joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ホームセンター

2005年07月31日 | 店舗を観察して
ある文章を読んですこし憂鬱気味です。それは、僕の心のメカニズムを解き明かして、なぜ今の僕がダメなのかを証明しているように感じるから。その文章の言っていることはやはり正しいのだろうか・・・


今日はひさしぶりにクルマを運転しました。5月に買ったコンポ購入のきっかけとなった「ラジカセ故障事件」で、そのラジカセの保証書が見つかったので、ホームセンターに壊れたラジカセを持っていったのです。

ホームセンターは大賑わいでした。ただ、僕の感覚はその垢抜けない雰囲気に嫌悪感を感じていました。対応してくれた女性店員さんたちの野暮ったい風貌や店内の灰色の雰囲気や家族連れのお客さんたちの“低所得者”的匂いや物であふれかえってゴミゴミした店内や。なんだかとても“臭い”場所に感じました。

その後、ユニクロに行きました。さっき行ったホームセンターとの対比で、ユニクロはとてもすっきりした場所に感じました。店員さんも垢抜けた感じだし、お客さんもすっきりした20代、30代の人が多いように思います。

おかしいですね。売っている商品を考えると、おそらくユニクロのほうが単価は安いと思うのだけど。

なぜあのホームセンターに対して僕はああいうことを感じたのだろうか。こういうのを「差別的な眼差し」と言うのかもしれない。


涼風

野菜

2005年07月29日 | reflexion
身の回りに起こる出来事や世界というのは、その人自身のものの見方に左右される。天国に住むのも地獄に住むのも、感謝に生きるか批判と正義と愚痴に生きるかも、その人しだいである。浅見帆帆子さんや乙部綾子さんの文章を読んでいると、そう思わされます。

二人とも美人で有能で環境に恵まれて楽しく生きているように見える。そう見える人のつねで、彼らに対する人格的中傷もネットで流れている。

でも、どれだけ周りが醜い中傷をしようと、本人達の気の持ち方が素直なので(そう見える)、やはり結果的には彼女達は楽しい世界で暮らし、彼女たちを中傷する人たちだけが勝手に醜いドロドロした世界にはまっていることになる(ように見える)。

上手く楽しく人生を泳いでいる人を中傷するというのは、それだけ自分を泥沼にはめていることになる。そういう人は、自分の「醜さ」を受け入れられないのかもしれない。自分に直面することの怖さが、他人への中傷となって表れる。自分を好きになれなさが、他人への悪口として表れる。

僕にとっては自分を好きになるというのは、野菜を好きになるようなことかもしれない。今では野菜を食べるようになったが、好きではない。

野菜を好きになるということなんてあるのかな。


涼風

損得

2005年07月28日 | 日記
きょう、ある画廊の前でお客を勧誘している女の子に二度も呼び止められてしまいました。その子は必死に僕を画廊に入ってもらおうとします。

でも、絵画の購入と言うのはかなり趣味人の人がするものという印象があります。それを考えると、店の前を通る人を強引に呼び込もうとするのは、画廊の営業方法としては非効率のように思います。

その女の子はとてもかわいい女の子で、スタイルもきれいな人でした。本当ならでれでれしたいところだけれど、こういう勧誘する人に嫌な目に合ったことがあるので、ぼくはかなり強引に彼女の勧誘を振り切って立ち去りました。

でも、そうして心の中で勧誘の女の子を切り捨てながら、思いました。本当なら、かわいい女の子が来ればでれでれするぐらいが、男として健全な性格のように思います。

僕自身は、その女の子が勧誘でよって来たとき、見ず知らずの男性に平気に甘えてすり寄ることのできる大胆さに、ちょっと怖いものを感じました。自分の得になることなら、ここまでしなだれることができるというのは、男にとっては幻滅でもあります。

