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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『ひきこもりの家族関係』 田中千穂子(著)

2006年12月07日 | Book

             “Family playing in the River”


臨床心理士の田中千穂子さんが書かれた『ひきこもりの家族関係』(講談社+α新書 2001)という本を読みました。

この分野に詳しくない私は著者の方を存じ上げていなかったのですが、すでにいくつかの著書を出されている方ですし、アマゾンのレビューでも、他の著書による類書は多いにもかかわらず、高く評価されています。きっと著名な方なのだと思います。

読んでいて著者の田中さんが神田橋條治さんの話を引用されていて、ちょうど私も今神田橋さんの本を読んでいるところなので、面白い偶然だな、と思いました。

他の「ひきこもり」関連の本と比べてこの本で印象に残ったのは、「ひきこもり」の発生する原因の一つに、家族全体を見た場合の心の欠落が子どもの「ひきこもり」として現れているのではないかという著者の視点です。

すなわち、「ひきこもり」は子どもの独立した内面に原因が求められるべきではなく、また単なる経済的な豊かさの産物でもなく、家族、とりわけ親御さんの心・感情のなかで省みられなかった部分を、子どもがそれを背負うために「ひきこもり」という行動が現れているのではないかと指摘されています。

本の中で、「ひきこもり」をする緑という女の子の母親の話が紹介されています。妙子さんというその母親は、その母親つまり緑のおばあさんに当たる方が大人として精神的に自立しておらず、何かと妙子さんは母親に寄りかかられてしまっていたそうです。そのように親が精神的に自立していないため、妙子さんは親に頼ったり甘えるということを知らずに、すべてを自分が自立して処理する習慣が身につきました。そこでは、他人の気持ちを考慮するという余裕はなく、とにかく自分で考えて行動するという傾向が身についたそうです。そのため、母に相談せず物事を処理することがあり、母にそのことで恨まれ詰られていたりしたそうです。

その妙子さんが母親になったとき、とにかく「こうあるべき」「こう生きるべき」というレールを子どもの間に敷くことに躍起になり、妙子さんが親の感情を考慮しなかったように、妙子さんは子どもの感情を省みることもありませんでした。また妙子さん自身が周りの大人に甘えることができなかったのですから、自分の感情に触れることもしてきていません。

そのような自立性と他人へのコントロールが目立つと、子どもは拒否反応を示し、親が提示するものすべてを跳ねつけるようになります。

著者の田中さんが強調することの一つは、「ひきこもり」をする親御さんに見られる特徴の一つが、言葉にばかり頼って言外の意味や相手の感情を読む感覚の足りなさです。

例えば、まぁどこの家庭でもよくあることだと思いますが、「ひきこもり」をしていた緑さんが徐々に外の世界に触れるようになり、コンビニや本屋に行っていたとき、妙子さんは彼女の部屋に入り、洗濯物をタンスの中に入れてしまいます。

一見なんでもないことですが、緑さんにとっては、こうした妙子さんの些細な行動が、自分の物理的・心的空間を侵し、母親が自分をコントロールしてくるように感じられ、恐怖を感じます。

「ひきこもり」の過程に見られる特徴の一つは、親御さんは行動や言葉といった明確な形を取るもので子どもとコミュニケーションをしようとするのに対し、子どもは言外の意味や自分の感情を親に読み取って欲しいという欲求をもっていることです。

例えば妙子さんは、「ひきこもり」をする我が子に対し、「布団を干せ」「部屋の空気を入れ替えろ」「栄養が足りない」「学校をどうするのか」といった言葉を投げかけてきます。

これらはすべて行動や言葉による反応を子どもに求めるものです。またこれらの言葉が表しているのは、他人・社会と同じように・常識的で“健全”な社会人として振舞うようにという要求です。

このような市民道徳・社会的常識の要求は、具体的な言葉・行動によってその要求が満たされるものであり、妙子さんたちの世代は生きるためにそれらを必死になって追い求めてきたのですが、言葉では汲み取れない感情の欲求には上手く対応できません。そのため子どもである妙子さんの世代は、言葉や行動では汲みつくせない感情をもっと大人にかまって欲しいという欲求を持ち、それを満たしてもらおうとするために「ひきこもり」をします。

