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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 2

2006年10月05日 | Book

「『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 1」からの続き


精神障害における“自己”

ここで、統合失調症と強迫神経症との違いを筆者は指摘します。

統合失調症と強迫神経症が類似しているのは、強迫性には「不安に対して意識性を高めて対抗しようとする」側面がある点です(徹底的な確認など)。

しかし強迫性ではこの「意識性の高まり」は決して限界を突破せず、つまり高まりすぎて意識がもはや機能しなくなるという事態には至らず、高まりの上限でストップして、痙攣的に“確認”を反復させます(45頁)。

それに対し、統合失調症とは、強迫性と同様に認識の“統合”を追求するのですが、その追及が度を越し、ついに認識システムが“失調”する状態です。「意識の高まり」が限界を突破してしまうわけです。

この限界を突破してしまったときに、たとえば睡眠障害などが起き、睡眠や夢のように自己が「ゆとり」をもって思考の働きを眺めるということが不可能になります。

強迫性においては、「自分をモニターしている自分」(46頁)という再帰性のシステムが、自動反復的に同じ経路をグルグル回っている状態(あたかもタイヤがぬかるみでスリップするように)だとすれば、統合失調症は、もはやこの「自分をモニターしている自分」というものが消え(タイヤが外れるように)、“自己”を正常に認識できなくなった状態を指します。

アメリカの精神科医サリヴァンは、統合失調症以外の精神障害は「セルフの偏った作動」であるが、統合失調症は「セルフ自体の崩壊」だと言ったそうです(54頁)。

このような「セルフ・システム」の機能の麻痺により、患者さんは自他・内外の区別が不明確になります。それは、「意識の天井が開いて青天井となり無限の高みに引き上げられる」または「奈落の底に墜落」(53頁)などと表現されます。二つは正反対ですが、共通しているのは、もはや地に足をつけて“自己”“他者”“世界”というものを認識することが不可能になり、訳の分からないカオスに投げ込まれたようなものでしょうか。

著者によれば、“自己”とは「意識の統一性と共時的・通時的な単一性との妨げになる“解離されるべきもの”を意識の外へ外へ汲み出す」ことによって“自己”を統一したものとして認識できるのですが、統合失調症では“自己”とそれ以外のものを識別する機能が麻痺しているので、この“解離されるべきもの”が一挙に意識の中に奔入してきます(54頁)。著者はこのときの状態を次のように描写します。

「解離された“馴染みのない”観念が出没し、意識はそれらに脈絡をつけ、まとめようとします。そのために意識性を高めようとします。つまり超覚醒状態に入ります。するとノイズを意味あるものとして拾ったり、些細な知覚を重大な事態の予兆として受け取ったりします。」(56頁)。

このときに患者は、強烈な《恐怖》を体験します。


慢性がもたらす困難

著者によれば、統合失調症における幻覚・妄想は、この恐怖を緩和させるために「生命」が逃げ込んでいる場だということです(58頁)。

恐怖とは、対象を明確に知りえていないからこそ起こる体験です(例えば幽霊や死など)。それに対し幻覚・妄想は、意識に対象を与えます。それにより恐怖の体験は和らぎます。思考システムが失調している中で、恐怖に身体が侵されている状況で、その恐怖をやわらげるために、幻覚・妄想を作り出しているということです。思考の失調の中でも、なんとか生命が生き延びるために、最後の手段=自然治癒力を繰り出しているのかもしれません。幻覚・妄想の方が、極度に恐怖に支配された身体からすれば、「ラク」だということです。

また、だからこそ、これらの幻覚・妄想を手放すことは、患者にとってはひじょうに怖ろしいことです。それは、また思考の混乱とカオスの中に投げ込まれることを意味するからです。ここに幻覚・妄想から抜けることの難しさがあると著者は言います(59頁)。

もっとも、この幻覚・妄想も、本来は“解離されるべきもの”が意識に現れているわけで、それゆえ“自己”という意識あるいは精神の統一性を妨げている意味で、患者にとって脅威であり、そこにもまた恐怖は生じています(60頁)。

