joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

大阪で友達に再会する

2004年10月31日 | 日記
きのう、ドイツから来て日本中を旅行していた友達が再び大阪に帰ってきて、また会いました。今日のお昼にヨーロッパに向けて帰ったはずで、最後の日を一緒に過ごしたのです。

台風もあり地震もあり心配してたけど、災害には遭遇しなかったみたい。よかったです。ドイツには台風も地震も来ないので、さすがにすこし驚いていました。


僕は彼女とドイツで同じ寮で過ごしていたとき、彼女にとって僕がどのくらいの存在なのかわかりませんでした。だって、向こうにとっては留学生なんて言葉があまり通じないし、好奇心で会話をすることがあっても、本当にこちらに興味をもってくれているかわからないじゃないですか。

同じような不安は留学した人なら多かれ少なかれあると思います。

わたしたちが留学すると、毎日の生活が大変で誰かにすがりたいし、できれば現地の人と深い知り合いになりたい。でも向こうは向こうで生活があり、体が大きい子供にかかわるのは基本的に面倒なはずです。それは、わたしたちが留学生(とくにアジアから来た)にかかわるときの気持ちを思い出せば想像できるでしょう。


今回彼女と再会して、僕が思っているよりも彼女は僕のことを友達と思ってくれていたのかもしれない、と感じました。僕が、どちらかと言うと、一人一人を観察して、間合いを測りながら人に接しようとするのとは対照的に、彼女は特別な思い入れとか関係なく、人と友達になり、楽しむ人みたいでした。だから、こっちもそうすればよかったのです。


彼女たちのほかの日本人の友達とも一緒したのだけど、その中には先日結婚したばかりのカップルもいました。とてもお似合いで、いちゃいちゃしていました。松坂くんのことも書いたばかりだったし、きのうはラブラブデーだったのね。

心も身体も訴えている

2004年10月31日 | reflexion
おとついにあることがきっかけとなってとても大きな気分の落ち込みがありました。この気分の落ち込みはちょっと特殊なものでした。

わたしたちの気分は、そのときの感情によって左右されます。感情というのはたしかに身体的な反応ですが、しかしわたしたちは感情の動きをむしろ「こころ」という言葉で表現します。

うれしい、楽しい、悲しい、怖い、これらの感情の動きは、身体の問題というより、「こころ」の問題だとわたしたちは考えます。


しかし今回の僕の落ち込みがもたらした作用は、単純な身体の不調とは言いにくいけれど、同時に感情の揺れというものを越えているようにも感じたのです。

それはなにか、「紫色の煙をした毒素が胸の中に渦巻いている」といった表現があう現象でした。毒によって気分が悪くなる、という感じで、それによって身体が動かなくなるような感じなのです。ペンのインクを飲んだら、こんな感じなのかもしれません。飲んだことはないけれど。

ちょっと気持ち悪い話ですね。でも、そういう事態だったのです。

このことのきっかけとなったことは、最初はたんなる身体の不調ではなく、わたしの人生上の問題と密接に結びついていました。今回のことからどういうことがわかるのか、自分を観察していきたいと思っています。

緑色の冷たさ

2004年10月27日 | 見たこと感じたこと
きのうは午後のあいだ、ずっと泣いていました。涙は出ませんでしたが、からだが感じている感情をもっと感じようとすると、しみるような冷たさがからだの中で悲鳴を上げているようなのです。それは、濃い緑色のような、暗い気持ちにさせる感情でした。

これは、きのうの天気も関係したのでしょう。寒くて雨が降っていました。外は灰色で、アスファルトはいつも以上に濃い暗い色のように感じました。雨が降ると、アスファルトは雨が跳ね返り、コンクリートの冷たさがよけいに身体が伝わってきます。

小学生の頃を身体が思い出したのかもしれません。天気が悪いときは自分が子供にかえったように感じます。世界は大きく暗く、しかし自分は何もできないのです。同時に、またそれ以上に、両親との関係を思い出しました。世界と同様に、親はとても大きく、また暗いときもありました。

