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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

リーダーシップと心理学 『母と子のアタッチメント ―心の安全基地―』

2005年12月09日 | Book
『母と子のアタッチメント ―心の安全基地―』という本を読みました。著者はジョン・ボウルヴィィというイギリスの精神科医で、すでに亡くなられた方です。

この本を読んだきっかけは天外司朗さんの『運命の法則』で触れられていたからで、その脈絡は忘れちゃったのですが、読んでみました。

内容は、母親の養育がどれほど子どもの発育に後々まで決定的な影響を与えるかを述べています。

こういう分野に詳しい人にどれほど新しい議論なのかは私には分からないし、僕から見ても取り立てて何か新しいことを述べているようには見えませんでした。しかしにもかかわらず読んでよかったと思わせてくれる本でした。

「安全基地」としての親

著者によれば、生まれたばかりから子どもに対して母親が子どもにとって「安全基地」であること、すなわち子どもに安心感を与えるようなメッセージを身体(や言葉)で発し続けることで、子どもは自由に外界に探索できるようになります。親が自分にとって安全でありいつでも帰る場所があることを知っているので、自由に外の世界に冒険に乗り出すことができるのです。

それに対して、親が子どもに安心感を与えずに、無視や敵意を感じることで、子どもはこの世界が危険なものであると感じ、その印象は後々の人生までその子どもに影響を与え続け、彼は周りの世界と闘うようになります。

著者が強調することの一つは、このような不健全な親子を見た場合に、子どもに対してそのような非寛容・無視・敵意を表す親は、必ずと言っていいほどその親自身が子ども時代に親に傷つけられた経験をもつということです。著者は経験的調査の例を挙げてそのことを指摘します。

親に抱きしめられず愛情を示してもらわなかった人は、自らが愛情を表現する術を学ぶことができていません。それだけに子どもを産んでも自分がその子に愛情を表現する方法を知らず、結局は無視や怒りなどのメッセージを子どもに発します。そうされて育つ子どもが親になると自分の子に対して十分に愛情を表現できず、またその子も愛情表現のできない人間になります。

ボウルヴィがこの本に収められた論文を書いた1970年代までは、親子関係を論じる精神科医にはこのプロセスに十分な注意を向けずに親の子育てを一方的に批判する人がいたのでしょう。そのことに対し彼は、治療者は患者の親に対して絶対に批判的であってはならないと戒めています。

攻撃の連鎖

こういう指摘をあらためて読むと、他人を傷つける人は自分も同じくらい傷ついている人であるという事実を思い出します。

私は親に対しても知人・友人に対しても激しい怒りをよく感じ、彼らの過去のちょっとした言動を頻繁に思い出して怒っています。

しかし、もし彼らに私に対して悪意があったとしても、その悪意があるということは、彼ら自身が同じように嫌な思い・傷ついた思いを周りの人から強いられた可能性が凄く高いということです。

自分が傷ついたとき、その傷と同じだけの苦しみを自分を傷つけた人も過去に負っているのだと想像すると、少しは冷静になれる気がします。その同じだけの苦しみを負っていなければ、彼(彼女)は私を傷つけることができないからです。

もし親に「ひどい」育てられ方をしたことを思い出しても、その親自身が同じようにひどい育てられ方をされている可能性は高いのでしょう。そう考えると、人類には悲惨な想いが太古の昔からえんえんと受け継がれて、それが今の自分を形作っていることが分かります。

語りと誠実さ

そのことと関連してボウルビィは、治療者がすべきことは、決して親を批判することではなく、目の前にいる患者が前を向くための手助けであることを指摘します。

ボウルビィ、そしてこれはスコット・ベックも強調していたことですが、世の中には親やまわりの人から傷つけられた経験を持ちながら、にもかかわらず精神的な健全さを示す人が存在します(『愛と心理療法』)。

それらの人に見られる共通の特徴としてボウルビィは、自分の過去に正面から目を向け、その経験を首尾一貫して語る能力を指摘しています。自分の経験に自分なりの納得の論理づけができ、記憶の中で自分のつらい経験がちゃんと整理されているという意味なのでしょう。

