joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

全国学力テスト

2008年08月31日 | 日記
今年も、全国学力テストというものが行われていたそうです。


やはり私には、無意味なことに膨大な予算と労力が使われているという印象をもってしまいます。


結果はいつもと同様に、基礎力を問う問題はできても応用力を問う問題は点数がたりないというもの。


このことを憂慮する人たちには、「では、基礎も応用も解くことができる子供が多かった時代が今までに存在したのですか?」と聞いてみたいです。




こどもたちが基礎力を問う問題でそこそこ点数を取れるのは、それらの問題は単純な反復練習で対処が可能だからです。


では、なぜ応用力を問う問題で点数が低いのか。


応用問題は、頭を使う必要があります。考える必要があります。つまり、面倒です。


面倒なのだから、点数が低くて当たり前ではないでしょうか。


では、人はどういうときに面倒な問題でも取り組もうとするのでしょうか。


その問題に興味があるときです。


では、人はどういうときにある問題に興味をもつのでしょうか。


興味をもつときです。




人は興味あることにはずんずんと取り組むし、自分で調べもします。


興味のないことには、どれだけがんばっても真剣に取り組むことはできません。真剣に取り組むふりをするのが上手くなるだけです。


既存の学校教育の問題は、そのような“真剣に取り組むふり”をする癖を子どもたちに植えつけてしまうことです。真面目な子はとくにです。


わたしは、「学力低下」という現象は、子どもたちが自分に興味のないことには真剣に取り組もうとしていないサインであると思っています。


それは、とても健全なサインではないでしょうか。


わたしは、人は面倒なことに取り組む必要がないと言いたいのではありません。


ひとは、生きていくためには面倒なことに対処する必要があります。


でも、生きる目的とは、自分の好きなことや興味あることをするためでしょう?


その好きなことや興味のあることをしていくために、面倒なこともしていかなければならないということではないでしょうか。


しかし既存の学校教育は、子どもに自分が何が好きなのかを探求させようとはせず、ただ面倒なことだけをさせようとしています。

さ?

2008年08月29日 | 日記
二岡や渡辺アナが仕事でテレビに出ることができて、どうして山本モナはでれないのさ?


わたしは二岡や渡辺アナがもし不倫をしていても、それでテレビに出るべきではないとは思わない。


でも、それとはべつに、彼らがテレビに出られるのに、なんでモナが出られないのさ?


わたしはべつにモナをテレビで見たいわけじゃない。


でも、なんでモナだけ、というより女性だけテレビにでられないのさ?やってることはおなじじゃないの?


男は不倫しても許されるのに、女は許されないの?


なんでそんな文化をマスコミは認めるのさ?


今こそマスコミとして、公共放送を担う機関として、社会的公正・平等の立場に立って、男女を平等に扱うべきじゃないのさ?


不倫は当事者だけの問題じゃないのさ?


マスコミもおかしいけど、もっとおかしいのは、モナだけ批判する世の中の人じゃないのさ?

あるブログ

2008年08月27日 | 日記
他のブログを通じてみづきさんという方のブログ「みづきの末期直腸ガンからの復活の記録」を知ったのは、今年の前半のことでした。


病気や治療法の詳しいことは私には分かりませんが、それでも読ませていただいていました。


そのみづきさんが先日亡くなられました。わたしはブログにコメントしたこともない一読者なのですが、それでもその死を知ったときは言葉がありませんでした。


彼女の日々更新されるブログからは、彼女の病状の重さが本当には分かっていなかったか、あるいは分かりたくなかったのだと思います。


本当は大丈夫なのだと思い込もうとしていたのです。



music & me 原田知世

2008年08月24日 | 日記
先日、原田知世さんの「原田知世ライブ ”music & me"」について紹介しましたが、そのライブで主に演奏された楽曲が収められている“music & me”を買いました。と言っても、一ヶ月以上前です。


