joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

わたしの闘いの意識 『運命の法則』天外伺朗(著)

2005年10月31日 | Book
    
メディアを今賑わせている政財界の人たちをみていると、イライラします。ときには怒りで頭がいっぱいになります。それはなぜだろう?(と、この夏ごろからずっと問うているのだけど)。

CD・AIBOの開発者・ソニー・グループの天外伺朗さんは、現在のリーダー層の9割以上は「闘っている」と述べています(『運命の法則』)。

天外さんによれば、人間の意識の成長は、前期意識・中期意識・後期意識・成熟意識に分けられます。

中期意識は何かに依存しなければ生きていけない人。これは必ずしも今話題の「ニート」や「引きこもり」(というレッテルを張られた人たち)を指すのではなく、配偶者・恋人・組織に心理的・経済的に依存しながら生きている人も含まれます。

それに対して後期意識の人たちは、すべてを自分の力でコントロールする人たちです。この人たちは自分の存在を証明するために、つねに他者に闘いを挑み続けます。

大人になっても中期意識のレベルにある人たちというのは、子供の頃のニーズが上手く満たされなかったため、そのニーズをもち続け陰に陽に他者を利用し頼って生きていこうとする人たちですね。

日本で公務員の不正受給が行われ続けているのも、この中期意識の人たちが戦後の日本社会を主に形成し、組織から「奪う」という行為をとり続けたからですね。キャリア官僚の天下りから地方公務員まで一貫して見られる現象です。

それに対して後期意識の人たちは、その満たされなかったニーズを完全に断念し、自分ひとりで生きていくと決意した人たちだと思います。ある意味ではとても「大人」な人たちだけど、ニーズを断念させられた恨みを持ち続けているため、自分のニーズ満たしてくれない周りの人間につねに攻撃を仕掛けています。

この中期意識と後期意識ははっきりと区別されるものではなく、ひとりの人に両方みられるもので、その(外から見える)バランスが人によって違うのだと思います。

天外さんが言いたかったことはこういうことだと思います。思います、というのは、似たような考えを言う人は多くいて、僕自身はよく読むチャック・スペザーノさんの本でも同じようなことをいつも言っていて、その枠組みで読んだからなんですけど。

この後期意識は人が成長する上で通らなければならない段階だけれども、その際に自分の中にあるニーズを自覚して他人への攻撃性を解消できる人と、自分がニーズを断念したときにもち続けている恨みに気づかず、つねに他人に攻撃を仕掛けつづける人がいます。

天外さんによれば、現在の日本社会のリーダーの9割は、後者のつねに他人に攻撃をしかける人で構成されています。これを読むと、たしかに経済も政治も血生臭い闘争がとくに最近は話題になっているなぁと思わされます。

「構造改革」というのも、心理学的に見れば、中期意識をもち組織からお金を奪おうとしつづけた人を、自分ひとりで生きていくことを決断した後期意識の人たちが、その恨みを晴らすために闘争的に叩きのめす政策だという印象をもちます。

もちろん、いくら「改革」をしても、自分のニーズが満たされなかったという想いを自覚しないかぎり、後期意識の人たちの中にもニーズが満たされなかった子供が残り続けます。だからこそ彼らは、つねに何かに闘いを挑まなければなりません。

ところで天外さんは、この後期意識のつねに闘う人が必ずしもしっぺ返しをくらう(天罰が下る)わけではないと言います。このことは天外さんも納得のいく説明は難しいと言っています。

普通の人は、エゴが肥大し自信満々に後期意識の中にいると、必ず思わぬ落とし穴にはまります。天外さんはソニーでCDの完成まであと少しという場所まで行きながら、完成直前に一方的に上司に配置換えをされ、コンパクト・ディスクの開発という歴史的な大手柄を他人に奪われたのですが、そのときの自分は、CDを開発したときは世界の支配者のような気分でいて(実際、世界の標準的な規格を彼は作ったわけだけど)、そこから急に配置換えをされて上司に激しい憎悪をいだいたと綴っています。

しかしビジネスの世界にずっといた天外さんは、必ずしもすべての人がそういう「天からのしっぺ返し」を受けるわけではなく、中にはそういう天のしっぺ返しをはねのけるような強烈なパワーをもつ人がいて、そういう人たちは連戦連勝で勝ち続けるそうです。

これは、今話題の人たちをみていても、たしかにそうかもしれませんね。

春夏秋冬理論という占いを広めた神田昌典さんは、某ベンチャー企業の経営者について次のように述べています。


「たとえば、堀江社長に関していえば、あの人は、当分、失速することはない。ものすごく運強い人で、今年秋までは絶好調、さらに今後数年も力強い。いま彼の周囲を固めているスタッフとのバランスも悪くない。あれほど過激にやっていれば、常人であれば、失速する可能性もあるんだが、彼の場合は、まだまだ突進できる。
すると・・・これから数年間、ブルドーザーのように突き進む彼のあとには、団塊ジュニア世代を中心とした意識改革がますます加速化することが続くだろうということが予測できるわけです」

「ベルリン、僕らの革命」『神田昌典の、毎日が奇跡』5月17日

また別の掲示板では、現在の総理大臣について次のように語られています。

それによれば、「五黄土星」の小泉さんは運気が強く、選挙で勝利したのも当然だということです。

「小泉首相の運気は9月7日~10月7日まで南にいて、ほかの星を見下ろす位置。郵政法案が通った場合、この期間中に自民党を「解散総選挙&公募」体制とし、自分の星が東に出る12月8日あたりに解散し、1月の総選挙となれば、運気をフルパワーで発揮できるわけだが、果たしてどうなるか、これからが見物だ(7月31日)」。

小泉首相圧勝の理由 投稿日: 9月12日(月)

 この方によれば、小泉さんは既得権益にしがみつく世襲議員のエゴをたたくという役割を担っており、解散総選挙のポイントはそうした政治家の世襲の打破にある(あった)ということです。

 この方は次のようにも指摘されています。

「  わたしは、何度も、小泉首相には「運勢指南役がついているにちがいない」、という記事を書いてきました。
 そして、節目節目で、この記事の予測が的中してきました。

 五黄土星の小泉首相は、今年が、「主役の座」にいて、「実りの秋」を迎えています。
 万難を排して、政策を断行するという強い姿勢もこの運気ゆえだと思います。」

「小泉首相の強運」  投稿日: 8月 9日(火)


