めたきっかけについて、第二次大戦での母国ハンガリーでの悲惨な状況の中で、それでも日々を過ごしていく人々を目の当たりにして、なぜこういう状況で人は生きていけるのか、こういう状況でも人が幸せを見出すとすればそれは何になのかを探求しようと思ったと述べています。

彼によれば、人はその人にとってどこかしっくりしていることをしているとき、内面が充実した感覚で満たされ、外からの刺激(食欲・性欲・金銭欲など)を求めることが少なくなります。

天外伺朗さんによれば、そのような心理的状態に人が入っていた典型的な事例が創業時のソニーの技術者たちだったそうです。当時のソニーは、市場のシェアを奪うためではなく、まさに技術者たちが自分の情熱をもてる対象に打ち込み、新しい技術を次々と開発していたそうです(昨日『HPクラッシュ』で紹介したhpも創業時からある時期まではそういう幸福な状態が続いていたのでしょう)。

また天外さん自身もコンパクトディスクの開発でフロー状態に入り、次々に難問を解決してCDの発明に至ったそうです(『光の滑翔―CD開発者の魂の軌跡』)。

チクセントミハイの“Good Business”は、こういったフローをめぐる議論を背景にして出るべくして出たのでしょう(チクセントミハイと天外さんの出会いについても『運命の法則』で述べられています)。なぜなら、「どうすれば人は幸せを見出せるか?」という問いは、現実の社会に生きる人々にとって「仕事と幸せはどうすれば結びつくのか?」という問いだからです。

この問いは“働いている”人だけに関わるわけではありません。なぜならすべての人が、たとえ自分自身は働いていないとしても、身内や社会の“働いている”人たちとの関わりで生きているからです。家庭の主婦や子供は働いている夫・父と関わって生きているし、その家族関係には夫・父と仕事との関係が大きく影響しています。

例えば不登校・イジメ・家庭内暴力といった問題を起こす子供の家庭の父親は、必ずと言っていいほど仕事での悩みを抱えているそうです。逆に言えば、人が仕事上で幸せに生きることができるなら、現在の社会の多くの問題が解決するのではないかと私は思います。

“Good Business”は“幸せに働くこと”とはどういう心理的状態を指すのかを素描した本だと言えます。これまでフロー理論を見聞きした人にとっては意外な議論は出てきません。

人がフローな状態に入っている際に見出されるメルクマールの一つは、自分がしている仕事の意味が明確になっていること。「意味」と言ってもこれはべつに深遠な思想を指しているのではなく、要するに自分がしていることは何なのかををその人が納得していること、という意味だと思います。

例えば和田裕美さんは、新人のセールスマンに対して経営者の感覚を付けさせることの大事さを説いています。社員を単に給料をもらう存在にするのではなく、会社の経営にはどれだけのお金が必要であり、どれだけセールスをすればどれだけ会社の運転資金となり、そこからどれだけ社員に給料として回るのか、、会社におけるお金の流れをハッキリさせることで、一人一人の社員の働きが会社にとって不可欠であることを意識させます。それによって社員は自分が割り当てられた仕事の“意味”を明確にでき、“納得”した感覚で仕事に向うことができます。

べつにチクセントミハイがこういう事例を述べているわけではありません。良くも悪くもこの本は抽象的な話に終始しているので、現場で働いてる人にはじれったいかもしれません。ただ、彼の言うフロー理論の要件である、仕事に対して主体的にかかわるということと、和田裕美さんが実践していることとは結びついているように私には思えました。

また、チクセントミハイは仕事の目標をハッキリさせることの大事さも説きます。ただこの目標というのも、単に「前年比売上何%アップ!!!」という数値を指しているのではなく、むしろその仕事上の技能・力量・ノウハウの向上といったことを意味しているのだと思います。

数値ではなく技能・ノウハウの向上と言うのは、後者ではそれによって主体の「内面が複雑化していく」ということが観察されることがポイントです。「内面の複雑化」とは、その仕事に深く関わることで、技能が向上するのに応じて、能力の向上という充実感と、それに伴う生の充実感とが感じられ、自分が人間としてより高度化していくような感覚です。このような状態が目標として設定されることで、社員は自分が進むべき道を“納得”することができます。

こうした目標の設定とリンクするのが、周りがその人に対してつねにフィードバックを与えることです。周りから仕事の評価についてフィードバックをもらうことで、社員は自分が行った仕事についてより詳細で多面的な解釈をすることができ、自分が行ったことの“意味”をより正確に理解し、自分の位置を把握でき、自分の行為について“納得”した感覚を得ることができます。

これらのフローのメルクマールを見ていくと、それは社員が自分がしていることに対する“納得”の感覚を得ることだと言えるかもしれません(“納得”という言葉をチクセントミハイが使っているわけではありません)。単に馬車馬のように道具として働かされるのではなく、“納得”という主体的・能動的な感覚を社員が持ち、自分の仕事をコントロールしているのは自分であると理解できることが大事なのでしょう。

もちろんどんな仕事でも主体性・権限をもたせればいいわけではなく、あくまでその人のその時点の力量に見合った任務を与えることが重要です。言い換えれば、どんなに未熟に見える人でも、その人が自律的に行動する自由を得られるような課題を与えることが会社にとって重要になります。

