joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

わたし

2005年05月31日 | reflexion
わたしの不完全さは、その不完全さを笑うもの、攻撃するものによって補われる。

わたしの不完全さと、それへの嘲笑・攻撃によって、一つのパズルが完成する。

わたしは、わたしを貶めるものと一緒になることで、はじめて完全になれる。

わたしを否定するものは、わたしの一部である。


涼風


単純

2005年05月29日 | reflexion
すべての出来事は起きてよかった。

すべてのことはありがたい。

この世界に限界はない。

この世界にしてはいけないことはない。

起きたことに抵抗する態度を感謝に変えるごとに、

その出来事は単なる事柄にすぎなくなる。

すると世界はどんどん単純になっていく。

この世界にしてはいけないことはない。

しなければならないことはない。

あるのは限界を自分でつくる心だけであり、

その心を感謝に変えることで、

世界はひとつになっていく。


涼風


セックス

2005年05月26日 | reflexion
世の中のすべての人がセックスのことをいつも考えているとは思いませんが、世の中のほとんどの人がセックスに関する妄想を浮かべながら日常生活を送っているのではないかと僕は想像しています。まぁ、いまさらだけど・・・


涼風

親切な人たち

2005年05月24日 | 日記
きょうは親切な人にたくさん出会った。財布を落としたことを気づかせてくれたり、館員の人が図書館のことで丁寧に説明してくれたり、運転手さんが乗り換えのバス停をやさしく教えてくれたり、みんなとても親切にしてくれました。ありがとうございました。


涼風

観念

2005年05月23日 | reflexion
人は自分の住む世界を自分で選ぶことができる。感謝と豊かさの世界。欠乏と愚痴の世界。優しさと寛容の世界。正義と批判の世界。自分の心がどういう態度をとるかで、世界の色は変わっていく。

欠乏と愚痴を手放すのは難しい。なぜなら、自分が今欠乏していないことを認めるということは、自分が今豊かであると認めてしまうことになるから。他人との比較に慣れた私にとって、じつは自分が豊かであるとみなすのは、比較という物差しを手放して自分の足だけで歩かなければならないことを意味する。

正義と批判を手放すのは難しい。なぜなら、世界に批判すべきことがなくなれば、他人に対する自分の優位性、自分が存在することの正当性を証明することができなくなるから。

欠乏と愚痴を手放すと、私は自分の足で歩かなければならない。

正義と批判を手放すと、私はもう自分の正義のヒーロー物語を生きることができなくなる。


涼風

悪寒

2005年05月17日 | 日記
なんだか不気味な悪寒に昨日の夜から襲われています。風邪をひいた感じはしないのに寒気がして気分も悪くなるのです。こんなことは初めて。バファリン飲んである程度寝たらすこしよくなったけど、やっぱり今も普通とちがう。ただ、少しよくなっているというのはよい兆候なのだろうけれども。


涼風


参考:[教えて!goo]質問:急な悪寒と発熱だけ・・いったい・・?

芸能・スポーツニュース 16/5/2005

2005年05月16日 | スポーツ
竹内結子と中村獅童が結婚。個人的には竹内結子の印象度はアップ。今までは演技も含めてすべての露出で“計算している”印象があったので、あまりいい印象はなかった。でも、映画撮影で知り合った相手とあっという間にできちゃった婚してしまうというのは、逆に僕的には「そういう自然なところもあったのか」と思わされます。今回の件があった後では、「やっぱり美人だよなぁ」と勝手に思い直してしまう。


阪神・楽天戦を観る。楽天の弱さにびっくり。はじめてまともにテレビで見たけど、たしかに弱い。一人一人の選手はなかなか味のあるベテランをそろえている。でもみんな伏兵なんですよね。「こういう選手がいれば監督にとって便利」という感じだけど、そういう選手だけでチームを作っても全然核ができない。

