joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ザ・マインドマップ』 トニー・ブザン(著)

2007年09月30日 | Book
以前、『マインドマップ(R)for kids勉強が楽しくなるノート術』という本を紹介しました。マインドマップというノート法を紹介した本です。

この本でマインドマップというものになんとなく親しんだ私は、それ以来難しそうな本を読むときはマインドマップ的にノートをとりながら読んでいます。

それで「このノート法は自分に合っているかも」と思ってきたので、同じ著者による『ザ・マインドマップ』も読んでみました。

半分ぐらいしか読んでいませんが、その前半部分にマインドマップの方法が書かれてあります。後の半分は応用の仕方について。

たしかに後者の本には前者の本よりは詳しくマインドマップについて書かれてありますが、基本的な考え方は『マインドマップ(R)for kids勉強が楽しくなるノート術』にも書かれてあったみたいです。マインドマップについて知りたい方は、まず『マインドマップ(R)for kids勉強が楽しくなるノート術』から読んだ方がたしかにとっつきやすいのではないでしょうか。その上で『ザ・マインドマップ』を読むとより深く理解できると思います。

私にとってマインドマップがいいと思う点は、上にも書いたけど、難しそうな本や外国語の本を読むときのメモとして最適な感じがします。多そうな情報量を前にすると圧倒されそうな気になりますが、マインドマップでメモしていくと、一つ一つ山を着実に越えていくようで、ストレスが残りません。

ただ私の場合は、意味を一つ一つ確認してメモしながら本のページをめくっているので、時間はかかっていると思います。

その点ではマインドマップの「効率的に情報を処理する」という謳い文句にはそっていないかもしれない。

フォトリーディングと同様にこのマインドマップも、複雑な情報をラクに処理することを宣伝文句にしています。

でも僕にとっては、例えば本を読むときに、今までは難しそうで飛ばしていた部分もこのマインドマップの方法を用いてノートに取ろうとするので、逆に時間がかかっているかもしれない。

でも、膨大で複雑な情報を目の前にしたときのストレスからはかなり解放されると思います。

訳者の神田昌典さんが唱道しているフォトリーディングには馴染めなかった私ですが、このマインドマップとはいい友達になれるかもしれない。

学生やビジネスマンの人たちも、そうでない人たちも、一度試してみてはいかがでしょうか。僕もまだ試行錯誤の段階ですが、今までの箇条書きによるノートのとり方よりは、ストレスがかなり減ります。

僕の場合は、線の書き方はなんとなく分かってきたけど、キーワードの重要性・効用がまだ分かっていないかな。メモを取るときは、どうしても「文」に近づいてしまう。でもマインドマップの長所は、キーワード・単語によって読み手のイメージを喚起することになるので、論理的な文をメモにするとは違うのです。

そのあたりは、まだ僕の「論理・順番」へのこだわりなのかもしれない。マインドマップの公認トレーナーはそれを「官僚制的」と呼んでいます。


ザ・マインドマップ
トニー・ブザン,神田 昌典,バリー・ブザン
ダイヤモンド社

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マティス

2007年09月29日 | 絵画を観て・写真を撮って


今朝はパンとコーヒーを飲みながら、マティスの絵を視ていました。「アクロバット」(1952)など。

マティスの絵は抽象的ですが、その絵の線は太く、視ていて何かこころの奥を「クイッ」と掘り起こされているような感覚になります。

それは、身体的な感覚ですね。

絵を視るということは、心と身に新しい秩序を見つけるということなのだと思います。感動するような絵は、私たちの内面に新しい世界を植え付けます。それは体で感じることでもあるんですね。


情報

2007年09月27日 | 絵画を観て・写真を撮って


我が家が購読している読売新聞には、毎月1回、「名画」をプリントした紙が2枚が一緒に配られてきます(こんなもの)。

今朝は新聞記事を読まずに、その名画を観ていました。モネとセザンヌの絵。

いいですね。朝からはやはり文字を読まずに、絵を見るのが気分にとてもいいです。

「現代人」はたしかに情報をたくさん頭に仕入れる必要があるのでしょうが、朝一番に新聞やテレビニュースに接するのは避けたほうがいいように思います。僕の場合には。

そういえば昨年の今頃は、市立美術館でオルセー美術館展をしていました。今も何かしているのかな。県立博物館では印象派絵画展をたしかしているはず。京都ではフィラデルフィア美術館展をしています。


昨日は、RSSリーダーに登録してあったブログをたくさん削除しました。

世の中には頭のいい人がたくさんいて、情報がぎっしり詰まったブログがたくさんあります。そこで「あれもこれも」とRSSリーダーに登録していましたが、さすがに全部は読みきれません。また、たしかにどれもこれも面白いのですが、本当に自分に必要かどうかは一度立ち止まって考える必要がありそうです。本当に欲しい情報があれば、自分で本を探すなりすればいいのですから。

自分の情報収蔵のキャパに無理しない程度に情報に接していきたいです。

Nodame Cantabileでお勉強 part5

2007年09月23日 | 語学
“Nodame Cantabile 6”では、Shinichiは大学4年を終えて大学院に行くことになり、Masumiちゃんはプロのオーケストラに行くことになり、Mine君はまだ進路が決まらず、Sオケのみんなは音楽の道を諦めて家業を継いだり、みんなそれぞれの道を歩もうとします。

そんな中、名古屋フェスで知り合ったヴァイオリニストのKiyoraが、NodameやShinichiたちの音大の大学院に来ることになりました。Kiyoraは彼女の師匠もその音大で教えることになったので、ついて来たのです。