感情をある程度感じると、少し早い息をしながらも、何かを通過したような感覚になりました。らくなところへ出たように思います。


(その夜は、とてもたくさんの展開のある夢を見ました。夢というのは、日中の経験で呼び起こされた昔の記憶を再整理しているのだそうです)

できること

2004年10月26日 | reflexion
以前、ある大学教授が、自分は自分の仕事に罪悪感をもっている、と新聞に書いていました。自分の好きなことを仕事にできたことに後ろめたい気持ちを抱いている、と正直に自分の内面を吐露していました。

おそらく彼の中では、世の中の大半の人は自分がしたくないことを仕事にしている、という予想があるのだと思います。それは、当たっているのかもしれません。


わたしにも、他の人が苦しんでいるときに、自分が享受している快適さに罪悪感をもちやすい傾向があります。なにか、自分が悪いことをしているような感じになるのです。

そこには、つらさや苦しみの経験こそ人生で最高のものであるという思い込みがあるのかもしれません。そして、それらを経験していないこと、つまりつらさや苦しみというものをわかっていないことは、人間として劣っていることのしるしのようにも考えているのかもしれません。


でも、おそらくそんな考えは間違いだし、そんな考えを持っていては苦しんでいる人を助けることもできないのです。

(僕の20年近く前の記憶が正しければ)アンネ・フランクは、彼女の母親が「苦しんでいる人に比べれば、自分たちは恵まれている」と彼女に言ったのに対し、「わたしなら、自然の中で走り回ることの素晴らしさを子供に教える」という意味のことを考えました。

わたしたちはしあわせやよろこびを感じたほうがいいし、それがまわりの人や世界に対してできる最高のことだと思うのです。

その道はただ一つ

2004年10月23日 | reflexion
先日(10月19日)のブログで、

「起業ブームにのって、他人の冒険物語を、自分の冒険物語と思いこんで歩んでしまうことは、ボクはとても悲しいと思う。
それはアウトローにみえて、実際には、常識に染まってしまっているじゃないかな?」

という神田昌典さんの言葉を引用しました(『神田昌典の毎日が奇跡』10月10日の記事より)。


彼の言うように、わたしたちが「成功」を夢見るとき、それは多かれ少なかれ、既存の成功物語に憧れているのだと思います。誰もが手探りで生きるわけですから、最初は、自分の道を示してくれそうな物語を私たちは自分の支えにします。

しかし、もし「失敗」したとします。とても悲しいですね。自分はその「成功」のために頑張ったんだと思っているのですから。

ただ、じつはこの「失敗」も、「成功」と同じように、既存の「失敗物語」を鵜呑みにして「自分は失敗したんだぁ」と嘆いている場合が多いのではないかと、昨日ふと思いました。


絶望や悲しみがわたしたちを襲うことがあります。言い争いであいつに負けた、会社に正当に評価されなかった、恋人に振られた、経営が上手く行かなかった、家族関係が上手く行かない、夢が挫折した、等々。

もちろんこれらの事実は「いいこと」ではないでしょう。ただ、今の私たちはこれらのことが起きたときに、世の中に流布する「失敗物語」に影響されて必要以上に悲しんでいるのかもしれない、とも思えるのです。

オーディションに落ちたこと、経営が上手く行かないこと、恋人が去っていったこと、これらは一つの事実です。でも、それらが何か社会的な敗者であるかのような烙印を押す風潮が今は日本では極端に強まっているように思います。「勝ち組負け組」とか「ダメ出し」とか、レッテル張りの風潮がとても強いように感じます。

それらの失敗について、個人の無責任さとか、社会的状況とか、さまざまなストーリーをメディアや世の中は作り出して、その「失敗」の経験を一つの週刊誌の記事のようにしてしまいます。

こうしたレッテルを貼られると、それを剥がすのがとても難しく感じるんじゃないでしょうか。レッテルってそういうものですよね。


じゃあ、一体どうすればいいのでしょう?