この方が言うように、小泉さんが連戦連勝で周りに勝ち続けているのは事実です。

僕は小泉さんをみていると不思議になります。あれだけいい加減な(そう見える)答弁をし、選挙の公約を平気で無視し、昨日言ったことと反対のことを平気で言うという不誠実な(そう見える)ことをし続けながら、あれだけ見栄え良くテレビに映り続けることができるのはすごいなぁと思います。普通であれば、そうしたことをしていると、人間的な弱さが多少は透けて見えてきます。たしかに小泉さんも答弁するときの支離滅裂な論理をしゃべっているのを聞くと、この人は質問に上手く答えられず、また上手く答えられない自分に苛立っているから、こんなヘンなことを言ってしまうのだな、と分かります。しかしそうしたことがありながらも、記者団の前で立っている彼はキリッとした精悍な顔を崩しません(もっとも、それには生ぬるい質問しかできない日本の記者のほうに問題もあると思うのですが)。

たしかに現在の首相には論理を超えた運気みたいなものがついていると言われると、そうかもと思えてきます。

そしてこういう首相や某社長は、つねに他者に戦いを挑み、勝ち続けるのかもしれません。そうした人たちを勝たせる運気とは何だろう?運とか宇宙とか神には善であって欲しいのだけれど、他者に闘争をしかけることで自分を証明しなければならない後期意識の人を勝たせ続ける「運気」とはいったい何なのだろう?という疑問にとらわれます。多くの人を幸せにしていない(ように僕には見える)人を勝たせる「運気」とは何なのだろう?


天外さんは、そうした勝ち続けられる人とは対照的に、普通の人はかならずそのエゴが肥大化すればそれを戒める事件がその人に起きるといいます。彼はそれを、「それだけ普通の人が繊細だからだ」と言います。「繊細」というと価値判断が入るけど、それは「弱い」ともいえるかもしれません。

首相や某社長が勝ち続けることに納得のいかない気持ちを抱くのは、それだけ私(たち)が自分の弱さを受け入れられず、やはり私(たち)も勝ちたいと思っているからです。思っているからこそ、勝ち続ける彼らを極悪人のようにみなします。その意味では、私の中にも、他人に戦いを挑み続ける後期意識があります(中期意識もあります)。彼らが勝ち続けるのが「運気」なのか偶然なのかは誰にも分かりません。天外さんは、「占いに頼ってはいけない。占いは当たるけれども、大事なときには必ず外れるから」と述べています(『フロー経営』)。

首相の政策にだけフォーカスせずに、勝ち続ける彼にフォーカスすることで、私(たち)は闘争の意識から逃れることはできず、そのことはますます彼を強くしています(「嫌いな人を考えるほど、その嫌いな人はパワーを得ている」『マスターの教え』)。多くの人が闘争の後期意識をもつかぎり、「強い」人が勝ち続けます。

あるいは私(たち)自身が、自分の弱さを直視できないからこそ、つねに悔しい想い・敗北感を持ち続け、その時代の象徴的な人物を「独裁者」として描写します。「独裁者」というのは、私(たち)自身の後期意識の反映のように思います。

誰が勝つか負けるかは別として、他者に戦いを挑み続けている点では、私(たち)も同じです。


涼風

サポート・サーヴィスにひとこと

2005年10月28日 | 家電製品にかかわること

パソコンや関連製品の接続が上手く行かなくてメーカーに「問い合わせ」をすると、「プリンタ・メーカーに(orスピーカ・メーカーにorパソコン・メーカーに)お問い合わせください」という返事を“必ず”受けます。

そういう返事を受けると、「こっちはせっかくあなたの会社の製品を使おうと思って買ったのに、そんな対応ないでしょう?」と思います。

パソコンなんてたいていの人は素人だし、道具として使いたいだけで、内部を詳しく研究する暇なんてありません。そういうド素人の人たちをパソコン・メーカーは消費者としてターゲットにしているのだから、サポートについては完全すぎるくらい完全にするのが企業倫理だと思います。

なのにメーカーの違う二つの製品の接続にかかわる質問をすると、「相手の会社に聞いてちょうだい」というのはあまりにもつれないんじゃないでしょうか。

何が言いたいのかというと、こちらは両方の製品のメーカー名や型番をちゃんと伝えているのだから、後はメーカー間でやりとりをして、両者の共同でベストな回答をして欲しいのです。

こっちは何も知らないのに対し、あちらはどっちも専門家なのだから、専門家同士で話し合えばあっという間に解決策は見つかると思うし、消費者も何度も同じ質問をメールに書いて返答を待つ必要もありません。

こういうことは、メーカー間の利害という以上に、コンピュータを供給する者としての一般的な責任じゃないんでしょうか。

責任に関する法的な問題が生じるのなら、あらかじめ共同で責任を取ることにすればいいと思います。

こうした関連製品の接続に関するサポートをしっかりすれば、素人のユーザーも色々な関連製品を買う気になります。こうしたことはパソコンに限らず、オーディオにも言えることですよね。

今はデジタル化が進んでいるけれど、それだけ色々なオーディオ・パソコン関連の相性について分かりにくくなっている。まぁ、なんとなく買っていてもついていけるのだけど、サポートセンターに聞けばすぐ分かるとなれば、色々な関連製品を買うようになるし、それは結果的に業界を潤すことになると思うのだけど。

「相手の会社に聞いてください」と言われると、官僚制社会で窓口をたらい回しにされているのと同じ気分になります(実際そうなのだけれど)。

一度こういうことをパソコン・メーカーに言ってみたい。どういう返答が来るだろう?


