joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

書籍 『吉本隆明 子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』

2008年09月28日 | Book
書籍 『吉本隆明 子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』を読みました。


二人の現役の小学校教師が吉本隆明さんを訪ねて対談した様子を本にしたもの。二人が吉本さんに質問をし、吉本さんが答える形で本は進んでいきます。


「子どもの仕事は遊びである」


という吉本さんの言葉は、今の私にはとても鋭く、慧眼であると思えます。


また、


「子どもは大人・教師がどういう人間であるかはすべて見抜いている」


「プロ教師の会のようにテクニックで子供に勉強を教えることができると思うのは間違い」


「教師が子供に見せることができるのは、後姿だけ。子供の成績は「我計らいにあらず」でいいのではないか」


といった言葉も、真理を突いています。


それに対する二人の教師も、


「熱中することを通して子どもは社会性を磨く」


といったことを述べていて、なかなかいいことを言っています。


子どもの視線、遊ぶということなど、子どもが何を感じながら生きているかを、再体験させてくれるように思います。

うーん

2008年09月27日 | 日記
最近は忙しかったり、もう一つのブログをしていたりで、このブログに書き込むのもご無沙汰です。それでもユニーク・アクセスで100人以上の人が毎日来てくれていて、ありがたいです。ありがとうございます。


ところで、私を直接知っている方で私にメールを送ったけれど返事がないというかたがいらっしゃったら、もう一度連絡いただけるとありがたいです。


迷惑メールが多くて、メールの管理がちゃんとできていないのです。もうしわけありません。





最近思うこと。

ミクシィの足あとをみていると、目がくりっとした若い女の子がたくさん見に来てくれています。みんな別々の女の子だけど、みんな同じような顔をしています。

あれも一種の○○なんですか???


やれやれ

2008年09月27日 | 日記
大臣って、どうして就任早々に失言するんでしょ?


なった途端言いたいことが何でも言えると思うんでしょうか?


大臣にしても首相にしても、まわりが何を言おうと真相は墓場まで持って行くというぐらい、本当のことは言わないぐらいでないと務まらないのではないか。


日教組を本当に壊したいというけど、そのために具体的にできることをこの人はしたことがあるのかな?それとも今回の発言が初めて?


政治を憂えるほど私は政治に対する見識をもっていないのいだけれど、本当に自民党は人材がいないのではないか。


じゃあ民主党はどうかというと、党首選挙に出ようとしただけで粛清をちらつかせるという恐怖政治をやっているわけで、どうしようもない。


若い政治家は自民党も民主党ももっとましだといいのだけど。

自然なこと

2008年09月21日 | 日記
私が子供のころは、「不登校」という言葉も一般的ではありませんでした。登校していなかった子どもはいたのかも知れませんが、それが表に出てくることもありませんでした。



そもそも、なぜ子どもが「不登校」になると大人は心配して悩むのでしょうか?



子どもが働かないから悩むというのは、まだ理解しやすいことです。お金がなければ、働かなければ食べていけないと考えるのは、自然です。


しかし、子どもが学校に行かないから大人が悩むのはなぜなのでしょうか。


学校に行ってもお金は入ってきませんから、子どもが生きることと学校に行くことは結びついてはいません。


学校に行かないと勉強しなくなって、賢くならないからでしょうか?



でも、学校を拒否するという選択をできる子が、賢くないなんて言えるでしょうか。




むしろ、学校教育の最大の問題点は、学校に行きたくないにもかかわらず、行きたくないという自分の気持ちをちゃんと見ようとしない子どもを大量に生み出していることです。


本当なら明るい子どもも、元気な子供も、その多くは学校に行くことにより、やりたくない勉強をします。彼らはそれをやりたくないにもかかわらず、「やらなければならない」と思い込んでしまっているのです。


やりたくもないことを、「やらなければならない」と思い込む。


これがどれだけ異常なことか、わかるでしょうか。


登校しない子どもは、自分が何をしたくないか、できないかが分かっている人たちです。


それに対し、学校に通う子供の大部分は、したくないことを「しなければならない」と思い込み、自分のしたいこととしたくないことの区別がつかなくっているのです。


学校に行かない子どもの未来がどうなるかはその子どもたち次第です。


しかし既存の学校に行っている子どもの大部分は、したくないことを「しなければならない」と思い込む癖を身に着けたまま大人になります。


そうやって彼らは、したくないことを一生続ける恐れがあります。


怖いことではないでしょうか。



世の中の多くの人は、学校の勉強をちゃんとしなければ生きていけないと思っています。単に学歴の問題ではなくて、学校で勉強して賢くならないと、社会人としてやっていけないと思っています。


