joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

残念

2007年07月29日 | スポーツ
残念ながら、負けてしまいました。日本。

でも解説の山本さんが韓国の守備を賞賛していたので、相手が上手かったということなんでしょう。

書籍『オシム・ジャパンよ!』でトルシエさんは、おそらくオシムはドイツワールドカップ組の力量は十分知っているから、これまで国際経験のない選手にチャンスを与えて力量を確かめてから、ベテランを代表に呼ぶのではないかと言っています。

もしそうだとすると、このアジアカップは若手の選抜試験であり、これからその若手とドイツ組との本格的な競争が始まるわけです。

トルシエは、もしそうだとするとそれは危険な賭けだと言います。つまり、若手の発掘と公式戦での勝利という二兎を追うのだから、と。

「目の前の試合に勝つためには、最強のチームを編成しなければならない。が、世代交代・若返りのためには、未来に向けたチームを作らなければならない。両方を同時に成し遂げるのは簡単ではない。どちらを得られずに終ることも多い」(p.115)。

しかしアジアカップでベスト4という実績を上げたわけですから、オシムさんはその賭けに成功したと言えます。

試合後の会見でも、「もう代表に呼ばれない選手が出てくるかもしれない」というオシムさんの発言にはちょっとびっくりしました。でも、トルシエさんが言うように、今彼がしていることは若手の選抜試験だったとすれば、今大会で呼ばれなくなる選手が出ても不思議ではありません。それが誰に当たるのか、私にはわからないけど。

ただ、オシムさんのやろうとしているサッカーでは、ワンタッチプレーを確実にできる選手が求められるのは確かでしょう。中盤から前の密集地帯で相手に囲まれてもボールを足下で確実にコントロールできる選手。

ただ、そういうテクニックのある選手にも逆に「走る」ことを監督は要求しているわけで、そのあたりにオシムサッカーのジレンマがあるわけです。

ドイツ組みの対比で、オシムさんはこれまで走る選手を中心に選んできました。その選手たちの力量を把握した上で、これからは黄金世代のテクニックのある選手をたちをどうするかが課題になります。

『迷いと決断 ソニーと格闘した10年』 出井伸之(著)

2007年07月28日 | Book
前ソニー会長の出井伸之さんによる『迷いと決断 ソニーと格闘した10年』を読みました。読み終わって、この本で著者が述べようとしたことはこれだ、という論点をはっきりと見つけられない感じです。

著者は全世界16万人の従業員を抱える組織のトップとしては、驚くほどに自分の長所と短所を曝け出します。ここまで正直な人があれほどの大企業の社長でいたんですね。

以前、同じ著者による『非連続の時代』を読んだとき、「あぁ、この人は時代の流れを正確に読んでいたんだな」と思いました。音楽の供給がCDからネット配信へと移行し、一部のメディアが殿様商売的に消費者へコンテンツを供給する形態が終わり、ネット上で個々人が情報を交換し合う時代になることを、90年代半ばかそれ以前から出井さんは見通していたのです。「ウェブ2.0」という言葉が流行る10年も前から。

しかし、そのような先見の明があった人でも、ソニーのような大企業でいる以上は組織の論理に引きずられ、自分のビジョンを自由に実現に移せなかったのかもしれません。

著者はこの本で繰り返し、井深大さんなどのカリスマ的な創業者による経営を受け継いだ自分が、創業者たちと同じように社内で求心力をもてるかどうかについて不安をもっていたことを告白します。

細かい組織構成の問題はわたしには理解できないし、またそれが分からなければ何も分かっていないのかもしれませんが、出井さんが取り組んできたのは、(それまでのような)どんぶり勘定で夢を追いかけるだけの企業から、収益を持続的に計算できる(単に収益を生み出すのではない)企業へと変えることだったようです。

ソニーという、家電の歴史に革命を起こすような製品を打ち出す企業は、技術者が自分の夢を追いかけ社内もそれを無条件に肯定する雰囲気があったのでしょう。おそらく出井さんはその姿勢自体を否定することはないでしょう。しかしソニーは80年代以降から無理な生産設備への投資や映画会社の買収を行ってきたことにより収益体質が悪化していたそうです。経営者として出井さんはそのことに危機感をもち、今やるべきことは、かかっている費用とあげている収益とのバランスを正確に反映する会計制度の導入であり、収益の確保と損失の回避を確実にするチェック体制の整備だと判断したみたいです。それは、夢ばかり追いかけてきた企業に、社史上はじめて財政の厳しい現実を教えるという作業のように見えます。