涼風

インピーダンスって? ―パソコンのスピーカー―

2005年10月26日 | 家電製品にかかわること
先日ノイズキャンセリング・ヘッドフォンについての記事を書きました。パソコンで語学のリスニングをしていると雑音が多くて耳が痛いのです。

なんだか我慢できなくなってきたのですが、BOSEのノイズキャンセリング・ヘッドフォン「QuietComfort2」は4万円もします。

そこでさらにウェブで探していると、Sennheiser 「PXC 300」 という同性能のノイズキャンセリング・ヘッドフォンが2万円弱で手に入ります。
  

ただ2万円でも僕にとっては大金なので、外付けスピーカーを考えました。探してみると、ELECOM 「MS-76」が3千円ぐらいで値段以上の性能という意見が多く、前向きに考えています。

ただ、スピーカーをパソコンに取り付ける際には両方の「インピーダンス」が調和しないとだめみたいです。でもこう書いてみても「インピーダンス」とは何かよく分かりません。

とりあえず調べている最中なのですが、こんなことに頭と気苦労と時間を取られていると(取っていると)、なんだかばかげているみたいです。


涼風

マイネッケ

2005年10月25日 | 日記

マイネッケという人がいます。ドイツの歴史家で20世紀初めに活躍した人ですが、今では誰も知らないし、ドイツ人のほとんども知りません。学者でも知りません。

私は彼について修士論文で書きましたが、それは主体的に彼をテーマとして選んだのではなく、指導する先生のアドヴァイスをそのまま受け入れたからでした。主体性のない私には、何を自分が研究したいのかも分からず、それゆえ先生が薦めてくれるものを進んで受け入れました。

そのテーマ選びにおける主体性のなさは修論執筆で容赦なくツケが回ってきました。マイネッケのことが好きでもないし重要だとも思っていないのにそれを読むことはつらく、本当に身体の調子がおかしくなりました。

マイネッケとは、国家が有機体であることを信じている人であり、その国家が善であることを信じており、しかしその国家が戦争をすることに悩んだ人でした。

なぜ国家は戦争をするのか?なぜ高潔な政治家が戦争をするのか?

今の学者であればそれについて、心理学的な人間の権力欲・攻撃性を分析したり、社会科学的に経済的要因を摘出したりします。

しかしマイネッケは、国民国家が有機体であり一つの人格であることを信じている彼は、ただ悩むだけです。「なぜ国家は善であり悪なのか?」そんなことは悩んでも仕方ないし、現在の学者から見ればいろいろ論理的に説明できる事柄なのですが、彼はただひたすら悩むのです。なぜ悩むのかと言えば、国家とは一つの人格であることをどこまでも信じているからです。今、そんなことを信じている人はいません。そんなことを信じているのは気がふれている人です。

そんな気がふれている人の文章を読むのはつらい。こんな頭のいい僕がこんな頭のおかしい人間の文章を読むのはつらい。もっと他に流行のきらびやかな学問がたくさんあるじゃないか。なんぜよりによって僕だけこんなものにかかわらないと駄目なんだ。

それがなんでなのかは要するに私に主体性がなく、自分で研究テーマを選べる大人ではないからです。

さて、そのマイネッケについての文章を来年の4月までに書く依頼を受けました。それで久しぶりに彼の文章を読み始めました。修士論文を書いていたときの気分の居心地の悪さを少し感じました。

ただ、どんなに学問が進歩しているように見えようと、天下国家を論じるさいに「日本は」「アメリカは」と誰もが言うし、それのアンチテーゼとして国家の社会科学的分析を提示する20世紀的やり方は、それ自体がすこし古臭さを帯びてきているのも事実です。

そういう中で、私はマイネッケのいい部分をちゃんと読むことができるでしょうか?

涼風

『小倉昌男 経営学』

2005年10月24日 | Book
  
今年の春頃から自分が所有してきたたくさんの中古CDや古書をネットで販売していますアマゾンのマーケットプレイスやYahoo!オークション、楽天フリマなどでです。合計で100点以上は販売しています。

その際に発送に利用させてもらうのはクロネコヤマトのメール便で、CD1枚なら160円で全国に配送してもらえて、かつ自宅まで集荷に来てもらえます。それで本当にあちらにとってペイしているのか不安なのですが、とにかく便利です。

そのヤマト運輸の小倉昌男さんが書かれた『小倉昌男 経営学』を読みました。

これは感動せずに読めない本でした。

ヤマト運輸という運送業者はもともと百貨店や卸売りなどの業者相手に配送をしていたのですが、それはほとんどすべての日本の運送業者がそうでした。その中で戦前から名前の知られていたヤマト運輸は戦後に長距離輸送で他社に遅れを取り、業者相手の輸送という分野に限界を感じます。経常利益もかなり下がり会社として危機的な状況に陥ったのですが、そこで社長の小倉さんが活路を見出したのが現在の宅急便でした。

この宅急便は運送業界の常識からみれば赤字必至のビジネスでした。業者相手の輸送であれば一定数の受注を計算でき、かつトラックの配送経路のシステム化も容易です。しかし家庭と家庭を結ぶ宅配便は、いつどこで受注が発生し、それを迅速に配達先に届けるのかについてのパターンが無限にあるため、黒字が出るように作業を効率化するのが目に見えて困難だからです。

しかし業者相手の輸送業務に限界を感じていた小倉さんは家庭と家庭を結ぶ宅配便に社運を賭けました。その際にクリアしていった問題の数々、輸送のインフラから社員教育・財務体質・運輸省との闘いなどなどはぜひ本書を読んでみてください。数多くの難問を小倉さんは一つ一つ糸をほどくように粘り強く、ときには挫折しかけながらも解いていったことが伺えます。


個人的に印象だったのは、業者ではなくエンドユーザーを対象とする輸送業という革新的なビジネスを打ち出した小倉さんが発見したことは、最終的な消費者を対象とするビジネスでは業者相手の仕事以上に相手へのサーヴィス精神が欠かせないという認識です。

これは当たり前のようですが、このサーヴィスの徹底は以外と多くのビジネスが徹底できていないことのような印象もあります。

たとえば「サーヴィス第一、効率・利益第二」という理念を小倉さんは社員に徹底して浸透させました。宅配便では家庭の消費者を相手にしますが、彼らが望むのは翌日に安全に荷物が届くことです。この消費者の欲求を満たす会社というイメージを浸透させなければ最終的には利益は上がりません。そのために必要なのは、短期的に損失に見えることでもつねにお客様の利益を考えて行動するということです。

配達先が分からなければたとえ長距離でも電話して住所を確かめる、荷物が予定通りとどかなければそれに見合う賠償をする等など、とにかく小倉さんは一見損に見えることでもその場の消費者の欲求を満たすことで、会社の信用を得て行きます。