また同時に、その人の力量に合った仕事でなければ、その社員は仕事から喜びを得ることができません。

“Good To Great”の中で著者のジム・コリンズは、経営にとって大事なのは仕事に合った人を採用すること、こちらからモチベイトしなくても動いていく人を選ぶことだと述べ、またその仕事に合わない人を雇い続けることは、その社員の有限な貴重な時間を奪っているのだから、そういう人は仕事から外すべきと言います。一見厳しい言葉ですが、“幸福の感覚”を分析するフロー理論の立場からは正しい指摘だと言えます。

このことは、もちろん会社の側からの解雇を一方的に正当化するわけではありません。むしろ会社には、雇った人が幸せになれる任務を与える責任があると言えます。この点から見れば、会社の目的とは利益の最大化ではなく、社員に自分の仕事への納得した充実の感覚、技能・力量の上達と結びついた幸福の感覚を与えることになります。上場による資金集めは、そのための手段です。

こう書いていて思ったのは、成果給と仕事との関係。大竹文雄さんは『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』のなかで、仕事の成果が分かりにくい若年労働者には年功賃金がよく、成果がわかりやすい管理職には成果主義がよいと述べています。

これはようするに、自分の仕事を自分でコントロールできる立場(管理職)とできない立場(若手社員)との違いと置き換えられるかもしれません。もう少し言えば、自分で自分の仕事をコントロールしているという感覚を得られている場合には、ひょっとしたら人は成果主義を素直に受け入れられるのかもしれません。スポーツ選手のように。

しかしこの“コントロールしている”という感覚は、単なる権限の問題ではなく、フロー理論の立場から言えば“どこかしっくりくる”ことをしていることがポイントになります。

人は自分の資質に合うことをしているとき幸せになれるのだとすれば、その人にとってもはやお金は重要だけど二次的なものになるかもしれません。そういう人は能力給でも年功賃金でも受け入れられます。

しかし自分にあったことをしていると思えず、どこかいつも疲れている人は、仕事の内容が自分に合っていないのにさらに成果主義ではとてもついていけないでしょう。

重要なのは成果主義か年功制賃金かではなく、その人に合った仕事を人は見つけられるか、また会社はそういう仕事を与えることができるか、のように思えます。


参考:・『楽しみの社会学』 チクセントミハイ(著)

   ・『人材は「不良(ハミダシ)社員」からさがせ―画期的プロジェクト成功の奥義 』 天外司朗(著)

   ・心理的な安心感の大切さ 『「フロー経営」の極意』 天外伺朗(話し手) 

   ・「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

“Good To Great” by Jim Collins

2006年05月26日 | Audiobook


“Good To Great: Why Some Companies Make The Leap...and Other's Don't”というオーディオブックをこの2月ぐらいからずっと聴いていました(毎日というわけじゃないけど)。ビジネス書ですが、とてもとても面白い内容です。

これは知っている人はご存知のように、日本でもベストセラーになった『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』の原書です。アマゾンのレビューを見るとビジネスマンの間では知らない人はいない本だったんですね。私は全然この本のことを知りませんでした。しかし聴いてみるとたしかにベストセラーになるのも頷ける充実の内容です。

オーディオCD版はCD8枚で約10時間。つまり原書が全文朗読されています。それもナレーターは著者のジム・コリンズ本人なので、彼が何を強調したいのかがよく分かります。英語がとてもゆっくりと話されているので、英語に自信のない方でもとっつきやすいんじゃないでしょうか。プロのナレーターとは違って彼の声は少し濁声(だみごえ)ですが、何度も聴いているとそのクセも気にならなくなりました。


メモを取りながら聴いたわけではないのですが、印象的だった内容について。

この本は、数ある企業の中から、70年代から90年代にかけて(目安は15年)、「そこそこ」の業績だった企業(“Good Company”)から驚異的なパフォーマンス(約3倍の業績)を示す企業(“Great Company”)へと変貌を遂げた企業11社(だったと思う)を選び、それら“Good To Great Company”を、「そこそこ」の業績しかずっと上げることのできなかった企業(“Good Company”“Comparison Company”)と比較することで、“Good To Great Company”の特徴(原因とはちがう)というもの。

“Good To Great Company”の例としては、HP、Phillip Morris、Walt Disny、Johnson & Johnson、Kimberly-Clark などが挙げられています。

・15年間で当初より3倍以上の利益を上げた企業

15年という単位を筆者が重視したのは、数年で急成長した企業でもその後急落するという例がよくあるから、それなりの期間成長し続けている企業の方がバブルであっという間に巨大になった企業よりも、筆者にとっては企業の理想型として分析に値するということです。

そう考えると日本で言えば楽天だってまだ10年経っていないし、グーグルなんて5・6年の企業なので、持続的に発展し続けるかどうか分からないんですね。アマゾンにしても赤字を脱したのはこの1・2年です。ソフトバンクは今でも赤字を続け、さらに2兆円という巨大な借り入れを行いました。これらの今をときめく企業は“Good To Great Company”には含まれないんですね。