出井さん自身は、ネットが主流となる時代を90年初めから正確に見通してきました。しかし、それでもソニーは家電商品の分野で90年以降は主役の場から降りている印象があります。単なる売上額ではなく、商品の持つインパクトという点でです。それは、出井さんの追われている仕事が、それまでのソニーの企業体質の欠点を治療するという側面に集中せざるをえなかったから、という印象を受けます。

それは一部の人には(わたしにも)、ソニーが利益中心主義の会社へと移行したような印象を与える結果となりました。実際ソニーは、技術者が自由に研究を追求できる研究所を閉鎖したという話を聞きます。その内部の統廃合によって技術者に与えられる自由度が下がっているのなら、多くのソニー・ウォッチャーにとっては残念なニュースなのでしょう。

ソニーは、安定した利益を上げるけれども一般消費者にとって驚きを与えることのない会社となるのでしょうか。出井さんはそんなことを望んでいなかっただろうけれど。ただ出井さんは、それまでソニーが夢を追う中で隠してきた危機に直面するという使命感をもって、ソニーの企業体質を変えることに集中しなければならなかったのだと思います。

『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) 』 渡辺 千賀 (著)

2007年07月25日 | Book
『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) 』という本を読みました。著者はシリコンバレーでコンサルタントをしている渡辺千賀さん。主に、シリコンバレーで働く人々を取り巻く状況をスケッチしています。

そのシリコンバレーの特徴とは、

・コンピュータ系の技術をめぐる会社が集積している。日本のコンピュータ関連の大企業の技術者が全員集まっている都市をイメージするとよい。

・ベンチャーが多数乱立。

・収入の水準はとても高い。技術系の博士課程出身者が集まっていることもあるが、年収1千万円以上はまったくめずらしくない。

・また(ベンチャーキャピタルからお金を借りて)起業して、上場して莫大な富を得るということが、理想として掲げられ、実現する人が少なくない。

・それゆえ、ハイリスク・ハイリターンが理念としても現実としても根付いている。成功して若くしてリタイアできる人もいれば、有名大学の技術系学部・博士課程を出ていても失業している人もいる。

・上で述べたように、平均的に給与は1千万を超える高額だが、日本の大企業と違って、レイオフが頻繁に行われる。どれほど給与が高くても、いつ職を失うかわからないという不安がつねにつきまとう。

などなど。文章自体はとても軽いのですが、著者が描写するシリコンバレーで働く人を取り囲む状況はとても過酷なものに見えます。

とりわけ、働く人たちはつねにレイオフにそなえた生活設計を強いられていることなど。どれほどハイリターンの場所に見えても、基本的にはベンチャーの集まりなので、企業はつねにコストの削減を考えていて、事業方針が転換すれば、悪業績の部署はもちろん、好業績をあげていた部署の技術者ですらトップの方針次第で簡単に解雇されるということです。

もちろん、そのようなリスクと引き換えに、シリコンバレーで働く人たちには、普通の人より上の収入の額や、成功すれば莫大な富が入るという面もあります。また、だからこそ、それにひきつけられる人がたくさんいるということなのでしょう。

ただシリコンバレーがシリコンバレーたるゆえんは、当たり前ですが、そこがコンピューター系の技術者が集まっている場所だということなのでしょう。すなわち、単にお金儲けが好きな人が集まっているというわけではないということです。

例えば日本のヒルズ族とシリコンバレーとは違うのではないでしょうか。

日本は、大企業が上品なビジネスをする国だというイメージがありますが、実際には、歴史を通じて、中小企業がお金儲けを求めて激しく競争しているという特徴をもつ国です。そして、日本で働く人の9割が中小企業であることを考えれば、日本とは経済人がお金を求めて競争しあっている国だということです。「お金で人の心も買える」「お金儲けがそんなに悪いことですか」という発言は、決してヒルズ族の人が打ち出した新しい倫理観ではなく、日本のビジネス界が隠して伏せていたメンタリティを白日の下に曝したというだけのもので、日本人にとって目新しいものでは決してありません。