つくづくオリックスは罪なことをしたんだなぁと思わされます。もしこれで岩隈までオリックスだったら楽天はどうなったことだろう。

いずれにしてもニ年や三年ではどうにもならないのではないだろうか。代打で出てくる若手も、ど真ん中のストレートを空振りしている。将来性のある若手がいれば田尾監督も負けを覚悟で使っているだろうけど、これだけベテランで固めていることは、よほど層が薄いのでしょう。シーズンが終わったら12球団でもう一度有力な選手を一人づつ出すぐらいのことをしないと。ハルウララのような人気がでればそれはそれでいいだろうけど。


横峰さくらってかわいいと思う。


涼風




好きなこと 3

2005年05月14日 | reflexion
夜の公園で逆上がりの練習をしなければならないようなら、
とても体操の選手にはなれません。
体操の選手になれるような人は、逆上がりなんか何の苦労もなく、
昼間の体育の時間に一回でできてしまいます。
どうしたらできたの?と聞かれても、「さぁ」としか答えられません。

先生についたりして絵の描き方を習っていては、とてもプロの絵描きにはなれません。
プロの絵描きになるような人は、子供のうちから自分流の絵をどんどん描いています。
あまりたくさん描くので、母親はこっそりゴミ箱に捨ててしまいます。

(宝彩有菜著『人生が楽しくなるちょっとした考え方』より)


その人がもつ才能は、人に教えてもらおうとか、教科書を見ようとか思わずに、思わず自分でしてしまっていることの中に眠っているのではないだろうか。


涼風




リスニングあれこれ

2005年05月13日 | 語学
最近は英語の勉強はNHKのラジオ講座や英語ニュースを聴いたりCDを聴いたり、主にリスニング中心になっている。

NHKのラジオ講座は『英会話初・中・上級』と『レッツ・スピーク』『やさしいビジネス英会話』。これらの番組は易しくもあり、難しくもある。

たとえ英会話初級でも、英語のスキットだけをずっと流されたら一回で理解するのは難しいかもしれない。たとえどんなに簡単な論理の英語でも、耳で理解するのは難しいのだ。ある英語サイトでは、初級の単語ほど聴き取るのは難しいと言ってあった。またどんなに簡単な英語でも、英語の発音では単語が連続して発音されるので、前後の単語で微妙に発音が変わったりする。

逆に、どれほど難しい論理の英語でも、日本語の解説が入ることで分かってしまうことがある。その点では、やっぱりラジオ講座は日本語の解説が多すぎるかもしれない。

ただ、自分で本やCDを買って勉強するというスタイルだけだとなんだか孤独な感じがするので、“一緒にしている”という感覚を持つためにもラジオを聴いていこうと思います。

ただ、僕にとってはともかく、よくできる人にとっては英会話上級でも全然物足りないかもしれない。それに対して「やさしいビジネス英会話」は、大学の英語の先生ですら難しいと言っています。そうかもしれないけど、解説の杉田敏さんの話とか面白い。かならずしもビジネスに内容は限っていないし、本気で英語を勉強したい人にとってはこれが一番いいのでしょう。

いずれにしても、どの番組ももっと日本語を少なくしたほうがいいんじゃないだろうか。

ラジオの外国語ニュースは、例えばドイツ語だとドイツ人がしゃべっているのに、英語は日本人がしゃべっている。なぜだろう?アナウンサーを日本人にしたいのなら、日本人でもドイツ語を上手く話せる人はたくさんいるだろうし、そんなことはNHKだって知っているだろう。

ひょっとして、じつはネイティヴのようにドイツ語を話せる日本人はいないということなのだろうか?でもゲーテ・インスティテュート(世界一有名なドイツ語学校)でドイツ語教えている日本人もいるしなぁ。

CDは、神田昌典さん著『お金と英語の非常識な関係(上) 神田昌典&ウィリアム・リード、スペシャル対談CD付き』の付録のカナダ人ビジネスマンとの対談CDを聴いたりしている。最初は全然分からなかったのに、最近は聴くごとに分かる量が増えてきた。なんだか嬉しい。