・Not charismatic leader

著者が反面教師として何度も挙げるのはクライスラーの経営者だったアイアコッカ。そのカリスマチックな魅力でクライスラーの業績を回復したアイアコッカは、破格のボーナスや退職金をもらい、本を出すなど“スター”になりました。しかしクライスラーはアイアコッカが退職すると同時に彼がクライスラーに来るよりももっと業績が落ち込んだそうです。

要するにカリスマ的なリーダーシップで一時的に組織を立て直したよう見えても、それはその場限りの利益獲得にはつながっても、組織運営の継続的な改善にはつながってなかったということですね。リーダーが去ればまた組織が崩れるというのは、それだけその元リーダーが組織の組み立てを行わずに短視眼的にしか経営を行っていなかったことを意味します。

経営者が恰もスターのようにメディアに登場する傾向は、日本では堀江さんで頂点に達したし、私達国民は彼によって会社経営・株式市場というものへの関心を呼び起こされました。その点では堀江さんがもたらした影響には教育的なものもあったと思います。彼のおかげで、誰もが“ビジネス”というものに興味を持ち、それに対して自分はどういう思い込みで生きてきたのか反省させられました。あまりよく考えずに大学に入り組織に入る人生が当たり前と私たちは思っていましたが、そうではない人生があることを彼は教えてくれました。

キヨサキさんや本田健さんがソフトに広めた社会構造のお話(「従業員」「自営業」「ビジネスオーナー」「投資家」という社会の分類)を、もっと派手な形で堀江さんは教えてくれたわけです。

しかしかれの逮捕によって、その負の面も知るようになりました。ライブドアの企業パフォーマンスは株式の時価評価に依存し、ビジネスの実体は貧弱だったこと。ポータルサイトのショッピング・ビジネスや広告ビジネスもヤフーや楽天のニ番煎じで大きな業績を上げていたわけではないことに私たちは気づきます。

また頼みの時価評価額も、会社の実体を伴わずに、株式分割で不当に吊り上げられ続られていたに過ぎないこと。

まぁこれらのネガティブな情報もあくまで二次的情報として伝わってきているので、これ自体も信憑性が確かかどうかは検討の余地があるのですが。

いずれにしても、ライブドアが、そして他のネット企業が強烈な一人のパーソナリティに引っぱられて急成長したのは事実ですが、それは“Good To Great”の重要な条件ではないということです。

一人のカリスマがいなくなると同時にその企業の業績が下がれば、そのカリスマは企業と株主にとって本当には貢献をしていなかったことになります。その点では、カルロス・ゴーンが本当に偉大な経営者だったかどうかは、これから明らかになるということですね。

それは現在の自民党にも言えることでしょう。旧来の自民党の支持基盤を破壊して一時的に驚異的な議席を獲得しましたが、それは自民党が浮動票頼みの組織に変わったことを意味します。

元々政策の一貫性ではなく時流におもねることで躍進したのですが、昨年の選挙で完全に組織としてはあやふやな考えの議員で固められるようになったのではないかと思います。

実体のない話(「郵政民営化が構造改革である」)を争点にしたからこそ、よけいに幻想が膨らんだわけで、しぼむときはあっという間にしぼむでしょう。

いくら小泉さんでも同じ手を何度も使えないし(実際、小泉さんが選挙で勝利を収めたのは昨年の選挙だけだった)、彼ほどの天才的な劇場演出力がなければ、次の首相はかなり苦労する気がします。

もし次の首相が政策運営・国会運営・選挙で苦戦するようなことがあれば、それは現在の首相が組織を根本的に改善せず、場当たり的に“利益”を求めていたにすぎないからだという議論もできます。


著者のジム・コリンズは“Good To Great Company”の経営者は決してアイアコッカやジャック・ウェルチのようにメディアの表に出ることもないし、カリスマ的な魅力をもっていたわけでもないと言います。

むしろそれら“Good To Great Company”の経営者に共通するのは謙虚humbleなことでした。

彼らは自分の力で成し遂げたことを語るのではなく、いかに自分が恵まれていたか(“Good Luck”)を語る。なんだかみも蓋もない人生訓のようですが、そうした傾向が“Good To Great Company”のCEOには共通しているみたいです。

また必ずしもハードワークで一日3時間しか寝ないような生活をするのではなく、つねに家族との生活を大事にするなど。こうして、通常わたしたちが思い描くアングロサクソン的なエリート・ビジネスマンとは対照的な、むしろ控えめで私生活を大事にし、周りの社員と協調し、といった特性が著者によってクローズ・アップされます。

こういう箇所を聴いていると、アメリカ人自身もどこかでアメリカのビジネス競争社会が狂っていること、外部から来たCEOが何万人というレイオフを行い、同時に何億という退職金を手にして、決して下からは入れない上流社会を形作っていることの異常さを感じているのではないかと思わされます。

むしろ著者は、“Good To Great Company”の経営者は従業員との一体感があること、またその会社のよき文化が守られること、そのためにも優れたCEOはその企業内部からしか生まれないことを説きます。


・最初に重要なのはバスをどこに走らせるかではなく、誰をバスに乗せるか

上記のような経営者像を語られると、反アングロサクソン的なキレイ系のビジネス書のようにも見えるかもしれません。しかし同時に著者は人の採用・解雇についてシビアなことも指摘します。