わたしは原田知世を10年前から聴いているけど、“music & me”を聴いて思ったのは、「とても素人っぽい」ということ。


10年前に“I could be free”を聴いたとき、「時をかける少女」の印象がいまだに強かったのに、その完成度の高さと彼女の声の素晴らしさに圧倒されたのをよく覚えています。


あれから10年経ち、キャリアを重ねてますます歌がうまくなっているはずなのだけど、なぜかこのアルバムの彼女の声は「素人っぽい」。


それは、不思議な素人っぽさです。


一度歌がうまくなった人が、素人のように歌う。意図せずそうなる。


じつは、これはとても難しいのじゃないのだろうか。


その素人っぽさは、下手とか上手いとかいう基準を超えたものなのです。


不思議だ。


とてもいいアルバムですよ。




グーグル・ストリート・ビュー

2008年08月20日 | 日記
Googleの偉大さと傲慢さ(前編)(WIRED VISION) - goo ニュース


Google Street Viewって、みなさんもう使いました?


もうとってもおもしろいですよ~。


住所を打ち込めば、その住所の画像を見ることができるんですから。


でも、プライヴァシーの問題もあり、批判も出ているようです。



たしかに勝手に自分の姿を撮られて怒る人の気持ちも分からないでもない。


そこにいることがばれるとまずいのに勝手に写真を取られてウェブで公開さえているのだから。


まず、どうしてグーグルは写真を撮るときに人も一緒に写してしまったのか?

もちろん、この疑問を解くのは簡単で、いちいち通行人に気をつけていたら写真なんて撮れないとグーグルは思ったんでしょう。

実際にはクルマにカメラを搭載して撮ったみたいです。

たとえばこのように



まずグーグル・ストリート・ビューの便利な点は、もちろん行ったことのない場所の風景がわかって、待ち合わせにべんりだったりする点ですが、そんな実利的なことがなくても、世界の風景が写真をで見れるなんて、ドラえもんのどこでもドアを手に入れたみたいでとっても楽しい。

