joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

モーツァルト

2005年08月30日 | Music
最近は本を読むときにモーツァルトを聴きます。机に座っても落ち着かない性質なので、音楽をかけることで脳を秩序化して本を読み始めます。

なんてわかったことを書いているけど、それでホントに本に集中できているのかどうかはわかりません。単なるながら勉強だったりして。

でも、モーツァルトや最近レンタルしたバッハを聴いていると、そのメロディは驚異的だ。あれだけ長い曲なのにまったく飽きさせず次から次へとメロディを繰り出し、聴くものの心をどこかへと連れて行ってしまう。

どうして彼らのことを“クラシック”と呼ぶのだろう?調べればすぐわかるのだろうけど、“クラシック”なんて滑稽なジャンル分けだと思わされます。19世紀終わりごろからなんでしょう。では、ピアノや弦楽やオーケストラを用いて作曲する人は現在は存在しないのでしょうか?“コンテンポラリー”とは誰を指すのだろう?

「現代音楽」というジャンルが、“クラシック”の延長上にあるのだろうか?でも、「現代音楽」の音楽なんて僕はまったく知りません。


“クラシック”のCDをレンタル店で選ぶときに困るのは、曲名が覚えられないので、すでにもっているCDと曲が重複するんじゃないかと不安になってしまうことです。「ピアノ協奏曲第19番」とか、番号で表わすじゃないですか。でも、効率よくいろいろな音楽を聴きたいという焦りがあるので、重複しないように選びたいという強迫観念が頭をもたげます。

でも愛好家にとっては、同じ曲をさまざまな指揮者や演奏家の解釈で多様に楽しみたいわけですよね。そういう感覚がまた、一般人には高い垣根を持つ趣味という印象をもたらします。

たしかに、同じ曲のバージョン違いのレコードをコレクトする熱狂的なロック愛好家もたくさんいるので、それと同じことなんでしょうか?そういわれると、僕もプリンスの海賊盤や輸入盤を何枚も買っているなぁ。

それで今日は、ついに「間違えて」自分の持っているCDと曲が重複するCDを借りてしまいました。モーツァルト交響曲第38番「プラハ」です。

でも、まだ一度しか聴いていないけど、たしかに指揮者が変わることで演奏の印象ががらっと変わるんですね。

愛好家の愉しみが少しわかったような気がします。


涼風

地に足がつく

2005年08月27日 | Book
「ひきこもり」や「ニート」について書かれた本を少し読んでみました。精神科医や経済学者、社会学者、NPO法人代表や。

読んでみて思うのは、どちらかと言うと精神科医の人たちが書いたものが地に足がついた印象を受けるのに対し、経済学者や社会学者が書くものは、対象となっている人たちの経済的問題にフォーカスし、彼らの状況の問題とそれが社会に及ぼすマイナスの影響に集中しているように見えました。これは、社会科学者が社会構造の分析を主にしているためだと思います。

精神科医の場合、外的条件以前に、人の心が治癒するとはどういうことなのか?よく生きるとはどういうことなのかを、一般的な社会的価値観から一度離れて考えることを強いられる場面に多々出くわすのだと思います。それに伴い、彼らは自らの生き方についても根本的に反省せざるを得ないのでしょう。

もちろん社会科学者の仕事は重要ですが、もし今現実に「ニート」や「ひきこもり」をしている人たちが彼らの著作を読むと、自分達は社会的に負債であり、負担でしかないことを意識させられ、落ち込んでしまい、彼らの生活の改善には役に立たないかもしれません(もともと社会科学者たちがそのことを目的としていないかもしれないのですが)。

このことは、別の点から見れば、社会科学者自身も一般的な価値観に縛られているからだと思います。「お金のない人間の人生は悲惨であり、社会的にも負担である」という価値観に縛られているがゆえに、そうした視点を軸とした現状分析を行います。