それは、「最初に重要なのはバスをどこに走らせるかではなく、誰をバスに乗せるか」という原則。これは要するに、どういう経営戦略を採るかよりも、どういう人を会社のメンバーにするかが大切だということ。

この「誰をバスに乗せるか」に関して大切なポイントは、決してその人をモチベイトする必要がないこと。ビジネス書のコーナーに行けば最近ではコーチングの本が溢れかえり、またそれ以前にも部下のヤル気を引き出すためのマニュアル本はたくさんあったのでしょう。

しかしジム・コリンズは、大切なのは社員のヤル気を引き出すことではなく、ヤル気を引き出すような必要のない人を会社に入れることだと言います。つまり最初からその職務に適した人をそのポジションにつけることが大切なのであって、採ってから教育することは無駄であるということ。

この内容について著者は詳しく語っているわけではありませんが、こちらからモチヴェイトしなければ動かないような人は最初からそのポジションにつけてはいけないということでしょう。

むしろ著者は、モチヴェイトしなければいけないような人はそのポジションの適性がないのだから、その人のために「バスから降ろす」(降格?解雇?)べきだと言います。なぜなら自分の適性にあっていない仕事をやらされることは、その人の人生にとってもマイナスだからだと言います。

この点を著者はさらっと言います。そんなこと言われても実際に降格や左遷されたら当人はとても打ちのめされると思いますが、むしろ著者は楽天的に誰にでもある種の適性があり、それにあった仕事に就くべきだと思っているのでしょう。

ともかく会社運営で必要なことは「正しい人」を会社に引き入れ、彼らが熱くなり過ぎることのないよう気をつけることであって、彼らを熱くすることではありません。そんな無理なモチヴェイトをする必要が生じている時点で運営の失敗の目が出ているということです。

・得意なことを磨く(“Hedgehog Concept”)

必要なのは適性のある社員を入れることという考えとつながっているかもしれませんが、会社にとって大切なのは、「その会社が世界で一位になれるのは何か」を見出すことだとも著者は言います。

このように「世界で一位」になれる得意なことを磨くことを著者は“Hedgehog”(ハリネズミ)と喩え、それを“Sly Fox”と対比させます。“Sly Fox”とはたしかに優秀なのですが、やることに焦点がなく、いろいろ優れた戦略をもっていますが、その会社独自の強みがなく、そのため飛躍的に成長できない企業のことです。

著者は“Hedgehog Concept”とは“Sly Fox”とは違いもっと単純なコンセプトにのっとって行動することだと言います。強みを磨くことは、シンプルな得意技をかいはつすることなのでしょう。

“Hedgehog Concept”の説明で著者は、偉大な思想家は皆そうした単純なコンセプトをもっていると言います。アダム・スミスの「分業」、マルクスの「階級闘争」、フロイトの「無意識」etc…。どの偉大な思想家も単純な原理で社会を説明し、それゆえ後世の平凡な小秀才達からは批判されます。しかし彼ら偉大な思想家が偉大であるのは、単純でありながらたしかに社会や人間の説明として通用する原理を発見し、その原理をバージョンアップさせ続けたからです。20世紀アカデミズムの社会科学の細分化は、そうした“Hedgehog Concept”をもつ思想家を生む土壌を傷つけてきたのではないかと思います。

・文化をもつこと

またこの本では会社がどういう文化・理念をもつのかは重要ではなく、文化・理念・価値観を持つこと自体が重要であると述べ、フィリップ・モリスという企業を擁護します。こうした明らかに有害な薬物を販売する企業の存在が本当に望ましいのかは議論が分かれるところですが、著者は明確にフィリップ・モリスを支持します。

薬物がもたらす中毒症状ということを考えれば、インターネットやゲーム、映画、音楽などの産業だって中毒をもたらします。ポイントは対象の使い方にあるのであって、対象それ自体(タバコなど)ではないのかもしれません。神田昌典さんは、どんなビジネスをしたってすべての人を満足させることはできないし、絶対に批判は出てくると言いますが、それは実際にビジネスをしているから言えることなのでしょう。私には理解するのが難しい点です。



この本が出版されたのが2001年。その後の変化にこの本で取り上げられている企業がどれだけ耐えているのかは私はよく調べていません。この本ではその会社独自の文化を大切にするためにも、経営者は内部から生まれることが望ましいとされていますが、HPは外部からやり手経営者を迎え入れたことで話題になりました。

ただ、この本が指摘した“Good To Great”な会社に流れている原則は、単純に成果主義で競争を志向することでもないし、また単純に従業員主義の完全雇用・年功序列を目指しているのでももちろんありません。

聴いていて感じるのは、会社が伸びる原則として挙げられている点は、そのまま個人にも当て嵌まるように思えること。得意なことを磨くこと、無理にヤル気を出さなくてもできることをすること、幸運に感謝すること、周りの人や家族との時間を大切にすること、規律の意識をもつことetc…。これらはそのまま人生論として通用します。それだけ著者は企業というものを“生き物”として分析する視点を明確に持っていることなのでしょう。