著者の田中さんは、このケースを手がかりに、「ひきこもり」をする子どもと親との関係は、親とその親との関係をも反映していると言います。

つまり、妙子さんが母親との関係で、母親に頼らずに自分で行動するようになり、精神的に未熟な母親を省みずに自分ですべてをコントロールしてきたのに対し、母親は妙子さんに怒りをぶつけてきたのですが、その同じような関係が妙子さんとみどりさんとの間で反復されているのです。

妙子さんは次のように述べます。

「母と自分が和解しないまま、自分が母親として娘との関係性を育むことはできないということなのでしょう。
 あの娘がもっている『人と上手く関われない』というテーマは、私自身の若い頃からのテーマでもありました。でも仮面をかぶり、外側だけを取り繕い、私はごまかして何とか生きてきました。でもあの娘にはそれができない、いえ、きっと、そうしたくはないのでしょう。
 あの娘と人との関係を取り戻すためには、どうしても私が親との関係をもう一度みつめ直し、和解する必要があるのだ……あの娘がしきりに私の親とのことを聞いてくるようになって、そのことに気づきました」(125頁)。

緑さんの「引きこもり」をきっかけに、妙子さんは「自分の母親に対する甘えられなかった自分、淋しく頼れなくて、でも、そのまま関係を切る形で成人した自分の親との関係」を見つめなおすようになったとのことです。

またそれにあわせて、緑さんも試行錯誤しながら、体験の合格や専門学校への入学・中退、アルバイト、ボランティアなどを通して人との関係性を取り戻しつつあるとのことです。

このように「ひきこもり」とは、子どもの個人的な内面の問題ではなく、子と親との関係性、さらに一世代前の親自身とその親との関係性をも反映している場合があるそうです。著者はそうした事例を多く見ていく中で、「ひきこもり」とは子どもの親世代の生き方・育ち方の問題を表しており、それは「敗戦を機に生じた母性の質の変容」と密接に関わっていると指摘します。

著者は次のような推測を述べます。すなわち、第二次大戦の敗戦という事件は、日本人すべてに「心の中心軸」を失わせる衝撃的な出来事でした。それまで正しいと信じてきたことすべてが間違いだったと突然宣言され、何を信じればよいか分からない方向喪失状態に日本の人は追いやられました。

この戦後の混乱期に生きた世代=第一世代は、飢えと貧しさの可能性にさらされる中で、必死にサヴァイヴするために働きました。それは人々を経済中心主義に追い込まざるを得ない状況です。著者はそのような効率偏向の情勢の中で、日本の人に言外の意味を汲み取る「察する心」が徐々に失われたと指摘します。しかし貧しさにさらされたこの世代の人々には、そのような精妙な感覚・感情が自分たちから失われていっていることを省みる余裕はありませんでした。

この第一世代に育てられた第二世代、著者はそれを1950年前後に生れた世代に設定していますが、この世代も同様に経済中心主義の価値観の中で育ちます。ただ、この世代は、上の世代の経済中心主義に比べれば多少はゆとりができています。いや、現実には働かなければ飢えてしまう恐怖はあるのですが、そのような経済競争だけではいけないと心のどこかで自覚し始めている世代です。行動パターンは上の世代と同様効率主義なのですが、同時に「心の豊かさ」も大事だと考え始めています。

著者はこの世代の女性には「何かが足りない、何かが変だ」という感覚があり、心の中にそれを補償しようとする無意識的な動きがあると言い、また次のように述べます。

「欠けた心は、それ自身でまるくなろうとします。つまり、全体性を取り戻そうとするのです。そこで彼女たちが母親となって子どもを育てることになったとき、彼女たちの心はまるで、自分のその欠けて飢えた部分を補おうとするかのような動きをしました。
それが、子育てへの過剰なまでののめりこみです。第二世代の母親たちは子どもとの間に、ある意味できわめて濃厚な情緒的な関係を育てていきました」(137頁)。