またその過程で、ヤマト運輸にとって一番大事なのは現場のサーヴィス・ドライバーであることを認識し、彼らにお客さんのためになることであれば主体的に行動させることを徹底し、同時に仕事の自立性・権限を彼らドライバーに委ねます。このことによりドライバーはたんなる末端の社員ではなく、自分の仕事を自分で管理するという立場に立つことができ、主体的にフレキシブルに行動するようになりました。また業者相手では感じられなかったやりがいを家庭の消費者相手の宅配で彼らは感じるようになります。小さなことですが、家庭に荷物をとどけるだけで「ありがとう」と言われることで、彼らはセールスマンとしてのやりがいを身につけるようになったとのことです。

こうした消費者第一の宅配便を軌道に乗せる中で小倉さんは、ビジネスを運営していく上では数字上の損得だけを追っていては結果的に企業は損失を多く出し、むしろ消費者に感謝されることを目指すことで会社が活性化し黒字を生み出していくという好循環を体感していきました。

また消費者相手のビジネスでドライバーの重要性を認識することで、サーヴィス業ではいかに組織がフラットで風通しのよいことが重要か、役職の多さはむしろ消費者のニーズを上に伝える障壁となるため、ドライバーとトップとが直接結びつくことが大切であり、同時に現場のドライバーに大きな権限を与えることの重要性を小倉さんは強調しています。

こうしたことは既存の運輸業界ではすべて革新的なことでした。

この本には企業経営において他にも興味深いことがたくさん書かれてあります。

その中でも、サーヴィス業というものがもつ特徴を小倉さんは次のように述べています。サーヴィス業が対象としているのが家庭の生活者である以上、その企業は地域社会の重要な構成要因にならざるをえない。その際には、地域社会に密着せざるをえないがゆえに、会社は地域の生活者の利害を離れたことはできないし、そのため利益第一で消費者へのサーヴィスを第二にすることはできない。また地域社会に入り込んでいるからこそ、数字上の利益のために会社を動かすこともできない。たとえば安易に従業員を解雇するような体制では、地域の雇用を減少させることになり、結果的に生活者の立場に立った企業とはなりえない。

こうやって書いていると典型的な“キレイ”系の経営物語と受け取られそうで残念なのですが、実際に読んでみるととても面白い本であることが分かると思います。

もちろん企業の実際は現場にいる人にしかわからないし、私は小倉さんという方のことをよく知りません(最近亡くなられたようです)。それでも、単なるキレイごとを並べているというよりは、論理的思考と現実の状況への適切な対応をつねに積み重ねてきた経営者であることは、この本から分かると思います。


涼風

参考:「ヤマト運輸 小倉昌男氏にこそ国民栄誉賞を」『成果主義を自分の味方につける法』

『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』

2005年10月23日 | Book
 消費社会研究家、三浦展さんの『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!―マーケティング戦略の狙い目はここだ!』を読みました。現在の人々の生活スタイルの変化とそれにともなう消費欲求の特徴を分かりやすく解説してくれている本です。

たくさん興味深い指摘があるのですが、その中でも個人的に身に覚えのある感じが特にしたのは、「ニセ団塊世代」についての三浦さんの指摘でした。

三浦展さんは、「ニセ団塊ジュニア」と「真性団塊ジュニア」を分けています。すなわち、従来「団塊ジュニア」と呼ばれている1971-4年生まれの人たちの両親は、母親は団塊世代であっても父親はそれ以前の世代の場合が多く、彼らが育った家庭はまだ権威的な雰囲気に覆われていました。しかし75-9年生まれの人たちは両親ともに団塊世代以降の場合が多く、それだけ「自由」な、「友達的」な雰囲気の家庭で育った人が多いとのことです。

三浦さんによれば、本当に新しい感覚をもって消費・生活スタイルを作っているのは真性団塊ジュニアであって、従来企業が「団塊ジュニア」としてターゲットとしてきた「ニセ団塊ジュニア」は、むしろ閉塞感をもって生きているということです。

プリクラ・たまごっち・コギャル・iモード・ルーズソックス・パンツまで見せるほどジーンズを下げる男の子のだらしな系ファッションなどなど、思わず大人が眉をしかめてきた流行は真性団塊ジュニアが流行らしたんですね。

それに対してニセ団塊ジュニアは、男はファミコン・ガンダム・エヴァンゲリオンなどオタク的で暗く、女子は朝シャン・ラルフローレンのポロシャツ・紺のブレザーなど地味で堅実で清潔志向。

このニセ団塊ジュニアは大学受験では人数が多いため競争が激しく、東京の私大が軒並み偏差値が高かった世代です。やっと大学に入って就職をしてもバブルの崩壊で雇用情勢が厳しく、経済が急に暗くなった時代に働き始めました。

それ以前の「新人類」が右肩上がりの経済成長の中で物量的な消費を謳歌し、後続の真性団塊ジュニアが新しい感覚で消費・生活スタイルを作っていったのに対し、このニセ団塊ジュニアはひたすら受身的に時代に流されていった世代なんですね。それだけに彼らの消費スタイルは地味で、新しいムーヴメントの主役ではなく、時代の暗い面に翻弄され続けている世代です。

三浦さんの指摘では無印良品などのどこか地味で清潔的な消費を担ったのがニセ団塊ジュニアです(グサッ)。なぜなら時代の暗黒面に翻弄され続けたニセ団塊ジュニアは、癒しを求めて彷徨い続けているからです。三浦さんはこの世代を「雑貨や小物、インテリア、家具、あるいはマンガ、アニメなど、外見からはわかりにくいもの、部屋の中のもの、あるいは内面的なものに関心の強い世代だと言える」と述べています(172頁)。

たしかに無印良品・ロフトといった清潔で品がよく高過ぎないというイメージのものに僕は弱い。マクドナルドよりもモスバーガーだし、スタバよりもドトール・エクセルシオールのほうが落ち着くかも(スタバも好きだけど)。また、だらしな系ファッションやルーズソックスにはまったく共感しなかったけど、そういう規制破壊的なパワーは自分よりも後の世代のほうが強いのかも、とこの本を読むと確認させられます。

オタクと癒しというのは、ある面では時代が要請している現象であって、根っこはつながっているのかな。

ただ、三浦さんが言うような「ニセ団塊ジュニア」と「真性団塊ジュニア」がどれだけはっきり世代で分けられるかというと、もちろん微妙な部分も多いと思います。真性ジュニア以降でも内向的で地味で清潔志向な人たちを僕は知っているし、オタク・癒しといった特徴はある程度社会全体に共通する心性のようにも思います。