こうみると、幻覚・妄想とは、少しは恐怖に慣れた状態だと言えるでしょうか。この状態は、しかし症状が重い時期に変わりはないので、いずれにせよ山なりの図で言えば頂上一体の位置にあります。頂上で、足場が揺らいでいる状況で、風に吹かれながらも、一応狭いながらも頂上という足場を得ているので、そこにうずくまって動かない状態です。動こうにも遭難しているので動けないし、たとえ不安定でも頂上にいればなんとか生きていけます。少なくとも本人はそう思い込んでいます。実際は食料が尽きかけ、天候は悪化しているかもしれませんが。

それに対し、頂上から降りることは危険を伴います。その過程では、幻覚・妄想を手放して、自分は世界をちゃんとは認識していないことを自覚する必要があります。“解離されるべきもの”が侵入しているカオティックな世界像が現れていても、その世界像を直視し、自分の思考システムが失調している事実を受け入れる必要があります。そのときはまさに、幻覚・妄想によってなんとか不安定ながらも維持していた偽の“自己”像を直視し、それが偽であることを自覚しなければなりません。自分が真実であると思い込んでいた世界が偽の世界なのですから、その際には言いようのない混乱と恐怖が訪れます。しかしその混乱を受け入れ、自分の認識システムが失調していることを受け入れなければ、それを正常に戻す作業に入ることもできません。

しかし、頂上から降りることができなければ、頂上にいて今は“何とかやっている”「統合失調症」君は、しかし頂上にずっといるため体力は疲労し、食料も少なくなり、動けなくなり、弱ってきます。また同時に、症状を治そうとする「回復」さんも、なかなか降りてこない「統合失調症」君を説得する気力を失っていきます。

「統合失調症」君も「回復」さんも疲れてしまったとき、そこには病気と回復とのせめぎ合いはもはや見られず、まるで「素人同士がだらだらと相撲を続けている」ような弱い力の釣り合いとなります(71頁)。

中井さんは、病気君と回復さんがお互い強い力でせめぎあっている時は、強い緊張状態であり、その時にはなんらかのきっかけでどちらかに針が振れやすくなり、場合によっては事態が好転する場合があるということです。逆に、弱い緊張状態で釣り合ってしまっているときは、症状が慢性的になり、回復し難くなります。

治療者の一つの役割は、この慢性的な状態を再度賦活させるところにあるのかもしれません。カウンセリングなどの特別な空間に意義があるとすれば、一見慢性的な状態にはまり込んだように見える患者を微細に見つめ、一見同じところをグルグル回っているように見える患者の心理の中で、それでもその堂々巡りから抜け出して回復へ向かおうとする動きを見つけるところにあると言えるしょうか。中井さんは慢性の統合失調症を看る治療者に次のようにアドバイスしています。

「慢性患者を慢性患者とみなすのを止めたらいろいろなものが見えてきて離脱への萌芽はその中に混っている。・・・無理をしてでも『慢性患者』というラベルを心の中で強引に剥がすのです。するといろいろな緩急が見えてきます。風の呼吸のような。
 実際、慢性分裂病状態は、睡眠障害と夢活動と身体化と、そして対人関係や日常生活の試みや思わぬ事件がからみあって展開する、きわめて複雑な過程です。慢性分裂病状態は絶えず揺らいでいます。その中に離脱のチャンスが、明滅する灯のように見え隠れしています」(76頁)。

この回復の動きは、慢性という仮の安定状態から抜け出して、混乱に満ちた自分の現実に再度向き合おうとする患者の動きです。それゆえ、そこには勇気と不安が入り混じった気持ちがあります。治療者の役割は、その不安を和らげ、勇気を出せるように導くことかもしれません。

このような慢性状態に関する考察を見ると、これは統合失調症に限らず、多くの心理的問題に共通する傾向のように思えます。慢性化は、たしかに本人にとって具合が悪いように感じられるのですが、同時に“それでもなんとなくやっていけるのでは”という希望を抱かせます。しかし、少なくない場合において、その楽観は打ち砕かれ、先延ばしにしていた問題に直面します。たとえば、銀行のバブル期の貸し出し超過のように。国家財政にも同じことが言えるでしょうか。

不確実の時代と統合失調症


さて、上でも記したように、中井さんは『分裂病と人類』において、この統合失調症を説明する際に、以前にこれと執着気質を対置させていました。私は精神医学には詳しくないのですが、印象では、この「執着気質」は強迫神経症と等値されるものだと思います。