しかし、そうした価値観は誰も簡単に逃れられるものではないし、そうした社会科学者の仕事自体は重要だし必要だと思います。

ただ、現実的な改善には、精神科医や活動家の人たちの仕事のほうが役に立ち、また彼らのほうが地に足がついて今の若い人たちの問題を正確に見つめているように感じました。

もっとも、精神科医や社会科学者と言っても、数冊の本しか読んでいないので、これからもっといろいろな人のものを読めば印象はがらっと変わるかもしれません。


涼風

「指摘」と「攻撃」

2005年08月25日 | reflexion
他人への「指摘」と「攻撃」は区別できるものだと思います。

それが「指摘」なのか「攻撃」なのかは、本人だけが分かります。一見「指摘」だと主張しても、それが「攻撃」であることもあります。あるいは、「指摘」という形をとって「攻撃」を行うこともできます。「批判」と言われているもののすべてはそうなっています。

「指摘」あるいは「攻撃」されて傷つき怒るのは、それが図星だからか、あるいは「攻撃」されることに耐えられないほどその人のパーソナリティに広がりがないからです。だから、「指摘」あるいは「攻撃」されて怒るのは、怒る人自身に原因があります。

ただ同時に、いくらそれが「指摘」だと言っても、本当にそれが「指摘」なのか「攻撃」なのかは、「指摘」あるいは「攻撃」した人だけがわかります。その人が自分の感情に気づくことができれば分かります。

現代社会において実は一番必要なのは、この気づきの能力であると思うときもあります。何が正しいのかは、重要だけれども、最重要ではないとい意味です。


涼風

ビデオ

2005年08月23日 | 店舗を観察して
今日はとても涼しい一日でした。真夏日がありつつも、こうして秋に移行していくのかな。

行きつけのレンタル・ビデオ店で、料金が安くなりました。旧作は180円・準新作は一週間で280円・新作は2泊3日で280円です。

このお店は関西地方でチェーン店を展開しているけど、小さな店を閉めて大きな店に在庫を集中させたりしています。それは正解だと思います。やはり、大量にクルマの置ける駐車場を備えた大型店舗に大量の在庫をそろえたほうが、お客を引き寄せるのでしょう。

でも価格破壊はどこまで続くのだろう?レンタルビデオの場合、これからはインターネット配信の期間限定視聴が遠からず主流になるでしょう。働き人にとっては、わざわざお店に返しにいくのもうっとおしいだろうし。

しかし、ネット配信するのであれば、これまでのレンタル店ではなくポータルサイトの会社などが行うのかな。すでに始まっている音楽のように。だとするとレンタル店は安さやレンタルビデオ・DVDの宅配とかしないと競争できないかも。

あと気づいたのは、いよいよ陳列棚ではDVDが主流になっていることです。マイナーな作品だと、もうビデオを仕入れずにDVDだけを置いています。それはつらいよー。ぼくはDVDプレーヤーをもっていないのです。べつにビデオデッキは壊れていないのでビデオで全然構わないのだけど。

でもそうやって制約があれば、逆にこれまで見てなかった過去の名作のビデオを借りればいいんですけど。


涼風

コンクリート

2005年08月16日 | 見たこと感じたこと
ちょっと疲れ気味です。べつに何かをしているわけでもないのに。疲れ気味。

ちょっと涼しい日でした。午後5時ごろに外を歩きましたが、湿気がいつもより少なかった気がします。

きれいにコンクリートで舗装され、並んで木が植えられていると、そこに夕日が射せばとてもさわやかな色になります。赤黄金の色で緑が映え、コンクリートも冷たさではなく清潔さを感じさせます。

湿気の少ない場所に行きたいなぁ。


涼風

「?」

2005年08月15日 | reflexion
ふつう、言葉にはわたしたちの感情が伴う。

 「失敗」「倒産」「落第」「殺人」「借金」「離婚」「虐待」「暴力」…

これらの言葉でも、またもっとポジティブな言葉にも、それに接すると私たちのなかには感情が湧き起こっている。

その感情は、私たちがそれらの言葉に与える意味づけ・イメージから来ているように思う。そしてそのイメージは、私たちの経験によって形作られる。

よく言われるように、日常では私たちの頭には何万という思考が走っているそうです。そしてその思考のすべてに私たちの中で感情が湧き起こっている。ただ、日常ではそれらすべてに付き合っている暇はないので、私たちは自分の感情を無視して生活している。

町を歩いていて、ほとんどの人がつまらなそうな顔をしているのは、誰もが自分の思考が呼び起こしている感情に圧倒されているか、それを無視して顔が硬直しているからだと思う。

では、そのときまったく無意味な言葉を唱えるとどうなるだろうか・・・

 「○○○○○」

「」の中身は何でもいいのだけど、要するにそれに対して何も意味づけしにくいような言葉を頭には知らせるとどうなるだろうか?