それに対して精神的な不健全さを示す人には、自分の経験を語る言葉に支離滅裂さがあると彼は指摘します。

ただこの首尾一貫して語るということは、精神的な健康さを見せる人にそれが見られるということであって、論理的に過去を語ることができるから精神的に健全であるというわけではないと思います。

私たちのまわりには現在心理学の書籍があふれ、自分の心理を論理的に語るための道具に事欠きません。それによって私(たち)はインスタント・セラピストになっていきいます。

しかし、心理学にはまる人は分かると思いますが、心理学的な語りは最初は心地いいのですが、すぐにそれでは自分の問題はなんら解決していないことは分かります。

言葉というのは諸刃の剣で、明快に語ることができるとき、必ずそこから零れ落ちるものがあります。本来、その零れ落ち忘れた記憶の部分を掘り起こすのが心理学の役目なのですが、心理学を学ぶことが自己目的化すると、結局自分の心を置き去りにしたまま論理的な語り口だけが上手になってしまうという経験を私はよくします。

トマス・ムーアは「心について知りたければ、心理学の本を一年間読むのをやめなさい」と述べています(『ソウルメイト、愛と親しさの鍵』)。

ボウルビィが言う首尾一貫さというのは、決して心理学的に論理的に述べることではなく、自分が見ないようにしているものに直面する勇気であり、どれだけ自分に対して自分が誠実であるかによって成し遂げられるものです。そこからは自然と的確な自分の過去に対する解釈が出てくるのだと思います。

治療者と患者の対等さ

この悲惨な過去を持ちながら健全な精神的健康さを示す人が見せる特徴と関連して、ボウルビィは治療者が安易に精神分析的知識を用いて患者を解釈してはいけないと指摘します。

たとえば、人が人を求める傾向を精神分析者は「依存」とみて、それを発達段階の「退行」とみなし、つまり何か人間として劣った傾向とみなします。

しかしボウルビィからみれば人が他人を求める傾向は普遍的なものであり、決して幼い段階だけの特徴ではなく、その傾向こそが大人になってからの特徴を決定づけると指摘します。ボウルビィは「依存」に代えて「アタッチメント」という言葉を使い、それが人間の普遍的傾向であることを強調します。

子どもは大人に甘え、大人は周りの人に甘えることで、自分の外界に自由に行動して出てゆくことができます。この「アタッチメント」の傾向は人間として普遍的なものであり(ボウルビィは人間の特徴のすべてを環境の影響と見る見方を批判しています)、決して批判されてはならないと述べます。

言い換えれば、人が他人に「アタッチメント」すること、甘えることを批判してしまうときは、それ自体が再検討されるべき行為ということになります。

こうしてボウルビィは高みから解釈する精神分析に批判を加えていきます。

それと関連して彼は、精神分析者がすべきことは上から解釈を患者に対して下し判決を述べることではなく、あくまで患者自身が自分の過去の経験を正面から見つめる手助けをするのだということを強調します。

分析者は解釈を教える立場ではなく、あくまで患者が自身の解釈をしやすいように手助けをするのだということ、それだけの共感能力をもつことを彼は治療者に要求しています。それにより患者は自ら過去の経験に触れ首尾一貫して語ることが可能になります。

精神分析に対するこうした批判がなされてから多くの時間が経つのでしょうが、それに関わりなく心理学的な語彙は私たちの周りにあふれ、それによって私は他人を安易に心理学的に解釈することがよくあります。

しかしボウルビィは、大切なのは、自分が自分の経験にちゃんと触れることであり、他人に対してはその経験に正面から見つめることを手助けすること、そしてその他人がどういう解釈をするのか、またどういう解釈がその他人にとって正しいのかは自分には決めることはできないこと、それが大切であるという基本的なことを思い出させてくれます。

心理学をリーダーシップに活用するとき、重要なのは何が正しいかを他人に教えることではなく、その他人にとって何が正しいかを見つける手助けをすること、このことを意識するということなのだと思います。


涼風


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