『やさしいビジネス英会話』にしても『お金と英語の非常識な関係』にしても、やっぱり内容のある話だと理解できると楽しくなる。

日本に比べて欧米では、リスニング・ブック、つまりテープやCDを本代わりに聴く習慣が根づいているみたいで、いろいろなジャンルのCDが売ってある。僕がドイツにいたときも、本屋さんでたくさん朗読CDが売ってありました。ビジネスから文学・歴史・社会科学・エッセイ、他いろいろ。アマゾンで試しに買ってみようかな。

この朗読CD・テープというジャンルは、なぜ日本でもっと流行らないのだろうか?僕は最近買った本田健さんの講演会CDももう何度も聴いている。本だと2回も読めばもうそれ以上読む気はなくなるけど、CDやテープだと何度も聴こうというモチベイションが湧く。それは、たんに内容だけじゃなく、話者の息遣いみたいなのに触れるのが楽しいからだと思う。

でも、ホントは書籍を読んでいても書き手の息遣いみたいなのを読み手は感じることができる。だから僕には「作者の消滅」みたいな議論は最初から興味を感じなかった。

もちろん日本にも朗読CDはあるけど、名作文学とかに限定されている印象がある。もっとたくさん、例えばベストセラーになったらすぐ朗読CDを出してもいいと思うけど。『電車男』や『バカの壁』のCDとか(僕は両方とも読んでいないけれども)。

人間はラクな方へラクな方へ流れていく。本を読むより聴くほうがやはりラクなのです。ただ日本人にはまだその習慣がないだけで、一度その習慣ができると、あっという間に拡がる気はするのだけど。

自己啓発やビジネス関連ではたくさんテープとかあるだろう。でも、もっとベストセラーの本でCDを出したりすれば、本を買った人が再度購入したりするのではないだろうか。出版社にとっては一粒で二度おいしいのです。

なんだかとりとめのない内容になってしまいました。


涼風


「自分探し」

2005年05月11日 | reflexion
「自分探し」というものはよく批判されます。おそらく批判者たちからみれば「自分探し」は現実の外の世界を見ずに内にばかり目を向けているように思えるのでしょう。でも、彼らが批判する「自分探し」というものがどういうものかは、あまり説明されていません。おそらく、批判者の側も身近な例や憶測を拡大解釈して「自分探し」というレッテルを貼っているのではないかと思います。

「自分探し」をその人の「生きがい探し」と解釈してみます。その人の生まれてきた意味、その人が持っている才能などの意味です。あるいは、その人の「本来あるべき心のあり方」とも解釈してみます。人にやさしくすればよいのか、あるいは孤高になるべきなのか、他人と闘うべきか、など。

いずれにしても、それら「本来の自分」を探すのはとても難しいことが分かります。家庭の養育や学校の教育はそういうものを探すのを助けるのではなく、むしろ世の中の基準を押し付けることに必死だからです。

家庭や学校にはある程度そうせざるえない理由があります。規範意識をまったく持たない子供を育ててしまったら取り返しがつかないわけですから。

ただ、それら子供の頃から植えつけられる規範に対する抵抗として、「自分探し」があるように思います。

家庭や学校だって最高の養育・教育なんて分かりません。ただ「間違い」は犯したくないので、必死に規範を子供に押し付けます。

この「間違いたくない」というものに抵抗するために、「自分さがし」があると言えます。ある程度成長した時点で、家庭や学校・社会の「間違ってはいけない」という強迫観念を自分から取り除くために、かつての子供たちは「自分探し」を始めます。それは、ある程度周りの力で育てられた元子供が自分で人生をリセットさせようとする試みだと言えます。

「自分探し」とは「本来のあり方」をさぐるという意味だと思います。そのために、あるときは人に優しくし、あるときは孤独を選びます。いずれにしても、自分でもう一度人生の方向性を選択するわけです。そう考えると、「自分探し」とは多くの人にとって不可避だし、とくに「まじめに勉強し、まじめに働けばよい人生が送れる」という価値観が現実にそぐわない以上、「本来の自分」を探すのは多くの人にとって必要なことだと言えます。