しかし、では仕事場で使う知識のことを考えてみましょう。


お金を生み出すには、「営業」という仕事は不可欠です。


でも、私たちは知っています、誰もが営業に向いているわけではないことを。


お金の管理には「簿記」の知識が必要です。


でも、私たちは知っています、誰もが簿記が得意になるわけではないことを。


ビジネスを拡げるには、英語を使って国際的な取引をすることが必要です。


でも、私たちは知っています、誰もが英語ができるようになれるわけではないことを。



私たち大人はちゃんと知っているのです。人にはそれぞれ向き不向きがあるし、それに逆らって向いていないことを無理してやる必要がないということを。


営業に向いていない人を毎日教室に閉じ込めて営業の勉強をさせたら、その人が鬱になっても仕方がないことを私たちは知っています。


すべての女性が専業主婦に向いているわけではないことを私たちは知っています。



なのに、不思議なことに、子どもには、その子の向き不向きを考えずに、毎日学校に行かせて勉強させようとします。


そんな状況で、学校に行くことを拒否する子どもが出てくるのは、きわめて自然なことです。

ウォン・ウィンツァン チャリティ ピアノ コンサート

2008年09月21日 | 日記
勤務先に見学に来てくださり、マイミクにもなってくださっている方からお聞きしたコンサートのお知らせをしたいと思います。

ピアノコンサートです。

場所は京都府立府民ホール。

日時は9月26日(金)の6時半。


カンボジアの地雷被害について伝えてくれるトークライブとピアノコンサートです。

カンボジアは地理的には遠い国ですが、ネットの普及で私たちと世界との心理的距離はかつてないほど縮まっています。お近くの方や関心のある方は、ぜひ会場まで足を運んでみてください。


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ウォン・ウィンツァン チャリティ ピアノ コンサート
~カンボジアからの風にのせて~


地雷撤去中に見つかる種類が多様なことから、 “地雷の博物館”と呼ばれる国、カンボジア。

年間700人以上の人々が、地雷や不発弾の被害に遭っています。
そして、被害者の約3割が子どもたちです。

彼らが、悲しみや苦しみとともにではなく、愛と喜びの中で暮らすために、私たちにできることはなんでしょうか?

“もしも地雷がなかったなら”の作曲者で、瞑想のピアニストと呼ばれるウォン・ウィンツァン氏をお迎えして、

自らの愛と平和に触れ、他者の痛みに思いをはせる場を創りたいと思います。


【日 時】  2008年9月26日(金) 

【会 場】  京都府立府民ホール アルティ
       http://www.alti.org
■JR 京都駅より地下鉄烏丸線へ乗り換え、「国際会館行き」に乗車。今出川駅で下車、6番出口を出て右手(南)側へ徒歩5分。
■阪急 烏丸駅より地下鉄烏丸線へ乗り換え、「国際会館行き」に乗車。今出川駅で下車、6番出口を出て右手(南)側へ徒歩5分。
■京阪 出町柳駅2番出口より市バスへ乗り換え。市バス「出町柳駅前」より201・203に乗車、烏丸今出川で下車、南へ徒歩5分。

【タイムテーブル】  開場 18:00/開演 18:30/終了 21:00(予定)
第1部  カンボジアの現状報告とトークライブ
第2部  ピアノソロコンサート

<出演者プロフィール>
第1部・第2部出演
ウォン・ウィンツァン http://www.satowa-music.com/
 1949年神戸生まれ。
 ピアニスト、作曲家、即興演奏家。
 91年、インディーズレーベルSATOWA MUSICを発足し、以降20タイトルのアルバムをリリース。
 NHKスペシャル「家族の肖像」テーマ曲、ハイビジョン&NHKスペシャル「九寨溝」の音楽、教育テレビ「こころの時代」テーマ曲(現在も放送中)、NHK「にっぽん紀行」テーマ曲などを手がける。
 地雷犠牲者救援CD「もしも地雷がなかったなら」など音楽活動は多岐に及ぶ。
 07年公開となった「純愛 JUN-AI」では、音楽監督として映画製作に携わる。

第1部出演
江角 泰 http://blog.livedoor.jp/battambang/
 1981年島根県生まれ。 
 NPO法人 テラ・ルネッサンス カンボジア駐在代表。
 03年宮崎公立大学在学中、テラ・ルネッサンスのカンボジア・スタディ・ツアーに初参加。
 その後、NGO「地雷ゼロ宮崎」の講演会部門責任者となる。
 立命館大学国際関係研究科博士課程前期課程に進学。
 2年間テラ・ルネッサンスでインターンを経験。
 06年、卒業後、職員となり、08年3月よりカンボジアに駐在。
 カンボジア事業の運営に携わる。

【主催・問合せ先】 NPO法人 テラ・ルネッサンス
           http://www.terra-r.jp/
           メールアドレス terra.concert@gmail.com
           TEL / FAX 075-645-1802