その点では社会科学的な分析を期待する人には物足りないかもしれませんが、会社が伸びる原理の説明として、読む者(聴く者)の感覚にとても訴えてきて、いくつかの事例が挙げられただけで「そうそうそうだよなぁ」と頷いてしまう説得力があります。本能的にこの著者の言っていることは正しいのではないか、いや正しくあって欲しい、そう思ってしまいます(それはこの本の議論が必要な点でもあるかも)。

いずれにしても、時代が変化して一部の経営者が脚光を浴びる中で、より冷静に会社を見る視点を与えてくれる本であることは間違いありません。


参考:「Good to Great (邦訳ビジョナリーカンパニー2)~人生に生かしたい「Hedgehog(ハリネズミ)」の概念」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

“Flow” Mihaly Csikszentmihalyi(著)

2006年05月02日 | Audiobook


アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイの“Flow : The Psychology of Optimal Experience”というオーディオブックを聴きました。テープ2本で2時間弱の長さ。ナレーションは著者のチクセントミハイ自身が吹き込んでいます。プロとは違いクセはありますが、極端ななまりもなく、また英語は彼の母国語でないため、それだけ文法的に整理された言葉をしゃべっている気がしました。

テープの内容は、おそらくチクセントミハイの知見の中で一番基本的なかつ重要な点だけをとりあげて述べている、初心者向けを意図しているのかもしれません。しかしそのアイデア自体が面白いので、専門家や素人に関わらず興味深いんじゃないでしょうか。

このブログでも彼については再三言及してきましたが、今回あらためてテープを聴いて思ったのは、人間の活動の短期的な目標の重要性を指摘していること。

ご存知のように、「短期的な目標」といっても、彼が言うのは「残り3日で目標売上げ達成!」とかいうものに限定されるのではなく、むしろ彼自身が言うように、テニスの打ち合いで来た球をとにかく打ち返していくようなイメージです。

テニスをしている人が“フロー”な状態に入ったとき、「試合に勝つ」こと自体が極端に彼の頭を占めることはありません。むしろ、「試合に勝つ」というより、自分の技能の限界に挑戦するように、来た球に対して最大限のテクニック・インテリジェンスを働かして対応を考え実行に移します。そのような一つ一つのハードルに対する“挑戦”自体にプレーヤーは快感を感じていきます。

そのときのプレーヤーは、敵と争っているのではなく、むしろ彼にとっては相手プレーヤーも自分の技能の限界を試すきっかけにすぎなくなり、彼の中心的な関心は己のプレー・技能の向上にのみ向います。

それでは他者との比較という観点が頭から消え、「自分」を「特別」によく見せるという虚栄も消え、ただ“活動”それ自体に意識がフォーカスしていきます。

活動から“競争”という契機が消えること、それは“フロー”という発見の中で注目すべきポイントだと思います。私たちは誰もが他人と闘い、それが社会の諸問題の根源にあるといってもいいのですから。

そういえば、最近引退を発表したサッカー選手のジダンは、「プレーをしていると自分でも次に自分がどういうボール捌きをするのかわからなくなる」と言っていました。

彼のプレーが最高に達したとき、そこには“敵”がいません。まるで時間が止まったようにみなジダンのプレーについていけず、そこでジダンは人間業とは思えないテクニックを見せます。周りが一生懸命サッカーをしているときに、彼だけはそこでバレエを踊っているようです。つまり、“フロー”な状態のジダンは、他人と争わず、ただ自分とボールと見方のプレーだけにフォーカスしているということ。

こうした“フロー”の特性は、私達に、“苦労”“挫折”“努力”“根性”というものが成長には必要であるという思い込みとは対極にあるものかもしれません。

もちろん、人の人生はそれぞれのプロセスがあり、そこには必然が働いているかもしれない。多くの人は“挫折”を通じて人生の波に乗れるのかもしれない。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』がいつも教えてくれるように。

ただ、そうした“挫折”を経験してフローに乗った人も、挫折や努力自体が人生の自己目的ではなく、ただ“活動”“行為”の中で自分の技能を高める快感を感じることが大切だということは知っているのかもしれません。

ミハイは、フローの条件として、個々の活動に対するその都度のフィードバックがあることを強調します。一歩一歩階段を上る過程それ自体に活動の喜びの醍醐味があるのであって、階段を上りきること自体は、フローな活動の結果です。人生の喜びは、頂上まで上る過程の中にあります。

多くの人を幸せにしてくれるものの一つは、“人生の意味”を知ることではなく、“人生の真理”を知ることでもなく、一歩一歩階段を上るときに快感を感じられるような、そんな活動にめぐり合うことだと、そう著者は教えてくれます。

だとすれば、大人が子供に対してできればいいことは、そのような“快感”を見つける手助けができることですね。

たしかに「格差」は問題です。しかし同時に、「成功者」「勝ち組」にならなければいけないと教えること(このことを今のメディアは煽ってしまっている)も、人を幸せから遠ざけてしまう。たとえそれで人が「成功」できたとしても。

社会計画者は活動をしない者をなんとか職業世界に呼び込もうとします。それ自体はいいとして、では今働いている人の多くは、自分の活動の技能向上に“フロー”なものを感じているのか。もしそうでなければ、政府や経営者は、現在働いている人たちが仕事に喜びをえるために何ができるのか(or何をしてはいけないのか)。