KiyoraはShinichiの才能に惚れ込み、一緒にオーケストラを作ろうと誘い、Shinichiも即答でOKします。Shinichiは指揮ができる場所を探していたのです。

Kiyoraは自分の人脈で優秀(そう)なプレーヤーを集め、Shinichiと一緒にどうやってオーケストラを作るか作戦を練ります。その光景に微かな満足感を感じながらShinichiはこころの中で呟きます。


 This orchestra is being made from scratch.(“Nodame cantabile 6”p.188)

(今まさにオーケストラがゼロから作られようとしている)

・from scratch で、「ゼロから」「最初から」という意味になります。これはポピュラーな表現なんですかね。

scratchというと、「引っ掻く」という言葉ですけど、「最も初期の段階」という意味もあるんですね。



Nodame Cantabile 6 (Nodame Cantabile)

Del Rey

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かなしい

2007年09月21日 | 日記


暑いですね。

今日は9月21日...

なんだか温風が吹き荒れて、サウナの中で過しているようです。もう9月も下旬なのに... 不快指数がとても高くて、なんだか泣きたくなります。悲しいです。

でも、秋風が吹いて涼しくなると、それはそれで哀しいんですよね。


『ハッピーノート』 草野たき(著)

2007年09月19日 | Book
草野たきさんが2005年に発表された『ハッピーノート』を読みました。

草野さんの処女作『透きとおった糸をのばして』を読んだときも思ったけれど、この二つの作品は、設定がかなりありふれている。どちらも、主人公はどこにでもいる平凡な女の子です。

しかし、「平凡な女の子」だろうが、変わった女の子だろうが、現実の生活では内面では誰もみな悩んで苦しんでもがいています。

そして、草野さんの小説の登場人物も誰もがみな、「平凡」な生活を送りながら、胸のうちでは激動的な人生を送っているのです。ちょっとしたことでこころを揺さぶられています。

それは実は10代の女の子にかぎったことではありません。

草野さんの作品は、そうした日常に生きる人々の心の機微を自然にとらえていきます。

主人公は、最初は自分を見失って、世の中の価値観に必死に自分を合わせて幸せを求めながら、ちょっとした出来事で自分の中の正直さを見つめるように強いられていきます。その出来事がとても小さなさざ波のようでありながら、登場人物たちのこころの中に大きなショックを与え、彼女たちを本当の自分に連れ戻していくのです。

草野さんの小説は、一つ一つの文章を読むことが、まるで生活を追体験していくようです。流れるように文章を追いながら、読者も主人公と同じような心的体験に直面させられるのです。

書籍 『頭はよくならない』 小浜逸郎(著)

2007年09月17日 | Book
家族論・学校論で多くの著書を出されている小浜逸郎さんが2003年に出された『頭はよくならない』という新書を読みました。

私がこの本を読んだのは、学校で教えられている教科が子供たちにとって将来“役に立つ”のか?という疑問をもっていることと、学校の成績がよいことと「頭がいい」ということとの関連性を考えたかったからです。

立論の具体的な裏づけは新書ということもあって乏しいですが、上の私の問題関心に関わる意見がこの本には多く、教育問題を長年考えてこられた人の意見を知ることが
できて興味深かったです。

まず小浜さんがハッキリ言うことは、学校の成績がよい子供はそれだけ社会的に有用な仕事を成し遂げる素質をもっており、それらの子供たちが社会的に権力を有する地位に就く構造をもっている日本社会は合理的な社会だ、ということです。

小浜さんは、例として、学校の数学において子供たちの習熟度を推し量る評価項目である「知識・理解」「論理的思考」「技能」「応用・創意」「関心・意欲」を取り上げ、数学という科目がそれら評価項目を測る基準として妥当である以上は、数学は生徒たちの社会的能力を測る尺度として妥当なものであることを指摘します。ちょっと長くなりますが、引用してみます。


 「知識・理解にすぐれていることは、情報を素早く自家薬籠中のものにする能力を意味しますから、「要領がいい」こととつながっています。

 論理的思考ができるとは、問題解決能力があることです。混沌とした現実の中から適切な取捨選択ができ、…問題の本質はこれこれであると指摘できることを意味します。だからそれは、「物事の裏が読める」こととつながっていきます。

 技能にたけていること、応用力があることは、計算が素早かったり一度修得したことをそれに相応しい問題対象に的確に、かつ正確に活用させられることを意味します。したがって、それは「世渡りが上手い」ことにつながっています。

 創意にあふれていることは、要領や世渡りや世事に一見関係がないように思えますが、創意とは、単なる突飛な思いつきではなく、じゅうぶんにまわりの状況を見渡した上で、こういう表現をすれば多くの人が「おお、コロンブスの卵だ」と納得し賞賛してくれるだろうという計算の上に成り立っているものです。…

 あることへの関心・意欲がしっかりしていれば、問題の核心が見えてくるはずですから、当然「余計なことを言う」必要がなくなります」(p.44)

これらの考察から著者は次のように結論付けます。

「一般に知的能力の評価尺度は、社会的な能力尺度に完全に、とはいわないまでも、ほぼ対応しています。前者にすぐれた能力を発揮する者は後者における可能性をより強く示すことが多いし、概して後者は前者の能力そのものを支えるという関係になっているのです」(p.44)。

(最後に著者こう付け加えます。「何でこんな当たり前のことを私は言わなくちゃならないのかね」と)