僕が思うに、まず、自分の失敗を、世の中に流布している「失敗物語」で解釈せずに、ちゃんと自分固有の「失敗」として解釈することじゃないでしょうか。

世の中の「失敗物語」は、失敗者に“烙印”を押すので、抜け道が見えにくくなってしまいます。一度押された跡は中々消えないように。

でも、その失敗が自分にとって固有であること、社会的にどう解釈されようと、その失敗を経験したのはたしかに自分であり、その経験もひっくるめて自分という人間が存在することを身体で感じることができれば、それはあなただけの失敗になるのじゃないでしょうか。

結婚できない人はたくさんいますし、昇進できない人もたくさんいます。そしてその原因を現代の人々の心理に求めて説明する学者もいるし、社会的制度に求める評論家もいます。

しかし、その経験をしているのはたしかにそのひとだけなのですから、まずそのひと自身がその経験と自分の人生が結びついていることを感じることが大切なように思えます。

そして、その失敗がこの世界で唯一つのものであるように、あなたが生み出せる「成功」も世界で唯一つのものでしかありえないでしょう。

そう考えると、失敗も成功もじつは同じものなのかもしれない、と思います。どちらも、その人が固有に体験したものであり、それはただ一つだけのその人が通ってきた道なのですから。

情けは無用?

2004年10月22日 | スポーツ
台風が過ぎ去り、昨日に続いて気持ちのいい朝です。今日も晴れそうです。

ヤンキースが負けてしまいましたね。最初プレーオフで勝ち続けていた頃は、「強すぎて面白くないなぁ」と思っていたけれど、いざ負けてみるとなんだかかわいそうですね(笑)。

“Water” by Makiko Hirohashi

2004年10月21日 | Music
広橋真紀子さんという作曲家の方をご存知ですか?

彼女が作った“Water”というインストゥルメンタル・アルバムがあります。デラというリラクゼーョンCDを販売している会社から出されたもので、レコード店などでデラのCDが集められた棚を見かけたことのある人も多いと思います(広橋真紀子さんのHPで、この“Water”が試聴できます。デラのページでも可能です)。

僕がこの“Water”を買ったのはもう5年ぐらい前になると思います。当時東京の国立という場所に住んでいた僕は、それまでの焦りすぎから頭がもう働かなくなりかけていて、どうにかしなければと感じていました。


そのころに金盛浦子さんなんかの著書を読み始め、こころをゆっくりさせていくことに興味を持ち始めました。それ以来、こころをあつかった本なんかを今も読んでいます。

“Water”はそういう疲れていたときに、そのジャケットを見て、買うのが当たり前であるかのようにして買ったCDです。水色のきれいなジャケットと試聴した水の音のサウンドにひきつけられたのです。

中身については、聴いて下さいとしかやっぱり言えないのですが、どの曲もとても透き通っている素敵な曲です。

「癒し系」のサウンドは世の中に無数にありますが、わたしにとってこのCDは安易に人を癒そうとするものではなく、純粋に楽曲の素晴らしさで癒してくれるもののように感じています。他にもいろいろ癒しサウンドを試してみましたが、やはりわたしにとってこれはベストの一つです。

5年前に買ったものですが、それからずっと、今でも聴き続けています。同じものをこんなに聴き続けるのは、ちょっと他にはありません。



同時に、これを聴くと買った当時のことをよく思い出します。自由にあった時間を怠惰に過ごしただけのように思ったこともありますが、じつはとても豊かな時間を過ごしていたのかもしれないとも感じます。

このCDと、夜に国立のドトールの2階で飲むロイヤル・ミルクティー、他にも『なまけ者の悟り方』や江国香織との出会いなど、それまでとはちがう自分をつくりはじめたのがこの頃だったように思います。