現在存在している職場の多くが、働くことに幸せを感じる人で満たされれば、無業者の増加や失業の問題、経済成長の問題に改善が見られるのではないでしょうか。


参考:「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』 かなり詳しくテープの内容が紹介されていて、チクセントミハイの考えのポイントが整理されています。

“Management Challenges for the 21st Century”

2006年04月19日 | Audiobook


ピーター・ドラッカーの1999年の著作のオーディオ版“Management Challenges for the 21st Century”を聴きました。テープ4本で7時間強の内容です。

ナレーターはプロの人なので、英語自体はかなりクリアなのですが、おそらくテープ4本に収めるためにか、わりと早く喋っています。わたしはおそらく7、8回通して聴いたと思うのですが、結局すべてをちゃんと理解できなかったように思います。

もともとオーディオブックを聴こうと思ったきっかけは、本を読む場合は頭から身体から色々な神経を使うので疲れるけれど、耳から音を聴くのはよりラクに知識を吸収できると思ったから。しかし英語とは言え、かなりの時間を費やしてそれでもあまり理解できないと、たくさんの時間を無駄にした感じで空しくなります。

翻訳は『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』という題名で出ていますが、英語を聴くのにたくさんの時間を費やしたにもかかわらず理解できず、翻訳を一度読んで理解できたら、「一体あの時間はなんだったんだ?」と余計に空しくなるかもしれません。まぁ、語学の勉強もかねているので、外国語に慣れる過程と思って割り切るしかないですね。

私はドラッカーについて全然詳しくないのだけれど、おそらくこの本は最近の経済先進国の状況変化について様々なトピックをドラッカーが要領よくまとめたものと言えるかもしれません。思想的な深み?は感じられなくとも、現在の経済と社会をめぐる変化を知るにはいい1冊かもしれません。

冒頭にドラッカーが指摘するのは、これからの時代は「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」という信念がますます通用しなくなるということ。

これはドラッカーが指摘するように、心理学者のマズローが『完全なる経営』の中で述べたテーゼです。

この本でマズローはドラッカーを批判しているのですが、それはドラッカーがより民主的で個々の成員の自律性を重んじる経営方法をそれまで提唱していたのに対し、マズローはドラッカーの述べる経営方法は社会が安全で人間の基本的欲求が十分に満たされている社会でしか通用しないというものです。ドラッカーはマズローのこの批判を認めて、マズローの上記の著作が出て私の考えは時代遅れのものとなったと述べています(マズローの著作が出たのはおそらく1960年代)。

ただ、この本でドラッカーが援用する「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」というマズローの言葉は、マズローの含意を越えているようにも聴こえます。

ドラッカーがこの言葉を使うのは、知識労働者がこれからは主体となるという彼の考えと関連しています。すなわち、工場にせよ会社にせよピラミッド型で社員に指示を出す20世紀的な経営手法は、それもまた「唯一の正しい経営スタイル」として考え出されたものでした。管理・統制を主眼とするこのスタイルは、テーラー主義で頂点を極めるもので、科学的な態度で社員を道具として上手く使いこなすことを目標とします。社員が道具でありモノである以上、社員とはつねに一定の操作によって決まった動作をするロボットであり、そのロボットを効率よく働かせる方法は限られるということになります。

それに対しドラッカーの言う知識労働者(この言葉ももはや使い古されているかもしれませんが)が支配する経済状況では、社員をロボットのように使っていては、知識労働者本来の主体性が発揮されません。知識労働者が支配的になるのは、彼らの持つ特殊性によって競争相手とは異なるサーヴィスがもたらされるからであり、また変化の激しい時代状況では末端の社員自身がイニシアティブをもってはじめて経営は機能します。

(参考:『会社はこれからどうなるのか』岩井克人(著)“joy”

したがって20世紀では「経営者はいかに社員を上手く使うか」という問いが重要でしたが、21世紀には「どうすれば社員の個性に経営を合わせられるか」という問いが重要になります。

知識労働者それぞれの持つ個性に経営を合わせることが重要である以上、経営スタイルに決まった正解はなく、集まった社員によって経営形態を変えざるをえません。ドラッカーが強調する「唯一の正しい経営方法は存在しない」という言葉は、そういう意味ではないかと思います。

ドラッカーがこの“知識労働者”という概念を強調するのも、20世紀的な常識が通用しなくなる変化の時代には、大衆一人一人が“知識労働者”になることが必要という認識からでしょう。

人口の現象が顕著になる時代である以上、これまでの大量生産方式は通用しないので、会社も人も、それぞれの“他にはないサーヴィス”を生み出すことが求められます。そのためには、社員は“知識労働者”として会社と対等な立場で契約を結びながら、それぞれの専門性を発揮させることが求められます。

また会社もそういう人財を囲うには、社員と対等な立場でパートナーシップ契約を結ぶような経営スタイルをとることを迫られます。

また“知識労働者”という労働スタイルが主流になることは、人々の生活スタイルが会社の枠ではなく、会社以外の人との結びつきが密接になっていくことを示しています。

それは一つには会社とは対等なパートナーであるため会社に縛られないというと同時に、自立性をもつ“知識労働者”が主流となる社会というのは、社会・大衆がもはや均質なものではなく、生活スタイルが個々人によって異なるため、会社の中だけではなく会社以外で地域の活動に関わらなければ社会の動きを知りえない状況になるからです。