これらのことは、わたしは想像でしか言えませんが、まぁ当たっているようにも思えます。

私はかなり底辺レベルの学力しかない集団の中で学校生活を送ったこともあるし、偏差値で言えば日本のトップに入る人たちともたくさん接触してきましたし、その中間にあたる人たちのこともよく知っています。

それらの人たちと接してきた経験から言うと、学力が上の部類に入る人たちは、知識を頭に仕入れることに全然抵抗がないのですね。本人たちは自分たちより上を見ているので「自分はダメだ」とよく言いますが、私から見れば「よくそんなものを知っているな」と言いたくなるぐらいいろいろ知っています。

また、それらの知識をちゃんと頭の中で整理して、自分でものを考えるということもを実践していました。本人たちは優秀な人間ばかりに囲まれてきたので、それを当たり前のことと思っているようでしたが、世の中の出来事に対して自分の力で論理的に考えることができるというのはじつは稀有なことのように思います。そう考えると、学校での成績とその子の社会的能力とは、たしかに対応しているのかもしれません。著者は次のように述べます。

「計算が速いこと、正確であること、原理をよく消化していること、文章題に特定の公式を応用できること、出題の意図をきちんと読み取ること、長いプロセスが必要な問題に集中して考えを持続でき、目標に到達できること、余計な枝道に入り込まないこと、これらはみな、広い意味で、「言語能力」であり、そして、「言語能力」こそは、社会で問われる能力の基本的な部分を形づくっています。

 そして、こうした広い意味での「言語能力」を問う評価尺度のなかに、「要領よい状況判断ができる」とか「物事の裏が読める」とかいった、いわゆる「世間知」的な力を問う要素があらかじめ織り込まれているのです。

 因数分解や二次方程式や円の問題をすばやく理解する子は、それだけ視野が広い。また漢字をたくさん読み書きできる子は、その能力を、社会での生き方に応用できます」(p.46)。

そういう成績の良い子たちが社会的地位の高い職種に就くことは、著者から見れば、以下のように社会的に合理的なことなのです。

「「読み書きそろばん」は、人間社会が言葉によって作られているという本質的な条件を個人の中にセットするための最も基礎的な訓練です。識字能力が高いこと、計算力があることは、その能力の個別的な優秀さだけを示しているのではなくて、社会に出たときにどういう適応力を示すかということを、かなりの部分まで象徴しているのです。

 これをきちんと習得させるのには時代を超えた大きな意味があること、そして、すぐれた習得力を示す者には、それにふさわしい社会的職業、地位、権力への道が開かれていること、こうした連関の構造の深い意義を舐めてはなりません」(p.72)。

また、著者は次のようにも言います。「誰も、法律知識のない弁護士に相談しようとか、適切な処方を下せない医者にかかろうとか、頭の悪い上司の言うことに服従したいなどと思わない」と(p.53)。

(以下は偏差値・受験学力と医師としての能力との相関関係を指摘した医師の方の意見です。

「医師と偏差値がよく取りざたされますけど、結構重要な要因ではないか、と最近では思います。

 特に情報処理能力、論理的思考過程に関しては非常に重要ですよね。目の前の患者さんの訴え、表面に出てきている身体所見といったわずかな兆候から診断していくにはこれが欠かせません。

 「この兆候の場合、鑑別診断にあげられるのがAとBとCという疾病。Aに関してはこれらの検査をしてみよう。でも、それを肯定しうる異常値が無いな。とするとこの疾病である可能性は低いね。じゃあ、Bの可能性に関しては.....」なんて考えていく。この考え方を鍛えるのが数学や理科。よく、マスコミや物事を知らない人たちが「XとかYとか社会に出たら使わないから別に一生懸命勉強しなくてもいいや」なんて言っているけど完全に間違っている。理数系科目の本当の目的はこの「論理的思考を養成すること」に他ならない。

 反対に、論理的な思考が出来ない人は絶対に医師には向かない。(某掲示板にも論理的な思考が全く出来ない人が医師批判をしていますけどね)

 ということで理数系科目は非常に大事なんです。と同時に、偏差値が高いというのは非常に大事なんですよ」

「「 緊急医師確保対策」『新小児科医のつぶやき』」)


 ちなみに、これはよく言われる話ですが、アメリカなどに比べれば、それでも日本は学歴ではなく現場のたたき上げで出世する割合がかなり高い国だということです(『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』)。たしかに中途採用では日本の企業は学歴ではなく業績しか重視しないという話を聞いたことがあります。それに対してアメリカなどは、日本以上に学歴至上主義のところがあるとはよく言われる話です(『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) 』 『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』)。契約社会なので文書の持つ威力が大きく、卒業証書という紙切れがより有効をもつのでしょう。


話を元に戻すと、要するに小浜さんが言いたいことは、学校の教科というものは、一見抽象的に見えても子供たちが本来もっている社会で生きていく能力を測る物差しとして有効だということです。


こういう話だけを聞くと、(ゆとり教育ではない)学校教育・受験教育にはほとんど問題はないといっているように見えます。肯定しているように見えます。実際、小浜さん自身はそう言いたいのだと思います。

小浜さんの中には、この本の執筆のモチーフとして、「ゆとり教育」という看板を支えてきた「戦後民主主義」「人権教育」というイデオロギーを批判するということがあります。つまり、「個性を伸ばす」という「ゆとり教育」派の考えを、現実を見ない妄想として批判するというモチーフです。

