水戸駅の災難
大地震が勃発した当初、テレビに流れる鉄道情報で、常磐線はもとよりJR水戸線、水郡線がなかなか復旧の気配が見えず、そのうちに計画停電が実施されるようになりました。小生それで常磐線やその他の支線の運転が制限されてるものとばかり思っていたのです。ところがそうではなかったのです。常磐線は今回の地震で厖大な被害を蒙っていたのでした。
数日前から水戸を中心として、常磐線の損壊の実体が報道陣に公開されだしたのです。水郡線、水戸線は復旧の目途は立たず、肝心の常磐線はやっと上野から土浦まで復旧、それも本数は制限されていて、もちろん土浦以北はこれまた復旧の目途は立っていません。したがってよく利用していた特急の復旧は先の先の話となっています。
それより公開された水戸駅の惨状は眼を覆うものがありました。ホームは掘返したように無惨な姿を晒し、案内の看板は落ちたまま。線路は地盤が沈下し、線路が飴のように曲がりくねっています。この状態が終点仙台まで続いている模様なのですから、復旧がおぼつかないのは当たり前の話であります。
また駅構内の被害も相当なものです。北口と南口を結ぶ通路は一部天井は落ちたまま、両側の店の状態は映されませんでしたが、その惨状は押して知るべしでしょう。
小生はあの時、南口から北口へ、駅員の駅の外へ避難して下さいという懸命の叫びを背に受け、おそらく顔面蒼白で走っていたのでしょう。九死に一生を得たとまでは申しませんが、今思えば老夫婦がよく逃げ逐うせたものだと思います。
そんなわけでこの状態では東京に出るには、水戸から土浦まで開通したバスを利用して、そこから常磐線に乗っていくしかありません。
通常、特急で水戸から土浦まで三十分かかりますが、バスともなれば市内を巡って行かねばなりませんから、かなりの時間となります。おまけに土浦からは上野まで快速乃至は各駅停車の利用となります。
そんな状態ですから、当分の間はじっと家に閉じこもっているしかありません。水戸へ出るにも何の目的も立てることは出来ません。駅ビルは未だ閉ざされたまま、馴染みの鮨屋で一杯やることも出来ません。映画館ももちろん閉館のままです。
じっと我慢の子で通すしかありませんが、この連続した災害で多くの犠牲者が出ているのですから、そんな事は当たり前の話でしょう。
それより全国区でない、一地方版のたわ言で申し訳ありません。
生活用品調達に戸惑う
地震勃発直後、娘が灯油大丈夫かしら、今日何処そこで売り出すそうよ。と職場で得た情報を真顔で言い、今日孫が休みとかで買いに行って貰うと張り切っていました。孫か娘の出勤のあと二階から降りてきて、灯油缶いくつ空いてるのかしら、ストーブに灯油足してみると、これまた張り切っていました。小生も早速孫に手伝って四つのストーブを満タンにしました。結果は六つある缶のうち四つ空ができました。
三月も終るというのに寒さはまだまだ厳しく、とりあえず暖房の灯油は確保できました。あとは主食のお米の心配です。出掛けに娘が米櫃に少々、あと十キロの袋だけ、スーパーは開いてないしどうしょうと、そんな言葉を残していきました。家族六人十キロの米が何日持つのか小生には見当つきません。
かみさんが田舎の弟に電話しています。こっちではお米が手に入らない、そっちはどうなのと訊いてます。同じ茨城でも実家は農村地帯です。いつでも言ってくれれば送るなり届けるからとの返事が返ります。次に柏の妹に地震の様子を聞きながらお米のことを話しています。妹のところは毎年連れ合いの実家に一年分の米を手配してあるので、これもまたいつでも送るといってくれます。かみさんほっとした表情で電話を切ります。とにかく店がしまったままなのでどうしようもないわけです。