ただ、それでも自分の内面を新しいレンズで見るきっかけを与えてくれた面白い本でした。他にも消費と世代に関する面白い指摘がいっぱいの本です。


涼風

参考:三浦展さんの会社のHP

   「世代マーケティングの重要さ」『日々の生活から起きていることを観察しよう!! by ムギ』

ノイズキャンセリング・ヘッドフォン

2005年10月21日 | 家電製品にかかわること
    
語学のCDをパソコンでずっと聴いていると耳が痛くなります。イヤフォンやヘッドフォンではもちろんのこと、そのままパソコンで聴いていても痛いです。

これは、パソコンから流れ出る音は高音になるからでしょうか。なんだか金属音みたいな音になっています。

先週の日曜日に、神戸市の垂水にあるBOSEのオーディオ製品販売店(マリンピア神戸 ポルトバザールウェスト 2110)に行ってきました。「ノイズキャンセリング・ヘッドフォン」を試したかったからです。

  宣伝ではこのヘッドフォンだと余計な騒音がシャットアウトされて必要な音だけが耳に入ってくるので、難聴を防いでストレスも緩和されるとのことです。電車や飛行機の中で快適に音楽を聴けるし、何も聴かなくてもこれを付けいているだけで音のストレスから解放されるそうです。

実際に試した感想は、たしかにつけただけで周りの音はとても小さくなります。販売店はショッピングモールの中で、日曜は人も多いし騒音がとても大きいのだけど、このヘッドフォンをつけただけでもかなり音がシャットアウトされます。

ただ、それがどれほどすごいことなのかは、ちょっと実感しにくかったです。これは、普段から電車の中で聴いたり家で使ったりしていないと、やはりその製品の便利さって分かりにくいからでしょうね。

でも、付けだだけでも、他のヘッドフォンで感じる締めつけの感覚がまったくなくて、とてもやわらかくて快適そうでした。

店員さんの話では、ipodとの相性がいいそうです。

試しに買ってみたいところですけど、なんと4万円もするんですよね。

でも欲しいなぁ。

涼風

『行動ファイナンス―市場の非合理性を解き明かす新しい金融理論』

2005年10月20日 | Book
   
金融市場に参加する投資家たちの心理について説明している『行動ファイナンス―市場の非合理性を解き明かす新しい金融理論』という本を読んでみました。

なんだか大仰なタイトルで専門書コーナーに置いてあるような堅い装丁の本ですが、中身は身近なテーマを扱っています。すなわち、金融取引における投資家・トレーダーの心理についてやさしく解説していて、金融市場での取引がいかに非合理に行われているか、つまり客観的に分析すれば利益最大化という観点からかけ離れた行動を市場参加者がいかに取っているかを説明しています。

この本で描かれている市場参加者の心理メカニズム自体は、心理学の好きな人なら馴染み深いレベルの心理解説です。『人間関係を良くしよう!』という駅前の本屋で売られているような身近な悩み相談的なセルフヘルプの心理解説と同じようなものです。

ただ、おそらく経済学では長い間、そういった一般の人すら馴染んでいる人の心の動きの洞察が「市場参加者」を分析する際に考慮されてこなかったのかもしれません。だからこそ、2000年前後に出たこの本が、「新しい経済学」とみなされているのかな、と思いました。

色々な説明があるのですが、一貫しているのは、金融取引の参加者つまり人間は市場の情報を解釈する上で自分の立場=メンツを守るために行動する誘惑に駆られていること。

たとえば、純粋に利益を考えれば、緩やかに上昇を続ける銘柄か通貨を保有しているさい、個人投資家であればその上昇を眺め続けるかも知れないけど、機関のファンドマネージャーであれば自分の成績・評判を気にして確定する利益のポジションで安易に売りに出る誘引が強くなります。彼にとって重要なのは安定した成績と所属する会社に利益をもたらすことであり、資金を預かっている顧客の利益の最大化は二の次です。それ以上に、自分の職を確保するためには、損害を避ける誘引が強くなります。大損害を一つだして評判を落とすよりも、小さな利益を多く出すことで「仕事をしているんだぞ」というメッセージをボスに送ることが重要な場合もあるかもしれません。

また、人間の心理は利益の出ている間には早めにその利益を確定しようという動きがあり、損失が出ているときは、それがある点を越えて下降すると理性的判断・自律的抑制が働かなくなり、逆に大博打でこれまでの損失を取り返そうとすること。なるべく損失を出さないように本来細かく計算して行動しているはずなのに、いったんある程度の損失が出てしまうとそれまでの細かな計算が働かなくなり、(これにもメンツを取り戻そうとするメカニズムが働いているのかもしれませんが)損失を取り戻すために無謀な取引行動に出やすいということです。

とても身近な心理の動きが金融という今をときめく世界でも存在していて、それは同じ人間がしているのだから当たり前なんだけれど、上記のような説明をたくさん読んでいると微笑ましくなります。

この本が一貫して言うことの一つは、市場参加者は自分に都合のいい情報だけを取り入れ、そうでない情報は無意識に締め出し、自分の行為を内面で合理化しながら、実際は利益と反対の行動をとっていること。これにもメンツがかかっているのでしょうけど、それゆえ(当たり前のことですが)「すべての情報を知り合理的に行動するホモエコノミクス」という経済学の想定は成り立たないということです。

このことはもう何十年も前から言われていながら、それでも多くの経済学者は一定の条件下で成立する均衡理論に限定的な有効性を見出す努力を続けてきたと思うのですが、門外漢からみれば90年代にはいってこの本のような誰もが人間の心理について当たり前と考えるようなことが経済分析に取り入れられてきたのかな、と思いました。

「新しい金融理論」というとなんだか難しそうですが、内容はとても身近で親しみやすいです。もっととっつきやすい装丁にすればよかったのに。

あと、人間の心理を、「本能」「感情」「理性」に分け、誰もがこの三つの組み合わせをもちながら、その三つの心にしめる割合は異なることを指摘し、三つのうち一番強い要素によってその人のとる非合理な行動は影響されるという指摘は興味深かったです。

「本能」「感情」「理性」に人間の心理メカニズムを分けるのは心理学の常識なのかな。じつはこの分け方はエア二グラムという性格類型論とほとんど同じで、この三つの取るそれぞれの行動パターンについての説明も、ほぼエニアグラムの説明に対応しています。きっと心理学的な一般的な理解なのでしょう。エニアを知っている人が呼んでも興味深いと思います。

アマゾンで「行動ファイナンス」と打ち込むと10冊以上の本がヒットしてきます。すでに流行っている考えなのかな。


涼風

参考:「行動経済学の投資戦略」『CD、テープを聴いて勉強しよう!!

