joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 1

2006年10月05日 | Book


精神科医の中井久夫さんが著した『最終講義 分裂病私見』(1998)を読みました。著者が大学を退官するときに行なった講義だということです。

「あとがき」で1934年生まれの著者は、自分の世代の課題は「分裂病」であり、それを飛び越して何かをするということは時代と社会の要請する優先順位を無視することだったと述べています。著者が医師として活躍した時代はそのまま戦後日本の経済成長期に当てはまることは、「分裂病」すなわち統合失調症と製造業中心の経済成長期との相関を表しているでしょうか。

統合失調症親和者の微分的認知

『分裂病と人類』の中で著者は、「分裂病」=統合失調症の気質を「微分的認知」と表現しました。

微分的認知とは狩猟社会で発達した能力であり、それは「変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる」能力です。そのため微分的認知の能力は、確実性の少ない荒野の中で獲物を認知し・また肉食動物の攻撃から身を守るために、視界の中の僅かな動き・音・臭いから動物の存在を察知します。

このような、世界のかすかな兆候から将来を予測する能力は、しかし戦後の経済成長期の社会に適応することは困難でした。

製造業中心の大量生産・大量消費社会において求められる能力は、「三種の神器」に代表されるような画一的な製品を生産・販売することであり、そこで求められるのは数の“積み重ね”です。求められるのは決められた課題を達成する地道さであり、正確さの追求です。

そのように確実性を強迫的に追求する時代では、かすかな兆候から動きを予測する微分的認知の機能は、所与となる規則的なデータから完璧な正解・結果を出力しようとするため、あらゆる動き=データが物事の原因となるという妄想を生み出します。

社会がカオティックであるとき、求められるのは厳密さの手前にある解答であり、“現実”そのものへの対応です。そのため微分的認知は、わずかな動きからある程度の答えを予測することで、現実的な解決策を提示できました。

しかし社会の動きを完璧に予測できるはずだという圧力が加えられていた戦後の経済成長期では、求められるのは“完璧”な答えです。そのような状況下では、微分的認知は、現実的・対応的な答えではなく厳密な“答え”を出そうとするあまり、あらゆるデータを因果的に結びつける妄想を抱きます。

こうして、因果的な厳密さと確実性を求める時代では、あらゆる兆候から答えを導くという能力が仇となり、「分裂病」親和者は統合失調症を発症させます。

(このあたりの中井さんの議論は、「「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著)」“joy”で紹介しました)


ただ“一般”の世界にいる私から見れば、統合失調症というのは必ずしも馴染みのある病気ではありません。それは、統合失調症というものの極端な症状しか私たちは知らないからかもしれません(例えば映画
『ビューティフル・マインド』で見られるような)。いずれにせよ、患者さんと実際に関わっているわけでもなく、身近にその病気を発症させた知り合いがいるわけでもない者からすれば、統合失調症が発症させる“妄想”というものは想像し難いものがあります。

むしろ多くの人、とりわけおそらく日本の人にとっては、中井さんが「分裂病」=統合失調症に対置させる「執着気質」の方が馴染み深いのではないでしょうか。中井さんは「執着気質の歴史的背景」(『分裂病と人類』所収)という論文で、この「執着気質」を「復興の論理」と位置づけ、規範と正確性を尊重するこの気質が戦後の経済成長を支えた事情を描写しています。

現代は、このような規範と正確性への執着では対応し得ないカオティックな時代に移行していますから、そのため多くの執着気質者は、自分の受けた教育(大企業・官庁などに入り、決められたことを正確にこなせば幸せになれる等)と時代とのずれに悩み、“鬱”になっています。

それに対応して、金融が産業の中心となり、また消費者の趣向がつねに変化する現代では、一瞬の経済の動きから先を読む能力がより求められるため、分裂気質者が以前より生きやすい時代となっており、ある臨床心理士の方の話では、分裂病は以前よりもその発症数が減っているそうです(もっとも、これには薬の発展もあるのでしょうが)。


心の自由度

ともかく、この『最終講義 分裂病私見』は、「分裂病」=統合失調症が最大の課題であった時代にそれに取り組んだ精神科医が、その病気の特性と、発症から回復までのプロセスについてコンパクトに語ったものだと思います。

まず発病の急性期(急に症状を発して病気の進み方が速いこと)に見られる特徴として、「心の自由度」が非常に低いこと(p.18)。それは例えば、絵画療法において「自由に描いてください」と言われても、「自由というのが分からない」と答える患者さんもいたそうです。