でもそれは、それだけその女性を「損得勘定で動く人間」と見なしているからです。それは当然、自分自身が強く損得勘定で動いているから、相手もそのように見てしまいます。だから、寄り添ってくる女の人も、醜い存在に思えてくるのです。

それに対して、女性が甘くしな垂れかかってきたときに、でれでれできる男の人というのは、それだけ素直で正直な性格だというような感じもします。

女性から見れば、男に甘えて媚びる女性の姿と言うのは見ていて嫌なものなのかもしれない。でも、媚びる女性に対して正直に照れながらも嬉しく感じることのできる男というのは、いい意味で普通に正直な、健全な性格のようにも思いました。


空を飛ぶ

2005年07月28日 | 見たこと感じたこと
きのうの神戸・明石はとてもさわやかな、湿気の少ない一日でした。この文章を書いている夜一時も、とても涼しいです。こっちには台風らしい台風も来なかったし、なんだかとても過ごしやすい。

JR朝霧駅近くの大蔵海岸には気持ちいい夕暮れの中で多くの人が釣りをしています。久しぶりにここに来て見ると、子供用の遊び場が作られていたりする。お母さんたちにはこういう場所が一つできるだけで大助かりなのかもしれない。ちっちゃな砂場だったり、日時計だったりするのだけど。

この海岸は長い間ずっと砂浜の工事をしていました。おそらく陥没事故で子供が亡くなったりする事件があったので、大々的に整備をやり直していたのでしょう。海岸で憩いの場なのに、日中はずっと工事の音がしていました。でも、もうその工事も終わったみたいです。

工事が終わったからなのか、海岸沿いのコンクリートに鳥が一列で並んだりしている。ああいう群れは今まで気づかなかったから、工事が終わって整備されたから来たのかもしれない。空にも以前より多くの鳥が飛んでいる気がする。

空飛ぶ鳥を見ていると思うのは、空を飛ぶと言うのは空気という物があってはじめて可能だと言うこと。羽を動かしてぐいぐい前に進めるのも、空気を羽で押すことで飛ぶことができる。空気がなければ飛ぶことはできない。そのぐいぐいとした感じは見ていてとても面白い。

あるものは空を飛ぶようになり、あるものは海に生息するという分離が起きたのはなぜなのだろうか。そもそもいくつもの種類の生物がいるのはなぜなのだろうか?

最近、船井幸雄さんが、人間の祖先は猿ではないと言っています。人間は人間として地上に出現したのであって、サルから進化したのではない、と。

事の真偽はともかく、環境によって様々に動物の発展形態が違ったのだとしても、空を飛ぶという発達はどうすれば可能だったのだろう?また、空を飛ぶことはどうして特定の種類の生き物にしか可能じゃなかったのだろうか?

空を飛ばなければ生き残れないように追い詰められるとはどういう事態なのだろう?


涼風

文句

2005年07月25日 | reflexion
僕は冷たく冷やした紅茶に牛乳を入れてよく飲みます。さっき(午後5時半頃)もそうして飲もうとしたら、紅茶に間違えてボトルコーヒーのブレンディを少し入れてしまいました。でも、捨てるのももったいないので予定通り牛乳も入れて飲んでみました。味はと言うと、紅茶とコーヒーが混ざらずに同時に飲んでいる感じです。もう二度としないと思う・・・


横浜国立大学・保健センターの堀之内高久さんによると、人間は2割の「自己成長モデル」、6割の「コンプレイナーズ・レベル」、そして残る2割の「疾患レベル」に分けられるそうです。

上位2割の方は、「気づき」があり、そして「変われる」人。
中位6割の方は、同じ様に「気づき」がありますが、「変われない」人。
下位2割の方は、「気づき」もなく、「変われない」人。
(『伝説の実践情報レター KandaMasanori.com』より)

この「コンプレイナーズ・レベル」というのは興味深いですね。

世の中には「ためになる」心理学や人生論の本が無数にあり、自己啓発やヒーリングのセミナーがあります。でも、そこでどれだけ自分を見つめなおすことができても、変われない人もたくさんいるのかもしれない。あるいは「変われない」と不満を感じている人が多いのかもしれない。