一昨日あたりからスーパーが時間制限で営業をし始めました。孫娘が二人して食糧調達に走ります。とにかく直ぐに交通渋滞も緩和し、滞りなく食料も店頭に並ぶはずと小生構えているもののいささか不安、こうも余震がつづいては皆がなにかと不安になるのも致し方ないのではないでしょうか。孫たちが車で出たあと、かみさんと自転車で市場調査だといって街中巡回となります。
コンビニは閉店のまま、スーパーはどこも長蛇の列で、一軒は入場制限をしています。店々から山のように商品を抱えた人たちが車に運び込んでいます。みなさん緊張した面持ちです。
一巡りして最初のスーパーに戻って店に入ります。目当てのパンの棚や魚売り場は空っぽ、飲み物は結構あります。お菓子類は豊富にありますが、こればっかりは食指は動きません。
かみさん生ハムを手に取りましたが、レジはどの列も長い長い列、一品だけの買物に列に並ぶのも愚かなことよと、生ハムをもどして退散しました。
追記 孫たちはお米を入手できませんでした。そのかわり、婿殿がパートで働く農家の奥さんから三十キロ分けてもらってきました。これを消費するころには事態は落ち着くのではないでしょうか。いや、落ち着いてもらわねばなりません。
小生なりの理解できたこと
多少的外れな理解かも知れませんが、新聞記事やテレビの解説で、なんとなく理解できたこと、そして疑問な面を晒してみます。先ずは原発の事故と、地震津波の関連です。記憶に間違いがなければ、地震津波が襲った当初、首都圏の鉄道に遅れや運転中止が各社次々と発表します。そして都内の主要駅の混乱の様が報じられました。まさに通勤客の受難でありますが、その時思ったのです。
東北の地震津波で、首都圏の交通がかくも混乱するものなのかということです。それは多少の間引き運転も必要だったのかも知れませんが、それにしても交通の乱れはゲリラ的でした。そして地震津波が襲った翌々日?あたりから、原発の事故が報じられるようになり、にわかに計画停電なる四文字がテレビの画面や新聞紙面に、じわじわと、そして急速に躍り出てきたのです。そして第一グループ~第五グループと区分けされての計画停電が実行されました。
それと同時に福島原発が容易ならざる被害をこうむり、電力供給がままならぬことが明るみになりました。このこと最初は東電は事故の詳細を隠したのではないでしょうか。東電だけで復旧できると判断したのではないでしょうか。
ですから当初の鉄道の混乱は、原発の事故ゆえか、地震津波の影響によるものか、小生にはとんと仕分けができませんでした。
そしてようやく原発の事故が、交通の乱れに大きく加担していたのかと、恥ずかしながら理解できたのです。ですが未だに節電ゆえか、地震の被害ゆえか判然としない面もあります。
現在、この容易ならざる事態に、国をあげて取り組んでいるわけですが、もう少し早くに対策に走ってればと思ったりしているわけであります。
そして原発事故の様相ですが、小生の理解の範囲はほんとにお粗末ではありますが次のようなものです。使用済み核燃料を一時保管しておく貯蔵プールの水が、地震で注入不能となりました。核燃料は常時水で冷却しておかないと、放射線量が拡散放出するということで、大変な事態になるということです。この先何百年も、放射能に汚染された土地は住めなくなるということであります。
政府、自衛隊、消防、警察、そして東電を含めて放水に全力を投じているのが現状ということです。
次ぎはこうした皆様の必死の奮闘で、放射線量の封じ込めに成功した後のことです。
いったいどうなるのでしょうか。このあと福島第一原発の復旧は可能なのか、可能ならば期間はどのくらいかかるものなのか。それとも廃炉となり、計画停電が半永久的に続くこととなるのでしょうか。
政府並びに東電にはこの点を明らかにして欲しいのです。
薬をもらいに