そのころ出会ったものと今も深くつきあっているとは言えないけれど、その延長線上にじぶんはいるんだなということが、じぶんには分かります。

Lessons in Life

2004年10月20日 | reflexion
ここ何日か疲れる日を過ごすことがあります。身体が重い感じで憂鬱でした。今朝は、その疲れでぐっと眠ってすっきりしたかな。


9月のブログで、ライフコンパスというコンピューター・ソフトを紹介しました。簡単に言えば、このソフトに生年月日を打ち込むと、その人の性格や人生上の特徴、また気分の調子がいつ良くていつ悪いか、さらには、自分と他人の生年月日を打ち込むと、ビジネスや恋愛・結婚など様々な場面におけるその人と自分との相性などがわかる魔法のような商品です。

このソフトの無料説明会に行ったときに、参加者それぞれにその人の10月の気分の調子のようなものを記した紙が配られました(もっとも、「この商品は占いではありません」と主催者の方はおっしゃっていました)。

私も10月の私の気分の調子を一日々々記した「私の天気予報 10月」をいただきました。

その「天気予報」をみながらこれまで毎日過ごしてきましたが、これはそこそこ当たっているんじゃないかなぁと感じています


この紙では、その日の調子を示すレベルが次のように5段階に分けられています。

A : 最高です。思ったとおりに行動しましょう。
B : 好調です。順調にものごとが進むでしょう。
C : 良い日です。でも調子に乗り過ぎないように!
D : 普通です。少しイライラするかも!
E : 不調です。なかなか思い通りにならないかも!


わたし自身の「10月の天気予報」を見ると、ABCのうちのどれかの日が7日、Dの日が18日、Eの日が6日でした。

ここからわかるのは、DとEを合わせると、一ヶ月のうち24日が少しイライラするかとてもイライラする可能性のある日なのです。そうでなくても、なにもない、ということ自体も多少のいやな感じを感じているでしょう。

この割合がもし人生全般にもあてはまるとするならば、人生のうち6分の5の時間は多少イライラしていることになります。僕の今年の10月がもし特別DとEの日が多かったのだとしても、3分の2以上はイライラする可能性のある日だと考えることもできます。

もちろん、このライフコンパスという商品が適切に人の調子を言い当てることのできるものかどうなのかは、まだわかりません。

ただ、ライフコンパスが本当に正しいかどうかは別にしても、人生の3分の2以上の時間は、私たちはイライラしている退屈さを感じているのかもしれないという洞察は、そのまま受け入れちゃってもいいような気がします。

人間は、起きている間は、本来イライラするか退屈するもの。そのイライラや退屈とうまくつきあっていくことを学ぶのが人生だと思うのも、いいじゃないですか。


(書いていてなんか「長老」みたいだ。そういえば中島らもさんが、日本人とフランス人はやたらと「人生」という言葉を使いたがると言ってたなぁ)

自分がおしえてくれる

2004年10月19日 | 日記
経営コンサルタントでベストセラー作家の神田昌典さんがブログで次のようなことを言っていました。


「独立するかどうかなんて、実は、どうでもいい。起業ブームにのって、他人の冒険物語を、自分の冒険物語と思いこんで歩んでしまうことは、ボクはとても悲しいと思う。
それはアウトローにみえて、実際には、常識に染まってしまっているじゃないかな?

大きな舞台で、才能を生かせる人もいる。小さな舞台で自由に表現できる人もいる。
人生は、ひとそれぞれ。自分の人生なんだから、自分で決めたいよね」(10月10日「会社で息苦しく感じる人が成功する時代2」より)。


これを読んだときぼくは、「そうそう、それをもっと早く、もっと大きな声で言ってよー」と思いました。

神田さんや本田健さんの著書が人気を集めるのは、ただたんに起業してお金が儲かる方法を教えているからではなく、なにかそこにこれまでとは異なる人生の価値観が書かれてあるからだと思います。