わたしたちの頭は一瞬「?」となる。

「?」は大した感情を湧き起こさない。


涼風

ルール

2005年08月14日 | reflexion
「まわりの人に脅かされてびくびくしながら生きていると、人生はまるで、家族のために戦う戦場のように思えるでしょう。でもそれは、あなたがそういった「戦う」という態度を選択しているからなのです。

 今日、嫌いだと思っている人を、あなたのチームに入れると選択してください。彼らが負ければチームも負け、そのつけをあなたが支払わなければなりません」

(チャック・スペザーノ著『30日間で、どんな人でもあなたの味方にする法』


 今の僕にとっての敵はやっぱり“社会”というものになるのかな。社会・経済システムとそのシステムの中に地位を確保している人たち全員が、30代で働いたことがなく、システムの中に居場所を確保していないように感じている僕を否定する敵に見えているのかもしれない。

 それは、僕が自分のわがままな願望を押し通すことに罪悪感を感じているからです。

 社会全体をチームと見なすことは、社会統合を目指すとか、和を大事にする、ということとは少し違うかもしれない。

 「彼らも、そしてあなたも勝たなければなりません」(13頁)

 両方とも勝つというのは、両方が敗北感や屈辱感をもたないということだと思う。一方が勝手に設定した勝利を相手に押し付けることとは違う。

 どこかで自分は変わらなければならないのかな? 負けるのではなく、変化する、ということが一番難しく、また一番必要なのかもしれない。

 勝とうとするのも、諦めて負けるのも、簡単に見える。でも変化することは一番難しいし、でも必要なのかもしれない。それは、それまでの勝ち負けのルールより高い次元のルールを身につけることになるのだから。


涼風
 

バッグ 日傘

2005年08月07日 | 衣料・生活用品と関連して
僕が利用する図書館は、神戸市立図書館と明石市立図書館と兵庫県立図書館です。これらの図書館に行くと、ついついたくさん本を借りてしまい、持って帰るのに大変なことが多い。かばんに全部詰め込めないこともないけど、それだと一つのかばんが重くなりすぎて持ちにくくなります。それで片方の手には本をむき出しにして持ったりすることがあります。

そうやって持って図書館を出るときに思ったのは、旅行のときに使うような「キャリーバッグ」(キャスター付き)を買ったらどうかということ。それで、たった今楽天で検索してみました。ココです。

予想していたより安いものがあるんですね。一番安い部類で2千円ぐらい。難点は、基本的に女性向けのものが多いことかな。まぁ、そういうことは気にしない性質(たち)なんですけど。

でも、やっぱり重い本を入れているとすぐに生地が傷むかな。やはり実物を見てみないとだめだ。あまり高いものだと、本代を節約するために図書館を利用しているという初期の目的に矛盾するので、とても買う気にはなれないのだけど・・・


照りつける太陽の下を歩いていて思うのは、どうして男が日傘をさす習慣はないのだろう?ということです。

元々の日傘の目的は、女性が日焼けを防ぐことだったのかもしれない。しかしこのたたきつけてくるような暑さでは、陽射しをブロックするという点で男性にも必要なもののように思う。

これは、つまり以前の日本ではそこまで夏は暑くなかったということなのかな。だから日傘の目的は日焼けを防ぐことに限定されていたのでしょうか。

いずれにせよ、これだけ暑いと日傘をさすことはたとえ男でも正当なことのように思えて来ます。でも、生まれてから今まで日傘を指している男性をぼくは見たことがありません。

ここは僕がパイオニアになろうかしら。これだけ暑いと、そんな男が一人ぐらいいても世の中の人は気にしないだろうし。


[教えて! goo]に「質問:男性の方、日傘をさしたいと思いますか?」というアンケートがありました。


涼風



暑い

2005年08月06日 | 日記
生活パターンが昼夜逆転しそう。最近は分割睡眠になっていて、eveningごろと深夜に寝ていたのだけど、今日は朝から夕方までずっと寝てしまいました。蒸し暑さが尋常じゃなかったのでとても起きていられなかったし、起きている今の夜のほうがずっと過ごしやすいのだけど、逆転するのは体にも精神上もよくない気がする。

まぁ、仕方がないですね。昼間は地獄のような暑さだし。夜起きているのも、それはそれでよしとしたほうがいいかな。「まっ、いいかぁ」。

でも、できれば直したい。


クールビズというのはどれだけ企業に浸透しているのだろう?