大学という権威への怖れ

2005年10月19日 | reflexion
   
他人から見ればどうでもいいことなのに、つまらないこだわりというものがわたしにもあります。

たとえば大学。

いい大学、大学院に通っている人たちやそこで教えている人たちについて無条件に「そういう人たちはバカだ」という考えが浮かびます。

そういうわたし自身もかなり長い間大学院に在籍していました。その在籍期間中も、「大学」というものの存在をかなり汚らわしいものと思っていました。

「大学」という場所から離れて少し時間が経ちましたが、今でも大学の教員・教官や、大学院に通って「キャリア・アップ」を目指そうとしている人たちのことを見聞きすると、「そういう人たちはバカだ」と思いたい欲望がムクムクと出てきます。


今朝、台所でドイツ語と英語のテープをかけていると、父親が後ろを通ったときに、なんだかバツの悪い感じがしました。「無学」の父になんだか悪い想いがしたのかもしれません。

「外国語」というものは、日本の大学にとっては象徴かもしれません。ただの言葉なのですが、それが話せる人と話せない人を分け隔ててしまいます。「外国語」を中途半端に話せてもあまり大したことはないと個人的には思いますが、それでも話せない人からみればすごいことのように思えてきます。

わたし自身は英語もドイツ語もろくに話せないし聴けないのですが、それでもそれらのテープを流しているときに、後ろに父がいると悪い感じがしました。

これは、外国語だけでなく、「大学」というものが日本人にとって(そしておそらく世界中のどこでも)もつ象徴も同じだと思います。学歴コンプレックスで高い学歴を羨み尊敬しながら、どこかでそれをバカにしています。優越感と劣等感は同じコインの裏表です。

大学に所属しながら大学をバカにしていた私は、どこかで大学の権威を怖れていたのでしょう。もし大学とそこで教え学ぶ人たちが素晴らしい人たちだとしたら、そういう人はマブしく光っててまともに見ることができません。その光の中に入るのが怖いから、わざと大学は薄汚い世界だと思おうとしてきたのでしょう。

もし権威が素晴らしいとしたら、それは光り輝き私たちを照らし出します。でもその光の世界をわたし(たち)は怖れているのです。

そこでその権威を何とかわたし(たち)は腐して自分と同じ次元に引きずり落とそうと思います。大学教授、東大生、大蔵省、政治家、総理大臣、外交官、医者、弁護士、・・・

権威の光を怖れているかぎり、この世界を正しく視ることはできないのでしょう。


涼風

みんないいひと

2005年10月15日 | reflexion

わたし(たち)が誰かを気に喰わないヤツと想っているとき、わたし(たち)自身がその相手を嫌っています(当たり前か(笑))。

わたし(たち)から見て誰かを嫌なヤツと想っているとき、わたし(たち)自身が他人を否定する「嫌なヤツ」になっています。

では、わたし(たち)がその「嫌なヤツ」をやめるとどうなるのだろう?

わたし(たち)が「嫌なヤツ」をやめても、相手が嫌なヤツをやめるかどうかは分からない。その人の性格はその人の歴史で形成されているのだから、今さらわたし(たち)がどうこうできるものではない。

「自分が変われば相手が変わる」と盲信することは、自分の中の疑いを無視して相手を一方的にいい人とみなす、ナイーブな行為だと思う。

ただこう想うことはできる。相手が今すぐに「嫌なヤツ」をやめるかどうかは分からない。でも、相手がいつかその「嫌なヤツ」をやめるときが来ることを信じることはできる。環境さえ整えば、相手は変わると信じることはできる。信じるのはタダだ。

そう信じるとき、相手の中に「いいひと」の種があることをわたし(たち)は信じている。


涼風

参考:『セルフ・セラピー・カード』チャック・スペザーノ著

『ハッピーバースデー』

2005年10月14日 | Book

(ネタバレあり)

 href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432307056X/ref=pd_ecc_rvi_3/249-0476962-4401159">『ハッピーバースデー』(
青木和雄 吉富多美/著)の中で、夫と二人の子供がいる家庭で主婦をしていながら仕事に出てみた静代が次のように思うところがあります。

 「家族に押し通してきた静代のいいわけや脅し。狭い価値観。それが一般的にはまったく通用しないものであることを、仕事をするようになって静代は思い知った」。

 たしかに家族に脅しをかけることができるのは、甘えているからだ。甘えと同時に恐怖も感じている。いつその脅しが通用しなくなるかもしれない。脅しが通用しなくなるときが絶望の始まりなのか、新しい一歩なのか、よく分からないけれど。

 以前、引きこもりに関する特集がテレビであったとき、そこで引きこもる若者を無理やり大人たちが外に連れ出そうとするのを見て吉本隆明は「これはとんでもないことだ」と思ったそうです。

 今は引きこもりの次に無業の若者に働く希望を与えようとNHKは一生懸命に善意の番組を流しています。その番組欄を見つけると、ドキッとします。そしてその時間に親たちがテレビを見ているかどうか、ひっそりと息を潜めて察知しようとしている自分がいます。いつか、親か、親戚が、自分を羽交い絞めにして労働へと連れ出そうとするところを想像しながら。

 『ハッピーバースデー』の中で主人公の少女あすかは、母静代の実家で幼い母の泣き叫ぶ文章を読み、自分の心を引き裂いてきた静代が自分と同じように傷ついてきた少女であることを発見します。

 そのときから、(12歳の)あすかは母静代も傷ついた少女であり、自分は彼女の立場でものを考えてやらなければならないのだと悟ります。相手の視点でものをみることの大切さを学び始めます。12歳でです。

 脅迫の加害者と被害者もともに傷ついているのですが、二人に共通するのは自分の痛みにしか注意が向いていないことです。そこから一歩を踏み出すとは、加害者と被害者が同じコインの裏表であることを認識し、自分よりも相手の問題を重要に想い、相手の立場に立つことをこの本は教えています。