たしかに、いい大学を出ていい会社に入るというこれまでの価値観をわたしたちは疑い始めました。また同時に、「勝ち組負け組」という言葉に象徴されるように経済的な危機感と他人への嫉妬を多くの人が感じている中で、その危機感を越えた価値観をわたしたちは求めています。

そういう中で神田さんや本田さんは、ビジネスで成功することは、経済的な競争の「勝ち負け」とは違う次元で人の人生を豊かにすること、ビジネスの成功と人間関係やその人の人生の豊かさが結びつく可能性を示しました。

彼らのそういう本を読むことでわたしたちは、自分たちの経済的な危機感を克服すると同時に、その危機感の源泉にあった心理的競争を越える価値観を手に入れることができるのではないか、という希望をもち始めたのだと思うのです。

そういう可能性を示してくれた彼らの著書は、とてもすばらしいと思います。

ただ同時に、誰もが起業に向いているわけでもないし、なにか新しいことに踏み込むタイミングもひとそれぞれだよなぁ、というミもフタもない感想も僕の中のどこかにもありました。

でも、根が単純だから、すばらしい文章に乗せられて、「やっぱり起業して成功する人がこれからの社会の理想なのかな?」なんて思ったりもしたのです(もっとも、神田さんの本にしても本田さんの本にしても、冷静に読めば、安易に起業しては絶対いけませんよというメッセージも強調されているのだけど)。

だから、神田さんが上のように言ってくれたことで、なんだかこころに引っかかっていた小さいものが取れたような感じがしたのです。


生きていくうえでのすばらしいアイデアは世の中にたくさんある。でも、それは自分に合ったかたちでしか咀嚼できないし、すばらしいアイデアを考える人もきっとそれを望んでいるのです。

目の前にいいアイデアがあるとき、それが自分の心の声にどこで合うのかがはっきりしたとき、はじめてそのアイデアは存在価値が高まるのかもしれません。

じぶんの奥底から聴こえてくる声

2004年10月18日 | reflexion
大阪に“Eagle & Bear”という心理トレーニングを提供する会社があります。その会社を経営するのは心理トレーナーの池内秀行さんです。わたしはイヴニング・セミナーに何度か参加させてもらったことがあるのですが、こころのしくみについて論理的にかつ実感に届くようにとてもうまく説明されていて、話を聴くだけでいつも何か新しい体験をしたような感じがしました。

その池内さんが先日突然に、今年はもう予定以上のセミナーを行わないなど、仕事のペースをゆっくりしていく可能性を告知しました。

ビジネスに疎い僕には、独立して会社を経営することは少ないチャンスを生かすことのように思えて、そのなかで“Eagle & Bear”は順調に事業を展開しているようなので、この時期にペースをゆっくりすることに少し驚きました。

そのことに関して池内さんがブログ(10月16日付)の中で

「どうも、ここ2年程、自分の奥底から聞こえてくる声を無視していたようである。振り返ると約16年間、ひたすら攻めの人生を歩んできた。しかし、そろそろ、動の人生から静の人生に移行する、最後のタイミングが来ているようである。ここで、もがくと、宇宙から大きなサインがやってきそうである。」

と書かれてあったのが印象的でした。

「ここで、もがくと、宇宙から大きなサインがやってきそうである」、か。


自分の奥底から聞こえてくる声、僕にとって言い換えれば心の声を聴く。これはどういうことだろう?

心の声を聴く、というのは難しそうだけれど、心の声を無視する、というのは分かりそうな気もする。

心の声を無視するということの典型が、習慣かもしれない。それも、「~ねばならない」という判断にもとづいた習慣です。

この「~ねばらない」はいろいろな場面に潜んでいますね。分かりやすいのは、働かねば、勉強しなければ、という類のものだと思います。多くの人にとって働くことや勉強は一種の義務・課題なので、それがこころ(と身体)を縛ることは理解しやすいと思います。