しかし、このような日本の経済文化とシリコンバレーのそれとは違うような印象を渡辺さんの描写からは受けました。

もちろんシリコンバレーにも、ストックオプションなど金銭的富を狙っている人は多いでしょう。しかしシリコンバレーのマジョリティを形づくるのは、コンピュータの世界が好きであり、新しい技術が好きであり、自分の世界・ライフスタイルを自分の思うままに演出したく、また人間関係に煩わされたくなく、同時に物質的にも恵まれていたいという、現代人の典型のような人たちのように見えます。ただ彼らが人と違うのは、多くの人がそれを夢見ながらも現実と折り合おうとしているのに対し、シリコンバレーのギークたちは、そのような無機質な世界に現実に住むことを夢見た人たちなのではないか、と。

彼らは自分の行動を侵されない自由が欲しいし、自分の探究心を満たしてくれる物質的報酬を求めているし、同時に自分の関心事以外のことで贅沢したいとも思わないし、人間関係に煩わされたくもない。

そのような個人主義的な、きわめて現代的なメンタリティをもつ人々が集まっているような場所に見えます。

面白いのは、そのようなシリコンバレーで生きていくには、最後には友達、そして配偶者が頼りだということ。

誰もが皆自分の世界を追及し、自分の世界を守ることを考えている場所なので、日本の大企業のように終身雇用はありませんし、つねにレイオフの危険があります。そういうなかで、職を失うという状態でも生きていくためには、夫婦共働きが当然で、かつ自分も相手も高収入であることが必要になります。シリコンバレーでは、夫婦が両方ともホワイトカラー(という定義も古いが)であることが必要になるということです。

例えば日本でも、医者同士・法律家同士という結婚は多いでしょう。それは、同じ専門の世界に身を置いているから気が合うという理由の次に、どちらも経済的に豊かであるから一緒になればよし安心できるという面はないでしょうか。

シリコンバレーのギークや、あるいは医者や法律家などの職業に共通しているのはオタク的な「専門家」であるということであり、それらは組織に従属せずに個人の自由を求める人に向いている職業だということです。と同時に、彼らは自分の自由を確保するための経済的な安全をも必要としています。

経済的な安全を求めるのはすべての人に共通することですが、その動機に個人主義的なライフスタイルの確保がより強調されるという点が、上記の人たちに見られる特徴ではないでしょうか。

すると、自らの財政をより安全なものにする手段として、自分と同程度の高収入の配偶者を見つけるということに至ります。ある社会学者の方は、このような現象を「強者連合」と呼びました(『希望格差社会』山田昌弘)。もっとも、彼らは気の合わない人と無理に一緒になったり、婚姻を続けたりはしません。極度に我慢する結婚生活というのは、自らの個人主義的なライフスタイルを確保するという点から見て、耐える価値のないことだからです。

それに対して、そのような「専門家」ではないリッチな企業経営者や、高収入でも「専門家」とは言えない大企業社員・官僚などの男性は、「専業主婦」を「もつ」傾向があるかもしれないのでは。

社会学の標準的なテキストでは、近現代社会は、かつてほど「結婚」という制度は経済的理由ではなされなくなったと説明してあります。その場合の「経済的理由」とは、主に経済力の無い女性が保護を求めて経済力のある男性と添い遂げるということです。

女性の社会進出でそのような現象はたしかに減ってきたのでしょうが、同時に専門家的な仕事で高収入の職に就いている男女がお互いに結びつく傾向があるというのも興味深いです。結婚から経済的理由が決して消えていない可能性もあります。背景・理由は変化しながらも、結婚が人の経済的不安を緩和してくれる制度として役立っているということです。

資本主義の純粋な形態を描いてくれるハイリスク・ハイリターンの社会になるほど、逆に結婚が経済的な保護の拠り所として注目される傾向があるのかもしれません。

Nodame Cantabileでお勉強 part4

2007年07月23日 | 語学
今日もNodameはChiakiの部屋に入り浸り、彼のパソコンを使っています。

そんなNodameをしぶしぶ受け入れているChiakiですが、まんざらでもないんでしょう。

二人の学校に行く時間。雨が降る中をふたりが玄関から出て行きます。


Nodame: Wow. It rains cats and dogs. (どしゃぶりの雨だ)