個人が会社に縛られない以上、個々人の活動はよりボランティアなどの組織とのつながりを増すという傾向もみられる可能性があるということです。このような企業以外での個人の活動が増えることと知識労働者の増大とは結びつきます。

またこのような趨勢は、高齢化社会の進展によって“第二の人生”を送る人が増えることで余計に強まっていきます。

もちろんこのようなドラッカーの描写は、多少薔薇色めいていて、現実を正確に写すものかどうかは分かりません。“知識労働者”が主流となることは、自律性をもたない人は落ちていく社会だからです。

ただそれも、個々人が個性を発揮できる社会というのは、これまでのビジネスの常識では考えられないような活動がビジネスとして通用していく時代だと受けとることも可能かもしれません。

“知識労働”というのはべつに弁護士や会計士だけを指すのではなく、むしろより抽象的に個々人の頭脳の働きによって生み出されるもの一般と考えたほうがいいと思います。

その頭脳の動きはデスクワークを基盤とする必然性はないし、身体を動かすことも伴うことがあります。お医者さんやロルフィングのトレーナーが頭脳と身体をともに動かすように。

ドラッカーの描く成果は理想的でありますが、それは彼にとって可能性を帯びた理想なのかもしれません。



参考:「明日を支配するもの~Management Challenges for the 21st Sentury by ドラッカー」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

“It Takes a Village” Hillary Rodham Clinton 

2006年04月04日 | Audiobook
“It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us”というオーディオブックを聴きました。著者はヒラリー・クリントンで、彼女自身が吹き込んでいます。長さは全体で3時間強ぐらい。

1996年の著書なので、まだビル・クリントンが大統領だったときに出された本ですね。『村中みんなで』という邦題で翻訳も出ています。

内容は、合衆国が直面する教育の問題についてヒラリーが直截に語るというもの。そこに目新しい指摘はありませんが、どれも未解決の問題ばかりです。

・子供を育てる環境として、極端に貧富の差が進行し人種差別もあるアメリカ社会は相応しいか?

・多くの女の子が20歳になるまでに妊娠し、そのほとんどの子が出産・育児に関する公的サーヴィス等の知識をもたないこと。

・テレビニュースで暴力事件を扱う時間の増大。それは暴力によって視聴率が稼げるからだが、それによる子供への悪影響について。

・育児をめぐる女性の不公平。男女の役割分担による育児の女性への負担。

・離婚訴訟において子供が夫婦間の闘争の駆け引きの手段として使われている現状。

などなど。

ヒラリーの問題意識は、新しいものではなくとも、ひじょうにクリアにアメリカ社会の問題をとらえ分かりやすく私たちに教えてくれます。

これを聴いていて、彼女は社会的な善、社会的な公正さという感覚がひじょうに鋭敏であるのだな、ということ。バランスのとれた道徳的感覚をもっているのだなということです。

知識人をひきつけるような本は書かないかもしれませんが、社会が現実に直面する問題については、ヒラリーは何が問題かについて的確に指摘していきます。

あえてこの本で気になることを挙げるとすれば、あまりにも完璧すぎることでしょうか。

彼女の言っていることはすべて重要で、彼女の意見もすべて正しいものに思えます。その破綻のなさが、聴いていて一種の窮屈さをもたらす所があるかもしれません。

ただ、国家の繁栄や防衛といった観念的な利害を顧みず、あくまで社会に着る人々の問題を、子供の教育という点から取り上げる視点は、彼女が弁護士として現場で社会と関わってきたことで培われたのでしょうし、それは彼女が狭い政治の世界だけで生きてきたわけではないことを表わしているように思います。

一貫して社会の中で見捨てられている人たちを、“教育”という視点から取り上げようとする姿勢には潔いものも感じます。

子供が適切な環境で育てられていないという彼女の関心は、おそらくアメリカ社会がその底辺は“貧困の環境”とも言うべき状況にあることから来ているのでしょう。無視できない数の人々がアメリカでは飢えに苦しみ、子供に満足な食事・教育を与えることができていない状況にあります。それは、子供を産む人自身が社会で生きていくために十分な教育を受けず、それだけ社会生活を営む基盤をもたないままに子供を作ってしまうことで再生産されていく状況です。

アメリカの一部は、まさに生きるか死ぬかという状況で多くの人が生きていることが想像されます。

ヒラリーの語り口は明晰で冷静なので、当たり前の問題のように語られていますが、「文明国」「民主主義国」と自認している国で底辺層が貧困と暴力の中で生きていることに、この本を聴くと気づかされます。

まさにアメリカが危機的状況にあることを教えてくれる本だと思います。


涼風

“Leadership And Self-Deception”

2006年02月20日 | Audiobook
愛のない行為とは、じつは愛を求める叫びなのです。

こうした人々は、死んだような無感覚な状態や、攻撃的な気分におちいっています。あなたが困難にぶつかったとき、どんな気持ちだったかのかを思い出してみてください。まだ言葉も話せなかった子供のころ、助けを求めて叫び声をあげていたことを覚えていますか。いまあなたを攻撃してくる人もそれと同じように、あなたからの愛を求めているのです。