人にとっての最大の贈り物、宝物というのは、何があろうと「コンプレイン」、つまり不平不満・愚痴・悪態を漏らさない態度かもしれない。悲嘆にくれたり、悲しみに沈んだり、落ち込んだりはしてもいい。でも「文句を言う」というのは、悲しみに沈む以上に、最悪の態度なのかもしれません。

「文句」より、黙って落ち込むほうがよっぽどいいように思います。


涼風

ジャパネットたかた

2005年07月24日 | 家電製品にかかわること
昨日、一日中クーラーをつけずにいました。夕方に歯医者に行った以外は家にいました。

たしかに暑いのだけど、クーラーをつけなくてもやっていける気もしました。扇風機でなんとかしのげるような。

しかし、夜になると本を読んだりしようとしても何もできなくなりました。たぶん、暑さで体が疲れてしまったのです。

なんとなく耐えられると思っていても、やはり暑さは体から体力を奪っているんですね。


最近ジャパネットたかたを見ていたら、「滝のすず風」という商品が気になってしょうがありません。水や氷をいれることで3度低い風を送ることができるそうです。これは真夏にも効くのかな?それともやっぱり気休めにしかならないのだろうか?

最近はテレビショッピングの番組が増えたけれど、ジャパネットたかたの面白さは群を抜いている感じがします。社長に二人の弟子がするセールストークは思わず引き込まれてしまう。あの二人の弟子は激しい選抜の末に選ばれたのだろうか?

家電メーカーは直接ああいう人物を養成して、自社製品を解説するビデオを作れば、たくさんある自社製品の違いを分かりやすくユーザーに説明することができると思うのだけど。


涼風

『ドラゴン桜』

2005年07月22日 | 映画・ドラマ
『ドラゴン桜』(TBS 22時)、きょう初めて見たけどかなり面白そう。ダメ高校の生徒達が東大合格を目指してがんばる姿を追っています。でも、単純な根性涙ものではなくて、人間の脳の働きと勉強との関連の指摘もあったりして、ラクに流して観ることができない。例えば「頭の働きを考えると数学は朝にやるのがいい」「-3×-3がなんで+になるのかなんて考えるな」とかいって、ひたすらペーパーをやらせるとか。

阿部寛はすごい存在感のある俳優になったなぁ。長谷川京子も今まで見たなかで一番イイ。ああいうコミカルでおっちょこちょいの役の方が“冷たい美人”よりも似合っているのかな。あと、長澤まさみという子は初めて見たけど、かわいい。

しかし俳優の演技よりも内容自体の方にもっと深いものがありそう。これはもっと回数をみてから考えたいです。

原作本も図書館で借りてみたいと思いました。灘高出身の人たちがアイデアを出したって聞いたけれども。


涼風

『希望格差社会』

2005年07月21日 | Book
きのう(正確には今日)は午前3時に寝て朝の7時に起きました。本当はもっと寝たかったのですけど、目が覚めてしまい、外に用事があったのでそのまま起きることにしました。

こちらに叩きつけてくるような暑さの中では、気分の悪さが増幅してきます。冷たいものを飲もうと思ってドトールに入り、ジュースを頼んだのですけど、それも飲んでいるときは甘くておいしかったけれど、飲んだ後になると甘すぎて気分が悪くなる感じでした。

その数時間前に、『希望格差社会』(山田昌弘著)という本を読んでいて、それも気分の悪さに一役買っていました。

簡単に言うと、経済的な不平等は今の日本で拡がっているし、それは今後も続くという内容の本です。

この本で言っていることは、事実の認識自体では正しいように思います。経済的に不満を感じている人たちが漠然と感じていたことを、論理的な言葉で裏づけているような印象です。だから、事実として正しいかどうかという以上に、経済的に不安を感じている人たちが自分達の実感を説明する言葉を確固たるものとして与えているという印象です。