涼風

  

神戸市立中央図書館

2005年10月13日 | 日記
  
今日、神戸市立中央図書館でNHKラジオ英会話をセレクトしたCD付き書籍を2冊借りようとしたら、CDが付いていませんでした。係りの人の話では、他の人が借りているときに紛失したとのことです。

ふーん、そういうことってあるんだ、と思わされました。でもそういう場合でも、弁償は要求されないということですよね、そのCDのないまま書籍が本棚にあるということは。

でも市民が借りることのできる数少ない機会だし、その本は1冊3500円もする高価なものなので、なんだか釈然としない気もしました。


神戸市には図書館が一区に一つぐらいの割合で10館ほどあり、Aの館で申し込みをすればBの館の本を取り寄せられるし、Cで借りた本をFで返すこともできます。これはとても便利なシステムで、尽力してくれている人たちには本当に感謝感謝です。欲を言えば、市立図書館だからか大学図書館並みに本は揃っていないようですけど、それでも日本語であれば多くの本がアクセス可能です。

本を借りる習慣をつけてからは、あまり本を買わなくなりました。でも、これはどちらが良いとか好ましくないとかの問題ではないのでしょうね。そのときのその人のバイオリズムに合ったやり方があるということなんだと思います。

でも、絵本とかはやっぱり図書館を利用したほうがいいんでしょうね。絵本というのはとても高くて1000円以下のものなんてほとんどないように感じるけど、子供に読み聞かせるのはあっという間ですからね。


図書館を使っていると、本を利用することが目的なので、図書館という存在、書籍たち、検索のためのコンピュータ、そして図書館員の人たちを道具的に見なして、感情を入れずに邪険に取り扱おうとしている自分がいるのがわかります。これは気をつけて、モノに対しても人に対しても感情を上手く表現できればと思います。


涼風

参考:ブログ『塩屋徒然』「神戸市立図書館」

猫の叫び

2005年10月12日 | Book
ウチの近所では飼い猫なのか野良猫なのかよく分からない猫たちがよく泣き叫びます。

猫の叫び声ってどうしてあんなに子供の泣き声に似ているんでしょ。本当に赤ちゃんが叫んでいるように聞こえます。感情が入っているというか。まぁ、猫の感情が入っているんでしょうけど。

食べ物が欲しいのだろうか。でも、飼うつもりもないのにエサをあげるのはツミだし。

○オススメ書籍

     『あたしの一生―猫のダルシーの物語』(江国香織訳)

 江国さんよりも江国さんらしい小説。泣けるぅ~。


涼風

大野木さんの指摘  『セイビング・ザ・サン ―リップルウッドと新生銀行の誕生―』

2005年10月11日 | Book
  今回の衆院選で田中康夫さんが「郵貯の340兆円が外資に利用されないのか、国民が誰でも口座を作ることのできるサーヴィスが維持されるのか、職業の区別なく加入できる簡易保険はいじされるのか、郵政公社が新生銀行の二の舞にならないのか、このことははっきりと現在の政府に説明してもらわなければならない」とさかんに主張していました。郵政民営化のこの大事なポイントをはっきりと言ったのは田中さんと共産党ぐらいでした。

『セイビング・ザ・サン ―リップルウッドと新生銀行の誕生―』 という本を読みました。アマゾンでもひじょうに評価の高い本で、80年代からの長銀の経営実態と90年代の破綻、それに並行する外国資本金融の動きを丁寧に追った読み応えのあるノンフィクションです。著者はイギリスの方です。

融資先の経営実態をみずに巨額の融資を行う戦後の日本の銀行の慣行がしだいに経済の実態に合わず、不良債権を生み出していく過程。そのことに気づいて英米流の投資銀行として改革すべきという行員と、旧来の「産業育成型銀行」という視点にとらわれたままの行員との衝突。その二つの意見の狭間で長銀を新しい投資型銀行としてソフトランディングさせようと試みながら、過去に積み重ねてきた不良債権の責任を一方的に負わされ、ついには刑事告発され執行猶予判決を受けた大野木頭取の銀行マン人生。その日本の金融改革の中で、長銀を買収し利益を得ることに必死になる欧米の投資家とウォール街のビジネスマンたち。そして外国から来た経営者とシティバンクを日本で率いた八城による新生銀行の経営の成功。

これらの点やそれ以上の多くの重要な問題が豊富なインタビューをもとにドラマのようなスリリングな展開で時系列的に描写されていきます。

イギリス人ジャーナリストは、きわめて客観的・公平・冷静にこの過程をみつめながら、結果的には新生銀行の誕生は、たとえそれが日本国民に5億円の出費を強い、また海外の投資家や長銀の経営者に数百億ドルの利益をもたらしたのだとしても、日本の金融にとってプラスになるだろうと楽観的に見ています。彼女は次のように述べています。

「おそらく、投資家に売却せず1998年に長銀を廃業させたほうが、納税者にとってはるかに安上がりだったかもしれない。だが、そういうふうに狭い金融面だけをみれば、判断を誤るだろう。長期的に考えれば、新生銀行の実験の日本にとっての真価は、日本の他の銀行や官僚や政治家によい前例を示したことにあるかもしれない。明確な改革計画のある経営陣が銀行を運営すれば、これだけのことができる―それを新生銀行はまざまざと見せつけた。…新生銀行の衝撃によって得られた利益―損失―の意味が表に出るには、いましばらく時間がかかるのではないだろうか」(392頁)。

日本人にとっては冷静に受け止めるのが難しい意見だけれども、当該国の国民ではないからこそ、冷静にこの金融改革の意味を受け止めることができているとも言えます。

もうひとつ、この新生銀行が演じたドラマで長銀の不良債権の責任を、その不良債権が積み重ねられた時期には国内の融資に深く関与しなかったにもかかわらず、90年代の改革期に頭取のポストについていたということで刑事告発された大野木さんは、日本の金融改革において不良債権をどのように処理すべきであったかについて次のように述べています。

「1998年当時、長銀が不良債権の実態を公表したり、不採算企業を切り捨てたなら、銀行業界全体に大きな被害が及んでいたはずだと、ときおり大野木は友人達に漏らしている。