明日は予約してある泌尿器科に行く日でしたので、はたして診察しているかどうか電話を入れました。返事はNOで、あらためて電話を下さいとのこと。これは困った、薬の残りが心細いのです。しかしいっとき間を置いて電話がかかります。医院からで「うたのすけさん、明日はまだ診察はできませんが、お薬はだせますが、今から来られますか」。
二つ返事で伺いますと返事して、かみさんに同行を求めて下に降ります。幸い上の孫が休みでいて送っていくといってくれます。家を出て左の道路はあちこち陥没していますので、回り道をして水戸駅近辺の医院まで送ってもらいます。途中何箇所か道路が波打っていて、車がバウンドするのがいささか気色が悪いです。
医院の前の歩道もかなりの損傷をうけていて、なかなか修理するには時間がかかりそうであります。受付で時間はどの位かかりますかと訊きます。一時間?はとの返事で、一旦孫に帰ってもらいます。電話くれれば迎えに来るといってくれるのですが、バスの時間にうまくマッチすればバスで帰るからと言ってやります。それより来る途中、ガソリンスタンドに注油の車が長蛇の列をなしています。孫は妹に電話してスタンドの状況を電話していましたが、「入れにくると言ってる」と言います。
現在婿殿の車がガソリン切れで、今娘の車で通勤しており、娘はさして勤め先が遠くはないので自転車通勤といった状態なのです。それにしても下の孫、父親の大きな車の運転大丈夫なのかと心配であります。
やっと薬が出たのですが、何しろ一人で受付をやり、処方し会計し、その間には電話がかかってきたりして、時間のかかるのも無理はありません。とにかく今は非常事態というわけであります。そして案の定、会計を済ました時点でバスは発車、あとは一時間まちなので、孫に来てもらう羽目となりました。
孫の話では来るとき、スタンドに並んでいる妹の車、いえ父親の車を見たといい、まだまだ大分時間がかかりそうだと言います。
地震、津波の惨状
目を覆うということは、この惨状を見たときにいう表現でしょうか。地震に津波、そして原発の事故?複合惨事ともいうべき現状は、日を増すごとに深刻化し、死者は万を数えます。
テレビに映し出される東北各地の惨状、見わたす限り瓦礫の山が続きます。まさに前大戦で焦土と化した日本列島の再現であります。広島長崎しかり、東京における昭和二十年三月十日の大空襲の惨劇がそうです。
昭和二十一年、八畳一間に大家族の生活から脱却しようと、両親は駅から数分のところに土地を借り、十二坪のバラックを建てました。ささやかな店舗に六畳二間といった、吹けば飛ぶよな住まいでありました。そのかわり広大な庭付です。それというのもわが家の周りは、見わたす限り焼野原だったのです。
駅のホームが見え、階段を昇り降りする人たちの姿が眺望できるのです。それに上野駅を発車した常磐線の車輌が通過し、大きく右にカーブをとり、隣の駅の三河島に進入するまで見わたせたのであります。
テレビに映る被災地の惨状が、子供の目で見た空襲の熾烈さ、容赦なくふりそそいだ爆弾や焼夷弾に焼き払われ、多くの人的被害を出した焦土の無惨さが、今ひしと思い出されるのです。
津波の去ったあと、茫然と瓦礫の地に立つ夫婦の姿。きっと小生の両親も、同じように焼跡にしばし黙然と立っていたのではないでしょうか。
四辺は夕闇に包まれました。
孫の携帯がやっと娘の携帯に繋がり、孫に指示があったようです。「じじちゃん、ばばちゃん、車に乗ってて、お母さん渋滞抜けられたから、間もなく着くって。危ないから乗せとくようにとお母さんが言ってるの」。こうなったら老いては子に従えです。かみさんを促して車内におさまります。日は完全に暮れ真の闇です。
やがて娘が到着し、一台の車に五人おさまります。どうやら孫と娘の間で相談がまとまっていたようで、避難所に自主避難ということになりました。数分で市のセンターに到着。しかしそこは既に満員で、すぐそばの施設に行くように指示されます。そこは毎年敬老会でお世話になっているところです。娘達がそれぞれ毛布や手荷物を抱えて施設に入ります。