(“Nodame Cantabile 4”)

英語の世界では、犬と猫が「犬猿の中」とされているらしく、cats and dogsで騒々しい諍い(いさかい)がイメージされるそうです。というわけで、「騒々しく雨が降る」→「どしゃぶりの雨」となるんですね。

他にも

lead a cat-and-dog life (喧嘩ばかりして暮らす)

という表現があるそうです。


『勉強が楽しくなるノート術』 トニー・ブザン(著)

2007年07月22日 | Book
「マインドマップ」というノート術のことは前から聞いていたし、それを解説した本やCDも前から読んだり聞いたりしていました。

基本的には、情報を、キーワードで整理するというものです。

つまり、「文章」ではなく、それぞれの内容を表すキーワードを取り出して、そのキーワード間のつながりを線で引いて、内容を把握するというもの。そうすることで文章を読む煩わしさから解放され、そのキーワードと線のつながりを見ることで、瞬時に記憶を掘り起こして内容を理解できる、ということです。

それだけを聞くと、とてもいいアイデアのように思えるのですが、自分でやろうとすると、どうもヘンなマップになってしまって、誰でも使えるというわけではないのかなぁ、と挫折気味に感じていました。

でも、『マインドマップ(R)for kids勉強が楽しくなるノート術』という本の課題を実際にやってみて、少し印象が変わりました。

これは、マインドマップを小学生向けに解説したもので、学校で学ぶ内容をマインドマップを用いてノートに取ると、勉強が楽しくなるよ、というものです。

国語・算数・理科・社会・英語それぞれについて、マインドマップの作り方の例が載ってあり、自分で試しに作ってみる課題も用意されています。

そこで、この本の指示通りに、色鉛筆を使ってマインドマップを作ってみました。すると、あらら思ったよりも簡単にマップが作れるじゃありませんか。これまで「上手くいかないなぁ」と悩んでいたのはなんだったんでしょ。

というように、小学生向けという体裁は取っていますが、これはマインドマップの初心者にはとてもよい入門書のようです。

私が今回この本でマップを作っていて思ったのは、マップを作るうえで重要なのは、キーワードとキーワードを線で結ぶのではなく、線の流れの上にキーワードを置くという感覚なのだな、ということ。

単にキーワードを線で結ぶのでは、キーワード間の内容のつながりを感じることができず、結局はキーワードそれぞれが別々の内容を表しているだけのように感じます。

それが、線の流れの上にキーワードを置くようにすると、キーワードとキーワードが同じ内容の流れにあることが感じられて、情報のつながりがまとまっている印象を受けるのです。

これだと、ひたすら苦痛な文字情報の処理も、一つの流れ・イメージ・まとまりとして処理できそうな気がします。

もう一つ思ったことは、マインドマップはあくまで自分で作らなければ意味がないこと。つまり、線を色鉛筆で引いて、その上にキーワードを載せるという作業をする中で、情報の筋が感覚的に感じ取れるようになる、というようになる必要があるということです。他人が作ったマップを見るだけでは、その情報を処理していく感覚がつかめないんですね。あくまで処理過程が大事なように思います。

これまでの勉強とは違い、情報をイメージ・流れとして処理できるので、暗記の苦痛がかなりなくなるように思います。

「…すればすべて上手く行く!」という自己啓発的な言い方には注意する必要がありますが、逆にそれで効果的なメソッドに眼をそむけてしまうのもつまらないことのように思います。