統合失調症が中井さんの言うように“セルフ”の統一を追求しすぎて、世界のあらゆる兆候に意味づけ・因果連関による説明をつけようとする努力であるとするなら、それはどういう点で、執着気質と異なるでしょうか。

執着気質は「復興の論理」であり、“取り返しをつけようとする”態度であり、新しいものを見出すのではなく、元となる状態を想定して、それに近づけようとする努力とされています。

その“取り返しをつける”という想念に固執するとき、観念で描いた状態を人は何としてでも達成しようとします。そこには、“こうあるべき”という「世間」から受けた観念を追及する努力があります。言わば、与えられた課題を果たそうとする努力です。アイデンティティが与えられた課題と同一化してしまっているため、本来の“自己”が置き去りにされ、「世間」「社会」の課題が本人の思考を支配している状態と言えます(この「本来の」という言い方に拒否反応を持つ人もいるかもしれませんが)。しかし本人は、自分が“自己”を見失っているとは思っていません。「世間」「社会」と“自己”との区別ができず、「世間」「社会」のものである観念を“自己”と思い込んでしまっているのです。

この執着気質の場合、だからこそ、「世間」「社会」の側が現在のように混乱の状態に入ると、拠るべき観念が不確かであることが暴露されてしまい、執着気質者は拠りかかるものがなくなり、アイデンティティの危機に陥ります。

それに対し統合失調症は、執着気質者と異なり、世界の微細な変化を察知し、複雑な動きを認知します。世界からの情報を非常に細かく差異化して受け取るので、情報が多く複雑になります。この多く複雑な情報を分類して、“自己”と“他”とを選り分けることでアイデンティティを確立できるのですが、この“自己”の確立の際に、そのアイデンティティの特徴を社会から厳しく規定されてしまうような時代であると、情報の細かな選り分けができなくなります。

もともとあらゆる兆候をつかんでしまうので、インプットされる情報量は増えるのですが、その選り分けも本来は自分ですることで多量の情報を扱えるのに、アイデンティティのあり方を決められると、自分が行なおうとする柔軟な情報の選り分け=“自己”と“他”との区別ができなくなり、多量の情報の扱い方が分からなくなり、すべての情報が思考に入り込んでしまう。

しかし、現在のように時代が混乱し、どういう生き方が正しいのかが分からなくなると、社会からの強制がゆるやかになり、統合失調症親和者は、自分が吸収した情報を自由に自分で選り分け、自分に合った仕方でアイデンティティを確立することができます。それゆえに、新しい時代に適合した新しい人間のあり方を提示できる可能性を持つと言えるでしょうか。

僕自身は執着気質に近いように思いますし、僕の年代はそういう人が多いでしょう。学生時代にはまだ「いい学校に入り、いい組織に入ることが人生の成功だ」という観念が社会を支配していたからです。

しかし、おそらく優良企業への若者の執着という傾向はこれからも残ると思いますが、その執着を手放すことは、より若い世代にとってはずっと簡単になるのかもしれません。

「ニート」「フリーター」「ひきこもり」という行為類型を示す若者の出身階層は低所得世帯だと指摘する人もいます。それは本当かもしれません。これらの行為類型が貧困意識と過労という社会意識への抵抗だとすれば、それらの意識をよりダイレクトに態度で表現し生きることに疲れる人は低所得層に多いと考えられるし、そういう人に囲まれて育った人が「ひきこもる」確率が高くなるとも想像できます。

ただ、それとはべつに、「いい学校に入り、いい組織に入る」という規範を軽やかに手放すことができる人が増えているとすれば、単なる経済状態の函数とは言えない、これまでとは異なる倫理が生れているのだと思います。その倫理の担い手は、統合失調症親和者だと言うのは、図式的な議論でしょうか。


参考:「統合失調症はどんな病気?」 『高知県立精神保健福祉センター ~精神保健福祉について~』

   『看護のための精神医学』 中井久夫・山口直彦(著)

   加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 2

   加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 1

   『西欧精神医学背景史』 中井久夫(著)

   「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 2

   「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 1


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