かなりの広さの和室が開放されていて、既に十数人の人たちが、ストーブの明かりの中で、長いテーブルを囲んで横になったり、しゃがみ込んでいます。みなさんこちらの挨拶に、気持ちよく場所を空けてくれます。とりあえず一つのテーブルの前に寝場所を確保して陣取りました。
しかし避難所といっても、咄嗟の事態ですから水も電気もガスも止っているのが現状です。夕食はどうなるのかと不安になりますが、小生の持論として、水さえあれば三日は耐えられます。そのうちには救援物資が届くから、それまで辛抱すればよいといったことなのですが、その現実に直面して果たしてどう対処できるか、自分自身に興味がもたれます。
しかし案ずるより生むが易しでして、先ず毛布が届きます。そしてパックに入ったおにぎり二個と唐揚が配られました。ですが亢奮冷めやらぬ精神状態ですので、なかなか喉に通るものではないようでして、かみさんと二人でパック一つだけ開けて食べます。後は明日の朝食にととって置くことにしました。娘達は食べないようです。
辺りが急に明るくなります。消防自動車が配置され、表から投光機を向けてくれたのです。ありがたいことです。
翌朝娘たちは自宅の片づけにと出かけます。「まだ余震が続いているから、じじちゃんたちはこにいてね」。どうやら二人は戦力外らしいのです。
まあこんな状態でその晩も避難所であかし、翌日水が出るようになったので急遽家に戻りました。
なお翌日十二日の朝食には非常用のビスケット。昼はお握り一個と桜餅。
夕食にはお握り一つにパックされたお粥。そして桜餅でした。
感謝感謝であります。
どうやら地震の山は越えたのかもしれません。このこと全く何の根拠もないことですが、せめてそのくらいのいい加減さがないとパニックに落ちてしまいます。ベンチに両腕を置き、顔をうずめているかみさんを「もう大丈夫だ、こんな余震はもうないよ」といって元気づけますが、彼女案外落ち着いた様子で立ち上がります。
何台ものバスが立往生したまま、一向に発車しません。タクシー乗り場前の広場には無数の人が集結し、茫然としており、車は一台も行き来していません。こうなったら歩いて家まで行くしか道はありません。かみさんはあたしは大丈夫、それよりオトウサンの方が心配と言います。まあ、それは確かですが、焦らず、余震に注意して出発です。大体10キロくらいの道のりです。
途中家々の被害に目を奪われます。ブロック塀がことごく倒れ舗道に散乱、屋根の瓦は剥がれ、ガラスは割れて飛び散っています。途中コンビニにより、喉がかわききっていたので飲み物を所望したのですが、閉店販売中止と断られてしまいます。駅から歩いてきて、喉がカラカラであると訴えますと、ちょっと待って下さいと言うことでコーヒーを頂きます。
途中、空きタクシーを見かけましたが断られたり、何度も振り返ってバスを期待したりしたのですが、結局は歩き通して家に辿り着きました。二人の孫は表にいて、お喜びで駆け寄ってきます。
下の孫が一気に状況を説明してくれます。両親には連絡済で、お母さんは今帰宅途中で渋滞に巻き込まれ、何時に帰れるか分からないとのことです。そして孫は車に毛布を積み込み、当座の飲み物や食べものも積み込んであるといいます。最悪の場合車で夜を過ごし、とにかく余震の揺れが恐いと訴えます。お隣の奥さんに避難場所のことも精しく聞いてあるともいい、すべてはお母さん待ちということです。
上の孫が「靴のまま上って」、ガラスが散乱しているし、いつでも避難出来るからと。そして先にたって家の被害状態をもっともらしく説明するのが、なんとなく愉快になり、疲れも一気に恢復といったところでありました。