私自身も、まだマインドマップのことはよくわからないし、この本を読んで可能性を感じる、という程度です。でも、もう少し探求してもいいように感じます。


マインドマップ(R)for kids勉強が楽しくなるノート術
トニー・ブザン,神田 昌典
ダイヤモンド社

このアイテムの詳細を見る



“Mind Mapping” Michale J. Gelb(著) 2  joy - a day of my life -

“Mind Mapping” Michale J. Gelb(著) joy - a day of my life -

競争 『大人問題』 五味太郎

2007年07月21日 | 絵本・写真集・画集
 競争原理っていうやつなんです。お互い、競い合うことでそれぞれの力が高まる、ゆえに競争させるのは正しいという理論です。
 まったく能天気な理論です。ちょっと考えてみればそんな原理、ときどきそんなことがこの世では起こる程度の、ま、現象といった話で、とても原理などとは言えないものです。
 まわりを見ればすぐにわかります。勝ったやつは図に乗る、負けたやつは落ち込む。勝ったら勝ったで、また勝ちたくなったり、負けたらどうしようかと不安になったり、負けたら負けたでふてくされたり、勝つための裏手を考え巡らしたり、いずれにしても、お互いの力を高めるなんて原理はなかなか働かないものです。
(『大人問題』 五味太郎)


「天下り」ってやつも、学校の競争原理の結果なんだろうな、と思います。

負けることへの不安が、人を安心な世界に引き寄せます。純粋な経済競争の場に入るのがつらいことを、大部分の人は知っています。だって、学校で散々に競争させられてきたから。テストや偏差値の点が少し上がった下がったで大騒ぎしてきたでしょ。

経済競争の場の辛さを知っているから、それがないように見える官僚・公務員や医者や学者や法曹の世界を多くの人は志望します。もちろん、それらの世界内部にも競争はあるし、現実の仕事は激務だったりします。ただ、それらの世界が国家から特権を付与された、ある種の「保護された世界」を形づくっているのも事実です。もっとも、少しずつその特権は剥奪されているのですが(それはそれで、また別の問題を生んでいます)。

民間で働こうとする人たちも、じつは「保護された世界」を求めています。大企業で多くの人が働きたがるのがその証左です。今でも大学四年生はみな大企業で働きたがっている(保護されたがっている)し、中途採用で大企業に移った人が離職する割合は低いものです。

それらの「保護された世界」を目指して、生徒・学生の時代に多くの子供は必死で勉強しているわけですね。親も、子供を安心な「保護された世界」に入れるために、安心できない受験競争に子供をさらそうとしているわけです。

少し外から眺めれば、おかしな現象ですが、でも当事者たちは必死です。


競争原理で社会が活性化するなんていう話は、嘘っぱちじゃないかと思います。

だって、本当に競争で社会が活性化するというのなら、子供たちは「競争」を求めて、上記のような「保護された世界」にはそっぽを向いているはずですよ。でも現実には、大人になってから「競争のない世界」に入るために、子供の頃にがんばって競争しているわけです。

競争があるから、負けることへの不安が増大します。負けることへの不安から、人は「勝つための裏手」をひねり出すようになります。「天下り」もあるわけです。

日本型社会主義国家の成立の原因は、競争なんじゃないでしょうか。


大人問題
五味 太郎
講談社

このアイテムの詳細を見る

おそわらないでいられること 『大人問題』 五味太郎(著)

2007年07月21日 | 絵本・写真集・画集

人間には「これ、なんだろう?」と思う権利があります。当然、義務ではありません。びっくりする権利、どきっとする権利、おもしろいなと思う権利。そういうものが何もないうちから、おしべとめしべがどうのとか、地球は丸いんですよ、なんて教えないでくれ、と思います。ね、興味深いでしょ、ほうら、驚いたでしょ、なんて軽くやらないでほしいと思います。「教わりたくないものは教わらないでいられる権利」が、すべて国民は法の定められるところにより、等しくあるように思います。

(『大人問題』五味太郎)


僕は小学校のときも中学校のときも成績はよくなかったのですが、なぜよくなかったのかと言えば、勉強しなかったからです。で、なぜ勉強しなかったのかといえば、勉強しようと思わなかったからです。「意欲」ってやつです。

もう、それには理由なんかありません。「意欲」があるないに理由なんてないでしょ?ないもんはないんだから。だから、親が深刻そうに溜息をついてこちらを見ても、もうどうしようもありませんでした。

でも、親のそういう態度をまったく意に介さないだけの図太さがあればいいのですが、「悪いなぁ」とは思っていました。深刻に。

だから、五味さんの上の言葉にはとても同感してしまいます。面白くないものは面白くないし、わからないものはわからない。

ただそれでも、小学生ぐらいの頃から、成績のよい子は幸せに生活しているのではないか、と想像するようにはなりました。だから、勉強はしないけど、勉強できないことによる不幸感だけは背負っていました。