誰も明確にこうだとは言えないし、言ったことについて責任を取れる人はいない時代だと思います。なのであれば、自分や他人の「自分探し」の過程をまず冷静に見ていくことが必要なのだと思います。


涼風

『anego』[アネゴ]

2005年05月08日 | 映画・ドラマ
『anego』[アネゴ](水曜10時 日本テレビ系)が面白い。会社で働く“自立”した女性を扱ったドラマは無数にあるだろうけど、そのなかでもかなりリアルに働く30代の女性の心理を描いているように思える(「思える」というのは、本当にリアルなのかどうか僕には分からないからです)。

(『anego』[アネゴ]公式サイト)


30代の女性の焦りや、心の荒れ具合が実に上手く描かれている。演じる篠原涼子も戸田菜穂も、ホントはきれいなはずなのに、動作や口調に「くそったれ」という想いが現れている。二人のファッションはお金はかかっているかもしれないけど“可愛げ”というものとは無縁。

女子の正社員と派遣社員との違いを浮き彫りにしているのもいい。一流商社という同じ職場で一般職として働いていても、正社員と派遣社員とで決定的な心理的な溝があることを分かりやすく教えてくれます。

主人公は正社員であるおかげで、30を過ぎてもなんとなくやっていける(また、正社員だからこそ、生活は安定しているので、なんとなくここまで来てしまったとも言える)。“女らしさ”に気を配らなくても、ビールをかっくらって生活していけるのです。

しかし派遣社員の彼女たちは、経済的な焦りを感じているので、「あわよくば職場の男性と結婚を」とつねに考えている。だから“女”を演じていなければならない。それが彼女たちの身を守る術だからです。

こうして、同じ女性で元々はとくに違いはないはずなのに、たまたまバブル時に入社できた女性とその後の不況で一般職採用がなくなり派遣で働かざるをえない女性との間の決定的な違いを描いていきます。

篠原涼子演じる主人公は正社員なので、食べるのにはまったく困らない。その視点で派遣社員の女性たちの弱さ・つらさもこのドラマは描く。派遣の彼女たちは、男性社員の「あの子、チェンジしてくれませんか?」という一言で職を失うのです。

経済的な安定を得ている女性は、しかし「このまま結婚できないのではないか」という焦りを感じながら、次第に女の子らしさを失い、“自立”した女に(なりたくなくても)なってしまう。とりあえず生活できてしまうため、男に頼ろうというモチベイションが彼女たちには働かないのです。

カフェで主人公の女性がつぶやきます。「ぼーっとした女性は“うっかり”妊娠しながら、ちゃっかりできちゃった結婚をしてしまう。結婚できるのはぼーっとした女性。しっかりしている場合じゃない!」。

それに対し経済的に不安定な派遣の女性たちは、「私たちは守られていない」という不公平感を感じながら、そのために“女”でいることを忘れないようにする。

ただ、どちらも焦りを感じている点では同じなので、このままでは幸せにはなれないように見えてしまう。

という風に、珍しく現在の労働現場の不公平さや女性たちの複雑な心情をあぶりだしている点で、僕にとっては興味深いドラマです。でも違和感もある。

このドラマは面白いけど、その面白さは、何度も言うように、30過ぎたOLの“焦り”を描いているところにあります。生活には困らないけど、女の子らしさを失った自分はこのまま独りなのかしらという焦り。今流行りの(流行りすぎてそろそろ飽きられるであろう)「負け組」の心情です。

でも、このドラマ自身が述べているように、そんな女性は多数派ではありません。つまり、主人公の彼女は大手商社の一般職の正社員として生活には何も困らない立場にあり、それが観る者に一種の安心感を与えているのです。

彼女は仕事に生きがいを見出しているわけではない。ただ、与えられた仕事は真面目にこなしているだけです。それも偉いことかもしれないけど、それ自体は視聴者に感動を与えません。やはり惰性で流されている印象を与えて、本気で仕事に取り組んでいるようには見えない。会社も、正社員であっても一般職の女性に責任ある地位を与えない。