著者は、このような「心の自由度」の低さ、例えば診察の場面で絵画を自由に描けないことの意味を、「絵画療法の場を共有できない」=「一般化すれば対人関係の場を他者と統合しにくい」「接点というか折り合いをみつけにくい」ことの表れと捉えます(p.18)。

これは、あらかじめ患者さんに絵画療法を断る自由を与えておいて、患者さん自身が絵を書くことに同意したにもかかわらず、絵を描けないときのことです。

このような自由度の低さは、統合失調症の方が、世界のあらゆる兆候を意地になってでも関連付けて因果的に説明する傾向とつながっているのだと思います。著者は急性期の患者さんのつらさを次のように想像します。すなわち、「自由度」が低いため、世界で起こるすべての出来事や内面での印象や観念や思考の動きを“偶然”とは思えず、すべてが恐ろしい“必然”になってしまうのです。あたかも、世界全体が自分に襲いかかっているような「世界の不条理」です(p.23)。

「心の自由度」の低さがこのようにすべてを関連づける妄想へとつながります。逆に言えば、統合失調症(無理にでもすべてを関連づけて人格の統合を試みる症状)の回復は、“偶然”“ハプニング”といったものが存在すると思うことができる「ゆとり」があるかないかがキーポイントになると言えます。

この統合失調症の回復に関して、著者は面白い比喩を一つ挙げています。

統合失調症に罹る、すなわち「心の自由度」を失うことは、例えば山での遭難に例えられます。

先に統合失調症の患者さんは面接者と場を共有して自由に絵を描くことが困難になる、すなわち他者と同じ場にいて心のゆとりを保つことが困難になると述べました。

同じように、山で遭難した場合、パーティ内部の人間間の対立により「ゆとり」がなくなり、「ハプニング」を受け入れる余裕を失うそうです。つまり「ゆとり」とは、対人関係の状態によってその有無を測ることができるということです(p.25)。

統合失調症との闘いは、道を見失って遭難することに相当します。「ゆとり」を失い、他人と場を共有することが難しくなり、すべての出来事が自分の存在を脅かすような妄想に囚われます。著者は病気になる人のことを、「遭難しかけた時に山頂のほうに向かって避難しようとする人」と比喩します。患者さんは、病が始まったときにはすでに山頂におり、しかも一人で下りることができません。

「登りに力を使い果たし、疲れはてて、道は尽き、目標を見失って、外部の目からは幻の山頂といわばいえ、当人にとっては四方が断崖の絶壁にいるのです」(26頁)。

これに対して回復とは、山を下りる時に似ており、治療とは山岳遭難救助だとのことです。

とても分かりやすい比喩だし、これは統合失調症だけではなく、他の多くの心の病にも当てはまりそうな気がします。

治療が山岳遭難救助であれば、治療者は遭難者と同様に山を登る=病と闘うプロセスを理解する必要があります。自分で追体験できるだけの困難な経験の蓄積、または想像力を有す必要があると言えるかもしれません。遭難者以上に、病に罹ったときの心的状態を知っており、その状態を知りながら、同時に回復に至るプロセス=山を下りる道を知っている必要があります。

遭難者が山から下りれないからといって、「下りる気がないからだ」と言って叱咤して突き飛ばしたり、自分には関係ないとして一人でさっさと下りてしまったりしては、救助できません。救助者は患者の手を握りながら、山の下りですから、一歩一歩確かめながら下りる必要があります。山は、登るときよりも、下りるときのほうが神経と足腰の筋肉を使います。

夢の役割

このような統合失調症の回復は、睡眠障害が緩和されるときにその回復が始まっていることがわかるそうです。ただこの回復期に見る患者さんの夢は、「最初は不定形のヘドロのような悪夢、それから怪物などが登場する悪夢、そして人物が登場する悪夢」へと変わって行き、その後次第に夢が「淡く」なるそうです。またそれにしたがって、眠りが深く、めざめ心地がよくなるといいます(27頁)。

ここで中井さんは、少し話の脇道にそれて、「夢の健康度」について次のように私見を述べています。著者によれば、健康な夢とは、「生々しい夢でも朝目覚めると一、二分以内に、いやたいていは数秒で内容が急に色あせ単純化され、言葉に仕立て直されてストーリーが生れ、それから、おおよそ二時間以内にストーリーがあらすじだけになり、ほぼ正午までにテーマあるいは表題だけになるもの」だということです。(30頁)

また、先に統合失調症の患者さんはすべての世界の兆候に無理にでも関連づける傾向を紹介しましたが、その反対である「自由な」一貫性のない夢は、健康度の高い夢になるそうです。例えば「断崖に追いつめられたかと思うと、場面が一瞬にいちめんの花園になる」など、場面とストーリーがガラっと変わるような夢ですね。筆者によれば、統合失調症の患者さんにはこれがとても少ないということです。