子供の大半はそういう感じで、過しているのではないでしょうか。

まあ、僕の親と、今の親御さんとでは大分歳は離れていますから、今の親御さんが子供にどう接しているのかは、分かりません。

多くの子供にとって勉強がつまらないという事実は今でも変わらないと思いますが、今の親はもっと腫れ物に触るような感じで子供に接してるのかな。もちろん、だから子供は幸せかというと、そういうものでもないでしょうけど。無理やり勉強させられているという図式は変わらないわけですから、つまらないものはつまらないでしょう。

子供の9割以上は不幸を感じて学校で勉強しているし、ひょっとしたら大人の9割は不幸を感じて職場で過しているのかもしれません。不思議ですね、社会って。

不幸を感じているのがマジョリティであるのなら、不幸にならないような社会にすればいいわけです。勉強はしたなくないうちは、しなくてよい、とか。

本当にそうすれば、どうなるでしょうかね。多くの大人は、「そんなことをすれば、子供はみんな馬鹿になっちゃう」と言うでしょうね。

突然「3+8=11です」、はい、次は生物、「おなかの中には、大腸があって小腸があて…」。そんなこと、とりあえず知らなくても生きてゆけるのに、知らなくちゃいけないという前提で提示される足し算、大腸小腸はかなりつらいものがあります。知りたくなったら知ればいい、知りたいのにわからなければ、どんどん自分で学んでいって、ついには、杉田玄白みたいになって、『解体新書』まで行くなんて迫力、今の「とりあえずなんでも教えておく」体制では、なかなか期待できません。

「3+8=11」は、子供が知りたいと思わないうちは知らなくていいって、思える大人は少ないと思います。僕も、もし子供がいれば、そう思う勇気が出るかどうかはわかりません。だって、私たちの身の回りの技術は、「3+8=11」を学ぶことによって、可能になっているのですから。

でもね。そんな技術を普及したり理解したりするような人たち。大学の理系学部に入るような人たち。そういう人たちって、大人に言われなくても、好きでどんどん数学や理科を勉強しちゃったっていう人たちばかりなんじゃないでしょうか。

僕は大学時代に理系の友達がたくさんいましたが、彼らはやっぱり数学や理科が好きなんですよ。好きだから、工学部や理学部に入ったんですよ。好きじゃなかったら、あんな勉強ばかりさせられる学部にいれませんて。

だから、べつに子供たち全員に無理やり数学や理科を教えなくても、私たちの身の回りは大して変わらないんじゃないでしょうか。

でも、五味さんの言葉に感動したからといって、じゃあ学校制度を具体的に改革すればいいのかと言うと、ちょっとよくわかりません。いきなり「変革」するのは、それはそれでよくない気がするし。

だから、具体的にどうすればいいかはわからないですが、とりあえず、「子供に勉強させていることがすべてその子のためになる」とは思わない、そういう勇気が欲しいですね。


大人問題
五味 太郎
講談社

このアイテムの詳細を見る

うっかり

2007年07月20日 | 日記

昨日、メーラーの「削除済みアイテム」にあるメールを「○○」という自分の名前で検索したら、5月に先輩から所属・住所変更のお知らせメールが来ていたことが判明しました。迷惑メールと一緒に削除してしまっていたのです。

怖いですねぇ。一日何十通と迷惑メールは来るので、件名で判断して削除していたら、ミスしてしまっていたんですね。

今回は無事に見つかってよかったです。同じような調子でこれまでも友人・知人からのメールを削除していたんじゃないだろうか。

このブログを見てくださっている方で、僕を個人的に知っていて、メールを送ったのに返事が来ないという人がいたら、どうかもう一度送ってください。お願いします。
<(_ _)>

トルシエの言葉

2007年07月19日 | スポーツ
昨日、本屋でトルシエさんの新刊『オシムジャパンよ!』みたいな題名の本を読みました。パラパラっと。結構面白そうだったので、もうちょっとじっくり読んでみたいです。