つまり、第二世代の親子関係に見られるのは、経済中心主義のメンタリティを親が身につけていながら、同時に子どもに対して強い絆を持とうとする事です。しかしこの世代の親御さんたちは、自身の親には感情的な欲求を十分にケアされてはきませんでしたから、自分自身の感情的な欲求を十分には自覚していません。そのため経済的な充足という表面的な目標は親と同様に固く信じていますし、また現実にその目標を持たなければ貧しさと飢えにさらされる危険がありました。

しかし同時に、経済的な充足が最高の価値観でありながら、自分の満たされなかった感情的な欲求が、子どもとの関係で現れるようになります。つまり、子どもとの情緒的な絆は求めるのですが、どのようにすれば十分な感情的関係を築くことができるのか分からないので、効率中心の目標を子どもに教え、その価値観に沿うように子どもをコントロールしようとしてしまうのです。

このように経済中心の価値観と人間関係の感情面という二つの価値の間で引き裂かれているのが、第二世代の人たちの内面です。

この第二世代の親に育てられたのが、今10代、20代、30代の「ひきこもり」の人たちだと言えます。彼らは、経済中心主義で企業文化に順応するように厳しくしつけられ、経済的に自立できるように親に望まれているのですが、同時に親のその過剰な情緒的な介入により、心理面を親にコントロールされ、自分ひとりでは行動できなくなっています。情緒的な介入は親に十分に受けているので、人間的な感情の欲求が大事だと言う自覚は親以上にもっています。しかしその介入は親の一方的なコントロールの性格を帯びているため、どのように自分の感情的な欲求を満たせばよいのかは分からないのです。

そのため彼らは「ひきこもり」、親にもっと自分の気持ちを分かってくれるように要求します。彼らにとっては、具体的な行動や言葉よりも、まず感情的なケアが大事なのです。

しかし親自身は、自分たちは十分に子どもの感情に配慮しているつもりです。親御さんたちにとっては、経済的な充足を満たすことがイコール感情的な欲求を満たすことにつながるという思い込みがあるからです。

著者は、「ひきこもり」とは、このように第二次大戦の敗戦という衝撃が現代になってまた現れていると見なし、現代になってやっと「心の戦後」が始まったのだと指摘します。敗戦による価値観の喪失という事態が起こり、その喪失の中でなんとか効率中心主義で第一・第二世代の人たちは生きてきたのですが、第三世代が「ひきこもり」という形で、敗戦で失われた心の中心軸・察する心を親に取り戻すよう要求しているのです。


「ひきこもり」という現象を心理面で語る人はこれまでたくさんいたと思いますし、今もいると思います。ただ田中さんのように、「ひきこもり」を子と親との関係性の現われだけでなく、親自身とその親との関係性の表れでもあること、ひいては戦後の日本社会の一つの現れであるという視点は、そう思っている心理学者はたくさんいると思いますが、著書というかたちではっきりとそう指摘している人は、私はこれまで知りませんでした。そういう考えを同様に表明している人が多いのだとしたら、「ひきこもり」という問題を自分たちの問題として受け止める土壌が日本社会にあるわけですから、展望もまた開けてくると思います。どのような問題にせよ、それは社会・人々全体の関係性の現れであるという視点を持つ限りは、私たちは他人への安易な批判を慎むことができるからです。著者はそのような冷静な視点を持つ学者の一人だと思います。


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5 Comments

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削除されてる? (美友)
2007-02-10 00:07:09
私のお勧めしたいのは、精神科医の斎藤学先生の本です。

書店によく並んでる、斎藤茂吉先生のお子様ですが、読まれた事ありますか?学先生の「アダルトチルドレンと家族」等、沢山本を出されてますが、もっと詳しく書かれてます。

私は昨年ワークショップを受けました。

引きこもりだけでなく、

アダルトチ儿ドレンのいろいろな症状が 知る事が 出来ると思います。

私も親との 関係が子供に投影されてきてたのを知りました。

機会がありましら、良かったら読んで見て下さい。

私は投稿しないほうが良いですか?