このドラマで視聴者が面白がるのは、30過ぎた女性が上手く恋愛できるかできないか、それが中心的テーマです。この女性は生活には困らず、しかし変化のない人生に不満を持ち、かと言って何かを変えようともしません。ただ「恋愛できない自分」に焦っている。それは本人にとっては切実でも、同じように切実とは視聴者には思われない。だからこそコメディとして面白く見ることができるのです。「くだらないことで悩んでいるなぁ」と。

例えば実際に派遣で働く30代、40代の独身女性は老後の年金などで頭が痛いかもしれないけど、このドラマの主人公はそんな悩みとは無縁なのです。そういう悩みを抱える女性がそれでも幸せを見つけるドラマを作るのは、もっと困難なことだと思います。その悩みが切実であればあるほど、視聴者はわざわざそれをテレビで見ようとは思わない。にもかかわらずそれを魅力的なドラマにするには、人生の苦難に直面しながら、それでも視聴者に共感させなければなりません。それを魅力的に描き多くの人から共感を得るのはとても難しいでしょう(だからこそ、成功したら、本当にすごいドラマになると思います)。本当に悩みがリアルであるほど、視聴者は自分の見たくない部分に直面するため、エンターテイメントになりにくい。かつての山田太一のドラマがおもしろかったのは、それに成功していたからかもしれません。

『anego』は要するに『ブリジット・ジョーンズの日記』と同じですね。あの映画でも、レニー・ゼルビガー演じるブリジットは、実は仕事にも困らず、男にも困らない恵まれた女性だった。

ブリジットもanegoも、30過ぎてビールをかっくらい、女の子的な可愛らしさを失い、それでもとても恵まれた立場にある。だからこそ“面白い”こと(「わたしたちは結婚できるかしら?恋愛できるかしら?」)に悩むようになる。またそういうことに悩むから、それはコメディとなり、わたしたちは面白く観ることができる。本人たちがその“面白いこと”に切実であればあるほど、気楽に観ることができるのです。

『anego[アネゴ]』(と『ブリジット・ジョーンズの日記』)は面白いドラマだと思います。でもそれは、本当はリアルだからというより、主人公の幸せな境遇を見て一時的な夢を与えられているように感じるからかもしれません。


涼風


世界中で大ヒットし多くの賛辞に包まれた『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)
についての秀抜な感想はこちら(映画評サイト『Film Planet』より)。僕はこれを読んで、思わずはっとさせられました。

『Ray/レイ』

2005年05月07日 | 映画・ドラマ
映画『Ray/レイ』(公式サイト)を観ました。

2004年度のアメリカ映画界の賞レースではこの映画でレイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスがほとんどの主演男優賞を独占し、批評家も彼の演技を絶賛したそうです。その賞賛の前には、『アビエイター』のディカプリオも足元に及ばなかったそうです。

ディカプリオの演技に感動した僕としては、果たしてどれほどの演技なのか楽しみでした。

感想を言うと・・・ 演技の上手い下手の専門家の基準は知らないけど、なんの違和感もなく盲目の天才ピアニスト・シンガー・作曲家を演じるのはすごいんだと思います。

ただ、これは個人的な趣味なんでしょうね。それほど圧倒的な感動を覚えたわけではなかった。すべてにソツがなさすぎるのか、見ていてゾクゾクするとかいうことが僕の場合にはなかった。

ある評論家はジェイミー・フォックスの演技を「過去10年のオスカー受賞者と比べても彼がトップ」と言ったそうだし、ぼくがいつもチェックする映画評サイトでもどれも彼は大絶賛されています。だから、よほど僕の感性にフィットしなかったのか、僕の体調が悪かったのか、だと思います。ビデオで見直したら感動するのかもしれない。

映画自体も、ストーリーはとてもありがちな伝記でした。心に闇を抱えた天才が、表面的な成功の影でドラッグに溺れていき、家族や回りの人間を不幸にしていく姿が描かれています。その点も僕はちょっと退屈でした。