ただ同時に、論理的に社会構造の不平等さを語ることで、経済的弱者の現実が変わることはないという印象も与えます。それは、弱者・能力のない者は過大な夢をもたないように(法律家や学者など)意識づけしていかなければならないと山田さんが語っていることで余計にその印象は強まります。

社会を変えるのではなく、「弱者」「能力のない者」への教育の仕方を変えるべきと語っているようで、ようするに「支配者」の立場から語っている印象があるからです。そこには、弱者への共感はあまり感じられませんでした(それが学者のとるべき態度かどうかは、人によって意見の分かれるところです)。

山田さんによれば、経済構造の変化で国民の大多数に経済的安全を保証するシステムは崩れているのに、国民自体に(とくに子供を大学に入れている親の世代に)「学歴をつければいい仕事がある」という観念が残っているため、大学をでたけれども「フリーター」や「ニート」になる「負け組」と「勝ち組」との間に意識格差が広がり、それが社会秩序を不穏にするとのことです。

これは読む側の感情にも左右されるのですが、こういう語り方自体に、山田さんの発想の典型が現れている気がします。「フリーター」や「ニート」の人たちに生きる希望をもってもらうにはどうすればいいか、彼らはどういうことで悩んでいるのだろうか?という問いをもつ視点ではなく、社会秩序の安定に彼らを組み込むにはどうすればいいかという発想を感じるのです。つまり、社会を上から見下ろし、社会に生きる人々を盤上のコマのように見なし、そのコマをどう操作すればいいかという「支配者」の発想で議論をすすめているように感じるのです。

経済的な格差が広がっているのは事実だろうし、そのことへの不安は僕も感じています。またそうした不安から、将来と冷静に向き合う「大人としての態度」が自分には欠けているように感じます。そうした迷いのなかで、自分に合っているのは何なのだろうか?という問いにも僕はこだわります。

そうした迷いは普段は僕自身の個人的な内省の中で行われます。しかし山田さんは、そうした迷い自体が現在の何百万人と言われる「フリーター」や「ニート」の典型的な心的状態であり、それは「自分探しゲーム」という社会現象なのだと論じていきます。つまり、個人的な内省だと思っていたものが、社会状況の産物であることを提示します。

そうした指摘を新聞のコラム欄のような場所でする学者は多くいますが、データを扱い包括的に社会状況を論じたなかでそういうことをする人は、それほど多くないので、山田さんの著書はその点でも目立つものだと思います。

山田さんはそうした「自分探しゲーム」は将来への不安から「今」に逃避していることの現われとみなします。

だから、社会構造の論理的な考察の点でも、「フリーター」や「ニート」の意識の分析でも、山田さんの言っていることは「正解」なんだと思います。

ここで「正解」という言葉を使ったのは、山田さんの議論は歯切れがよく、もし社会学のマークシートの問題で四択の中から「正解」を選ぶとすれば、山田さんの議論を採用する、そういう意味で山田さんの言っていることは「正解」だと言いたくなるからです。

しかし、「フリーター」や「ニート」たちが考えていること、悩んでいること、望んでいることを深く掘り下げているのだろうかと思ったとき、また人間というものがどう生きるべきで、また人間にとって幸福とは何かという問題を考えたとき、山田さんの議論には僕は深みが感じられなかったのも事実です。この本では、たんに「お金・地位のある者は幸せで、そうでない者は哀れな存在だ」とそう言っているように感じるからです。

お金のあることはたしかに幸せにつながると僕も思うのですが、山田さんの考えでは、ほんとに単に「物質に恵まれるから幸せ」という考えにみえて、それはちょっと違うんじゃないかと感じます。たしかに誰もがもっとお金が欲しいとは思っているけど・・・