攻撃していたのは、本当はあなたの助けを求めていたからだ、ということに気づいてあげてください。

『傷つくならば、それは「愛」ではない』9頁チャック・スペザーノ (著))


自分を攻撃してくる相手を「問題のある人」と見るか「愛を求めている人」と見るかで、自分がどういう人間になるかが決まります。

相手を「問題のある困った人」と見ると、相手は間違っており、性格は悪く、育ちも悪く、無知で粗野な、低能な人となります。

それに対し「愛を求めている人」と見ることは、相手は自分と同じ人間であり、自分と同じように弱さを抱えており、同時に相手の中に可能性を見出すことを意味します。

前者は自分を「正義の批判者」にします。後者は自分を「他者を助ける人」にします。


“Leadership And Self-Deception: Getting Out Of The Box”(The Arbinger Institute (著))というCDブックを聴きました。邦訳は『箱―Getting Out Of The Box』という題名で出版されましたが、現在は品切れなので、邦訳をお探しの方は図書館に当たられるといいのではないかと思います。かなり評判の本で、アマゾンのレビューも絶賛が並んでいます。

私は英語のオーディオブックだけ聴きましたが、何回も聴いてなんとなく大意は聴き取れたように思います。

内容は、会社の上司が新しく管理職に就いた社員に対し、その企業の管理職が心得ておくべきメソッドをマン・ツー・マンで伝授するというもの。しかし実際はその会社の創業者でメソッド開発者も登場してきます。

一言で言えば、そのメソッドとは、人間関係において、他人を問題のある人物と見なすとき、じつは本人自身が問題を抱えているということを論理的に説明するというもの。

著者によれば、他人を「問題のある人物」と見ることは、たとえその人がニュートラルな視点をもっていても、じつは不可能なことです。なぜなら、相手が「問題を持っている」という解釈自体が、必然的に善悪という価値基準を持ち込んでおり、相手をあく・自分を善という図式を使っているからです。

こうした心理メカニズムを著者は、‘to stay in the box’つまり「箱の中にいる」と表現します。

「箱の中にいる」とき、人はニュートラルなレンズを持たず、他人に問題があり、他人に問題があると分析できる自分は正しいと必然的に見なします。自分の分析は論理的に正しく、また道徳的にも正しいというわけです。こうした自己正当化こそ、人が「箱の中にいる」ことのメルクマールだと著者は述べます。つまり箱の中にいて盲目の状態だというわけですね。

また「箱の中にいる」人にとって「問題のある」相手は、自分を正当化するための‘object’つまりモノ・道具にすぎません。

ここで見られる現象は、ようするに「箱の中にいる」人というのは、フォーカスが自分にだけ向いており、論理的にも道徳的にも社会的にも、それゆえ会社にとっても正しいことを自分はしていると思い込んでいるのですが、実際は自分を守ることが最重要関心事になっており、同じチームの相手は自分を引き立てるための道具に貶めているということです。

しかし人は自分が「箱の中にいる」ことには気づきません。なぜなら、もちろん彼にとって「正しい」ことが一番大事であり、何かを「正しい」「間違っている」と解釈すること自体が所詮は自己正当化の手段に過ぎないことを認識できないからです。

それに対し「箱の外にいる」というのは、上記の「箱の中にいる」状態とはことごとく反対の状態を表わします。

「箱の外にいる」ことは、自分にフォーカスせず、自分の正当化ではなくチームの利益を考えます。チームの、そして他者の利益を考えたとき、重要なのは善悪・正悪の判断ではなく、他人を助けるべき存在、あるいは‘object’ではなく「人」として扱い、感情を持った存在として接します。

「箱の中」と「箱の外」を分けるのは、同じチームの人を「問題のある人」として自分を正当化する道具とみなすか、あるいは助けを求めている存在である「人」とみなすかです。

そして、もっとも問題のあるのは「問題のある人」ではなく、他人を「問題のある人」とみなす態度をもつ本人であることを著者は示します。すべての問題の根源は、その一点に集約されるとみなします。

これは単なる道徳論にとどまらず、組織の運営にとって不可欠な視点であると強調されます。

組織の肥大化と腐敗というのは、成員が自己保身と正当化に走るときに生まれます。著者の論理に従えば、この腐敗は、まさに成員が他者を善悪で裁くメンタリティを身につけ始めるときに始まります。そのときその成員は、チームにとってのメリットを考えているようで、実は自分の「正しさ」のみにフォーカスするようになっているからです。そこにはチームワークも生まれないし、結果的に組織の崩壊が招かれます。

他人を「問題のある人」とみなす人こそが問題を抱えているというシンプルな視点が組織運営を論じる上で取り上げられているのは、こうしたメンタリティと組織運営の結びつきの程度がその組織の成功を決めると著者が考えているからではないかと思います。

私は翻訳も手にとって、もう一度この著者の意図をじっくり考えてみたいと思います。

このCDは4枚で、およそ5分毎に区切られています。またナレーターは一人なのですが、声を巧みに変えて何人も登場人物が出ているように演出されて、ラジオドラマのようになっています。とても丁寧に作られているCDブックだと思います。

涼風

参考:「Getting Out Of The Box ~ 自己欺瞞の「箱」からの脱出」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』