十一日前評判のよい映画「わさお」を観ようとかみさんと二人、水戸駅南口まで出かけます。映画そのものは、動物映画に有り勝ちな、敢えてお涙頂戴の演出ではありませんで、好感の持てる映画でした。今日二回目の上映が終わったのは午後二時十五分過ぎごろです。
トイレを済ませ、場外を出て表へ出る寸前グラッときました。地震だ! 足早に建物のドアに向って走りましたが、そこで今度はグラグラっと、表へ出る寸前に押しかけた人たちの足が停まり、お互いに体を支えたりしましたが、もう歩ける状態ではありません。腰を地べたに落とす人。悲鳴を上げる女性たち。目の前の喫茶店の看板が倒れ、吊り看板が音をたてて落下します。そのたびに悲鳴が上がりますが、その時点で建物から出たほうが安全か、それともこのままにしていた方が正解か、一瞬まよいますが、いかんせん揺れが半端ではありませんので動くことが出来ないのです。
こうやって災害に遭遇した人は死んでいくのかとか、またパニック映画の登場人物になったような、不思議な気分にもなりました。揺れの続く中、かみさんと抱き合うようして、ただ揺れが収まるのを待つしかありません。窓越しに見る表の広場には、降って湧いたように多勢の人たちが、地べたにへたりこんて゛います。広場といっても地上から二階にあたる部分で、南口に通じる広場です。
揺れが止まります。その瞬間を待っていたように多勢の人間が一固まりのようになって、どっと広場目がけて走ります。あたしはかみさんと手を握り合って広場に出て、とにかく呼吸を整えようと腰を下ろしました。余震はこれ以上に激しくはこないからとかみさんに言った途端、またしても激しい揺れです。群衆に悲鳴が上がり、みな地べたに座りこんでしまいます。
その激しい余震も収まり、南口からバス乗り場の北口まで駅舎通路を行きます。両側の店舗が無惨な姿を露出しており、唖然となりました。店々の店内は陳列棚は倒れ、物品が外まで氾濫しておりました。
改札口では駅員が、駅舎から出るようにと盛んに怒鳴ります。照明の点いてるのは駅だけで、薄暗いなか駅ビルからもこれもまた多勢の人たちが飛び出してきます。各店舗の従業員の男女も一斉避難といったところであります。
階段をおり北口広場でバスを待ちます。次々と各方面行きのバスは到着しますが、そしてそれぞれ乗り込むのですが、一向に発車せず、目的のバスは影かたちも見えません。気持に焦りが徐々に沸騰してまいります。家には娘夫婦は務めで不在、孫娘が二人でいるのです。最前から何度も携帯をかけるのですが繋がりません。
その時でした。二度目の余震が襲ってきました。目の前の何台ものバスがバウンドしてます。こっちは二人してただベンチにすがり付いているだけでした。
お相撲のことはもう書くまいと
確かに一度心に決め、ただひたすら五月場所開催を願っていたのですが、どうも雲行きが怪しくなってまいりました。一場所や二場所見送ったからと言って、大相撲の屋台骨が揺らぐ心配はないのかどうかは分かりませんが、気の毒なのは新弟子を含めたお相撲さんたちです。こんな状態が続いていては生身の体、稽古に身が入らないのではないでしょうか。目標があっての稽古です。あの大きな体がただのぶくぶくになったら、見るに耐えないものになってしまいます。
今回新たに「大相撲新生委員会」なるものを立ち上げ、八百長防止策を検討とか報じられましたが、いろんな委員会が林立していてただただ迷路に迷い込んでしまっているのではないでしょうか。百家雷鳴で立ち枯れの憂き目にあう恐れ十分であります。
八百長を敢えて奥深いものであると言い切ります。心の問題がかなりの部分を占めていて、一刀両断、無気力相撲だ、片八百長だ、八百長だと切り捨てられないのです。委員会はいろいろ防止策を提言しています。先ず注目は場所中毎日監察会議をひらき、八百長相撲をチェックするといいます。おそらく土俵間近で目を光らせるのではょうが、待ってください、そんなことは従来の勝負検査役で間に合う話ではないでしょうか。今まで罰則規定はあったものの、検査役がただ勝敗だけにこだわっていて、勝負が決まる過程に配慮を怠っていただけの話であります。