それに対してやっかいなのは、自分は好きでやっているつもりだけど、じつはこころの声を無視して、義務としてやっていたというもの。

映画が好きだから月に何本か見なければ、日記・ブログを書かなければ、どんなメールにも返事を書かなければ、絵を描かなければ、友達からの誘いに応えなければ、あの人の新刊は読まなければ。さらには、他人には「与え」なければ、他人の好意は「受け取ら」なければ、などなど。

もちろん「しなければ」とは頭でも思っていないし、ほんとに好きでそうしていると思っているのだけど、じつは「しなければ」になっていたりするのです。子供や伴侶を「愛さなければ」と思ってしまうこともあるのでしょう。

自分の奥底から聴こえてくる声、か。わたしもいつも聴いていたいです。

大阪を案内する

2004年10月17日 | 日記
昨日は、わたしが留学していたドイツの大学の寮で台所とトイレとシャワーを共有していたドイツ人の友達が日本に旅行に来たので、一日大阪を案内してきました。なかなか疲れたばい。

京都や神戸は昨日までに観光していたので大阪を観たいということなのですが、大阪なんてなにもないじゃんと思ってどうしようとか迷っていました。

それでも空中庭園や大阪城、なんばを歩いただけで一日があっという間に過ぎていきました。こっちはこれだけで足が棒になったようなのに、彼女たち(二人)は昨日まで京都と神戸を三日間歩き通し。今日は奈良で明日からは広島・岡山で三日を過ごし、また京都に戻ってさらに東京でも一週間ほど過ごすという。  旅行者のエネルギーはすさまじいです。まあ、今度はいつ来れるかわからないし、彼女たちにとって念願の日本旅行なので、観れるものは何でも観てやろうというやる気が満々みたいでした。

彼女たちにとって意外だったのは、日本の物価が予想していたよりも安いこと。わたしも日本の物価はヨーロッパにくらべてもそれほど高くないように思います。

というか、物価が安いというよりも、かなり幅広い価格で商品が売られていると言ったほうが適切かもしれません。

たとえばドイツではある物、例えば食品にしても衣服にしても、一つの物の価格はどこの店に行ってもそれほど変わらないという印象がありました。

それに対して日本では店(会社)によって価格の提供がかなり違ってくる。セーターがユニクロでは2千円で売られ、大丸では2万円で売られているというように。

物価の平均を取ればやはり日本のほうがヨーロッパの水準よりも高いかもしれません。食品なんかはやはりドイツの方が安いでしょう。しかし日本では、ある店に行けば極端に商品が安くなるという感じです。

その点で、お客の関心に対して、やはり日本の商売人のほうが目配りが効いている、という感じはします。

あと、ヨドバシカメラのテーマソングに笑っていました(「カメラはヨドバシカ・メ・ラ♪」)。あれはドイツの教会で歌う唄なんだそうです。日本人はホントにやることがすごいですねぇ。

『ビューティフル・マインド』

2004年10月16日 | 映画・ドラマ
『ビューティル・マインド』という映画があります。アカデミー賞作品賞を受賞したので、ご存知の方も多いと思います。私は映画館とビデオで計4回観ました。とてもテンポのいい、観やすい映画です。

これは、アメリカの天才的な数学者が、統合失調症という精神の病によって、いないはずの人間の幻覚に苦しむお話です。主人公は実在の人物で、今も大学で教えている、ノーベル賞学者です。


(以下、ネタばれあり)


この映画は極端に病が進行した人物を取り上げているのですが、私にはこれは他人事に思えませんでした。ようするに、非現実的な思い込みは誰にでもあるし、誰もがその思い込みに苦しめられているからです。