山田さんの議論に従うなら、「フリーター」や「ニート」は社会構造の変化に気づかず、身分不相応に安定した人生を設計して転落していく人たちです。それゆえ彼は、若者に「過大な夢」を見させないような教育を施すべきだと述べます。

たしかに「過大な夢」をみるのはよくないと思います。限られているポストや合格者数を競って凡人が法律家や学者になろうとすることを防ぐことはいいことかもしれない。

ただ、では法律家・学者・上場企業の正社員を「諦めさせ」たうえで、どういう夢を若者にもたせたいのだろう?という疑問も出ます。現実にポストが限られているなかで、「能力のない者」に夢をもたないようにカウンセリングしたあとで、どういう選択肢を与えたいのだろう?

大企業の社員・公務員・学者・法律家・医者など、世の中には「ルート」にのらなければなれない職業があります。そしてポストが限られている以上、そのルートにのるものを早期に選別すること自体はひとつの選択肢かもしれません。

しかし、ではその「ルート」にのれない者はどう生きていくのかという疑問をもつとき、山田さんの議論からは活力のある社会というヴィジョンは僕の場合には感じられませんでした。むしろ、支配者が大衆を上手く振り分けて社会秩序を維持しようとする、そういう支配側の論理を感じてしまいました。

僕自身は、若い人にもそうでない人にも、「ルート」という限界にとらわれずに生きていく発想がみにつけばいいのにと思います。もちろん僕自身がそれを実践できているわけではありません。しかし、将来の社会ヴィジョンを肯定的にみるのなら、そういう社会のほうがいいと思うのです。

ただ、いずれにしてもこの本を読んだことは結果的に僕にとってよかったことになると思います。気分を悪くさせてくれるということは、それだけ僕の中で気にしていることをあぶり出すきっかけをこの本が与えてくれているという証拠だからです。

山田さんの語り方には感情的なものを感じ、それにぼくは反発しています。でもそれは、山田さんをきっかけとして僕の見たくない部分がそれだけ出ているからです。

言うまでもないことですが、僕が山田さんの議論から感じた山田さんの発想法の印象はすべて僕の主観です。だから、それは僕自身の投影なので、山田さんが実際にそう考えているとは言えないし、本人に反論されたら(もちろんご本人とはまったく接点はないのですが)、とくに言い返す言葉もありません。


涼風

変化

2005年07月18日 | reflexion
  「一日5ミリよくすることで、それが数年後にはとても大きな違いになっています」

とは、鈴木秀子さんの言葉です。おそらく、自分を大切にするとか、自分を受け入れるというのはそういうことなのではないかと思います。

 「自分を受け入れる」というと、まったく今そのままの自分を肯定するようにも思えます。でもそれでは、一瞬は心地よくても、なんだかしっくりこないときもあります。まったく今のままでは、なんだか面白くないし、退屈なのです。

 かといって、「肯定的にイメージするんだ!!!」と言われて、いきなり年収3億円の自分を想像しても、それもまた不自然です。

 年齢を重ねてきた以上、わたしたちは誰もがほんの少しずつの右肩上がりで変化してきたのではないでしょうか。だから、「自分を受け入れる」とは、今の自分がそのまま続くことを歓迎するのではなく、少しずつ変化し・これからも少しずつ変化していくであろう自分を肯定するこのように思います。

 「私は私のままで大丈夫」(宝彩有菜)という言葉は、その自分なりの変化の軌跡を肯定することのように思います。


涼風

2005年07月17日 | reflexion
  「対立とは二つ以上の立場やグループが勝利を競っていることです。これは私たちのマインドの中に、自分で自覚している部分とは相反する部分があり、葛藤を起こしているという意味です。その対立相手は私たちが気づいていない自分のマインドの部分か、あるいは抑圧されている部分を表わします」(チャック・スペザーノ)

 「自分を批判する人がいたら、その人と自分を統合してください。統合することでバランスが生まれます。その上で自分のしたい方を選択すればいいのです」(クリストファー・ムーン)