…経済的あるいは商業的に見ても、新生銀行は正解ではないのではないかと考えるときもあった。一行が、債権を早期に回収するのは結構だ。しかし残りの銀行がこぞって新生のようなやり方をすれば、不必要に深刻な状況を引き起こしかねない。また、仮に新生が企業顧客を遠ざけたなら、銀行としての業務が立ち行かなくなる。 

…数字の上では、(日本には)1400兆円の貯蓄があり、経常収支も大幅な黒字である。韓国やアルゼンチンなどとは状況が違う。改革の衝撃を和らげるためにこの豊かな財源を使い、着実に日本らしい変化を遂げていけばよい。遅かれ早かれ景気は回復するだろう。景気さえ回復すれば、銀行問題も解消する」(376-7頁)。

この大野木さんの指摘は、急激な不良債権を行った小泉政府の判断が本当に正しかったのかを考えるときのポイントです。

銀行が債権を回収できないのは、論理的に考えれば企業の業績が悪いからです。であれば、日本の景気を回復させる施策に成功すれば、無理に債権を処理しなくても、多くの企業をつぶさずにすんだかもしれません。たとえば、金利を上げて1400兆円の貯蓄に不労所得を上乗せするなどです。

しかし小泉政権が選択したのは、まず旧来の銀行経営者の放漫な経営態度を罰し、その経営体制を革新し、キャッシュフローのよくない企業への融資を控え、リテールビジネスを促進させることでした。

短期的に見える数字の改善ではなく(多少痛みが出ようとも(=経済的苦境に陥る人を多く出す)、まず日本の金融マンのメンタリティと融資の基準を変え、それによって融資を受ける企業の経営スタイルをも変革させることでした。これが小泉さんがつねに主張する「後から振り返れば正しかったと言われるはずだ」という真意です。

私自身は大野木さんの考えにシンパシーを感じますが、日本は(一応選挙を通して)小泉さんの考えを選択しました。後者の考えのよい部分が結果となって表れてくれればと思います。


涼風

『仕事のなかの曖昧な不安 ―揺れる若者の現在―』

2005年10月10日 | Book
最近は「若者」の無業問題や経済的不平等が流行のトピックです。多くの学者や評論家がこれについて論じているし、私もこの問題には関心があります。

この「問題」が関心を集めるのには、やはりそのセンセーショナルな雰囲気が論じる側にも聞く側にも心地いいのだろうなと思います。ある研究者が現在の経済格差について論じた本を読んでいると、「ああ、この人(その本の著者)は社会の不平等を憂いているけど、本人も気づかないうちにこの問題を論じることにカタルシスを感じているんだな」と思わされました。つまり、この豊かなはずの日本で「貧困層」が形成されるという議論をしていて、そのショッキングな事実を指摘することに著者自身が快感を感じているのです。

こういう心性は社会の恵まれない人を論じるさいに書き手が陥りやすい罠です。ジェンダーであれエスニック・マイノリティであれ障害者であれ、そして「ニート」であれ、彼らの境遇の「悲惨さ」を摘発する過程で、対象に対する共感能力をどこかで失い、その状況を指摘することの快感に書き手が酔いしれてしまうのです。

これは書き手だけでなく読み手も同じ快感を感じているし、だからこそそういった本が売れる市場が形成されます。私もこういうブログで社会の不正義を指摘することに快感を感じているし、またそういう書物を読むことに快感を感じています。

ただその快感は、ちょうど銃をぶっ放し敵を殴るヴァイオレンス映画を観るときの快感と似ているかもしれません。

社会的不正義を論じることは重要でも、どこかで対象に対する共感を失う危険性はつねに注意されてよいものだと思います。


『仕事のなかの曖昧な不安 ―揺れる若者の現在―』という本を読みました。2001年の本で、日本社会の経済不平等や若者の働く意識の低下を指摘する論調が流行し始めた頃の本です。ただその後の議論はこの本の議論を踏まえていないことがわかります。

一つは、多くの若者が無業やアルバイトの生活にとどまる背景には、中高年の雇用を維持する制度が日本の起業では採られていること。「リストラ」は90年以降の日本の顕著な現象に思えますが、少なくとも大企業では決して多くみられていないこと。この中高年の雇用を維持することで必然的に若年の採用が抑えられてきました。

また誰もが憧れる一流企業での採用が厳しくなるほど、若者は自分の希望に沿わない企業での労働を強いられ、働く意欲が減退すること。こういうと「好き嫌いをいわず仕事に取り組め」というお叱りが中高年から聞こえてきそうですが、現実には条件のいい企業で働く中高年ほどその企業にとどまり、不満を持つ人ほど転職を繰り返してきたという当たり前の現実があります。こういう状況でせっかく採用されても意欲を持てず辞めていく若者の中には、不況の中で正社員になれる新たなジョブを見つけられない状況に陥る者が出てきます。

つまり今の若者の働く意欲の減退について、中高年の人、とりわけ大卒の団塊世代が理解することはきわめて困難だということです。少なくとも経済的な保証を得られてきた団塊世代と、その世代の雇用維持のために希望する職を得られない若年者との間には埋めがたい溝があります。

またこうした若年者のジョブを見つける困難さのしわ寄せは結果的にもっとも学歴の低い高卒者や中卒者に押し付けられていきます。

さらに、若者の労働意欲の減退が多く指摘されていますが、現実には無業やアルバイト生活の若者を大きく上回る20代の人たちがフルタイムで働いていること。というより、企業が新規採用を控えているため、兵隊的な下っ端の労働はこれら若年社員にいつまでも押し付けられ、彼らは過酷な残業労働を強いられていること。一方で働く意欲が減退する若者いながら、もう一方でハードワークを強いられる若者に二極化しているわけですが、これは同じコインの裏表で、企業の労働条件が悪化しているために、過酷に働かされる若者がそれに耐えられず辞めていくという構図が想像できます。

つまり、今の若年労働者はかつて経験したことのない過酷な現場に曝されており、またそれを押し付けているのは企業の上層部すなわち中高年労働者であり、その経営姿勢が多くの若者を労働世界から追い出している可能性があること。

この構図を考えると、若年者の無業問題は世代をこえた社会全体の責任であることが想像できます。

この本には他にも現在の労働世界について興味深い指摘が多くあるので、また書いてみたいと思います。


涼風