クールビズ実施は2割に 民間企業、予定なしも半数 (共同通信) - goo ニュース

ぼくは企業の現場を知らないけど、2割の実施というのは大きい気がする。ネクタイだって、本当は要らないと思っている人が多いっていう話を聞いたこともあるし。環境問題に直接つながらなくても、「ネクタイ」というものが減るのはいいことのような印象もあります。したい人はもちろんすればいいし。

小泉さんというのは、こういう「小さなことだけど、ちょっといいこと」を普及させるのに、とてもいいキャラクターをもっているのかもしれない。彼の真摯さ、誠実さというのは身近な付き合いでよくわかるもののようにも思います。

以前、管直人さんが年金未納がばれたときには、小泉さんは彼を批判せずに「首相を狙っていただけに、やはり未練は大きいでしょうね」と真面目に言い、頭を丸めてお遍路をしたときもマスコミの揶揄的な調子とは違って真面目な顔をして「いいですね。わたしもしたいですね」と言っていたのは印象的でした。


涼風

直感

2005年08月05日 | 日記
 直感は、
 衝撃的にビビッとくるものではない。
 「理由はわからないけど、
 どうしてだかそう思う」
 この感覚が直感。

(浅見帆帆子「いつも忘れないで」ダイアモンド社)


うーーん、そうかぁ。そういうものかもしれない。

衝撃的に思いつくこと、感じることというのは、やたらドラマチックだったり、「開眼!!!」という感じだったりして、じつはあまり落ち着きのないものだったりする。へんに興奮していたりとか。あるいはこれまでのやり方を否定して「これからはこうだ!」と張り切っていたりとか。たしかにそういうときは、「はっきりとした理由」があったりする気がします。

そうではなくて、また自分のペルソナ・エゴの損得とは関係なく、・・・やっぱり難しいなぁ。


浅見さんのこの本は、それまでの本よりも絵が多くてずっといい。今までのも面白いけど、彼女の言いたいことは絵のほうがほんわかしてこちらにずっと伝わってくる感じがします。


涼風

歯医者さん

2005年08月02日 | 日記
一ヶ月以上前から通っていた歯医者がやっと終わりました。最初に行った時に「あと何回ですか?」と聞いたら「4回ぐらいですね」と言われたけど、結局9回でした。

今回通った歯医者さんでは治療のフロアからそのまま海が見える。こちらは天井を向いて歯を開けているのでその眺めを堪能できないけど、スタッフの人たちにとっては最高の職場かもしれない。

お医者さんって、やっぱりちょっと左翼系・共産系の人が多いのかな。消費税の値上げはトヨタなどの輸出企業の利益になるから推進されているとか、神戸空港はムダでしかないとか、そういう感じのポスターが結構待合室に貼ってあったりします。いや、もちろん大切なことだと思います。

受付の女の子は最初からちょっととっつきにくく、なんだかこちらがへりくだった感じで診察券を出したりお金を払ったりしていました。徐々にこっちが慣れてきたのだけど、歯医者さんの受付ってそういう感じの女の子が多いのかな。以前通った歯医者でもそうだった。つまり、たった二つの事例なのだけど。両方とも美人だけど、心ここにあらずという感じだ。

治療では助手の人もお医者さんも親切だった。これは一番いいことでした。

でも、歯の治療って長引くと費用がたくさんかかる。普段節約していても、こういうところでどばぁーっとお金が出て行く感じがします(もっとも、親にも出してもらっています)。毎日歯は磨いていたのだけど。まぁ、お金を出せば歯痛が治るということ自体、とても有難いことだとも思います。もし不治の歯痛になんてかかったら、ひえーって感じです。


涼風