 私は、自分を批判・攻撃する人と同じことを実はしたがっています。私は自分の嫌いな人たちと同じことを実はしたがっています。その嫌いな人たちは「悪い」ことをしているのですが、私もその「悪い」ことをしてみたいのです。

 その「悪い」ことをしたい自分を受け入れたとき、はじめて私は無理なく「善い」ことをすることができる。他人を批判・攻撃せずに「善い」ことをすることができる。そしてその「善い」ことは、じつは「好き」なことにすぎないことが分かるのかもしれない。

 悪は善を鍛え、善の硬直した性質をほぐしてくれる。


涼風

実践家

2005年07月16日 | Book
  同じ状況を目の前にして、
  評論家はできない理由を述べます。
  実践家はどうすればできるかを考えます。

  『営業脳をつくる!』 和田裕美著


 たとえば、多くの若者が「夢」「自己実現」「好きなこと」を追いかけて「フリーター」や「ニート」になっているという事実を前にして、評論家であれば「世の中はそんな甘くないのだから、若い人には過大な夢を持たせないように教育をしなければならない」と言うかもしれません。

 それに対して実践家であれば、「好きなこと」を厳しい現実のなかで適切に実現していくにはどうすればいいかを子供たちに教えるのだと思います。

 「厳しい現実」の認識は同じかもしれませんが、違うのは、そのなかに可能性を見つけ出す態度、あるいは適切に目標を実現していく方法を教えようとする態度なのだと思います。その違いは、「評論家」と「実践家」自身の元々の人生観・人間観の違いに由来します。

 迷い苦しんでいる人たちが求めているのは「評論家」ではなく、「実践家」なのだとわたしは思います。


涼風
  

effortless

2005年07月13日 | Book

「他社はうまくできなかったが、わが社はさしたる苦労もなしにできたものは何かを問わなければならない。同時に、他社はさしたる苦労なしにできたが、わが社はうまくできなかったものは何かを問わなければならない」

(P.F.ドラッカー著 『経営の哲学』p.55)


「本当に得意な分野は、そんなに楽しくはないかもしれませんが、
 疲れるということは絶対にありません。
 ですから、わざわざ練習したり、習いに行ったりしようとも思いませんから、
 案外自分で得意分野に気づかない可能性もあります。
 この基準で自分の「やりたいこと」「本業」を探してみてください。

 基準とは、
 「やっていて疲れないもの」
 もっと言えば、
 「楽にできるもの、それは何か?」です。

 それは、自分では苦労もなく簡単にできるので、
 馬鹿にしてあまり熱心にやらないものだったりします。
 あるいは、そんなことは楽にできるのだから、きっと誰でもそうだろうと思って、
 まさか自分の才能だとは思っていなかったりします。
 
 でも、あせらないでくださいね。準備に時間がかかるものもありますから。
 本当の自分を見つけるまで神様はいろいろと「回り道」を用意してくれています。

(宝彩有菜著『人生が楽しくなるちょっとした考え方』p.136)


この二つの言葉の類似をみると、企業体というのもやはりひとつの生き物なんだなぁと想像します。


涼風

将来性

2005年07月12日 | Book

「日本の経営者はふたつのタイプに分類できます。オペレーター(業務執行者)とイノベーター(変革者)です。

 変化が穏やかな時代、景気が右肩上がりの時代にはオペレーター型の経営者が安定感をもたらしました。このタイプの経営者は年功序列という仕組みのなかで既存のレールを着実に歩み、トップに上り詰めたという経緯を持っています。そうした人物には会社のビジネスモデル(収益を上げる仕組み)を進展させる、あるいは変革させるという意思はまずありません。いままでの自分がたどった仕組みそのものを否定することになるのですから。