ただ、小浜さんが学校教育は子供の社会的能力を推し量る尺度として有効であると言う場合、それはどうも「義務教育」レベルや「読み書きそろばん」といったレベルの話なんですね。

たしかに義務教育レベルの知識を習得することは、人が大人になる上で必須のことかもしれません。文字を読んで理解できなければ社会生活は送れませんし、そのためのトレーニングをすることは重要でしょう。

ただ少なくない人が学校教育というものに違和感をもっているのは、それでも日本の(あるいは近代社会の)学校教育はどこか現実とのズレがあり、それゆえに子供たちの殆どは勉強に対して意欲をもてないのではないかという疑念をもっているということです。


小浜さんはこの本で、学力というものはその人の社会的能力を推し量る尺度として有効であり、また人がもつ学力は中学生ぐらいで大体決まっており、それ以上は頭はよくならない、と主張します(もちろん例外は認めるでしょうが)。またそのことから、「個性を伸ばす」「誰にも素晴らしい能力がある」という考えを批判し、学校の成績によって子供たちにその子の能力の限界を教えてあげて、その子に合った進路を大人が示すことが大事であると唱えます。

小浜さんが学校での勉強の役割を次のように述べます。

「自分はどういうことに向いており、どういうことに向いていないのか――これは、具体的かつ明確に提供されたメニューに実際に当たってみなくてはわかりません。「汝自身を知る」ためにこそ勉強すべきなのです。
 
 では、「汝自身を知る」ためにはどうすればよいのか。それには一つの方法しかありません。とりあえず、知識を貪婪(ドンラン)に吸収できる学習適齢期(幼稚園児年長期から、中学校一、二年くらいまで)に、この社会が用意している「基礎学習科目」に地道に取り組むことをとおして、自分がどれくらい頭がよいか悪いかの、およその見当をつけるのです

 この学齢期での評価が、現代社会が要求する価値観、すぐれた専門家を選び出して重用するための価値尺度とのあいだに、そうとう確度の高い相関関係をもっていることは、すでに述べました」

この文章を読んで、「自分がどれくらい頭がよいか悪いか」を知ることがなぜ「汝自身を知る」唯一の方法なのだろうか?という疑問が私には出てきます。

「頭がよい」子は、たしかに学校の成績表を通して「汝自身を知る」場合が(すべてではないにしても)多いでしょう。「頭がよい」がゆえに、社会的権力をもつ地位に就く素質があることが分かるからです。それはそれで、悪いことじゃないし、いいことである場合も多いでしょう。

しかし、「頭が悪い子」は、成績が悪いと知ることで、自分は社会的権力をもつ地位につけないことはたしかに分かりますが、では自分はどういうことに向いているのかは、これではさっぱり分からないのではないのでしょうか。

「頭のいい」子は、「個性」など伸ばさなくても、既存の社会秩序の中で(比較的)生きやすいようになっています。小浜さんが言うように、そういう子たちには社会的権力をもつ専門家的職種や大組織の構成員として地位がある程度は保証されているからです。

しかし、では「頭が悪い子」はどうすればよいのかということについて、成績表は何も教えてくれません。成績表は、「頭が悪い子」たちに対して、ただ「あなたには権力のある地位は向いていません」と告げるだけです(そのこと自体は悪いことじゃないでしょう)。

愛知県の企業経営者・竹田和平さんは神田昌典さんとの対談で、学校の本来の役割は、子供それぞれの「ワクワク」を見つけることだと言っています。それは、小浜さんが批判する「個性を伸ばす」ということだと言ってよいでしょう。40人という集団授業の中でそんなことが可能かどうかは別として、現在の学校がそれとはほど遠いことは明らかです。

興味深いのは、小浜さん自身が「個性を伸ばす」「どの子供にも素晴らしい能力がある」という言説を批判する一方で、次のように上記の竹田さんに似たことを言っていることです。

「それぞれの人の場合、それが何であるか、それを磨くにはどうすればよいかを、各人がなるべく早く悟る必要があります。そのためには、各人の得意領域、不得意領域を悟らせる教育システム、いや、もっと広く考えて、社会システムが必要です」(p.249)。

この小浜さんが言うところの、「各人の得意領域」を探らせるような教育システムをこれまでの学校教育はもっていないと、学校教育に疑問をもっている人たちは言おうとしてきたのではないでしょうか。小浜さんと「ゆとり教育」派との接点を探ろうとすれば、ここになると思います。

「ゆとり教育」派は、既存の学校教育が知識偏重で、一人ひとりの個性にあった教育を提供していないと考えています。その場合の「一人ひとり」とは、「頭の悪い」子を想定しているのではないかと思います。そして、もし全国の国立大学と首都圏の有名私大を「頭がいい」とすると、子供たちの8割は「頭が悪い」ことになるのではないかと私は想像しています。

それに対して小浜さんは、現在の学校教育は専門家システムとしての現代社会の中で成績のよい子にふさわしい地位を保証している一方で、「頭の悪い」子に対してその子の能力をちゃんと伝えていると見ます。つまり、大まかには子供たちの能力に合った選別をしているということです。

しかし小浜さんは、おそらく、だから成績の悪い子は社会的の落ちぶれてもかまわないと言いたいのではないでしょうし、むしろ成績の悪い子は学校での教科とは別の得意領域で社会的に活躍してもらいたいと願っているでしょう。そして、そのような願いは、「ゆとり教育」派の人たちも共有しているのではないでしょうか。