むしろ僕にとって印象的だったのは、「人間レイ・チャールズ」よりも、やはり彼の音楽。

レイ・チャールズの音楽を僕は知らなかったけど、その発展過程が面白かった。最初は当時の有名ミュージシャンの模倣としか彼はみなされていなかった。それは彼が「盲目の人間が人に受けるにはそうするしかない」と思い込んでいたからです。その模倣ですら僕にはいい音楽に聴こえたけど、プロデューサーや周りは不満に思う。

しかしあることをきっかけに、彼の音楽に伝統と過激さをミックスした独自のスタイルが生まれていく。わたしたちから見れば“クラシック”なレイ・チャールズも、当時は革命的だったことが分かりやすく描かれていきます。

また、延々とドラッグに溺れながらも次々と名曲を生み出していく姿には驚きます。もちろん名曲をピック・アップして映画に使っているのだろうけど、それでも「どうしてこれだけ傑作が次から次へと出てくるのだろう?」と不思議に思ってきます。

エルトン・ジョンは「大物中の大物には何をやってもうまく行く時期がある」と言い、スティーヴィー・ワンダーとプリンスのことを言っていたけど、レイ・チャールズもまさにそんな「大物中の大物」だったんでしょうね。しかもその“ピーク”を、荒れ放題の私生活の中でも維持し続けた。それはもう彼が自分の才能を使うというより、才能がレイ・チャールズを使っているという感じです。

映画としてはちょっと消化不良に感じたけど、レイ・チャールズの音楽のすごさを教えてくれた点で、私にとって貴重な映画鑑賞でした。


涼風


『夢をかなえるお金の教え 豊かさの知恵』『カンタン、儲ける会社のつくり方』

2005年05月04日 | Book
「ボクは本当にとんでもない勘違いをしていました。
 ボクは、投資してくれた人たちは、金儲けをしたいから出資してくれたんだと思っていたんです。利益計画も出していたし、銀行に預けるよりよほど利息もいいというプレゼントもしていましたから。でも、そうじゃなかったんです。
 ある人は『君に投資したのは、お金儲けのためじゃなかったんだよ。君が夢を追いかけるのを応援したかっただけだよ』と言って、よろこんで追加の投資もしょうだくしてくれました」(本田健著『夢をかなえるお金の教え 豊かさの知恵』p.91)。


本屋さんで『ホリエモンの新資本主義! お金持ち三択ドリル』を見かける。最初のほうだけパラパラ読んだけど、結構面白そう。図書館で借りようかな。

ぼくは堀江さんの本は2冊読んだけれど、どちらもきわめてシンプルに商売の原則が書かれてあったり、彼の企業の苦労話があったりで、面白かった。

ただ、その題名に『カンタン、儲ける会社のつくり方』とかあるけど、彼の本を読むと、かなりあぶない橋を渡ってきたことがわかる。ある程度幸運に恵まれて危機を乗り越えてあそこまでライブドアは大きくなったことがわかります(借金の返済話など)。

それを読むと、起業は簡単でもなんでもないという印象をもちます。

僕が好んで読むビジネス書の中に本田健さんと神田昌典さん、そして堀江さんがある。そしてビジネスに関する考え方はこの三人はとても似ていると思う。

商売のテクニックという点では神田さんと堀江さん、本田さんはほぼ同じことを言っている。キャッシュフローが大切なこと。利益率が大切なこと。単に売るだけではだめで、いかに商品に付加価値をつけることが大切なこと。組織の規模の変化に応じてグループ・マインドに変化が訪れ、人材の構成に変化が不可避なこと、などなど。面白いぐらいに似通っている。

ただ、本田さんが「得意なことではなくて、好きなことをビジネスにすることで幸せになれます」と言うのにたいし、堀江さんは「好きなことではなくて、得意なことをすべき」と言います。

この二つは完全に反対なのだろうか?意外と堀江さんの言っている「得意なこと」というのは、人が気づいていないその人の才能という意味かもしれないし、それだと本田さんの言っていることと違うわけでもない。