彼らは長年相撲をとってきたのですから、気合いを入れてたずさわれば、八百長なんて一目で見抜けるはずと思います。その都度注意なり、罰を言い渡すだけの話ですむことです。
生悪説をもって土俵の周りで多数の監視役が屯していたら、お相撲さんの方が嫌気がさして、それこそ気合いの入った相撲なんかとれません。第一気の毒です。
先日舞の海さんが、あるところで講演したのですが、その中で言われたことに、もちろん八百長問題についてのことですが、人情相撲なる新語?を披露していますが傾聴に値します。それはこの一番に負けたら給料のない幕下に陥落する相手と対峙したとき、相手のお相撲さんのかみさんや、子供さんの顔すがたが胸の中を去来すると言います。
小生が先に述べたのは、八百長は心の中の問題がかなりの比重を占めているという、このことなのです。
膿を完全に出し切らないでの場所開催はあり得ないと、理事長は最初言い切っていましたが、それを押し通していたら、再開は永遠にありません。幸い今回の委員会の中にも五月場所の開催を、切に願っておられる方もいます。どうか八百長究明のことと同時進行で、五月場所開催を決定してお相撲さんたちに、稽古に邁進するように気合いを入れてください。
昨日につづきます
米沢市内見所は一杯でして、どこもかしこも著名な名所が豊富であります。二三並べてみますと、上杉神社、上杉家廟堂。そして一刀彫で名高い笹野地区。ここは市内から五キロほどの距離ですか、このあたりになりますと雪もいささか小降りとなりまして、ホッとした雰囲気で観て回ることが出来ました。
昼食には市内でも有名といわれているとか、美味しいお蕎麦を頂き体が芯から温まったことが、昨日のことのように蘇えってまいります。至り尽くせりの接待でして、その日は早々と米沢の奥座敷といわれる小野川温泉に、一泊のご招待を頂きました。
といったわけで雪の山形を満喫いたしまして松戸へ帰りました。
そのあとの雪の思い出と申しますと、新潟は豪雪地帯といわれた十日町のへのツアー旅行です。ここの雪も凄かったの一言ですんでしまいます。丁度劇団に入って間もなくのころでしたから、これもまだ勤めていて確か定年後の嘱託勤務をしていたころです。ざっと二十年も前の事となります。全くの話、古い話で恐縮であります。
雪の十日町へどうぞとかなんとかの新聞のチラシを見て、思い立っての旅行でした。早い話が町をあげての雪がテーマのイベントでして、山の一角に雪と氷の舞台をしつらえ、色と光りの織り成す夢の舞台といったところでしょう。
とにかく山の麓に夕刻バスで乗りつけ、そこから会場まで歩け歩けの民族大移動といったところです。それも都会人の感覚としては猛吹雪の中の行進でした。
まあ雪見の雰囲気ではありません。横殴りに降る雪に首を縮め、舞台の進行なんて見るどころではありません。何人ものミス十日町の着物姿も雪にかすんで、遥か遠いところの雪景色を垣間見るような、正に夢景色、雪景色といったところで、イベント途中で引き上げであります。
こんなことなら日本旅館の一室で、雪見障子をあげ音もなく降る雪を眺めながら、熱燗をごくりとやっていた方がよっぽど良かったなんて、ぼやきながら駐車場までこれまた苦行の帰途でありました。
しかし町をあげての集客の努力には頭が下がります。街のいたるところに見事な雪像をライトで照らし、観光客の歓声を呼び、これもまたいたるところに休憩所を設けて温かい接待、一杯のお茶に北国の人の温もりを、いたく感じました旅行であったことは間違いありません。