ご迷惑でしたら投稿しませんのでお知らせ下さい。
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Unknown (涼風)
2007-02-10 01:12:12
美友さん、こんにちは。

以前の投稿は削除してしまいました。お気を悪くされていたらすみません。

なぜ削除したかというと「以前お会いしたことがある」と書かれてあったので、それがスパムでよく見かける文章だったからです。

私は美友さんとはお会いしたことがないと思うので、ひょっとしたら私と別の人を間違われているのかもしれませんね。

斉藤学さんの本について教えてくださって有難うございます。本屋や図書館で一度みてみたいと思います。

削除のことは、私の誤解でしたら、本当にすみません。

またお暇な時にでも来てくださいね。
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お返事ありがとうございました (美友)
2007-02-10 08:44:54
「お会いしたことがある」

とは、書いてなかったのですが。。



blogを見て、投稿したいって思って今回初めてで、削除されてblogって怖いな?って感想を持ってしまうところでしたが、お返事頂く事が出来て、安心しました。あと、誤解ですね。



私も投稿は初めてで、文章力が無く、伝えたい思いが半分しか出せず、中途半端な文面ですみません。



私が読みたい記事を、沢山blogに載せて頂いてるのが嬉しくて投稿する気になりました。

なかなか良い専門書本を捜すとなると、本との出会いもタイミングがあり、そんななかで、本を沢山紹介して頂き、本当に嬉しく思ってます。



沢山本を読まれてるんですね。私も紹介して頂だいた本に出会える事を、これから楽しみに待ってみて、読んでみたいと思ってます。

今回の誤解ですが、投稿の名前私と同じでしたか?

今後誤解が出るようなら名前を変えたいので、お知らせ頂ければ嬉しいです。



前回も中途半端にお伝えしましたが、今、私の回復にあたり、自分が出来る事、自分の為、同じように現在進行系で苦しんでる人に役立つ事を捜してるところです。これまで子供の頃から苦しいと感じてた理由に、自分の親が邪悪であった!と、カウンセリングを受けた後、邪悪の心理学本を読みかけではありますが、受け留める事が出来た今、私がこれから向かうべき道はなにか?昨年知り合いに自助グループを立ち上げに協力してほしいと誘って頂いたにも関わらず、今だに実行しよう!と動けず、何をしたいのか?何かヒントはないか?とblogを検索して、あなたのblogに出会う事が出来ました。多分こんな感じの文面で「お会いした事がある」と、誤解を招いたのでしょうね。



私は今、親の為では無く、自分の為に生き直しをしよう!と、意欲が出てます。

これからもblog拝見させて下さいね!自分が客観的に見れてる感じです。

私が求めてた感覚、自分を客観的に見せて貰え、感謝です。

誤解はありましたが、これからもどうぞよろしくお願いします。



ありがとうございます。
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大変申し訳ありませんでした。 (涼風)
2007-02-10 09:41:46
美友さん。

私はとても失礼なことをしてしまったんですね。こちらの一方的な誤解で本当にすみませんでした。

心理学の多くは、そのとき悩みを抱えている人と同じ目線で書かれている本が多いので、わたしは読みたくなります。科学ではあっても、日常に生きる人の立場への共感が感じられます。

私の記事でお役に立てることがあれば、それ以上に嬉しいことはないです。

またいつでも気づいたことがありましたら、コメントください。

こちらの誤解を解いてくださって、ありがとうございます。
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私もうれしいです。 (美友)
2007-02-10 10:30:47
誤解が解けて、本当にうれしいO(≧∇≦)o 涼風さんが、名前なんですね。blogの見方もよくわからず投稿して、こちらも誤解を招いてしまい、すみませんでした。 先日携帯をパケホウダイに変えたばかりで、blogを友達以外で初めて検索して、投稿も初めてで、もっと相手に伝える文面を考えてうたないといけない!と、勉強になりました。これから沢山ヒントを吸収させてもらいますね!! お返事ありがとうございました!(^^)!
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