また、神田さんや本田さんは会社の規模を大きくするというゲームから降りたのに対し、堀江さんはそのゲームに乗り続けている。それも、神田さんや本田さんは会社の活動以外の執筆等に面白みを見出したのに対し、堀江さんは商売で人にサーヴィスすることに面白みを見出すことに無限の楽しみを見ているのでしょう。

じゃあ、どこに違いがあるのかというと・・・という問いに興味がある人は(もしいたら)、その人それぞれがその答えを見つけていくのがいいんだと思います。


涼風


アカウンタビリティ  『幸せな小金持ちへの8つのステップ 実践編』 本田健(講演者)

2005年05月03日 | Audiobook
下の記事でも書いた本田健さんの講演CDから。

「普通の人は豊かな人のことをズルいと思っているんです。でも私の豊かな友人たちはみんな親切でいい人たちばかりです。豊かな人ほど他人のことを考えるし、普通の人ほど自分のことだけ考えて生きているんですね。だから豊かになれないんです」

と本田さんはおっしゃっています。

たしかに僕はお金を持っている人のことをずるいと思っているなぁ。

僕の場合は、起業してお金持ちになった人ではなく、役人や大企業の人間を「ズルい」とよく思っています。それは、彼らが努力してお金を稼いでいるのではなくて、国家に保護された既得権益をせしめてラクして上手い汁を吸っていると僕の頭は考えるからです。

それは事実かもしれないしそうじゃないのかもしれない。ただ確実に言えることは、彼らを感情的に心の中で裁いているときはぼくは不幸だということ。大切なのはその裁き自体は感情に左右されていることを自覚することですね。

役人がラクな仕事で莫大な報酬を得ていても、それは単なる事実に過ぎない。もちろんジャーナリズムや学者がそのことを指摘して公共的な議論に載せることは大切なことだと思う。

ただ、その単なる事実に怒りや妬みを感じることは僕の側の責任だということ。僕を苦しめる感情の責任は僕の側にあるということ、ですね。

そのことを体で理解できれば、官僚組織や大企業自体は私たちの生活に必要なものであることを本当に理解できるのでしょう。


涼風


「奪う」 『幸せな小金持ちへの8つのステップ 実践編』 本田健(講演者)

2005年05月02日 | Audiobook
本田健さんの講演会CD『幸せな小金持ちへの8つのステップ 実践編』を聴く。

「実践編」と銘打っているけど、CDにはそれほど実践的なことは書かれていません。CDの収録で省かれたのかな。あるいは、僕が「実践的」とは感じなかっただけかも。

本田さん独特の社会構造の見方、例えば世の中の人を従業員タイプ、自営業タイプ、ビジネス・オーナータイプ、幸せな小金持ちタイプにわける見方について詳しく説明していたりします。

例えば、日本の教育では「間違ってはいけない」ことなかり教えるけど、自由人になるように育てられた人は自由に発想する習慣があること。「間違ってはいけない」から、世の中のほとんどの人は優秀な従業員になることを目指す。最も優秀な頭脳をもった人が最も優秀な従業員(国家公務員、大企業etc…)になることを目指す国ですからね、日本は。

本田さんの説明では、従業員タイプは、つねに「休暇と給料がどれだけもらえるか」にばかり気を配る。それを考えると、公務員が天下り先をつねに確保するように「行政改革」を行うのも、日本の教育の結果だと言えます。

わたしたちはつねに「奪う」ことばかり考えて、自分たちから生み出そうとはしない。その点では国家官僚も他の人も同じなんでしょう。

『ガルシアへの手紙』という文章の中では、従業員の多くがどれだけサボることばかり考え、経営者がどれだけ必死の努力をしているのかを考えるべきだ、と述べられています。

もっとも、そこから貧富の差は当然だと考えるのは問題だと思います。また従業員は起業家に劣ると考えるのもおかしいと思います。大切なのは、「奪う」というメンタリティを自分がもっていることの自覚かな。


涼風