その中で印象だった記述の一つが、人間関係の悪さは日本のワールドカップでの惨敗の理由にはならない、というもの。彼が言うには、代表レベルのチームに集まる選手の間で問題が起きるのは普通のことだ、ということです。去年のワールドカップでは、フランスもドイツも最初は同じような問題を抱えていたとか。それが勝利という結果によって一つにまとまっただけ、とのこと。

なんとなく納得。

サッカーや野球をする人・子供たちというのは、それらのスポーツが文化的に主要な価値をもつため、傲慢になる傾向があると思う。その傲慢な人たちの中でトップレベルの人が集まるのだから、これまたエゴ・妬み・争いが渦巻くのは当然。

私たちはスポーツ選手にロマンを見るけど、部活動をしていた経験から言えば、集団スポーツのチーム内部って、イジメ・暴行・村八分・派閥争いというのは当たり前なんだと思う。たとえプロでも。

悲しいことだけれど。

『猪口さん、なぜ少子化が問題なのですか?』(猪口邦子・勝間和代著)

2007年07月19日 | Book
『猪口さん、なぜ少子化が問題なのですか?』(猪口邦子・勝間和代著)という最近出版された本を読みました。少子化にまつわる問題について、いろいろ点から説明されています。少子化については日々いろいろな情報が新聞で報道されますが、この本を通せば、頭の中で情報の分類がすっきりするのではないかと思います。

著者の一人・衆院議員の猪口さんが出された政策の細かな点や、人口動態などのデータなどで知らなかった点を私は知ることができましたが、この問題に向き合う根本的な態度は、すでに少なくない人に共有されているもののようにも思いました(ただ、男性企業中心文化の牙城はそれでも固いのかもしれません)。

その中で私が「あっ、そうかぁ」と思わされたのは、少子化対策はこれから5年が勝負であって、今を逃すと手遅れになる、というもの。つまり、人口構成がピラミッドの頂点を形づくる層が子供を作ることができるこの五年のうちに少子化対策が効果を出す必要があるということ。

考えれば当たり前のことだし、すでに報道されていることなのでしょうが、私はこれまで気づかなかった点でした。

問題が明らかになってからでは遅いのであって(もう明らかになっていると言う話もあるけど)、まさに今取り組む必要がある、とのことです。

今検討され・打ち出されている具体的な政策に関しても、私の知らないことも多く、この問題のポイントを教えてくれます。


ただ、少子化の原因に関しては、切込みがもうちょっと欲しかった気もします。

猪口さんが社会政策としての少子化対策が日本で遅れている点を、勝間さんがワーキングマザーの視点から子供を産みながら働く条件の整備の遅れを述べているのですが、そのような外的要因だけではなく、独身の「若い人」たちの男女関係に関する心理的な問題のことはもっと触れて欲しいようにも思いました。それはとても大きいと思うから。

もちろんその点も触れられていて、お金はあるけど出会いがないという相談が多くの女性から著者には寄せられているそうです。

そうした女性たちも、結婚を第一目的にすれば、お見合いなどで出会いはあるはずです。にもかかわらず、そうした選択には踏み切れないのは、やはり「結婚」という制度への参加を第一目的にはできないからで、その代わりに「運命の人との出会い」や「パートナーとの充実した関係」という、とらえどころのない、しかし切実な欲求をもっているからです。

こういう問題は、おそらく社会学者や評論家が膨大に論じつくしているだろう問題ですが、すべてが自分の選択にかかってくるために、そのための心理的プレッシャーが大きくなって、人は結局何も選べなくなっているのです。

最近は以前ほどでもありませんが、「恋愛」という言葉がメディアに溢れることで、「恋愛」しなきゃというプレッシャーは高まりますが、その中で、男女の中で一定の割合は、必ずしも「恋愛」に向いているわけではないかもしれません。しかし、昔ならそういう人たちも、「恋愛」を経なくても結婚にたどり着けたのでしょう。

しかし、戦後の社会ではすべての男女は「恋愛」という、偶然性に左右されるプロセスで男女関係に習熟した人でなければ、結婚に到達できない傾向が顕著になっています。

こうした文化的・心理的問題は、社会政策の問題とどうリンクするだろうか?と思いました。