また、「ゆとり教育」派(と言っても幅広いでしょうが)の人たちの中には、既存の学校教育では、知識の習得に得意でない子が自分の得意なことを見つけるきっかけをもてないと言いたい人がいるのではと思います。世の中の子供の大部分は「有名大学」に入れないし、専門家になれるわけでもありません。

新書についての感想文なので、軽くさらっと書いて終らせようと思いましたが、思いもよらず長くなってしまいました。

ただ、とりあえず言いたくなったのは以下のことです。小浜さんが言うように、学校教育の教科内容は現在の専門家システムとは上手く適合しており、「成績のよい」子にとっては実りある教育体制かもしれません。しかし、世の中の大部分の子供にとっては、自分が何に向いていないかを知らせるだけで、自分が得意なことを教えてくれない制度なのではないかということです。


この問題についてはまだ考えてみたいと思います。

『医療政策は選挙で変える―再分配政策の政治経済学4 』 権丈善一(著)

2007年09月14日 | Book
『医療政策は選挙で変える―再分配政策の政治経済学4 』という本を読みました。著者は福祉政策の研究者の権丈善一さん。医療に財源を振り分けていない(ように見える)現在の国家財政の原因について知りたいと思って手に取りました。以下、簡単にその問いに対する著者の考えをまとめて見ます。

国民所得に占める社会保障費の割合

小泉さんによる改革では「小さな政府」「構造改革」というキャッチフレーズが流行したのですが、まず著者は、そもそも日本では福祉への支出が欧米諸国に比べてかなり低いことを指摘します。

著者は統計を用いて、日本は国民所得に占める社会保障費の割合が経済先進国の中でも低いことを指摘します。それによれば2006年の日本が23.6%なのに対し、スウェーデン・フランス・ドイツなどは40%前後、サッチャリズムを経たイギリスですら日本より高い26.7%を記録し、20.5%のアメリカに日本が近い位置にあることが示されています。これだけを見れば、日本はすでに十分に「小さい政府」となっています。

こういったことは、どういう指標に着目するかで変わってくるのでしょう。以前読んだ本(例えば川本裕子さんの『日本を変える―自立した民をめざして』など)では、日本の社会保障支出の水準が福祉国家という理念を掲げるヨーロッパ諸国並みで肥大しており、アメリカとイギリスに倣って財政支出を削減すべきと主張されていました。

それに対し権丈さんの見方では、日本はむしろ社会保障の支出が十分になされていない国だということです。さらに著者によれば、上記の割合は、このまま高齢化社会を日本が迎えて現在のレベルの社会保障を維持したとしても、2025年ですら日本は26.1%にしか達しないと推測されるということです。それに対しスウェーデンは現在の時点ですでに44.1%、フランスは39.8%。このことから、日本はまだまだ社会保障に支出すべき余地があると著者は指摘します。

例えば、社会保障の代表的な措置として生活保護がありますが、経済的に困窮している高齢の方が生活保護の申請を受け付けてもらえず、餓死したという事件はよく報道されます。しかし、著者によれば生活保護は社会保障費のわずか3%を占めるにすぎず、さらに生活保護の半分強は医療扶助に使われているので、日常生活を援助している額は社会保障費の1%台前半にすぎないのです。

(一応、国家財政(一般会計80兆円)の支出分野の割合を見ていくと、2006年度では社会保障費は25%(21兆円)、国債費24%、地方交付税等18%、公共事業9%、文教および科学振興7%、防衛6%、その他11%となっている)


「社会保障政策」の政治的アピール度の問題

では、そのように社会保障支出が低水準であるにもかかわらず、なぜ日本ではそれらへの支出が削減されてきたのかという問題が出てきます。

まずこの本では、そのような問いに対して、それは「小さな政府」というキャッチフレーズが流行してきた最近までの日本では社会保障というテーマでは政治家は選挙に勝つことができないので、政治家たちは社会保障政策に真剣に取り組んでこなかったのだという主張がなされています。

たしかに2005年の秋(郵政民営化選挙の直後)になされた「障害者自立支援法」の改定のように、生活の支援を切実に求める人たち(生存ギリギリのラインに生きる人たち)に治療費の自己負担をより多く負わせ、社会保障費を削減する政策に積極的に指示を与えてきたのが日本の国民のマジョリティです。

社会保障費の削減によって深刻な生活危機に直面する人はいますし、そのような方たちがニュースで取り上げられることはあるのですが、そのような深刻な生存の危機に立たされる人は数としてマジョリティではないですし、またそのような境遇にある方たちは、組合や利害関係団体を通じて政治家に働きかける機会ももっていません。

それだけに、社会的弱者を救済する政策を掲げても選挙で勝てないと政治家は最初から計算するので、そのような施策を打ち出すこともありません。

また、マジョリティが「小さな政府」というキャッチフレーズに魅せられてきた原因としては、日本の長期的な不況と、それがもたらす赤字財政への不安があげられます。

不況がもたらしてた人々の心理的閉塞感は、国家制度を変革すれば社会が良くなるという(およそ根拠の裏づけのない)期待へと変貌してきました。自分の生活の閉塞感と、「国家財政」の健全化という、直接自分の生活に関係するのかどうか分からない事柄とが人々の心の中で漠然と結び付けられてきたのです。

そうした状況の中では、社会保障・医療は国家官僚制度による措置の一環として見なされ、その削減も止むなしと国民に受けとめられてきたのでしょう。著者は、社会保障費・医療費がそのような国民の思惑によって決定されていくプロセスを次のように説明します。