夢とは、

 1 前日に見聞きしたこと
 2 目覚めそうなときに見聞きしていること
 3 こだわっているために消化されず、日常でも無意識を通じて私たちの思考と行動に影響を及ぼしている想念

の三つから成り立っているという話を別のところで聞いたことがあります。1と2が夢に現れた場合は、たとえそれが象徴の形を採っていても、なぜ夢に現れたかを推測するのが比較的容易です。しかし3の場合は、普段わたしたちが気づいていない無意識の想念が、夢として現れていることになります。

統合失調症の患者さんのように、夢の中で場面展開が激しく《ない》ということは、その人の頭ではつねに一貫した論理が頭の動きを捕らえているということであり、それだけやはり思考の「自由度」「ゆとり」を日常において持っていないということになります。

逆に言えば、私たちの精神は、一つの論理に囚われていず、偶然やハプニングをそれとして流すことができるほど、健康と言えるでしょうか。中井さんは次のように言います。

「ひょっとすると、実際の人生でも時々ハプニングや飛躍があるから成り立っているのかもしれません。そういうものがないと必ず暗いほうに行ってしまうのではないかと思います。一貫した人生がいけないといっているのではありません。花が好きで好きで植物学者として生涯を全うした人などはすばらしいと思います。しかし、無理に一貫させるというのはどうでしょう。特に病気というのは『人生の仕切り直し」の機会ではありませんか』(31頁)。


臨界期の身体症状

ともかく、回復期には睡眠が次第に深く、心地よくなります。著者が言っているわけではありませんが、それはおそらく、思考に柔軟度が生まれるほど、意識は“今ここ”に向かうようになり、身体感覚が思考から解放されるからじゃないでしょうか。身体の感じている疲労を、思考の邪魔を受けずに、自己がそのまま感じることができ、眠りが深くなるのでしょうか。

このように意識が、現実から解離した論理を追い求めずに、その時々に身体や脳が体験していることに微細に注意が向く(「意識の縁辺にあることを意識する」)ようになることが回復期の特徴のようです(「やっぱりいやだなぁ」とか「これはちょっとちがうのではないか」など)。

またそのように意識の方向づけが柔軟になるに従い、著者は、患者さんは「パラタクシス」的な思考の秩序を受け入れることができると言います。つまり、すべてを因果的に関連づけるのではなく、「せんせいも家へ帰ればただの人」などのように、・・・だけど~というように思考することができる、と(35頁)。

また回復期は身体が思考の支配から解放される時期ですから、身体症状が現れる時期だとも言われています。逆に言えば、急性期には身体症状がなさ過ぎるのだ、とも(37頁)。

このことは、見方を変えれば、統合失調症の発症に向かう過程で、何らかの身体の症状が出れば、発症を抑えられる可能性があることを示しています。

統合失調症では、発病する時期と回復する時期の両方で身体病が出るそうです。中井さんはこの時期を「発病時臨界期」と「回復時臨界期」と呼んでいますが(41頁)、統合失調症は本来はなんらかの身体病を伴うものなのでしょう。しかし、「ゆとり」のなくなった思考が身体までも支配してしまうと、身体病は後景に退き、精神の病気だけが突出するのかもしれません。

ちょうど山なりの図の頂上近くが統合失調症の重い時期だとすると、山を上がる前と下りるところに線が引いてあり、その線上付近だと身体病が出ると言えるでしょうか。

「臨界期」において身体病が出ている間は、まだ思考よりも身体の感覚が勝っている状態ですから、精神の病を抑えている状態なのかもしれません。中井さんは、この「臨界期」は寺の出入口を守る仁王様みたいなもので、急性の統合失調症という苦しい状態が起こらないように、身体疾患で食い止めようとしているのではないかと述べています(43頁)。

このことは、人間には、統合失調症に至らないように何らかのエネルギーを入力するシステムが備わっているという推測を導きます。そのエネルギー入力が例えば身体病として現れるわけですが、ともかく身体の感覚が思考よりも勝っている状態を作り出すシステムと言えます。中井さんはそのシステムとして考えられるものの候補とは、「発病の時に最後のあがきのように乱れた活動を示すもの」、また「回復の折にまっさきに現れるもの」であり、それを順に示すと、「睡眠」「夢活動」「心身症」「意識障害」「死」だと述べます。後に行くに従い、有害性が増加します。


「『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 2」に続く


最新の画像もっと見る

post a comment