 日本が長期的な不況に陥った背景には、オペレーター型の企業トップが多数派を占めていることに要因があるのです。

 冷戦の終結以降、世界中が生産者となり供給者になりました。そうなると供給過剰という現象が起こり、たくさん商品をつくって安く売るという従来型のビジネスが通用しなくなります。

 さらに少子化の流れがあって国内需要が減少しました。いまの日本人は資産がたっぷりあり、当面の生活に困ることはなく、自分の欲求には正直です。ですから、いくら巷に商品があふれていても、興味のないものには消費しません。

 多くの日本企業はこうした変化に対応できなかったのです。企業と消費者の意識に乖離があったのです。この流れは十年ほど前からはじまり、現在もなお続いています。
 
 こうした状況で、オペレーター型の社長が無力なのも当然かもしれません」

藤野英人著『スリッパの法則 プロの投資家が教える「伸びる会社・ダメな会社」の見分け方』(PHP)p.57-9

 この本には、「投資すべき「伸びる会社・ダメな会社」の見分け方」について合計63の法則が書かれています。でも、それもひとつの法則にまとめることができるように思います。

 要するに、人生のゴールに辿り着いたと社長が思っている株式会社に将来性はなく、これからしなくてはならなことがあると考えている社長の株式会社には将来性があるということです。

 これは当たり前のようですが、今までの日本の株式企業社会のシステムでは、資本市場の未発達から上場するまでに時間がかかるため、会社を上場させることが社長のゴールになってしまっていたこと、あるいは大企業では年功序列のなかでレールに上手く乗れた人が社長になれてしまっていたことが、大きな特徴でした。彼らのなかには、「会社」の社長になることが人生の目標になっているため、社長になることではなく、会社それ自体を変革しようとするパワーのない人が多いことが想像できます。そのため戦後に成長した企業の多くは今、変化の時代に対応するための体制が採られていないことになります。

 
涼風

サーヴィス

2005年07月10日 | 家電製品にかかわること
先日、某家電量販店のWebサーヴィスで電気シェーバーを買いました。それが昨日届けられました。

12時から14時の間に配達しに来ることになっていたのですけど、14時を過ぎても来ない。この時点でぼくはとてもイライラしました。「12時から14時という時間指定なのだから、2時間の余裕がある。にもかかわらず来る気配がないというの一体どういうことなんだ?」

14時20分になっても来ないので、その量販店に電話すると、担当の人がドライバーに連絡し、ドライバーから電話がありました。

 「今○○インターチェンジを降りたんですけど、これでいいんですよねぇ?」

また少しして電話があり、
 
 「今○○の看板が見えるところにあるんですけど、ここからどうやって行けばいいんですかねぇ?」

なんだかその話ぶりを聞いていて僕はムカムカしていました。「配送業者のくせに人の家もろくに見つけられないのか!」と怒っていたのです(もちろん心の中で)。おそらく、配送業者の人に家までの道を尋ねられたことなどないので、余計に腹が立ったのでしょう。

 その後ぼくはずっと電話に張り付いて、口で説明して家までその配達屋さんの車を誘導しました。そして僕の家がある通りにやっと入ったところでドライバーの人が「この通りの何軒目なんですか?」と尋ねてきました。

 ここで僕はさらにムカツときました。家のある通りまで説明した以上、そこからは住所をたどって家の前までちょうど車を停めるのが常識だろ!と怒っていたのです。何軒目なんて数えたことないわい!!と頭にきていました。

 結局配達屋さんは僕の家を30メートルほど通り過ぎました。僕は玄関を開けて、配達屋さんたちに自分の家を示しました。でも彼らの車は一向に僕の家までバックしてくる気配はありません。

 そのときぼくは「あぁ、人を道具のように扱っちゃいけないなぁ。こっちから出て行けばいいだけだよなぁ」と誠実でやさしい人間になろうと思い、自分からその車まで歩いていきました。