「医療費」というものは、あらかじめ政府・官僚の方たちが「これこれの額だけ支出する」と決めた額を指すのであり、その都度の利用者のニーズを考慮するわけではありません。では、政府・官僚の方たちは何にもとづいてその額を決めるのかと言えば、著者はそれは「政治で決まる」と言います。

「政治で決まる」とは、例えば次のようなプロセスを言います。まず、医療費が抑制される政治状況について。

「所得が鈍化・停滞しているなか医療費が増加していると、たとえば健康保険の赤字などが生じる。これをとらえて社会問題視するキャンペーンを、マスコミや研究者などは展開する。このキャンペーンが医療費の費用負担者(多額の納税をできる人たち つまり国民のマジョリティ 引用者)の政治力をアシストし、費用負担者の政治力が、医療供給者や医療を頻繁に利用している病弱者たちの政治力をしのぐようになる。そして、この政治環境の中で、政府は医療費抑制の政策を成立させて、その政策を医療機関に実行させる」

それに対して、医療費が伸びる政治状況とは。

「所得が順調に伸びる場合には、マスコミや研究者たちは口をつぐみ、そのため、費用負担者の政治力は弱まってしまい、彼らの政治力を医療供給者や病弱者の政治力が弱まるようになる」(p.107)

つまり、医療費の高低は、医療ニーズではなく、費用負担者であり国民の大部分を占める経済力のある人たちの政治力で決まると考えることができます。

(このことは、高齢化社会が本格化した際には、少なくない人数を占める高齢者の人たちの政治力によって政策が左右される時代が来ることを予期させます。しかし、それまでは社会的弱者は自分たち以外の立場の人たちの思惑で生活を左右されることを強いられます)

90年代後半以降の日本というのは、まさにこの「所得が鈍化・停滞」した状況に陥っていたがゆえに、医療費・社会保障費の抑制を唱える人が政治の前面に出てきました。

国民医療費が過大に推計される原因

さらに、この日本の状況を後押ししたのが、著者の指摘に従えば、官僚の方たちによる「医療給付費」の推計の方法です。つまり経済が成長していると、ある程度のタイムスパンで制度設計しようとする官僚の方たちは、その経済成長・所得の伸びを前提に国民の医療ニーズの高まりを予測します(p.97, 122)。例えば90年代前半にその後の医療給付費の推移を推計すると、それまでの好景気時の経済成長率を参考にするため多めに予測されます。

(ここでは、医療費は国民所得に応じて変動するという著者の最大の主張が前提されています。つまり「医療ニーズ」とは、心身の不調ではなく、国民の収入に応じて変動するということです。著者は、政策を担当する官僚の人たちは国民の医療ニーズを所得に応じて計算しないと主張しているが、現実になされる医療費の推計は、つねに国民所得の12%前後に収まっている事実を指摘します)

そのようにして推計された医療給付費が莫大となれば、費用負担力のある人たちや優勝劣敗論者の人たちや財政健全化論者の人たちは、社会保障費の抑制を唱えるようになります。こうして90年代以降、医療への支出は「国民的な合意」によって抑えられてきました。


権丈さんの、財政が医療への支出を増やさない原因の分析は、私が著書を読ませてもらったかぎりでは、以上のようなものになるのではないかと思います。


この本は一般の人が読めるように分かりやすい説明が多く、また同じトピックが何度も繰返されているので、一見350頁近くする大著ですが、実際はとても読みやすいので、忙しいけれど国の社会保障政策について考えたいという人にとっては、手に取る価値がある本だと思います。

著者が一貫して述べるのは、国の社会保障費の支出が「政治的」に決まるということ。これは90年代後半以降の小泉さんによるポピュリズム政治に典型的に表れていることなのでしょう。

良くも悪くも漠然としたマジョリティのムードに左右されるのが現在の日本です。「政治的」ということは、かつてははっきりとした利害関係団体相互の衝突・調整を意味していたのですが、それが大衆のムードという意味に転換し、福祉もそれによって左右されるようになりました。


実際この本では、パートタイマーへの厚生年金適用の問題も何度も取り上げられており、それを阻止しようとする外食産業等の思惑は、厚生年金適用によって増える事業者負担を何とか避け、安価な労働力を確保しようという意図であることが指摘されています。つまり、直接的な経営者たちの利害の反映です。

しかし、おそらく一部の経済学者などは、厚生年金適用によって経営者の負担が増えることは、経営者の雇用へのインセンティブを弱め、結果的に失業の増大を招くだろうという議論を起こすでしょう。そのような意見も、経済成長至上主義という現代の風潮・ムードと容易に結び合わさりやすいものです。

福祉には確かに国家官僚制による国民の統制という側面があるのですが、それが「ムード」に大きく影響を受けることで、安定した制度の構築が妨げられているのではないかという印象をもちます。


旅行

2007年09月10日 | 日記


今日はとても涼しいですね。朝は寒くなって目が覚めてしまいました。

これまでずっと窓は全開にしていたのですが、すべて閉めなおしてもう一度布団に入りました。

夏の間はずっと頭がふらふらで、蒸し暑さで気分が悪かったです。何か薬でも飲もうとかと思ったくらい。

予報では9月中も暑さが続くということなんですが、今日のような涼しさが始まってくれるといいのですが。


夏が一段落すると。ぼーっと「ドイツに行きいなぁ」とか思いました。もうドイツでは寒さが行き渡って、ジャケットが手放せないでしょう。雨もよく降ります。

ドイツに行きたいと思ったのは、ドイツ在住のピアニストの方のブログ「おたまじゃくしとすべってころんで」を見つけて、昨日ずっと読んでいたから。

他にも探せばたくさん見つかるでしょうが、上の濱倫子さんのブログも、日本人がドイツで遭遇する生活の驚きを分かりやすく伝えてくれます。


ドイツで生活している日本人というと、濱さんのような音楽家か、ドイツの人と結婚した女性くらいしかいないと思います。後は、1~5、6年の間留学している人と、日本企業から派遣されている人たち。