【後援】 外務省,在大阪カンボジア王国名誉領事館,京都府,京都市,京都府教育委員会,京都市教育委員会

【参加費】  一般:3,000円  大学生:1,000円  18歳以下:無料
※全席自由、前売り・当日とも同額
※当日は、学生証、年齢を証明するもの(18歳以下)を、お持ち下さい。
※定員500名



当コンサートの収益はテラ・ルネッサンス カンボジア事業(地雷除去、地雷被害者支援など)に活用されます。



【申込方法】

次の項目を明記のうえ、下記口座に参加費をお振込下さい。

 1.氏名
 2.住所
 3.連絡先(メールアドレス、電話番号)
 4.チケットの内訳(一般○枚、大学生○枚)

入金を確認しましたら、こちらから人数分のチケットをお送りいたします。 
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 ゆうちょ銀行振替口座 加入者名 テラ・ルネッサンス基金
 口座番号 00950 - 7 - 133760
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チラシのダウンロードはこちら(PDF)
http://www.terra-r.jp/katsudo/wonwintsuanchirashi.pdf

ダークナイト

2008年09月17日 | 映画・ドラマ
観てきました、映画『ダークナイト』。


つまり、バットマン。


なんというか。


今まで観た中で一番すごい映画かもしれない。


これほど“すごい”映画はないですよ。


ボキャブラリーのなさを表しているようなもんですが。


もうとにかくすごすぎ。


欧米では記録的なヒットなのに、日本ではもう打ち切られようとしている。


神戸では今週で終わりそうだし。


まだ観ていない人は是非観てみてください。とにかくすごい映画ですから。



この映画は昨年秋に亡くなったヒース・レジャーの演技が話題になっています。


たしかに、彼の演技は尋常じゃない。


ハンニバル・レクターも凌ぐレベルなんじゃないでしょう???



でも。


やっぱりこの映画は監督のクリストファー・ノーランのものだとも思うのですよ。


たしかにレジャーの演技あってこそこれだけすごい映画ができたのかもしれない。


でも、でも、これだけの構成力をもった監督というのは、ちょっといない。


時間のある人は、とにかく見てみてくださいよ。


すごいですから。



参考:「ダークナイトはジョーカーを描いているのか、バットマンを描いているのか 」 大西 宏のマーケティング・エッセンス

こども

2008年09月13日 | 日記
よく、「子どもは天使だ」と言われます。


もちろん天使ではありません。


一方で、「子どもは残酷だ」とも言われます。


でも彼らは悪魔でもありません。




ただ、子どもが大人をからかったり、きずつけようとすることは、大人にとって感情が揺さぶられる経験です。


多くの大人にとって、子どもは本来「弱くて守らなきゃいけない」存在であって欲しい。


その子どもに、上から見下ろされることは、大人にとってどう対処していいかわからないことです。





子どもたちの行動には邪気がありません。


それに対し、子供に大人への礼儀を求めていると、大人はその期待を打ち破られ、感情が揺れます。


邪気のない正直な子どもの言動だからこそ、一方的な期待を抱いていた大人の身勝手さが明るみになるのです。


子どもには、人間が本来持っている生きていくための力強さがあるだけであり、子ども時代というのはその力強さが前面に出てくる時期です。その力強さが、言葉や行動に表れます。子どもに「礼儀正しさ」期待を抱いている大人はそれに対して眉をひそめることもあります。


しかし、この時期にその力強さを十全に発現させることによって、子どもたちは自分たちが持つ力を制御することを学ぶのではないかと思います。


彼らは子供という時期に、完全な自由を与えられ、(他人の自由を犯さない範囲で)自分の思うがままの言動をし続けます。


それは、自分がもつ力強さ・衝動に発露の場を与えることであり、そうすることで彼は自分の力強さを自覚していくのではないでしょうか。


きっと、彼らは大人になれば、自分の力強さを自分の人生のためにうまく使いこなせるようになっているでしょう。



自立の機会

2008年09月07日 | 日記
“モンスター・ペアレント”が話題になって久しくなります。


学校の先生の不祥事がメディアで取り上げられる一方で、今度は無理な要求をする保護者が注目を浴びています。


親が学校に無理な要求をするのは、子どもの教育現場に親が意見を言う権利があるという意識が浸透しているからでしょう。


同時にそれは、子どもの環境をできるだけ自分の思うようにコントロールしたいという親の欲求の表れです。


しかし、子どもに自立心と責任感をもってもらうには、子どもが自分で行動し結果に責任をもつ領域が必要になります。


学校とは、本来そのような領域になっていなければなりません。


近代の学校は、しかし、子どもが自分で物事を選択する機会を奪ってきました。学校における集団生活は、工場や軍隊と同様に、子どもにとっては命令に従うことだけを覚える空間になりました。


教育現場の先生は、ほとんどすべての子どもは教師の指示がなければ動くことができなくなっていることを知っているでしょう。


もしカリキュラムを廃止し、また集団生活のルールを子どもたちで決めるようにすれば、自分のいる場は自分が作っていることを子どもたちは自覚できるようになるでしょう。


ついつい学校に要求をしてしまう親御さんは、ぜひ考え直してみてください。その行為は、子どもが自立する機会を奪っていることを。

遊びの野球

2008年09月05日 | 日記
たとえば、今野球をしようとすると、多くの子供は野球クラブや“部活”に入らないとできないのではないでしょうか?