そのうち、世界のどの住所でもライブで撮影された風景を見ることができるようになるんじゃないだろうか。

まぁ、でも勝手に撮られたくない写真を撮られた人が怒るのはもっともですね。


もう、どこにも、誰にも知られない場所なんて存在しなくなるのかな。

ふぅ

2008年08月17日 | 日記
ふぅ、暑いあつい。


と言いたいけれど、なんだか急に涼しくなりました。


涼しい涼しい。


やっぱり体が疲れているんですかね。


連日の猛暑で一日中眠かったです。


ねむいねむい。


夜の今の時間になって少しすっきりした感じです。


明日からは、もう世の中は通常モードに入るんですかね。


もっとまったりしていたいなぁ。


もっとゆったりしていたいなぁ。


南の島にいるように。



野球

2008年08月15日 | 日記
ふぅ、毎日あついあつい。


昨日は、兵庫県尼崎市(大阪の隣)にある野球場で野球をしてきました。


わたしは小学校・中学校と野球部だったのだけど、部活の雰囲気が陰湿でいじめ・暴行が横行していたことで、すっかり野球をするのが嫌いになった。


でも、きのうは灼熱の太陽の下、ボールを追いかけるのがとても楽しかったです。


草野球というのはいいですね。


失敗しても怒られないし。


遊びでする野球。


戸外で泥だらけになり、汚くなりながら、体を動かすこと。


何かを思い出したような気になりました。


生きること。


歩くこと。


世界の中に存在すること。


グラウンドの中に、私を守ってくれるものはありません。


太陽が照りつける公園は、野生のジャングルのようにさえ思われました。


その中で、恐怖を感じながら、わたしはボールを追いかけました。


それはエキサイティングであり、怖くもあり、だから面白いことでもあります。

方法、手段

2008年08月13日 | 日記
毎日新しい人に出会っている。


これまで出会ったことのない人や、超有名人でその人の著作を私も何冊も読んでいたような人や。


面白い動きの中にいるけれど、それはこのような人との出会いが、現実を動かしている人たちとの出会いだからです。


現実を動かしている人たちとの出会いは面白い。


同時に、現実を動かすというのは、簡単なことではない。


このムーブメントの中にいるには、私自身も現実を動かすための方法を考えていかなければならない。


こんな考え方自体が窮屈なのかな。


自分が関わっている動きはとても素晴らしいことだし、私自身にもそのことに確信めいたものがある。それは日々深まっている。


でも、そのことの価値をもっと多くの人に知ってもらいたいし、そのための手段を見つけたい。

自由

2008年08月10日 | 日記
私たち大人は誰もが、人は自立すべきであり、物事を自分で判断できる人間になるべきだと言います。


それ自体は、間違っていない考えだと思います。


しかし、にもかかわらず、私たちは、子どもにだけは「自分で判断する」ということを許そうとしません。


私たちは、子どもがテレビを見たいのに、見させようとしません。

子どもが遊びたいのに、遊ばせようとしません。

ゲームがしたいのに、ゲームを取り上げます。


やりたいことをするという経験を決して子どもに許そうとしません。


18歳まで、あるいは22歳まで、あるいはそれ以上まで、自分の判断で行動するということを人にさせないのです。


20歳まで自分の判断で行動するということを許されなかった人間が、選挙権をもつ20歳になって突然に自立と責任を備えるなどということがあるでしょうか。


教育というものが、子どもにこうなって欲しいという想いを表すものだとしたら、あるべき教育は、まず子どもに自由を与えることです。


そして、自由な行為の結果をすべて自分で背負ってもらうことです。


子どもたちは皆知っています。


完璧な自由には責任が伴うことを。


その事実から目を背けるのは、自分のいる状況を大人に押し付けられ、すべてを他人のせいにする心性を身につけてしまった子ども・人だけです。

自由を奪われると、人はすべてを他人のせいにするようになります。


子どもにそのようになって欲しいとは、誰も思わないはずです。

大学再生への道 2

2008年08月08日 | 日記
大学からカリキュラムを廃止するということは何を意味するでしょうか?


それは、一つには、学者という存在がどういう点で尊敬されるべきなのかを、私たちに思い出させることになるかもしれません。


学者が尊敬されるとしたら、それは学者以外の人より何かを多く知っているからではありません。


社会では、すべての人が自らの生活を通して、有形無形の知識を得ています。それが書物という形をとらなくても、誰もが何かに精通しています。


そういう状況で、学者が学者以外の人より何かを知っているなどと考える人は、これからますます少なくなっていくでしょう。


おそらく学者自身でもそう考える人は減っていくでしょう。


では、学者が人から尊敬されるとしたら、それは自らと自らの社会に関わる問題を解決していくという経験をしていることです。また問題を解決することができるという能力を備えているからです。


自ら興味をもつ事柄に取り組み、問題を解決していくという能力に、人は尊敬を抱きます。


学者がある問題に興味を持つからといって、学生にもその興味をもつよう強制することは意味のないことです。だから、カリキュラムなどというものは、存在価値がありません。


学生は、自分が何に興味をもつかは、自分で発見しなければなりません。


また、どうすれば自分が興味を持つ問題を解決できるかを、学者に教えてもらうこともできません。それも自分で解決すべきです。学者が講義して教わるようなことではありません。