私の中にも数多くの思い込みがあります。その中には、「こうはなりたくない」「こんなひとになってしまったら自分の人生は最悪だ」という自分に対するイメージもあります。

このイメージをどうやって振り払い捨てるかを考えることもあります。だって、「想いは現実化する」って、多くの本で言われているじゃないですか。

でも、振り払おうとするのは、適切な行為ではないのでしょう。

『ビューティフル・マインド』の主人公、天才数学者ジョン・ナッシュは、幻想の人物たちの存在に苦しみますが、その存在を消すことで立ち直ったのではありませんでした。

幻覚が幻覚であることを認め、自分の病を治そうと決意したときは、彼はその幻覚の人物たちに必死で抵抗しようとしました。すると、うれしそうに幻覚は彼にまとわりつきました。

それに対し、彼が立ち直っていったのは、むしろその幻覚が自分のそばに居座ることを(しぶしぶながらも)受け入れていったときでした。

最後のノーベル賞授賞式のシーンで、幻覚の人物たちと挨拶を交わすナッシュの姿は彼と病との関係を表す象徴的なシーンだったと思いますし、それは多くの精神の病が治癒されていく過程の象徴なのかもしれません。

私たちの心には誰にもダークな映像があるのだと思います。個人的な人間関係のトラブルから、週刊誌や新聞の記事に至るまで、それは私たちの心のダークな映像が投射されているのでしょう。必要なのは、その映像と共にいることを選択することなのかもしれません。

プリンスについて(音楽の話など)

2004年10月15日 | Music
音楽の話についてなど。

最近、プリンスの “One Nite Alone…Live!”というアルバムを聴いています。

プリンスはわたしが高校生時代にもっとも聴いていたアーティストです。あれからもう何年もたつけど、彼は今でもこうして現役でやっています。今年の3月には「ロックの殿堂」に入ったとかで、話題にもなったそうです。

90年代には一時迷走していたようなプリンスだけど、最近は自分の足場をしっかり確かめたみたいで、その音楽も迷いのない肯定性が感じられます。


音楽ということで最近興味深かった言葉が、七田眞さんの近著の中にありました。七田さんによれば、わたしたちの脳は年をとるにつれて退化するらしく、それが原因で速いテンポの音楽についていけなくなるそうです。若い人がロックやヒップ・ホップなどを好むのに対し、年輩の人がゆっくりした音楽を好むのは、脳の退化に原因があるということです(でも、ちゃんと脳を活性化させる訓練をすれば、若い脳を保てるそうです。その方法を七田さんは著書で紹介しています)。

これはとても興味深い指摘でした。僕自身は一時クラシックや環境音楽を聴いていた時期がありました。ちょうど精神的に穏やかなものを求めていた時期でもあったので、そういうものを聴いたのですが、僕自身はそのことを、趣味が成熟してきたこととらえていました。ポップ・ミュージックしか興味のなかった自分の中で感受性の変化が起こり、落ち着いた静かなものの中にある微細な興奮を感じ取れるようになったのだと思いました。

でも七田さんの指摘に従えば、ただたんに僕自身の脳が退化しただけだったのです(笑)。まあそれだけで説明しきれることではないでしょうけど。

ただ七田さんの言葉を真面目に受け取ると、よく年輩の人が若い人の音楽を「うるさいだけ」と言うのは、ただ単に脳の回転が速いテンポに追いつけなくなっただけなのです。


話をプリンスに戻します。プリンスの全盛期だった80年代後半では、彼の音楽はただひたすらとんがっていました。とくに
“Around the World in A Day” “Parade”“Sign of The Times”、などの作品はプリンスの名声を決定づけ、彼の存在をミュージシャンの間で神格化させました。

それが90年代前後を境に、それまでの革新性が薄れ、今までの自分の方法論を再生産したようなアルバムが作られていきました。90年代の彼の作品は、クオリティは高いけど、少し退屈なものでした。

80年代の革新性は、プリンス自身の精神的な攻撃性とともに、年齢的に彼の音楽的感覚の鋭さがもっとも発展していたのかもしれません。

それ以降のプリンスは、もはやかつての革新性を取り戻せない中で、しかし単なる再生産ではない音楽をどうやって作るのかに悩んできたのかもしれません。 その中でも"Emancipation"という3枚組み(!)の傑作もありましたが、、90年代のその他のアルバムは、個人的には物足りない感じがしました。