音楽家以外で、向こうで経済的に自立している人は滅多にいないんじゃないでしょうか。やはり日本人が仕事を見つけることは至難の業なんですね。語学力の問題もあるし、ビザを出してくれないこともありますから。

海外生活というと多くの日本の人は優雅で華やかなのように思う人もいますし、わたしもかっこよさそうと漠然と思っていました。しかし実際は、結婚相手が安定した職に就いていないかぎりは、みんな慎ましく生活しているんじゃないでしょうか。


以前にも書いたように私は旅行が下手なのですが、今は写真という愉しみも覚えたので、旅行してドイツの街をパシャパシャと撮りたいですね。すると、きっと「日本人がカメラを持ってる!」と笑われるでしょう。観光地では向こうの人もカメラを振り回すんですけどね。


ただ、写真を撮るのは好きなのですが、写真を撮り始めた頃のような無我夢中さは薄れてきたように思います。自分の中で、写真に「飽きている」部分もあるかもしれない。それは写真自体に飽きているのか、あるいは日常の街の風景を撮ることに飽きているのか、どちらなのかはまだ分からないけど。


『透きとおった糸をのばして』 草野たき

2007年09月09日 | Book
草野たきさんが2000年に出された文学作品『透きとおった糸をのばして』を読みました。主人公は14歳の女の子の作品です。

まず、中学生を扱った作品にもかかわらず、その年代の子供たちをへんに美化もせず、かといって悪魔のようにも描かれていません。大人から見て「いい子」というような道徳的なロボットでもないし、「悪い子」というようなステレオタイプでもありません。

主人公の千里は14歳なので、世の中の仕組みについては何も分からず、ただ目の前にある問題で精一杯の生活を送っています。でも同時に、人の感情の機微については、敏感にその動きを察知します。

主人公をそのような人物として描けているのは、作者がそれだけ自分の内面を正直に見つめているからです。

読んでいて、江国香織さんにも通じるような、日常と心の動きについての冷静な描写が続いていきます。しかし江国さんほど極端な状況設定は(この本には)なく、起こる出来事は私たちの日常に近いものです(中学生の子供を置いて両親が揃って海外に行くということは、ありふれていないけど)。

この小説のいいところは、起きる出来事はなんだかありふれているのに、読者が主人公に共感できるところだと思う。そして、なぜ読者が共感できるのかというと、登場人物(作者)が、できるだけ自分に対して正直でいようとして、そこに嘘がないからです。

それだけで文学を書けるのかどうかはわかりませんが、それがなければ読者がその小説に思い入れを抱くことはできません。

この一点だけをとっても、これはいい小説なのだと思います。



透きとおった糸をのばして (講談社文庫)
草野 たき
講談社

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自己愛

2007年09月07日 | reflexion
瞑想家でエッセイストの宝彩有菜さんは、「嫉妬」という感情について次のようにおっしゃっています。

「あの人のようになりたいなぁ」と思ったら「それほど、羨ましいのならあの人と、肉体も時間も過去も家庭も仕事も全部、人生まるごと取っかえっこしますか?」と自分自身に聞いてみる手があります。すると、大概、「いや、それはちょっと困る。私はあんなにすさまじい努力はできない。また、あのような大変そうな家庭はいやだ。今のままがいい」と強欲はおさまります。自分は基本的には自分が一番好きなのです」(『始めよう。瞑想』)

最後のところを読んでいると、我が身を振り返って笑ってしまいます。

私(たち)は、他人が持っているものを羨ましいとは思うのですが、それはあくまでそのものを自分も手に入れられたら、ですね。容貌や、スタイルや、お金や、仕事や、名誉や。

でも、“自分”そのものは他人と取り替えたくないのです。“自分”を取り替えてしまったら、私が“自分”を愉しむことはできないわけですから。

私(たち)は、あくまで、この“自分”にいい思い味あわせてあげたいんですね。私たちが一番好きなのは、やはりこの“自分”なんですね。

だから、本当はこの“自分”だけで満足できればいいのですが、どうしても“自分”を何かで飾り立ててあげないと、惨めでかわいそうになってきます。

でも、とにかくこの“自分”は手に持っていたいわけです。だから、もう、この“自分”でとりあえず満足する、そう決めることができたらと思います。


心理カウンセラーのチャック・スペザーノさんは、次のようにおっしゃっています。

「自己愛は健全な自信、平和で穏やかな人生、他の人が困難な時に真実を見ることができるよう援助する能力を生み出します。さらに自分が意味のある存在なのだと認識する、目的を達成する、創造性を追求することで充足を得る、自らの天命を全うするなどの成果を作ります」(“100 Healing Principles”)。

“自分”で満足する、“自分”を好きであることを思い出す、そうできたらいいですね。

絵本 『ザガズー―じんせいってびっくりつづき』 クェンティン ブレイク(作・絵)