外は生憎雨が降っていました。僕の部屋着はぬれていきます。また僕は数十メートル歩かされています。ここでまたすごい怒りが湧き起こってきました。「運送業者なら配達先の家の前まで自分達が来るのが当たり前だろう!!!」と心の中で怒鳴っていました。

そうして車の前まで行くと、おじさんがタバコをくわえながらシェーバーの箱を僕に渡しました。そして僕はてくてくと数十メートルを歩いて家に戻りました。「ご迷惑をおかけしました」と言いながらまったく悪びれもせず卑屈にもならず腰を低くもしないそのおじさんたちに腹を立てながら。


日本の商売はとてもサーヴィスがきめ細かい。セールスやドライバーの人たちも概して「お客様」に腰が低い。だから私たちは、「商品を買っている以上、俺を王様のように扱え!お前達は俺の奴隷だ!」と思っている。自分達のニーズに合わなければ、その商売人を切り捨てる。

そのドライバーのおじさんたちがいい仕事をしていると言えるのかどうか僕には分かりません。ただそれとはべつに、「お客様」というのは、売り手を奴隷のようにみることもあるのだな、と分かりました。


涼風

正義

2005年07月09日 | Book
横浜国立大学・保健センターの堀之内高久さんという方が介護にたずさわるさいの色々な罠について書いた『介護ストレス解消法―介護保険後の戸惑う現場へ』(中央法規)という本があります。その中に次のような記述があります。

 ある介護従事者が仕事量の多さを上司に訴えたところ、「他のメンバーはそんなことを言っていない。あなたの時間の使い方がまずいんだ」と言われたそうです。このエピソードにからめて堀之内さんは次のように言います。

 「たとえば、介護職として、相手を思いやり、利用者ひとりひとりの個性を尊重しながら援助していく、というような正論を出されると、誰も反対できません。

 このような場合は、(部下との)信頼関係のない関係を上司が作り出していることになります。「利用者との関係は、信頼関係に基づいて」などといつも口にしている言葉とは裏腹に、自らが部下との信頼関係を作れていないのです。

 (このような上司の姿勢は)「いい子」として社会に貢献する、いいものを作り上げようとする前向きな姿勢とみることもできるでしょうが、スタッフの苦痛には目をつむり、思いどおりにしたいという上司側の自己愛の満足のために、正論を言い続けている場合があるのです。

 正論は、時として暴力になり、相手への思いやりが欠けてしまうところがあるので、もしかして、自己満足を満たすためだけに言っているのではないか、と反省する感覚を持つ必要があるのです」(p.35)

要するに、社会の弱者を助けるという正義を遂行するために、同じ介護職の同僚の複雑な気持ちを理解する能力がこの上司には欠如しているということです。「複雑な」とは、介護者と言えども一人の人間であり、他人を助けたいという気持ちと同時に、自分自身の利益・気持ちの整理を尊重したいという側面があるということです。

こうした場面は、介護職だけではなく、医者・教師・学者・弁護士・そして昔であれば左翼活動家などにも頻繁に見られたものなのだと思います。それらの人たちは、「弱者」「一般の人」を助けるという観念が強固なため、助ける側の同業者を一人の人間としてみることができず、むしろ「強者」という単純なカテゴリーで括ってしまうということです。

これは堀之内さんが言うように、幼稚な自己愛だと思います。つまり、自分を至上の「正義の人」と思い込んでいるのです。

しかしこのような思い込みにはつねにストレスがつきまといます。自分の正義をつねに「罪深い他人」との対比で証明し、その他者への攻撃をともなうからです。

「正義」は同時に「悪」を作り出します。「悪」がなければ「正義」は存在することができません。

「悪」を作る(=「正義」をなす、「誠実」である)ということが周りの人と自分をスポイルすること、このことについての反省が必要なのが、日本を含めた西欧の現代の知的文化の特徴のように思えます(そのことについて考察したのが、『平気で嘘をつく人たち』(スコット・ベック)という本です)。


涼風