音楽的感覚の変化は、年齢とともにどのミュージシャンにも訪れるものなのでしょう。今のプリンスの音にはかつてのような攻撃性や鋭さはありません。

しかし、2001年に発表された"The Rainbow Children" は、単なる音楽の革新性ではない、しかしただかつての自分の方法論を再生産するだけでもない、新しいプリンスの音楽がありました。多少趣味的なジャズ・ファンクで閉鎖的な雰囲気もありますが、それまでの経験を踏まえながら、時の流れに自然に身を任せその瞬間に出てくる音を奏でるようなプリンスがそこにいました。

“One Nite Alon...Live!”はその"The Rainbow Children"の楽曲を中心に構成された、プリンスの実に楽しそうなライヴ演奏が収められたアルバムです。The Rainbow Childrenの閉鎖性も、ライヴという雰囲気の中で解放された楽しさへと変化しています。興味のある方は聴いてみて下さいね。

こうした過程を経て、プリンスはことしの5月に"Musicology"というとても生き生きしたアルバムを発表しました。

ダイエーについて

2004年10月14日 | 店舗を観察して
御存知のように、ダイエーが産業再生機構に自社の再建を委ねるそうです。なんだかテレビのニュースの扱いを見ていると、ダイエーが倒産でもしたかのような悲壮感が漂っているのですが、「再生」機構なんだから、もっとポジティヴな報道をしてもいいとも思います。

僕自身の個人的な消費者感覚からすると、今のダイエーに足を踏み入れると、なんだか物悲しい気がする。これは、うちの近くの地方店だけじゃなく、例えば神戸の中心地のダイエーに入ってもそんな感じがします。たとえ人がある程度入っていても。

なぜなのだろう。なんだか、今のダイエーは、まず廊下がとても安っぽい感じがする。適当に汚れている白色という感じで、他に壁もただ薄いコンクリートがあるだけという感じで、建物にワクワク感がないのです。

これは単に経費の問題なのだろうか。たとえば、一頃ほどではないとしても、ユニクロの店には活気がある(or戻ってきた)。でもユニクロの商品は安いし、ユニクロの建物も取り立てて豪華な内装がされているわけではない。

そこには一つのテーマを打ち出しているから、「今自分はユニクロの価値観(安いけど、清潔でシック)を共有しているのだ」という気分にお客はなれるのだと思います。ユニクロの店に入るお客は、「神様」というより、お金を出して、「ユニクロ」という一つのストーリーに出演・参加しているのかもしれません。

これはユニクロだけじゃなく、スターバックスやHMV、amazon、なんかにも共通しているように思います。そのお店が打ち出す価値観、ライススタイルに参加することに、お客自身がワクワクしている。

関西ではあまり見かけないけど、小売ではマツモトキヨシなんかもそうなのかもしれませんね。

それに対してダイエーはどんなストーリを出してくれていただろう。昔はともかく、最近のダイエーはだだっぴろい建物に整然と商品が置かれていただけで、その整然さが逆に退屈感をもたらしていました。

たしかに安いものも置いているけど、なんだかただ商品を置いているだけ、っていう感じで、足を踏み入れても全然ワクワクしない。まあ、主婦層の人はもっとべつのことを感じているかもしれないし、うちの近所のダイエーはそこそこ繁盛しているみたいだけど

(ソース)

Was fuer eine schoene Welt!

2004年10月12日 | 見たこと感じたこと
10月だというのに、日中は暑い日が続きます。今年の夏の暑さが続いているようです。

木にはサクラが咲いていました。台風が過ぎて暖かくなり、春が来たと勘違いしたいのかもしれません。

陽が差すとすべてのものが鮮やかな色になるようです。空には青い晴れ間があり、葉は緑にみえ、夕方は画家が描いたような空になります。

この光景を見て、世界はすばらしいのだといつも気づけたらと思います。