2007年09月05日 | 絵本・写真集・画集
イギリスの絵本作家クェンティン ブレイクによる『ザガズー―じんせいってびっくりつづき』を読みました。

以前、ある集まりで、講師の方が『ラヴ・ユー・フォーエバー』という絵本を読んでくださって、そのときには講師の方も話を聴いている人たちもみんなが涙を流していました。

何が言いたいかというと、この『ザガズー―じんせいってびっくりつづき』を読んで、『ラヴ・ユー・フォーエバー』にとても似たお話だと思ったということです。

まさに、子育てってびっくりつづきで、人生ってびっくりつづき。


ザガズー―じんせいってびっくりつづき
クェンティン ブレイク,Quentin Blake,谷川 俊太郎
好学社

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絵本 『ぼくのすきなおじさん』 長新太(作)

2007年09月04日 | 絵本・写真集・画集
長新太さんの絵本『ぼくのすきなおじさん』を読みました。


こういうおじさんって、昔はいましたよね。

僕(たち)にとっては、小学校への通学途中にある幼稚園・保育園で用務員をされていたおじさんがそうでした。

今もこういうおじさんはいるのかな。

いたとしても、僕は出会えないかもしれない。

こういうおじさんと出会えるのは子どもだけなのかもしれない。

いじめ

2007年09月04日 | 日記
イジメはよくないと言うのなら、まず大人がイジメをやめなければなりません。

朝青龍に対するマスコミの姿勢はイジメそのものです。

僕は相撲には幼い頃からまったく興味がないので、朝青龍のことすらよく知りません。でも、彼がどういうことをしようが、「悪いヤツは吊るし上げろ」みたいな今のマスコミ報道はリンチと同じです。

よく映画などで、ナチから解放された場所で、ナチ将校と関係のあった女性たちがリンチを受けて市中を引き回されている映像をみます。記録映像でも見たことがあります。

今の朝青龍にやっていることもそれと同じです。「悪いヤツ」には何をやってもいいんだ、という考えです。



子供たちがいじめるのは、どこかのろまで、愚図な子たちです。

小学校・中学校でそういう子たちが苛められるのは、小学生・中学生の子供たちの社会では、「学力」とかよりも、まだ「腕力」「暴力」の価値が高いからです。大人社会にはまだ距離(年数)があるので、大人社会で流通している価値観とは違う、直接的な腕力が価値を持っているのです。

それだけに身体的な能力にすぐれている子は集団の中で上位を占め、動作や反応が遅い子はいじめの標的にされます。

それに対して、高校では「受験」というものが子供たちの間に浸透します。つまり、頭脳による競争が子供社会の中に入ってきます。

私の体験からくる推測だと、多くの高校では、中学で見られるような直接的暴力による苛めは減少するのではないでしょうか。それは、高校になり大人社会に近づくにつれ、暴力・腕力は社会ではそれほど価値をもたないことを子供たちが知るからです。

世の中を支配する論理は、暴力・腕力ではなく、むしろ学力・学歴であると意識し始めます。

ここで子供たちの価値観は揺さぶられ、混乱します。それまでの暴力・腕力という価値観が無効であると知ったので、今度は急いで学力・学歴という価値観に合うように自分の態度を変更させなければなりません。

そのように新しい価値観に自分を合わせて勉強するのに忙しいので、いじめなどに時間を費やす暇が子供たちにはないのではないでしょうか。

受験競争がいじめの原因だといわれます。それは確かにそうですが、中学生の間は、暴力・腕力が価値を持つ子供社会の論理と、学力・学歴が大事なる大人社会の論理とがせめぎ合う時期です。その時期に、学力・学歴という大人社会の論理に初めてさらされる子供たちは、その圧力に抵抗するために、子供社会の論理である暴力を使ってストレスを発散します。

それに対し高校生になると、もう大人社会に時間的に近づいていることを知っているので、そのような暴力行使をしても、無駄だと悟ります。ここに来て彼らは、大人社会の論理を受け入れて、受験勉強に入ります。あるいは就職活動をし、専門学校を目指します。

しかし、学力・学歴という大人社会の価値観を受け入れることは、同時に善悪の価値観への目覚めを引き起こします。

子供の頃は暴力で周りをいじめていた子供たちが、高校を卒業すると、今度は、学力・学歴の価値を受け入れると同時に、善悪という大人社会の倫理にも目覚めます。

ここから、人は、子供時代は暴力で人を裁いていたのに対し、今度は善悪という価値観で人を裁くようになります。

人は子供時代に、暴力によって他人を攻撃することができました。しかし、暴力という道具は子供時代にしか通用しないことを知って、高校時代あたりには何を使って人を攻撃すればいいのかわからない状態になりました。

それが大人になって、暴力以外にも他人を攻撃する手段があることを発見します。それが、一つは善悪という価値観であり、あるいは学力、あるいは経済力という価値観です。この三つはそれぞれは異なる価値観ですが、平均的な大人は、それら三つが混ぜこぜになった価値観を有しています。それによって、自分の基準に照らして劣ったものを攻撃し、いじめるようになります。

マスコミの朝青龍への態度は、善悪という価値観を用いたいじめです、


季節

2007年09月04日 | 日記


暑いですねぇ、って、同じことばっか言ってます。

でも、これが涼しくなると、もう秋が来たということなので、とてもさびしく感じるんですよね。

僕の誕生日は夏ですが、僕という人間を季節であらわすと、秋になると思う。

春のような爛漫な雰囲気はないし、夏みたいに元気ではありません。かと言って冬のようにじっと耐え忍ぶような意志の強さもありません。

まぁ、優柔不断で感傷的なんですね。