遊びの野球の楽しみを、どれだけの子供が知っているだろうか?


たしかに、経験のある指導者によるトレーニングによって多くの子供たちは野球やほかのスポーツをします。


でも、わたしは(自分の経験を振り返って)思うのですが、“野球部”“野球クラブ”になると、コーチの“命令”に沿って動くように強いられ、その分楽しみは減ります。


これは野球に限らず、サッカーなど他のスポーツにも言えることです。


「うまくなるためには、専門家による指導は欠かせない」と言う人もいるかもしれません。


その通りです。


でも、既存の学校の部活は、中途半端な指導者が無理やり子供たちに命令を下して全体練習をします。


そこには、スポーツの楽しみはありません。


もっと子供たちには、遊びでスポーツをする機会を増やしてあげたほうがいいでしょう。


“スポーツ・クラブ”や“指導者”など、本当はそんなに必要ないのです。そういうものは、プロやオリンピックを目指すごく一部の人たちにとってだけ必要なのであって、多くの子供には無用です。


むしろ子どもたちに必要なのは、遊ぶ環境であり、遊びでスポーツをする環境です。


遊びのスポーツ。それは、子どもたち自身が集まって、子どもたち自身の決定ですることです。


たとえば、ストリートサッカーやストリートバスケってそうでしょう?


サッカーをする楽しみに、芝生が必要なのでしょうか?


違うでしょう。


サッカーをする子どもたちに必要なのは、ボールと、ちょっとしたスペースと、そしてたっぷりの時間です。


そこには、“指導者”など必要ありません。


野球も同じこと。



多くの子供は、スポーツに興味を持っても、スポーツ・クラブや“部活”に入らないとスポーツができないようになっています。中学生や高校生はそうですし、今は小学生もそうなっていないでしょうか?グラウンドを見ても、小さな子どもが大人がいるところでユニフォームを着て野球やサッカーをしています。


べつにそれらが要らないと言いたいのではありません。


ただ、特別上手い子供でない限り、そういったクラブや部活は、ただつらいものなのではないでしょうか。



子どもたちには、もっと遊べる環境が必要です。


繰り返しになりますが、そのために子どもたちに必要なのは、たっぷりの時間。

デモクラシーと自由

2008年09月04日 | 日記
民主主義とは、「人民」が自ら統治を行うことを意味します。


つまり、その人が属している団体がどうなろうと、その結果について団体の構成員全員が責任を背負わなければなりません。


言い換えれば、構成員全員が団体の状態について責任を負うことができる状態、それが民主主義です。


その状態は制度・規則によって維持できるものではありません。


よく知られているように、1933年にドイツではナチスが議会第一党になりました。これは、民主主義が自ら民主主義を放棄する第一歩となりました。


人民自らが、団体の状態について責任を負わず、その責任・権限を特定の政党や個人に委ねるとき、民主主義はそこで亡くなります。


だから、民主主義は、つねに「構成員全員が団体の状態について責任を負う」と全員が意志していなければ、存続しえないのです。


それゆえ民主的団体では、団体のある構成員がその団体に損害・悪影響をもたらす行為を行った場合、他の構成員がその理由を問いただし、以後同じようなことを起こさないように要求する必要があります。


そう要求する義務が構成員に課されている訳ではありません。


ただ構成員たち自身がその団体をデモクラティックなものにしたいのなら、自覚的に自らと他の団体の構成員の行為についてチェックする姿勢・意志をもっていなければなりません。


この“意志”こそ、わたしたち人間がもつものの中で最高のもののひとつではないでしょうか。


意志があるからこそ、私たちは自分の“したいこと”をすることができます。


つまり、意志があって初めて、自由は存在するのです。


自由と民主主義とはまさに分かちがたく結びついているのです。

何もしていない

2008年09月02日 | 日記
福田さんに対して国民が不満があるとすれば、「何もやっていない」からではないか。



辞めてもいいと思えるのなら、自分が正しいと思うことを思いっきりやってみるという選択肢はなかったのだろうか。



周りの圧力や妨害に屈せず。

何もしていない

2008年09月02日 | 日記
福田さんに対して国民が不満があるとすれば、「何もやっていない」からではないか。



辞めてもいいと思えるのなら、自分が正しいと思うことを思いっきりやってみるという選択肢はなかったのだろうか。



周りの圧力や妨害に屈せず。