しかし、自分が興味をもつ問題を解決しょうとしている存在が身近にいることは、学生にとってきっと心強いことでしょう。



私たちは、何かを多く知っているという理由で、他人を尊敬すべきではありません。


人は自分が興味を持つ事柄しか知ろうとはしないし、また知ることはできないのですから、他人と自分の知識量の差を気にすることは無意味なのです。


私たちが他人を尊敬すべきであるとしたら、その人が取り組んできた問題を解決してきたプロセスに対してです。またその解決能力に対してです。


そう考えると、「学者」と「素人」という二項対立が無意味であることが分かります。重要なのは、目的意識をもっているかいないかだという、当たり前のことがわかります。

大学再生への道

2008年08月07日 | 日記
大学の定員割れというニュースが毎年のように報道される。


しかし定員割れと経営危機とは直接結びつかないのだから、それほど大きな事件ではないと思うのだが。もともと設定していた定員が多過ぎたのかも。

定員が減っても、ほかにかかっているコストを減らせばいいだけなのかもしれない。



ところで、大学が自身で本気に再生したいのなら、何を学ぶのかをすべて学生に選ばしたほうがいい。

学ぶ内容を学生が考え、学生が望むときにだけ、講義を開けばいい。その場合、講師は学外でも学内でもどちらでも、講義内容にフィットした人を呼ぶのがいい。


卒業できるかどうかは、学生自身が作成した論文で判断する。


大学が提供すべきなのは、文献や調査のための資金やアドヴァイスをくれる講師陣であって、学ぶべき内容ではない。


そういう大学でなければ、学生は決して自分から学ぼうとはしない。


「環境」や「福祉」や「コミュニケーション」というように何回看板を変えようと、学ぶべき内容を大学が設定しているかぎり、学生は単位を集めるだけの機械になります。

学生が自分から学ぼうとしなければ、どれほど「大学改革」しようと、大学が何か意味を持ちえる存在にはならない。

学生が何を学ぶべきかを大学側が設定しなければならないと思っているのなら、それは最初から学生を学ぶ存在と認めていないことに等しい。

学生を学ぶ存在として認めていないのに、学ぼうとしない学生を「今の若者は勉強しない」とみなすのは、矛盾している。


おそらく、自らの好奇心にしたがって研究している研究者でなければ、上記の考えに賛同することはできないでしょう。

逆に言えば、研究する上で、学ぶ上で、「必修」というものがあると考えるような人は、研究していない、自分で学んでいないのではないかと思います。

ミクシィ

2008年08月06日 | 日記
今頃になってミクシィデビューした。

これまでなぜか縁がなかったのだが、あるきっかけで入会したのだ。


ミクシィは今ではもう人気がないという。


実際やってみて思うのは、これはもう会員制にするメリットが何もないということ。これだけ大所帯になっている以上、誰でも入会できるようにした方がいいでしょう。

たとえ会員に誰でもなれたとしても、ミクシィが同じ関心・興味を持つ人同士をつなげるという役目はきちんと果たせると思う。

ミクシィがやるべきことは、ミクシィ内で多くの記事を書いてもらうことではなく、それぞれがブログやHPで書いていることを、マイミク同士やコミュニティで共有できるチャンスを増やすことだと思う。

ミクシィというページは、ネット間をつなぐ媒体に徹したほうがいいよ。

映画『マリッジリング』

2008年08月06日 | 映画・ドラマ
映画『マリッジリング』


20代のOLが40歳の子持ち男と不倫するというお話。

なんだか何もかもありふれた話で、意外性がどこにもない。

でも、これはこれでいいのではないだろうか。

人生に挫折感をもっている中年男は世の中には多いのだろうし、人生にむなしさを感じている若い女性も多いのだろうし、そんな二人が職場で不倫するというのも、多いのだろうし。

あまりにも平凡な私たちの風景をそのまま切り取るということは、しかし意外と映画やドラマではなされていない。

奇をてらった学芸会を日々見せられている私たちにとって、こういう当たり前の日常をきとんと見せてくれる映画は、いいのではないかと思う。

この映画が10年前に、いや20年前に作られたと言われたとしても、驚かない。それぐらい、新しいものがこの映画にはない。

でも、この数十年の日本社会に生きる人たちの多くにとって共感できるものがあることも確かだと思う。



主役の小橋めぐみさんはとってもきれい。

他の女優にありがちな、漫画の登場人物のようながつがつしたところが皆無で、いい脚本に出会っていい映画やドラマに出て欲しい。